償いの書(37)
疲労を覚えていたが、歩いて家に戻るうちに、それは爽快な気分に変わっていった。まだまだ、自分の体内に回復力は残っていた。当初は、親子で遊園地に行くはずだったが、店長はこちらに住んでいる学生時代の友人とひさびさに会うため、娘をぼくらに一日、預けた。裕紀は、それをとても喜び、ぼくもそれに異論はなかった。
ぼくは、シャワーを浴び、仕度を終えた二人を待たせている後ろめたさから早めに身支度した。
3人で駅まで歩き、電車に乗った。数十分も乗れば、そこに着く予定だった。チケットを3人分買い、なかにはいると誰よりも裕紀がいちばん、はしゃいでいた。彼女は、こういう場所が好きだったのだ。
たくさんの乗り物に乗り、いくつかのショーを見た。キャラクターと触れ合い、写真を撮った。女性たちは甘いものを食べ続け、ぼくは、それを横で一口だけもらった。
外は晴れていて、まさに休日だった。午後になると雨が一時的に降ったが、急速に天気は回復され湿度の高い空気がぼくらを覆っていた。
まゆみちゃんも開放感からか、こころを全開にしていた。その年代の女の子と直かに触れ合う機会などないが、ある面では大人のような考え方をするものの、また当然ながら、子どもの部分もたくさん残っていた。その微妙な年頃の女の子の一日を確認できて、印象に残せたことをぼくはとても喜んでいる。まゆみちゃんの今日の一日は、やはり、この一日しかないのだ。いつか、このことを将来、思い出してくれるだろうか? それは、とても大切な記憶となってくれるだろうかと、ぼくは心配し、かつまた自信のようなものもどこかにあった。
3人でベンチに座り、また甘いものを食べている二人を横目に、ぼくはぽっかりと浮かんだ白い雲を眺めている。空は限りなく青く、こころは躍動しながらもとても穏やかだった。ぼくは、まゆみちゃんの一日のことを考えていたが、裕紀の人生の消え往く一日だとは考えていなかった。明日には、まゆみちゃんは東京を離れるが、ぼくのそばにずっと居続ける裕紀のことは、それほど考慮しなかった。ぼくらも同じだったのだ。微妙にうつりかわる人生の一日を消費し続けるのだ。ぼくは、あの青空をみながら気付いておくべきだったのかもしれない。だが、そうなるまでには、たくさんの時間を要するのだろう。
楽しい一日はあっという間に過ぎ去り、夕暮れを越え、夜になり、閉園の時間になった。まだまだ、熱を発する楽しみの核が消えないまま、ぼくらはそこを後にする。皆、同じような気持ちなのか、同様のひとびとが電車に乗り、浮かれた気持ちの行き場もないままそれを薄めるに任せているような状態をぼくは感じていた。
地元の駅に着き、ぼくらはいつもの帰り道を歩いている。
「スーパーに寄るから、先に帰っていて」と、裕紀は言い、明かりが灯っている店を目指して角を曲がった。
ぼくは、あの頃と背丈の変わったまゆみちゃんと歩いている。
「結婚って、楽しいものでしょうね」
「この通りだよ。まゆみちゃんもいちばん、好きなひととそういう生活がいつか送れるといいね」
「いちばん、すきなひととですよね」
「まあ、可能ならば、と、大人は考えるけれど、それは信じた方がいいよ」
「わたし、あのひとに声をかけられた」
「誰に?」
「ひろし君がバイトをしていたところの女の子だよね、って」それは、質問に対する答えではないけれど、ぼくの頭に答えと同様のむなしい痺れがあった。
「そう、覚えているんだ」
「わたしも、びっくりしたけど、裕紀さんも好きになりましたけど、あのひとも、わたし、大好きだった。彼女はいちばんじゃなかった?」
「ぼくは、嫌いになっていない。別れを持ち出したのは向こうなんだよ」
「キライになっているとは思えなかった。ひろし君をいまでも大切に思っているようだった」ぼくは、その言葉をきき、彼女がまだ10代はじめの女の子であることを忘れてしまうような錯覚があった。
「大人は思い通りに行かないことにも対処しなければならないんだよ」
「ずるいんですね」
「ずるいよ。ずっと、ずるいよ」
「可愛い女の子がいた」
「うん、ぼくも見た」
「そう?」彼女は、意外そうな顔をした。それは、もう女性の顔だった。「裕紀さんに赤ちゃんがいたら溺愛しそうですね。わたしにさえ、こんなに優しいのに」
「そうかもしれないね。まゆみちゃんのお母さんも優しかったもんね」
彼女は、はじめてホーム・シックにかかったように遠くを見つめた。ぼくも、自分の母を思い出し、母になっている妹のことも頭に浮かべた。
家に着き、ドアを開けた。店長は、そのまま友人たちと食事をするとの留守電が残っていた。
「お父さんは、急に子どもっぽくなった、この旅行で」
「昔の友人と会うのは、何よりも楽しいものだよ。まゆみちゃんもそういう子たちを十代のうちにたくさん作るといい」
「お説教くさい」
「そうかもね」ぼくは、笑った。そうすると、袋をぶら提げた裕紀が帰ってきた。ふたりは、台所で助け合ってなにかを作っていた。ぼくは、今ごろになって一日の疲れがでてきて、まどろんでしまった。夢なのか現実なのか分からないまま、ふたりの調理する音や笑い合う声を遠くで聞いていた。
疲労を覚えていたが、歩いて家に戻るうちに、それは爽快な気分に変わっていった。まだまだ、自分の体内に回復力は残っていた。当初は、親子で遊園地に行くはずだったが、店長はこちらに住んでいる学生時代の友人とひさびさに会うため、娘をぼくらに一日、預けた。裕紀は、それをとても喜び、ぼくもそれに異論はなかった。
ぼくは、シャワーを浴び、仕度を終えた二人を待たせている後ろめたさから早めに身支度した。
3人で駅まで歩き、電車に乗った。数十分も乗れば、そこに着く予定だった。チケットを3人分買い、なかにはいると誰よりも裕紀がいちばん、はしゃいでいた。彼女は、こういう場所が好きだったのだ。
たくさんの乗り物に乗り、いくつかのショーを見た。キャラクターと触れ合い、写真を撮った。女性たちは甘いものを食べ続け、ぼくは、それを横で一口だけもらった。
外は晴れていて、まさに休日だった。午後になると雨が一時的に降ったが、急速に天気は回復され湿度の高い空気がぼくらを覆っていた。
まゆみちゃんも開放感からか、こころを全開にしていた。その年代の女の子と直かに触れ合う機会などないが、ある面では大人のような考え方をするものの、また当然ながら、子どもの部分もたくさん残っていた。その微妙な年頃の女の子の一日を確認できて、印象に残せたことをぼくはとても喜んでいる。まゆみちゃんの今日の一日は、やはり、この一日しかないのだ。いつか、このことを将来、思い出してくれるだろうか? それは、とても大切な記憶となってくれるだろうかと、ぼくは心配し、かつまた自信のようなものもどこかにあった。
3人でベンチに座り、また甘いものを食べている二人を横目に、ぼくはぽっかりと浮かんだ白い雲を眺めている。空は限りなく青く、こころは躍動しながらもとても穏やかだった。ぼくは、まゆみちゃんの一日のことを考えていたが、裕紀の人生の消え往く一日だとは考えていなかった。明日には、まゆみちゃんは東京を離れるが、ぼくのそばにずっと居続ける裕紀のことは、それほど考慮しなかった。ぼくらも同じだったのだ。微妙にうつりかわる人生の一日を消費し続けるのだ。ぼくは、あの青空をみながら気付いておくべきだったのかもしれない。だが、そうなるまでには、たくさんの時間を要するのだろう。
楽しい一日はあっという間に過ぎ去り、夕暮れを越え、夜になり、閉園の時間になった。まだまだ、熱を発する楽しみの核が消えないまま、ぼくらはそこを後にする。皆、同じような気持ちなのか、同様のひとびとが電車に乗り、浮かれた気持ちの行き場もないままそれを薄めるに任せているような状態をぼくは感じていた。
地元の駅に着き、ぼくらはいつもの帰り道を歩いている。
「スーパーに寄るから、先に帰っていて」と、裕紀は言い、明かりが灯っている店を目指して角を曲がった。
ぼくは、あの頃と背丈の変わったまゆみちゃんと歩いている。
「結婚って、楽しいものでしょうね」
「この通りだよ。まゆみちゃんもいちばん、好きなひととそういう生活がいつか送れるといいね」
「いちばん、すきなひととですよね」
「まあ、可能ならば、と、大人は考えるけれど、それは信じた方がいいよ」
「わたし、あのひとに声をかけられた」
「誰に?」
「ひろし君がバイトをしていたところの女の子だよね、って」それは、質問に対する答えではないけれど、ぼくの頭に答えと同様のむなしい痺れがあった。
「そう、覚えているんだ」
「わたしも、びっくりしたけど、裕紀さんも好きになりましたけど、あのひとも、わたし、大好きだった。彼女はいちばんじゃなかった?」
「ぼくは、嫌いになっていない。別れを持ち出したのは向こうなんだよ」
「キライになっているとは思えなかった。ひろし君をいまでも大切に思っているようだった」ぼくは、その言葉をきき、彼女がまだ10代はじめの女の子であることを忘れてしまうような錯覚があった。
「大人は思い通りに行かないことにも対処しなければならないんだよ」
「ずるいんですね」
「ずるいよ。ずっと、ずるいよ」
「可愛い女の子がいた」
「うん、ぼくも見た」
「そう?」彼女は、意外そうな顔をした。それは、もう女性の顔だった。「裕紀さんに赤ちゃんがいたら溺愛しそうですね。わたしにさえ、こんなに優しいのに」
「そうかもしれないね。まゆみちゃんのお母さんも優しかったもんね」
彼女は、はじめてホーム・シックにかかったように遠くを見つめた。ぼくも、自分の母を思い出し、母になっている妹のことも頭に浮かべた。
家に着き、ドアを開けた。店長は、そのまま友人たちと食事をするとの留守電が残っていた。
「お父さんは、急に子どもっぽくなった、この旅行で」
「昔の友人と会うのは、何よりも楽しいものだよ。まゆみちゃんもそういう子たちを十代のうちにたくさん作るといい」
「お説教くさい」
「そうかもね」ぼくは、笑った。そうすると、袋をぶら提げた裕紀が帰ってきた。ふたりは、台所で助け合ってなにかを作っていた。ぼくは、今ごろになって一日の疲れがでてきて、まどろんでしまった。夢なのか現実なのか分からないまま、ふたりの調理する音や笑い合う声を遠くで聞いていた。