拒絶の歴史(56)
大学の帰りにバイト先に寄っている。その日はどう考えても暇だった。
店の前には人が通るが、誰もスポーツをする必要がないらしい。店長はノートを開きお金の計算をしていたがそれにも飽き、配達をしてくるといって軽自動車の鍵を片手に出掛けてしまった。ぼくはひとり残り、店内で流しているバスケットボールの映像を見ていた。ある黒人選手が華麗なまでのステップをしてゴールを決めた。彼は引力のない世界にいるようだった。そのような世界には一体なにが見えるのか自分には分からなかった。
夕方も遅くなり、部活帰りの学生たちが何人か入って来た。彼らは野球のグラブを手にはめ、その感触を味わっていた。しかし、今日買う必要はまったくないようなので、そのまま店を出て行った。そうすると、店長がまた戻って来た。
「何か売れたか?」ぼくは、首を横に振った。「今日は駄目みたいです」その言葉を合図に彼は店の奥に入っていった。それから何時間か過ぎ、ぼくはシャッターを閉め、店を後にした。家に着いてから服を着替え、夜の町をジョギングした。ほとんど決まったルートだったが、多少それは延びることもあり、また縮まることもあった。その日は長くも短くもならずいつもの見慣れた景色を走った。
家に着くと雪代がいた。ぼくはそのことを聞かされていなかった。
「どうしたの? 突然に。教えてくれれば良かったのに」
「なんか急に帰ってきたくなった。2、3日休みが取れたし。急に帰ってくるとまずいことでもある?」
「そうじゃないけど。いつも電話で前もって言ってたし」
ぼくは、そのままシャワーを浴び、たまっていた汗を流した。その間に雪代は焼きそばを2人前作っていた。身体を拭きながら、ぼくは冷蔵庫から缶を取り出し、ふたつのグラスにビールを等分に注いだ。テーブルに皿を置き雪代が前に座った。ぼくは、バイト先で見たバスケットボールの話をしたり今日の暇な時間のことを語ったりした。そこには大きな展開などなく、ただつまらない事実の集積のみがあった。彼女は何人かの友人の話をした。ぼくの知らない町の話があり、食べたこともない料理のおいしさを彼女は教えてくれた。
「今度、また東京に来なよ」と、彼女は言う。そういえば、と思い出し、ぼくは東京に行った帰りに後輩の山下の大学をたずねたことを言った。電話で話していたか思い出せなかったので口にしてみると、彼女は突然の話に驚いていた。ぼくがラグビー時代に築きあげた関係を損なうことなく、維持していることを誉めてくれた。
彼はぼくの妹と交際しており、ぼくの家族と親しくなることの出来ない彼女はあまりそのことに触れなかった。しかし考えると、ぼくが話題にのせることをためらっていただけかもしれない。ぼくは、彼女の家族のこともあまり知らなかった。ぼくの高校時代の彼女は、妹とも家族とも親しくなってそのことはぼくを居心地よくさせた。しかし、それを捨ててしまった以上、もうもとの器には戻れないことをまた自分は知っていた。
雪代はその後、シャワーを浴びTシャツと長めの部屋着のズボンを履いた。髪を丁寧に乾かし、ぼくのベッドの横に入って来た。そして、ぼくの胸の上に顔をうずめた。ぼくはラグビーをやめても身体を動かしていたので以前の体型を保つことが出来ていて、彼女の重みなど大して感じることはなかったが、その重みはぼくを幸せな気分にさせることは知っていた。
ぼくは、東京での彼女の生活を不思議と心配することはなかった。彼女はそう器用に振舞えないだろうし、こうしてちょくちょく帰ってくるのでそれも安心させる要因だったのだろう。彼女がぼくのことをどう思っていたかは知らない。しかし、数年間ぼくが恋焦がれていた期間があったので、彼女もまた不安に感ずることはなかったのだろう。
朝を迎え、ぼくはパンとコーヒーを雪代の声と姿をみながら食べる。大学に向かうため玄関を出て少し歩くと家の裏側が見えた。そこに雪代の姿があり、彼女はベランダから手を振り、ぼくもそれに倣ってかえした。ぼくはその夜、どのように過ごすかを考えていて、彼女が見えなくなるまでゆっくりと歩いた。
大学の帰りにバイト先に寄っている。その日はどう考えても暇だった。
店の前には人が通るが、誰もスポーツをする必要がないらしい。店長はノートを開きお金の計算をしていたがそれにも飽き、配達をしてくるといって軽自動車の鍵を片手に出掛けてしまった。ぼくはひとり残り、店内で流しているバスケットボールの映像を見ていた。ある黒人選手が華麗なまでのステップをしてゴールを決めた。彼は引力のない世界にいるようだった。そのような世界には一体なにが見えるのか自分には分からなかった。
夕方も遅くなり、部活帰りの学生たちが何人か入って来た。彼らは野球のグラブを手にはめ、その感触を味わっていた。しかし、今日買う必要はまったくないようなので、そのまま店を出て行った。そうすると、店長がまた戻って来た。
「何か売れたか?」ぼくは、首を横に振った。「今日は駄目みたいです」その言葉を合図に彼は店の奥に入っていった。それから何時間か過ぎ、ぼくはシャッターを閉め、店を後にした。家に着いてから服を着替え、夜の町をジョギングした。ほとんど決まったルートだったが、多少それは延びることもあり、また縮まることもあった。その日は長くも短くもならずいつもの見慣れた景色を走った。
家に着くと雪代がいた。ぼくはそのことを聞かされていなかった。
「どうしたの? 突然に。教えてくれれば良かったのに」
「なんか急に帰ってきたくなった。2、3日休みが取れたし。急に帰ってくるとまずいことでもある?」
「そうじゃないけど。いつも電話で前もって言ってたし」
ぼくは、そのままシャワーを浴び、たまっていた汗を流した。その間に雪代は焼きそばを2人前作っていた。身体を拭きながら、ぼくは冷蔵庫から缶を取り出し、ふたつのグラスにビールを等分に注いだ。テーブルに皿を置き雪代が前に座った。ぼくは、バイト先で見たバスケットボールの話をしたり今日の暇な時間のことを語ったりした。そこには大きな展開などなく、ただつまらない事実の集積のみがあった。彼女は何人かの友人の話をした。ぼくの知らない町の話があり、食べたこともない料理のおいしさを彼女は教えてくれた。
「今度、また東京に来なよ」と、彼女は言う。そういえば、と思い出し、ぼくは東京に行った帰りに後輩の山下の大学をたずねたことを言った。電話で話していたか思い出せなかったので口にしてみると、彼女は突然の話に驚いていた。ぼくがラグビー時代に築きあげた関係を損なうことなく、維持していることを誉めてくれた。
彼はぼくの妹と交際しており、ぼくの家族と親しくなることの出来ない彼女はあまりそのことに触れなかった。しかし考えると、ぼくが話題にのせることをためらっていただけかもしれない。ぼくは、彼女の家族のこともあまり知らなかった。ぼくの高校時代の彼女は、妹とも家族とも親しくなってそのことはぼくを居心地よくさせた。しかし、それを捨ててしまった以上、もうもとの器には戻れないことをまた自分は知っていた。
雪代はその後、シャワーを浴びTシャツと長めの部屋着のズボンを履いた。髪を丁寧に乾かし、ぼくのベッドの横に入って来た。そして、ぼくの胸の上に顔をうずめた。ぼくはラグビーをやめても身体を動かしていたので以前の体型を保つことが出来ていて、彼女の重みなど大して感じることはなかったが、その重みはぼくを幸せな気分にさせることは知っていた。
ぼくは、東京での彼女の生活を不思議と心配することはなかった。彼女はそう器用に振舞えないだろうし、こうしてちょくちょく帰ってくるのでそれも安心させる要因だったのだろう。彼女がぼくのことをどう思っていたかは知らない。しかし、数年間ぼくが恋焦がれていた期間があったので、彼女もまた不安に感ずることはなかったのだろう。
朝を迎え、ぼくはパンとコーヒーを雪代の声と姿をみながら食べる。大学に向かうため玄関を出て少し歩くと家の裏側が見えた。そこに雪代の姿があり、彼女はベランダから手を振り、ぼくもそれに倣ってかえした。ぼくはその夜、どのように過ごすかを考えていて、彼女が見えなくなるまでゆっくりと歩いた。