爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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拒絶の歴史(47)

2010年03月28日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(47)

 結局、後輩たちはその後も躍進をつづけ、全国大会に出場する切符を勝ち取った。ぼくは、誰ともその歓喜を共有せず、ひとりで喜びをかみ締めひとりで自宅で祝杯をあげた。

 そのニュースは地元を離れていた雪代も知っており、ぼくが誰かと騒いでいると思って連絡をためらっていたようだが、家に電話をかけるとぼくが出て逆に少し驚いているようだった。

「どうしたの? 一緒にどこかで喜んでいると思っていた。それとも、これから?」
 と訊いたが、ぼくは曖昧な返事だけを残した。多分、嫉妬と羨望の入り混じった思いがあり、素直に喜んでいるのも確かであったが、その栄光は自分にも訪れていいはずだ、とも考えていたのも事実であったのだろう。その自分のみにくさにも似た感情は、自分を小さくさせてしまう心配があった。

 ぼくは前後不覚になるほど飲み、その勢いで自宅に電話をかけた。そこに出た妹は、ぼくという先輩が彼らと一緒に喜んでいない状態にあることを少しなじった。
「喜んでいないわけないだろう?」と言ったが、

「だったら、身体もそこにいて後輩たちになにかを語っても良いはずじゃないの?」と返答した。根底にある彼女の気持ちは、ぼくの評判が段々と下がっていくことを恐れていたのだろう。ぼくらは小さな町に存在しており、交友範囲からあぶれてしまうことを心配していた。だが、最終的にはずっと続いた幼少期からの愛情を、彼らは遠回りをしながらも、ぼくに対しても捨てきれずにいたのだろう。

 いくらか喜びの気分は軽減したが、次の日にもまだ高揚した感情は残っていた。大学に行くと、何人もから「おめでとう」とぼくに訪れたわけではない幸運の言葉を発した。斉藤という同じ講義を受けている女性からも、

「良かったね。これをずっと待っていたんでしょう?」

 と言われた。きっと半分以上は事実であり、ぼくの時代に来なかったことをいまだに悔やんでいたが、みながそう思っているなら最終的に自分も喜んでしまおうと考え始めた。自分に手柄のないことをそんなにも喜べるのかと考えていたが、段々とそれすらも忘れた。

 夕方になり、バイト先でも同じような言葉を貰う。店長は、「お前たちのときの方が強かったと思うけど、勝敗というものはまた別の問題なのかね」という言葉を残し、ふらっとどこかにいつものように出掛けてしまった。彼も運動部のために用具を揃え、それを納品していた関係上、どこかでライバル同士をフェアに扱う感情を持っていたのかもしれない。

 バイトを終え、この日は斉藤という大学の友達と食事をした。彼女は女性特有の好奇心をいつも持っていた。

「あまりラグビーのときの話をしないよね?」と言った。
「スポーツなんて、語るものではなく、行動するものだからね」と自分に都合の悪いことを先手に防ぐように、そんな言葉を選んだ。

「でも、もっと楽しそうに自分の過去を振り返ってもいいんじゃないの?」
「そうかもしれないね」本当にそうかもしれなかった。彼女は自分の言葉に興奮してきたように、その勢いを増していった。

「大体が、もっと自分のこころを開いてもいいと思うけど」
「そんなに閉じてる?」
「さあ、自分で考えてみれば」と食事に気を取られた彼女は、それ以上話す気もなくなったらしかった。

 だが、彼女も大学の仲間たちもぼくに対して、前に交際していた相手のことは一切たずねようとはしなかった。雪代という存在もあったことだが、彼らこそぼくに対して一線をひいている感情をもっているのではないかと、ぼく自身は疑っていた。その問題がある以上、この考え方は常に平行線をたどっていた。

「今日はわたしに払わせて。おめでたい日なんだから」
 ぼくは、この数日間をこのような言葉を浴びて過ごしていた。

拒絶の歴史(46)

2010年03月27日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(46)

 肌寒い季節が近付き、雪代は薄いむらさき色のカーディガンを着ている。それがよく似合っていた。もっと寒くなると自然に彼女はぼくの腕に自分の腕をからませた。そのときの彼女の発する匂いがいつまでもぼくの鼻腔の奥に何かを思い出すきっかけとしていまだに留まっている。

 ふたりとも休日が合うと、ぼくらは車に乗り、たまには弁当を彼女が作り遠出をした。彼女は、基本的に運転が好きで、いつもハンドルを握った。ぼくもたまには運転を変わったが、となりで地図を眺めているほうが気が楽だった。そして、缶ビールが手元にあれば、もっとくつろいだ気分になれた。

 幸福な状態というのは、はっきりとした記憶を脳にも身体にも刻むわけではなく、この頃の自分はただ薄ぼんやりとして透明なヴェールの下に思い出が潜んでいる。時間というのは、ぼくの前にいつまでも在りつづけ、彼女の美しさも永久的につづくはずだった。また、そうしたことを確認する必要もないほど、ぼくらは自然と気持ちも一致していたのだと思う。

 後輩たちは、ぼくがそうした休日を過ごしている間にラグビーの試合を行っており、彼らの成績はぼくらの時代よりずっと良くなっていた。しかし、自分のなかに眠っている挫折感のためだろうかぼくは意図的に試合を見なかった。それほどまでに打ち込んで得られなかった栄光というものの代償をぼくは払っていたのかもしれないし、ただ自分のどうでもいいプライドに引きずり回されていたのかもしれない。何度か後輩の山下や妹に誘われたりもしたが、ぼくが断れば断るほど、彼らは雪代がぼくをスポイルしていると勘違いをした。その勘違いを払拭するために、ぼくらは二人で秋のグラウンドの爽やかな風が吹く中で試合を見た。

 彼らの活躍は素晴らしくぼくも感動しないわけにはいかなかった。試合後に彼らはぼくに近付き、ぼくと練習していたときの辛さと楽しさをそれぞれ述べ、また感謝をした。

「お前らの潜在的な能力があったから、いま強くなっただけだよ」と、ぼくは答えた。自分の手柄など一切ないのだ。ぼくは、ぼくなりに彼らと練習したときの楽しさを実感していたのだから。

「良い後輩がもてて良かったよね」と雪代はにこやかに言った。
「あの時のぼくの方が輝いていたかな?」なんの感慨もなくぼそっと自分の口からそんな言葉がもれた。

「そうかもしれないし、いまも別の形で素敵だよ。だけど、あのときのことをずっとわたし覚えてると思うな」と彼女は言った。ぼくは、誰かの記憶に眠っている本人とはかけ離れた自分の像を思い浮かべた。だが、それを認識することも取り出すことも出来なかった。

 身体を動かす習慣を忘れたくなかったので、空いている時間があれば、バイト先で知り合ったサッカークラブのコーチの手伝いをその後も続けていた。何かに打ち込んで上達する過程の子どもたちを見ることは、やはり楽しいことだった。昨日までは出来なかったことが、ある日ふと今日には出来ることがあり、それは永遠に彼らの財産となっていくそんな過程だ。ぼくは、その子たちと一緒に写真に納まり、彼らの母が作ったおにぎりをおいしく食べ、スポーツドリンクを飲んだ。プロの運動選手になれることも僅かな道ながらある人もいるし、ただ楽しみだけに身体を動かす休日も、それほど選択としては悪いものでもなかった。ただ、栄光を受け取る度合いはたしかに少なかった。熱中した応援を感じ続けた自分としては淋しいこともあったが、あれは別の人間に起こったことだと思おうとした。

 しかし、雪代という存在がありながらも、ぼくらはサッカー少年の母たちの数人と危ない関係をもった。それは楽しみというより、あの淋しさを忘れる行為のように定義して、自分を正当化させた。誰かに自分を覚えておいてもらいたかったからなのかもしれない。しかし、自分の思いのどこかはあまりにも苦い一部があり、雪代を裏切っているという事実も忘れた訳ではなかった。ぼくは、こうして生きている間に何人かの女性にうそと裏切りを続けていくのだろうと思うと、さすがにやりきれない気がした。

 しかしだが、雪代が東京に行っている間に反省する夜を持つこともあれば、ひとりで居たくない日は誰かに電話をしない訳にもいかなかった。

拒絶の歴史(45)

2010年03月14日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(45)

 夏休みに入って、車の免許を取り終え、自分は時間を持て余すようになっている。

 そこに高校時代の上田先輩から電話がかかってきた。彼は、芸術家の卵が集まるような大学に行っており、比較的裕福な家のこともあって、簡単に「パリに行ってみたくないか?」と、訊いてきた。

「それは、行けるなら行ってみたいですよ」と答えたが、「旅費のことは心配するなよ、いつか返してもらえればいいし、建築科なら本場のものをみても、そう悪くないだろう?」と言われ押し切られるような形で旅行に行くことが決定してしまった。

 ぼくは、急いでパスポートを作り、荷造りの要領を学び、これは基本的にラグビーの遠征に行ったときの延長だったが、彼の父が運転する車で空港まで送ってもらった。

 飛行機に半日近く閉じ込められ、そこから出てヨーロッパの空気を吸った。次の日からガイドブック片手に名所を歩き回り、彼はカメラを首から下げ、ぼくはスケッチブックを鉛筆で汚していった。日本の一地方しか知らなかった自分は、やはり文化の程度の差を思い知ったのだろう。そして、何かを学ぶきっかけの固まりのようなものを掴んでいく。

 歩き回って疲れ、食事を前にして空腹を満たすだけのものとは別の料理があることも知る。そこには会話があり、ユーモアがあり議論のようなものもあった。満足に違う言語をきくことが出来ない自分たちは、それを音楽のようにきいている。

「裕紀って子とは、あのままなのか?」彼らは、いつもあの子のことを考えているようだった。
「そうです。いまもなにしているか知りません」
「いい子だったのにな。お前ともぴったり釣り合っているようにも思えたけど・・・」
「多分、そうかもしれませんね」
「いまが幸せなら、それで、オレが口を挟むような問題でもないけど」

 環境が変わったためか、それを冷静なこととして、自分はその問題を取り出した。普段は、やはりこころのどこかに閉じ込め、きっちりと鍵をしめて封じ込めていたのかもしれない。雪代さんの手前、その問題自体をなかったことのように考えていたのだろう。しかし、一回取り出してしまえば、良い思い出の集合体として、そのことはぼくの頭の中を駆け回った。それは、頭の中では足りないのか、街中を駆け回っているような印象までもった。
「お前も、悪くは思っていないんだろう?」

「当然ですよ。ぼくが自分の意地を通しただけで、一方的に彼女をぼくの生活から追いやったのですから」

「しかし、相手は河口さんだもんな」と言って彼は最終的に大声で笑い、その会話を終わらせた。彼はそこで終わらせたのかもしれなかったが、ぼくはホテルに帰るまで、もっと後までシャワーを浴びて、一日の汚れを落としている間も、彼女の残像が残ってしまっていた。

 だが、その会話がなかったように上田さんはその言葉をそれ以降は口にせず、またせっせとカメラとガイドブックを持ち、街中を歩き回った。

 ぼくは、雪代さんへのプレゼントを考え、華奢な靴と奇妙な形の帽子を買って、スーツケースの端っこに詰め込んだ。自分の思い出としては、いくつもの頑丈な建物を見たことで、ぼくの感覚のなにかが開かれたことが大きかった。たくさんの美術作品を見たことによって、いつの間にか上田さんは、それらの作品の知識を取り入れて、ぼくに解説してくれてもいたので、自分のほうに引き寄せることも出来た。

 また、飛行機に半日ほど拘束され、ぼくらは地元の空港まで戻ってきていた。

 そこには、幼馴染の智美が車で待っていた。彼女はその後、裕紀と親友のようなことになっていたので、彼女の現在の様子を知っていたかもしれないが、ぼくに腹を立てていたので、決して教えてくれようとはしなかった。ぼくは、こうしていくつかの気まずい関係の上に土台を築いていたのだろう。

 それでも、ぼくを家まで送ってくれ交際相手の上田さんの家に向かった。

 ぼくは、自分の家にもなっていた雪代さんのもとに戻った。
「どうだった、楽しかった?」と彼女は数日間で美しさを増したような表情でぼくを出迎えてくれた。ぼくを待っている人がいるんだな、ということでぼくは満足感と安らぎの両方を得ていたのだ。

拒絶の歴史(44)

2010年03月13日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(44)

 自分が恋をしていたんだな、と実感するのはまだまだ先のことだった。それでも、こころの一部は確かに縛られ、そこには平穏はなかったかもしれない。横に寝ている女性はぼくの知っている女性であったが、またある意味では自分の知らない部分を秘めているのかもしれない。そのことについて深く考えることもあったが、答えは得られないので追求する作業はいつも頓挫した。そして、彼女の暖かい笑顔を見れば、ぼくのこころの悩みは簡単に消えた。さらにその後は幸福感が舞い戻って来た。この繰り返しを何ヶ月も行っていた。

 大学に行って勉強をする。昼休みに雪代さんと並んで食堂でご飯を食べた。彼女はぼくの食欲を喜び、食べる姿を飽きもせず眺めた。彼女に好意をもっている男性もかなりいたのだろうが、彼女はそれらに見向きもせず、ぼくを大切に扱ってくれた。ぼく自身の評価がそれで良くなったか悪くなったか知らない。いまだに、ラグビーへの情熱を再燃させようと考えているひとたちも多かったが、ぼくは過去のこととしてケリをつけていた。

 ぼくは建築物をみて歩き廻ることが好きになっている。斉藤という女性と待ち合わせ、数々の建築物をみた。ぼくはスケッチを取り、いつか自分もあのような建物を作れたらと考えている。考えているとしても公言はしなかった。ただその気持ちを胸に秘めて暖めているだけだった。雪代さんのいない休日はそのように過ごしたが、彼女がいれば車でドライブをした。ぼくは、まだ免許がなく、この夏にも取る予定になっていた。それで、隣で運転する彼女を眺め、会話を楽しいものにしようと気を使った。

「やっぱり、こういう田舎の道を運転していると気が休まる」と雪代さんはそっと言う。
 ぼくも雄大な景色を見ながら、その気持ちが分かるような気がした。信号と信号の間をせせこましく進む東京の道に彼女も馴染めなかったのかもしれない。
「東京では、運転しないんだよね?」
「うん。車もないし」

 ぼくらは海が見えるレストランに入った。窓の向こうには青空と夏前の穏やかさには欠ける海が、いくつもの波をこちらに寄せていた。彼女は真剣なまなざしで注文する品を選び、ぼくは白身魚と決めていたので、あれこれ考えることもなかった。

 彼女はきれいなグラスに入れられた炭酸水を口に運び、きれいな指先でナイフとフォークを丁寧に扱った。運ばれた料理の量が多かったらしく、「これ、上げる」と何度も彼女は言った。ぼくも何度か貰ったが、自分も満腹になったので最後は断ることになってしまった。
 そこを出ると、ぼくらは波打ち際まで歩き、潮のにおいを嗅いだ。この景色をひとりで見ているわけではないんだ、ということがぼくを幸せな気分にさせた。彼女はそっとぼくの手を握った。

「この時計、大切にしていてくれてるね」とぼくの手を持ち上げ、言った。それは以前彼女がぼくにくれたものだった。高校生には不釣合いだったが、いまの自分には段々と馴染んでいった。数年後にこういうパーソナリティを備えてほしいと彼女が考えている希望に、ぼくは追いついていきたいとも思っていた。なので、その一言がとても嬉しいと感じていた。

 このように彼女の時間をぼくは独占し、ふたりの思い出の量と重みが増えていった。彼女はぼくに無償の愛情を注ぎ、自分はその愛の返礼を求めているわけでもないようだった。この期間にぼくが受けた愛情は、その後どんなことがあっても消えるものではなかったのだろう。だが、いくつかの友情を育む時間は減り、また家族などとも疎遠になっていった。それが喪失かといえばそうではなかったのだろう。ぼくは、ただ彼女の愛情を求め、なるべき自分になりたいだけだった。それは彼女が理想化した自分であったかもしれず、本来の自分とは違ったものだったかもしれないが、その差はぼくには漠然として分からなかった。

「ひろし君といるとなんか安定して楽しいな」
 とぼくらの部屋に戻り、彼女はいつものように言った。ぼくは、どうしようもない引力で恋をしてしまったんだなと思い、その思いの出口として彼女を強く抱きしめた。

拒絶の歴史(43)

2010年03月07日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(43)

 同じ家に住んでいながらも、雪代さんとはすれ違いになることが多かった。彼女は、とくべつ就職をする様子もなく、ただそのまま現在の延長線上にあるものに乗っていくようだった。彼女がどこかに捉われているということが、ぼくにも想像できなかったのでそれで良かったのだろうとも思う。土日には、東京に写真を撮られに行った。ぼくは、身体を持て余し気味だったので、臨時に少年サッカーのコーチを頼まれるまま行った。それは、臨時で済まなくなり、時間のある限りは頼まれるのを断らなくなった。やはり、身体を動かしたあとは爽快で、なにものにも換えがたい楽しい気持ちになった。

 汗を流しては、ひとりで映画館に寄り、ひとりでビールを飲んだ。家から離れてしまいたまには帰ろうとも思うが、段々と思うこと自体も減っていった。

 家でこつこつ勉強することも多く、また資料が必要なときは、大学や公共の図書館で時間を費やした。世の中にはたくさんの資格があり、それを持っていないことには将来の選択の幅が減ることを知った。それでバイト代のいくらかを貯金して将来のその費用のために取っておこうと考えた。

 ぼくが図書館で勉強していると、斉藤という子が横で勉強している姿が目に入った。たまに疲れると席を離れ彼女とコーヒーを飲むことも増えていった。

「河口さんって、きれいな人だよね」と彼女は言った。
「見た通りのままだよ」
「自分を幸せだと思う?」
「そうだろうね」と答えをしたものの自分がどれぐらいラッキーであることは考えていなかったと思う。ただ、あるべき自分はこのぐらいの幸運を受けて当然だと考えていたのかもしれない。だが、若者特有の自分とはすこし離れた別の自分があるような気もした。その隙間に埋めるべきなにかを見つける必要もあったのかもしれない。

「斉藤さんは?」
「さあ」と彼女は答えただけだった。
 コーヒーがなくなれば、ぼくらはまた自分の席に戻って視線を落とし、鉛筆を短くした。集中しようとすればするほど何気ない一言が頭の中にひっかかっていることを感じていた。自分は、幸福だったのだろうか?

 家に戻り、電話がかかってきていた。もともと雪代さんの電話なので、ぼくの両親は遠慮してかけてこなかったが、妹はたまに電話をしてきた。家族に最近起こったことや、自分のもやもやとした感情をぼくにぶつけて来ていた。そして、それとなく、ぼくが冷たい人間だということを匂わせた。彼女はいまだに雪代さんのことを良く思っていないらしかった。彼女が、ぼくの評判を落とし、家族の関係を引き裂いたと考えているようだった。ぼくは、それを子供っぽい考えだと注意し、ぼくの評判なんかどこも変わっていないと教え込んだ。もちろん、言葉を増やしたとしても、彼女は納得せず、自分の言いたいことだけを残し電話を切った。

 そうした様子を雪代さんは知っていたのかもしれない。ご飯を一緒に食べながら、
「ひろし君、わたしと付き合うようになって良かった?」と訊いた。
「聞くまでもないじゃないですか。」

「それなら、いいけど」彼女は普段、不安そうになることは少なかったが、たまには落ち込むようなこともあった。仕事がうまくいかなかったのか、それとも別の理由があったのか分からない。ただ、ぼくは安心させるように彼女の感情を気遣った。しかし、そこは10代の男性が出来る範囲内であっただけだ。効を奏したかは知らない。それでも、直ぐに彼女は立ち直っていく。

 ぼくは、サッカーを一緒にした少年たちのエピソードを話し笑いを与え、彼女の笑顔が戻ってくることを喜んだ。食事が終わればソファにくつろぎ、ビデオを見た。彼女はクリエイティブなひとたちと触れているため、ぼくにもその恩恵を与えてくれようとしていた。

 彼女とゴダールの映画を見て、フランソワ・トリュフォーという名前を教えてくれた。なにかを作る能力をもって生まれたひとたちが確かにいて、自分もこれこそが自分の作品だ、と言ってみたい衝動にかられた。そうなる日がくるのか分からないが、ただあの時の楽しい一夜を思い出すとは考えてもいなかった。

拒絶の歴史(42)

2010年03月06日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(42)

 何度か雪代さんの家に泊まり、いくたびか一緒に住もうと誘われ、ぼくが裕紀と別れた行為をあまり良くは思っていない家族と暮らすのにも疲れ、ぼくは逃げるように雪代さんの思いの中に入った。彼女は、もちろん大学にも通っていたが、その合間を縫って、東京に写真を撮られにいった。ぼくは、彼女が写った雑誌をみては、自分とは不釣合いな人種ではないのかと、戸惑いも覚えた。しかし、目の前にいる彼女は、逆に自分にぴったりの人間のようにも思えた。彼女がそうしている間は、ぼくはゆとりのある部屋をひとりで暮らすことになった。そこには、ぼくの荷物も増え、本などが棚に並べられていった。

 ある日、ぼくは以前通っていたスポーツショップの前を通り、挨拶ぐらいはしておこうと店内に入った。

「なんか、バイトは探さないのか?」

 と世間話の合間に店長は言った。直ぐにではないが、なんか良いものがあったらするつもりだと答えると、店長は、「うちで働けよ」と気軽にいった。面接もなし、「だって、近藤君のどこにオレが探さなければならない部分がある?」と言って、すぐにバイト代の交渉をはじめた。交渉といっても彼が一方的に言った値段を相場と照らし合わせただけだった。午後の何時間かだけでもいいし、お前なら、お客が安心して買ってくれるよ、とぼくの数年間の未来はかんたんに決まった。

 ぼくは、こうして大学に通い、斉藤という女性と同じ講義を受け、夕方からはスポーツショップで数時間バイトをし、年下のスポーツ少年にものを売ったり、なにも買わなくても運動のアドバイスをしたりした。その間、店長はどこかで暇をつぶす時間をみつけ、趣味であるバイクを乗り回したりしていた。ぼくのアドバイスを聞くためだけに来る子も多くなり、そこは若者がたむろする場になった。彼らは、自分の暇な時間をどうつぶしてよいものやら悩んでいるようだった。

 彼らは、ぼくが数年間成し遂げた、または成し遂げられなかったスポーツの能力を知り、大恋愛をしていた女性をかんたんに振り、その後は、きれいな女性と同棲している大学生というレッテルを貼っていた。自分は、それなりに真面目に生きてきた積りだったが、他人のつもりでそのイメージを眺めると、やはりそのような軽薄な人間のようにも思えた。思ってみてもなにも変わらないので、それを修正することもまた覆そうともしなかったし出来なかった。

 夜は、雪代さんがいれば、彼女は手料理を作ってくれた。そうした能力がなくてもぼくは大好きであったのだが、テーブルの上に並べられた料理と、その向こうに彼女の存在があることが、なにより嬉しい瞬間でもあった。だが、彼女を手に入れたことで失ったこともあったんだろうな、と冷静なあたまで判断すれば、そう感じることもあるだろう。しかし、その時の自分は彼女に夢中であったのだ。その気持ちに突き動かされた自分は、それより進むべき道を知らなかった。

 風呂上りに彼女はストレッチをしている。ぼくは、それを横で感じながらビデオを見たり、本を読んだりしている。ぼくはそこに馴染んでいたが、彼女は部屋の代金を受け取ろうとはしなかった。

「立派な人間になるために、それを自分のためだけに使いなさい」と言い続けた。その言葉はいまでも重みを持ち、立派な人間になろうと、ぼくはささやかな努力を続けていくのだろう。

 しかし、バイト代が入れば、多少は彼女にプレゼントを贈った。そのようなサプライズを彼女はいつも真剣によろこんでくれた。ぼくは、意外とかんたんにお金を稼ぎすぎているような感じももっていた。ぼくは、自分の成し遂げたイメージを追い求める(そこには彼らの好きないくらかの悲劇も混じっている)後輩や年少の男の子や女の子やその両親たちにものを売った。ラグビー一辺倒だったが、たくさんのスポーツへの興味を開かれ、彼らは愛くるしい笑顔で、

「ぼくの今度の試合を見に来てください」と言った。

 ぼくは時間があれば、そのような機会を逃さないようにした。彼らは、スタンドにいるぼくを見つけ、手を振った。そのような瞬間にぼくも手を振りかえし、ときには大声で名前を呼んだりした。雪代さんがたまにはいたが、ぼくは自分自身の時間として、また彼らに刺激を与えないためか、ひとりで見に来ることも多かった。彼らの勝利や、ときには敗北を間近でみたが、その都度店に報告をする子たちも多かった。店長や、たまには雪代さんからも同じことばを貰った。

「お前の(あなたの)なにがそんなに人を惹きつけてしまうのだろう?」
 ぼく自身にも分からなかったが、彼らの無限(ある時は有限)の可能性をただ単純に信じているからなのだろう、とも思っていた。