最後の火花 31
母が引き出しのなかを手探りしている。何かが見つからないらしい。この風景は見慣れた状況でもあった。だが、ぼくも片付けられないことでよく母から叱られる。ぼくは逆手にとって、からかいたい衝動を抑える。
山形さんが後ろから覗いていた。そして、直ぐに要望のものをつまみあげた。ひとは視界が違うのだ。母はいくらか恥ずかしそうに引き出しを閉める。ひとはなぜ恥じらいという感情をもっているのだろう? ぼくはいつその感情を表しただろうか。あるいは、今後か。
「探すにときがあり、失うにときがある」響きの良い音を山形さんは発する。
「お母さんのこと?」
「一般論だよ。世の中の全員だな」
山形さんは母とぼくを探したのかもしれない。だが、ふと考える。探すというのは具体的な対象を思い浮かべられた結果としての対価のようでもあった。ショーウィンドウに飾られているおもちゃやグローブや自転車のように。だから、見つけたという方が似合っている。岩のしたにいた昆虫の幼虫。ぼくと母はそのように暮らしていた。だが、段々とその芳醇な状態を思い出せなくなってくる。
山形さんはパン屋に入った。パン屋の選択肢などぼくらにはない。町でひとつだ。母もぼくもパンが好きだった。ある種の固さと歯ごたえや噛みごたえがあってこそのパンだった。店員さんは袋に入れる。パンの頭がそこからはみでている。
「必ず、足の速いものが勝者になるばかりでもなく、賢いものが愚かなものより認められて、多くのパンを得るわけでもない」山形さんという山にはいくつものことばが内蔵されている。
「じゃあ、走るよ」ぼくは身軽なままそこから駆け出す。すると後ろから声がする。
「おい、自分の食べ物は自分の荷物だぞ」
しかし、徐々に息遣いは背中に近付き、直ぐに追いつかれた。いつか、ぼくは山形さんが追いつけない走力を身に着けるのだ。その後、ぼくらは寄り道をして川原で腰かけた。青い空はぼくがつくったわけでもない。ぼくの靴もぼくがつくっていない。ぼく自身もぼくがつくったわけではない。ぼくは、この他人からもらいうけたもので一体なにができるのだろう、もっといえば、なにをしなければならないのだろうとぼんやりと考えた。
「小麦粉を練って、発酵させて、焼くとこんなにおいしいものに化けるんだもんな。不思議だよ」
「発酵って?」
「理にかなった菌、悪いばい菌ではなくて、良い菌の作用で、うまみがつくられる。納豆も、お酒も、醤油も」
「そうなんだ」
「普通では目に見えないものも、しっかりと働いているんだな。自己主張もせずに」
「引き出しのなかでも?」ぼくがそう言うと山形さんは笑った。悩みも心配事もない大人というのは美しいものだと思う。
「どっかにあるもんだよ」
水は清く、魚影が見える。魚が岩に付着したコケを食べることを知った。それらもぼくはつくっていない。餌となるものを土を掘り返してつかまえる。これもぼくはつくっていない。発見して、こわがらずにつかまえるだけだ。女の子に見せると不機嫌になり悲鳴をあげて、逃げてしまう。男女が愛するものはこのように違っている。だが、ぼくと母は同じくパンが好きだ。
家に着くと母はパンを切り、さらに真ん中に切れ目も入れて具材を挟んだ。ぼくらが買い物に行っている間に中味を準備していたのだろう。ぼくは両手でつかんでかぶりつく。箸というものを使わずに食べられるのも好きという要素のひとつかもしれない。
「おいしかった?」と母が訊く。不満がないこと自体がその証明であるのにな、とぼくは解釈している。でも、ことばをとどめることもなく即座に、「おいしいよ」と答えていた。
皿を洗う音がする。水が流れナイフを洗う。何日か前に排管がつまって母は外で洗い物をしていた。山形さんは腕まくりをして、複雑にからまった管を取り除き、新しいものと交換していた。錆びというものも発酵のひとつなのかとぼくは想像する。だが、おいしいものには決してならない。だから、おそらくは違うものだろう。異なった変化の流れ。
すると今度は母と山形さんが言い合う声がした。ぼくは外に出る。この前とった鮒にパンのくずを与える。水面に口を出して器用に呑み込んだ。無口である。ぼくはそれでも話しかける。返事がなくてもことばは勝手にうまれる。
「ケンカして悪いな。ケンカでもないか、あれじゃ」山形さんも照れた様子をする。はにかみとか、ばつが悪いとか、面子とか大人には形容詞がたくさん必要でもある。「知恵は戦いの武器に勝るだよな」彼の手には斧があり、風呂用の材木を薄く伐った。
「武器のが強いよ」ぼくのせめてもの反論。
「強くないよ」
「知恵じゃそんな太いの切れないもん」
「武器とか戦いって、そういう小さな場面以外にも必要なときがあるんだぞ。国際的な紛争を解決する」
「スパイ?」ぼくは覚えたてのことばを使わないわけにはいかない。
「違うよ。もっと疲れて、正義のために疲れる仕事」
「疲れるなら、やりたくない」
「そうだよな。楽な方がいちばんだよな」そう言いながらも彼はせっせと木を伐りつづけた。誰かがその作業をしなければならない。ならば、自分からすすんで。ぼくはいつか自分が振り回している光景を浮かべる。だが、本音はもっと簡便な方法が将来にはあるはずだとも思っていた。
母が引き出しのなかを手探りしている。何かが見つからないらしい。この風景は見慣れた状況でもあった。だが、ぼくも片付けられないことでよく母から叱られる。ぼくは逆手にとって、からかいたい衝動を抑える。
山形さんが後ろから覗いていた。そして、直ぐに要望のものをつまみあげた。ひとは視界が違うのだ。母はいくらか恥ずかしそうに引き出しを閉める。ひとはなぜ恥じらいという感情をもっているのだろう? ぼくはいつその感情を表しただろうか。あるいは、今後か。
「探すにときがあり、失うにときがある」響きの良い音を山形さんは発する。
「お母さんのこと?」
「一般論だよ。世の中の全員だな」
山形さんは母とぼくを探したのかもしれない。だが、ふと考える。探すというのは具体的な対象を思い浮かべられた結果としての対価のようでもあった。ショーウィンドウに飾られているおもちゃやグローブや自転車のように。だから、見つけたという方が似合っている。岩のしたにいた昆虫の幼虫。ぼくと母はそのように暮らしていた。だが、段々とその芳醇な状態を思い出せなくなってくる。
山形さんはパン屋に入った。パン屋の選択肢などぼくらにはない。町でひとつだ。母もぼくもパンが好きだった。ある種の固さと歯ごたえや噛みごたえがあってこそのパンだった。店員さんは袋に入れる。パンの頭がそこからはみでている。
「必ず、足の速いものが勝者になるばかりでもなく、賢いものが愚かなものより認められて、多くのパンを得るわけでもない」山形さんという山にはいくつものことばが内蔵されている。
「じゃあ、走るよ」ぼくは身軽なままそこから駆け出す。すると後ろから声がする。
「おい、自分の食べ物は自分の荷物だぞ」
しかし、徐々に息遣いは背中に近付き、直ぐに追いつかれた。いつか、ぼくは山形さんが追いつけない走力を身に着けるのだ。その後、ぼくらは寄り道をして川原で腰かけた。青い空はぼくがつくったわけでもない。ぼくの靴もぼくがつくっていない。ぼく自身もぼくがつくったわけではない。ぼくは、この他人からもらいうけたもので一体なにができるのだろう、もっといえば、なにをしなければならないのだろうとぼんやりと考えた。
「小麦粉を練って、発酵させて、焼くとこんなにおいしいものに化けるんだもんな。不思議だよ」
「発酵って?」
「理にかなった菌、悪いばい菌ではなくて、良い菌の作用で、うまみがつくられる。納豆も、お酒も、醤油も」
「そうなんだ」
「普通では目に見えないものも、しっかりと働いているんだな。自己主張もせずに」
「引き出しのなかでも?」ぼくがそう言うと山形さんは笑った。悩みも心配事もない大人というのは美しいものだと思う。
「どっかにあるもんだよ」
水は清く、魚影が見える。魚が岩に付着したコケを食べることを知った。それらもぼくはつくっていない。餌となるものを土を掘り返してつかまえる。これもぼくはつくっていない。発見して、こわがらずにつかまえるだけだ。女の子に見せると不機嫌になり悲鳴をあげて、逃げてしまう。男女が愛するものはこのように違っている。だが、ぼくと母は同じくパンが好きだ。
家に着くと母はパンを切り、さらに真ん中に切れ目も入れて具材を挟んだ。ぼくらが買い物に行っている間に中味を準備していたのだろう。ぼくは両手でつかんでかぶりつく。箸というものを使わずに食べられるのも好きという要素のひとつかもしれない。
「おいしかった?」と母が訊く。不満がないこと自体がその証明であるのにな、とぼくは解釈している。でも、ことばをとどめることもなく即座に、「おいしいよ」と答えていた。
皿を洗う音がする。水が流れナイフを洗う。何日か前に排管がつまって母は外で洗い物をしていた。山形さんは腕まくりをして、複雑にからまった管を取り除き、新しいものと交換していた。錆びというものも発酵のひとつなのかとぼくは想像する。だが、おいしいものには決してならない。だから、おそらくは違うものだろう。異なった変化の流れ。
すると今度は母と山形さんが言い合う声がした。ぼくは外に出る。この前とった鮒にパンのくずを与える。水面に口を出して器用に呑み込んだ。無口である。ぼくはそれでも話しかける。返事がなくてもことばは勝手にうまれる。
「ケンカして悪いな。ケンカでもないか、あれじゃ」山形さんも照れた様子をする。はにかみとか、ばつが悪いとか、面子とか大人には形容詞がたくさん必要でもある。「知恵は戦いの武器に勝るだよな」彼の手には斧があり、風呂用の材木を薄く伐った。
「武器のが強いよ」ぼくのせめてもの反論。
「強くないよ」
「知恵じゃそんな太いの切れないもん」
「武器とか戦いって、そういう小さな場面以外にも必要なときがあるんだぞ。国際的な紛争を解決する」
「スパイ?」ぼくは覚えたてのことばを使わないわけにはいかない。
「違うよ。もっと疲れて、正義のために疲れる仕事」
「疲れるなら、やりたくない」
「そうだよな。楽な方がいちばんだよな」そう言いながらも彼はせっせと木を伐りつづけた。誰かがその作業をしなければならない。ならば、自分からすすんで。ぼくはいつか自分が振り回している光景を浮かべる。だが、本音はもっと簡便な方法が将来にはあるはずだとも思っていた。