爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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最後の火花 31

2015年02月27日 | 最後の火花
最後の火花 31

 母が引き出しのなかを手探りしている。何かが見つからないらしい。この風景は見慣れた状況でもあった。だが、ぼくも片付けられないことでよく母から叱られる。ぼくは逆手にとって、からかいたい衝動を抑える。

 山形さんが後ろから覗いていた。そして、直ぐに要望のものをつまみあげた。ひとは視界が違うのだ。母はいくらか恥ずかしそうに引き出しを閉める。ひとはなぜ恥じらいという感情をもっているのだろう? ぼくはいつその感情を表しただろうか。あるいは、今後か。

「探すにときがあり、失うにときがある」響きの良い音を山形さんは発する。
「お母さんのこと?」
「一般論だよ。世の中の全員だな」

 山形さんは母とぼくを探したのかもしれない。だが、ふと考える。探すというのは具体的な対象を思い浮かべられた結果としての対価のようでもあった。ショーウィンドウに飾られているおもちゃやグローブや自転車のように。だから、見つけたという方が似合っている。岩のしたにいた昆虫の幼虫。ぼくと母はそのように暮らしていた。だが、段々とその芳醇な状態を思い出せなくなってくる。

 山形さんはパン屋に入った。パン屋の選択肢などぼくらにはない。町でひとつだ。母もぼくもパンが好きだった。ある種の固さと歯ごたえや噛みごたえがあってこそのパンだった。店員さんは袋に入れる。パンの頭がそこからはみでている。

「必ず、足の速いものが勝者になるばかりでもなく、賢いものが愚かなものより認められて、多くのパンを得るわけでもない」山形さんという山にはいくつものことばが内蔵されている。

「じゃあ、走るよ」ぼくは身軽なままそこから駆け出す。すると後ろから声がする。
「おい、自分の食べ物は自分の荷物だぞ」

 しかし、徐々に息遣いは背中に近付き、直ぐに追いつかれた。いつか、ぼくは山形さんが追いつけない走力を身に着けるのだ。その後、ぼくらは寄り道をして川原で腰かけた。青い空はぼくがつくったわけでもない。ぼくの靴もぼくがつくっていない。ぼく自身もぼくがつくったわけではない。ぼくは、この他人からもらいうけたもので一体なにができるのだろう、もっといえば、なにをしなければならないのだろうとぼんやりと考えた。

「小麦粉を練って、発酵させて、焼くとこんなにおいしいものに化けるんだもんな。不思議だよ」
「発酵って?」

「理にかなった菌、悪いばい菌ではなくて、良い菌の作用で、うまみがつくられる。納豆も、お酒も、醤油も」
「そうなんだ」
「普通では目に見えないものも、しっかりと働いているんだな。自己主張もせずに」
「引き出しのなかでも?」ぼくがそう言うと山形さんは笑った。悩みも心配事もない大人というのは美しいものだと思う。
「どっかにあるもんだよ」

 水は清く、魚影が見える。魚が岩に付着したコケを食べることを知った。それらもぼくはつくっていない。餌となるものを土を掘り返してつかまえる。これもぼくはつくっていない。発見して、こわがらずにつかまえるだけだ。女の子に見せると不機嫌になり悲鳴をあげて、逃げてしまう。男女が愛するものはこのように違っている。だが、ぼくと母は同じくパンが好きだ。

 家に着くと母はパンを切り、さらに真ん中に切れ目も入れて具材を挟んだ。ぼくらが買い物に行っている間に中味を準備していたのだろう。ぼくは両手でつかんでかぶりつく。箸というものを使わずに食べられるのも好きという要素のひとつかもしれない。

「おいしかった?」と母が訊く。不満がないこと自体がその証明であるのにな、とぼくは解釈している。でも、ことばをとどめることもなく即座に、「おいしいよ」と答えていた。

 皿を洗う音がする。水が流れナイフを洗う。何日か前に排管がつまって母は外で洗い物をしていた。山形さんは腕まくりをして、複雑にからまった管を取り除き、新しいものと交換していた。錆びというものも発酵のひとつなのかとぼくは想像する。だが、おいしいものには決してならない。だから、おそらくは違うものだろう。異なった変化の流れ。

 すると今度は母と山形さんが言い合う声がした。ぼくは外に出る。この前とった鮒にパンのくずを与える。水面に口を出して器用に呑み込んだ。無口である。ぼくはそれでも話しかける。返事がなくてもことばは勝手にうまれる。

「ケンカして悪いな。ケンカでもないか、あれじゃ」山形さんも照れた様子をする。はにかみとか、ばつが悪いとか、面子とか大人には形容詞がたくさん必要でもある。「知恵は戦いの武器に勝るだよな」彼の手には斧があり、風呂用の材木を薄く伐った。

「武器のが強いよ」ぼくのせめてもの反論。
「強くないよ」
「知恵じゃそんな太いの切れないもん」
「武器とか戦いって、そういう小さな場面以外にも必要なときがあるんだぞ。国際的な紛争を解決する」
「スパイ?」ぼくは覚えたてのことばを使わないわけにはいかない。
「違うよ。もっと疲れて、正義のために疲れる仕事」
「疲れるなら、やりたくない」

「そうだよな。楽な方がいちばんだよな」そう言いながらも彼はせっせと木を伐りつづけた。誰かがその作業をしなければならない。ならば、自分からすすんで。ぼくはいつか自分が振り回している光景を浮かべる。だが、本音はもっと簡便な方法が将来にはあるはずだとも思っていた。

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最後の火花 30

2015年02月25日 | 最後の火花
最後の火花 30

 酸素の濃度のようなものを化学者でもない自分は変更できない。だが、地面があれば地球上の大体の場所で暮らすことができる。空気を吸い、水を飲む。食事の好みを抜きにすれば、どこに居ることも可能なのだ。しかし、当然のこと現在のこの場にしか居ない。未来に魅かれ、過去に魅了されても、恋焦がれてもぼくがいるのはいまだけだった。動物はどうなのだろう。あの家畜小屋をなつかしいと思ったりするのだろうか。次の場所や放牧地の住宅ローンの算段をするのだろうか。山形さんは賢いという定義を、未来のために数パーセントの余力をのこして、蓄えたり、考えたりすることだと教えてくれた。だが、彼も未来を想像通りに手に入れたか確かめようもない。おそらく、違った形になっているだろう。

 生まれてくる雛のために巣をせっせと作ることはできる。取得のための税もいらない。人間は複雑にした。その複雑さは自身を苦しめることを本能のようにして動いている。

 生きている間に税金を払い、死んでも子どもたちに税金を払う権利をたくす。財産があればの話だが。ぼくは彼らからどんな貴重なものを相続したのだろう。負の遺産もあるだろう。ぼくは受け取りを拒否できない。家族という単位はこれらのやり取りを前提として縦横無尽に回転している。

「勤勉に巣をつくってるね」

 都会の森という矛盾した場所にいる。空気はいくらかすがすがしい。
「オスとメス、どっちがつくってるんだろう?」ぼくには疑問しかない。
「オスでしょう。お母さんは産婦人科に行くもんだよ」光子は自分の意見に笑う。

「それほど、出産が大変だとも思えない。卵をコロッと産んで、あとは自力で殻が割れるのを待つだけだから」
「卵にエコーを当てるんだよ」

 人間は複雑にする。薬を飲んで、手術をする。内臓を交換して、失った身体の一部を着ける。身体の中味まで透視する。幸福に近付く。いまをよりよくする。

「設計図もなく、よくつくれるよね」ぼくは鳥の作業に感心する。
「本能のなせる業」と光子はいう。

 ぼくが母に似た光子を求めたのは本能からだろうか。本能というのは総じて怠惰に傾くような気がした。楽な方への逃げ道こそ本能だ。あの日、勤勉と準備を山形さんはすすめた。その間にぼくの幹を置く。地面のしっかりしない砂地にぼくは杭を打ち込む。怠惰にならないように。

 光子は資格の取得のために勉強をしていた。ぼくはなにも持たないことを反義語として誇りにしている。学校でぼくの身の上をからかった人々をなぐった記憶を思い出している。ぼくは複雑にしないための幼稚な誓いに忠誠を立てる。あの環境にぼくは戻りたくない。だから、前にすすむこともためらうのだ。集団というのは、そこに所属するということは幸福に連結しない。ぼくの経験則はそう耳元で注意を呼びかける。

 ぼくは遮断して、解放する。限定的な相手にだけ開く。水門は優秀なのだ。そう思いながら他人のこころの抽出物である本を読んだ。他人を理解するためなのか。それとも、自分を中心にした成否と進行方向を確認しているのだろうか。

 親身になってアドバイスをする義務を有するひとを失った。それ以降は、働いて自分を養うことを最重要事項として伝えられた。余分な学問も必要ない。オプションを付け加えるという楽しみなど与えられていなかった。そのシンプルさこそ目指すべき場所であり、到達し上陸が許される唯一の小さな島だった。

 ぼくは浮き輪を外し、流木を投げ捨て光子に会った。彼女に属しているもの。住む、暮らす、生きるというのは装飾を付け加えても良い領分なのだった。予防のために病院に行き、破れたから、サイズが合わなくなったから服を買い替えるという理由以外に新たなものが手に入った。何段階もの承認も、ご機嫌伺いもない。親はすすんで娘を美しい、可愛いものにしたがった。

 ぼくは過去を忘れようとしている。ぼくはまた夢を見る。ぼくは自分の頭のなかにいる。誰かがぼくの頭のなかでビリヤードをしている。いくつかの壁面にぶつかり、その都度、過去の忘れるべき思い出で遮られてしまう。再度、キューはボールを強く転がす。痴呆にでもならない限り、ぼくの引き出しは空にはならない。もし、そういう状態になったらぼくはあの町に自分や母の残像を探しに行っているかもしれない。責任から離れ、過去の責任の放棄を追求しにいく。

「教訓。人生訓。座右の銘。スローガンとモットー」ぼくはそう口に出してみた。「鳥にはないんだろうな」
「あるの?」
「これといって」

「わたし、あるよ」イントロの前には数秒の無音が似合う。「乗りかかった船、寄りかかった肩。ほら。途中でやめるにはいかなくなって、責任が生じてしまう例え」
「果報は寝て待て。ハワイのハンモックで」
「犬も歩けば棒にあたる。人間が歩くとコンビニのおでんの匂いに誘われる。ねえ、今晩、おでんにする?」
「いいよ」

 親密とはおでんの具の好みを知ること。母と山形さんとぼくはテーブルを囲んでいた。ぼくは卵を最初に食べた。だが、間違いもある。テーブルというもので表現するには、いささか形が違うようにも思う。もっと古風な呼び方で。光子が一度も使ったことがない台も、この世には存在したのだ。優性と劣性の無意味な交差。

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最後の火花 29

2015年02月23日 | 最後の火花
最後の火花 29

「窮鼠猫をかむ」と突然、山形さんは言った。ラジオでは戦争についての話題で議論がなされていた。終わったことをあれこれと判断を下すのもひとは好きなのだとぼくは知る。歴史は決して塗り替えられないのに。そのことをひとは決して未来につなげるための学ぶ材料にしないのに。

「どういう意味?」
「弱いものでも追いつめられればパニックに陥って、強いものにも刃向ってしまうということだよ」
「誰が誰に?」
「ことわざでだよ」彼は本音をはぐらかせようとしていた。ぼくは勘を働かせる。
「具体的には」
「きっかけとなったアメリカと日本の戦争のとき」

 ぼくは自分が友人とケンカになってしまった状況を思い出している。そこには作戦もない。きっかけも思い出せない。きっとほんの些細なことで、ぼくか相手が腹を立てたのだろう。どちらが強いとか弱いという立場もきっちりしていなかった。また仲直りのきっかけもなく、勝手に元のように遊んでいた。

「むずかしいね」
「ことわざというのがあって、現実の事件と当てはめると理解しやすいんだよ」山形さんはあぐらをかいて器用にナイフで鉛筆を削っていた。「格言、名言」

 母はその前で、座布団をふたつに折って枕の代用にして寝ていた。ぼくはお腹が空きはじめていた。その為に母を起こすことはなぜだかためらわれた。
「ラジオ、小さくする?」

「そうだな、小さくしておいて」山形さんの前に鉛筆が数本、並べられた。先端は尖っている。鋭角の美しさがある。「全力でなにかにぶつかるということもとても大事だけど、大人になると手加減ということも重要になる。ひとはそれほど優秀でもない。できないひとは、どうやってもできないことがある。それが社会でもあり、会社でもある。そういう子がいたら、優しくするんだぞ」

「そうするよ」といってみたものの自分の潜在力なども未知のころだ。ぼくが保護を受ける側になるかもしれない。あわれみの気持ちを抱かれることになるのかもしれない。

 ぼくは外にでて大根を水に浸けて洗った。泥がとれる。窓からなかをのぞくと、山形さんは帳面になにかを書き付けていた。そしてときどき上空を見上げ、思案するひとのように頭にあるものを探しているようだった。

 水は冷たかった。ぼくは牛乳の温めたものを飲みたいと思った。母はまだ寝ていた。ぼくは欲求とためらいの中間にいる。ぼくはひとりで石のうえにすわり戦争というものについて考えていた。あまりにもぼくの得ている情報のストックがすくなく、どうしても合戦という状況になってしまった。みな、奇声と怒号を発し、勢いよく相手の陣地に駆けていった。勇気と無鉄砲のバランスもあった。ぼくの空腹感と、母に頼むタイミングのように。

 すると母は窓を開ける。

「そこにいたの? なにか食べる」
 ぼくはなかを見る。山形さんの背中しか見えない。字を書くときの集中した感じが背中にはあった。
「牛乳のあったかいの飲みたい」

「あったかな」窓は閉まる。ぼくは大根を水から取り出す。これで、ぼくの役目は終わった。しばらくして湯気のたったカップが窓から出された。数分後、飲み終えたころに山形さんが外にでてきた。
「お母さんの言うことを聞いて偉いな」

 山形さんは包丁を持ち、大根を切った。いくつかの断片を眺めて点検してから、軒下に干した。水分が抜けると保存が利く。ひとは対価をはらうのだ。
「怠け者はこわいな。石垣はくずれ、いばらで敷き詰められて、あざみが覆い尽くす」
「それも格言?」
「まあ、そういうものだよ。怠け者になったらダメだぞ」
「ならないよ」

 ぼくは彼らに良い生活を送ってもらわなければならないのだ。優しく、賢くなって働かなければいけない。給料をやりくりして家を建てる。昼寝にもやわらかな毛布をかけてあげられる。

「これ、お母さんに」と言って大根の葉をぼくに手渡した。もう片方の手には空になったカップをもち、部屋に入った。台所にもっていくと、母は別の帳面に数字を書き付けていた。

「赤字に近付く」と母は責任感のまったくない若い女性のような声をだした。
「赤字って?」
「つまりはマイナス。損するほうね」
「どうやったら、赤くならなくなるの?」
「いっぱい、稼いだら。いつか、そうなってみたいね」

 ひとは願望をもって生きる。望みがなければ生命でも人間でもない。ただの物体。鉛筆やナイフと同じような類いのものになってしまう。こうなってほしい。ああなればよい。期待は期待だから美しいのだ。ぼくはいまの状態でも完全に近いと思っていた。ぼくはいったん、牛乳を飲んだことで空腹が減った。母は大根の葉を刻む音をさせている。山形さんは風呂に水を入れていた。外は夕暮れになり、大根は水分を失う。その後、大根はいったい何になるのか考えてみる。甘くなるのか、酸っぱくなるのか。歯応えはどういう風に変化するのだろう。ぼくも自分の帳面をもち、大事なことを書けるようになるのかもしれない。そうしたら、こういう日のことをそのままの飾らない筆致で書いてみたいものだった。

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最後の火花 28

2015年02月21日 | 最後の火花
最後の火花 28

 光子の家にはホイットマンの詩集があった。大学で、そういう類いの事柄を学んだようだった。ぼくには確固たる胸を張って自慢できるほどの教育もない。だが、失ったなにかがそれであるのかと問われれば皆無で、ぼくは自分の短い歴史で得たものが無数にあった。得たものしかない。手の平から溢れるほどに。

 負け惜しみでもなかった。だが、歪んでいることも正直にいってある。ひとはゆっくりと熟成されるべきであり、学校は恋の相手を探したり、友人をつくって待ち合わせをしたり、来ない相手にイライラしながらも妥協したりすることも学ぶ有意義な時間でもあった。普通になれること。

 ぼくは本を開く。自分をつくった最短の道から逸れたものや、外れたもの。ここにもそれがあった。

「もう、それ、何年も開いていない」と彼女は言う。ひとは日常からさまざまなものをこぼしていく。グラスは別なもので補てんされて満たされていく。炭酸のように自然と蒸発させて、かさを減らすものもある。興味や関心を強制されるのが学校というものだ。ぼくはそこから自由な立場で本を開いている。未来の恵まれた優位性にも無関心で。

「資本主義の最たるアメリカにひとりの男性がいました。詩を書いている」ぼくは、独り言を聞かれるという認識のもと声を出していた。「製品をつくって大量に売る。小売店にたくさん山積みになるほど並べる。ところで、その範疇にこの詩も入るのかね?」最後は独り言ではなく同意や反論を求めていた。

「現在の栄光なんか気にならないひとかもしれないよ」
「そんなひと、ひとりも居ないよ」ぼくはこころにもないことを発していた。「政権とか主義とかシステムとか小さな枠内で成功できるのが賢いひとなんだよ」
「賢くても成功しないひとだっているでしょう?」

「それを許さないのが、合衆国というものだろう」ぼくは入国したこともない場所を勝手に規定している。自分が判断しなければならない。自分が裁かなければならない。自分が罰しないといけないのだ。自由の国についても。

 自称というものがある。詩をいくつものにすれば詩人と認められるのだろう。ある日、突然、辞めるひともいる。そして、武器商人としての自らの才能を発見する。どちらが本領なのだろう。ダダイスムという思想もあった。規制の秩序に対して、否定、破壊、攻撃、拒否を理論上で目論む。ぼくは自分で望んだわけではないが、規律ある家族像を奪われてしまった。他の人々が当然の権利としてマントのように帯びているものを。

 ぼくは本を閉じる。のこっているものは何もない。ぼくの頭には山形さんの能弁なことばしかしがみついていない。余地がない。

 ぼくはそのまま眠ってしまった。昼のまどろみ。身体は休んでいるが、脳は別の業務を頼まれている。夢のなかでぼくは暮らしていた。内容はこういうものだった。光子には若い恋人ができていた。ぼくの目の前で楽しそうにイチャツイテいる。詩的な表現ではないが、ふさわしい、よりぴったりと一致することばをぼくは見つけられない。どうやら、ぼくらはその直前に別れているようだった。ぼくは不快感を抱きながらも、どうこうする手立てがない。しばらくたって光子が絡みついた身体を離し個人という単位になって、ぼくのそばに寄る。

「あなたに、この新しい関係を承認してもらわなければ、先に進めない」と言う。

「ぼくにそんな権限も、その役目を負う責任もないよ」さらに不快になる。
「でも、そういうものだから」
「する気もないよ。法王でもないしね」

 彼女はふて腐れて離れてしまった。ぼくには別の選択肢など考えられない。どうすればよかったのだ?

 結局、その所為でふたりは別れることになる。ぼくは若い元恋人につかまる。非難されるのかと恐れたが、ただいっしょになって酔って、慰めてほしいということだった。彼は光子の素晴らしさを惜しげもなく披露する。それはぼくも当然、認めていることたちだった。ぼくは不思議と彼より前にそれを知っていた自分が褒められているように錯覚する。ぼくの一部が彼女に移転したので発生した長所だ。最後には、ふたりで彼女を褒め合って終わった。ぼくの意識はコントロール下におけないものだ。

「楽しい夢だったの? なんか、笑っているように見えたよ」と光子は訊く。

 これがぼくが考え出した詩のようでもあった。美しいもの。奪われたもの。大事だったもの。再発見できる時間。現実ではなく、夢の間という限定されるとき。

「楽しいような、悲しいような」
「ひとの夢の説明ってキライだよ」とキライでもなさそうな表情で彼女は言った。「コーヒーでも飲む? ビールにする?」
「それとも、わたし」
「バカみたい」

「そういう夢だったんだよ」あの男性は誰だったのだろう。現実の世界のどこかにいまも居るのだろうか。着々と計画を練って、実行する準備をしているのだろうか。だが、出会いなど計算できないのだ。特別な策士でもないかぎり。
「顔、洗う。ビールも飲む」
「わたしのも取って」

 ぼくは洗面所で流れる水をすくって顔に前後になすりつける。「承認が必要」と小さな声で言ってみる。そんな役割を誰も担っていない。担っているとしたら、かなり厄介でまた傲慢でもあり、お節介でもあった。別れたひとびとに責任もない。それが別れの根本の意味合いだった。面倒が減るだけだ。

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最後の火花 27

2015年02月17日 | 最後の火花
最後の火花 27

 ぼくと山形さんは雨のあとのぬかるんだ道を歩いていた。山形さんの足もとは長靴だった。彼がそのような格好をすると、自分の肉体を隅々までコントロールできる能力を有しているひととして映った。こころと肉体を分離して考えるほど、無意味なことはない。ぼくは視線をレーダーのようにして一点に注意を払わずに、ただ辺りを見回していた。樹木に、平らという観点をとっくに捨てた看板が錆びた針金で結わえつけられていた。警察が抑止するためにいろいろなことばを並べる。ぼくは、書かれていることをそのまま読んだ。

「標語っていうんだよ。自分でも何か考えてみな」

 ぼくは歩きながら思い浮かんだことを口に出した。それはダジャレの連発に過ぎない。山形さんは無心に笑った。その声に驚いたように潜んでいた鳥が飛び去った。

「これでも、さまになってる?」
「どうだかな。世の中にはことばをあやつれるひとがいる。体操選手のようにことばをあちこち転がしたり、反転させたり」

「いいね」
「暗喩と隠喩」彼自体が、ことばをガムのように丁寧に噛んでいるようだった。「俳句とか、詩とか、もっと高尚なひとたちもいるんだよ」
「どういうの?」

 山形さんはカエルが池に跳び込んだり、蝉の泣き声の話をした。それらの短いことばだけで、いくつかの音だけで一瞬をとらえようとする仕事があるらしい。その為には観察ということが重要で、いろいろなものに関心をもつことが大事だともいった。

「詩はどういうの?」
「ある対象に切実に訴えることだと、オレは思う」と急に感傷的、かつ堂々たる声を出した。「例えば、どこかに捕らわれていてそこから抜け出したい一心で、必死に何かに懇願する」

 ぼくは裏の物置に閉じ込められたときのことを思い出していた。釣り用の竿があった。冬のための燃料もあった。独特の匂いが閉所であることの不自由さを存分に表していた。

「それが詩?」
「まあ一部だよ。もっと人生のよろこびを表現することも可能だし。美しい湖を見たり」

 ぼくには形の無さと不透明さによって理解は遠退いて行った。
「兄弟を請け戻すこともできない。身代金も通用しない」と山形さんはぼそっと言った。「絶対的なるもの」

 ぼくは次のことばが思いつかない。それで、また勝手な標語をつくって楽しんだ。
「ことばって楽しいね」

「気楽でいいな。気楽がいちばんだよな」そう言って山形さんは道ばたの葉っぱをむしる。「ひとというのはいろいろ画策に応じられる。おだてたり、賄賂という贈り物を使ったりして」

「おだてるって?」
「お母さんは美人だと言われればうれしいと思わないか?」
「思うね」
「ほんとうにそうだけど、こころの敏感なところをくすぐって喜んでもらうのが、おだてる」
「ぼくにもできる?」

「できなくてもいいよ。また、しなければならない状況も大人になればたくさんあるから。ブロックを並べるように。これは比喩」

 ぼくは標語から比喩に興味が移る。いくつかの例えをつくったが歩く度ごとにすべてを忘れた。忘れたものが大切だとか、忘れたことで、あるいは忘れられないで苦悩するという境遇には、ぼくはまだ早過ぎた。

「出すことばの数に限りがあるってむずかしいね」ぼくはだらだらと無節操に話したかった。それができる同年代の友人を欲しいと思っていた。
「そうだよな、身体と同じで、何をするにも上達を目指すには訓練しかないからな。凡人たちは」

 ぼくらはベンチに座る。山形さんは濡れたあとの乾き切らないイスにも無頓着そうだったので、ぼくもとなりで自然にそうした。

「雨のあとの空気って、すがすがしいね」
「そう思うだけでも、もう充分に詩人だよ。素養がある」山形さんはポケットからタバコとマッチを取り出して、器用にこすり火をつけた。小さな炎。用途が限られる炎。「賄賂も利かない、おだてもおべっかも効果がない誠実な方がいる。お前もそうなってくれよ」山形さんは指でタバコを飛ばした。「詩人っていうのもいいな。切実なることばの群れ」
「本をもっと読むよ」

「いつか大きな図書館に行こう。背丈もある本棚が百も二百もあって、そこに本が全部詰まっている」
「誰が読むの?」読める権利を有しているのという意味だった。
「誰でもだよ。知識は共有の財産であるべきだから。そこまでに達するにはいくつもの反対を越え、疑問にもすべて答える自信がなければならないけど」
「それから、共有になるの?」
「そういうこと。あの湖のように。川のように、山のように。みんなのもの。だが、ひとりひとり個人の思い出にも化けるものたち」

 山形さんはポケットにタバコを仕舞った。大人には必要とするものが多くなる気がした。母の鏡台にはいくつもの品々が並んでいた。大人の男性もタバコを吸って、お酒を飲んで、詩がどうこうと判断する。ぼくには数枚の服と靴があれば充分で、とても満足だった。たまに髪を切られ、前後を忘れて眠る。空腹をまかない、走り回ってまた眠った。絶対もなく、詩も俳句もなかった。カエルも蝉もただのある季節に目にする生き物だった。詩想につながるものはなにもない小さな可愛い物体として生きていた。
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最後の火花 26

2015年02月14日 | 最後の火花
最後の火花 26

 喪失後の世界にいる。おそらく、生きるということは自分の死の瞬間に向かい、さらに、他のひとびとの死を優しく受容することなのだ。冷酷な事実を帯びても狂気に包まれないこと。それだけが念頭に置かれていればよいのだ。

 ぼくは幸運と不運が掴み合い、奪い合う世界にいるだけで、どちらに敵対するか、味方するのかも自分では決められない。正直にいえば、いつ、ぼくは母を失うことが妥当な日だったのだろう。すべきだったのか。いまなら、よりましだったのか。ぼくは山形さんに対する是認を変える必要があったのだろうか。答えはない。こころの奥にある喪失感の包帯を取り替えてあげるしかぼくにできることはない。

 けじめをつけなくても未来は順調に、あるいは勝手に、もしくは適度に訪れる。抵抗も不可能だ。ぼくはダムではないのだ。誰しも、こころは清流のようなものであってほしいと願っているだろう。ぼくの上流でひとが死んだ。清らかな水も、成分までみっちりと分析すれば、ある不純な物質がまぎれこんでいるのかもしれなかった。

 だが、光子がいまはいた。ぼくの過去の経験を通過したために光子がいた。ひざにかさぶたを作って転ばないことを学んだ。お小遣いを落として、金銭の貴さを知った。時間と等価交換でアルバイト代を手に入れた。得たもので、また何かを買う。成長ということを簡単に説明すると、こうした積み重ねなのだろう。

「資本主義と保険」と、あの日に、山形さんは言ったように思えた。現在のぼくがそう誤訳している。資本があるには労働者がいて、労働者がいれば組合が起こる。その衝突と折衷が賃金だった。

 ハンターである男性。あの日の山形さんの姿はそのまま射抜く方だった。
 ぼくは母にどれほどの能力があったのかもう思い出せないでいる。料理はうまかったはずだが、その後のまずい食事の回数の多さが上回り既に舌は忘れてしまっていた。だが、新しい母ももういらない。代わりになれるものは、あの当時だから必要だったのだが、それも本人以外にはいらないだろう。ぼくは代用品の正当性を疑っている。

 未来の準備のために保険がいる。それが欲しているのは自分の人体であってはいけない。物という範疇におさめなければならない。車や飛行機。だが、運転しない、操縦しないただの物でもない。複数の人命が関わる物だった。

 いずれなくなる自分という物体に保険をかける。ぼくがいなくなっても母は悲しめない。ぼくのために誰が泣くのだろう。失うということは、では恋の終わりも同等なものでしかなくなる。すると、最後は死という強迫観念がぼくに起こる。山形さんに、ある意味で育てられた自分は光子の死を、手を下す殺害というものを望むのだろうか。いまのところは、まったく反対だ。継続がふさわしい。死が分かつまで。

 光子のあとに光子以上の存在を発見する。それが題材なのだ。ぼくは負けに甘んじたために報われるのだ。最強でないから、トンネルを通過した次の駅でプレゼントをもらえる。

 ぼくのトンネルは暗かった。母はもう笑わなかった。賛辞も叱責もない。笑顔も涙もない。あらゆる感情が土の下に眠る。生きているからこそ苦痛があった。喜びもあった。光子の皮膚や髪にも感触をおぼえられるのだ。味わう感覚。母の料理を覚えていない味覚。山形さんと組み合ったときの匂いや手強さ。あの家が醸し出す素朴さ。美しさなど微塵もなかったが、居心地の良いところだった。

 失ったことをよろこべるまでには至らない。誰がいったいなれるのだろう。なにを代価として受け取れば正常だったと思えるのだろう。だが、ぼくはわざわざ過去のこだわりを思い出そうと努めているだけだ。本当は喪失の記念をとっくに川底に投げ捨てていた。誰も拾えない。それは、もうぼくのものでもなかった。

 ぼくは光子を抱く。おそらく母もこれぐらいの欲があり、これぐらいの身体のサイズだっただろう。母はぼくを産んだ。光子もぼくに似た誰かを産むかもしれない。いままではなかったものを。ある日、不意に生み出されるものを。

 彼女は浴室に消えた。いなくなっても様々なものが残る。においや、空気の密度のようなもの。品々。愛用品。ここは光子の部屋なのだ。ぼくはあの家からはじまり、暮らしてきた家を思い巡らした。ここが到達ではなく、目指した場所でもない。だが、ぼくはここにいて、安らかな気持ちも抱けていた。彼女は扉を開ける。あの日、ぼくと山形さんが玄関に入ったときの表情と似ていた。

「爪切り、あったっけ?」と、ぼくは訊ねる。あの日を再現しなければならない。ぼくはひざを抱え、自分の足の爪を触った。

「大変そうだから、切ってあげるよ」言い終わる前に彼女は自分のひざにぼくの足をのせた。過去より上等な日々。失って得られるもの。得られたから失いたくないもの。ぼくが選択したのではないのだ。スタートの合図の音を誰かが鳴らし、ぼくはコースに沿ってすすんだだけなのだ。転びそうにもなり、実際に転んだ。ゴールを目指しているが、いつの間にか、横には誰もいなくなっていた。

「いたっ!」
「あ、ごめん」

 ぼくの小さな箇所のさらに小さな一部分がぼくの神経のすべてと化す。ぼくから派生する神経。それに快楽を与えるのも、傷を加えるのもいまのところは光子だけが与かっていた。

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最後の火花 25

2015年02月12日 | 最後の火花
最後の火花 25

 現実になる。実現される。順番が入れ替わっただけで、同じことだ。将来、そうなるとも思っていないでぼくは他人事のように聞いていた。自分に何が起こり、何が起こらないかなど十才にも満たない男の子に分かる訳もない。それが可能性でもあり、緊迫した現実でもあった。

「もし、仮にだよ、いまの生活が奪われたら、どうなるかね?」

 ラジオで災害のニュースを家族で聞いた後だったと思う。ぼくは立ち向かうという観念が芽生えたころだったかもしれない。

「取り戻す、と思う」

 ぼくと山形さんは月に何度かある町への用事で歩いている。空模様はおかしかった。おかしいというのは笑いに通じるものでもあれば、普通ではない状態という意味にも取れることをぼくは考えている。

「むかし、むかしにある男性に起こったことだ」山形さんは痛切という感じの声を出した。彼はある面では演技者だった。他人の目を意識した時点でひとは演技者になった。お客さんが来たときの母の口調の変化。あれも一種の演技なのだろうか。

「どういうひとなの?」
「裕福なひとだった。お金にも恵まれ、家族も多くいた」山形さんはうらやましそうな口振りだったが、ぼくには彼がどこと比較して、そうした羨望の思いをもっているのか理解できなかった。

「良い暮らしだね」ぼくはラジオの宣伝で、そのようなセリフを聞いたんだろう。
「もし、仮に、おじさんやお母さんが突然、いなくなったらどうする?」
 ぼくはその状況を思い浮かべて、「探すよ」とだけ答えた。

「そうしてくれると助かるな」と山形さんは言ってニヒルに笑った。「彼は不運に見舞われる。災害に遭ってしまったように。子どももなくす。その不運について、妻にも非難される」

「味方のはずなのに?」
「そう、味方のはずだったのに。裏切られた。しかし、信じていたものがこころの奥にあったので耐えようと決めている」
「強いね」

「そうだな。強さって、腕力でもなければ、腕っぷしでもないのかもしれないな、本来は。頑固であることが、最後にはいちばん強いのかもな」

 だが、そう話す山形さんの腕は太く、確かに強そうだった。ぼくは頑固だと叱られたこともあった。それが急に長所と鞍替えしたことに戸惑ってしまう。ずっと動かない岩が最後には偉くなる。山が偉く、動物では象や、海の中ではクジラが偉くなる。動かすことが困難なものたち。ひとは物体的に動かせても、こころまでは易々と動かせない。

「不運をどうやって、やり過ごすの?」
「ただじっと耐えるだけ。頭のうえを銃弾が通り過ぎるのを待っているだけだ」
「どれぐらいの長さを?」
「ひとそれぞれの不運の大きさによる。でも、その人相応の大きさしかない」

 ぼくは自分に与えられるであろう不運の風船を考える。あまりにも小さくて直ぐに割れてしまうもの。反対に気球のように膨らんでぼくはその不運にぶら下がり、あらゆるところに運び去られる自分のことも想像した。どちらがよりしんどい状況なのか、ぼくに分かりようもないのだが。

「耐えられたの?」
「あらゆるののしりや数々の暴言も耐えた。すると、ある二方の討論も解決して、彼は失ったものを、それ以上の価値あるものを与えられる運びになる」

「誰かが決めるんだ?」
「まあ、そういうことだよ」
「喜ぶの?」
「喜ぶさ。喜ぶしかないじゃないか」

 ぼくは母と山形さんを失う。しかし、もう一度、手に入れられる。その実際の意味合いが本当のところ分からない。失ったものは、失ったままだろう。ぼくはなくしたものを考える。ほとんどはもうなくした事実も思い出せないが、いくつかの大切だったものには名残惜しい気持ちがあり、もったいないな、とか、惜しかったなという感情は深く刻まれていた。

 玄関を開けると、母がいる。そのことを当然だとぼくは決めている。疑うこともまったくない。ラジオでは災害の現場に救助に駆けつけるグループのことが話されていた。そういう任務が世の中にはあるのだ。だが、普段はなににいそしんでいるのかぼくには想像できない。消防士は火事を待ち、天気を予報するひとは雨を待つ。新聞記者は事件を探して、靴屋さんはかかとがすり減ることを待っている。時計屋さんはネジをゆるめ、宝石屋さんはいっぽんの指のために完全なる円を作るよう棒を丸めている。ぼくは母と山形さんを探している。いまはとなりの部屋にいるので、声だけが聞こえている。

 山形さんが爪を切る音がする。母はいつ爪を切っているのだろう。音だけでは判断できないはずだが、ぼくは山形さんがひざを抱え込むような姿勢で切っているのを目に浮かべた。探さなくても、もうぼくの頭のなかにあるのだ。頭は無限という可能性と許容量を前もって準備している。

 ぼくは引き出しを開けて、大事なものは何なのか規定しようとした。失いたくないもの。ぼくはお気に入りの洋服が来年には入らなくなるということもまだ知らない。愛着もそれほどない。愛着するには、ぼくは犠牲を払った対価として手に入れなければならないのだろう。

「不運の連続が保険の勧誘の誘い水となる」爪を捨てながら山形さんはそう言っていた。ぼくには保険という具体的な役割も意味も分からない。ただ漠然と大事そうなものだと思われた。いまという観点ではなく、来年の洋服の大きさをあらかじめ考えるようなものなのだろうとぼくは勝手に解釈する。

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最後の火花 24

2015年02月11日 | 最後の火花
最後の火花 24

 ぼくと光子がうつった写真が、光子の部屋に飾られていた。高価でもないシンプルな枠が木材の普通の写真立て。そのなかにいる。ぼくの身なりだけで人柄の一部は分かるだろうが、どんな過去をもっているのか、大げさにいえばどれほどの体積を背負っているのか簡単には分からない。そして、ぼくもいまの光子を知っているだけだ。それで好悪の判断をしている。与えられたトランプの札はあきれるほど少ない。

「カギって開けるため、それとも、閉めるためのものかな」と突然、哲学的な疑問を光子は発した。

「じゃあ、爪って切るためか、伸ばすためかね」ぼくは疑問に疑問で答える。本音を暴かせない女性のように。「髪も切るため、伸ばすため?」
「どうしたの、普通の疑問なのに」

 若さとは選択肢があることなのだ。髪をどのように操るかも自由だ。反対に、不自由というのは選択の幅が狭まることなのだ。では、愛に選択などという高等な見晴らしの良い高みなど認められているのだろうか。好かれているか、好かれなくなっているかの瀬戸際の泥沼のような場所にいるだけなのだ。

「当然、両方だよね」ぼくは正式な回答というためにもならない言葉を出した。永遠の愛を誓うために複数のカギたちが壁面のフェンスに取り付けられている。あれは閉じるためのものだ。ロックする。

 実際の生活には勧善懲悪などなかった。善が急ぎ足で悪に回り、いや、もっとあいまいなところにすべてがあった。永遠性というのを願いながら、自分の存在が永遠でない以上、誓うというのもほとんど嘘に近かった。しかし、嘘というのも絶対的な立場にはない。ある面からみれば真実からちょっと外れているに過ぎない。そしてまた真実も無菌室にはいない。どんでん返しも、見事な結末もない。汗をたらしながらその場その場をやり過ごすだけだ。

「女性って、男性に比べて総じて優秀だと思う?」

 テレビでは国立大学を卒業して弁護士になったというひとがインタビューを受けていた。勉学にいそしんだだけの容姿ではなかった。誰かのルール。誰かたちのテスト。誰かたちの幸福たち。

「個人によるよ」ぼくは光子の気転がきく部分を好んでいた。自分には誇れる経歴もない。反対に消し去りたい過去はあった。才気。機敏さ。疑ってみること。自分を育てたのはこれらの小さな性質の積み重ねだけで、それは大群になっても経歴に化けることはないのは知っていた。大抜擢もない。そもそもぼくは見つからないということをある日々には深く願っていた。ぼくは見つかり、山形さんも見つかった。その代わり、母は永遠にいなくなった。もしあのまま存在していたら美貌の母として誰かに見つかっただろうか。

 光子は手鏡で自分の顔を点検している。ぼくは母が同じような様子をしていたのを思い出していた。子どもだった自分もマネをしてみたが、鏡というものにうつった自分を把握することに順応できず、うまく馴染めなかった。ぼくは手鏡の裏の部分を触る。その仕草に母も山形さんも笑った。

 光子が置いた手鏡をぼくは覗く。反対の世界を戸惑うこともない。何度も見た顔。にきびを確認して、ひげをそった顔。自然にできてしまうというのは繰り返しによるものなのか。ゆらゆらと揺れる自転車にぼくは乗った。もうその頃には、母も山形さんもいなかった。ぼくはいっしょに暮らす同世代の男の子に後ろをもってもらった。ぼくにはプライドという観念も芽生えていなかったのだろう。ぼくが漕ぎ出すと、彼は手放しに喜んでくれた。ぼくは、いまなぜ、こんなことを思い出しているのだろう。

 ぼくは銀座にいる。母はこの場所に来たことがあっただろうか。ぼくを産む前にどれほどの歓喜が彼女に与えられていたのか、ぼくにはもう知る方法も術もなかった。死人は口を閉ざす。カギは閉じるためにあるのだ。

 母が喜んでいたあの見合いはうまく進んだのだろうか。うまいというのは最初の話で、あれから数十年経ってからのいまの判断とはまた違う。

 ぼくは歩行者天国の真ん中の安物のイスにすわり、ぼんやりと光子を待っていた。こちらに歩いてきたときにカメラとマイクをもった群れに囲まれた。見つかるのだ。彼女はなにかを話している。思案するときの特徴ある眉間がここからも見えた。最後に歯を見せて笑った。カメラを通した彼女の映像はまた違うものだろうか。

「どんなこと、訊かれたの?」

 彼女の返事の内容で、最近の世間をにぎわしたカップルがいることを教えてくれる。見合いなど、もう誰もしない。アジアのどこかで未成年の、もっと未成年の女の子がしているぐらいだろう。ランドセルが似合いそうな年代なのに。まだまだ。

 大逆転をのぞんで罪を暴きたい人間もいない。ぼくはそれだけでも幸福なことだった。自分の手柄を自慢するほど厚顔な性質をもちあわせていない。これもラッキーだった。見合いという方法をとらなくても光子に会えた。充分に幸福といえた。母の面影もある。失われたが、そして、幸福かどうかも現時点で正解がでるとも思えないが、そこそこに栄養分のようなものは、いまに至るまで注いでもらっていた。

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最後の火花 23

2015年02月07日 | 最後の火花
最後の火花 23

「女性というのは、なんだかんだ大したものだよ」

 山形さんは突然、そう言いだした。比較の支点をどこに置いたのかも分からない感想だった。母は誰かの見合いというものの話の途中だった。ぼくは、それがどういう役目をもつのか分からなかった。

「相手のことを知って、気に入ったら結婚するのよ」
「写真だけで?」

「先ずは写真で、気に入りそうだったら会うの」母は自分のことのように楽しそうだった。ぼくは、お母さんはどうだったの? と訊きたかったがこの場では躊躇した。母は写真の印象と実際会ったときに感じるものは違うと言った。山形さんは、そう大差がないという側にたって会話をつづけていた。ぼくは、そもそも写真を撮るということが何のためにするのか分からなくなる。確認なのだろうか。ひとが見れば、紹介にもなる。ぼくは自分が写真を撮られた回数があまりにも少なく感じる。いつも通りの遊んでいる姿を撮ってくれるひとがいたらどんなにいいだろうなと思う。ぼくは自分の走る姿や背中をそのまま別のひとのように見られるのだ。

 山形さんの用事のために連れ立っていっしょに歩いている。彼は無尽蔵に語る能力があった。自分も大人になったらことばのみで相手に理解させられるだけの能力を育てたいと思った。また、幼ごころでは能力は育つのかどうかも判断できないでいたのだが。

「どこかの王様が結婚したいと思っている」
「また、王様?」ぼくは身近な主人公を題材にした本を読んでもらったばかりだった。
「まあ、聞けよ。その男性が花嫁候補をずらっと並べるんだ」
「恵まれた環境だね?」
「そこからひとりを選ぶんだ」

 ぼくはその状況を想像する。ぼくはそれまでにどれほどの数の女性に会ったのだろう。そもそも、女性という観点を自分の人生にすでにもちこんでいたのだろうか? 母や近所のおばさん。みな、恋をするという気持ちの対象から外れている。でも、どこかで結婚すべきひとはそういう方法を取らなくても巡り会えそうな気もしていた。純情なものだ。

「誰を選ぶの? どうやって?」疑問は無数に生まれた。
「それは美貌というものが筆頭になる」
「美貌って?」
「美人だよ。分かりやすいだろう?」
「美人は全員が美人だと思えるの?」
「凡そは、そう相場が決まっている」
「ふん」

 ぼくは自分の身なりがふと汚れているように感じてしまっていた。新品とは呼べない洋服。だが、もっと着飾れば、ぼくもどこかの裕福な子どもの一員に見えるだろう。

「それから、どうなるの?」
「その女性は美人だけではなかったんだ。知り合いに賢いひともいたからな。その身内の男性が結婚するよう勧めたぐらいだから」
「なにが、起こるの?」

「あるグループが裁かれようとしている。狙われている。危険が迫っている。呼び方はいろいろあるけど、まあ命が危なくなったんだな」
「なんか作戦あるの?」

「あるのかな。普通、ヒーローとかヒロインが登場する前に悪役というものも確かに存在する。役回りだな。映画でもそうだよ。でもある面から見たら悪いだけで、その当人の家族から見たら、そうでもないって場合もたくさんある。家では善いお父さん。家族思いのお父さん」

 ぼくは母が悪く言われたのを耳にしたことがある。噂というものには助走もない。すぐに猛スピードに達してしまう。だが、ぼくはこの事実を黙っている。だから、別の話題をもちださなければならない。

「ヒーローは活躍しないと」
「その前に、企みが膨らまないと話も盛り上がらない」
「どうなるの?」

「ある日、王様が眠れなくなった」
「王様でも眠れなくなることあるんだ? 悩みなんか、まったくないと思っていたのに」
「王冠をかぶる辛さも世の中には存在するんだよ」

「サイズが合わないから?」ぼくは冗談というのを自分の人生に敢えて取り入れようとした。この辺りで芽生えたのだから、自分は生まれ付いたときからそういう性分なのだろう。山形さんは腹の底から笑う。きれいな低い音で、ぼくは洞窟の奥から聞こえたかのような感じを受けた。しかし、よく考えればそれとも少し違っていた。井戸に石を落して跳ね返った音。それも違う。土管のなかで声一杯に叫ぶ音のようにも思えた。

「自分によくしてくれたひとにお返しをしないと、どこかで落ち着かなくなる。こころのなかの帳面の差し引きが釣り合っていないと大人とも呼べないな」山形さんはため息をつく。自分にもそういう忘れられない残高があるような顔をした。

「何か思い出すんだ?」
「そう。手柄があったひとがいたけど、プレゼントをし忘れていた」
「めでたしだ」

「だが、悪人は勘違いするものだ。自分の手柄だと思い込んで、自分がもらえると思ってしまった。欲張りだな。浅ましい。ついでに自分の作戦も暴かれてしまう。その役目に、美人のお姫様が登場する。あのひとは悪いひとですって!」
「勇気があるね」

「そうだな。真実を話すには勇気がいるんだな。知らない振りをするのも簡単だが、まじめで几帳面なひとは、王様のように眠れなくなってしまう」

 ぼくらは用を済ました。ぼくはわざとお世話になったひとに大声で、「ありがとう」と述べた。

「勧善懲悪とお見合いの話」と、山形さんは独り言をもらす。ぼくはその音を好きになる。もちろん、それが当てはまる漢字のことなどまったく知らないのだが。

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最後の火花 22

2015年02月03日 | 最後の火花
最後の火花 22

 自分の過去に通じる道は絶たれた。遅い早いの差があるだけで、ぼくはたまたま早かっただけだ。兄弟もいないので同じ源流の仲間もいない。学級委員という政治の真似事をしたが、彼らが学校の運営を全面的に任されたわけでもない。委任もなく、正直なことをいえば、ただの厄介事が増えただけだった。

 ぼくは知識を、もう又聞きという不完全な要素に頼ることはしなくなった。その代わりに本を読む。そのなかに書かれていることだって、当然、十割という完全なものに達する訳もないが、書かれたという事実が信頼感に近寄らせるものになった。

 幸福な統治。歴史のなかではローマの五賢帝という時代がもっともそばに寄ったと教えてくれる。版図を広げれば多民族になることも免れない。もちよる文化も美意識も違う。当然、言語も異なっている。それでも、大多数が幸福に暮らせるように計る。国や帝国は一代という短いスタンスで成功か否かは決められない。

 真実を知りたいと願いながらも正確であるかどうかは問わなくなる。その美点を点検して、美点になった理由を正当化させる。彼らは世襲というものを拒んだ。貴族の中から優秀なものを探して養子にする。その者が次の統治を依頼される。ぼくは安心する。理にかなったことなのだと安堵する。そういう正しさが、二千年も前に行われていたということに対して図書館で静かにガッツ・ポーズをする。ぼくはまだ高校生だっただろう。あの日が、ぼくの知識の希求のピークかもしれない。

 ぼくは自転車に乗って、口笛でも吹きたいなという衝動に駆られる。将来の安定した成功も未だなく、その道も敷かれてはいないが、こういう世界を誰かが想像させていたのなら、ぼくの小さな命のどうこうなどまったく関係なく、ここは限定されながらも素晴らしい世界なのだと思えた。ルイ・アームストロングがトランペットを吹き、ベーブ・ルースはホームランを打つ。そのどれもがぼくには単純に美しく感じられた。世界は善と美で満ちている。

 ぼくは過去を知ってよろこんでいた。だが、若者にとってその喜悦もどこかで不足だった。やはり、幸福の予感のようなものがなくては、一日も、一時間も、十分も生きられないのだ。ぼくに好意を寄せるひとがあらわれても、ぼくの失われた家族のことが耳に入れば、次第に離れることになった。こうしてぼくは過去に顔を埋める。埋没したなかに潜めば、ぼくは幸福でいられた。

 夕日がまぶしい部屋でラジオをつける。制服は買い換えられる時期も失っていた。あと数か月しか着ない予定だ。ぼくはどこか遠くで働くことを望んでいた。ただ一枚の布を器用に身体にまきつけ、過ごせるような暖かな場所で。幸福な統治とやわらかな管理の下で。

 ぼくの願望はある面では叶い、ある面では閉ざされた。それぞれの普通のひとの人生と等しく。ぼくはひとつだけを願っているわけではない。複数の支流をあてにして、流れやすいところにたどり着いた。結果として、普通の会社員になって、普通に女性と恋をする。相手は光子であった。彼女は歴史を振り返るようにぼくの過去を紐解くことをしなかった。いや、本当はしたのだ。そのぼくという本の間に小さな虫が挟まっていても大して気にしなかった。そのことをぼくはうれしく感じる。これも正確ではない。うれしいというのは通常より上回った状態なのだろう。ここでも安堵に近い。掘られ過ぎずに済んだということだけだった。水道管の亀裂に触れる寸前で止まる。

 ぼくには選挙権があって、意に沿わないながらも多少の納税をしている。完璧な世の中も統治も、少なくともぼくが生きている間は訪れないことを知っている。自分の子においしい思いをさせるのは否定されることではなく、真っ当なことなのだ。多少、利権として躊躇する場合があったとしても、暴かれない限り、親の優しさという心情に合致するのだ。その心理をぼくは理解できないだけなのだろう。

 ぼくの過去を知ったときのあの少女たちの驚いた、あるいは不安そうな顔をぼくは完全に払しょくすることはできない。ぼくは正面から受け止める。あれはそういう類いのできごとであり、みなが反応した感情は正常なことで、あのときのぼくもおそらくそうだったのだ。彼女たちはぼくから離れる。離れるだけでいい。ぼくはぼく自身から離れられない。突き返せない。母や山形さんの映像を抜きに暮らすこともできないのだ。

 完全な統治も組織もない。完全なる親子関係もない。だが、疑わずにぼくらは依存するしかない。ぼくはあの瞬間まで確かにふたりといて幸福だったのだ。幸福が充ちた空間で息を吸っていたのだ。

 笑顔が似合う黒人のトランペット奏者の音色はきょうも素敵な輝ける音を放っていた。その裏にどんなものが隠され、背景として似つかわしくないものに囲まれつづけていたのかどうかも判断できない。ぼくに残されたのはその音だけだった。これが手がかりとなる唯一のものとする。ボールを遠くに飛ばすということがファンを幸せにする。ぼくらはさまざまな薬を水といっしょに口に入れ、病気をいやした。同じ方法で、後日、ホームランも量産されるようになった。

 ぼくの中味は癒せない部分もある。洗って、すすいで、天日に干せればどんなに良いだろう。しかし、それはぼくではなくなるということで、手放すという簡単なアドバイスが悪魔のささやきにも似たものとして映る。

 ぼくは変えられて、変えられない。王様がチョコレートを一ダースもっているとしたら、確実に三つや四つはぼくも手に入れていた。握りしめすぎて溶かす恐れもあるほどに。

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