爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(85)

2012年12月31日 | Untrue Love
Untrue Love(85)

「三つ編みなんかしてなかったよ」いつみさんは思い出したように言った。「ずっと、短かったからね。長い娘が好き?」

 ぼくは考えあぐねた。どちらかといえば、嫌いであるらしかった。その対象をいつみさんだけに求めず、参考の具体例として、ユミと木下さんのことも念頭にあった。木下さんは長めである。ユミといつみさんは反対に短かった。だが、その長短だけを基準として持ち出して、好悪の判断をくだすのは無意味だった。それ以外の部分ももちろん多く占めている。でも、やはり髪型で印象は変わった。どこで結わいたり、分け目をかえるだけでも、随分と感じや印象はかわるものだ。

「短い方が、そのひとのありのままが分かりやすくて、良さそうです」
「ふうん、変わってるね。普通、長い髪に憧れるのかと思っていたから」
「だったら、ローマの休日なんていまになって誰も見ないですよ」
「あれは、女性が好きなんだよ。おとぎ話。好き?」
「そう言われると、そうでもない」

「やっぱり」いつみさんは快活に笑う。その声を聴きたくて、ぼくはたくさん笑わせたいと思うが、未熟でもあった。その能力が自分には大してないのかもしれない。だが、澄ましている顔も素敵だった。いつもは、店のなかでいろいろと気を配り張り詰めた状態だって多くあるのだ。こういうときぐらい、そっとした幸せに浸かっていてほしいともぼくは願っていた。

 ぼくは短い髪型が似合う女性が登場する映画を並べはじめた。交互にいつみさんも語り、その話題に参戦する。ぼくはゴダールの勝手にしやがれを真っ先に思い出す。それはユミの存在とどこかで似ていた。町を練り歩く女性。広告塔のように。目印になって。

「愛の嵐って、知ってる?」
「さあ」ぼくは近所のビデオ店の陳列棚の様子を頭に思い浮かべたが、その情報は出てこなかった。
「デートで見に行って、ふたりで気まずい思いをして出てきた。何で、あいつは、あんなの選んだんだろう」いつみさんは当時の困惑さを取り戻したような顔をした。「予備知識もないまま、はいってふたりで画面を眺めている。でも、わたしの思い出って、どれも、うまくいかなかったことばかりに溢れていると思わない?」

「そうですよね。高校生の彼はアイドルみたいに可愛い子と歩いている。それを発見して陰にかくれて見つからないように隠れる。気まずい映画をふたりで見る」
「順平くんは、ないの? 失敗した過去の記憶とか」
「さあ、普通にふられたぐらいですから」
「恨んでる? ふった子に対してだけど」

「恨むもなにも、そんなに執着していなかったのかもしれません。いまになって考えれば。寝ても覚めても彼女のことを考えていたわけでもない。でも、さすがにショックは受けますよね。拒否された側としては」
「もう、誰も好きにならないと誓ったとか?」
「普通に好きになってますよ」ぼくの口は自然とそう言った。それは誰のことを指しているのだろう。誰らのことなのだろう。
「誰を?」いつみさんは、だが、確かにわたしのことだよね、という同意を求める表情をしていた。
「いつみさんのことも」
「はい、減点。も、ってなんだよ」
「言ってないですよ」
「言ったよ。バカだな」いつみさんの指はぼくの手の甲を軽くつねる。「でも、これで許してあげるよ。ありがとう」

 ぼくは告げてしまった事実に当惑し、それでもそこには喜びも多くの分量を占有していた。だが焦りもあり、ふさがれた道にむかって突っ走る恐怖もあった。その道の前方で固く閉じられた扉を蹴って開け放つ方法も知らず、壁を乗り越える度胸も覚悟もなかった。ただ、この一日のこの夕暮れにはこの言葉が必要なのだという役割を守っただけなのかもしれない。だが、動かない事実として、いつみさんのことは好きだった。それがどのぐらいの重みを自分に与えているのか、当事者の自分には計りかねた。過去を振り返り、その重さに馴れたころか、その重さを失ったときにしか分からないような気もしていた。進行形の愛は、はっきりとせず不確かなものとしか認定されないようだった。

「わたしも、順平くんのことが好きだよ。年上で、世間も知ってて、迷惑かもしれないけどね」
「迷惑なんて、感じるわけないじゃないですか」
「そう。なら、いいけど」

 ぼくは夜に流れ込む時間だけを大切にしようとしているのかもしれなかった。ただ、夜のいつみさんのすべてを求めたかっただけで、その願望が自分のさっきの言葉につながったのだと思いたかった。そこには責任もなく、長期的な展望もなかった。犬が明日の食事のことを考え、今日の食欲を抑えたりしないように。

「日も暮れていきますね」
「寝ても、覚めても、誰かのことを愛するのが苦手で、不得手な男の子がとなりにいると。夕暮れに」
「するかもしれませんよ」ぼくは実際にそのような状態でいつみさんのことを思い巡らしたことも確かにある。
「そういうことを期待するには、いささか失望を味わいすぎたかもしれないよ、わたし」
「大丈夫ですよ、これから、三つ編みにでもすれば」

 いつみさんは豪快に笑った。なにもない土手でその声が響き渡った。
「変なひとがいると有名になる。飲み屋の三つ編みにしたおばさんがあそこにいるって・・・」

 ぼくも笑う。
「いいじゃないですか、名物になって」
「本気で言ってるのか?」と少し立腹したような顔をしたが、いつみさんも直ぐに笑顔を浮かべなおした。
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Untrue Love(84)

2012年12月30日 | Untrue Love
Untrue Love(84)

「ここで、キヨシの野球をしている姿を見てたんだ」

 ぼくは、いつみさんとある土手にいる。川面は穏やかだった。彼女はいまでもその姿が見えるかのように、一心にその方面に視線を向けていた。でも、そこには走り回る犬が一匹いるだけだった。その背中には「開放感」という文字がゼッケンのように貼られているみたいに感じられた。

 ぼくにも開放感があった。土手の空気は新鮮で、いつみさんの過去と同調し、チューニングがきちんと合ったラジオのように、ぼくは音声をきちんと受け取る。彼女の過去のある日、ここに座り、弟の活躍に声援を通して後押しする。そこには家族という媒体がしっかりと営まれている証拠があった。だが、彼らの父は早いうちにいなくなった。それだからこそ、残されたもの同士の連帯は強まったとも言えるのかもしれない。そのうちの母もいない。彼らはその母の遺産でもある店をふたりで切り盛りしていた。

「ここで、デートらしきものも、はじめてした」

 ぼくらは座っていた。ぼくは姿勢を変え、彼女の横顔をみる。
「そうなんだ」ぼくが今度は、彼女のそのときの立体像を作り上げなければいけない。「何才ぐらいですか?」
「何だよ。急にくいついて。わたしにも、それぐらいの若き思い出があるんだよ」照れたようにわざと強い口調で言った。
「髪を三つ編みにした少女だったりしてね」
「でも、なんで、あんなにドキドキしたんだろうね」何才という数値も、当時の髪型の答えも得られなかった。だが、その情報はなくても、およそ範囲は狭められる話題なのだ。「心臓が動悸の早さで壊れるかと思った。初々しいね」

「なに、してたんですか?」
「なにもしないよ。ただ、歩いて、他人のうわさ話をしたりとか、テレビのアイドルのことを誉めたりけなしたりとか。彼の好きなアイドルはわたしに全然、似てなくて、ちょっとさびしいなとか」
「可愛いですね」
「そう? でもね、あのあどけない女の子はいったい、どこに消えたんだろうかね? 教えて欲しいよ」
「いまでも、いるんじゃないんですか。内部には」
「いないよ。ただのすれっからし。ドキドキもしないしね。いまはちょっとしてるか。そう言わないと悪いよな」

 ぼくらは笑う。犬はまだまだ走り回っていた。それが仕事なのだろう。老眼鏡をかけて、新聞をすみずみまで読むことなど、彼らに権利として与えられていない。足が棒になるまで、走り回る。靴も傷まない。ぼくは、また木下さんの足元も思い出していた。

「それから、どうなったんですか?」
「別々の高校に行って、終わり。そうだ、一度、駅で会った。会ってないな、見かけた。だって、わたし、逃げたから」
「どうして、逃げることになったんですか?」
「バカだな。女の子といたからだよ、そいつが。そう言って思いだしたけど、横にいた女の子は、あのアイドルに似てたんだな。だから、わたしと正反対。どうして、ここで、わたしはあのひととデートしたんだろうね」彼女の顔に苦笑いのようなものが浮かんでいた。

「若いときなんて、好みなんかがはっきりと作り上げられていないもんですよ。いわば、自分の気持ちですら、お試し期間」ぼくも同じ頃に好きになった女性のことを何人か浮かべた。そこには、まとまりもなく、目的も聞かされていないで集められたバラバラのひとたちで埋まっていた。「お試し期間が過ぎて、自分の好みを自分自身が認識するようになるんだから」
「じゃあ、順平くんも、分類できたんだ、もう?」

 ぼくに即答を促す気持ちが内部の衝動としてあったが、実際の返事は簡単にでてこなかった。ぼくは、まだ数人の女性の間で揺れていた。自分の仮説は完全にくつがえされ、嘘が露呈する。ぼくは、また目の前の芝生に目を向け、犬が咥えている何かの物体に答えを見出そうとしていた。

「いつみさんは?」
「女なんか、最終的には受身だよ。店と同じ。はじめて来てくれたひとが、常連客になり、そのなかから選ぶ。転勤とかで、どっかに移ったら、また終わり」
「好きって言わない?」
「言わなくても分かるよ。顔にも書いてある。余程、鈍感な人間でもなければ。それか、自分の表情を隠す訓練でもしてなければ」

 ぼくは自然と自分の顔を触った。もちろん、そこに文字などない。剃り残したひげがあり、脂っぽさがあるだけだった。また、目を芝生に向ける。犬の身体には喜びというものが体現されていた。喜びと開放感。それがずっと続くことを願っている。しかし、その脳に明日という観念があるのかも分からない。明日、おいしいものを食べて、好きと言ってしまったことによる波及と責任感に充たされ、同時に苦しむ。やはり、その具体的な状況を予測する脳を持ち合わせているようには思えなかった。ただ、走る。ぼくも、この場が楽しいとも感じていたが、息苦しさもあった。逃げ出すということは、その対象を失うという実態につながった。失うべき階段をゆるやかに進むという方が近いのかもしれない。

「そうなんでしょうかね」と、ぼくは呟き、自分の発言の意図が分からないまま、緊張感の張り詰めをごまかした。
「書いてあるよ。顔に」いつみさんは、それだけをぼそっと言った。ぼくは返答をしなかった。「何が、どんなことが?」と、訊けばよかった。決然とするということはいまだに難しいことだと知った。
「駅で、逃げて、その後、どうしたんですか?」
「わたしには見せない笑い方をしてるなと思って、少し、悔しかった。でも、直ぐに忘れた。わたしにも好きなひとがいたからね。もう、彼じゃないことがはっきりとしたから」

 犬はいなくなっていた。野球少年もいない。いまと同じ言葉を、いつみさんはぼくに対しても放つのだろうかと心配になった。それは、とても淋しい未来の状態だとも思っていた。
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Untrue Love(83)

2012年12月29日 | Untrue Love
Untrue Love(83)

 ユミの指を触って、持ち上げ、眺めていた。ぼくらは午前のもう早くもない時間だが寝転がっていた。彼女はまだ夢のなかにいるのか、こちらにいるのかも分からない状態だった。その指は、たくさんの髪の毛を洗った。その割りには肌はなめらかだった。「この前、小さな子に、なぜだかスペイン人と言われた」と、昨夜、ふとしたときにユミは言った。その子どもが、どこでスペイン人という概念をつかんだのか分からない。テレビでも見たのか、それとも、コロンブスでも学校で教えてもらったのだろうか。その特徴を、ユミの顔に当てはめたのだろう。その鼻梁は眠っていたとしても変わらない。ぼくは鼻先を触る。彼女の腕は虫でも振り払うように自然と動いた。

 それから数分して目が開いた。「起きてたの?」と、少ししわがれた声で聞いた。彼女の目は動き壁にある時計を見た。「こんな時間なんだ」とも言った。ぼくは彼女がぼくの家のなかの配置を覚えてしまっていることに驚いていた。目を開けて、直ぐに記憶は活動しないはずだ。それでも、壁のどこに時計が置かれているか知っている。ぼくは、逆に彼女の指も鼻の形も知らない気がしていた。「スペイン人」と言った子どもの方がユミの全体像を理解しているようにも思えた。だが、それは外見の一部でもあり、内面や、それよりもっと濃密な部分もぼくは知っていた。しかし、昨日の彼女は、もう完全に入れ替わり、滅亡したのだ。彼女の新たな再スタートの一日がはじまるのだ。と、無意味にぼくは考えていた。

「シャワー、借りてもいい? そうだ、あの蛇口、直った?」とも重ねて訊いた。部屋の問題も知っている。
「ちょっと小物を買って来て、この前、直したから大丈夫だよ」
「器用だね」

 不動産屋に電話をして直してもらっても良かったが、そこまで手筈をかけるのも面倒だった。それで、自分でちょっといじくった。そこから湯が流れる音がした。彼女の指は自分の髪を洗う。それは当然といえば当然の作業だ。眠っていた彼女はもういない。ぼくはベッドのなかでその残像を探ろうとした。八時間近くもぼくらはそれぞれの世界にいる。夢のなかにまで入ることはできない。身体は密着していてもそれは不可能だ。そして、さらにいつもは別々に時間を過ごしている。その合間にぼくはユミのことを考える。考えるときもある。別の女性が脳を覆うこともある。それも、量というか分量では多くある。しかし、ぼくは、実際の身体は湯を浴びているはずなのに、さっきまでいたその身体を思い出していた。指先。伸びていない爪。その形状。鼻。空気を吸うかすかな音。無防備でありすぎる人体。受容し、拒絶する柔らかな身体。ある日、それは生命の最初の状態のものを受け入れるのだ。それから一年未満で、新たな小さなコピーが生まれる。それでも、それは完全なるコピーではない。ユミの遠縁にあたる誰かに似ているかもしれず、ぼくのおじさんあたりの誰かとそっくりなのかもしれない。ぼくは田舎で会ったおじさんの様子を思い出していた。母はそのひととぼくの性格が似ていると言った。そのときに会った咲子の姿も相変わらず、ぼくのまぶたの裏にあった。あの子は大きくなることを拒絶しているようでもあった。だが、大人になるのも待ち切れないようでもあるかもしれなかった。結局、大学生になりぼくの前に再度あらわれた。早間はぼくがユミの鼻や指を確認したように、彼女の一部を知って愛しているのだろうかと考えた。だが、あの土手にいた咲子のことは誰も知らないのだ。当然、ぼくもユミや木下さんのむかしの日の姿を見ることはできない。写真でならできる。木下さんは雪のなかで暖かそうな赤い上着を着て、恥ずかしそうに写真にうつっていた。そのあどけなさをぼくは傍らで見て成長することも可能だったのだと思おうとした。だが、できない。場所も年齢自体もぼくらは限定された場所でしか成長できない。成長した姿はどうだろうと想像することもできない。その役目は親や近所のひとのみに与えられている。

「直ってた。お湯が気持ちよくぶつかった。肌に」

 ユミは成長した姿をぼくの前にあらわす。もう、胸の平らな少女ではない。唇もさまざまな表情を見せる。色も気分によって塗りかえられる。しかし、いまは石鹸で洗われたままの顔だった。それも、ぼくは知っている。あの町で、美容院のチラシを配っていた彼女の顔ではない。信頼に足るひとにしか見せない顔だった。それは、いつか変わる。これも今日に限定された美だった。

「スペイン人」
「どうしたの?」
「その子は、どこでスペイン人というタイプを教えてもらったのかなって」

「アメリカ人ならコーラを持って、ハンバーガーを食べてるよね。そう言ったら、食べたくなった。化粧するから待ってて」
 その途中経過をぼくは知っている。器用に指は彼女の顔の表面をなぞる。ぼくは時間を持て余し、あらゆる国のひとびとの特徴をコント化した。それは無節操な結果を招く。着物を着て、脇に刀を差した自分がいた。ユミにはカルメンみたいなドレスをイメージ上で着せた。そこには一途に愛情を求める男性が横にいるはずだった。いるべきだった。ぼくにはその一途さを敬遠し、遠ざけて置こうという策略までがあるようだった。だが、鏡を見ながら完成に近付くユミの顔を見ると、その信念もいささか揺らいだ。留まる決意もどこかにあるようだったのだが。
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Untrue Love(82)

2012年12月24日 | Untrue Love
Untrue Love(82)

 ぼくは座席にいる。座り心地の良いソファーだった。古い映画を見るために入る名画座の通過儀礼のような固いスプリングではなかった。そして、となりには久代さんがいた。飲み物のカップもふたつあった。

 時間はあっという間に過ぎる。久代さんは小さな声で、「あ」と言って驚いたり、また小さなうめきのようなもので悲しみを表現した。いや、悲しみの表現に賛同した。ぼくらは、同じ時間に同じことをしている。それを、いつか別々のタイミングで思い出すのだろう。それを相手に問いたずね、同じ共有した時間を取り戻す。

 ぼくは外を歩いている。こころはいくらか浮き足立っている。そして、となりには久代さんがいた。彼女は目的の洋服屋さんに向かっている。その道を前に、ぼくはユミと共に歩いたことを思い出している。思い出すという表現も妥当ではない。なぞっているとも言えたし、愛用の茶碗やコーヒーカップをいつものように取り出しているとも言えた。追体験でもない。ただの模倣に近いのかもしれない。だが、そこにはやはり新鮮味が加わる。物事が成熟するとか、もっとすすんで腐敗するということは、それでも考えられない。考えられないぐらいにぼくは若く、もっと端的にいえば未熟でもあった。

 彼女は、洋服が並んでいるバーのハンガーを左右にずらし、服を前に当てたり、鏡にむかって身体を左右に振ったりした。普段は、彼女はそれをお客さんにすすめる立場にいた。いまは、反対だ。その状態を楽しんでいる様子が傍目にも分かった。

 しかし、彼女の注目は次第に変わる。いや、元にもどっただけなのかもしれない。彼女は床にきちんと展示されている靴を熱心に眺めている。眺めているだけでは当然のこと物足りず、それに触れる。素材の違いみたいなものを手の上で確かめている。その後は、椅子にすわり、自分の靴を脱ぎ、新しいものに足を入れた。それから、また立ち上がり、かかとを床の柔らかな布の上で踏み鳴らす。さらに、くるっと身体を回転させ、また鏡のなかをのぞく。

 満足した様子だった。それを店員は一時、預かった。また、服が陳列されている場所に戻り、緑色を基調にした洋服を手に取り、試着室に消えた。ぼくは、その頃には飽き始め、外でぼんやりと町行くひとを見ていた。何かの配達のため、急ぎ足で台車を押し搬入しようとしているひとがいた。それはぼくが普段、見慣れている光景だった。それゆえ、その作業の効率の良さに見惚れていた。どこにでも、美学を見出そうと思えば、それは可能なのだという単純な真理のようなものを見つける。

 しばらくすると、久代さんは出てきた。荷物が増えている。二つの角張った袋。大きなものと小さなもの。大きなものは衣類で、小さな方はきっと靴だろう。
「持ちますよ」と、ぼくは手を久代さんに向かって差し出す。
「優しいのね。じゃあ、こっちだけ」彼女は大きな方の取っ手をぼくの手の平に乗せた。靴であろうものは大事に自分で握り締めていた。
「軽いですね」
「そう」久代さんは今日のいちばんの笑顔をする。「順平くんも毎日、身体を動かしているからどんな洋服でも似合うでしょう?」
「サイズ的なものはそうですけど」ぼくはいくらか思案するような顔をわざと作った。「でも、洋服って、最終的には色じゃないですか?」

「そういうもんかな」彼女もその言葉を反芻するような表情をした。「でも、靴はデザインだと思うよ」
 ぼくは、いま履いている彼女の靴を見た。確かに造型が変わっている。そして、自分の足元を見た。デザインはありふれたスニーカーだ。ただ、色の交錯とブランドを示す企業のロゴのマークが違うだけのようでもあった。

「ねえ、お腹空いたでしょう?」快活に久代さんが言う。「この辺で素敵なお店を見つけてあるんだ。そこにしていい?」
「もちろんですよ」ぼくは、まだユミと歩いたことのある地点にいた。人間同士が偶然に出くわす可能性のことを考えてしまうことになった。だが現在、彼女は働いている。それでも、以前にいっしょに入った店にでも行けば、どこかでぼくらのことを見知っているひとがいるかもしれない。ぼくは、何も隠すこともないはずだが、すべてを開けっ広げにする度胸も豪快さもなかった。その場しのぎの幸福の獲得だけを目指していた。いまの食欲を満たすだけに甘んじる愚鈍な動物たちと何も変わらないようだった。哲学もなければ、きっちりとした行動の抑制の姿もなかった。

 だが、食事はおいしい。そして、目の前には久代さんがいた。片手にナイフがあり、もう一方にフォークがあった。両手を有して食材を切り分け口にもっていくという過程が自然と行われている。それは、ある種の不自然さを伴うはずのものであったが、人間が生み出した、これも美の抑制のような感じがした。彼女は話し、ときどき笑う。ぼくの話を世界の神話が語られているかのように無心に聞き、さらに促す言葉を告げた。

 楽しい時間は早く過ぎてしまう。同じ時間帯のバイトではあまりにも長く感じられていたはずなのに。それで、夕方と夜の間の時間をぼくらはまるで恋人同士のように街中を歩き、荷物を久代さんの家まで運んだ。ただ受取りの証拠にサインをもらって帰るだけの立場じゃないことに感謝して、ぼくは彼女の部屋にいる。もちろん、久代さんは横にいる。
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Untrue Love(81)

2012年12月23日 | Untrue Love
Untrue Love(81)

 たまに地球には流れ星や、流星群が訪れ、太陽が日中に隠れたり、普段とは違う薄暗さで日常に変化を与えてくれた。それが、どのぐらいの頻度の確立で起こるのかは分からなかった。実際に研究をしているひとは未来のある一日のことを的確に指すことができるらしい。それは予言ですらない。電車やバスの運行表のような類いのものであった。

 ぼくはバイトをしている。大学に受かるよう勉強していた時期とは、もう別人になってしまったようだ。一日の密度も違う。どちらが濃かったかは分からない。また、比べるようなものではないのかもしれない。だが、あの机にかじりついていたときに、もう、ぼくの未来は定まっていたのだろうか。木下久代さんの横顔を見ながら、そう思っていた。時間の余裕ができ、ぼくのこころはきっと誰かを好きになるのだろうと漠然と感じていた。春のはじまり。ぼくは大学にいる人々にその対象を求めてもよかったのだ。それが一般的なことだった。その頃に早間と会った。親しくなる共通のものなど、ぼくらの間にはなかったようにも思える。直ぐに早間の横には紗枝がいるようになった。紗枝は友だちを紹介したいと何度も言った。ぼくは、それを喜びもしなければ、積極的にすすめてもらうこともしなかった。ただ、うやむやな状態を保った。ぼくは誰かと出会うことになるのだが、なぜだか、そういう方法を陳腐だと決め付けていた。あらかじめぼくの情報がそのひとに伝わり、その女性の美点や愛らしさも誇張されてぼくに話されるのだ。その現実との差を、ぼくらは埋める努力からはじめて、結局は求めていたものと違うということになりそうだった。もっと、ぼくは暴風雨にでも突然に巻き込まれるようなものを望んでいた。止むに止まれぬ衝動との戦いや葛藤。だが、それは受験勉強に励んでいたぼくが机上で作り上げた逃げ場としての幻想のようでもあった。そんな運命的な出会いは、確立としてあり得ないのだ。

 スタートが幸先良く転ぼうが、継続の方に重きを置くほうがまっとうだった。だから、スタートなどは本当のところどうでもよいのかもしれない。だが、いつみさんはぼくと会った最初の日に新しい椅子が店先に置かれているのを見て困惑していた。あの表情はぼくのこころにきちんと仕舞われていた。ユミは、街頭にいた。画家でもあれば、ミューズとしてあの姿をキャンバスに刻印できた。ぼくのこころは同じような作業の過程を経験していた。ただ、それが外部に形となってあらわれないだけだ。しかし、その差が大きいものなのだろう。でも、できないからといって、ぼくのこころのなかに生きているものも誰も奪えない。在ることすら知らないのだから当然でもあったが。

 ぼくはその日の帰りに木下さんに呼ばれて今度の休日にでもと、映画に誘われた。その後に洋服のセールがあるのでそこにも寄りたいと言った。体よく荷物を運ばされる役目のようでもあった。ぼくは、でもその誘いを簡単に断ることができない。まったくの反対で、どのようなお願いでも嬉しかった。彼女の部屋の模様替えを手伝い、さまざまな小さな日常の一齣にぼくは紛れ込んだ。タンスや家具はそのことを覚えていないかもしれない。逆なのだろうか。木下さんはいつかその部屋の内部を忘れる。家具たちはぼくの手の平の温もりを覚えている。大事に扱ってくれたというような記憶として。

 ぼくはそれは木下さんが大事だったからそうしただけなのだ。彼女が喜んでくれそうなことは何でもしたかった。だが、それに費やす暇もお金も有り余っているわけでもなかった。できることは限られていた。だから、少なくともぼくは荷物を運ぶのだろう。

 ぼくは自分を喜ばすためだけに高校時代に勉強をしていたように思えて来た。その副作用の受け手として、両親や学校の先生がいた。しかし、念頭にあるのは自分への喝采の期待だけだった。だが、喝采という印象自体が誰かがぼくに賛辞を向けるのを連想させる言葉のようでもあった。だが、ぼくは、いまでは久代さんの喜ぶ顔が見たいとも思っていた。そして、副作用としてぼくが嬉しくなる。これも、この何年間かで変わった気持ちのありようだった。

 ぼくはバイトが終わりいつもの電車のなかにいた。珍しく座れ、ぼくは目をつぶった。ある日の早間と紗枝がいる。ぼくに紹介する誰かのうわさをしている。性格が垣間見られるエピソードが挿入され、その激しい感情が分かる。彼らは今度はぼくがそこにいないかのように、ぼくのうわさをはじめる。それを客観的にきいている。数年しか知らない人間を遠い昔から知っているような口振りだった。おとぎ話の主人公のような設定があり、一種類の性格がそのひとを動かしている。たじろがない性格。何かの大きなアクシデントがあっても、その性質は揺るがないようでもあった。ぼくは、食堂で昼食のメニューにも迷っていた。だが、彼らが話すぼくは、一本筋が通っているようにも思えた。

 駅に着く。階段を降りる。そのときの紗枝の友人はいまごろ愛すべき対象をきっと見つけているのだろう。星や惑星の運行のように誰かが定めたり、調べたりはしてくれはしないだろうが、それでも価値があり、貴いものだとぼくは思おうとした。しかし、それ以上に考えを深めてくれるにはあまりにも情報が少なすぎたし、結局のところ、知らないということが結論として相応しかった。
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Untrue Love(80)

2012年12月22日 | Untrue Love
Untrue Love(80)

「これ、お土産だから」

 咲子がきちんと電話をしてきて、ぼくが在宅であることを確認してやってきた。ぼくは適度に掃除をして、窓を開け放って空気を入れ換えていた。

「どこかに行ったの? 誰と」
「雄太郎君と。早間君の車で」ぼくは、そういう具体的な状況の進行を示す証拠を提示されるとは、なぜだか思いつきもしなかった。そして、そのことについてあまり関心のない様子も不思議とだか装っていた。

「そうなんだ。楽しかった?」と、馬鹿げた質問をした。彼女の放つ快活な表情を見れば、それは分かりそうなものだった。家でコーヒーを飲み、少しだけ話し込んだ後、彼女は帰っていった。ぼくは送りもしない。

 それで、ひとりで考え事をしていた。女性とどこかに出向くということはあったが、泊り掛けということはぼくにはできなかった。それはひとりに特定しないという意気地のなさのあらわれでもあるが、またそうした結果による「アリバイ」や、痕跡がのこることを極度に恐れていた。「どこに行ってたの? 誰と? いつ?」と、さっき、ぼくが自然と口についたセリフをぼくは投げかけられるのだ。即答にこまり、しどろもどろになり、自分のこころが窮屈になる。作りたくない嘘も自然に生まれ、それを正当化させようとみじめな状態におちいる。だから、結果として旅行もしないし、写真などの過去を振り返る素材がのこっていることも、ましてやあり得ない状態だった。

 なぜ、ぼくは言い訳をあらかじめたくさん見つけようとしているのだろう。喧嘩が起こってももちろん良いのだし、そこでぶつかって絶縁になっても、若さの特権であるのだから構わない。ぼくは、それも恐れている。真に深まった関係を求めないことが、ぼくの成長を妨げているようだった。そして、自分中心で相変わらず考えていた。会えなくなるという存在ができる。早間は紗枝と会っていない。いや、大学にいれば、すれ違うことぐらいはあるだろう。でも、それは会うに等しいことなのか。待ち合わせをして、期待をふくらませ、それなりに洋服や見栄えにも努力して、誰かと会う。会うということは、そこまでの高みが求められているようだった。ぼくは、何人かと会えなくなるということを想像した。彼女らの未来の変化の度合いを知らなくなる。髪型を変え、服装や爪の色が変わる。しかし、話し方や、アクセントや些細なクセなどは変わらないものだろう。声や、笑い方。深いところでの性質。そう考えると、変化というものは起こりえないものにも思えた。だから、絶えず会うということはなくても良い感じもした。日に日に変化などないのだ。ぼくは、彼女らの明日を知らない。だが、あさってぐらいは知っている。数年後には、名前も思い出さないかもしれない。いや、決して忘れ去ることもできないのかもしれない。それは、ぼくの未来が決めることであり、きょうのぼくは無関心でもあった。でも、きょうのぼくの選択が未来のある一日を作り、それが幸福なものになるのか、不幸が不意に訪れるのか決定するかもしれなかった。

 紗枝はいまでも早間のことを慕っているのだろうか。咲子もいつか早間のことを思い出すことがあるのだろうか。ぼくはなぜかふたりが別れることを前提にしているようだった。早間の性質からすれば、いつか目移りする。そうして否定的に考えている自分も目移りをしていた。こころの部屋にいくつかを設け、それぞれの女性を住まわせていた。ハンバーグの日。納豆の日。焼きそばの日。好みによって入る店が違う。ユミの大らかさ。いつみさんの度胸にも似た自然さ。木下さんの涼しげな容貌と繊細さ。ぼくは、それでもアリバイを残していないつもりでいた。こんなにも証拠がたくさんあるのに。

 考えることにも飽き、古びたスニーカーを履き、外に出た。陽光がまぶしく、土手にいると川面の反射が目にしみた。川の向こうに三人の世界があり、ぼくはひとりで小さな船を漕いでいる自分を想像した。どこかの岸にたどり着かなければならない。だが、上流からの勢いにも負け、潮の干満の影響にもより、ぼくの意図ははずれてしまう。それが運命とも呼べそうだった。目の前にぼくと同年齢ぐらいの男女が座っていて、背中が見えた。こころもち寄り添っている。彼はどのように彼女を選んだのだろう。その女性は、彼の良さの発見を毎日くりかえしているのだろうか、と考えてもみた。名もない存在であるからこそ客観的でいられた。ぼくは、ユミのことも知っていて、それはいくらかという範囲ではなくそれ以上だった。いつみさんのことも好きという軽いものではなかった。もっと、しっかりとした錨のようなものをぼくのこころに降ろしていた。木下さんと彼女が育った町でふたりで暮らすことも想像力があるので考えられた。それはぼくに起こりえる最上級に相応しい未来の美の到来だった。その予告や想像を終わらせてはならない。また、終わらせてしまえば、ぼくという存在は無に帰してしまうようだった。

 ぼくは立ち上がりお尻についた小さな砂利を払う。そのひとつひとつが自分の過去なのだと考えてみた。それは使い切れなかった鉛筆のようでもあり、古びたランドセルでもあるようだった。ぼくは、それを悔いることなどなく、手放してきたのだ。なぜ、人間関係が終わることに哀愁がともなうのだろう。それは、こころの流れが両面にあり、ある種の化学的な変化がそこに生まれたためだろう。ぼくは、もう一度、若い男女の背中を見る。咲子もああしたことをしているのだろうか。また、やはりアリバイと表現するには酷過ぎる思い出の美しい場面だった。
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Untrue Love(79)

2012年12月16日 | Untrue Love
Untrue Love(79)

 昨日と今日の境界線のなかの電車にいる。今日も昨日も大して変わりはないだろう。大幅な変更などが求められていないという事実を幸福だと認定することは容易ではない時期だった。それは、退屈という状態と等しいものだった。なるべくなら避けたかった。毎日の単調な繰り返し。同じ顔触れの連続。だが、座席にすわり、閑散とした車内にいると、変化などまったくないことに気付く。ただ、横に動いている電車。窓のそとの景色も暗くて分からない。目にも入ってこない。だから、ぼくは自分の生活の周辺をとりまく人々を想像することにした。

 先ずは、なぜだか咲子のことを思い出している。こちらでの生活も随分と長くなってきた。だが、当然、いままでいた地での思い出の方が圧倒的に多い。そして、大きい。その差を照らし合わせることによって、新たな生活の魅力と戸惑いが浮き彫りになっていくのだ。だが、戸惑いがあるものだとの先入観にぼくはどうして捉われているのだろう。彼女の口数の少なさがぼくの判断の決め手になる。途中経過が見えないことによって、戸惑っているものだと仮定する。仮定は簡単に覆されないので真実になる。その仮定はぼくの仮定で、彼女のことをそれほどぼくは知らない。このひとりでいる車内はどの生活にも加われず、かつ拒絶されてしまっているような印象を抱かせた。

 次は、早間だ。咲子を思い出すことによって、当然、同じ空想の袋のなかからむりやり引っ張り出される。彼のもつ優しさや強引さなど、咲子が教えてくれないので、ぼくには分からない。前の彼女である紗枝によって、伝えられたことを思い出していた。だが、それは古い情報だ。もう違った人間になっているのかもしれない。ぼくがいつみさんや木下さんと送った時間で内部に変化を起こしたように、早間もどこかで変わっているのかもしれない。しかし、彼が他のまわりの環境からそれほど影響を受けるとも思えなかった。どちらかといえば、影響を与えるほうに耐えずまわっていた。そういう人間がいるのだ。指針としての人間関係。町のなかのシンボルのような建物にも似た存在なのだろう。変化は許されない。だから、安心するともいえたし、そばに居つづければ退屈にも思えた。

 ならば、ぼくはどうだろう。シンボルではありえない。そのシンボルを定期的に巡回するような役目だった。懐中電灯を手にして、怪しいものがいないか点検し、確認する。その不可解なものは自分自身でもある。そうして、いつみさんと会い、木下さんに甘え、ユミとの時間を過ごした。ぼくは、いまさっきまで誰と会っていたのか瞬間だが忘れた。ぼくは暗闇に潜む人影らしき姿をビルの狭い隙間に発見する。その不審な背中を自分で追う。必死になってつかえることができた。逃げ足は意外と遅かった。他人だと思っていたのが覆面を剥ぐと、自分の顔であることに驚愕する。それも嘘だ。あらかじめ自分だと認識して追ったのだ。倒されたぼくは、涙声で侘びを述べ、許しを乞おうとする。だが、その許しを与えるのはぼくではない。ぼくは気付かないフリをして、そっと彼を立たせ、地面に押し付けられた際にくっ付いた背中の塵や汚れを手の平ではらってやることまでする。「今度は、つかまるんじゃないぞ」と、小声で、ぼく自身の分身に言葉を投げかける。

 家の数駅前まで着いた。乗客はまた減った。ぼくの空想もさらに発展する。

 ぼくは、つかまることがない。ここにいる限り。いまごろ、ユミはなにをしているのだろう。ぼくと過ごしたこの一日を湯船に浸かり、楽な姿勢で寝そべりながら考えているのかもしれない。また、もうすでに夢のなかにいて、そこで会うぼくは、もっとデフォルメされていて、魅力的な人格像を身につけているのかもしれない。だが、誰も知らない。ぼくのあるべき姿など、誰も知らないのだ。そして、ここに座っている限り、いまの状態はそんなにも悪いものではなかった。誰かにつながる電話もなく、ただ、無名のひととしてここにいるだけだ。ぼくの美点も悪い面もなにもなかった。

 木下さんは、疲れた目で本を読んでいる。それにも飽きて、また眠気をおぼえて、ベッドのなかに入ろうとしていた。いや、そこに座って読書をしていたのだ。頭のそばのライトを消して、ほんとうの眠りにいままさに入ろうとしている。心配も気がかりもない。ぼくは、そこにいて彼女の寝姿を見られたら、どんなにか幸福であろうと考えていた。

 いつみさんは、お金を計算して店を後にしようとしている。まだ、厨房ではキヨシさんが新しいレシピを試している。スプーンでスープを一口だけ舐め、満足して鍋をかきまわす。

「おやすみ」と言って、いつみさんは振り返ることもせず、背中を見せたままドアを閉める。街の空気は澱んでいる。天使にはなりえないひとたち。そして、その環境になじむことを求められているひとたち。だが、ぼくの日々を彩ってくれているという意味では、同じ役割が与えられているのだ。ぼくは、漠然ともっと大事にしようと思う。それは誰か個人を特定して大切に思おうとしている訳ではないようだった。そうすれば、自分の首が絞められ、苦しむことになる。利己的にもぼくはそれを避けたかった。だが、彼女たちを誰かが幸せにするということ自体も許せないようであった。でも、ぼくもしない。自分の幸福ということを大前提にする怠けた気持ちを凌駕させない気でいた。

 こうして、いろいろなことを天秤にかけ、結局はなにも決断しなければ、答えも与えていない。間もなく、駅に着く。ぼくは切符をさがした。そこに記載された駅名を見て、乗った場所を思い出し、ユミのことにつなげた。でも、それだけだった。
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Untrue Love(78)

2012年12月15日 | Untrue Love
Untrue Love(78)

 薄暗くなったぼくらの頭上の空に飛行機が颯爽と飛んでいった。やはり、そこには自由という観念が伴っているようだった。ぼくはユミとともに地上に拘束されていた。彼女のいつもの突拍子もない言い回しも、この場面では無力に近いものだった。

 遠くでは観覧車の光の円があった。誰がそこに乗って回転の最中にいるのかは分からない。しかし、そこにも限られた自由しかないように思えた。頂上に近付けば近付くほど、いずれ下に戻るのだ。また、戻らないことには今後の生活もないわけだが。

 限定されたなかにいるひとたち。ぼくとユミの一日にも終わりがある。夜にも自分らの持ち分がある。朝に、いずれ主権を譲らなければならない。また、いつか、近いうちにいつか取り戻すときまで。

 ぼくの学生という時間にも終わりがくるのだ。檻のなかにいる動物。ゲージのなかで動き回る犬のように、突き当たる場面が設定されている。向う側に行きたければ、なにかを手放す必要がある。自分で餌を探し、敵と立ち向かう。ぼくは首が痛くなるほど上空を見上げ、飛行機のとぶ勢いを確認しながら、そう想像だか決意をしていた。いや、不決意でいることを望むのを決めた。

 ぼくの家ではじまった一日はユミの家で終わることになりそうだった。ぼくらは電車に乗る。適度に混んでいたが、ユミは座る席を見つけ、ぼくはその前に立っていた。彼女は、仕事柄、一日中ある場所で立ち、動き回っている。ぼくはそのときに固い椅子に座り、何かを教わっている。あくびも許容され、見つからない居眠りをする方法も覚えている。ユミには許されない。そうすれば、彼女の立場が危うくなる。そこに、ぼくらの大きな隔たりがあった。

 ユミの家に入った。ぼくらはビールの缶を開け、唇をよせる。大人という存在としての長い道のりにまだ入らない手前のぼくがいる。彼女の扉は開かれていた。その道のりを歩くための術を得ている。だが、ひとりで歩こうとしているのかは分からない。最初のうちは、何人かの併走することを望む候補者があらわれるはずだ。そのうちに、ぴったりとくるひとが見つかるかもしれない。ぼくはそれに立候補しているのだろうか。それとも、及び腰でいるのだろうか。唇はつながりながらも、ぼくのこころは遠くにあったのかもしれない。しかし、そんなにも冷静に、明晰に考えることも年齢的に不可能だった。そして、不可能なこと自体を喜んでもいた。

 ぼくは明日の早い用事のために、電車がある時間にユミの部屋をでた。そこから、駅までの道をもう覚えてしまっていた。ゴミが雑然と捨てられている場所は、きょうもその役目をまっとうしていた。さらにその日は、猫が破れた袋のはしをかじっていた。どこにも所属しない猫たち。ぼくは、自分のことを振り返る。自分の存在も立派でもなければ、高尚な問題や理念や方法で毎日を生活しているわけでもなかった。ユミの一部をかじり、同じようにいつみさんや木下さんのことも全部を受け止める覚悟もできていないまま、その全体像のなかの数パーセントをひとのお菓子の袋に手を突っ込むようにしてもらっていた。

「同輩だ」とぼくは、ひとりごとを言う。猫に半分は向かって口にしているのだから、ひとりごとには該当しないのかもしれない。しかし、ぼくは君らと違って、もっと魅力に溢れたもので煩悶して、悩んでいるのだ。いや、悩んでもいない。ただ、泳ぎ切れるとはじめた無心な気持ちは、湾ではなく、もう大海になってしまったという驚きを感じていたのだ。向こう岸は見えない。また、見たくもなかった。学生という立場が終われば、勝手に解決してくれるのだと、回答をどこかにゆだねた。ゆだねた以上、ぼくにもう心配はないのだと考えようとしていた。

 尊敬をしてもいなかった友人の早間は、しかし、きちんとひとつの関係を終わらせ、ひとつをはじめていたようだった。彼のことを悪く言う仲間も多く、ぼくにもそのうわさが近付いてきた。だが、ぼくのこの生活の一端を知れば、彼らの口を止める方法も見つかりはしないだろう。永続を目的とした関係をきっぱりと終わらせることに、その年代の女性たちは不満を募らせているようだった。その側から見れば、ぼくは及第点だ。何も終わらせようとはしていない。

 駅のホームで電車を待つ。誰も自分のことを知らない。知っているのは、このベンチに座っているぼくのこころだけだ。そのこころが罪悪感をぼくに浴びさせようとしている。それを閉ざすことができない。傍目から見たら、ぼくはどう映るのだろう。まじめに大学に通い、バイトも勤勉にする学生。愛想よく笑い、仲間や教えるひとたちからも受けがいい自分。それは決して崩れることはなく、なくなりはしないのだ。でも、ぼくはどれかを失う立場にもいる。

 ぼくは、電車を待つことを止め、ユミのもとに帰ることを考えていた。彼女は喜ぶだろうか、それとも、予定が狂ったといって迷惑がるだろうか。彼女は、もう寝てしまったのか。爪でも切っているのか。シャワーをもう一度、浴びているのだろうか。だが、ぼくには想像することしか所有を許されていないようだった。それ以上、一歩踏み込むには責任が覆いかぶさって来そうで、恐かった。

 関係ないことを考えることにした。咲子の耳に早間のうわさは入ってくるのだろうか。彼女は、その真意を知り、受け入れ、拒絶する。でも、どれもぼくの問題ではない。

 電車がホームに入ってきた。これに乗り込むことだけが当面のぼくの問題だった。酔ったひとが身体を揺らしながら突然に降りてくるのを寸前でかわし、ベルが鳴り響くなかぼくは車内に乗り込んだ。
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Untrue Love(77)

2012年12月09日 | Untrue Love
Untrue Love(77)

 意図したわけではなかったが、何気なくのろのろと歩いていたら、河口付近までたどり着いた。海につながるという感覚ではなく、生活排水の集積場とでも呼べそうなところだった。それでも、気分は不思議と爽快になった。完璧な美など求められる場所にはいない。でも、ここから離れられないという足枷にも似た気持ちをもった。だが、それは勝手に自分を不自由な場所に押し込んでいるだけであり、逃げたければ、逃げればいいのだ。すべてを投げ出し、大事なものを見極める面倒も忘れて。

 となりにはユミがいた。そう思いながらも、ぼくはひとりでいるのも嫌だった。女性たちがハンドバックを片時も自分のまわりから離さないようにしている映像が浮かぶ。小さな子が、ぬいぐるみを手放すタイミングを失ったみたいにともいえた。だが、人物に対して用いる言葉や感情でもない。いや、人物だからこそ、それはより緊密になりたいという願望を抱けるのだろうか。

 ユミの首元は寒そうだった。以前だったら隠れていた箇所が、短くなった髪のせいで露出されている。そこに、ホクロがあることが確認できた。本人は、その場所だと、振り返ることもできず、知らないはずだ。身近にいるひとだけが、その事実を知っている。ユミの価値がそのことだけで、上下することはない。だが、ぼくはそのことに値打ちという言葉を当てはめていた。

 その視線に気付いたのかユミが突然、振り返る。目で疑問を訴えるかのようだった。ぼくは、何も答えない。足元の小さな穴に、カニかヤドカリのようなものが潜んでいるようだった。そのふたつを同系列に置いた。隠されて、暴かれる必要もないものたち。

 近くに店の明かりが見えた。ぼくらは、歩きすぎていた。それに喉も渇きをおぼえていた。さらには、誰かの存在が放つ自然な温もりみたいなものも欲していた。ぼくらふたりでは、濃度が薄すぎるようだった。別の遠慮がちな視線のなかに自分たちの立場を設定したかった。

 店に入ると、ゴッホのカフェの絵が飾られていた。ひとが集まることを目的にした場所にいる孤独なひと。誰かとの会話を望みながら、それが叶うかどうかを見届ける場所。ここも、そのようなところだった。

 室内にはコーヒーのにおいが充満している。先ほどまで感じていた潮のにおいはすでに消えかけていた。その香りに魅了されたかのようにぼくらはふたつ注文する。

 それを待ち侘びるかのようにユミの手がテーブルに置かれて動いている。指先がきょうはきれいに塗られていた。いつもは直ぐに剥げてしまうとも言っていた。会話の蓄積ができ、ぼくはそれを誰を相手にしたのか覚えている自分の脳を不思議なものと感じていた。得体のしれないものとも思っていた。もしかしたら、会話の中味だけを貯め込む部分でもあれば、そこが仮りに連動していなくて、相手が不在のままであるとすると、ぼくは誰の言葉かもう思い出せない。ユミの指先を見て、そのいつもと違う色彩を認識し、以前の言葉を取り戻している。その今日と、以前に語られた日の内容を照らし合わせてもいたのだ。不思議といえば大変に不思議だった。

 彼女の髪は、このぐらいだったのだということも記憶されている。それと違ければ、不自然さを当然に感じる。その不自然が似合うという感覚につながったが、反対に以前の方が良かったという反作用もあるのだろう。

 コーヒーが来た。ぼくは、ユミが使う砂糖の量や、ミルクの落とす度合いも知っていた。何回かの経験を通じて採取した値が働きかけている。違う。そのデータの体積が積み重ねの重石によって圧縮され、漬物のように法則となる。法則、そうだ、法則をぼくはそこに見つけるのだ。けれども、信念をつかまえたと思っていたのだが、ぼくはユミを前にしていながらも、いつみさんがカウンターに立っている姿を思い出していた。常連客が来る。ぼくにも、目の端あたりで挨拶ぐらいはしてくれるようになった。いつみさんは、酒の注文も訊かずに、彼の前にグラスを差し出す。酒のアルコールの濃淡の趣味も知っている。氷の分量の好みも弁えていた。そこがチェーン店との差なのだろう。そこに愛想があり、料金の上増しがあった。ユミもお客さんの好みの蓄積があるはずだ。カルテみたいなものに残しているのかもしれない。反対にぼくらにも選択肢ができる。このひとの腕前や客扱いを信頼する。また通う。一定の法則が両者のあいだに横たわる。

 ぼくは、もちろんバイトなので、そこまで精密に要望など考えたこともない。単純な作業に従事している。父や母のことも考えていた。父の仕事は自分(会社)の主張を通すことにあり、それを受け入れるかどうかは売り上げに直接、響くのかもしれない。母は自分の子どもの好みを覚えてしまう。ぼくらは母に、いつもの料理の味付けを望んでしまうのだろう。そこに変化が起これば、まずいという意思表示のしかめっ面や侮辱を受ける。面倒な仕事だ。

 いろいろと考えていたが、ここのコーヒーはうまかった。前と比べてうまいということでもない。他の店との比較ということでもない。ただ、前例もないほどにうまかった。しかし、カウンター内で働いている男性のことを見ても、そこに職人技があるようにも思えなかった。普通の、いや普通より劣っているような印象で、やる気が発散されないまま終わっているようだった。もうひと口飲み、ユミはぼくの口元を凝視していた。

「ここの、コーヒー、信じられないほどにおいしくない?」と、その目は告げているようだった。実際にその言葉は発せられたのかもしれなかった。それで、ぼくはもう一度、カウンターを見る。先ほどの男性の顔や表情は新聞で覆われていて、透き通りもしないので窺うことはできなかった。そのサービス精神や愛想笑いが排除されたなかで、居心地の良さや満足感もぼくらは得られていた。
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Untrue Love(76)

2012年12月08日 | Untrue Love
Untrue Love(76)

 ユミの髪型が変わっていた。彼女はひとのヘアースタイルを変化させるのが仕事で、自分のをも変えるということに、ぼくは不思議と思い至らなかった。それまでも洋服は日々、いろいろなものを試していた。変化を嫌うという性格ではないことは、そのことからも知っていた。でも、結びつかないときは、どうやっても結びつかないものだ。

「似合ってるね。でも、それは誰が切るの?」
「新しく入った子」
「不安じゃない?」

「わたしのときは、どうだった?」ぼくは彼女に髪を切ってもらっている。ぼくに合う方法を既に彼女は入手し、かつ熟知していた。だから、最初のときのことは忘れかけていた。また、一回ぐらい失敗しても、いつか伸びるし、彼女の手を離れる方法だっていくらでもあったのだ。すると、馴れたものを探すのには、失敗をするという冒険も求められていることになるのだろう。最終的にぼくの髪の毛だけを介在させる間柄では終わらなかった。今日も彼女はぼくの部屋にいた。

 ユミが新しいCDを貸してくれた。その音楽で部屋が充たされる。幸福とは、こうした甘酸っぱいメロウな曲がある場所のことを指すのだろうかと考えていた。ぼくらのことを真っ先に考え、自らの才能を押し付けるのを嫌う音楽たち。黙ったときに、そこにあったのだと思い出させてくれる自然なリズム。

 ユミ自体は、実際はそうでもない。ある場面では押し付けがましく、個性もひとよりあった。それは外見からも分かった。だが、どこかでひとのために生きているという裏方のような役目も、自分に与えているようだった。自分はこうしたいと思っても、相手のある仕事をしていた。ぼくは自分の学生という身分を、少しだがじれったくも思った。だが、自分が忙しい会社員という身に置いたときに、相変わらず、こうした何事もない部屋のなかの居心地の良い状態を選ぶか、それとも、保つか、それは分からなかった。もっと、衝動的なひとを選ぶかも知れず、もっともっと気楽なことを前提にもってきているのかもしれない。誰も知らない。

 音楽が終わると、次のものに変えた。トレイは音もなく開き、音もなく飲み込んでいった。ギターのリズムを刻む音に変わる。それはギターというよりハープを優雅に奏でているようでもあった。メッセージも主張もない。あるとしたら天上のものを求めたいという気持ちをあらわしているようだった。それは見つかりそうになり、また手放してしまったようにも思えた。ぼくらには苦痛というものが逃れられない、靴の中の微小な砂利のようなものであるのだとの認識を与えてくれた。ユミは自分の髪を点検するように鏡を見た。地上にいるからこそ、わずかな差異が自分の美醜を決定させることができる。ぼくは、ひげも剃っていないことを思い出していた。もう剃るタイミングも失っていた。洋服を着込み、部屋をあとにする。

 土手を歩く。川には海のにおいの方が強かった。ユミのスカートの裾がそよいだ。それほど強風ではない。ただ、休日に相応しい日和だった。等しく、この太陽はぼくらに恩恵を受容させるように降り注いでいた。平等ということのみを厳格に守ることを望んでいるようでもあった。だが、どこかで、不平等に台風が起こっているのかもしれない。ぼく自身もそちらに傾いているのかもしれない。ユミには誠実さがあった。外見とはまったく違うところに、根っこの優しさや愛情の種があった。それはたくさんのものに覆われているので分かりづらい。だが、ぼくはそれに勘付くぐらい彼女と時間をともにしていた。だが、彼女はぼくの揺れることをやめない気持ちに気付かないようだった。ぼくは、こころのどこかで、いつみさんのことを考え、木下さんも求めていた。どこかという狭い範囲ではないのかもしれない。もっと大きな箱を用意し、そこに別のふたりとの思い出や愛情の痕跡を無節操に投げ込んでいた。ぼくはユミと歩きながらも、それを持ち歩いているようだった。引き摺るのにも重いトランクなのに。

 ぼくらは土手の芝生のうえに座る。風はさらに海のにおいを運んだ。
「海まで、近いのかな・・・」ユミもそれに気付いたのか、そう言った。そこは眺望がさらにひらける場所であり、もしそこまで行けば、この関係の全体像もぼくは確認することが可能なのだろうかと思い巡らした。それを自分が望んでいるのかも分からず、さらにいえば、ユミはそうした迷いの根本を知らないままでいるのかもしれない。

「自転車でもあれば、たどり着く距離だと思うけど」ぼくは、標識を指差した。そこには距離を示す数字が書かれていた。ならば、どれぐらいで、ということが数式もなく理解できた。
「いっそ、船に乗るとか」
「船なんかないよ」ぼくは、観光船みたいなものをイメージしていた。

「あるよ、そこに」ユミの指の先には、漁師さんも何十年も前に廃棄したと思われる朽ちた木のものがあった。ぼくはふたりがそこに足を踏み入れた場面を思い出していた。間もなく、沈むことになるのだろう。ぼくは頭のなかで、ふたりでも耐えるのが無理な乗り物に、さらにいつみさんや木下さんを乗せようとした。全員が藻屑となる。ぼくはそれを望み、そのことを恐れた。だが、頭のなかのイメージは勝手に物語を延長した。ぼくだけが泳いで岸に着く。誰か分からない腕が一本だけ水中から伸びる。ぼくは後先のことなど考えずに、人間の持つ本能の発露として、その腕の手首あたりをつかんだ。浮き上がってくるのが誰かは分からない。だが、ぼくには選択権がないのだ。ただ、助けなければならない。彼女なのか。彼女のうちの誰なのか。それとも、自分自身なのか。まだ、潮のにおいが鼻腔にする。
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Untrue Love(75)

2012年12月03日 | Untrue Love
Untrue Love(75)

 ぼくは電車内で座り、対面にいる見知らぬ女性のことを見た。彼女がここにいるということを知っている。目で見えるという抗えない事実は居ないことにはなり得ない。でも、それがすべてだ。髪の色も、服装もそのひとの印象を形作ることはできるが、具体的なものは何も分からない。一方で、ぼくは木下さんの部屋のなかを知っている。彼女は、ここにはいない。いないということだけで誰かにその本人の存在を証明することは難しくなった。だが、ぼくのなかだけでは目の前にいるひとより強い影響力を及ぼすはずだ。彼女の部屋の家具の配列を憶え、好みの肉の種類を知っている。しかし、そのすべてを再現すれば彼女に近付くのかといえばまたそれも遠かった。なかなか、厄介な問題だ。

 ぼくは電車を降りる。偶然、目の前の女性も同じ駅で降りた。改札を抜けると、そのひとは反対の方向に歩き出した。ぼくは、背中が見えていても、もうそのひとを思い出すことがより不可能なことに傾きはじめていることを知った。具体的な趣味や嗜好を知らないことには、誰かを知っているということにはならないのだろうか。ぼくは歩きながら、何人かのことを再現しようとしていた。

 ぼくはいつみさんと野球を見た。だから、彼女が野球が好きなことを知っている。ルールもきっちりと理解できている。なぜなら、彼女は弟の試合を母といっしょに見ていたからだ。どこで、熱狂すればよいのか判断できる。その母はもういない。だが、その母の店を受け継いでいる。例えば、このことを第三者に話した時点で、彼女は立体化されていくのだろうか。容貌もすこし含めないといけない。シャープな顔立ち。はっきりとものを言う部分と、どこかで照れ臭く感じてしまう繊細なこころの持ち主。その両方に揺れるところが魅力を一層、高めているらしい。これぐらいで、情報としては充分だろうか。

 木下さんはぼくもバイトをしているデパートで靴を売っていた。色白で、冬は雪が積もるところが出身だ。そういう場所にいるのを想像すると、とても馴染んでくる。本が好きだ。ぼくは借りて返さないままの本がある。読み返すこともないと思うので、いらない、とも言う。そのこと自体が、その人間の未練のなさや執着のなさにつながるのだろうか。

 ユミは、ぼくの髪を切っていた。ぼくの小さなアパートの部屋に来るのは彼女ぐらいだ。古い音楽をコレクションもしている。ぼくは彼女から何枚かCDをもらって聴いている。音楽にも記憶を内在させる成分があるのか、たまにラジオで流れるのを聴いたり、外でその曲を耳にすると、音楽の数パーセントは、良い曲だなという印象とは別に、ユミのことも思い出してしまう。もっと、時間が過ぎれば、それは深まるのか、浅くなってそのきっかけとなった当人のことなど忘れてしまうのだろうかと心配にもなる。それは、いずれ時間が解決してくれる。いや、回答を与えてくれる。もし、その答えが忘れるということなら、回答も無意味な結果となる。

 その三人をアパートまでの道のりを歩きながら、ぼくは立体化させていった。それで、まったく彼女らを知らないひとに、「このなかで、誰がぼくに合っていると思いますか?」と、無性に訊いてみたかった。だが、本音としては、返事もいらなかった。誰かに決めてもらうほど、ぼくは評判や相性などに頼っていなかった。また、決めるのは自分でもあり、このまま、ひとりをはっきりと決めないことすらも、ぼくに残されたささやかな自由であるのだ、と、ある種、傲慢にも思った。

 ぼくを知っているひとが最善の選択をすることが可能ならば、それぞれの女性を母にでも逢わせれば簡単なようだった。だが、この不誠実な生活を身内に知られて良いはずもなかったのだ。それで、ぼくは食べ終わった高級なケーキの箱のように、またその女性たちをたたんで平らにして、こころのどこかにしまった。また、それは望みさえすれば再現できるのだ。思い出すだけではない。会って、さらにぼくは情報を喜びを伴うかたちで貰う。

 家に着いた。空想はおしまいだ。ぼくは久代さんにもらった本を一冊とりだした。開いてみる。どこかに彼女の化粧品のにおいがするような感じだった。それは、突き詰めると本からではないような気がした。服からかと思って鼻をひじ辺りにもっていくと、相変わらず焼肉のいぶされたにおいがした。ぼくは椅子にすわり、本を読みはじめた。ユミの音楽からの影響を、いつか、ユミ当人のことを忘れてしまうとの疑問をもったが、まだ答えはでていない。だが、この本に熱中していると、木下さんのことは忘れてしまった。それはジャンルによる違いなのか、それとも、ぼくはユミに重きを置いているのか比較しようとした。それはぼく側だけの見方ではなく、相手の意向を考慮しての問題でもあった。壁ではなく、生身の相手にボールを打っているのだ。こうして、ぼくはただ言い訳の収集に励んでいるのかもしれない。洋服屋で買うべきもので悩み、似合わないものを懇切丁寧にすすめる店員を邪険にして、その商売目当ての気持ちをないがしろにするように。だが、結局はぼくの責任なのだ。いや、その姿はぼく自身なのだ。と反省に陥るように自分のこころを誘導しようとしたが、本が楽しすぎたので、目の前の快楽に没頭することにした。
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Untrue Love(74)

2012年12月02日 | Untrue Love
Untrue Love(74)

「ベッドをあっち向きに替えて、机をこの日当たりのある方向にして、いらない本、どうしよう」と木下さんが話している。趣旨としては男手が欲しいので手伝ってくれということだった。ぼくは休みを合わせ、請け負うことにする。自分の部屋のことを一瞬だけ考えたが、そこは大幅に変更を求めることができないことを確認しただけだった。最低、四年は住むことになると思うが、それ以降はどうなることか自分でも分からない。その狭さがぼくに馴染み出している。思い出もその場所に棲みつきはじめている。ユミはこの部屋で何度か寝起きした。ぼくはいつかユミのことを思い出すことになれば、当然、自分が借りていたアパートも思いだすことになるのだ。それは同列の記憶だった。

 ぼくは腕まくりをして、家具の向きを変えた。その動かしたあとの床にほこりがたまっている。それを久代さんは掃除機で吸った。また動かす。そして、同じことが繰り返された。いったん本を外に出し、空になった本棚の置く場所も変えた。また、本を並べなおす。その際に、間引きに似たものが行われる。さらに、整理されて著者名やジャンルで分類される。だが、整頓されればされるほど、物体自体は手にされることを放棄され、収められた状態に甘んじることになる。それは、記憶にも似ていた。まだ、進行過程の思い出はどこかに並べられたりはしない。そこに在るのだ。在るということすら忘れるほど、生の素材だった。思い出すということ自体が、もう古くなりかけている証拠なのだ。しかし、もっときちんと計画的に手放されるものがある。処分する方向に定まった本が床に無造作に置かれた。ぼくは見繕って何冊か貰うことにした。その後、家のなかはいったん片付いてから、どうしても買い手がつかないペット・ショップの大きくなりかけた動物のように、古い本を中古屋さんに運んだ。

「いくらになるか分からないけど、それで、焼肉でも食べよう。安かったら、安いお肉。高かったら高いお肉で」そう久代さんは言った。ぼくは両手に本が入った袋をぶら提げ、久代さんも片手に何冊か入った軽い袋を運んでいた。

 それは思ったよりお金を得られた。空腹になっていたぼくの胃は存分に肉を食べられる確約ができた。木下さんは丁寧に肉を焼いた。靴の売り方といっしょのようだった。サイズがきちんと合い、お客さんも納得する。妥協を許さない彼女の一面が垣間見られた。ぼくは部屋が片付いたあとにパラパラと読んでいた本の登場人物が、障子を張り替えている場面を思い出していた。そこにはきちんとしたい性向と、妥協との狭間に揺れる女心があった。久代さんなら、あれはどういう場面に変わってしまうのだろうとぼくは正面で肉を食べながら考えていた。

「順平くんの部屋はきれい?」
「まあまあです。普通としかいいようがない」
「小まめに掃除とかしてるの?」
「あまり、しないかな」
「誰かしてくれてるの? お母さんが来てくれてるとか?」
「いれたくないですよ」

「プライベート。プライバシー」と、久代さんは野菜の焼き加減を見て、食べて、言った。ぼくは入れたくないという言葉が、母を指しているのか、別のひとを考えての言葉なのか自分でも判断できなかった。

「久代さんの部屋を、ぼくは随分と知っています」そして、化粧品の銘柄を述べた。ぼくはいつみさんの部屋にあったものとの差異を無駄に比べていた。どちらが高価であるのか、どういうメリットが肌にあるのか考えようとした。しかし、もちろん答えなどない。ただ、小さな子どもがものの名前を覚えることに躊躇しないように記憶していただけだった。

「今日は、掃除もするから、あんまりしてないよ、化粧。ごめん」となぜか彼女は謝った。謝る必要などまったくなかった。「もっと、食べられるでしょう?」店員さんがこちらの火のうえの網を見たのを気にして久代さんが訊いた。

「まだ、大丈夫かな」
「じゃあ」久代さんは、きれいな指でメニューのなかの写真入りの肉の何箇所かを指差した。
「手料理とかも得意なんですよね?」
「食べたい?」口直しなのか、お新香を食べていた。「でも、ひとりで、焼肉屋さんは抵抗あるよね?」

 ぼくは、もう数年前にいっしょに行った両親のことを思い出していた。彼らは、ぼくという存在が身近にいない以上、選択肢として肉を外で食べるという機会が激減してしまっているようにも思えた。咲子と仮りの三人の擬似親子のようなものがあったとしても、やはり、そのチョイスは押しやられてしまっているようだった。なぜ、ぼくはこの場面でその三人のことを考えていたのだろうか。

「なかなか、ないですね」ぼくは、有無を調べるかのように、服に染み付いた肉のにおいを嗅ぐ仕草をした。

「でも、いっしょにたくさん食べると、こんなにおいしいものはない」断定するように、久代さんは言う。ぼくは、もっと身体ががっちりとした、例えば、いつみさんの弟のキヨシさんのようなひとが、がむしゃらに食べたら、それこそ、食事自体が楽しさをもたらす最高のシチュエーションになる気がした。ぼくは、なぜ、たくさんの周囲のひとをこの場面に持ち出してしまうのだろう。もっと、密にふたりのことだけを考えてもよかったはずだ。それから、新たな肉が運ばれた。ぼくは空腹感と満腹感の地点を正確に計るようにしばし目をつむった。
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Untrue Love(73)

2012年12月01日 | Untrue Love
Untrue Love(73)

 ぼくが船だとすると、その大きな物体は、いずれ港にたどり着く。使い古された常套句として。陳腐な抽象的な表現としても。揺れのなかにずっといた状態のひとは、船から地面に降りても、まだ体内は揺れを持続させているような錯覚があるそうだ。そういう体験と無縁であるぼくが正確さを見極めることなどできないが、あっても当然だという気もしている。普通、自分が多くの時間を割いている生の生活に身体は捉われやすい。身体がひとつのことに縛られていれば、思いも柔軟さはそれほど兼ね備えてもいない。肉体の苦痛や酷使は、感情にも重くぶら下がり、肉体の喜びや爽快感も気持ちを充足させるために十分に役に立つ。

 ユミは素足でベッドから跳び下りた。後ろ姿で、自分のバックから小さな鏡を取り出して、自分の顔の前に当てた。何を見ようとしているのかぼくには分からなかった。ぼくにはその背中が見えるだけだ。肩甲骨が隆起している。自分自身では絶対に直視できない背骨や両脇につながる部分が、ぼくの目の前にあらわになっている。ぼくは同じ意味で自分の後ろ姿を見たいと思った。誰かを待っているときに、自分の背中はどういう表情や姿をしているのだろう。やはり、さびしそうに待つときはそれなりにどんよりとした様子を示し、期待して待ちわびているときは、喜びの予感のようなものを秘めているのだろうか。だが、当事者はなにも分からない。ユミの背中も多くは語らなかった。

「着替えて、どっか歩こうか? せっかくの休みなんだから太陽を浴びたい」

 ふたりは歩く。駅前まで行き、開店したパン屋を見た。香ばしいにおいを発していて、それにつられてお客さんがたくさん出たり入ったりしていた。その横を通り抜け、駅ビル内の本屋に立ち寄った。太陽は窓ガラスをかすかにしか通り越してこない。そこで、ユミはパンの作り方の本を書棚から引っ張り出した。ぼくはとなりの一角でサッカーの雑誌を立ち読みするために移動した。彼女の背中は、とても無防備に見えた。そこにどこからか不意にあらわれた男性が彼女に声をかけた。彼女は聞こえないのか、それとも、自分ではないと思ったのか無視していた。

「さっき、男のひとから声をかけられちゃった」と、後で言ったので敢えて無視していたことが知れた。それから本を買わずにもとの棚に戻した。いつもより爪がきれいに塗られていた。
「よくあるの?」
「なにが?」ユミはとぼけたような表情をした。
「男のひとから声をかけられること」
「ぜんぜん。まったく。すこし妬いた?」
「どうだろう」

「妬いたといっときなさい」急に年上のような口調になった。ぼくは彼女との年齢差を感じたことがなかった。実際はほんの少しだが年上だ。でも、ぼくの前にはいつみさんや木下さんがいた手前、相対的に彼女は子どもっぽく見えた。そのユミを一人前の女性と認定して声をかける男性がいる。だが、その男性は彼女の何を知っているのだろう。それに、どのような美点のため、声をかけるまでの衝動にかられたのだろう。ぼくは、彼女の肩甲骨の動きを思い出していた。背中が物語るならば、あのときのユミはぼくに全幅の信頼を寄せているようだった。

「お茶でも飲もう」と手ぶらで本屋を出てから言って、彼女は駅ビルの休憩スペースにそれなりに作られた店の前で注文した。ぼくらはきちんと囲われていない場所で、ただぼんやりとしていた。ぼくの幼少のときを過ごした地元でもないし、ユミにとっても普段はいない場所なので、誰に会う心配もなかった。その無名性の貴重な時間をぼくらは楽しんでいた。

「あの子、風船をもってるね。どっかでくれるんだろうかね?」ぼくは疑問をそのまま口にした。
「ほしいの?」
「まさか」
「でも、仕事を離れて、こうしてぼうっとしている時間、とても楽しいね。そうだ、バイトたいへん?」
「もう馴れているから、なんとでもなる」

「もうすこしで就職とかも考えるんでしょう?」
「そうなるね」
「髪の毛、それなりに面接対策用とかにしてあげようか、そのときは」
「どんなの?」
「きちんと分けて」
「いま、そんなひといないでしょう・・・」

「面接用に整形とかする女性もいるんだよ」彼女はそういったが、ただのワイドショー的な感想のようだった。実体がまったくともなっていない話題でもあった。それを誤魔化すようにユミは目や鼻を自分の指先で上げたり下げたり吊り目にしたりした。幼い彼女が友だちの前でしたであろう時間が想像できた。「どっか、顔とか変えたい?」

「これで、充分だよ」
「お、凄い自信」
「自信じゃないよ、妥協だよ」
「そう。でも、そのままがいいよ。性格とその顔、合ってるしね」

 どのような性格で、どのような意味でこの顔に合っているのか、結局、ユミは告げなかった。それをしつこく訊くことも自分はしなかった。自分の容貌にこだわっているようにも思われたくなかったし、正直なところ、こだわってもいなかった。ぼくは相変わらず、いつみさんの元彼氏の服を着ることにも抵抗がなかった。もう、それはぼくに所有権がとっくに譲渡されていた。もらったという感覚さえすでに失っていた。

「もっと、大人になれば、もっと自分に似合った顔になるのかな・・・」ぼくは目の前を通り過ぎる少女の顔を眺めていた。彼女が優しい人間であるのか、意地悪を内包しているのか分析しようとしたが、時間的に無理だった。母らしきひとに強く腕を引っ張られ、宙吊りされたひとのように軽やかに歩がすすんでしまった。
「わたしのこと知らなかったら、どういう性格の持ち主に見える?」ユミはテーブルに頬杖をつき、うっすらと笑顔を表情に定着させて訊いた。

「むずかしいね。もう、知ってる部分も多いしね」それからしばらく思案した。「活発な人間に見えるけど、洋服にも判断が影響されるね」

 ぼくは、さらに彼女の顔を眺めた。だが、ぼくは、あのぼくの部屋でこちらに向けた背中の方が多くのものを伝えてくれるような気がしていた。無防備でもあり、どこかで自分の意志や考えが充満している背中。ぼくはその背中を後ろから抱き、永遠につながるセリフを言ってしまうことも可能だったのだと仮定を考える。だが、いつものように言わない。いつみさんにも言わない。彼女が望んでいないことを恐れているという失敗への危険を避けるため。木下さんにも届かない。溶ける雪が夏までもつこともないということを経験則として知っているという馬鹿な自信や自負を胸にかかえて。
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