Untrue Love(85)
「三つ編みなんかしてなかったよ」いつみさんは思い出したように言った。「ずっと、短かったからね。長い娘が好き?」
ぼくは考えあぐねた。どちらかといえば、嫌いであるらしかった。その対象をいつみさんだけに求めず、参考の具体例として、ユミと木下さんのことも念頭にあった。木下さんは長めである。ユミといつみさんは反対に短かった。だが、その長短だけを基準として持ち出して、好悪の判断をくだすのは無意味だった。それ以外の部分ももちろん多く占めている。でも、やはり髪型で印象は変わった。どこで結わいたり、分け目をかえるだけでも、随分と感じや印象はかわるものだ。
「短い方が、そのひとのありのままが分かりやすくて、良さそうです」
「ふうん、変わってるね。普通、長い髪に憧れるのかと思っていたから」
「だったら、ローマの休日なんていまになって誰も見ないですよ」
「あれは、女性が好きなんだよ。おとぎ話。好き?」
「そう言われると、そうでもない」
「やっぱり」いつみさんは快活に笑う。その声を聴きたくて、ぼくはたくさん笑わせたいと思うが、未熟でもあった。その能力が自分には大してないのかもしれない。だが、澄ましている顔も素敵だった。いつもは、店のなかでいろいろと気を配り張り詰めた状態だって多くあるのだ。こういうときぐらい、そっとした幸せに浸かっていてほしいともぼくは願っていた。
ぼくは短い髪型が似合う女性が登場する映画を並べはじめた。交互にいつみさんも語り、その話題に参戦する。ぼくはゴダールの勝手にしやがれを真っ先に思い出す。それはユミの存在とどこかで似ていた。町を練り歩く女性。広告塔のように。目印になって。
「愛の嵐って、知ってる?」
「さあ」ぼくは近所のビデオ店の陳列棚の様子を頭に思い浮かべたが、その情報は出てこなかった。
「デートで見に行って、ふたりで気まずい思いをして出てきた。何で、あいつは、あんなの選んだんだろう」いつみさんは当時の困惑さを取り戻したような顔をした。「予備知識もないまま、はいってふたりで画面を眺めている。でも、わたしの思い出って、どれも、うまくいかなかったことばかりに溢れていると思わない?」
「そうですよね。高校生の彼はアイドルみたいに可愛い子と歩いている。それを発見して陰にかくれて見つからないように隠れる。気まずい映画をふたりで見る」
「順平くんは、ないの? 失敗した過去の記憶とか」
「さあ、普通にふられたぐらいですから」
「恨んでる? ふった子に対してだけど」
「恨むもなにも、そんなに執着していなかったのかもしれません。いまになって考えれば。寝ても覚めても彼女のことを考えていたわけでもない。でも、さすがにショックは受けますよね。拒否された側としては」
「もう、誰も好きにならないと誓ったとか?」
「普通に好きになってますよ」ぼくの口は自然とそう言った。それは誰のことを指しているのだろう。誰らのことなのだろう。
「誰を?」いつみさんは、だが、確かにわたしのことだよね、という同意を求める表情をしていた。
「いつみさんのことも」
「はい、減点。も、ってなんだよ」
「言ってないですよ」
「言ったよ。バカだな」いつみさんの指はぼくの手の甲を軽くつねる。「でも、これで許してあげるよ。ありがとう」
ぼくは告げてしまった事実に当惑し、それでもそこには喜びも多くの分量を占有していた。だが焦りもあり、ふさがれた道にむかって突っ走る恐怖もあった。その道の前方で固く閉じられた扉を蹴って開け放つ方法も知らず、壁を乗り越える度胸も覚悟もなかった。ただ、この一日のこの夕暮れにはこの言葉が必要なのだという役割を守っただけなのかもしれない。だが、動かない事実として、いつみさんのことは好きだった。それがどのぐらいの重みを自分に与えているのか、当事者の自分には計りかねた。過去を振り返り、その重さに馴れたころか、その重さを失ったときにしか分からないような気もしていた。進行形の愛は、はっきりとせず不確かなものとしか認定されないようだった。
「わたしも、順平くんのことが好きだよ。年上で、世間も知ってて、迷惑かもしれないけどね」
「迷惑なんて、感じるわけないじゃないですか」
「そう。なら、いいけど」
ぼくは夜に流れ込む時間だけを大切にしようとしているのかもしれなかった。ただ、夜のいつみさんのすべてを求めたかっただけで、その願望が自分のさっきの言葉につながったのだと思いたかった。そこには責任もなく、長期的な展望もなかった。犬が明日の食事のことを考え、今日の食欲を抑えたりしないように。
「日も暮れていきますね」
「寝ても、覚めても、誰かのことを愛するのが苦手で、不得手な男の子がとなりにいると。夕暮れに」
「するかもしれませんよ」ぼくは実際にそのような状態でいつみさんのことを思い巡らしたことも確かにある。
「そういうことを期待するには、いささか失望を味わいすぎたかもしれないよ、わたし」
「大丈夫ですよ、これから、三つ編みにでもすれば」
いつみさんは豪快に笑った。なにもない土手でその声が響き渡った。
「変なひとがいると有名になる。飲み屋の三つ編みにしたおばさんがあそこにいるって・・・」
ぼくも笑う。
「いいじゃないですか、名物になって」
「本気で言ってるのか?」と少し立腹したような顔をしたが、いつみさんも直ぐに笑顔を浮かべなおした。
「三つ編みなんかしてなかったよ」いつみさんは思い出したように言った。「ずっと、短かったからね。長い娘が好き?」
ぼくは考えあぐねた。どちらかといえば、嫌いであるらしかった。その対象をいつみさんだけに求めず、参考の具体例として、ユミと木下さんのことも念頭にあった。木下さんは長めである。ユミといつみさんは反対に短かった。だが、その長短だけを基準として持ち出して、好悪の判断をくだすのは無意味だった。それ以外の部分ももちろん多く占めている。でも、やはり髪型で印象は変わった。どこで結わいたり、分け目をかえるだけでも、随分と感じや印象はかわるものだ。
「短い方が、そのひとのありのままが分かりやすくて、良さそうです」
「ふうん、変わってるね。普通、長い髪に憧れるのかと思っていたから」
「だったら、ローマの休日なんていまになって誰も見ないですよ」
「あれは、女性が好きなんだよ。おとぎ話。好き?」
「そう言われると、そうでもない」
「やっぱり」いつみさんは快活に笑う。その声を聴きたくて、ぼくはたくさん笑わせたいと思うが、未熟でもあった。その能力が自分には大してないのかもしれない。だが、澄ましている顔も素敵だった。いつもは、店のなかでいろいろと気を配り張り詰めた状態だって多くあるのだ。こういうときぐらい、そっとした幸せに浸かっていてほしいともぼくは願っていた。
ぼくは短い髪型が似合う女性が登場する映画を並べはじめた。交互にいつみさんも語り、その話題に参戦する。ぼくはゴダールの勝手にしやがれを真っ先に思い出す。それはユミの存在とどこかで似ていた。町を練り歩く女性。広告塔のように。目印になって。
「愛の嵐って、知ってる?」
「さあ」ぼくは近所のビデオ店の陳列棚の様子を頭に思い浮かべたが、その情報は出てこなかった。
「デートで見に行って、ふたりで気まずい思いをして出てきた。何で、あいつは、あんなの選んだんだろう」いつみさんは当時の困惑さを取り戻したような顔をした。「予備知識もないまま、はいってふたりで画面を眺めている。でも、わたしの思い出って、どれも、うまくいかなかったことばかりに溢れていると思わない?」
「そうですよね。高校生の彼はアイドルみたいに可愛い子と歩いている。それを発見して陰にかくれて見つからないように隠れる。気まずい映画をふたりで見る」
「順平くんは、ないの? 失敗した過去の記憶とか」
「さあ、普通にふられたぐらいですから」
「恨んでる? ふった子に対してだけど」
「恨むもなにも、そんなに執着していなかったのかもしれません。いまになって考えれば。寝ても覚めても彼女のことを考えていたわけでもない。でも、さすがにショックは受けますよね。拒否された側としては」
「もう、誰も好きにならないと誓ったとか?」
「普通に好きになってますよ」ぼくの口は自然とそう言った。それは誰のことを指しているのだろう。誰らのことなのだろう。
「誰を?」いつみさんは、だが、確かにわたしのことだよね、という同意を求める表情をしていた。
「いつみさんのことも」
「はい、減点。も、ってなんだよ」
「言ってないですよ」
「言ったよ。バカだな」いつみさんの指はぼくの手の甲を軽くつねる。「でも、これで許してあげるよ。ありがとう」
ぼくは告げてしまった事実に当惑し、それでもそこには喜びも多くの分量を占有していた。だが焦りもあり、ふさがれた道にむかって突っ走る恐怖もあった。その道の前方で固く閉じられた扉を蹴って開け放つ方法も知らず、壁を乗り越える度胸も覚悟もなかった。ただ、この一日のこの夕暮れにはこの言葉が必要なのだという役割を守っただけなのかもしれない。だが、動かない事実として、いつみさんのことは好きだった。それがどのぐらいの重みを自分に与えているのか、当事者の自分には計りかねた。過去を振り返り、その重さに馴れたころか、その重さを失ったときにしか分からないような気もしていた。進行形の愛は、はっきりとせず不確かなものとしか認定されないようだった。
「わたしも、順平くんのことが好きだよ。年上で、世間も知ってて、迷惑かもしれないけどね」
「迷惑なんて、感じるわけないじゃないですか」
「そう。なら、いいけど」
ぼくは夜に流れ込む時間だけを大切にしようとしているのかもしれなかった。ただ、夜のいつみさんのすべてを求めたかっただけで、その願望が自分のさっきの言葉につながったのだと思いたかった。そこには責任もなく、長期的な展望もなかった。犬が明日の食事のことを考え、今日の食欲を抑えたりしないように。
「日も暮れていきますね」
「寝ても、覚めても、誰かのことを愛するのが苦手で、不得手な男の子がとなりにいると。夕暮れに」
「するかもしれませんよ」ぼくは実際にそのような状態でいつみさんのことを思い巡らしたことも確かにある。
「そういうことを期待するには、いささか失望を味わいすぎたかもしれないよ、わたし」
「大丈夫ですよ、これから、三つ編みにでもすれば」
いつみさんは豪快に笑った。なにもない土手でその声が響き渡った。
「変なひとがいると有名になる。飲み屋の三つ編みにしたおばさんがあそこにいるって・・・」
ぼくも笑う。
「いいじゃないですか、名物になって」
「本気で言ってるのか?」と少し立腹したような顔をしたが、いつみさんも直ぐに笑顔を浮かべなおした。