爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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流求と覚醒の街角(44)幹事

2013年08月28日 | 流求と覚醒の街角
 奈美は職場のイベントの幹事になった。

「雰囲気を知りたいから、一回、いっしょに行ってみない? 気に入らなかったら困るから」
「困ったら、どうするの?」
「キャンセルするよ。まだ、確定ではないから」

 キャンセルできるものと、キャンセルできないもの。その線引きはいったいどこにあるのだろう? 大まかにいえば、世の中は全部、引っくり返すこともできた。また、惰性や義理などをつきつめれば、それは責任の放棄につながり、誰かの面子を潰すことにつながった。だから、面倒なことはしない。だから、誰かと深く関わることもしない。両方の選択肢があるようだった。
「いいよ、潜入捜査」
「いつも、大げさ」

 数日経って、ぼくらはそこに出向く。複数のひとの予定をまとめ意図を汲み、満足に対して点数の設定の甘いひとがいて、それと同量程度の辛口のひとがいる。中間にも大勢いる。自分がそういう役割にならないことに安心し、なれなかったことに不満なひともいる。その狭間に大人の感情があった。だが、それもいつか忘れ去られてしまうものなのだ。その場では問題がありそうだったとしても。

「うるさいひとばっかりなの?」
「そうでもないけど。成功した仕事をさらに決定づけるような機会になるから、最後が悪くなると、それだけ、みんなの印象も悪くなるし、それだけ、成功が薄まっちゃいそうなのでね」
「何人ぐらい?」
「多分、このスペースの椅子とかテーブルとか片付けて、六十人ぐらいじゃない、集まるの」

「そこに、ふたりでいても分かる?」
「ちょっとした料理とか、店員さんのサーヴィスとかは大きくは変わらないでしょう?」
「そうだろうけどね。他に計画もあるの?」
「ない」
「じゃあ、断れないじゃん」
「そのときは、そのときだから」奈美はあっけらかんとしていた。

 席はゆったりとした間隔で三十席ほどあった。だからテーブルはその半分ぐらいだろうか。店員はみな周囲にきちんとした注意を払い、ぼくらが語りかける前に、既に近寄る気配を見せていた。料理も運ばれる。ぼくはレストランの評価をする仕事があるということを思い出す。誰かが誰かのことを採点する。それを鵜呑みにするひとがいて、仮説として自分の決定の糸口にするひともいる。興味もないひともいて、あること自体をしらないままでいるひともいる。どこの位置が、いちばん幸せなのだろう。

「でも、キャンセルする勇気とか、あるの? 交際を求められて、断ることが今まで多かったとか?」
「まさか。最近は、もうめっきりとないし。彼氏がいるのがみなに分かってるから、もうチャンスを与えることもできないよ」そう言って奈美は笑った。
「もう、無鉄砲に、突撃するのみ、木っ端微塵になってもかまわないという年齢でもないからね。でも、たまには言われるだろう?」
「大人って、それとなく、様子を調べるとか、探りを入れるとかするのが普通だしね」
「今日みたいにね」

 奈美はトイレに立った。ぼくは調査員としての宿命のように周囲をうかがった。欠点もなし。大きな失点もなし。スポーツなら楽しくないのかもしれない。めちゃくちゃに打ち合うボクシングとか、逆転をくりかえす球技とかなら、後味はしっかりとしたものとして深くこころに残るだろう。
「トイレもきれいだった。やっぱり、店を紹介するサイトや雑誌をみても、実際の目に勝るものはないからね」
「奈美のかしこまった見合い写真じゃ、魅力も伝わらないかもね」
「どういう意味?」
「そのままだよ。生きて、動いて、笑った、楽しむ奈美がいちばん」

 ぼくらはある時点ではキャンセルもできるのだ。またあるところを通過してしまえば、キャンセルはできないのだ。グラスの半分を飲み、その状況で交換はできない。ワインの儀式として、ひとくち飲んで納得、ということもあった。それで決まりだとすれば、ワイングラスは傾けられた瓶の口から注がれる。ぼくは、奈美をどれほど知っているのだろう。それを今更キャンセルすることは不可能に近く、絶対的に受容するのは間違いではないという結論もまた同じぐらいに難しいものであった。
「お気に召しました?」と、ハンサムな店員が奈美に訊いた。それから、ぼくの方を付け足しのように振り向いた。
「ここ、貸切したり出来るんですよね」

「はい。人数とか予算とかを申していただければ。お仕事で? それとも、プライベートですか」

「仕事関連です」奈美はバッグから名刺を出した。その店員に渡す。彼はいったん引っ込んだ。すると、責任者が店の奥からでてきた。パンフレットのようなものを持ってきている。奈美は、数日中に電話をするので、ある日付を示して仮予約して欲しいと頼んだ。その知的な女性のあたまには大きなものも小さなものも、もろもろのスケジュールがすべて入っているようだった。そして、笑顔で了承する。ぼくは、仮予約とキャンセルという言葉を、普通以上に象徴的なものとして考えようとしている。あることが決められ、あることを実行する段になる。恐れもあり、面倒なことも多くあった。喜びの予感があり、終わったあとの日々の惰性の連続があった。どこに視点を置くかで、物事はいろいろと結論付けられた。

「最近、誰かに好きだとか言われた?」
「ぼくも、ないね」
「彼女がいるって、みんな、知ってるのかね?」
「知ってても、知らなくても同じだろう」
「わたしが言ってあげようか」
「どうしたの、突然に?」
「わたしじゃ、不満」

 先ほどの「主任」という肩書きの生きるサンプルのような女性が戻ってきた。ある日付にチェックが入り、それと同時に彼女の名前が入ったカードもくれた。それをぼくにも笑顔でくれた。ぼくは名前を見る。名前など無数にあると思うが、ぼくの知っているひとと同じものだった。キャンセルしてしまったもの。仮予約を流してしまったもの。世の中には、いくつもの地点があるようだった。

流求と覚醒の街角(43)遊具

2013年08月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(43)遊具

「ねえ、もう一回乗ろうよ」と奈美が笑顔で言う。

 ぼくらは遊園地にいた。ジェット・コースターをいままさに乗り終わったばかりだった。曇り空。次の乗車の組が上空で悲鳴を上げはじめている。
「本気?」
「だって、楽しかったもん。一回じゃ、物足りない」

 ぼくはもう一度、空を見る。曇り空。そして、また悲鳴があがる。ぼくは胃のむかつきを覚えていた。奈美はケロッとした表情をしている。ぼくは別の惑星の住人のように彼女を見た。もう一度、違う場所で悲鳴があがる。
「ひとりで、乗ってきなよ。ここで待ってる」
「意気地なし」

「随分と古風な表現だね」ぼくはそう負け惜しみを交えた口調で言い、奈美の背中を見つめる。曇りのためか、来園者はそう多くもなかった。ぼくはそもそも、そうした乗り物に強かった自分を思い出していた。今日に限って、なぜ、意気地なしだという非難のことばを受け入れるようになってしまったのかも、戸惑いながら考えていた。それは、昨日までの仕事量にも関係していた。ただ、疲労がたまっていたのだろう。だが、どこかで自分の組成が変わってしまっているのだとも否応なく実感してしまう。

 次の次の番になると、こちらに向かって手を振る姿が見えた。それは奈美だった。となりの座席は空いている。普通だったら、ぼくはそこにもう一度だけ乗っていたのだろう。悲鳴がはじまる。急激に曲がり、また突然に下降する。重力に振り回され、スピードをそれぞれの身体は体感する。悲鳴は遠くになり、また近くになる。

 誰かが設計して小さな模型でも作るのだろうか。安全性が確保され、その安全のうえで危険で不安な状態を楽しむ。だが、ぼくの胃だけは抵抗した。もっと穏やかさを求めているのだろう。水族館で優雅に泳ぐ魚の群れを見たり、映画館でうとうとする時間も計算に入れた余暇の時間とかを。

 数分後にその乗り物はもとの位置にもどり止った。乗客は降りてくる。そのなかに奈美もいるのだろう。急にひとりだけいなくなることもできない。

「どうだった?」
 近付いてくる奈美にそう訊いた。返事をもらう前に表情からも感想は明らかだった。
「楽しかったよ」また、上空で悲鳴がする。数人が集まった悲鳴は個性もなく、先ほどとまったく同じに聞こえた。「大丈夫? どうしたの、顔が青いんじゃない?」
「そうかな? でも、理由はひとつだけだと思うけど」
「だって、自分だって楽しみにしてたじゃない・・・」
「楽しみにはしてたけど、この受け手にも感情があるみたいだから」ぼくは自分の意志と身体を分離させようとした。しかし、身体が発する不快感こそが主人で、感情はそれに一方的に引っ張られ、気持ち悪さを助長した。
「あそこで、飲み物でも買って、休みましょう」

 ぼくは子どもの楽しみの場の住人ではなくなっていることに驚いていた。もう見守る側であり、実際に、奈美の安全なる恐怖をよこで感じることもできなかった。ふたりで静かにジュースを飲む。すると、段々と落ち着いた気持ちになった。
「まだ、まわったり、落っこちたりする乗り物が待っているんだけど」奈美はいくらか不服そうな顔をしている。
 ぼくは返事もせずに遠くを見た。馬がゆっくりと軽い上下運動を伴いながら回転している。誰も悲鳴などあげない。カメラを片手にお父さんが一周してくる自分の子どもを写真に納めようとしていた。

「ああいう写真ある?」ぼくは、その回転木馬のほうを指差す。
「あるね。ちょっとセピア色になったりして。ある?」
「もっと、豪快な乗り物のほうが好きだったから」
「遠い昔みたいだね」
「撮るほうに回ったほうが良さそうかも。でも、平気になった。寝不足かなんかだよ」

 結局、ジェット・コースターには乗らなかったが、それに匹敵するような乗り物にはそれ以降、時間を開けては乗った。ぼくらは自分の身体を抑制不能な状態に置くことをこの場では望んでいた。奈美の腕はときにはぼくの腕を強くつかんだ。そうしながらも、彼女のほうが度胸があることは明らかになった。悲鳴をあげ、目をつぶるようなことがあっても、目の前の欲望に忠実であるのだろう。

 夜も更け、ぼくらはそこを後にする。器具はとまり、翌日まで絶叫も胃のむかつきもその場は生じさせないのだ。ぼくらは家に戻る。奈美はぼくの家に寄った。ぼくらは自分の身体を楽しませる術を発見する。いや、人類の歴史はずっと永続させてきていたのだ。ぼくらも追随者に過ぎない。遊具である自分。欲求を正当化させる行為。少しの恥じらい。ぼくらは生きているのだ。乗り物に身長が満たない子どもでもない。

 彼女はぼくの身体に寄り添い疲れたのか密着させて眠っている。お互いの曲線は、ぴったりと一致する物体になる。誰かが設計し、試し運転をする。ぼくは引き離し、冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出す。口を開け、水を注ぐ。ぼくは自分の胃や腸を今日のジェット・コースターのレールだと似たものとしてそれを思い浮かべる。いくつもの曲がり道があり、ゴールにまで届く。いくらかは汗となって消失する。数滴は涙にもなるのだろう。ぼくはその数粒たちをレール上から発した悲鳴だと思うとした。すると、奈美のあの横たわる身体の皮膚のうえからも小さな悲鳴がもれるのかもしれない。それはそれで困る。ぼくの安眠も奪われる。寝不足を解消しなければならない。ぼくは不本意に終わった今日の結果や、非難のことばを取り除く必要を感じていた。

流求と覚醒の街角(42)問い

2013年08月24日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(42)問い

「この前、言ったこと覚えていないでしょう?」と、奈美が言った。
「何のこと? ヒントは?」
「自分で思い出して」

 ぼくには覚えることがたくさんあって、忘れるべきこともそれに負けじとある。忙しさに追われながらも、これは無駄に過ぎないという時間の使い方も多くしている。振り返れば。子どもは結局は駄菓子屋に行くのだ。

 質問という形ではなく、直接に問題点を指摘されれば時間も節約になるのにな、と思いながらも、両親や先生なども、自分で考えて答えを導き出さない限り、そのひとの成長にならない、といって情報を細切れにした。大人になっても自分はまだされた。永遠とこういう状態はつづくのだろう。

 ぼくは段々と異性に頭を縛られる時間を少なくする。意図して、しているわけでもない。ぼくも社会の仕組みに組み込まれているわけであり、その社会は利益を生み出すことを要求していた。このぼくにも。

 ぼくは問題点を遠くに置く。それで、愛を勝ち得る訳でもない。もちろん、急激に失うわけでもない。失うとしても緩やかにすすむのであり、ぼくはその間に問題点を別の問題にすり替える旨さを発揮するのかもしれず、ただ痛みを一心に覆い受けるのかもしれない。でも、先に進んだことにより、それはひりひりという感情とも違っていく。鈍痛、というぼんやりとした響きに生まれ変わる。幸福か、不幸の源になるのかも計算せずに。

 翌日、思い出したの? と奈美に電話で問われる。あなたは、カーブという球種を投げられるようになったの? と、問われているようにも思う。ぼくには対戦相手などひとりしかいない。いささか、感情に左右され勝ちな女性ひとりだけだ。

 ぼくは問題点を空中に浮かばせたまま、それをぼんやりと片付けないということにすることをいままではしてこなかった。世界は判断をいままさに求めているのだと思い、答えを直ぐにした。しないことには、地球の運行が留まることを意味していた。世界の歩みにぼくの思考など一切、関わらないことだということも分かろうともせずに。

 ぼくは、だから奈美に連絡をすることをためらった。連絡を怠れば、またそれ自体が減点につながった。ぼくは異性に好かれることなど一切、あきらめた自分を想像する。しかし、それも、やはり水が干上がった河川を容易に想像させるものだった。

「そうか」ぼくは、ひとりごとを言う。奈美の母に対して、一度、電話をするということを思い出していた。ぼくが電話をしようが、しまいが、世間はジャッジをしない。だが、ふたりの女性はそれを公式な報告文書でもあるかのように必要としていた。

「思い出したよ。忘れてた。ごめん」ぼくは、ある日から奈美を愛そうと決意していた。決意ということではある面では間違っているのかもしれない。それはぼくの内奥が要求していたことなのだ。それに伴い、奈美の両親がぼくの前に存在することにつながった。それは、またある意味ではぼくにとって不本意でもあり、彼女にとっては当然のつながりであった。川の上流を汚せば、その傾斜のしたにいるひとにとって影響を受ける場合であれば、なおさらのこと。

 ぼくは奈美の実家に電話をする。ぼくの声を奈美の母は直ぐに理解しない。また、ぼくも、その声を親密に感じることはできない。でも、しない限りぼくの未来も明るいものにはならないのだろう。

 ぼくは、ある日の病院を思い出している。前の女性の母を見舞いに行った。それは無私の行為でありながら、その娘である彼女を身近に感じる機会にもなった。ぼくらは連れ立って、病院から駅までの道を歩く。男性は愛すべき女性を探す存在であり、また逆も同じように必然性を認識する過程にあるべきものとしてとなりを歩いているようだった。ぼくは、まだあの日を恋しがっていた。
「思い出した?」と、奈美は電話をかけてきた。

「オレが忘れると思ってるの?」ぼくらは、架空の問題を、手づかみにしたいようだった。それに、女性同士の親子というものに、ぼくは不信感と同時に羨望も同じように感じていた。「知らないフリをするのも大変だよ」

「なら、いいけど」奈美は、沈黙する。電話というものも沈黙を伴ってこそ効力を発するのだろう。「また、家に呼びなさいと言われた。行きたい?」

 ぼくは、たくさんの質問をされる。幼少時の病院では、どこが痛いのかと訊かれ、同じように歯医者では、唇の開閉も発声もままならないまま、執拗に問われた。何人かの女性には好きかどうか問われた。ぼくは、好きでもない女性といっしょにこの時間を過ごすわけもないだろうにという確信的な回答を胸に秘めたままでいる。

「行くよ。奈美の喜ぶ顔が見たいから」だが、その回答も奈美にとっては、減点らしい。
「わたしが、気にいるかどうかを無視して答えてよ」と力説する。

 そんなこと、ぼくができるのだろうか。また、しなければならないのだろうか。ぼくは、いくつかの物事を決めた。決めたくないことも、たくさんあった。あの女性との別れをぼくは決めたくもなかった。だが、彼女は別の居心地の良い場所を探す。ぼくは、自分の家のベッドに横たわる。これぐらいしか、自分の決定権の範囲もないのかと、その狭さを実感する。また、別の視点から見れば、それもいくらか広い領域なのかもしれない。猫の額ぐらいには。

流求と覚醒の街角(41)尺度

2013年08月19日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(41)尺度

 ぼくは奈美の視力を数字として覚えた。その前に輝きをともなったものとして知っていた。

 ぼくは前の女性の首の細さを知っていた。さらに華奢なウエストもまだ脳裏にあった。真っ白な太ももも現実感をともなったものとして自分のどこかに刻んでいた。その映像の複合を混ぜ合わせ、かつ巧妙に組み立てることによって、いまでも見事に再現できるようだった。しかし、それは手の届かないものとして再現できるだけであり、絶対に目の前にもあらわれない、決して触れることも不可能なものとして浮かび上がらせることができるに過ぎなかった。

 ぼくは奈美のことを、あらゆる局面から覚えようとした。彼女の足のサイズを知っていた。指の号数ということも答えられた。胸のサイズも知っており、そのいくらか不均衡な形のことも知っていた。だが、いつか日が経って再現できるのかと問われれば、それはなぜだか難しそうだった。そのふたりへの差異がどこにあるのか探そうとした。思い出のふるいにかけても耐久性のあるものもあり、砂時計が下にただ沈んでしまうように逆さまにすることも億劫に感じてしまうこともあった。反対に永久性というものが予感されるので、あえて覚えることを避けようとしているのだろうか。だが、すべて言い訳に過ぎなかった。意識的な言い訳であり、無意識的な願望だった。

 ぼくが奈美の足のサイズを知っているからといって、ぼくが映像として思い出すのは、前の女性がぼくの玄関で脱いだ靴の色と形だった。ぼくが奈美の正確な髪の長さを測ったとしても、思い出すのはあの女性の風にそよぐ髪形かもしれない。指輪の号数をすらすらと言えても、追憶にあるのはあのひとの指輪の繊細さであった。ひとはどのようなもので世界と目の前にあるものを認識しているのだろう。

 奈美は紅茶を飲んでいる。好みは数値で計れない。そのことにぼくはなぜだか安堵する。ぼくは奈美の全体像や雰囲気や趣向を覚えているのだ、というささやかな安心感だった。それは何に対する安心感なのだろう? ぼくは後ろ向きでもなく、後退する生き物ではないという自分に向けた安心だろうか。それとも、ぼくの前には愛すべき奈美がいつづけるのだという単純なる安らかさだろうか。ぼくは言い訳と逃げ道を確実に探している卑怯な生き物に思えた。

 夜更けも近づき、ぼくはひとりで夜道を歩いていた。さっきまでいっしょにいた奈美を正確に再現できるのか自分を試そうとした。ぼくはぼんやりと映像を作り上げる。最初に浮かぶのはいままでいた店の内装だった。店員の顔も思い出す。トイレが清潔だったこともきちんと覚えている。洗面台の横に置かれていたソープのタンク。使い終わったペーパー・タオル。ぼくの奈美はいったいどこに消えたのだろう。

 すると、奈美から電話がかかってくる。ふたりともまだ家には着いていない。ひとりで歩くのを不安がるようにぼくらは電話を片耳にあて、話し合いながら距離を縮める。ぼくは奈美の声はきちんと再現できる。いや、ここで会話をしているからそう錯覚しているだけなのかもしれない。目の前にないものはいかにおぼろげなのだろう。ぼくは両親のことや、まだ幼いころの友人たちのことも実際の姿として思い出そうとした。やはり、困難という状態にふさわしい場所に位置するのかもしれないと思っていた。誰のこともきちんとした形とはならない。人間なんてものは、目の前にあるものを見つめ、手でその暖かさや冷えを触れて感じ、声を通してしか立体なものとして判別できないものなのだろうか。だが、電話を切ると、ぼくに真っ先に浮かんだものは、前の女性の映像だった。いまごろ、なにをしているのだろう? その映像は年をとることも当然のことしない。あの日を境に止まったままなのだ。ぼくは、自分のある過去の日を懐かしんでいるだけかもしれなかった。

 風呂に入り、シャワーを浴びた。ぼくは名前を呼ぶ。もちろん、自分の名前ではない。奈美の名前でもなかった。もう偶像となってしまった名前だった。もしかしたら、居てもいなくてもよいという段階にまですすんでしまったのかもしれない。ただのなつかしい響き。大好きだったおもちゃのようなものとして歴史に封じ込められてしまうもの。それもまた空しく残酷でもあった。

 部屋にもどると家の電話の留守電を知らせる機能が明滅していた。ぼくは再生する。ただ、奈美が「おやすみ」と言っただけだった。だが、その言葉の重みや響きが、ぼくをこの夜に確実に結び付ける役目を帯びているようだった。ぼくはもう一度その音声を聞く。風船ではなく、しっかりと指に絡みつかせる紐のようなもの。いまのぼくにはそっちの方が必要なのだろう。ぼくはこの声をいつまでも覚えていられるだろうか。いや、明日もあさっても彼女に言ってもらえれば、それで済むのだ。解決するものなのだ。なんて、簡単なことだろう。ぼくはベッドにもぐり込む。たくさんのことを忘れ、たくさんの予定もたてる。たくさんの約束を重ね、実行したことも忘れる。おやすみやおはようを何度も言い交わし、ぼくらは暮らす。それだけで、きょうのところは充分なようだった。

流求と覚醒の街角(40)池

2013年08月18日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(40)池

 ぼくらの目の前には大きな池があった。反対側は中央にある小高い島が視界をふさぎ、よく見えなかった。ぼくらの後方には案内板があった。そのなかの赤い文字が現在位置を教えてくれる。
「1週、どれぐらい時間がかかると思う?」と、奈美が訊ねた。
「多分、30分ぐらいじゃない」ぼくは下の表示のメートルでおおよその時間を計算する。ぼくの足だと。
「じゃあ、反対側にすすむと、この辺りで15分後に会うことになるわけだね」奈美はある一点を指し、そう言った。

「そうなるね。多少、場所はずれるかもしれないけど」
「この辺か、この辺」奈美は最初に指した箇所から池のふちに沿って指を左右にずらした。「やってみる?」
「何を?」
「何をって、反対にむかって歩く。もし、わたしの方がここより近づいたら、ご褒美ちょうだい」
「走るかもしれないじゃん?」

「走んないよ。誓うよ」奈美はまじめな表情でそう言った。自分で決めたら、確実に守るのだろう。ある面で頑固な性格だ。「じゃあ、行くよ」それから、ぼくらは儀式的に背中を貼り合わせ、それを引き離すように歩き出した。待ち合わせでもなく、ぼくは奈美をその時間だけ失う。

 ぼくの側には大きな道路があった。なるべくなら、反対側の静かな方がよかったなと今ごろになって後悔する。しかし、休日の道路はそれほど交通量も多くはなかったので、予感は良いほうにも外れたのだ。思ったより静かだった。ぼくは池に沿ってなだらかに右側に傾く。だから、奈美は運動会と同じように左側に向かってカーブした道を歩いている。

 ぼくは孤独な作業をしているはずだが、絶えず奈美のことを考えてもいた。当然といえば、当然だ。いままさに同じ行為をしているのでもあり、遠くもない未来に決めた地点の前後で彼女と会うことになっているのだ。未開の運命ではない。あらかじめ決められた未来。それはまったくの手付かずの行為でもないわりには、新鮮味もそこそこにはあった。奈美のご褒美というものは一体、どういうものを期待しているのだろうか。ひとりで歩いているだけなのでいろいろ考えられる。そうだ、ぼくが走っても良かったのだ。大人気なく距離を稼ぐ。ぼくの左側には案内板がまた出てくる。池の形状はまったく同じだが、現在地の表示は歩いた分だけ移動している。ぼくは半分近く歩いてしまっているようだった。奈美も同じぐらいすすんでいるのだろう。すると、このあたりがいちばん遠い距離にいるということなのだろうか。正反対あたりを奈美は真剣に歩いている。

 地元のひとが思い思いの格好でジョギングをしていた。競技用の自転車も横を通り過ぎる。彼らにとっての日常である。ぼくにとっての日常も奈美と離れ、会うことを基盤にしてできているのだろうか。ここでは迷うこともない。別のルートはないのだ。星の軌道をずっと観測しているひともいる。数年後におおきな星の群れを観測できることをあらかじめ知っているひとたち。だが、急激に落下する隕石などは、その予測からももれてしまうのだろうか。素人の自分には分からなかった。ぼくが奈美と会うということも、数年前は分からなかった。もっと前は、その前の女性との別れが来ることも知らなかったぐらいだ。すると、別のおおきな何かはぼくと奈美を会わせたがっていたのだろうか。ただ、それをぼくが望んだ結果だからなのか。あの日、急病でもして、友人を祝うための集まりに参加できなかったら、それと同等のぼくが誰かを愛したいというきもちは別の対象を探し、目の前にあらわれるべきその女性を愛したのだろうか。その女性は池の周囲を反対向きに歩こうなどと提案しただろうか。ぼくの頭は歩いた結果、血が廻りたくさんの想像を紡ぎだした。

 最初に案内板で確認した地点に近づいてきた。彼女がわき道にもし逸れたら、この池を何週しようがぼくらが対面することはない。それは普段も同じだった。もし、彼女のぼくに対するきもちがなくなったら、会う約束も今後しなくなる。ぼくが別の軌道にのったり、ほかの惑星と例えられる女性に向かって衝突しようと願ったら、一生、会うこともないのだ。

 ぼくは前の女性と別れてからも、どこかでこの気持ちが正直な純粋な愛で、報われることがあるなら再会するチャンスもあるのかもしれないと思っていた。しかし、今日までその機会は訪れなかった。あれは、確かな愛ではなかったのか、それとも、報われる必要などないと誰かが決めたかのどちらかなのだろう。正解は誰も知らない。少なくとも、ぼくは知らない。ぼくが気にも留めなくなったら、地球に存在する誰一人としてこの問題は気にも留めないのだ。事実というのは、悲しいぐらいに残酷で、そうしたさっぱりとしたものなのだろう。

 すると、奈美の姿が小さく見えはじめた。およそ予想した地点で出会うことになりそうだ。彼女もぼくを視界に入れたようだ。ふざけて走る真似をする。彼女の背中から追い越すランナーがあらわれる。奈美以上にぼくに関心をもつひとがあらわれるのだろうか。反対に、ぼくは奈美以上に誰かと会うことを楽しみにしてしまうのだろうか。ぼくらの距離は20メートルにも満たない。ぼくは腕時計をちらと見る。17分ぐらいあれから経っていた。あれから、17年という単位もくるのだろうか。奈美の鼓動を感じられるまでの距離になった。

流求と覚醒の街角(39)印刷

2013年08月17日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(39)印刷

「この前、買ったプリンターだけどつないでも、うんともすんとも言わない」奈美はあきれたような口振りで電話の向こうで話している。
「電源、きちんと入ってる?」
「バカにしてるでしょう? もう。あ、いや、入ってた。もう」
「週末、見に行くよ。ドクターの回診。急ぎでもないんでしょう?」
「ちょっと、急いでるけど」

「仕事で使う?」
「ううん。趣味。友だちに写真をプリントアウトしてあげたいなって」
「うん、そうか、分かった。行けそうな日、また連絡するよ」
 ぼくは予定を調整して、奈美の家に駆け付ける。用意するものもない。大工道具もドライバー一式もいらない。ただ線をつなぎ、コンセントを入れる。順を追っていけば、正解にたどりつけるのだ。ぼくはキッチンに奈美を追いやり、あぐらをかく。説明書をぱらぱらとめくる。簡易な文章。いくらかつっけんどんな文章。ぼくが考えている日本語とはいささか違っている。何がないのだろう? 潤いか。優しさか。

「できそう?」
「できないひともいないよ」
「いるよ。わたし、そういうの得意なんだけどね」奈美は負けず嫌いの一面が顔をのぞかせる。ぼくはパソコンを立ち上げ、ソフトをインストールして、コードをつなぎ、コンセントを突っ込む。電源を入れると、モーター音がする。用意は整ったようだ。
「何か、紙ある? どうでもいいのでいいよ」

 奈美は引き出しからコピー用紙を出した。
「はい」彼女は紙の束を差し出す。「自分の文字がきれいに印刷されたのをはじめて見た時、あれ、感動だったな。でもね、あれも、ノートの写しっことかも、あれは楽しかったな。字って、性格出る?」
「字より、ノートの使い方なんじゃない。隙間というか、並列というか」
「好きな整理整頓だね」

 モーターはさらに大きな音に変わり、下からゆっくりと紙を吐き出した。試し用のものが印刷される。見事、成功。
「それで、写真だっけ? いつの写真?」
「この前のキャンプ。いっしょに行けなかった」
「あるの?」
「あるよ。そのためのプリント用紙も買ってきてある。意外と高いんだね」奈美はカメラと角張った用紙の箱を手渡した。
「もっと安いのもあるんじゃない」ぼくは値札を確認しながらそう言った。

「でも、プレゼントするっていったから、きちんとしたのじゃないと」ぼくはカメラからカードを取り出し、パソコンに画像を取り込んだ。一日の連なりが連続した写真で分かる。朝、まだ眠たそうな顔のひともいる。昼。バーベキューが準備される。奈美も包丁を握っている。それは、誰が撮ったのだろう? 肉が焼かれる。食後に遊びだした子どもがいる。空になったビールが所狭しと並んでいる。片付けにすすむ。場面は夜になって手持ちの花火をしている。画像は急に粗くなる。ピントも合っていない。目が赤い。夜の写真の典型のように。
「選ばないとね、どれとどれをって」
「何枚ぐらいあるの?」

「72枚」
「一回、全部印刷しちゃおうか」
「無謀だね」
「なんで、紙で見たい」
「小さい紙、どこから入れるんだろう?」ぼくはひとりごとを言う。ぼくは、また説明書をめくる。優しくない。接点を求めてもいないようだ。「ここか。パカ」と自分で開閉の音を出した。「時間、かかりそうだね」
「じゃあ、その間に何か飲む?」

「飲むよ。疲れた」向こうの部屋でずっと重たいモーター音がする。写真というのは枚数の限度があり、カメラ屋にフィルムをもちこんで現像をしてもらうのが普通のことだった。余った写真を、どうでもよいものを写して枚数の残りを調節した。ネガができ、それはどこかに仕舞われた。きちんと整理をしないといつか無くしてしまうものたちだった。気に入った帽子をかぶった自分が写真にのこって、それを見ればあの感情をよみがえらせてくれる。だが、ぼくはコピーもできず、やはり、借りたノートを手で写し替える作業もなつかしく感じていた。

 しばらくして機械の音はしなくなった。全部、役目を終えたらしい。ぼくは写真を束ね、電源を切った。その機械は熱を帯びていた。引換証をもって、カメラ屋さんに受け取りにいったことを、ぼくは思い出している。にきびもない顔。自分の気持ちを異性に知ってもらいたいとも、知ってもらえるとも思っていなかった自分。その女性との間でドキドキしたものが発生することも知らず、その高揚を越えたところに何があるかもしらなかった若き少年。ただ、それに愛着をもちたかっただけなのだろう。
「楽しそうだね、全員」ぼくがそう言うと、奈美は紙芝居でも披露するようにその一枚一枚にたいして注釈や説明を加えた。それから、奈美は紙を取り出し、それぞれの写真を余分にどれほどプリントするのか人数に応じて数字を書き加えていた。

 ぼくはパソコン内にある別のフォルダにある写真を意図もしないで、他愛のない気持ちで見てしまった。奈美は別の男性と寄り添っている。ぼくは彼の名前も知らない。しかし、そこに溢れるほどの愛情の萌芽があることは理解できる。奈美が自分の作業に夢中になっている間、一瞬だけだったが、ぼくは彼女の過去に嫉妬をするのだ。これは犯罪なのだ、と勝手に思う。他人の秘密をのぞくことは、ただ、自分を傷つけることになるのだろう。ぼくはふと古い映画のシーンを思い出している。そこにもカメラがあった。死刑台のエレベーター。完全犯罪を信じた男女は、暗室で浮かび上がるお互いの秘密の関係を暴かれてしまう。それは紛れもない証拠になった。愛情の証拠は両者の気持ちのなかだけに存在するのではなく、カメラにさえ紛れ込んでフィルムに刻印を押すのだ。ぼくは、フォルダを閉じ、パソコンをシャットダウンさせる。暗くなった画面を見つめても、ぼくの網膜にはきちんと鮮明に、まだまだ残像という言葉では軽いぐらいに重くのしかかり、ゆっくりと余韻をもたせていた。

流求と覚醒の街角(38)目薬

2013年08月16日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(38)目薬

 奈美は病院に行った。目に違和感があったらしい。大きな白い眼帯をした映像を思い浮かべる。そんなひとはアニメのボクシングの優秀トレーナーだけなのに。だが、彼の片目の布は黒かったようにも思う。

 結局、会ったときにはいつもと様子が寸分も変わらないようだった。ぼくは安心する。少し、がっかりする。いや、安堵している。

「やだ、そんな姿」彼女はぼくが先ほどまで考えていたことを言うと、大きく笑った。「鼻も赤くしなきゃいけないんでしょう? ただの、ものもらいなのに」

 ぼくらはぼくの部屋に向かった。その前に、近くのレンタルショップで映画を選んだ。目を酷使することを避けなければならないが、予定として組み込まれてしまっていた。それほど、奈美の目に異常があるとも思えなかったので選択は不都合でもなさそうだった。それから、簡単な飲食物を買い込み、ぼくは部屋のカギを開ける。

 ぼくが手を洗っている間に、彼女は鏡を真剣な様子で眺めていた。
「気になるな」
「それほど、傍目には分からないよ」ぼくは皿を出し、軽食をそこに移した。

 座ると、バッグから薬局でもらった袋を彼女は取出す。その表面の文字を彼女は見つめていた。
「目薬?」
「そう。くれた。でも、点眼薬なんて言葉、あまり使わないよね」
「外国人が真っ先に覚えたい日本語じゃないね」

「じゃあ、いちばんは?」
「それは、こんにちはでしょう。違う?」
「ここに行きたいんですけど。ガイドブックを指して、そう訊くのがいちばんじゃないの」
「その前に、挨拶ができなければ」
「そこまでうまいと、親身になりにくいから」

 ぼくらは、どうでもいいことをずっと言い合った。その後、床にすわり、目の前にあるテーブルにお酒と軽食を並べた。借りた映画の丸い円盤も四角いデッキにセットした。
「ちょっと、これ、差してくれない?」奈美は目薬をつかんでいた。
「自分でできないの?」
「あまり、普段つかわないから。ちょっと、恐い」返事として頷いてから、彼女はそうもらした。「ちょくちょく差す?」
「ほぼ、毎日」

「人類は二分されるのね。目薬を差す人種と、いらない人種。ほら」彼女は差し出した。
「赤ちゃんかよ」彼女はぼくの膝にあたまを置いた。目のまわりはすこしだけ赤みを帯びている。
「いいんだよ。でも、反対から見ると、こういう顔してるんだね。反対からだからか、ちょっとグッとくる」
「目を開けて」ぼくは彼女の瞳の上に水滴を落とす。彼女は目をつぶる。そして、その液体を取り込む。「これ、片方でいいの?」
「悪いのは片方だけだけど、バランスがね。こっちにも差して」
「いいよ。入れても悪いもんじゃないでしょう?」
「みんな、どうしてるんだろうね」それから、ぼくはもう一方の目にも目薬を投入した。彼女はきつく目をつぶり満足したようだった。異物は、体内に入ると異物ではなくなる。だが、家に帰ってひとりできちんと使えるのだろうか? その前に既に直りかけてもいるので、必要ないのかもしれない。

 ぼくらは予定通り映画を見る。数年前の風景はもしかしたら、この映画のなかにしか存在しないのかもしれなくなるとぼくは予想を立てる。その予想も確信に近くなっていく。ぼくは太ももに奈美の首の重みをいまだに感じていた。彼女がぼくに向けた下にあった目も、いつか変化が訪れるのかもしれない。周囲にはしわができる。眉の形も流行があるのだろう。そもそも、ぼくに対する絶対的な安心感など失っているのかもしれない。その痕跡の定着のために、彼女の目の症状は必要だったのだ。

 映画はさほど面白いものでもなかった。ふたりは何度か途中であくびをし、冷蔵庫にものを取りに行くときも一々、映像を一時停止にすることもしなかった。数秒の遅れを取り戻すことなど考えもしなかった。茫洋とした物語と、ゆっくりと流れ往く風景。だが、奈美の目を考えれば、目まぐるしく場面が展開する派手なアクション映画など避けて正解だったのだとも思っていた。
「終わったね。で? という感じだったけど」
「選んだのは奈美だよ」
「最後はふたりで同意したんだよ。もう一本見る?」
「いいよ、疲れた。スポーツのニュースでも見たい」ぼくはリモコンを操作して、その時間に流す番組に変えた。一時停止も要求されない番組。明日もまた、明日の野球の試合があるのだ。もし、なかったら投手の給料も未払いになってしまうだろう。それも困る。

「じゃあ、目薬のストックがなかったら困る?」奈美は思い出したかのように訊ねた。
「困るというか、切れないようには無意識に考えているでしょう。考えてもないか、あ、ないなって気付くから。減っていく中味で」
「そろそろ?」
「まあ、そろそろだなって」
「わたし、これがあることも直ぐに忘れるな。家で。あ、薬、差す時間だったとか。でも、もうそのときには直っているんだよね、きっと」
「それが、いちばんだよ。それに、毎日、必要なものはやっぱり毎日、忘れないよ。化粧水とか、コーヒーとか」
「忘れてもいいことがたくさんあるのにね」
「あるの?」
「わたしだけじゃなくても、あるでしょう?」

「あるだろうね」多分、きょう見た映画は確実に忘れてしまうだろう。どこかに高級な生命体か記憶装置があって、ぼくが見た映画のリストをある日、提出してくれないだろうかと思ってみる。奈美とあった日付と出来事も。しかし、忘れるものが無限にあろうとも、ぼくのひざはきょうの重みをいつまでも覚えているようだった。不確かだが。確かに、不確かだが。ぼくは飛行機のなかで、横にいる女性がぼくの肩にもたせかけた重みを相変わらず宝物のように自分に刻んでいた。多分、それもずっと消えない。その忘却と生々しさの線引きはどこにあるのだろうかとぼくは夢想する。

流求と覚醒の街角(37)H

2013年08月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(37)H

「ねえ、フランス人って、ほんとにHの発音をしないんだと思う?」奈美が会話の脈絡もなくそう訊く。もちろん、そのことを引っ切り無しに考えている自分でもない。一家言もっている訳でもない。噂を知っている程度のことだ。
「同じ人間なんだから、できないこともないと思うけどね」だから、ぼくの答えは漠然としたものになっている。「また、なんで?」
「知り合いがね、この前、ゲームをしていてね、フランス人とだよ・・・」ぼくはフランス人とゲームをする情景を考えてみるが、なかなか困難であるようだった。「そこで、音速とか、安息とか急に言われて困っていると、言いたかったのは反則なんだって」
「ズルしたのかね」

「したか、分からないけど、エキサイトすると反則って、なんか出ちゃうよね」と、奈美は言った。「それから、反則だ、反則じゃないと言い合ったらしいんだけど、片方は、反則ときちんと言ってないから、ゲームの問題じゃなくて、わざと言わないんだって、喧嘩の種類が変更されてしまって・・・」
「やっぱり、同じ言葉をつかって喧嘩しないとね」
「そう。だけど、ついにはふたりとも笑ってしまって。喧嘩も終了。言おうと思えば、言えるよね?」
「さあ、どうだろうね」
「さっき、言えるって言ったばかりじゃない」奈美はふくれる。反則。

 ぼくは、敢えてHが出て来る言葉を探した。車の会社。香港。ほっぺた。ほっかむり。箒。頬杖。稲穂。それは野球選手の話題に転じてしまいそうだ。
「王が膨らんでいるよ」ぼくは、自分の頬を指差し、それから、奈美の頬をさわった。
「ほんとだ。いや、おんとだ」と、奈美はわざと間違えた。

 あるひとつの国家の意向としてHを口に出さない。いや、出せないのだろうか。国境を接して隣り合った町の住民はそれらを発する。言葉が意思を通わせるためだけにあるのなら、不便以外のなにものでもない。そこにプライドと意地があるなら、それは許容されるべき、また相手は受け入れざるを得ないことなのだろう。

 その日の一日、ぼくらはHを発したら罰を与えるというゲームをする。段々とすすめていくうちに当初の意図とは別に、自分は言ったことに気付いても、相手には感づかれないことが多いということが分かってくる。慣れ親しんだ言葉が間違っていることなど意に介さないのだ。ぼくはそのままその現場を素通りさせてうやむやにし、奈美は自分から告白して笑ったり、白状することすら楽しんでいるような気配だった。そのうちルールは改定され、相手が気付かない、指摘しない場合は、無効ということになった。アドバンテージ。

 さらにすすめばそうしたルールに則って話していることすら忘れてしまう。指摘することも話の腰を折ることになるのがみえみえのときは、放棄した。大切なことが他にもあるのだ。だが、ちょっとしたときにはまたルールは厳格さを帯びて、効力を発揮した。
「やっぱり、言えると思うね。でも、これも小さいときから周りがそうしていたからだけなのかね」
「誰かに、机の前できちんと教わりつづけたものばかりじゃないからね。両親や、ラジオやテレビ。それに仲間内の会話とか」
「友だちだけとしか通じない言葉とか使っていたな」
「それが友情と思ってね」Hは出ていない。

 派閥といえば聞こえが悪いが、チームや仲間と称すれば一体感がある。流派や同じこころざしをもったもの。キュビズム。野獣派。また、反対に自分にないものを求めるという潜在的な気持ちもあるのだろう。自分の立ち位置が変われば、反対側もそれに連動して変わる。あるとき、仲間であったものたちがグループを解散することもある。追い求めていたものも各自の成長にともなってバランスが崩れ、体制にも変化を強いられる。名声を得ているグループがコンビや結託を解消すればニュースになるが、ひとつひとつの別れ話など表に顔を出すこともない。闇に葬られるだけなのだ。

 そこは闇でもないのかもしれない。きちんとした区別がつかないものの総称。無雑作に投げ込まれた個人のボックスでもありながら、その当人だけには容易に取り出せる入れ物。

 結局は言葉のゲームなど簡単に押し流されてしまった。ぼくらは思ったことを好き勝手にしゃべった。奈美の吐息は前の女性の吐息と違う。保有する言葉の数など、そう大した違いもないのだろう。そのうちから選ばれて使われたひとつの優しい言葉がぼくをあたため、厳しい言葉がときにはぼくを傷つけた。そのひとつひとつもぼくは保管するようだった。次にぼくらは寝そべったまま早口言葉を言い合う。ぼくに言えて、奈美には難しい部類のものがある。奈美はすらすらと発音し、ぼくがつっかえるセリフもあった。だが、共通としているものは同じなのだ。異国の女性に恋をするひともいるのだろう。だが、ぼくはこのように同じ言語で気軽に打ち解けて会話できる相手をここまで望んでいるとは思わなかった。

「ハイヒールって、Hを抜いたら、もうその言葉じゃないね。別のもの」

 その仮定の文字を発音したぼくは、錆びた車体にタイヤも外れ、空き地で朽ちていくままに任せた車の写真をなぜだか思い出していた。車は数人の家族を乗せ、休日にでも、どこか遠くへ運んでくれるものなのだろう。だが、ぼくはその廃品に近い姿も車以外の言葉では表現できない。他のひとに説明する際にも車という名称をつかうだろう。対象は車だけではなく、新旧の些細なエピソードを積み重ねれば、それは電話帳ほどの体積になり、奈美自体のすべても説明することが可能になるのだろうか? でも、奈美の本質は研がれたあとの米粒の芯ほどしかないのかもしれない。たったひとこと。スピードが出た車。馬力があった車。故障しないもの。同じく多くの人間も、総じてひとことで説明がつくとまで、ぼくは思いはじめていた。いや、思いあぐんでいた。

流求と覚醒の街角(36)黒

2013年08月11日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(36)黒

 映画館から出ると、奈美の目の下の化粧は黒く滲んでいた。彼女は化粧室に入って、戻ってきたときにはその部分は元通りになっていたが、瞳はまだ赤さがのこっていた。
「泣いたの分かる?」
「よく見れば」

 分量として女性のほうが泣く回数が多いと思うが、泣いた後の履歴がはっきりと分かるのは男性のほうが多い気もした。それは泣くという行為自体が男性にとって非日常のことだからであろうか。事件でもありイレギュラーでもある。ぼくもその映画に感動し、涙がもれそうになった。しかし、どこかで自分を押し止めてもいた。もし、仮にひとりだったら、その決壊をあっさりと許してしまっていたのだろうか。

 でも、涙というものも不思議なものだった。それは、目の薄い皮膜を保護する役目としてだけではなく。感情と密接に結び付いているものなのだ。物語に感情移入をしてこらえきれずに水分が涙として出る。悔しくても出ることもあるし、疑いを晴らせなくて地団太を踏み、ひとり涙を流す機会もある。勝負に負け、泣きながらグラウンドの土を袋に入れる。顔をくしゃくしゃにして、冷静さも客観視もすべて後ろに放り投げて。

「ひとって、笑顔が魅力的なひともいるし、困った顔が可愛い子もいるよね」
「そう? わたし、どっちだろう」
「いつも、元気だし。笑顔じゃない」
「じゃあ、泣いたら減点?」
「そうでもないよ。感情なんて豊かなほうが魅力的だよ」
「そうだろうね」

 奈美の眼はいつものように好奇心が溢れた視線にもどっていた。すべてのものを吸収したがるような集中力がともない、そこに優しさと慈愛を含ませているもの。ぼくは彼女からもっと知りたいと思う気持ちを得なければならないと思っていた。それは窮屈さにつながらず、かえってのびのびとさせる印象もあった。それが、簡単にいえば好意というものなのだろう。

「泣いた後の女性の回復って、あんまりイメージに残らないね」
「たくさん、泣かせてきたからじゃないの?」
「まさか。ぼくに限って」ひとは根拠もないことを判断して、さらに肯定する。肯定する土台には結局はなにもないのだ。砂でつくられた城。毎日がその積み重ねだろう。その話題を自分が忘れ去ってしまった頃、相手から持ち出される。根拠も土台もないところから発言された言葉は、当人がいちばん知らないし、自信もない。その過去の日の自分は、ほんとうにぼくであるのだろうか。
「でも、泣くって浄化にもつながるんだよ」と、奈美は積極論をもちだす。

「じゃあ、ときどき泣いたほうが健康にも心身にも味方になるんだ?」
「そうだよ」
「だからといって、無理には泣けないしね」
「浄化させるものも、悲しみも少ないんじゃないの・・・」
「ぼくが? まさか」

 ぼくは、あのとき立ち直るために、でも、泣きもしなかった。言い古されたことだが、やはり時間の経過が役に立つのだ。それでも、悲しみの根底にあるものは、炭のようにどこかで熱を発しているようだった。白くなり、水をかけても、それはよみがえってくる運命にあるのだ。それに、その悲しみを完全に払拭してしまえば、ぼくの過去も、相手が与えてくれた喜びも楽しみも同時に奪い去ってしまう恐怖があった。だから、ぼくは悲しみを温存させている。また、いつか変わる日も来るのだろうが。それを待つこともないし、待ちわびることもない。ただ、どこかで変化をくれる日が来るのだろう。子どもでもでき、生活に追われるような日々に足を踏み入れれば、ぼくの個人の過去など思い出すのに値しないものと思うかもしれない。さらにもっと時間が経てば、やっと冷えた炭として機能するのかもしれない。でも、まだだった。

「じゃあ、もっとも大泣きしたのは?」奈美は挑みかかるように質問する。
「まったく、思い出せない」
「ほら、やっぱり、傷もない人間」
「じゃあ、奈美は?」
「いっぱいありすぎて、どれから言おうかな」悲しみのことさえ彼女は楽しめるようだった。だが、もしかしたらその程度の悲しみしかひとには打ち明けられないのかもしれない。いくら、親しくなったとしても。未来をいっしょに紡ごうと決意したとしても。

 あの女性は、ぼくと別れて、楽しかった日々を振り返って、泣いたりしたのだろうか? 未練の度合いが多いのは男性のほうだと言うひともかなりいる。その例にぼくももれなかった。泣いたから、悲しみの量が多いからといって、それで失われたものが戻るわけでもない。だが、喪失だけが正しい記憶なのだ、とぼくは思おうとした。

「何回もお父さんが自転車を後ろで支えてくれたのに、いつまでも乗れなくて悔しくて泣いた」と奈美は言った。ぼくにはそのような記憶もない。「でも、次の日には乗れるようになってた。あれは喜びの通過点として両方とも覚えておく必要があるんだね」そして、急に満足気な顔になった。

 喜びも悲しみも奈美の側にあった。その後、ぼくは奈美に悲しみを与えてしまうことを避けたいと願った。だが、ひとが本気で触れ合う以上、どこかで傷と修復があるのだろう。絶対にしないと誓うには、他人であるしか方法はないようだった。そうした欠点を内包したものが、まさしくぼくでもあるようだった。

流求と覚醒の街角(35)マンガ

2013年08月10日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(35)マンガ

「このつづきが読みたいから、ちょっとコンビニに買いに行って来る。なんか、いる?」
「とくには」
「そう。じゃあ、行って来るね。待ってて」奈美は軽装で外に出掛けた。ぼくは、待つ以外にすることもなかった。それで、彼女が読み終えたマンガをパラパラとめくる。彼女の欲望を駆り立てているものを知る必要があった。そう思いながらも、ぼくは直ぐに飽きてベッドの上に放った。ぼくはマンガを理解するようには作られていないようだった。子どものころに買った野球のマンガは良かったな、とかなつかしむ程度には愛着がある。奈美の部屋を見渡すと、いま買いに行っているマンガの前作が並べられている。順番が入れ替わっているのは、最近、読み直した証拠なのだろう。ぼくはそれを番号順にきちんと並べ直す。そうすると、その棚に整然さが生まれるようだった。

「あのコンビニの前、そういえば結構、やんちゃそうなやつがいたよな」と、ぼくは独り言を言った。だからといって、ぼくが行くという考えが事前に生じなかった。しかし、そんな心配も杞憂に終わるほど、彼女は直ぐに帰って来た。
「あった。ちょっと、ひとりにするからね、悪いね」

 彼女は袋をがさごそといわせマンガを取り出して、ベッドを背もたれに座った。ぼくは音楽をかけ、ビールを飲みなおす。奈美の頭の中には、しばらくはぼくがいなくなる。ぼくは柿の種をつまみながら、ビールを飲み、ひとの頭を占有するものたちを考えていた。

 前の女性の母は画家だった。その絵を彼女とふたりで見に行った。目の前にあるものをただ写実的に描いたものではない。しかし、その娘である女性の肖像も描いていた。抽象的なマンガなどあるのだろうか。情報を絵とセリフで説明する。その情報の圧倒的な量が、逆にぼくを混乱させる。ひとりのひとを好きになり、もっと彼女のことを知りたいと思うようになる。だが、ぼくは一目ぼれという簡単な感情だけで、すべてを判断しているようだった。だから、情報も少なくて良いのだろう。その気持ちをもってぼくは一枚の絵と対峙した。

 ぼくは、前の女性の肖像画をもらった。いまは実家にあるのだろうか。写真をどうしたのだろうか。ぼくは写真より、なぜかその一枚の絵をなつかしんでいた。ぼくの記憶の奥に残りつづけようとしているのは、絵という媒体が強さを持っているらしかった。あのときの外国で見た絵たち。風景などよりも鮮明に残っているようだった。いま、ここで、ぼくはそれらのことを思い出していた。

「やっと、読み終わった。だから、これから相手になるよ」しばらくすると奈美はそう言った。
「また、次が待ち遠しい?」
「それはね、つづきがあることだから」

 ぼくは失くしたつづきのことを懐かしんでもいるのだろう。野球少年が主人公のマンガも、いずれ少年ではいられなくなる。一部のひとがプロになり、一部のひとがさらにコーチになったりもする。両方の能力を与えられているひともいて、片方だけのひともなかにはいる。片方だけでも立派なのだ。画家という才能をもった女性がいて、彼女は娘を産んだ。ぼくは彼女が生み出したどちらにも感銘を受けていたのだろう。もちろん、娘のほうにより比重は置かれているのだが。しかし、つづきはない。ぼくは奈美を選んでいたのだ。
「明日が待ち遠しいという気持ちも、最近、ないな。遠足が早く来ないかな、とか思っていたぐらいがピークだったのかね」
「やだね、おじさんの入り口」

 好奇心をなくすということは、そういうことなのだろうか。次の日に起こるだろう期待に胸をワクワクさせる。その期待のほうが、実際に起こったことより印象に残っている。あの遠足は本当に楽しかったのだろうか。それとも、眠りをさまたげるほどの期待が勝利を手に入れているのか。確かに覚えているのは、あの前日の布団のなかの眠られないぼくだった。いまは、そのような夜もない。枕に頭をつければ、直ぐに寝た。秒殺。交際への返事を待つ、という気持ちもぼくにはなかった。ふたりの女性は簡単に了承してくれた。あれは、やはり、気をもたせて返事を先延ばしにしてくれてもよかったのにな、と甘い幻想をつむいだ。そして、奈美にもそれを語った。

「なんだか、面倒な性格なんだね。好きになったら、好きになっただよ」奈美も柿の種をつまむ。「おいしいか、おいしくないか。好きか、嫌いか。返事をするか、断るか」
「すると、ぼくが付き合って欲しいといったときには、あらかじめ想定した事態だったってこと?」
「そうだよ。だって、わたしのこと好きって顔にかいてあったよ」また、彼女は菓子をほおばる。「それは言い過ぎかな。少なくとも、関心は、積極的な関心はあるなって読めた」
「それが、好きだってことかもね」
「そうかもね。でも、寝ても覚めても考えてくれないんだ。いまは」
「考えてはいるよ」だが、これも正直な気持ちだろうか。ぼくは奈美のことを自分の時間のうちのどれほどを使っているのだろう。目の前にすれば、考えや思いということとは別個で、なんだか反射神経だけを使っているようにも思う。

「つづき」と奈美は言った。昨日より、彼女は魅力を増したのだろうか。ぼくらは、それぞれ馴れていくという段階を経ていくだけなのだろうか。彼女はこう考え、こう行動するだろう。ぼくは、それらを知っている。また、段々と一目ぼれという範疇から遠ざかっていく。衝撃的な出会い、というものをぼくは求めていただけなのだろうか。だが、つづきをする。

流求と覚醒の街角(34)対比

2013年08月04日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(34)対比

「わたし、ちょっと太ったと思わない?」と、奈美は何気なく訊く。正解が必要だとも思えない質問。愚問。世の中には、多分、そういうものが少なからずあるのだろう。指折り数えることはしなくても。
「ちょくちょく会っているから分からないよ」
「じゃあ、ちょくちょく会わないようにする?」

「そう、短絡的な問題でもないだろう」ぼくは手を休め、奈美の顔を見る。「それに、太ったとも思えないよ、正直にね。気にしすぎなんじゃない」
「気にしてないよ。違う。わたしのこと気にしすぎなんじゃない?」勝ち誇ったように奈美は言った。
「具体的には、どうなの? 例えば、服が入らなくなったとかさ。3人ぐらいから、太ったんじゃないとか、急に質問されだしたとか」
「そこまでになったら、それは疑問ではなくて、明らかな真実でしょう」
「まあ、そうだね」

 ぼくはひとからの指摘を意識して生きていなかった。それでも、数人から「疲れてない?」と訊かれれば鏡を覗くぐらいのことはした。実際に目の下には疲労のあとが刻まれていたりした。だが、数日後には消える運命にあるようなものだった。皮膚のうえから。恒久的にはならないものたち。
「体重計は?」ぼくは、彼女の軽い怒りをもてあそぼうと考えているようだった。
「ほぼ、同じ。水分の摂取で左右するぐらいの」

「左右じゃなくて、上下じゃない?」奈美の沸点はどこにあるのだろう。
「同じことでしょう? もう」
「じゃあ、きょうの外食、キャンセルする?」
「なんで? 楽しみにしているのに・・・」そのためにぼくらは待ち合わせをして会っているのだ。奈美もいつもより気合の入った服を着ていた。核心をつかないジャブこそが美しいものなのだ。

 どれだけ食べても太らないひともおり、油断をすると痩せてしまうひとも世の中にはいるようだった。ひとの美醜の判断を外見によって行う社会がここにはあった。たくさんのモデルを器用する雑誌があり、彼女たちは話さないことによって職を得ているように感じられた。だが、当然、ぼくらは毎日のように話す。話題の豊富さを求めるひともいるし、寡黙さを高級な部類に置くひともいる。飲食店でカウンター越しの雑談を要望するひともいれば、味さえしっかりしていれば、そのような副産物を求めないひともいる。ひとなんか様々だ。だから、ぼくはいまの奈美の体重が多少、上下したってそのことで好悪を左右されることもなかった。

「昨日の奈美より、ぼくは多分、きょうの奈美のほうが好きだね」この論理のなさは一体、なんなのだともぼくは考えている。しかし、奈美はその言葉を嬉しがっていた。
「でも、馴れというのもいちばんこわいよ。それにあぐらをかくようになったら終わり」
「まじめ」
「いつだって、まじめだよ」

 ぼくらは奈美が行きたがっていた店に入る。すわって寛いでも服の前のボタンが吹き飛ぶようなこともない。静かに食前酒をあける。一気に飲み切るというようなタイプのお酒ではない。すべては次の演目に通じるつなぎに過ぎないのだ。なだらかな斜面。それを徐々にのぼるか、くだるかの行程があるだけのようだった。
 順番に運ばれる料理はそれぞれ、肉は肉だけの要素ではなく、魚も釣り上げられて切られて終わりという食事ではなかった。エレガントなソースがかかり、味わったことのないような複雑な混じり気を舌は感じた。それを旨いと判断するのは前例ということとはかけ離れていた。最初でありながらも、ぼくはその味においしいというジャッジを下した。不思議なものだ。

 例えば、ぼくは奈美を最初に愛したとしたら、女性という総体への希望も欲望も違ったものになる可能性もあった。だが、彼女は二番目に登場した。バトンをつなぐということを彼女たちは知らないだろうが、ぼくにはそういう思い上がりがあった。痛みも優しさも快楽も、ぼくにはどういうものを次に得たいという傾向というか野心のようなものがあったのかもしれない。ただのお人形のような女性は必要ではなかった。そして、奈美は決してお人形で納まるような女性でもなかったのだ。

「この一口が、体重に左右するのかもしれないね? でも、すごくおいしいけど」
「太ったら、いっしょに走ってあげるよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」人間はつまらない約束をたくさんする。もちろん、覚えていないことも多いし、実行しないこともさらに多い。だからといって口にした言葉が真実に溢れていないということでもなさそうだった。ぼくは、最初の女性に対してずっと愛すると宣言した。あおの日々に。もちろん、それは嘘でもないし、一時的な言い逃れでもなかった。そのときの真実への忠誠を守らす役目を、それぞれが放棄してしまったのだ。それは意図したからではない。ただ、時間が無駄に流れてしまったとしか言いようがなかった。しかし、無駄と結論付けられるものではない。ほんの一握りの香辛料も無駄ではなく、このソースも無駄ではない。ただ、人間に忍び寄る無言の脂肪だけが邪魔であるのだった。だが、目の前にいる奈美はそのことを完全に忘れているようでもあった。決別や誘惑の振れ幅も知らずに。

流求と覚醒の街角(33)ボタン

2013年08月03日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(33)ボタン

「ボタン取れてるよ」奈美がぼくのシャツを指差してそう言った。
「知ってるよ」
「知ってたの? 付けないの?」
「うん。取れそうだったから、わざと切った。だから、ここにあるよ」ぼくは小さなボタンをつかんで出した。
「付けてあげるから、シャツ脱ぎなよ」
「できるの?」
「できないひとなんて、いるの? さあ」

 ぼくはシャツを脱ぎ、手渡した。数分だけぼくのシャツは用をなさなくなる。彼女は引き出しから糸と針をだした。真剣な様子で針に糸を通す。数回のチャレンジで結果がでる。それから、ぼくのシャツをつかみ、ボタンを縫い付けた。それぞれ別個にあれば意味をなさないものが、セットになればきちんと機能を果たす。誰が発明したものなのだろか。ぼくは遠い過去に思いを馳せる。

 ローマ時代の布を身体に巻く衣服。別の国の民族衣装でいまでも色こそ違え、ありそうだった。子ども時代は、いつまでも長袖の手首にあるボタンをはめられなかった。だが、もういまは苦にしない。それが、成長ということの実態なのだろう。そうしている間に何度か針が布を貫通する。

「いつも、自分でしてたの?」奈美はそう訊ねた。
「うん。じゃないと一着、無駄になるからね」
「器用なんだ」
「器用でもないよ」ぼくは奈美の手の動きを見つめている。「みな、やっていることで、ひとを感動させることが求められているわけでもないしね」
「じゃあ、できないことは? 感動させられるぐらいのことで」

「それこそ大ホールで歌声でみなを泣かせるとか、100メートルを9秒台で走るとか」
「じゃあ、できることは?」
「寝坊しないで、毎日、電車に乗って通勤するとか、失敗して腹を立てながらも、顔に出さずに、謝るとか」
「なんだ、謝っているとき、お腹のなかは謝ってもいないんだ。例えば、この前の、ケンカのときとかも?」
「話がすり替わっているよ」
「変わってないよ」奈美は仕上げたようだった。「さ、はい、終わり。でも、顔に出てるよ。自分が悪くないと思ってるとこ」

 ぼくはシャツを受け取る。そして、袖を通す。ボタンもはめて、その感触が馴染むように布をこすった。
「上手だね」
「うまいへたなんか、ないよ。ボタンつけに」
「あるよ」
「謝るのが、うまいへたとかあるけど」なぜか、奈美はそのことについてこだわっていた。
「どうしたの? なんか、許してないみたいだけど。口調が」といいながらもぼくはケンカの原因さえ忘れていた。多分、女性はたまに涙の袋を決壊させる必要があるのだろうぐらいに考えていた。その理由も原因もどこに探してもいいのだ。あたりたい相手がたまたま前にいたから、ぼくになったのだ。違うのだろうか。しかし、ボタンと同じようにぼくらは切っても切り離せない段階に入っていると思っていた。

 ぼくは奈美の部屋を見回している。ひとの手が作ったいろいろなものがある。対になってこそ正しく使われるものたち。対でなければ逆にいえば用をなさないものたち。コンセント。靴べら。キャップ。イヤホンのジャック。ふた。それぞれが世の中を便利にするようにできている。それらがない世界など考えにくい。奈美の感情を受け止める男性。対になるのは、やはり、ぼくだけであるのだろうか。

 奈美は引き出しに針と糸をまた仕舞った。それらは能動的に使いたいから使うという類いのものではなさそうだった。ボタンが取れたので仕方なく取り出されるものたち。手仕事が好きなひともいるのだろうが、普通のひとはそういう分野に押し込めている。

 ぼくはしばらくたってまたシャツを脱いだ。彼女の背中のホック。対になるもの。ふたつの靴下。ふたつのイヤリング。彼女の眉は左右で均等ではないようだった。それで見た角度によって多少、印象が変わった。柔らかな雰囲気と強気な感じ。それがときには強情さと負けん気に結びついた。反対側は大らかさと慈愛に満ちているようだった。いまは真下にあった。だから両方が感じ取れた。考えれば、そのどちらもが重なり合って、混合して奈美になっているようだった。

「お客さんがいるからホールを借りて唄えるし、ひとりだけで、どんなに頑張って走っても、タイムは認められない」奈美はぼそっとそう言った。
「どうしたの、急に?」
「感動させることも、ほかのひとがいなければ存在しないんだなと思って」しばらく黙った。「だから、そうなんだなって思った。ケンカする相手がいるからケンカもたまにはできて、また仲直りもできて」

「許されないときもたまにはあるよ」
「わたしは許すよ。それに、そんなに根にもたないし」
「ボタンが絶対とれないぐらいに、しっかりと根にもつのかと思った」
「それは相手の思いやりのない行動によるんでしょう」

 ぼくらは今後起こるであろうケンカの予行演習をしているようだった。だが、架空の話はどこまでいっても現在に影響を重くのしかかれるほど力をもっていなかった。力をもってもらっても困る。ふたりを切り裂くようなものはあってはならない。もし、仮にあったとしてもボタンをなくさずに、もう一度両者を結び付けられるぐらいの距離で居続けなければならないのだ。それは特別難しいことでもなさそうだった。かといって小さなものは直ぐになくなってしまう。排水溝のなかには無数のそうした小さなものが落下し、墓場としての機能や役目が備わっているのだろう。あの小さな網の目には。