奈美は職場のイベントの幹事になった。
「雰囲気を知りたいから、一回、いっしょに行ってみない? 気に入らなかったら困るから」
「困ったら、どうするの?」
「キャンセルするよ。まだ、確定ではないから」
キャンセルできるものと、キャンセルできないもの。その線引きはいったいどこにあるのだろう? 大まかにいえば、世の中は全部、引っくり返すこともできた。また、惰性や義理などをつきつめれば、それは責任の放棄につながり、誰かの面子を潰すことにつながった。だから、面倒なことはしない。だから、誰かと深く関わることもしない。両方の選択肢があるようだった。
「いいよ、潜入捜査」
「いつも、大げさ」
数日経って、ぼくらはそこに出向く。複数のひとの予定をまとめ意図を汲み、満足に対して点数の設定の甘いひとがいて、それと同量程度の辛口のひとがいる。中間にも大勢いる。自分がそういう役割にならないことに安心し、なれなかったことに不満なひともいる。その狭間に大人の感情があった。だが、それもいつか忘れ去られてしまうものなのだ。その場では問題がありそうだったとしても。
「うるさいひとばっかりなの?」
「そうでもないけど。成功した仕事をさらに決定づけるような機会になるから、最後が悪くなると、それだけ、みんなの印象も悪くなるし、それだけ、成功が薄まっちゃいそうなのでね」
「何人ぐらい?」
「多分、このスペースの椅子とかテーブルとか片付けて、六十人ぐらいじゃない、集まるの」
「そこに、ふたりでいても分かる?」
「ちょっとした料理とか、店員さんのサーヴィスとかは大きくは変わらないでしょう?」
「そうだろうけどね。他に計画もあるの?」
「ない」
「じゃあ、断れないじゃん」
「そのときは、そのときだから」奈美はあっけらかんとしていた。
席はゆったりとした間隔で三十席ほどあった。だからテーブルはその半分ぐらいだろうか。店員はみな周囲にきちんとした注意を払い、ぼくらが語りかける前に、既に近寄る気配を見せていた。料理も運ばれる。ぼくはレストランの評価をする仕事があるということを思い出す。誰かが誰かのことを採点する。それを鵜呑みにするひとがいて、仮説として自分の決定の糸口にするひともいる。興味もないひともいて、あること自体をしらないままでいるひともいる。どこの位置が、いちばん幸せなのだろう。
「でも、キャンセルする勇気とか、あるの? 交際を求められて、断ることが今まで多かったとか?」
「まさか。最近は、もうめっきりとないし。彼氏がいるのがみなに分かってるから、もうチャンスを与えることもできないよ」そう言って奈美は笑った。
「もう、無鉄砲に、突撃するのみ、木っ端微塵になってもかまわないという年齢でもないからね。でも、たまには言われるだろう?」
「大人って、それとなく、様子を調べるとか、探りを入れるとかするのが普通だしね」
「今日みたいにね」
奈美はトイレに立った。ぼくは調査員としての宿命のように周囲をうかがった。欠点もなし。大きな失点もなし。スポーツなら楽しくないのかもしれない。めちゃくちゃに打ち合うボクシングとか、逆転をくりかえす球技とかなら、後味はしっかりとしたものとして深くこころに残るだろう。
「トイレもきれいだった。やっぱり、店を紹介するサイトや雑誌をみても、実際の目に勝るものはないからね」
「奈美のかしこまった見合い写真じゃ、魅力も伝わらないかもね」
「どういう意味?」
「そのままだよ。生きて、動いて、笑った、楽しむ奈美がいちばん」
ぼくらはある時点ではキャンセルもできるのだ。またあるところを通過してしまえば、キャンセルはできないのだ。グラスの半分を飲み、その状況で交換はできない。ワインの儀式として、ひとくち飲んで納得、ということもあった。それで決まりだとすれば、ワイングラスは傾けられた瓶の口から注がれる。ぼくは、奈美をどれほど知っているのだろう。それを今更キャンセルすることは不可能に近く、絶対的に受容するのは間違いではないという結論もまた同じぐらいに難しいものであった。
「お気に召しました?」と、ハンサムな店員が奈美に訊いた。それから、ぼくの方を付け足しのように振り向いた。
「ここ、貸切したり出来るんですよね」
「はい。人数とか予算とかを申していただければ。お仕事で? それとも、プライベートですか」
「仕事関連です」奈美はバッグから名刺を出した。その店員に渡す。彼はいったん引っ込んだ。すると、責任者が店の奥からでてきた。パンフレットのようなものを持ってきている。奈美は、数日中に電話をするので、ある日付を示して仮予約して欲しいと頼んだ。その知的な女性のあたまには大きなものも小さなものも、もろもろのスケジュールがすべて入っているようだった。そして、笑顔で了承する。ぼくは、仮予約とキャンセルという言葉を、普通以上に象徴的なものとして考えようとしている。あることが決められ、あることを実行する段になる。恐れもあり、面倒なことも多くあった。喜びの予感があり、終わったあとの日々の惰性の連続があった。どこに視点を置くかで、物事はいろいろと結論付けられた。
「最近、誰かに好きだとか言われた?」
「ぼくも、ないね」
「彼女がいるって、みんな、知ってるのかね?」
「知ってても、知らなくても同じだろう」
「わたしが言ってあげようか」
「どうしたの、突然に?」
「わたしじゃ、不満」
先ほどの「主任」という肩書きの生きるサンプルのような女性が戻ってきた。ある日付にチェックが入り、それと同時に彼女の名前が入ったカードもくれた。それをぼくにも笑顔でくれた。ぼくは名前を見る。名前など無数にあると思うが、ぼくの知っているひとと同じものだった。キャンセルしてしまったもの。仮予約を流してしまったもの。世の中には、いくつもの地点があるようだった。
「雰囲気を知りたいから、一回、いっしょに行ってみない? 気に入らなかったら困るから」
「困ったら、どうするの?」
「キャンセルするよ。まだ、確定ではないから」
キャンセルできるものと、キャンセルできないもの。その線引きはいったいどこにあるのだろう? 大まかにいえば、世の中は全部、引っくり返すこともできた。また、惰性や義理などをつきつめれば、それは責任の放棄につながり、誰かの面子を潰すことにつながった。だから、面倒なことはしない。だから、誰かと深く関わることもしない。両方の選択肢があるようだった。
「いいよ、潜入捜査」
「いつも、大げさ」
数日経って、ぼくらはそこに出向く。複数のひとの予定をまとめ意図を汲み、満足に対して点数の設定の甘いひとがいて、それと同量程度の辛口のひとがいる。中間にも大勢いる。自分がそういう役割にならないことに安心し、なれなかったことに不満なひともいる。その狭間に大人の感情があった。だが、それもいつか忘れ去られてしまうものなのだ。その場では問題がありそうだったとしても。
「うるさいひとばっかりなの?」
「そうでもないけど。成功した仕事をさらに決定づけるような機会になるから、最後が悪くなると、それだけ、みんなの印象も悪くなるし、それだけ、成功が薄まっちゃいそうなのでね」
「何人ぐらい?」
「多分、このスペースの椅子とかテーブルとか片付けて、六十人ぐらいじゃない、集まるの」
「そこに、ふたりでいても分かる?」
「ちょっとした料理とか、店員さんのサーヴィスとかは大きくは変わらないでしょう?」
「そうだろうけどね。他に計画もあるの?」
「ない」
「じゃあ、断れないじゃん」
「そのときは、そのときだから」奈美はあっけらかんとしていた。
席はゆったりとした間隔で三十席ほどあった。だからテーブルはその半分ぐらいだろうか。店員はみな周囲にきちんとした注意を払い、ぼくらが語りかける前に、既に近寄る気配を見せていた。料理も運ばれる。ぼくはレストランの評価をする仕事があるということを思い出す。誰かが誰かのことを採点する。それを鵜呑みにするひとがいて、仮説として自分の決定の糸口にするひともいる。興味もないひともいて、あること自体をしらないままでいるひともいる。どこの位置が、いちばん幸せなのだろう。
「でも、キャンセルする勇気とか、あるの? 交際を求められて、断ることが今まで多かったとか?」
「まさか。最近は、もうめっきりとないし。彼氏がいるのがみなに分かってるから、もうチャンスを与えることもできないよ」そう言って奈美は笑った。
「もう、無鉄砲に、突撃するのみ、木っ端微塵になってもかまわないという年齢でもないからね。でも、たまには言われるだろう?」
「大人って、それとなく、様子を調べるとか、探りを入れるとかするのが普通だしね」
「今日みたいにね」
奈美はトイレに立った。ぼくは調査員としての宿命のように周囲をうかがった。欠点もなし。大きな失点もなし。スポーツなら楽しくないのかもしれない。めちゃくちゃに打ち合うボクシングとか、逆転をくりかえす球技とかなら、後味はしっかりとしたものとして深くこころに残るだろう。
「トイレもきれいだった。やっぱり、店を紹介するサイトや雑誌をみても、実際の目に勝るものはないからね」
「奈美のかしこまった見合い写真じゃ、魅力も伝わらないかもね」
「どういう意味?」
「そのままだよ。生きて、動いて、笑った、楽しむ奈美がいちばん」
ぼくらはある時点ではキャンセルもできるのだ。またあるところを通過してしまえば、キャンセルはできないのだ。グラスの半分を飲み、その状況で交換はできない。ワインの儀式として、ひとくち飲んで納得、ということもあった。それで決まりだとすれば、ワイングラスは傾けられた瓶の口から注がれる。ぼくは、奈美をどれほど知っているのだろう。それを今更キャンセルすることは不可能に近く、絶対的に受容するのは間違いではないという結論もまた同じぐらいに難しいものであった。
「お気に召しました?」と、ハンサムな店員が奈美に訊いた。それから、ぼくの方を付け足しのように振り向いた。
「ここ、貸切したり出来るんですよね」
「はい。人数とか予算とかを申していただければ。お仕事で? それとも、プライベートですか」
「仕事関連です」奈美はバッグから名刺を出した。その店員に渡す。彼はいったん引っ込んだ。すると、責任者が店の奥からでてきた。パンフレットのようなものを持ってきている。奈美は、数日中に電話をするので、ある日付を示して仮予約して欲しいと頼んだ。その知的な女性のあたまには大きなものも小さなものも、もろもろのスケジュールがすべて入っているようだった。そして、笑顔で了承する。ぼくは、仮予約とキャンセルという言葉を、普通以上に象徴的なものとして考えようとしている。あることが決められ、あることを実行する段になる。恐れもあり、面倒なことも多くあった。喜びの予感があり、終わったあとの日々の惰性の連続があった。どこに視点を置くかで、物事はいろいろと結論付けられた。
「最近、誰かに好きだとか言われた?」
「ぼくも、ないね」
「彼女がいるって、みんな、知ってるのかね?」
「知ってても、知らなくても同じだろう」
「わたしが言ってあげようか」
「どうしたの、突然に?」
「わたしじゃ、不満」
先ほどの「主任」という肩書きの生きるサンプルのような女性が戻ってきた。ある日付にチェックが入り、それと同時に彼女の名前が入ったカードもくれた。それをぼくにも笑顔でくれた。ぼくは名前を見る。名前など無数にあると思うが、ぼくの知っているひとと同じものだった。キャンセルしてしまったもの。仮予約を流してしまったもの。世の中には、いくつもの地点があるようだった。