爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(103)

2013年01月31日 | Untrue Love
Untrue Love(103)

 みなは、卒業までの長い退屈な時間を有意義に使おうと、バイトに励んだり、旅行に出掛けたりした。ぼくは反対に何度目かの結婚記念日を祝うため旅行に出た両親の代わりに、実家でひとりで留守番をしていた。そばに咲子のアパートがあるため、時間が合えばご飯をいっしょに食べた。ぼくは、彼女がきちんと料理のことも学んでいることを知った。味も悪くなかった。どこかで、ぼくの母の影響もあるようだった。ぼくは、隔世遺伝という言葉を思い出している。入学と同時に家を離れた自分は、もう両親から直々になにかを習うということはなくなってしまった。だが、ふとした仕草がひとに指摘されなくても、両親のどちらかから受け継いだことに気付いていた。それは、多くはあまり真似たくないことでひしひしと感じ、自分が真似たいと思ってはいたがなかなか身につかないことも数としては少なくなかった。

「こっちで仕事、決めるの?」
「多分、そうすると思う」と咲子がテーブルの向こう側で言った。

「じゃあ、早間と別れる必要もないんだね」彼女はうれしそうに笑っていた。ぼくは、この前、早間に伝えられたことを思い出していた。同じ職場で勤めることになる女性とそういう関係になった。彼の放つ自由な雰囲気が女性を惹きつけた。男性から見ると、その夢中になる気持ちに懐疑を抱くが、不思議と女性はそのことに盲目であるようだった。ぼくは高校の放課後に体育館でただ耐えるようにレシーブをつづけていたバレー・ボール部員の女性を思い出した。実感としてそれは、理知ある生き物にたいする無駄な攻め以外のなにものでもなかった。客観的にそうは思うが、本人もスパイクをする顧問の先生も、両者は恍惚としてその状態に疑いをもっていなかった。疑念がないのだから、幸福と呼べた。だから、咲子も幸福であることに間違いはないのだろう。

「順平くんは誰にするの?」
「誰にするって?」
「そのままの意味。いいよ、別に」それは、言わなくてもいいよという意味らしかった。「そうだ、この前、お店にデパートで靴を販売してくれたひとが来た。男のひとといっしょだった」

「木下さんかな、男性とか。どんなひとだった?」
「まだ、それほど親しそうじゃなかったよ。よそよそしい雰囲気だったから」
「そう、よく来るの? 他の日も行くのかな・・・」
「わたしがいるときは、はじめて。帰りにわたしのことに気付いたみたいだった。また、靴でも見に来てって言われたから。他の日は分からない。キヨシさんにでも訊いておこうか?」
「いいよ、別に」

 食事も終わり、ぼくと咲子は洗い物をした。どこに、なにをしまえば良いかを咲子は理解し、ぼくはぼんやりと他人の家という認識のまま立ち尽くすだけだった。それから場所を移動してテレビを見た。ぼくは風呂にすでに入り、あとは寝るだけだった。ここにいる限り、電話も鳴らない。ぼくの家でありながら、もうぼく自身には確かな境界線を敷いていた。咲子は、なかなか帰ろうとしなかった。バックから勉強をするための本とノートを取り出し、テーブルに広げた。そのことの是非を問いたずねもしなかった。ぼくも居てもらって困るわけでもないので、そのままいくらかテレビの音量を下げ、静かに過ごした。

 静かにすればしたで、いろいろなことが頭に湧いた。木下さんといっしょに居たのは誰だろうとか、咲子が言った誰にするのか、という問いへの答えが。いや、答えは必要としていない。答えを発見するまでの前段階をうじうじと考えた。

「それ、まだユミに切ってもらっているんだよね?」床に座っている咲子の頭はソファにすわる自分の目にはよく映った。
「そう、ユミさんに」
「キヨシさんのことを話したでしょう? 言ってたよ」ユミは、棒同士という無邪気な表現をつかった。
「言ったかな。そうか、バイトのこと訊かれたんだった」

 ぼくは自分の世界がそれほど広くないことを感じていた。咲子はいつみさんの弟のことを話題にする。髪の毛はぼくと同じようにユミに切ってもらっている。もう数年もそうしているのだろう。木下さんがバイト先に来た。もし、他の日にも行けば、木下さんはいつみさんとも顔見知りだった。ぼくは、その中心にいて、また外部にもいた。渦のなかにいて、網の外からみなを見ていた。それも、反対かもしれない。捕らえられた網の中から、自由なみなの姿をみていた。誰にするのか、網の中にいる自分に選択肢などなかった。だが、開放も必要だった。開放だけが必要だった。だが、その開けた道はひとりの束縛にもつながるのだ。その束縛の味をぼくは知らない。ここに住んで、大学に通い、同級生の愛らしい子と四年間、愛を深めた結果としての自分をぼくは手に入らないものとして想像した。その子の家に行けば、やはり、このように床に尻を着き、勉強をしている姿が見られたのだろうかと空想した。だが、ぼくは別のところに出てしまった。その送った数年間も、ぼくには美しい花としてきちんと開花したのだろう。もうつぼみではない。誰もつぼみでもない。あとは、誰かがミツバチのように受粉のためにより密度を高めるだけだ。

「そろそろ、帰らなくていいの? オレ、もう寝るよ」と、ぼくはあくびをかみ締めながら言った。咲子は、前方に向かって頷いたが、ぼくは彼女の後方にいた。
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Untrue Love(102)

2013年01月29日 | Untrue Love
Untrue Love(102)

 ぼくは思いがけなく高校のときの先生に会った。ときどき、彼女は思い通りにならない生徒たちに癇癪をおこした。小学生のぼくの頬をたたいた男性教師には、どんな後味も恨みももたなかったが、このひとの甲走った声は、ぼくをいまでも不快にさせていることに気付かせてくれた。しかし、ぼくに会った彼女はぼくに対して好意的な感情に溢れているようだった。問題を起こさない地道な少年。彼女の感情の無駄な起伏に関与しなかった人間として。ならば、記憶の奥に追いやられてしまうような危険もあったが、彼女のなかでは意外にもしっかりと立場があるようだった。

「就職はどう?」
「決まりました」ぼくはそれから知らないだろうと思いながらも、ひとつの会社の名前を出した。
「しっかりとしたところね、安定している」
「そうですか」

「きちんと成長が見込める会社だと思うよ」その意見の裏打ちとして、彼女は夫の会社の話題をもちだした。ぼくは彼女に夫がいて、そのひとがどのような生活をして、ふたりでどのように暮らしていたかなど想像したこともなかった。そのために、彼女を覆っているいくつかの鎧のようなものが、ひとつひとつ剥がれていった。この機会には甲高い声を発する必要もない。落ち着いた安定している声を彼女はもっていることを今更ながら知った。だが、どこかでぼくには苦いコーヒーのように不快な舌触りも相変わらずのこっていた。

「そうだ、あの子ね」彼女は、ぼくの高校時代の交際相手の女性の名を出した。「まだ、会ってるの? とても、お似合いだったから」
「いえ、まだ、高校に通っているうちに別れてしまいました」
「それは、残念ね」
「でも、先生にもそういうことがばれていたんですね」
「隠してもいなかったでしょう? 交際にうるさいところでもなかったしね」

「隠してなかったです」でも、いまは不思議とその過去を隠したかった。いや、在ったことすら忘れてしまっていた。ぼくには、あれからとても好きなひとができて、と何なら打ち明けたかった。そういう思いすら浮かんでいた。しかし、自分の脳裏にあるのは複数の異なったタイプの女性だった。そのことを知ったら、彼女がぼくに抱いている好意は霧散してしまうかもしれない。反対に、ぼくがだまされているのだと更に好意の度合いを増し加えるのだろうか。空想しているうちに、彼女は何人かの同級生の名をあげた。ぼくでさえ、忘れてしまっている人物が含まれていた。教師という存在の偉大さとふところの深さをこの場で知った。ぼくらは普通に忘れるという段階を意図もせずにしつづける人間なのだ。それを受容することなく彼女はきちんと抵抗し、忘却する力をそぐ防波堤のようなものを作り、波の浸入を抑えた。ぼくらと、ぼくらに附属する思い出は、そこで水害を恐れることもなく生きていた。今後も生き延びるのだ。

「就職して、結婚して、いずれお父さんになって」彼女の視線はぼくの背中の方に向いていた。ぼくは彼女のイメージの防波堤内にいない限り、そこには倒産や離婚や病気までが首を並べて待っているような気がした。その単純な負の勢力を怖れた。そこに留まり、隔離されるのを希望するように彼女の発する甲高い声が、牧羊犬の役目を負うのを欲した。しかし、彼女にそのような義理や責任もない。たまたまぼくの過去の数年間を知っているだけなのだ。今後、ぼくが大きな功績か、大きな悪事を働かない限り、彼女はぼくの近況を知ることも不可能になるのだろう。ひとの交流というのは奇跡でもあり、同時にとてつもなく味気ないものだった。ぼくは、早間や紗枝も同じ範疇に入れてしまうのかもしれない。ましてや、彼らの結婚や子どものことなども知らないままで終わるのだろう。ぼくは、いったい誰の未来といっしょに過ごすことを望んでいるのだろう。ぼくの未来を誰に委ね、とくにどのひとりに知ってもらいたいと思っているのだろう。それは、第三者が似合うという表現を用いたからといって、反射的に決める相手ではなかった。ぼくが決めるものであり、もっと大きな力が有無を言わせず決定する事柄かもしれなかった。

 そのうちに、ぼくらの話題は底を尽き、お互いの将来を健勝し別れた。

 少し経ってから振り返っても、もう彼女の姿はどこにもない。不快だと思っていた彼女の声はぼくのなかで警報の合図となるようだった。危険を事前に察知してぼくに報せる。従うことによって、ぼくは安全さのなかにいられる。ぼくの会社の業績と将来性にも承認を与えた。ぼくは、また頭のなかに三人の女性を浮かべた。先生なら、そのうちの誰を気に入るのだろう。あの落ち着いた声をどのひとに用いてくれるのだろう。しかし、やはりそれもぼくが決めるべきことだった。先延ばしにして安易に楽しみ、あとで余計に苦しむことを知っていても、ぼくの数少ない経験と判断とを駆使して選択する問題だった。全員が防波堤のなかにとどまれる訳ではない。何人かはボートに乗ってぼくの世界から離れてしまう。あの先生のように。ぼくの過去の数年間だけを知っている存在になるのだ。ぼくにとっても相手にとっても貴重な無二の数年間になることをぼくは胸が痛むほど望んでいた。
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Untrue Love(101)

2013年01月27日 | Untrue Love
Untrue Love(101)

「これで、とうとうオレも自分で稼がないといけない身分になった」と、早間は残念そうに言った。結局、彼は四年間バイトをせずに、高価な車で毎日を過ごしていた。それは残念だろう。

「でも、良い会社じゃないか。オレもそっちに入りたいぐらいだよ」ぼくの羨望の言葉に彼はなにも反応しない。関心もないという表情だった。

「それよりさ、いっしょに残った子とこの前、デートしたんだよ。お互い、新入社員としてあったときに、気まずくなるかな?」と、別の心配をしていた。
「咲子は?」
「咲子は、咲子だよ」なにを今更、という今度は優雅な表情を苦もなく浮かべた。
「あんまり傷つけないでくれよ。ひとりに決めたんだから」

 それはぼくが言い出して良いセリフでもなかった。自分の偽善をアピールし、公開し大っぴらにする機会だった。ただ、彼は、男性はそういう類いの生き物ではないだろう? ということを甘え、かつ嘆願するような視線を通じても向けた。ぼくの無視を同意と受け取ったのか、それから、その女性との楽しみを面白おかしく話した。ぼくは咲子の未来を心配して、同じような立場に置かれている三人の女性のことを思いに馳せた。しかし、ぼくといっしょに居ることが彼女らの幸福なのだという前提自体が間違っていることにも気付いた。もっと自分個人だけを大切にしてくれる存在。早間は紗枝と別れ、咲子を選んだ。その周期はまた巡ってくるかもしれず、ぼくをなんだか不安にさせた。裏切るという行為を自分は憎み、自分自身ではその行為をそのまま自分の力と才覚として加担していた。

「仕事をしてからも、たまには会おうな」と早間は言って去った。その立場になるのは随分と先のような印象をもったが、来てみれば早いのかもしれない。そして、お互いが違う種類の場所に所属して、会話が成り立ち、この関係を相変わらずつづけられるのかも、ぼくには分からなかった。だが、そこでつづけても良いし、中断させても良かった。ぼくは彼と親しいというだけなのだ。咲子は違う。紗枝も違かった。異性では永続という仮定が仲立ちをする。誰も終わらせることを願って好きにはならない。好きになってしまった以上、自分の変化が求められても、相手に合うよう、好印象を抱いてもらえるように多少は変化を考慮に入れた。気に入ってもらえるような髪形にする女性もいた。ユミは仕事の合間に、そういう会話をお客さんとすると言っていた。だが、ユミも木下さんもいつみさんもぼくに合わせて何かを変えたということはまったくなかった。ぼくは、ありのままの彼女たちが好きであり、彼女らもありのままの自分に自信があるようだった。

「ありのままでいいのよ」とユミは言ったが、ぼくの髪型を会社の担当者に受けが良くなるように切った。彼女は求めていないが、社会は求めた。早間も会社に入り、自分の変更を明らかにするのだろうか、咲子ひとりだけを愛するということが可能なのだろうか。ぼくのこころの奥のシグナルは直ぐに否定した。ぼくは他人の幸不幸にやきもきした。滅多にないことだが異が痛くなる前兆まであった。だが、早間なんかやめとけよ、と咲子に忠告する気もなかった。彼のことは、どこかで信頼もしており、単純に好きだったのだろう。悪いしつけの犬でも可愛いことすらあるのだ。ただ、咲子という存在が加わると、彼の正義に対して不安を感じるのだろう。手を咬まれる心配も事前に生じる。ぼくの痛みではなく、危害が加わるのは人様の手だ。それは、そのままの事実として、ぼくが投げられてもよい言葉だったのだ。ユミや久代さんの友だちや、いつみさんの弟であるキヨシさんに、あんな奴のどこがいいんだよ、やめとけよ、と頭ごなしに否定されるべき存在なのだ。弁解もできない。しかし、彼女らに比べると、咲子はまだまだ子どもだった。あえて子どもであってほしいとも思っていた。ぼくが知っている彼女の一部分である田舎ですれ違ったあの少女のままでいてほしかったのだろう。都会ではなく、ぼくが夏の帰省に用いた場所のシンボリックなイメージとして。彼女の悲しみが直結し連動して、ぼくの少年のときの記憶が踏みにじられ、汚されるのを恐れていた。清らかな小川の流れの象徴の結実のままで。ぼくは、このようにしてどこまでも利己的だった。

「彼は、あの企業なんでしょう?」

 と、その後に会った紗枝がぼくにたずねた。彼女にとって、彼という代名詞は早間だけに使われるようだった。ぼくはその会社の立派さを解き、自分が入ったように手放しでほめた。それは世間がその企業に対して抱く認識と寸分違わぬ意見だった。だから、紗枝も驚くこともなく、そのまま受け取った。

「きれいなOLになったわたしに会ってみたくない?」

 と紗枝は言った。彼女の関心はぼくになく、逆にぼくの広すぎる恋心のスペースにも彼女はいなかった。それで、その言葉自体が笑いにつながった。五月か六月の休日にでも会いましょう、という予定をふたりは作った。紗枝は彼を連れてくるかもしれないと付け足した。その彼がいまの彼を指しているのかは分からない。「順平くんもそうしなよ。新しい会社に誰かいるでしょう」とぼくの未来に期待をこめた。ぼくは、きちんとひとりを選んでいるのかといぶかった。紗枝は、ぼくの横にいる誰と話すことになるのだろう。誰との会話も想像できなかった。紗枝が自分以外の女性をもちあげて、聞き耳をたてていることがそもそも不可能だったのだ。この場での女王は、会社という組織でもうまく立ち回れるのかぼくはいらぬ心配をした。何かを殺さないといけないのかもしれない。ぼくらは、なんだか好んでつまらない人間になろうとしているようだった。
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Untrue Love(100)

2013年01月26日 | Untrue Love

Untrue Love(100)

 木下さんから借りた本に夢中になり、時間が過ぎるのも忘れ、いつもなら眠っている時間だが、止められずにいると、しんとした空気を打ち破るように電話が鳴った。ぼくは驚いてそちらに視線を向けた。緊急な用件かと思い受話器を取ると、いつみさんの声がした。

「仕事、どうだった?」彼女は問いに対する答えを焦って待ち構えているようだった。
「言ってたところに、決まりました」
「なんだよ、早く教えろよ。明日、店に来なよ。キヨシに何か作らせるから」

 それで、翌日、ぼくはバイトを終えた後にそこに寄った。いつみさんと親しい関係ができてからはあまり寄り付かずにいたので久し振りでもあった。

「お。めずらしいな。たまには顔を見せろよ。今日は、腕によりをかけて作ってあげるから」キヨシさんが厨房から顔を出して、そう告げた。何か珍しいことが起こったのかと興味がありそうな目を常連さんたちがぼくに向けた。だが、黙ってぼくはいちばん端の席におとなしく座る。

 普段のメニューにはない料理のレパートリーがぼくの目の前のテーブルに並べられる。これも常連さんは横目で見て、うらやましがったり、自分にも要望したりしたが、キヨシさんがなんとかうまくかわしていた。いつみさんも、「この子、就職が決まったのよ」と小さな声で触れ回った。もともと人数がたくさん入るような店でもないので、そこにいる全員がぼくの将来を知った。ぼくは背中でその視線を浴びながらひとり黙々と料理を食べた。

「うまいだろう?」キヨシさんの手が空き、表にでてきた。「試作品。順平くんの顔色を見て、レギュラーにするかどうか決める」
「感想はいらない?」
「いらないよ。笑顔で分かる。いや、いつみに対しての笑顔か」彼は自分の姉の顔をみた。いつみさんは知らん振りを決める。

 話は仕事のことになり、ぼくがその道にうまく合流できるかいつみさんは心配していた。
「ネクタイとか結べるの?」
「それは、結べますよ。面接とかも行ったし、それで注意されたこともない」
「そうか。でも、試しに見せてみな」彼女はそう言うと、常連さんのひとりの首に巻かれているネクタイを外させた。それをぼくに手渡した。周囲の監視のなかで、ぼくは襟のないシャツの上にネクタイを結ぶ。

「どうですか?」
「まあまあだけど。でも、その1種類?」
「まあ、一先ずは・・・」
「ネクタイを巻く方法なんか、何種類も、幾通りもあるんだよ。女性を喜ばせるのと同じで」

 ぼくはネクタイを緩め、また彼女に手渡した。彼女は持ち主の常連さんに戦利品のように差し出した。それを受け取るときに耳に入ったであろう「女性を喜ばせる方法もたくさん覚えなきゃな」と彼は酔った声で言った。それを聞いた店内の全員が笑った。そして、ぼくは顔が赤くなるのが自分でも分かった。ばれてしまうのが恥ずかしかったので、またひとりでグラスを静かに傾けた。すると、徐々に店内のお客さんが入れ替わったので、ぼくの恥辱感も同じように店外に救出できた。だが、さっきの常連さんはお会計が終わると、ぼくの背中を叩いて、「頑張れよな」と小声で言った。ぼくは愛想よく笑って、ネクタイを結ぶしぐさをした。

 閉店になると、ぼくはいつみさんといっしょに店を出た。キヨシさんにはたっぷりとお礼をして。彼は何事もなかったかのようにいつも通りの表情で送り出してくれた。
 それから、ぼくはいつみさんの部屋に寄った。テーブルの上には包装されリボンがつけられた長細いものが置かれていた。

「それ、昼に買ってきた」いつみさんはテーブルのものを指差した。
「何ですか?」
「開けてみなよ」ぼくは紙を破る。なかからピンク色の派手なネクタイがでてきた。
「ありがとう。でも、少し、派手じゃないですかね」
「そうでもないよ。でも、そういうの選んでいる自分って、気恥ずかしいものだったよ」
「ありがとう。たくさん、結び方も習わないと、学ばないと」
「そのうちにできるよ」
「女性を喜ばせる方法も学ばないと」彼女はその言葉に応じて笑った。それから一旦消え、冷蔵庫からビールを出した。そして、缶をふたつ開け、片方を差し出した。
「恥ずかしい思いをさせてごめん。あんなにみんなが注目していると思わなかったから」
「いいえ、いいんですよ。でも、ぼくって、なんか、そういう面で下手ですかね?」いつみさんは照れたように笑ってうつむいた。
「下手じゃないよ。相性もあるしね。それにわたしも乾いていないし」

 ぼくはその言葉を聞かなかったように新品のネクタイを鏡のまえで胸のところにかざした。彼女はその後方を横切り音楽をかけにいった。静かにバラードが流れる。記念日みたいなものを日付として祝うが、ぼくはこの日が何日か何曜日かも覚えていない。ただ、大人になった証しとしてこの瞬間を覚えていた。彼女はまたぼくの視線に入り、ぼくの後ろから抱きついた。

「下手じゃないよ」とまた言った。言えば言うほど、その地点から程遠い自分がいるみたいだった。お母さんが息子のひざの傷口をみて、痛くないと慰めるみたいに。この信頼する母が痛くないというからには、痛みの一端は消滅するのだ。あとは気持ちの問題なのだ。

 ぼくは振り返る。自分はこのような生活を送っていた。甘やかされた駄々っ子は社会を自分の立脚点として生きる底意地みたいなものをつかめるのだろうか。ネクタイではなく、いつみさんの腕がぼくの首にまわる。からみついて、そこから逃げられない。逃げるなどという気持ちも毛頭なかったのだが。
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Untrue Love(99)

2013年01月25日 | Untrue Love
Untrue Love(99)

 バイトが終わったあとに、木下さんにも報告した。仕事が決まったことを。彼女も我がことのように喜んでくれた。世界は優しさに満ちているようだった。少なくともぼくの周りの世界では。

「じゃあ、お祝いをしないとね」

 それで、来週の彼女の平日の休みに合わせて、ぼくの予定も決まった。大学生という立場で彼女と会う日々も段々と減っていく。物事は移ろい往く運命のようだった。ダムのようにある一定の場所に自分をためこみ、固定することなど不可能なのだ。放水する勢いに自分ものるだけだった。濁流に呑み込まれずに首を水面から出して。その日、ぼくは家に帰り、大げさにカレンダーにスケジュールの証拠として丸をつけた。

「こうやって、大人になっていくんだね」彼女は平日の昼、大事な弟を見つめるような目付きをした。
「いろいろお世話になりました」
「そんな風に言われると、もうこの関係が終わるみたい。育つヒナを見守る親鳥の心境だね。残るのは空っぽの巣。卒業。終止符。何にもしてあげられなかったけどね」
「いや、もういっぱい。たくさんあった」
「バイト楽しかった?」
「慣れれば簡単でした。複雑じゃなかったし」
「売り上げに一喜一憂する心配もない」
「ないですね。忙しくなくて暇になるのはものが移動しないから。なかなか売れないんですか?」
「うちは、そうでもないけど。箔みたいなものを大切にするお客さんが大勢いるからね」ユミの労働といい、それなりに苦労が伴っていることをぼくはいままであまり認識していなかった。彼女らの魅力にそれは不可欠なのかも同じように重要視していなかった。
「靴の裏も磨り減りますし」
「誰も消耗品として履いているわけじゃないのよ。順平くんも、もうスニーカーじゃ駄目になるんだよ。靴がいいか、プレゼントは。さ、買いに行こう」彼女はぼくの手を握った。そして、小走りになった。

 ぼくは自分の足に合うよう何足も履き替え、その度に足を新品の革のなかに突っ込んだ。店員も最初は懇切丁寧に対応してくれたが、いつの間にかその役目は久代さんが引き継いだ。彼女はかがみ、手触りや感触を確かめた。
「これだね」そう言うと、店員を呼んだ。また角張った箱に靴が戻され、レジのところまで持っていかれた。久代さんはオレンジ色の財布を取り出し、その代金を支払ってくれた。ぼくはユミに買ってもらった自分のものになる財布のことも思い出していた。自分に対して世間(この場合は複数の女性)が、とても甘やかしていることを抵抗もせずに受け入れていた。ぼくが稼ぐようになれば、ぼくが支払うことになるものも多かった。それはひとりのためか、もしくは三倍になるのかいまはまだ不明だった。

「履いている間は、わたしを忘れない」
「ずっと、忘れないですよ」忘れないという言葉が意味するものは、継続や安定という状態から離れ、それでもこころに残ることなのだとぼくはそこで気がついた。すると、忘れるとか忘れないという言葉を持ち出したこと自体が、誤りの核心でもあるようだった。「駄目になったら、お客になって、久代さんのところに買いに行きます」
「順平くんになら、社員割引にしてあげるから」

 それも関係が中断し、再会した立場を鮮明にするような話題だった。継続するという過程と、物事は終わりに向かってすすんでいるという道筋が対立している。ただ、ぼくの役柄が変わるだけなのに、なぜだか必要以上に物思いにさせた。そして、ぼくはそのどちらの流れにも身をゆだねることができた。

「お腹、空きましたね」彼女は相槌のかわりに微笑む。
「あと何足か買って、ローテーションにしないと靴が痛むのが早いからね。そこまでは面倒みないよ」ご飯を食べながらも彼女は靴のことを絶えず考えているようだ。ユミも自分の仕事が好きだと言っていた。ぼくも同じように胸を張って好きなことについて夢中になり、時間の経過などにも無関心で話しつづけることができるだろうか。そういう対象をひとつでも持てるだろうか。さらに、それを自分の職業に対して感じられるだろうか。と、自分の未来に疑問を持った。反対に羨望と呼ぶべき気持ちで、ぼくは久代さんを見た。

「ぼくも、仕事に久代さんみたいな愛着を感じられますかね?」
「しないと仕様がないでしょう。有無もなく」
「そうですね。長時間、関わる仕事だから」
「でも、よく聞くと順平くんが扱うのって、わたしの家に必要がないものばっかりみたいね」
「法人向けの製品や部品ですからね」ぼくは久代さんの役に立てない自分が歯痒かった。もっと深みへつながるような密接した関係を作り上げたかったのだろう。その気持ちは彼女の部屋の電気の配線や模様替えを手伝ったことが懐かしい記憶となって、ぼくの中でつながった。「でも、何かあったら、直ぐに手伝いに行きますよ」
「いらない本もたまっちゅうしね」彼女の文庫のお下がりをぼくは貰っていた。仕事に関係のない本をこれからもぼくは読んだり、またぼんやりと彼女の部屋で過ごす時間を見出せるのだろうか。
「もう、たまってます?」
「うん、たまってる」
「見繕いに行ってもいいですか?」
「いいよ、どうぞ。わたしもそのつもりだったから」

 彼女の背中が部屋のカギを開ける場面にかわる。ぼくは、いまのアパートを更新するだろう。もう、親のお金を頼りにしない。だが、責任ということではまだまだ子どもだった。大人の男性は自分の行動を律するべきだった。ぼくは彼女の横でおだやかに眠る。ここもぼくの居場所であり、同じ比重で仮初めの安楽のようでもあった。
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Untrue Love(98)

2013年01月24日 | Untrue Love
Untrue Love(98)

 そして、一つの希望する会社を選んだ。あるいは、選ばれた。内定が決まった。今後が決まった。

 ぼくは、その事実を最初にユミに告げた。彼女に切ってもらった髪形に恩恵を感じていたからだろう。彼女は当然、喜んでくれた。ところが、それを自分の手柄だとはまったく思っていなかった。ただ、ぼくの二十数年が報われたことを単純に祝福してくれた。

 この瞬間にぼくの生活が大幅に変わるには時期尚早であった。まだまだ学生という身分にぶら下っている。母の胎内に未練がある子どものように、ぼくもそこを去るのは名残惜しかった。早間も紗枝も同じように職場を決めた。年下の咲子にはまだ時間があった。ぼくの両親も喜び、多分、咲子のときはもっと喜ぶかもしれないと考えた。しかし、彼女がここで就職先を探すのか、地元に戻るのかも分からなかった。まだ考えは固まっていないのかもしれない。いや、こころの奥できちんと氷室のような場所で、外部で必要になるときまで温存しているのだろうか。自分の子どもへの責任は永続するため軽く、親類の子は責任にも期間が限定されるので集約され、より重いともいえた。だから咲子の未来も両親はぼく以上に心配していた。

 そう思いながらもぼくの責任や及ぼす力は限定されている。それでいくらか晴れ々れとした気持ちでユミと歩いていた。
「大人になったら、大人らしい社会人らしい格好をしないとね。なんかプレゼントしてあげる」彼女はそう言うと、革製品を売っているコーナーに入った。結局は財布とベルトと、名刺入れと小さな靴ベラを買ってくれた。それは永久性をもたないかもしれないが何年間かはきちんと役に立つものだった。ぼくが社会人となる通行手形として持っていないものの数々。そして、永続するという観念がぼく自身には芽生えていなかった。

「ありがとう。ユミは、きちんと毎日、働いて偉いね」
「好きなことだからね。で、どんな仕事? もっと具体的に教えてよ」
「コピー機とか電気部品を紹介して、説明して、売り捌く」ぼくも具体的なことをすべて掴んでいる訳ではなかった。
「そんな簡単に行かないかもよ。理不尽なことを言われて、謝って、ストレスためて」
「あるの? ユミも」
「あるけど、好きなことだからね」彼女はけろっとしていた。ぼくは身なりにそれほど拘泥していなかったので、多少のずれなど問題にはならないが、女性の髪形は見栄えを根本的に左右し、それが自分の意図に合わなければ大問題に発展するべき事柄のひとつだろう。それを自分の技によって、よりよいものとして、さらに悪いものを封じ込める。それは手抜きのできない時間の連続に思えた。だが、この日のぼくらはお互いがのびのびとしていた。緊張感の欠けらもない午後のひととき。

「なんか、食べよう」
「仕事したら、もうあの町に来なくなるんだね。バイトもないし、用もないし」ピザを食べながら、口に入ったものが熱そうな表情をしてユミが言った。
「忙しくなるからね。町もある日、大幅に変化しているかもしれない。あっと思う間に」
「髪がぼさぼさだった順平くんがなつかしいね」
「いつか、一本もなくなってハゲになるから」そういう状態になってしまったかのようにぼくは左の手の平で髪を確認した。
「まだ、あるよ。安心して。でもね、そうなるとわたしが困る。お手上げ。仕事ができないからね」

 ぼくらふたりは傍目から見れば順調すぎるほど順調に関係を育んでいる仲に映っていることだろう。あの町が出会わせてくれた女性であり、きっかけも作り、栄養も与えてくれた町だった。ぼくはその場所と疎遠になるのかもしれない。いずれ。遠くない先に。だが、ぼくはいつになってもあそこを歩くたびにユミを思い出す。さらに同じように、いつみさんの幻影があり、木下さんの痕跡もとどまるはずだ。

 その後で、ユミが見たがっていた映画を見た。カラフルな映像と雨に塗れたきれいな石畳が印象にのこる映画だった。ぼくは、もしその映画を見たときに言うであろう木下さんの感想を勝手に想像していた。

 ぼくに荷物もあるということで結局はしめくくりにぼくのアパートへ行くことになった。留守番電話の録音を告げる部分が明滅していた。珍しいことだった。だが、ぼくはそれを敢えて無視する。機械にそれほど敏感ではないユミは気付きもしないようだった。

 ぼくらはベッドで寝そべっている。彼女のつけているぼくには銘柄も分からない香水のにおいが横にあることで、ぼくは安心していた。それと同時にどこかでいつものにおいと違うという抵抗したがる気持ちも反応として起こった。言葉が沈黙を破る。

「今度は、新入社員という髪型にしてあげるね」その前触れとして彼女は指先でぼくの髪の毛の先をつまんだ。「そして、たくさん稼いで、それからは、きちんとわたしのお店で切ってね」と、最後にユミは言った。立場の変化がそこには認められるような気がしていた。「そうすれば、あの町も忘れ去られないでいるから。でも、わたしが働く店が変わったら同じか」何が楽しいのかひとりで彼女は笑った。ユミの笑い声も静けさを壊すのに堂々と値するものだった。
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Untrue Love(97)

2013年01月23日 | Untrue Love
Untrue Love(97)

「これが、就職の面接用の髪型。ちょっと短く切り過ぎたかな」ユミは手を止め、少し離れた距離で遠目からぼくの姿を見つめた。「大丈夫、似合ってる。とても」

 ぼくもユミの視線のなかにあるものを確認するため鏡をのぞいた。

「こんなもんかな、素材がこれじゃ。これで、世間をだます共犯者になった。ユミも」
「違うよ。順平くんのありのままであればいいんだから」

 ありのままの自分が社会のはみだしものになるのか、好青年と映るのかの正確な解答はなかった。だが、好意的な意味合いであるのはユミの口調が示していた。
「でも、これで、外見の準備が一式、揃ったことになるな」

 ぼくは壁際に吊るしてある親のすねをかじって購入してもらった真新しいスーツをながめた。それを着た自分はやはりありのままとはいえないような気がしていた。ありのままなら、汚いスニーカーを履き、重い荷物を運んでいる姿の方が感じとしては正しかった。

「頭、洗う? チクチクするでしょう。洗ってくれば」それはぼくの家だった。私設美容師。床に散らかった髪を彼女はコンセントを壁に突っ込み掃除機で吸った。そのついでに部屋の別の部分にもノズルを向けた。通り道にある邪魔になっていた雑誌を持ち上げ、服もたたんだ。自分の服にも髪の毛がついていたのか足元に吸い口の先端を向けると、スカートの裾がいきおいでめくれてしまった。

 ぼくは洗濯機に脱いだ服を投げ込み、シャワーを浴びた。自分の運命を決めるのに、髪を切り、服を選ぶ自分に当惑していた。それはこの状態に変化が及ぶことへのかすかな抵抗のような気持ちが前面に立っているからに思えた。変化の到来は、何かを手放すことになることを確実に意味していて、得るものより喪失の分量が比較すれば多い予感もあった。だが、順当に前へすすむことへの期待と憧れも存分にあった。ぼくは二十代の前半なのだ。厭世的になるにはエネルギーが余り過ぎていた。

 髪を拭き、部屋に戻る。ユミはジュースを飲み、テレビを見ていた。ぼくは冷蔵庫に数本だけのこっていた缶のビールを開けた。もう数年もすれば、この環境も変わる。もっと時間がなくなり、髪も別の誰かが切っているのかもしれない。しかし、この現在の場は確かに幸福と呼べた。

「洗うの楽になった? 簡単に髪も乾くと思うよ」

 ぼくは犬のように首を振って乾かす真似をした。ユミは切ってはくれたが、セットまでは関心がないようだった。テレビのなかの女優の美容法を興味ある視線で見つめていた。ぼくは一度も会うこともない女性を身近に感じることが難しかった。それより、ユミやいつみさんや久代さんの肉眼で眺められる肉体を好ましく感じていた。ブラウン管も白い幕も映写機も通さない実在の身体。疲れ、喜び、泣く身体。直ぐ届きそうな手先にある身体。

 ぼくはベッドの端にすわった。ユミはそれを背にしてひざを伸ばしていた。
「咲子ちゃん、この前、店に来てくれたよ」
「そうか、お得意さんなんだ。忘れてた」
「うん。バイトしてるお店に男のひとに興味がある男のひとが調理をしているんだって?」
「そんなことまで話すんだ」ぼくは咲子の無口な部分に全幅の信頼を寄せていた。それはぼくに対してだけで、ユミや早間に向かったときは違う面を表す可能性を疑ってもいなかった。ぼく自身が三人の女性に対してそれぞれ少しだけだが違ったパーソナルに変化することに気付いていながらも。

「話すよ。黙ってすわっているのって苦痛でしょう? でも、そういうのって、どうなんだろうね。棒同士」

 ぼくはビールを吹き出しそうになる。それで話題が転換された。咲子はぼくがその男性の姉である店のいつみさんに好意をもっていることを知っている。そして、ユミとぼくの部屋で会っていることも知っているはずだ。実際に以前に見られたことがある。そのユミにいつみさんのことまで話すことはないだろうという漠然とした安心感があった。分別がある人間は危険な状態を自ら作らないのだ。すると、ぼくには分別も見境もないことが立証される。

「ユミがいて良かったよ。女性を愛せて良かったよ」
「いっぱい好きなくせに」

 自分のことをいっぱいか、女性という人類の半分の存在に対してのいっぱいの意味か? 複数の受け止め方がある。
「そんなでもないよ」
「面接のときは、もっとていねいにひげも剃らないと駄目だよ」彼女は二本の指でぼくのあごを撫でた。「たくさん稼いで、女性もいっぱい好きになって」

 だが、この日はユミだけなのだ。

 それから、複数の会社の入社試験を受け、いくつかの会社で人事の担当者と面接をした。緊張と手さぐりと、不本意と後悔と負け惜しみの時間の連続のようだった。しかし、なにかの基準や経験に照らし合わせるにせよ、ぼくの何かを見極めなければならないのだ、彼らも。そして、炙られるようにぼくの欠点が浮き上がり、となりにいる誰かの優れた面に負けることを知る。ぼくは夜中に夢を見る。三つの会社があった。そこでの面接官はいつみさんと、木下さんとユミだった。三人とも総じてぼくに対する評価が甘く、ユミにいたってはぼくの髪型を先ずほめた。それぞれが当社を選んだ理由や目的をたずねた。ぼくは言いよどむこともなく、すらすらと回答が口先にのぼる。みな、安堵した表情になった。だが、ぼくは満足ばかりではいられなかった。もし仮に三つとも受かってしまったら、一体どこをぼくは選ぶのだろうと目が覚めても困惑していた。
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Untrue Love(96)

2013年01月20日 | Untrue Love
Untrue Love(96)

「キャッチボールでもしようっか?」

 いつみさんの初恋の場所。風がない土手。ぼくらは近くにあったどう生計をたてているか分からないひなびたおもちゃ屋に寄り、ビニール製のカラーボールを買った。それがぼくらの間を行き交っている。意志や性格をもつように。

 いつみさんの胸元にボールが飛び込み、ぼくの身体にボールが忍び込む。それは相手への愛情がひそんでいるようでもあった。そして、素直にこの状態を楽しんでいた。何度かに一度はボールが逸れ、それを拾いに行く。失うわけではないが、自分から遠退いてしまう。また手に入れ、それを投げる。彼女もこぼす。そして、大事なもののように両手で包み、また投げた。数メートル先にいる彼女はぼくにとって客観的な存在であるようだった。しかし、やはり他人であるわけでもない。愛情の対象なのだ。その存在が動いている。歓声が聞こえ、ぼくを誉めなりなじったりした。そのひとつひとつが幸福の積み重ねの層だった。

 それにも飽きて、また土手の斜面に座った。彼女の若い時代の話を聞く。いまでも若い。まだ二十代の半ばだ。それより十年ほどまえの彼女。ぼくが絶対に見ることがないいつみさん。過去のいつみさん。まだうぶでフレッシュないつみさん。そのときにぼくは彼女と会っていたら、好きになっていたのだろうか? 同じ年頃で。しかし、それはどうやっても不可能だった。ぼくらは違う場所に住み、ぼくはまだ小学生だ。誰かを熱烈に愛する意味も意図も知らない。それより、釣竿が欲しかったのかもしれない。ルアーのコレクションの方が楽しかった。しかし、いまのアパートにはひとつもなかった。ぼくは別人になってしまったのだろうか。

 そうするといつみさんも別人だ。化粧の方法も覚え、お酒も飲む。二日酔いに苦しむ。それらを並べると大人の楽しみというものがすべて無駄でできあがっているようにも思えた。だが、愛し合えた。ときには傷つけるような言動を抑え込む努力もしなければならないが、大切にされ必要とされる機会にも恵まれた。彼女は、十五歳ではないのだから。

 さらに空想は十年後になる。ぼくは三十になり、彼女は三十代の半ばだ。どのような魅力を彼女は身につけ、反対になにを失ってしまうのだろう。月日は、ぼくからなにを奪うのだろう? こういう何気ない平和な一日か。キャッチボールを楽しむ生活か。ぼくは小さな存在とそれをするのかもしれない。母となるひとは弁当をつくってくれる。そして、この土手にいる。いるとしたら、いつみさんなのだろうか? ここで、彼女の二十年の生活が報われる。祝福を受ける。

「友だちと、誰のことが好きかここで打ち明けあった。なんで、あんなことをしてたんだろうね? いま、大人になってする? それで、きゃっきゃとはしゃいだりする?」
「さすがに、しませんよね」
「いつから、しなくなったんだろう」彼女の目の前には川が静かに流れている。それはもう流れではなかった。大きな水溜りのようにひっそりとしていた。たまに鳥が飛んで、鳴き声を静けさに耐えられないかのように響かせた。この前のクラシックコンサートで幕間に咳払いをしていたひとたちをぼくは思い出した。いつみさんは管楽器だったのだ。クラリネットのような美声。だが、考え事に戻ったのか、また黙った。

「大人は打ち明ける前に、もう行動していますよね」
「そうか? そうだね」
「キヨシさんはぼくのこと知らないんですかね?」
「まさか。全部、分かるだろう。顔に書いてるという表現もあるぐらいだから」

 ならば、そこで週に一度だけだがバイトをしている咲子も知っている。ぼくは、それを裏切っていることは隠している。だが、ボールを失い、転がって川に流されてしまうこと以上にこの関係が大切で、重要であることも理解していた。それは段々と深みに入ってしまっていた。同じようにユミのボールがあり、木下さんのボールもあった。数回という段階ではない。関係はどんどんと伸びて行った。いずれ、自分も相手も傷つけるような恐れがあった。それは恐れではない。確信の手前でもあるようだった。ぼくはいつみさんの現在を手に入れ、過去の思い出話も知っていた。さらには、未来を予測することもできた。キャッチボールをする親子。それに付き添う母。それは、いつみさんに相応しい役目のように思えた。父の役柄は自分以外の誰にも渡したくないとも思っていた。誓いにも考えとしては似ていた。誓いの近似値。

 いつみさんはボールをバッグにしまった。それから、お尻をはらい、立ち上がった。そのボールの存在はいつか忘れてしまうのかもしれない。ぼくのルアーのように。だが、この日の彼女はずっとぼくに刻み付けられていくのだろう。髪を切ったり、爪を研いだり、ひげを剃って自分の一部を日々、処分しようとしても、この日のいつみさんは確実にのこる。ぼくはそのことを知っていた。十年後の彼女を見守りつづけていることは、だが、確約がない。それを固定するためには宣言の言葉が必要だった。顔に書いてある、とさっきいつみさんは行った。愛というのは言葉で成文化できるものなのだろうか。好きな子を伝え合う幼少期の感情と離れてしまった人間にはもっと重みのある言葉が迫られているようだ。ぼくらはボールを買ったおもちゃ屋の前をまた通った。ほかにお客はいなかった。ボールがひとつ売れ、それはいつみさんとぼくの関係を深めてくれたようだった。また、深度はさらに発展する。十年前には知らなかった行動がぼくに喜びを与えてくれる。その源がいつみさんである。そして、原動力もいつみさんであった。
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Untrue Love(95)

2013年01月19日 | Untrue Love
Untrue Love(95)

 ひとは、なぜ誰かを好きになってしまうのだろう、という根源的な問題を、講義を受けながら考えていた。こちらは、根源的な問題と隔たりがあったからかもしれない。もしかしたら重要なことが話され、ある男性によって解説されていたのかもしれないが、ぼくの耳にとっては確実な真実とも思えなかった。

 誰かがいる。そのひとと定期的な形で会う。触れ合う。会話があり、そのひとの振る舞いが自分の気持ちのどこかを動かす。そうすると、ぼくのこころの奥に誰かを愛さなければならないという宿命にも似た気持ちが埋め込まれているのだろう。そのマグマが活発に動く時期になり(まさに、いま)不特定のなかからひとりの女性を対象として見つける。ここで、そもそも間違っていることに気付く。普通は、ひとりで充分なのだろう。ぼくには、それでは三つのマグマが眠っていたことになるのだろうか。その対象を見つけたことは喜びにもつながり、いささかの苦しみや息苦しさにも連結する。胸が苦しいなどという状態とは無縁でいられた子ども時代。ふたたび、あの年代に戻れることはもうないのだろうか。さすがにそれは危険すぎる。もう、スタートの合図はなってしまったのだ。あとはレースを終えなければならない。

 紗枝が、となりの女性と話しているのが見えた。楽しいことがあったのか、笑い声が大きすぎた。教壇で講師が不愉快な顔をする。紗枝にマグマを働かす。別の意味で。怒りも愛情も、こころを動かすということでは遠くない親戚なのだろうか。

 ぼくは、交遊の幅をひろげなかったが、不思議と紗枝とは話が合った。油断をすると壁を作り上げてしまう自分の性格。その壁のなかにいることさえ、日常的なことなので忘れてしまう。母と幼少期にバスに乗っている。となりにいる赤ん坊を抱いている女性と打ち解けあって話している母親。世界は融和でできている印象をぼくの幼いこころに与えた。ぼくには壁があり、鎧があった。それは要塞の役目ではなく、単純に勝手に作り上げられてしまうものだった。それを飛び越えて、誰かを愛したいという気持ちは上回って行くのだろう。鎧を瞬時に脱ぎ捨て、高い壁をものともせず乗り越え、要塞を打ち砕く。その向う側にこそ、不審ではなく信頼や愛情の尊さがあった。

 ぼくは、こう考えながら、こうした考え自体が壁を構成する素材となり得るとも感じていた。いつしかそれは石灰化し、こびりついて壁を強固にして、誰の手も及ばなくなる。

 だが、椅子に座っている時間から開放された。思考も終了である。

「なんか、大笑いしてたね」ぼくはすれ違うときに紗枝に話しかけた。

「だってね・・・」友人との会話を再現しはじめた。先日、ふたりは遊園地に行き、そこで起こったハプニングについて話していた。その快活さと話術の見事さにぼくも魅了される。だが、魅了されても、ぼくの愛情の芯のようなものはまったく揺れない。ローソクのような小さな炎も起こらない。例えば、木下さんはそれほど、ぼくに楽しい話題を提供してはくれないかもしれないが、ぼくのこころの火は燃え、ガスバーナーのような勢いをときにはもつ。それが彼女がもたらせてくれたものなのか、ぼくの内部の若さが発露を求めていただけなのか分からなかった。ただ、紗枝に対しては起きないのだから、両者の結合がうまく噛み合って生じる性質のようなものなのだろう。それは、ぼくにいくつ与えられているのだろう。十個ぐらいか? ならば、もう三つは使ってしまった。それも同時期に使ってしまった。いや、三つだけなのかもしれない。ぼくは、もう今後、誰かを真剣に愛することはできないのかもしれない。この三つのうちのどれかを枯れさせることなく、飼料を与えつづけるのだ。それは、ときには種火のような状態に陥るかもしれないが、いつか再燃する。いや、三十も四十もあるのかもしれない。しかし、忙しい生活に入り、その炎のもとを自分の靴底で踏み潰し消してしまうのかもしれない。

「じゃあ、またね」と言って話し終えた紗枝は友人のもとに戻った。

 紗枝は、ならばその種火をいくつ持っているのだろう。ひとつは、早間に対して使った。早間のために咲子も消費したのだろう。多分、ひとつ。ぼくは、ひとりになりまた思索を再開した。だが、大きな炎や燃える松明になるのを知らずに暮らすひともいるのかもしれない。また、相手がいることなので、その炎は相手には移らないままで終わる。横の建物に引火しないよう、誰かが必死に消火作業に励む。それも、むなしいできごとだった。

 ぼくはバイトのために電車に乗った。老人のために席を譲る高校生がいた。化粧のない素肌の顔。そのような動作をすんなりとできるよう育てた親は、やはり世間との壁のことなど彼女に伝えないのだろう。ぼくも伝えられていない。ただ、そこにあった。ぼくのいくつかの恋心も同様にただ、そこにあった。数駅先で、その老人は感謝の挨拶を彼女に述べ、ホームに降りた。その高校生にも誰かと一致したいという気持ちが眠っているのだろう。その相手は年頃の異性であるのが妥当だが、別の価値基準での優しさの袋も彼女はもっているのだ。それを小出しにする。ぼくには、それがプレゼントされているのか。それは、自分で探しに行くような類いのものであるのだろうか。次の駅でぼくも降りた。身体を早く動かして、思案をやめたい、切り上げたいという思いが強くなっていた。
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Untrue Love(94)

2013年01月14日 | Untrue Love
Untrue Love(94)

 大学生という立場にいることを思い出す。友人の幅を広めようと努力もしなければ、深める決意もなかった。だが、不思議と紗枝とは話した。ある個人との関係が結ばれているということは頼み事ができたり、頼まれ事が生じたりするという面もあった。そういう機会と無縁ではいられないのだ。

「それで、人数が少ないので、順平くんも聴きにきてくれない?」と、紗枝に言われ、管弦楽団のチケットを手渡された。「友だちがフルートをしてるから。すごく上手いの。来てくれたら、誰か女の子を紹介してあげるから。そういう相手、まだ、いないんでしょう?」

 彼女は新しい男性を見つけていた。そいつには、ぼくも会った。その演奏会にいっしょに来るのかもしれない。
「でも、寝ちゃうかもしれないよ」
「いいのよ、座席にさえいてくれれば。でも、寝ないひとなんてどれぐらいいる?」

 安眠剤としての音楽。手に握られたチケットに書かれている日付を確認し、その日の予定をぼくは思い浮かべる。なにもない。見事になにもない。

 その日になって、ひとりで行った。入口付近で紗枝とその男性に声をかけられた。ふたりが並んでいると似合っているとも言えたし、不釣合いでしっくり来ないとも思えた。近所の犬がいつもと違うひとと散歩をしている姿をなぜかぼくは思い出していた。犬は安心している。家族のうちの誰かなのだろう。だが、そのいつもいるひとは、今日はなにをしているのだろう? 不在の理由は。旅行でも行ったのか。それとも、病気で入院でもしてしまったのだろうか。そう思い浮かべるのには理由があった。紗枝と知り合ったのは、早間を介してだったからなのだ。ふたりはいっしょにいることに喜びを感じ、ときには喧嘩もしていたが全般的にずっとつづく関係性がそこにはしっかりとあるようだった。未来への不信というものを知らない年代だったのだ。ほんの数年前のできごとなのに。

 ぼくは、座席につく。練習をしているのか奥のほうから思い思いの節が鳴っていた。楽器の音色もさまざまだった。それにも飽きてきょろきょろと知り合いでもいないかと目で探すと、早間と咲子の背中が見えた。ひとは背中でも個人を特定し、認識できるのだという事実に思い当たった。すると、あの楽器の音は、友人の誰かなのだと姿がなくても識別することも可能なのかもしれない。ぼくには、無理だったが。

 部屋は暗くなり、拍手で迎えられた。ぼくは、案の定、半分ほど、いやもっと多く、夢のなかにいた。バイトでの疲労が、最近、シフトを詰め込みすぎたせいかもしれないが、表面に出てきた。暗い場所で心地良い音楽が演奏されている状態で、そうならないでいることへの抵抗はとても困難だった。だが、目を覚ますと、途端に耳が釘付けになった。

 フルートを演奏する女性。体内に音楽の太古からの歴史があり、またいま産み出されている媒体になっているという躍動感が彼女にはあった。自分が得意とするものを見つけられた喜びのようでもあった。メロディーは飛翔して襲い掛かり、また地面を這ってぼくの足元に忍び寄ってきた。ひとつのパートが終わり、次の静かな場面に音楽は変わっていった。着実に物事はすすんでいくのだという音楽の展開がぼくには珍しかった。スピードは感じられないのだが、移り変わっていくことは鮮明になっている。それが三分や五分という短い間隔で終わるのではない。テレビに出る歌手たちとは違う。もっと長いものでひとを屈服させようとする意志さえ感じられた。

 音楽にも慣れてくると、いくつかの楽器の種類で構成されていることも分かる。分野があった。打楽器があり、管楽器があった。ヴァイオリンなどが群れとなって旋律を奏でる。作曲家が、そのどれかを取り除かれて曲を作らなければいけないとしたらどうなることだろう。それは、躍動も展開もなく、平面的な図に終わるだけなのかもしれない。立体的にこの室内を覆っている音楽たち。陸上競技で、こちらでは走り、ここでは投擲競技が行われているという無節操さではなかった。レストランの厨房でひとつの料理のために、さまざまなひとが関わっていることを思い出させた。それを最後に細身のウェイターが提供のために出てくる。そこで完成だ。

 また、いくつかのパートの特徴がぼくが三人の女性を思い出させる役目を負った。

 ユミは打楽器。シンバルは効果的に自分の存在を際立たせる。音の破裂がひとの注意をひく。彼女の陽気さ。派手な色合い。印象的な面白さ。どれも、ひとに、ぼくにインパクトを与えた。いくつかの太鼓も自分のテリトリーにひとの関心を向けさせつづけることに役立っていた。

 久代さんの繊細さ。柔軟さ。しとやかさ。彼女は弦楽器を思い出させた。感情を大きくは表さないが、しっとりとぼくに伝わってくる。優しさや高揚もそれは自然に、誰かを驚かすことなど意図することなく伝播する。

 それでは、いつみさんは管楽器になるのだろうか。ひとの声に、それはいちばん似ているのかもしれない。新しい場面になったことを象徴するファンファーレの役割もあった。感情は盛り上がり、どこかで沈んだり停滞したりする。そのひとつひとつが生きている。無駄に出される言葉がない。ぼくは多くの時間を眠ってしまったことを後悔していた。もっと、三人についての考察をつづけたかった。だが、音楽が終わり、ひとびとの安堵する声が漏れた。緊張の時間の連続性は終わったのだ。ひとの集中した注意を奪える時間には限りがある。ぼくの三人のことを考える時間もこれぐらいで終わらすのが妥当なのだろう。

 日曜を終わらすにはまだまだ時間が残っていた。結局、その後、早間と咲子に声もかけなければ、紗枝とも会うこともなかった。ひとりで午後の時間を太陽を浴び、歩いていた。さっきのメロディーが耳に残り口笛を吹いた。だが、もうその全体像を忘れてしまっている。それを再現することも不可能なことのように思えた。プールで横たわるあの日のいつみさんをもう一度、見つづけることができないように。とても、淋しい気もしたが、どこかでやはり当然なのだとも思っていた。連続と瞬間の狭間で立ち止まることもできない自分。作曲者は、もしあの曲が不満であったとしたら、それでも、どこの部分を気に入り、どこの部分を削り修正したいのだろうかとぼくは空想した。それは、ぼくのいまの問題でもあるようだった。引き出しに仕舞われた未完の自分の人生の決定権を、自分が行使する権利を有していることさえぼくは無視したかった。
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Untrue Love(93)

2013年01月13日 | Untrue Love
Untrue Love(93)

 他人の視線の範疇にいる自分。神という概念でもあれば、その範疇は無限大に広まる。そして、行いを抑制する。抑止する。反対に喜ばしいことをしようと心掛ける。自分はいったい誰に知られているのか? その範囲が分からなかった。酔った自分はもっと知らないし、理性も歯止めをかけない。だが、この町でぼくのことを知っているひとが確かにいたのだ。

「この前、女のひとと歩いていなかった? 駅の向こうでね?」木下さんはそう言った。ぼくは、ふたりの女性を思い浮かべる。ユミかいつみさんのどちらかだ。
「いつのことですか?」
「あの暑かった夜。ふたりとも気分良さそうにしてたよ」

 ぼくはプールと太陽でほてった身体をビールの力によって内部から冷やそうとしていたのだ。内側もその効果を受けることもなく、身体も余計に熱を発していた。だが、いつみさんといた状況だけは確かめられた。ぼくは、そこで対策として時間を稼がなければならない。数秒でも多く。

「久代さんは、そこで何をしていたんですか?」
「友だちに誘われて、男のひともふたり交えて4人で飲んでた」
「なんだ、楽しそうですね。良いひとたちだったんですか?」
「わたしのことはいいのよ。あれ、誰なの? きれいだったよ」
「声をかけてくれれば良かったのに」ぼくらは恋心を通しては無関係であるということを暗に伝えようとしているようだ。「咲子がバイトをしているところの、お店のひとでしょう、そのひとなら。とても、お世話になっているから」

 自分は、嘘とは無縁であることを望んでいた。ここでも、嘘は言っていない。真実をすべて伝えていないというだけだ。
「久代さん、水臭いな。声をかけてくれれば良かったのに」再度、同じことを口にした。
「こっちもグループだったから、なんとなくね」彼女はぼくの発した言葉の重さを考えているような表情をした。「わざわざ、そこから離れて行くのも、なんだしね。でも、バイト先って、お店なんでしょう。今度、連れて行ってよ」
「あんまり、良いところじゃないんですよ」
「咲子さんが働いているのに?」
「そう。ぼったくることを目的にしている場所」ぼくは、その機会を揉み消すことだけが念頭にあった。それで幼稚な発言と承知しながら、それからも店の評判を落とすようなことを言い続けた。
「もう、やめにしなよ。逆に興味が湧いてくる・・・」

 疑いを完全に晴らすことはできない。それでも、ぼくは、この町の住人であることを容認されたような気持ちを同時に受けていた。ぼくを知っているひとがいるのだ。その人数が増えていくのだ。そこで危ないことはできず、視線の数を正確に把握することもできない。ぼくも同じような視線を誰かに向ける。だが、ぼくは久代さんのことに気付きもしなかった。そこのふたりの男性に嫉妬することもできず、責める材料も手に入れていない。ぼくは一方的に証拠を握られているのだ。そもそも、久代さんは自由の身だ。ぼくは責める資格なども有していない。

「楽しかったですか?」
「まあまあね。でも、ああいう場所で、一回だけ会ったひとのこと、きちんと理解できる?」
「できないです。でも雰囲気とか感触とか、手応えとか・・」ぼくは、しかし、最近、未知なる異性とそういう場で触れ合ってもいなかった。「もう一回、会いたくなったとか?」
「それは、向こうの出方でしょう?」彼女は今後の成り行きを想像している様子に変わった。「そうじゃない、順平くん」

 それは、ぼくの出方のようにも思えた。別の女性の存在を公表し、謝罪し、ひとりにするという決意を打ち明ければ、関係性は次の段階に行くのだ。だが、やはり、ぼくはあのプールという場所で自然にいられた自分の姿も手放したくないと思っていた。ふたりは何杯ものビールで酔い、明日もあさってもないという無邪気な少年や少女のような気持ちで互いを求めていた。駅の向こうで。高架をくぐり抜けただけの場所で。

「4人が、ふたりになる、次回は。半分。誘われるでしょう」その機会を防ぐことができる。いや、防御はきかない。ぼくに権利はない。権利がないひとは無駄に実行もしない。だから、ぼくはみすみす逃れるものを見届けるだけなのだ。
「誘われるか、かける?」
「自分の大事なことですよ」ぼくは彼女が茶目っ気を出したことに驚いている。「でも、なにを?」
「誘われたら、そこで終わり。終了」彼女はなにかを考えている。彼女の父は幼少期の久代さんのこの顔を見て、プレゼントを渡してきたのかもしれないとぼくは思った。「誘われなかったら、悲しむわたしを咲子さんのお店に連れて行ってよ。どう?」
「むずかしいですね」ぼくは、その言葉がどこにかかるのか、またどれぐらいの比重なのか計ろうとした。でも、やはり、ごまかしたり、時間を延ばすことが当面の目的だった。「誘われるっていうのは、でも、一回ですよね。継続をするか、しないかが大きな問題だと思いますけどね」

「ずっと、続いてほしいの?」と、彼女はまじめな顔をつくって言ったが、直ぐに笑いに化けた。その早変わりにぼくは抵抗を感じる。いや、感じようとした。「もう、疲れたね。うちに行って飲みなおす。来る?」

 明日、彼女の仕事は休みだ。ぼくは、何の約束もしていない。賭けの有無もうやむやにした。それを幸福な状態だと定義しようとした。久代さんはいつか幸福になるべき存在なのだ。その足がかりとして、素敵な男性があらわれる。嘘をつくこともしない、正義感にあふれた人間。ぼくは、やはりその吊られた服に袖を通すことはしないだろう。いや、試着はするのだ。ずっと、試着だけをくりかえすのだ。車の試運転かもしれない。また、店に戻し、ぼくは対価を支払わない。そこに正義も、本当の意味での愛着も起こり得るはずがなかった。ただ、久代さんの寛いだ姿や格好を楽しんでいただけなのだ。夜の過ごし方としては、とても、素晴らしいことに間違いはなかったのだが。
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Untrue Love(92)

2013年01月12日 | Untrue Love
Untrue Love(92)

「わたしの水着姿を見せてあげるよ」と、いつみさんがわざと照れ隠しのような口調で露悪的にそう言った。そして、西新宿にあるホテルの名前を告げた。ぼくは、そんな場所があることなども知らなかった。

「高いんでしょう? いっしょに行くのは、ぼくでいいの?」説明もなく、急な展開に戸惑っていた。
「プレゼントで予約してもらったの。それで、友だちと行くって言ったから。ふたりで。友だちじゃないか、いや、友だちか」

 ぼくはプレゼントをした側が誰なのだろうかと考えていた。だが、深入りする権利がぼくにあるとも思えなかった。友だちだから。しかし、キャンセルした誰かの存在もうかがえた。
「なんか決まりがあるんですかね、庶民には分からないような」
「ないよ、水着さえあれば。行くんだろう? 苦学生くん。たまにはバイトと勉強だけのむなしい生活から離れてさ」
「行きますよ。でも、その表現、古すぎますよ」
「古くできてるんだよ」

 それで、ぼくは寝そべり上空にある太陽をサングラスで隠していた。世界というのは限りなく快適な場所に思えた。横にはいつみさんがいた。目をきょろきょろさせて、あたりを見回している。それから、青い色の飲み物を飲んでいた。いつも、蛍光灯のしたに彼女はいた。最近では外で会うことも多くなったが、最初の印象が強いせいか、概ね室内の煙る場所のなかにいるのが似合うタイプだと感じてしまっていた。

「喧騒から逃れるって、こういうことを言うんだね」いつみさんはそう言ったが、喧騒を懐かしんでいるようでもあった。主な自分の居場所はあそこなのだと知っているように。でも、ぼくは違う場所にいて馴染もうと努力している彼女を、美しい存在だと認めていた。
「市民プールとは、さすがに違いますね」
「笛を吹かれ、直ぐに注意される。まだ、順平くん、行くの?」
「いかないですよ。それに美しい水着も水着姿もないし」

 彼女は自分の胸のあたりを見下ろす。自分で宣言したわりには自信もないようであった。女性を主張するような身体ではなく、アフリカの短距離を駆け抜けることに向く動物のようなしなやかなラインだった。
「なんだか、リッチとか、ゴージャスな身体じゃないね」と自己表現をした。しかし、その容貌こそがぼくはいつみさん自身なのだと決めていた。認定という感覚に近い。もっと、女性っぽかったり、よそよそしかったり、高慢だったりすれば、彼女の良さは立ち消えになる。魅力もしぼんでしまう。「それに比べて、肉体を酷使している身体をしてるよ、順平くん。ほれぼれする」
「わざと、古臭い表現をつかってるんですか?」
「どこがだよ」
「ただ、若いだけですよ。でも、もっと、数年前なら、もっと鍛えられてたと思うけど」
「自信家。苦学生の自信家」

 そう言われながらも、ぼくは空想にも甘んじる。彼女は別の誰かとここに来る予定だったのだ。それが突然にキャンセルになり、腹いせのためにぼくをだしに使う。あり得ない話でもない。だが、彼女はこのひとときも、とても楽しんでいたので、その空想自体が証明不可能になる。また、証明する必要もまったくない。世界は甘美な場所で、喧騒から隔絶されているのだから。
「咲子ちゃんが働いてくれると、わたしが遊べる。だから、あんまり会うこともできないんだけど、この前、店に大事な忘れ物があったので、休みの日に行ったから、彼女がいてね、なんだか、とても、大人になったのね。知ってた?」

「さあ。どこら辺がですか?」
「なんだか、垢抜けたんだよ。これも、古臭いか?」
「田舎から上京したことも見抜けないぐらい?」
「そうだね。ああいう素朴な可愛さがある子が、原宿とかでスカウトされるのかね?」
「いつみさんもされますよ」

「バカか! その目は節穴なのかね? もう、わざとみたいになってる。死語のオンパレード」彼女はその静かな環境のなかで大声を立てて笑う。青空は青空という状態であるだけで美しいのだ。何かに変貌する必要もないし、嫉妬も羨望もない。成長も退化もない。それは、とても恵まれているように思えた。ぼくは、仕事のことが、就職のことがちらほらと頭をよぎっている。実家に帰ってそれとなく質問もされた。そうすると自分の自由というのは、とても限られていたような気がする。受験のために勉強に励んだ時期は、つい昨日のことのようでもあった。数ヶ月もすれば仕事と将来の収入の道を確保する。この数年と、このいつみさんとプールサイドにいる時間だけが、ぼくがぼくでいられた時間だった。その自由の象徴として、いつみさんは、声を張り上げて笑ってくれたのだろう。その響きがぼくの若さと自由の凱歌でもあり、旗を振る民衆の絶叫の姿でもあった。

 ぼくらはその後もいくらか泳ぎ、また日の下で寝転んだ。夕方になると、また汚れた町に出て、ビールをたらふく飲んだ。そして、ホテルの部屋でぼくはいつみさんの水着のない姿を見た。数枚の布切れの差を実感して、最後の自由を堪能した。多分、自分の若さの日々の記念としてこのことは忘れられずに刻まれていくのだろうと想像した。しかし、その想像を確認し追慕するときには、彼女がいなくなってしまっていることが前提なのかもしれない。それは自分に起こってはいけないことでありながら、また、自然と吸い寄せられていくどうしても避けられない正面衝突の瞬間のようでもあった。
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Untrue Love(91)

2013年01月06日 | Untrue Love
Untrue Love(91)

 だが、厭世的でいられないほどの喜びが体内にあり、ぼくには若さがあった。それが一直線に全身を貫いていた。ちょっとした疲れや睡眠不足や悲しみもそれを奪えない。悲観さは身内ではなく、遠い親戚にもいなかった。水族館で回遊する魚を見ていたときだ。となりにはユミがいた。ぼくの姿はあれと大して違わないのだとぼくは思っている。思案などという言葉や状態は、四十過ぎの人間だけに与えておけ、とも思っていた。

 南国の魚がいる。派手な外見を有していた。誰が、どこでどうデザインしたのだろうと純粋な疑問をもった。横を見ると、ユミはこっちに似ているのだとぼくは判断する。動くことをやめないものと、色彩で世界を魅了するもの。そのときは、それで世界は完璧だった。およその範囲で。

 地面をゆっくりと這うようにすすむもの。顕微鏡のようなものが備わったガラスで拡大しないと確認できないほどの微細な生物もいた。それはもう誰という人物と比較して考えられるものではなかった。でも、ぼくが知らないだけで、それはどこかにいるのかもしれない。今後、会うのかもしれない。だが、ユミやぼくではなかった。

 外でユミはソフトクリームを食べている。ぼくはビールを飲んだ。青空があり、快適さがあった。何にたいして快適なのだろう? 生きること。本音を告げること。愛をささやくこと。だが、ぼくはその内のどれもしない。だが、快適であることには間違いがなかった。喉が渇くこと。それも快適さの前哨戦だ。冷えたビールが喉を潤す。

 あの透明なガラスのなかで彼らは生活する。ぼくらは外を存分に歩ける。隔離もない。自分の思ったとおりのことができるのだ。だが、ベンチに座り、そう思っているだけで実行は起こさない。しかし、可能性がある状態が思ったほか心地の良いものとして実感させてくれる午後のひとときだった。

「この前、ある子に誘われてね」と、ユミがそのベンチで話し出した。
「それで?」
「予定がある、その日にって言った。ごめんね、また、今度と謝って」
「うん」ビールは底をつきかけていた。だが、ぼくはいくらか現実との境界線を失っているような気持ちをすでに手に入れていた。

「その予定はなにって訊かれて、水族館に行くって答えたんだ」
「今日のこと?」
「そう。じゃあ、デートだね、男性でしょう? とまた訊かれた」
「うん」
「それで、どんなひと、という風につづくのが当然でしょう?」
「当然だろうね」
「同じ状態にあるとしたら、順平くんはどういう風にわたしのことを説明するんだろうって、そのときに思った」

 それは、ぼく自身が決めないといけないユミの全体像でもあり、ぼくに対する影響の度合いを計る物差しでもあるようだった。もちろん、影響も受ける。いっしょに過ごす時間はことのほか楽しいものだった。だが、それで充分だった。一方では、充分でないと思っているひともいた。ユミの表情を見ると、それが理解できた。その言葉を口に出す順番がたまたまユミが早かっただけなのだ。遅いのは逆にぼくではなく、いつみさんや木下さんであるのかもしれない。いや、やはり遅いのはぼくだ。「ぼくのことを、なんて説明したの?」という疑問を簡単に口に上らすだけで結論は済んだ。

「南国の魚みたいな子と、南国の魚の色合いを見に行くって感じかな」ぼくは本心ではないことを本心だと思われないことを知ったまま話していた。大事な人? 掛け替えのない人? 取替えのきかないぼくの大切な相手。だが、それはぼくがどこかで読んだことのある大切なひとをあらわす言葉や情景を真似ただけだった。だが、ユミは自分の服を引っ張って確認することに意識を集中していた。

「似合っていない?」
「ううん。まったくの反対。休日のデートの服装」これが、デート以外の何ものでもないことをぼくは認めた。ここに来るのが別の人間になる可能性はひた隠しにして。だが、ユミといることが、ここでの場合はいちばん楽しくなることも知っていた。二人でいるとどんな具合でかは分からないが調合がうまい具合に混じり合ったスパイスのような作用を及ぼしていた。関係がすすめばすすむほど、それは揺るぎのない事実になった。事実の積み重ねが証明になった。確信がまたあらたな好奇心に化けた。その好奇心が何かしらの計画になった。この水族館を去っても次の予定が自然にできるだろう。それをぼくらは実行する。そして、実行のあとには、やはり積み重ねの正しさが底流にのこるのだ。幸福のカギを開く暗証番号は間違えていないとでもいうように。

 いつみさんと木下さんといるときには、その確信を感じていないとでもいうのだろうか。ぼくはぼく自身に疑問を突きつける。それは疑問の余地なく間違いであることを知っていた。それぞれのひとが、それぞれの方法でぼくに魔法を振りかけた。アニメのなかの人物でもあれば、ぼくの周りにはきらきらと光る粒子が散らばっていることだろう。だが、その粉をもっているのは彼女たちであるようだった。ぼくは待つ身なのだ。いつみさんと木下さんは別々に処方されたマジックを起こす粉末をもっている。すると、目の前でペンギンが餌の時間になったのか長靴姿の飼育員の到来を待ちかねている悲鳴のような音をあげた。あのような鳴き声を出すのだ、とぼくはあらためて知る。ビールのなくなった紙コップをゴミ箱に捨て、ぼくとユミは見物するためにそこまで歩き出した。あの姿はぼくのようでもあった。回遊するものではなく、今度は餌を待つだけの身だ。それもそれで快適な状態でもあるようだった。
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Untrue Love(90)

2013年01月05日 | Untrue Love
Untrue Love(90)

「昨日、あれからどうなったの?」紗枝は待ち遠しい様子でぼくに訊ねた。

 ぼくらは意気投合して、いくらか疑問に思った彼の性格は丁寧に伏せて、彼女に具体的な状況を説明した。当然、紗枝のことをいろいろ質問されたことも。

「きちんと、愛らしい存在になるよう答えてくれた?」
「もちろん。でも、本当のことしか話さない。虚飾のないぼくが見たままの紗枝の姿を」

 彼女はふくれたような顔をしながらも、充分に愛らしい笑顔を見せた。これも真実。そばにいるものに暖かな気持ちを抱かせる表情。だが、ぼくにはなぜだか引っかからない。でも、いつかそう遠くない将来に思い出すことはぼんやりと分かっていた。
「じゃあ、うまくいくね」

「うまくいくよ」ぼくは、そう他意もなく答える。最初がうまくいっただけで、それを軌道に乗せ、華やかなものにするのか、淋しい結末を与えるのかは当人同士の問題だった。でも、どこかでスタートを切らなければならない。号砲も鳴らない。歓喜する観客もいない。だが、世界のあらゆるところで秘かにスタートが切られているのだ。恋の気持ちだけに限らず、はじめて自分の子どもを目にするとかの情景としても。

 質問される。尋問ということに近い形で。

 ユミはぼくのことを問われている。黙っている状態が苦手な彼女が口をふさいでいるのを想像するのは困難だった。ぼくは、いまいる場所とは別に、そこで存在する。外見が話され、性格の特徴が話される。髪型が話され、親切さや冷たい部分が混じり合った気質が説明される。それはぼくと段々、遠くなる。だが、ぼくに反論をする機会は与えられない。そもそもその話題があるかないかも知らないのだ。もし、そこに足を踏み込む段階にいれば、交友関係はもっと広まり、楽しいかもしれないが、躊躇させるなにかがあった。また、躊躇しなければならない自分の環境があった。

 いつみさんはキヨシさんとぼくのことを話題にあげる。「最近、来ないな」と言っているかもしれない。ぼくは、もうあの場でいつみさんに会う方法を取らなくてもよくなった。無口な咲子はそこでいつみさんが居ない日にバイトをしているが、彼らの新たな情報やうわさ話をすすんですることもなかった。ぼくが好奇心を露にして訊くこともない。そのような時間を作ることも最近ではなかった。

 早間と会えば、咲子のことも少しは聞けた。だからといって、ぼくの内部に新たな情報が加わることもなければ、動揺などもまったく起こらない。ぼくらの住む世界はどこかで違うようでもあった。だから、それを埋めるかのようにぼくは紗枝のことを早間に伝えた。この前、新しい彼氏候補と会ってね、という感じで。

「そうか、良かったな」
 それは、あまりにも他人行儀だった。あの候補者、選挙に受かって良かったな、というぐらいの重きしか置かれていないようだった。それが、過去を共にした時期のある女性に対しての感想だとは考えられなかった。でも、その冷静さが彼の持ち分であり、魅力にも通じる一端なのかとも思い直した。ウエットさが、それでもやはりなさ過ぎる気がしたが。

 世間は、それを評判というのかもしれない。すると、世界は評判のやり取りで成り立っているようだった。誰かは職業を決めかけている、という噂が聞こえてきた。ぼくらは同じスタート地点にいながらも、出遅れる人間がどこかでいた。会社を選ぶという短距離の競争で負けて、最終的に長距離の問題にすりかえて勝つということは不可能なことに思えた。さらに、そのころのぼくは長期的な展望など有してはいない。すべてが、目の前にある砂場のなだらなか高低を、薄くならしているだけであるようだった。少し下に隠れているものを探し、探さなければいけないものをあえて深く埋めた。大雨でも降れば、いずれ突出するかもしれない。だが、大雨の心配などもしていられなかった。力も若さも頂上にあったのだ。

 ぼくはひとりでバイトに向かいながら、早間と紗枝が別々の方向に歩き出し、もう近いところにいないことを知ったのだった。当初は同じところにいた。別れて、やり直すとしたら、その近いうちに始めないと、修復は不可能なのだとあらためて思った。ふたりは象徴的に背中も見えないところにいるのだろう。それが、「良かったな」という感想に通じた。ぼくも、誰かのことをその無関心さにくるみ、言葉をただ投げ出してしまうのだろうか。白状ということもなく、切迫という立場もなく、恐れるべき無関心のきつい狂おしい闇だった。

 ぼくはバイト先でタイムカードを押す。「お疲れ」と、誰かが言い、ぼくもそう返事を放った。何の抑揚もない、力のこもっていない言葉たちだった。早間は紗枝に対して、同じような感情しかないのだろう。すると、次は咲子の番のような気がする。それが、無駄な心配であればいい、杞憂で終わればよいのだとも考えていた。だが、ぼくの心配の範疇ではないのかもしれない。それぞれが、それぞれのこととして解決する。隣の家の不審な虫のことを心配してもはじまらない。ぼくは、すでに自分の周囲のことだけでも手一杯だったのだ。

 木下さんが今日もいる。彼女は素敵にぼくに笑いかけた。それが喜びでもあり、束縛ともなり、途絶えない魅力でもあった。ぼくはそれを失うのを恐れる。しかし、あまりにも手を広げすぎた。受験を終えた自分が真っ先に考えた女性との軽やかな生活が、ぼくにとっては深いものとなることを知らなかった。また、全面的にぼくを受け入れる人がそんなにもいることも知らなかった。ゼロからイチの間ぐらいで成り立っていると想像していたのに。サンでも多かったのだ。だが、ぼくも渾身の力をこめて笑顔を返す。だが、実際にはそのような作為もなく自然とそれはぼくに浮かび上がった表情なのだ。恵まれるということの正当な基準をぼくは知らないのだ。だが、またこころのない挨拶を別のひととして、我にかえる。
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Untrue Love(89)

2013年01月04日 | Untrue Love
Untrue Love(89)

 しかし、ぼくが主導権を握っていると思っているのも、間違いであり誤解のうえに成り立っているのかもしれなかった。きちんとした地図をもっているのは彼女たちであり、ぼくは記号として表記されているポイントに過ぎないのかもしれない。別の場所に移動するための目印であり、その場所を離れればまた同じような印を彼女たちは見つける。それで、似たようなものが過去にあったことをそれぞれが思い出す。だが、それも我がことを過小に評価し過ぎる自分の悲観さが及ぼした結論のようだった。ぼくが彼女たちを忘れないように、彼女らもぼくのことを忘れない。

 紗枝に頼まれたことを実行するためにぼくは彼女が意識している男性に会った。ぼくらの間に共通項のようなものはなかった。ぼくから見たら子ども過ぎるように感じられたし、向こうから見たら大人になるのに懸命に努力している男にぼくは見えたのかもしれない。それもまったくの反対で、ぼくはやはり自分の小さな王国を死守する子ども時代の遊びを捨て切れない少年のように映ったのかもしれなかった。

「それで、どうだった?」と紗枝が訊いた。

 ぼくの本心は、理想の男性にいくらかでも似た対象をつかもうと焦っている気持ちに捉われた女性をその場に見出しているだけだった。相手は問題ではない。だが、それも多くの女性も男性も挑んでいることかもしれなかった。彼女はぼくらよりそれを早目に経験し、さらに逃げられた結果によって、表面化しているだけなのだろう。ぼくも、いずれユミに似た誰かを、あるいはいつみさんに似た誰かを、また木下さんの雰囲気をもついずれかを探すようになるのかもしれない。そこには飢えがあり、焦燥があるのだ。隠そうともがいているいまの紗枝のように。

 だが、それはその男性がトイレに立った隙に行われた短い時間なので、直ぐに問いは途切れてしまった。結局、ぼくと男性はその後、不思議と意気投合した。紗枝を置いて、ふたりで別の場所で飲むことさえした。ぼくは、そこで逆に紗枝についてのあらゆることを質問される。

 ぼくは問われたことに適切な回答を与えることを望んでいたが、答えながらも、その質問と得られた内容によって彼の内部のなにが変わるのか、まったくもって分からなかった。その事前の情報があることにより好悪の判断材料になることすら分からない。将棋や囲碁の指し手を研究することのように思えた。ぼくはそれを楽しみを奪うものとしか考えられなかった。下手でも実際に対決に臨む緊張感のほうが余程、新鮮さを維持させてくれるような気がしていた。そして、意気投合しかけた仲がまた分裂をはじめた。そもそも、ぼくは紗枝にはいつも友情しか感じず、恋心の対象にしているその男性を不可解に思っていることがずっと離れなかったのかもしれなかった。ぼくはここでも架空の友情という別の王国を頑なに死守し、足を踏み入れる彼のことを疎んじる幼稚っぽさがあらわれていたのだろう。だが、彼らにもそれぞれの地図があり、版図があった。頭では、はっきりと分かっていた。

「紗枝は、もう充分、君のことを好きになりはじめている。あとは、思い出を増やすだけだよ」

 ぼくは信任を与え、全権を任せる。なにも委ねられていないのに、その権利が自分の掌中にでもあるかのように。酔ったふたりは紗枝の未来を勝手に決めた。だが、いやになって拒否する権利は紗枝に残されているのだし、ぼくが後押ししたり引っくり返したりすることも本当のところはできないのだった。ただ、付きの悪い接着剤のようにぼくは間を埋めただけなのだ。それが効力を発揮しようが、乾いてしまって無駄になろうが、もうぼくの手から離れていたのだ。もう一回、搾り出すことも面倒だった。

 ぼくは彼と別れたが、どこかですっきりしない部分があった。それを振り払うかのように誰かと話したかった。目の前に公衆電話があり、ぼくは何人かの電話番号を思い出す。木下さんに電話をしたが、彼女はいなかった。今度は、ユミの番号にしたが、彼女も出なかった。いつみさんは多分、まだ働いている。それで、ぼくの気持ちは川の底のようなところで淀んだままになっていた。紗枝にさきほどの時間の会話を再現したかったが、あいにく彼女の番号は思い出せなかった。そして、何時間か経てば、明日また会えるのだ。そのときにでも全然タイミングとしては遅くなかった。

 ぼくは歩く。段々と酔いも覚めていく。誰に対しても責任がないことが愉快になり、それも過ぎると何だか哀れになった。責任こそが人間の、それも大人になる途中の男性の根幹のような気持ちになっていた。ぼくは絨毯のうえに広げた子ども時代の車や小さな動物の模型のことを思い出している。その架空の世界は現実になり、真実味を帯び複雑になっていく。模型でもないし、動物でもなかった。生命の鼓動を絶えず繰り返す人間が相手なのだ。それぞれが自分の気持ちがあり、感情の好不調の波や揺れがあった。喜びに舞い上がり、ときには悲しみに支配された。ぼくは誰かの悲しみの源になることを恐れた。ぼくがいること自体が悲しみのきっかけになるかもしれず、ぼくがいなくなることこそが悲劇の引き金になるのかもしれなかった。ぼくの誰かと話し込みたいという願望は叶わず、ひとりでアパートに着いた。そのちっぽけな王国の住人でいるのをつづけることもまたむなしく、無責任さの大元だとも感じられていた。
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