Untrue Love(103)
みなは、卒業までの長い退屈な時間を有意義に使おうと、バイトに励んだり、旅行に出掛けたりした。ぼくは反対に何度目かの結婚記念日を祝うため旅行に出た両親の代わりに、実家でひとりで留守番をしていた。そばに咲子のアパートがあるため、時間が合えばご飯をいっしょに食べた。ぼくは、彼女がきちんと料理のことも学んでいることを知った。味も悪くなかった。どこかで、ぼくの母の影響もあるようだった。ぼくは、隔世遺伝という言葉を思い出している。入学と同時に家を離れた自分は、もう両親から直々になにかを習うということはなくなってしまった。だが、ふとした仕草がひとに指摘されなくても、両親のどちらかから受け継いだことに気付いていた。それは、多くはあまり真似たくないことでひしひしと感じ、自分が真似たいと思ってはいたがなかなか身につかないことも数としては少なくなかった。
「こっちで仕事、決めるの?」
「多分、そうすると思う」と咲子がテーブルの向こう側で言った。
「じゃあ、早間と別れる必要もないんだね」彼女はうれしそうに笑っていた。ぼくは、この前、早間に伝えられたことを思い出していた。同じ職場で勤めることになる女性とそういう関係になった。彼の放つ自由な雰囲気が女性を惹きつけた。男性から見ると、その夢中になる気持ちに懐疑を抱くが、不思議と女性はそのことに盲目であるようだった。ぼくは高校の放課後に体育館でただ耐えるようにレシーブをつづけていたバレー・ボール部員の女性を思い出した。実感としてそれは、理知ある生き物にたいする無駄な攻め以外のなにものでもなかった。客観的にそうは思うが、本人もスパイクをする顧問の先生も、両者は恍惚としてその状態に疑いをもっていなかった。疑念がないのだから、幸福と呼べた。だから、咲子も幸福であることに間違いはないのだろう。
「順平くんは誰にするの?」
「誰にするって?」
「そのままの意味。いいよ、別に」それは、言わなくてもいいよという意味らしかった。「そうだ、この前、お店にデパートで靴を販売してくれたひとが来た。男のひとといっしょだった」
「木下さんかな、男性とか。どんなひとだった?」
「まだ、それほど親しそうじゃなかったよ。よそよそしい雰囲気だったから」
「そう、よく来るの? 他の日も行くのかな・・・」
「わたしがいるときは、はじめて。帰りにわたしのことに気付いたみたいだった。また、靴でも見に来てって言われたから。他の日は分からない。キヨシさんにでも訊いておこうか?」
「いいよ、別に」
食事も終わり、ぼくと咲子は洗い物をした。どこに、なにをしまえば良いかを咲子は理解し、ぼくはぼんやりと他人の家という認識のまま立ち尽くすだけだった。それから場所を移動してテレビを見た。ぼくは風呂にすでに入り、あとは寝るだけだった。ここにいる限り、電話も鳴らない。ぼくの家でありながら、もうぼく自身には確かな境界線を敷いていた。咲子は、なかなか帰ろうとしなかった。バックから勉強をするための本とノートを取り出し、テーブルに広げた。そのことの是非を問いたずねもしなかった。ぼくも居てもらって困るわけでもないので、そのままいくらかテレビの音量を下げ、静かに過ごした。
静かにすればしたで、いろいろなことが頭に湧いた。木下さんといっしょに居たのは誰だろうとか、咲子が言った誰にするのか、という問いへの答えが。いや、答えは必要としていない。答えを発見するまでの前段階をうじうじと考えた。
「それ、まだユミに切ってもらっているんだよね?」床に座っている咲子の頭はソファにすわる自分の目にはよく映った。
「そう、ユミさんに」
「キヨシさんのことを話したでしょう? 言ってたよ」ユミは、棒同士という無邪気な表現をつかった。
「言ったかな。そうか、バイトのこと訊かれたんだった」
ぼくは自分の世界がそれほど広くないことを感じていた。咲子はいつみさんの弟のことを話題にする。髪の毛はぼくと同じようにユミに切ってもらっている。もう数年もそうしているのだろう。木下さんがバイト先に来た。もし、他の日にも行けば、木下さんはいつみさんとも顔見知りだった。ぼくは、その中心にいて、また外部にもいた。渦のなかにいて、網の外からみなを見ていた。それも、反対かもしれない。捕らえられた網の中から、自由なみなの姿をみていた。誰にするのか、網の中にいる自分に選択肢などなかった。だが、開放も必要だった。開放だけが必要だった。だが、その開けた道はひとりの束縛にもつながるのだ。その束縛の味をぼくは知らない。ここに住んで、大学に通い、同級生の愛らしい子と四年間、愛を深めた結果としての自分をぼくは手に入らないものとして想像した。その子の家に行けば、やはり、このように床に尻を着き、勉強をしている姿が見られたのだろうかと空想した。だが、ぼくは別のところに出てしまった。その送った数年間も、ぼくには美しい花としてきちんと開花したのだろう。もうつぼみではない。誰もつぼみでもない。あとは、誰かがミツバチのように受粉のためにより密度を高めるだけだ。
「そろそろ、帰らなくていいの? オレ、もう寝るよ」と、ぼくはあくびをかみ締めながら言った。咲子は、前方に向かって頷いたが、ぼくは彼女の後方にいた。
みなは、卒業までの長い退屈な時間を有意義に使おうと、バイトに励んだり、旅行に出掛けたりした。ぼくは反対に何度目かの結婚記念日を祝うため旅行に出た両親の代わりに、実家でひとりで留守番をしていた。そばに咲子のアパートがあるため、時間が合えばご飯をいっしょに食べた。ぼくは、彼女がきちんと料理のことも学んでいることを知った。味も悪くなかった。どこかで、ぼくの母の影響もあるようだった。ぼくは、隔世遺伝という言葉を思い出している。入学と同時に家を離れた自分は、もう両親から直々になにかを習うということはなくなってしまった。だが、ふとした仕草がひとに指摘されなくても、両親のどちらかから受け継いだことに気付いていた。それは、多くはあまり真似たくないことでひしひしと感じ、自分が真似たいと思ってはいたがなかなか身につかないことも数としては少なくなかった。
「こっちで仕事、決めるの?」
「多分、そうすると思う」と咲子がテーブルの向こう側で言った。
「じゃあ、早間と別れる必要もないんだね」彼女はうれしそうに笑っていた。ぼくは、この前、早間に伝えられたことを思い出していた。同じ職場で勤めることになる女性とそういう関係になった。彼の放つ自由な雰囲気が女性を惹きつけた。男性から見ると、その夢中になる気持ちに懐疑を抱くが、不思議と女性はそのことに盲目であるようだった。ぼくは高校の放課後に体育館でただ耐えるようにレシーブをつづけていたバレー・ボール部員の女性を思い出した。実感としてそれは、理知ある生き物にたいする無駄な攻め以外のなにものでもなかった。客観的にそうは思うが、本人もスパイクをする顧問の先生も、両者は恍惚としてその状態に疑いをもっていなかった。疑念がないのだから、幸福と呼べた。だから、咲子も幸福であることに間違いはないのだろう。
「順平くんは誰にするの?」
「誰にするって?」
「そのままの意味。いいよ、別に」それは、言わなくてもいいよという意味らしかった。「そうだ、この前、お店にデパートで靴を販売してくれたひとが来た。男のひとといっしょだった」
「木下さんかな、男性とか。どんなひとだった?」
「まだ、それほど親しそうじゃなかったよ。よそよそしい雰囲気だったから」
「そう、よく来るの? 他の日も行くのかな・・・」
「わたしがいるときは、はじめて。帰りにわたしのことに気付いたみたいだった。また、靴でも見に来てって言われたから。他の日は分からない。キヨシさんにでも訊いておこうか?」
「いいよ、別に」
食事も終わり、ぼくと咲子は洗い物をした。どこに、なにをしまえば良いかを咲子は理解し、ぼくはぼんやりと他人の家という認識のまま立ち尽くすだけだった。それから場所を移動してテレビを見た。ぼくは風呂にすでに入り、あとは寝るだけだった。ここにいる限り、電話も鳴らない。ぼくの家でありながら、もうぼく自身には確かな境界線を敷いていた。咲子は、なかなか帰ろうとしなかった。バックから勉強をするための本とノートを取り出し、テーブルに広げた。そのことの是非を問いたずねもしなかった。ぼくも居てもらって困るわけでもないので、そのままいくらかテレビの音量を下げ、静かに過ごした。
静かにすればしたで、いろいろなことが頭に湧いた。木下さんといっしょに居たのは誰だろうとか、咲子が言った誰にするのか、という問いへの答えが。いや、答えは必要としていない。答えを発見するまでの前段階をうじうじと考えた。
「それ、まだユミに切ってもらっているんだよね?」床に座っている咲子の頭はソファにすわる自分の目にはよく映った。
「そう、ユミさんに」
「キヨシさんのことを話したでしょう? 言ってたよ」ユミは、棒同士という無邪気な表現をつかった。
「言ったかな。そうか、バイトのこと訊かれたんだった」
ぼくは自分の世界がそれほど広くないことを感じていた。咲子はいつみさんの弟のことを話題にする。髪の毛はぼくと同じようにユミに切ってもらっている。もう数年もそうしているのだろう。木下さんがバイト先に来た。もし、他の日にも行けば、木下さんはいつみさんとも顔見知りだった。ぼくは、その中心にいて、また外部にもいた。渦のなかにいて、網の外からみなを見ていた。それも、反対かもしれない。捕らえられた網の中から、自由なみなの姿をみていた。誰にするのか、網の中にいる自分に選択肢などなかった。だが、開放も必要だった。開放だけが必要だった。だが、その開けた道はひとりの束縛にもつながるのだ。その束縛の味をぼくは知らない。ここに住んで、大学に通い、同級生の愛らしい子と四年間、愛を深めた結果としての自分をぼくは手に入らないものとして想像した。その子の家に行けば、やはり、このように床に尻を着き、勉強をしている姿が見られたのだろうかと空想した。だが、ぼくは別のところに出てしまった。その送った数年間も、ぼくには美しい花としてきちんと開花したのだろう。もうつぼみではない。誰もつぼみでもない。あとは、誰かがミツバチのように受粉のためにより密度を高めるだけだ。
「そろそろ、帰らなくていいの? オレ、もう寝るよ」と、ぼくはあくびをかみ締めながら言った。咲子は、前方に向かって頷いたが、ぼくは彼女の後方にいた。