爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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拒絶の歴史(12)

2009年10月25日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(12)

 彼女の手にはプレゼントが握られている。世界は2月に愛を確かめ合うのだ。

 その日もぼくは練習をしていた。新しい中学生たちが試験を受けに来るので、その準備のためいつもより授業は短かった。先生たちの様子もそれに追われているようだった。その分早めにグラウンドに出て泥だらけになり走り回った。ぼくも一年前は同じ状況で進学したらラグビーを始めようと決意していたが、こんなにも打ち込む自分がいることは想像していなかった。しかし、その魅力は自分をだんだんと傾けさせていった。

 新入生にも試験があるなら、自分たちにも定期的にテストが行われていた。そこで、順位を大幅に上げることもなければ下げることもなく自分のランクはある水準で一定していた。誰かに指図をされて勉強をすることもいやだったので、身体が疲れていたとしても、自分の意志だけは保とうとしていた。それで成績を大きく下降させることはなかったが、勉強というものは体力と同じで、ある場所でキープするということは難しいものだった。

 練習が早く終わったので、個人的に温水プールで泳いでいた。もしかしたら、こころのどこかで河口という女性に会える機会も探していたのかもしれない。しかし、本来の意図はやはり相手にぶつかられても堪えられるだけの身体の頑丈さを求めていたのは事実だった。その副産物としてそのような女性への憧憬の瞬間があった。そう簡単に願いが叶うものでもなく、その日は会うことが出来なかった。

 身体もさっぱりしてまた制服に着替えた。鏡で自分の姿を見ると、華奢な自分は徐々に消えていった。陰に隠れていた自分の可能性が筋肉という姿をとって、自分に現れてきはじめた。それをこころのどこかで喜んでいる自分がいた。

 待ち合わせの場所に行くと、そろそろ翳り出した太陽の下に裕紀の後姿があった。それは失われた木の葉のようにすこし淋しげに見えた。彼女は幸福な家庭で育っていながらもときどきそのような姿を見せるときがあったが、それはただ単純にぼくの勘違いかもしれない。普段はとても元気でぼくは、彼女といることを常に喜びと考えていることのほうが多かった。それでも、そのような瞬間があったのも事実だった。

 彼女の首には今日も暖かそうなマフラーが巻かれていた。春は、まだまだ遠かった。そして、未来をあてどもなく待ち望むことは自分には少なかったが、彼女といるとそのような未来の一部に彼女が居続けてくれたらどんなに楽しいだろうな、という希望すら与えてくれた。

「これ」と言って彼女は恥ずかしそうにプレゼントを渡してくれた。ぼくは、女性からそれらをもらったのは初めての経験かもしれなかった。そして、何よりうれしいのは彼女がぼくに愛情をもっているという不思議な気持ちによるものだった。彼女の表情には、そのことが出ていた。ぼくも、すこし気恥ずかしげに受け取った。

 ぼくらはいつものように手をつないで歩く。ラグビーボールに馴れたぼくのいかつい手は、彼女の暖かで柔らかな手をそっと握るのが難しいように感じるときもあった。だが、それも直ぐに忘れ、その居心地の良さを楽しんだ。

 ぼくらはファースト・フードの店に入り、クラスメートのことやそれぞれの生活のことを話す。会えない間になにか大事件が起こるわけでもなく、それでも何もないことを話しているだけでも楽しいものだった。彼女の兄は大学を卒業して、都会にある会社に働くことが決まっていた。ぼくは、それらのことを考えてみた。自分は、将来的になにになりたいのだろうかと、また、どんな役柄を与えられるのだろうかと。自分でコントロールする能力があるのか、貰ったパスを有効に生かすことができるのだろうかと。

 それから、上田先輩と幼馴染である智美との交際のことを彼女に質問した。その答えは、たまには喧嘩もするらしいけど、とても順調のようだと返ってきた。どちらも好きである自分は、ちょっと安堵する。だが、喧嘩ということが互いを好きな間柄で起こるということが分からないぐらいに自分はまだまだ子供であった。ぼくは、裕紀といつか大喧嘩をするのだろうか。その可能性は、まったくのところ浮かばなかった。

 ぼくらは分かれ、それぞれの家に帰る。その寂しさは、ぼくを少し大人にしていったのだろう。プレゼントの袋をあけると手紙とこの前に聴いたコンサートのときに写したらしいぼくらの写真もはいっていた。それは、いつ撮られたのだろうと考えてみると、あのよく喋るおばさんが撮ってくれたのだなと思い出した。それが、ぼくのところにも回ってきたのだ。ぼくは、机の前に写真を貼り、それを眺めていた。何日か経ってその写真をみた妹が、彼女の評価をぼくに言った。それは、好意的なものだった。「会ってみたいな」と好奇心の旺盛な妹はただ単純にそうも言った。
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拒絶の歴史(11)

2009年10月17日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(11)

 冬には雪が積もった。

 また学校に戻り、ラグビーの練習にも励んでいたが、そのような雪が消えない日には、近くの運動施設を借り身体を鍛えていく。重いダンベルを持ち上げ、脚力にも負荷をかけた。それでも充分な疲労だったが、その施設内のランニング・コースを仕上げのように何周も走った。

 それから水着にきがえ、プールの中を何往復もした。トータル的に身体を鍛え、築き上げていくことを専門的に考えている先生がいて、その人の作り上げたプログラムを自分たちは行っていった。そのためか、それとも年齢的なものか疲労は深く蓄積されることもなかった。

 しかし、科学的な練習を行っていきながらも、ぼくらの前にはライバルとするチームがいて、彼らを越えられないもどかしさも感じていた。彼らがどのような練習を行っているのかは分からなかったが、対戦したときのガッツの持ちようは実感として、手触りとしてぼくの記憶に残っていた。ぼくらには、甘いような部分がたぶんにあった。それを払拭することは可能なのだろうか? それを最近は考えることが多かった。

 ノルマの距離を泳ぎ切り、プールサイドのベンチに座り乾いたタオルで身体を拭いていると、横から声をかけられた。

「あら、あなただったの?」
 そこには、ぼくらの学校を卒業した河口さんという女性が立っていた。ぼくらは、流れ星を見るようなぐらいの可能性の低さがあふれる世界で、不思議と邂逅することが多かった。

「あ、こんにちわ。ここで泳ぐんですね」と、ぼくは彼女のスタイルの良さにいささか圧倒され、目を伏せながら話した。

「大学に近いし、練習もあるからね。それとスタイルも気になるし」と言ったが、彼女が自分の均衡のとれた身体を考えているようにも、逆にいたわっているようにも感じられなかった。ただ、そのままの彼女が美しかった。「あなたも、わたしの大学に来なさい」

 そこは、ぼくが家から通える中では、いちばん優秀なところであった。都会にでることを余り考えない自分にとっては選択肢のひとつであるが、彼女の口からそう宣告されると、それがもう決まっていることのように思えてきた。

 ぼくらは、その後いくつかのやりとりをし彼女はプールの中へ、ぼくはロッカーに向かった。頭を乾かし服を着ている間も彼女のことを考えている自分がいることに気付く。だが、寒い外に出ると、いつの間にかそのことを忘れている自分もまたいた。

 ぼくは、その日は裕紀と会うことになっていた。いくらか自分の身体が消毒くさいことが気になった。待ち合わせの場所につくと、彼女はマフラーを首に巻き、いくらか寒さのためか頬を赤くして小走りに向かってきた。ぼくは、彼女の細めの首が好きだった。マフラーの下にそれが隠されていることを想像した。

「そのマフラー似合っているね」

 と、ぼくは言った。いつも見慣れているのはいかつい首の持ち主である部活仲間だからなのだろうか、その細い首を憧れの気持ちをもって考えた。彼女はうれしそうにした。

 ぼくらは手をつなぎ、いま考えれば小さな町の小さな商店が並んでいる通りを、それでも楽しい気持ちであるいた。河口という女性が手の届かないところにいるならば、裕紀は身近なところにいてくれた。そのことが、ぼくに安心感をもたせた。

 彼女は、小物が並んでいる店に入った。いくつかのものに感嘆の声を発し、ぼくに同意をもとめたりした。そのひとつひとつがぼくの気持ちを暖かくしてくれた。

 彼女はひとつのネックレスを見ていた。ぼくはそれを試しに着けてみるよう促した。彼女は、マフラーを取り除きそれを器用な様子でつけた。ぼくはそのシンプルな飾り物が、またシンプルな首のラインにきれいに映えているのを見て、バイト代が財布にあったのでそれを買ってあげた。そのことをしながらも、妹もねだっていたが何もしていない自分をいくらか恥ずかしくも感じていた。
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拒絶の歴史(10)

2009年10月10日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(10)

 学校に通うのも終わり、冬休みに入った。前から頼まれていたように年末は、上田先輩の家の仕事を手伝った。といっても肉体を使って、材木などを運ぶ単純な作業だった。汗を流した対価として、その分だけ自分の小遣いが増える算段だった。前にも手伝ったので顔も覚えられ、仕事の合間には気軽に周りの人とも会話ができ、息抜きとしてはちょうど良い時間ももてた。彼らは、上田先輩のことを坊ちゃんと言った。例えば、こういう使い方をしていた。

「坊ちゃんは家の仕事を手伝わないのに、君たちは偉いね」という風にだ。
「ぜんぜん偉くないですよ。服を買ったりして、すぐ使い切っちゃうだけですから」

「君らには彼女はいないの。デート代にもなったりするんでしょう」

 事務所で古びたストーブの前で休んでいるときには、女性の事務員さんたちがいろいろと質問した。その代償としてなのだろうか、お茶やお菓子がでてきた。ぼくは、すこし微笑むだけで答えを終わらそうとしていた。だが、自分の頭のなかには裕紀という子の存在があった。自分にそういう存在があることを、とてもうれしいと同時に恥ずかしさと、また自分の背丈が急に伸びてしまったような不釣合いな感じもあった。しかし、考え続ける暇もなく身体を休めると、また作業にむかった。

 その材木を当初は売るだけだったらしいが、建築家を雇い自前で家を作るようになった。また、その後、景気のよかった東京を目指し上田先輩の父は、列車で地元と往復していた。その為、会社にいることは少なかったが、いればぼくらにはとても愛想をよくして尽くしてくれた。一度は、仕事が終わった後に、近くの焼肉屋に連れて行ってくれ、大量にご飯を食べさせてくれた。その時には、上田先輩もあらわれ一緒に肉を突っついた。

「お前は、こういう時だけは来るんだな」と父が皮肉をいうもその口調には温かみが感じられた。
「学校の後輩たちより、自分の子供を先頭に可愛がるものだよ」と、上田先輩はいった。

 横で見ていると彼らはとても仲の良い関係を保っていた。さらにある時は、友人のように振舞っていた。数杯のビールで酔った父は、ときに説教くさくなっていった。大体は、祖父の代から引き継いだ山を金に代えたのは自分だ、という内容だった。事実であるのは間違いないが、嫌味にきこえないのも彼の人柄なのだろう。そういう面を上田先輩は嫌がり、自分の家の仕事から距離をとろうとしていた。だが、犬が鎖の存在を忘れないように、彼も真の意味では自由ではないのかもしれない。

 結局、一週間ほど働き、6万円の約束だったはずだが、封筒を開けると8枚ほどの札が入っていた。それをポケットに突っ込み、自宅に帰った。

「いっぱい貰えた? わたしにもなにか買ってよ」洗面所で手を洗っていると、後ろから妹が声をかけてきた。この数年の年齢差の違いは、お金に対する価値観も変えてしまうのだろうか? ぼくは暇だけを持て余していた去年までの自分を思い出していた。

「うん、分かってるよ」と曖昧にだが、返事をした。彼女はそれだけで幸福の確証がもてたみたいに、喜んでそこを出て行き、母親になにかを告げていた。

 母は、お金に対する一般論を話していた。汗をながしてもらったお金は大事なんだから、そんなに簡単に要求しちゃいけないとかを。あなたも、そういう立場になってみたら、分かるとかも話していた。しかし、妹がそれをどれだけ受け止めたかを自分は理解することも深さを測ることもしなかった。

 裕紀の家に電話をかけ、さまざま起こったことを話した。その声は自分に安堵をもたらした。安堵を感じた自分は、その分気を張っていたここ数日の疲れがどっとでてきて、夕飯後に居間に移ってテレビを見ていると、眠気を覚えてきた。テレビの中では着飾った女性たちが年末の特番の歌番組で、自分の特徴を最大限にアピールしていた。彼らは、ぼくとそう年代は違っていないだろうが、材木を運ぶこともしらずに生きているんだな、と自分も自分で、生活の範囲の狭さを実感してしまい、その狭さも愛していた。

 部屋に戻って、年が明けて裕紀と会うことになった約束を頭のなかでいろいろ具体化していった。まだ、未来というものはデッサンすらされておらず、自分の思い通りに描けるような気がした。絵のうまい下手もあるだろうが、それぐらい心地のよい夜だった。そして、恋している自分というのも、また快適な気持ちでいられ続ける切符のようなものだった。
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