壊れゆくブレイン(112)
お世話になっていた会社の先輩が仕事を辞めたり、可愛がっていた後輩が目標にしていた資格を取得し、別の仕事を選んだりした。どちらもぼくが幹事になり、さよならを手伝った。不意に起こったわけではない。それぞれが前以って自分の歩むべき道を模索していた。
考えられるべき幸福を求め、ぼくらは最善のものを選ぼうとしていた。結果がいつもいつもうまく行くとは限らないが、自分たちは胸に浮かんだ目標を追い求めるしか方法がないのだ。後悔をしないように。その腐った希望の種を将来のある日に見つけたりしないように。
「ありがとうございました、近藤さん、今日はとくに」後輩は飲み会のあと照れたように言う。「東京から戻られてどれぐらいになるんですか?」
「多分、来年にでもなれば、もう10年」
「じゃあ、もう、こっちのひとだ」
「ずっと、こっちで育ったから、根っからこっちのひとだよ」
「でも、東京にも、たくさんの良い思い出があるでしょう?」
「住んでいたから、それなりにね」ぼくはフラットな気持ちで良いことを見つけようとした。そこには学生時代の先輩だった上田さんがいた。彼の妻になった幼馴染みの智美がいた。ふたりと週末、気兼ねなく過ごした日々を懐かしく思う。彼らは向こうでマンションを買い、こちらに戻る予定はなかった。ぼくもそうする可能性はあったのかもしれないが、裕紀の死によって、ぼくはそこを永続して住む土地と考えられなくなり、いまは出張で訪れるぐらいの場所になった。ぼくのなかでその価値は下がったのかもしれない。だが、いまは娘の広美がいた。彼女がそこで就職でもすれば、ぼくはその土地に対する印象を変えられるのかもしれない。しかし、ぼくは彼女にそこまで期待したり、要求することはできない。それは、ぼくの問題であり、悲しみの蓄積と、そのものを捨てられるかどうかのせめぎ合いでもあったのだ。
「戻りたくないですか?」
「もう、転勤もないでしょう。あるなら、若い子たちが行けばいいよ。妻もこっちで仕事をしているから」
「家族がいると、選択も変わってきますよね」
「君、結婚は?」
「しようと思っている娘はいます」
「何が決め手になる?」
「まあ、いっしょにいて安心するとか、休日の過ごし方が似てるとか、でしょうね」彼は微笑む。
ぼくは彼の基準に照らし合わせてみると、一体、誰と相性が良かったのだろうと何人かを比べてみた。ぼくの念頭にあったのは笠原さんだった。もちろん、交際もしていないので、彼女がどのような休日を過ごしたいと思っているのかはよく知らない。だが、ぼくは、誰かとお酒でも飲みながら打ち解けて話すなら彼女がもっとも良かった。互いのテンポは似ており、口を閉じる瞬間があっても、それほどは苦痛を感じなかった。けれど、彼女は別の男性と結婚している。ただの友人という範疇だ。彼女のことを思い出せば、その友人の範疇から外れてしまったときのことを思い浮かべないわけにはいかない。ぼくは裕紀を失った。居心地の良さを求めるならば、彼女と会って話すことは必然であったのだろう。だが、一線を越えることは必然ではなく、偶然でもなく、ぼくの一方的な身勝手さだ。その彼女のことも東京の思い出の一部になっている。
「安心させられるように、早く新しい仕事でも、責任をもてるようにならないと」
「そうですね」
「ぼくの方こそ、いままで、いろいろ助けてもらってありがとう」ぼくらは店から出た後、いっしょに歩いていたがとうとう別れなければならないところまで来ていた。岐路。そんなに難しいことでもないが、ぼくらは別の会社のひとになる。毎日のように会うこともなくなり、ただ、懐かしむだけの状態に置いてしまうのかもしれない。彼のことを。名前も思い出せなくなる日がいつか来るのだろうか。来ても仕様がない。それが、生きると言うことなのだろう。家族でもないひとは。
ぼくは酔いを醒ますように冷たい飲み物をコンビニエンス・ストアで買った。ぼくは古い記憶をそこでよみがえらす。まだ、大学生だった。慣れなかった酒を飲んだ帰り、バイトの店員に話しかけられる。
「近藤さんのお兄さんですよね。酔ってますね?」
それは、まだ高校生だったゆり江だ。彼女は幼いころから知っていた裕紀をふったぼくを嫌い、おとしめる策略を胸に秘めていた。だが、彼女はその策におぼれたように、ぼくのことを意に反して好きになってしまう。いや、好きになってくれた。ぼくも彼女を可愛く思ってしまう。ぼくは雪代がいながらも、その淡い恋を育て上げる。あのまま、ゆり江がぼくと雪代の交際の間に立ち塞がり、自分の希望を叶えていたら、どうなっていたのだろう。彼女はそれで自分の評判を逆に落としてしまい、自分自身を傷つけてしまっただろう。剣はブーメランのように自分の胸に帰ってくる。そして、裕紀の仇をとろうが、もう彼女はいないのだ。すべてが、皆が、無駄なことをしていたのだとぼくは思う。この冷たいジュースを飲み干した自分も、ひとの感情を傷つけることしかしてこなかったようにも思えた。
ぼくは缶を捨て、過ぎ去った思い出も同じように手放そうとした。誰かが回収し、スクラップにしてほしかった。だが、それは賢明でもなく、要望も通らなかった。誰もその思い出を知らない。ただ、自分だけがほじくり返しているだけなのだった。
お世話になっていた会社の先輩が仕事を辞めたり、可愛がっていた後輩が目標にしていた資格を取得し、別の仕事を選んだりした。どちらもぼくが幹事になり、さよならを手伝った。不意に起こったわけではない。それぞれが前以って自分の歩むべき道を模索していた。
考えられるべき幸福を求め、ぼくらは最善のものを選ぼうとしていた。結果がいつもいつもうまく行くとは限らないが、自分たちは胸に浮かんだ目標を追い求めるしか方法がないのだ。後悔をしないように。その腐った希望の種を将来のある日に見つけたりしないように。
「ありがとうございました、近藤さん、今日はとくに」後輩は飲み会のあと照れたように言う。「東京から戻られてどれぐらいになるんですか?」
「多分、来年にでもなれば、もう10年」
「じゃあ、もう、こっちのひとだ」
「ずっと、こっちで育ったから、根っからこっちのひとだよ」
「でも、東京にも、たくさんの良い思い出があるでしょう?」
「住んでいたから、それなりにね」ぼくはフラットな気持ちで良いことを見つけようとした。そこには学生時代の先輩だった上田さんがいた。彼の妻になった幼馴染みの智美がいた。ふたりと週末、気兼ねなく過ごした日々を懐かしく思う。彼らは向こうでマンションを買い、こちらに戻る予定はなかった。ぼくもそうする可能性はあったのかもしれないが、裕紀の死によって、ぼくはそこを永続して住む土地と考えられなくなり、いまは出張で訪れるぐらいの場所になった。ぼくのなかでその価値は下がったのかもしれない。だが、いまは娘の広美がいた。彼女がそこで就職でもすれば、ぼくはその土地に対する印象を変えられるのかもしれない。しかし、ぼくは彼女にそこまで期待したり、要求することはできない。それは、ぼくの問題であり、悲しみの蓄積と、そのものを捨てられるかどうかのせめぎ合いでもあったのだ。
「戻りたくないですか?」
「もう、転勤もないでしょう。あるなら、若い子たちが行けばいいよ。妻もこっちで仕事をしているから」
「家族がいると、選択も変わってきますよね」
「君、結婚は?」
「しようと思っている娘はいます」
「何が決め手になる?」
「まあ、いっしょにいて安心するとか、休日の過ごし方が似てるとか、でしょうね」彼は微笑む。
ぼくは彼の基準に照らし合わせてみると、一体、誰と相性が良かったのだろうと何人かを比べてみた。ぼくの念頭にあったのは笠原さんだった。もちろん、交際もしていないので、彼女がどのような休日を過ごしたいと思っているのかはよく知らない。だが、ぼくは、誰かとお酒でも飲みながら打ち解けて話すなら彼女がもっとも良かった。互いのテンポは似ており、口を閉じる瞬間があっても、それほどは苦痛を感じなかった。けれど、彼女は別の男性と結婚している。ただの友人という範疇だ。彼女のことを思い出せば、その友人の範疇から外れてしまったときのことを思い浮かべないわけにはいかない。ぼくは裕紀を失った。居心地の良さを求めるならば、彼女と会って話すことは必然であったのだろう。だが、一線を越えることは必然ではなく、偶然でもなく、ぼくの一方的な身勝手さだ。その彼女のことも東京の思い出の一部になっている。
「安心させられるように、早く新しい仕事でも、責任をもてるようにならないと」
「そうですね」
「ぼくの方こそ、いままで、いろいろ助けてもらってありがとう」ぼくらは店から出た後、いっしょに歩いていたがとうとう別れなければならないところまで来ていた。岐路。そんなに難しいことでもないが、ぼくらは別の会社のひとになる。毎日のように会うこともなくなり、ただ、懐かしむだけの状態に置いてしまうのかもしれない。彼のことを。名前も思い出せなくなる日がいつか来るのだろうか。来ても仕様がない。それが、生きると言うことなのだろう。家族でもないひとは。
ぼくは酔いを醒ますように冷たい飲み物をコンビニエンス・ストアで買った。ぼくは古い記憶をそこでよみがえらす。まだ、大学生だった。慣れなかった酒を飲んだ帰り、バイトの店員に話しかけられる。
「近藤さんのお兄さんですよね。酔ってますね?」
それは、まだ高校生だったゆり江だ。彼女は幼いころから知っていた裕紀をふったぼくを嫌い、おとしめる策略を胸に秘めていた。だが、彼女はその策におぼれたように、ぼくのことを意に反して好きになってしまう。いや、好きになってくれた。ぼくも彼女を可愛く思ってしまう。ぼくは雪代がいながらも、その淡い恋を育て上げる。あのまま、ゆり江がぼくと雪代の交際の間に立ち塞がり、自分の希望を叶えていたら、どうなっていたのだろう。彼女はそれで自分の評判を逆に落としてしまい、自分自身を傷つけてしまっただろう。剣はブーメランのように自分の胸に帰ってくる。そして、裕紀の仇をとろうが、もう彼女はいないのだ。すべてが、皆が、無駄なことをしていたのだとぼくは思う。この冷たいジュースを飲み干した自分も、ひとの感情を傷つけることしかしてこなかったようにも思えた。
ぼくは缶を捨て、過ぎ去った思い出も同じように手放そうとした。誰かが回収し、スクラップにしてほしかった。だが、それは賢明でもなく、要望も通らなかった。誰もその思い出を知らない。ただ、自分だけがほじくり返しているだけなのだった。