爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

壊れゆくブレイン(112)

2012年08月31日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(112)

 お世話になっていた会社の先輩が仕事を辞めたり、可愛がっていた後輩が目標にしていた資格を取得し、別の仕事を選んだりした。どちらもぼくが幹事になり、さよならを手伝った。不意に起こったわけではない。それぞれが前以って自分の歩むべき道を模索していた。

 考えられるべき幸福を求め、ぼくらは最善のものを選ぼうとしていた。結果がいつもいつもうまく行くとは限らないが、自分たちは胸に浮かんだ目標を追い求めるしか方法がないのだ。後悔をしないように。その腐った希望の種を将来のある日に見つけたりしないように。

「ありがとうございました、近藤さん、今日はとくに」後輩は飲み会のあと照れたように言う。「東京から戻られてどれぐらいになるんですか?」
「多分、来年にでもなれば、もう10年」
「じゃあ、もう、こっちのひとだ」
「ずっと、こっちで育ったから、根っからこっちのひとだよ」
「でも、東京にも、たくさんの良い思い出があるでしょう?」

「住んでいたから、それなりにね」ぼくはフラットな気持ちで良いことを見つけようとした。そこには学生時代の先輩だった上田さんがいた。彼の妻になった幼馴染みの智美がいた。ふたりと週末、気兼ねなく過ごした日々を懐かしく思う。彼らは向こうでマンションを買い、こちらに戻る予定はなかった。ぼくもそうする可能性はあったのかもしれないが、裕紀の死によって、ぼくはそこを永続して住む土地と考えられなくなり、いまは出張で訪れるぐらいの場所になった。ぼくのなかでその価値は下がったのかもしれない。だが、いまは娘の広美がいた。彼女がそこで就職でもすれば、ぼくはその土地に対する印象を変えられるのかもしれない。しかし、ぼくは彼女にそこまで期待したり、要求することはできない。それは、ぼくの問題であり、悲しみの蓄積と、そのものを捨てられるかどうかのせめぎ合いでもあったのだ。

「戻りたくないですか?」
「もう、転勤もないでしょう。あるなら、若い子たちが行けばいいよ。妻もこっちで仕事をしているから」
「家族がいると、選択も変わってきますよね」
「君、結婚は?」
「しようと思っている娘はいます」
「何が決め手になる?」
「まあ、いっしょにいて安心するとか、休日の過ごし方が似てるとか、でしょうね」彼は微笑む。

 ぼくは彼の基準に照らし合わせてみると、一体、誰と相性が良かったのだろうと何人かを比べてみた。ぼくの念頭にあったのは笠原さんだった。もちろん、交際もしていないので、彼女がどのような休日を過ごしたいと思っているのかはよく知らない。だが、ぼくは、誰かとお酒でも飲みながら打ち解けて話すなら彼女がもっとも良かった。互いのテンポは似ており、口を閉じる瞬間があっても、それほどは苦痛を感じなかった。けれど、彼女は別の男性と結婚している。ただの友人という範疇だ。彼女のことを思い出せば、その友人の範疇から外れてしまったときのことを思い浮かべないわけにはいかない。ぼくは裕紀を失った。居心地の良さを求めるならば、彼女と会って話すことは必然であったのだろう。だが、一線を越えることは必然ではなく、偶然でもなく、ぼくの一方的な身勝手さだ。その彼女のことも東京の思い出の一部になっている。

「安心させられるように、早く新しい仕事でも、責任をもてるようにならないと」
「そうですね」
「ぼくの方こそ、いままで、いろいろ助けてもらってありがとう」ぼくらは店から出た後、いっしょに歩いていたがとうとう別れなければならないところまで来ていた。岐路。そんなに難しいことでもないが、ぼくらは別の会社のひとになる。毎日のように会うこともなくなり、ただ、懐かしむだけの状態に置いてしまうのかもしれない。彼のことを。名前も思い出せなくなる日がいつか来るのだろうか。来ても仕様がない。それが、生きると言うことなのだろう。家族でもないひとは。

 ぼくは酔いを醒ますように冷たい飲み物をコンビニエンス・ストアで買った。ぼくは古い記憶をそこでよみがえらす。まだ、大学生だった。慣れなかった酒を飲んだ帰り、バイトの店員に話しかけられる。

「近藤さんのお兄さんですよね。酔ってますね?」
 それは、まだ高校生だったゆり江だ。彼女は幼いころから知っていた裕紀をふったぼくを嫌い、おとしめる策略を胸に秘めていた。だが、彼女はその策におぼれたように、ぼくのことを意に反して好きになってしまう。いや、好きになってくれた。ぼくも彼女を可愛く思ってしまう。ぼくは雪代がいながらも、その淡い恋を育て上げる。あのまま、ゆり江がぼくと雪代の交際の間に立ち塞がり、自分の希望を叶えていたら、どうなっていたのだろう。彼女はそれで自分の評判を逆に落としてしまい、自分自身を傷つけてしまっただろう。剣はブーメランのように自分の胸に帰ってくる。そして、裕紀の仇をとろうが、もう彼女はいないのだ。すべてが、皆が、無駄なことをしていたのだとぼくは思う。この冷たいジュースを飲み干した自分も、ひとの感情を傷つけることしかしてこなかったようにも思えた。

 ぼくは缶を捨て、過ぎ去った思い出も同じように手放そうとした。誰かが回収し、スクラップにしてほしかった。だが、それは賢明でもなく、要望も通らなかった。誰もその思い出を知らない。ただ、自分だけがほじくり返しているだけなのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(111)

2012年08月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(111)

 ぼくは夢を見ていたのだろうか。

 その世界はぼくの願望のあらわれでもあるのか、自分への挑戦でもあるのか、また最終確認でもあるのか、あらゆることが反対に起こっていた。それだからこそ、反対側から見ればいくつかのことは起こらないままでいた。

 ぼくはラグビーをいまだにしていた。地方大会の最後の試合の前にぼくは指を骨折した。しかし、骨折と思っていたのは間違いで単なる打撲であった。翌朝には痛みもひき、皮膚のなかがいくらか青くなっているだけになった。ぼくは数日後にあった決勝でも何度かトライし、足先でも軽やかに楕円のボールを蹴って点数を入れる原動力になった。

 ぼくは裕紀と喜びを分かち合い、その後はふたりだけで夜を過ごした。彼女の10代後半の身体はしなやかで、皮膚もなめらかであった。そして、全国大会に自分はいた。地響きのような歓声をききグラウンドに立つ。いつの間にかそれは両耳から消え、集中したぼくは縦横に走り回り、大活躍をする。新聞にぼくの名前が載り、数試合で負けたが、ぼくを出迎えてくれた地元のひとびとはぼくをスター扱いにした。そのなかに裕紀もいた。

 雪代は大学を途中でやめ、東京でモデルの仕事に専念した。こちらに帰ってくることもなく、ぼくは彼女の存在を忘れる。10代の半ばに憧れていたただの女性として、ぼくは引き出しの奥に彼女を押し込め、そのまま時間が経つ。ぼくは地元の大学に行く。裕紀もそう遠くない場所にいる。ぼくらは同じ青春を共有している。だが、彼女はどうしても留学するということで、ここを離れる。ぼくらは、そのことでつまらない喧嘩をする。ぼくはその腹いせのように東京の会社に就職していた。

 ぼくはそこで雪代とめぐり合う。もうぼくは彼女に対して憧れを感じ過ぎることはなくなっていた。地元の話で盛り上がり、ぼくらはお互い交際相手との縁が切れた瞬間なので付き合うことになった。それからその架空の物語はとんとん拍子にすすみ、結婚することになった。

 ぼくらはついに幸せを手に入れる。子どもはできなかったが東京での暮らしに満足する。たまに帰省して田舎で正月を迎える。ぼくを奪ったというレッテルを貼られていない雪代は誰からも愛される。その反面、裕紀は自分の我を通しすぎたということで、ぼくの友人からは疎んじられていた。彼女も留学先で知り合った男性と結婚していた。ぼくは彼女を思い出すこともしない。それで、離婚したといううわさを聞きつけてもぼくのこころは動揺することもなかった。

 ある日、幸せの崩壊がやって来る。雪代は大病を患う。ぼくは、その精神も身体もすべてこの地上に残ってほしいと願っていた。だが、ぼくの思いは軽やかにねじ伏せられ、雪代はこの世での歩みを止める。ぼくは、そこから立ち直ることができない。何人もの女性を代理としてつかう。ぼくはその身体に雪代自身を見つけ出そうとするも、その思いは虚しく消えるということを知っていた。だが、それでも中断することができない。仕事も棒に振り、成績もあがらない。

 ある日、社長に呼びつけられ叱咤されて、いい加減うんざりしてそこを辞める。地元に戻り、新たな職を見つける。やはり、甥や姪と遊ぶ週末があるのだ。幼馴染みと友人でもあった裕紀とそこで再会する。ぼくは彼女の過去の選択に難癖をつけ、彼女の謝罪を求める。ただ、恨みでぼくはできあがっているのだ。それを無条件に受け入れる裕紀とぼくは交際をして、それから、再婚をしていた。

 ぼくは裕紀が留学から戻ってくることをただ待っていれば良かったのだという単純な解決をそこであらためて知った。ぼくが今度は謝り、裕紀もそれを簡単に許す。

 ぼくは裕紀の家族と正月や長期休暇を過ごし、避暑にも彼女の家族と出掛ける。そこに裕紀の姪がいる。名前は、美緒と言った。裕紀とそっくりで彼女に大変なついていた。ふたりは、芝生のうえで同じような大きな帽子を被り、なにか大切な話をしているようだった。みどりの葉っぱを通り過ぎる柔らかい日差しが彼女らをスポットライトのように照らしていた。

「美緒ちゃん、大人になったら何になるの?」と、ぼくは質問をする。
「裕紀ちゃんみたいに英語をしゃべって、通訳になるの。それで外国から来た映画にでるきれいな女のひとたちと仲良しになるんだ。いいでしょう?」
「おじさんも友だちの一員にしてくれる?」
「どうしようかな。ずっと、わたしと裕紀ちゃんに優しくしてくれたら、考えてもいいよ」

 ぼくは裕紀といっしょに前の妻の墓の前に立つ。ぼくはあるときから悲しみの中枢を断ち切った。もう、そんな努力をしたことなども忘れてしまっていた。ただ、儀式のように、感情もなくそこに立っているだけだった。一年に一度しか思い出さない女性として、雪代は墓のなかに横たわっているのだ。

 ぼくはラグビーのOBたちとたまに会った。その日は珍しく島本さんも参加して、ぼくは彼と酔っ払いながら青春を語り合う。意気投合をして、彼の家に無理やり連れて行かれて、そこに泊まった。翌朝、見知らぬ場所で起きた自分にうんざりしながらも奥さんは朝ごはんを作ってくれていた。これから、登校する娘は広美と言った。彼女はぼくに照れながら会釈して、セーラー服が似合う後ろ姿の残像を残し、玄関から消えた。

「お前も娘をつくれよ。生意気になるけど、可愛いもんだぞ」と、島本さんはぼくに語りかける。ぼくは味噌汁の旨さを味わいながら、ただ奥さんの手前、恐縮してうなずいた。

 ぼくは、そこで目を覚ます。雪代がドアを開けて、ベッドのなかのぼくをのぞき込んでいた。
「起きないと、遅刻するよ。なんか、大事な仕事があるとか言ってなかったっけ?」
「うん、あるよ」ぼくは、目をこする。「全部、大事だよ。ぼくにとって」
 雪代は首を傾げる。手にはお玉のようなものが握られていた。ぼくの指は毛布をしっかりと握っていた。なにも離さないと決意した意志がそれ自体にあるように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(110)

2012年08月29日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(110)

 それぞれの人生がすすみつづけていた。ぼくだけが背中の痒みを忘れられないひとのように、たえず自分の過去を振り返っていた。爪で皮膚を掻いては傷口を開き、そして、作られたかさぶた自体にも愛着を感じていた。しかし、化膿することもない。そうなるには既に過去は遠過ぎた。

 ぼくは会社の昼休みに外でラーメンを食べている。壁のうえのテレビのチャンネルは変わることなく、いつもの昼のニュースが流れていた。全国の放送が終わり、地方のローカルのニュースになった。どこかで火事があり、どこかで食中毒の疑いがあった。それから、ぼくは聞き覚えのある名前を耳にする。不正な資金を、とか、会社に流用、という言葉が使われていたと思う。そして、裕紀の兄がいる企業の名前が流れた。もともとが大きな会社を引き継いでいた。段々と日本の経済が傾きかけ、彼の会社も苦しい立場に追い込まれていったのだろう。だが、まだ疑いに過ぎなかった。ぼくは、美緒という彼の娘のことを考える。そして、彼女のもつ生真面目な雰囲気が消えないで残ってほしいと思っていた。それで、真相を知らないながらも、容疑が晴れることを切に願った。その願いは不謹慎なことにつながるのかもしれないし、正しいことなのかも確認できなかったのだが。

 いつまでもニュースを見ているわけにはいかない。何人かが店の前で列をつくっていた。ぼくは食べ終わると直ぐにそこを後にした。だから、具体的なニュースの経緯はよく把握できないままだった。

 それ以降、夜のニュースでも続報はなく、次の日には新聞にも載らなかった。立証できない事実があるのか、何かの根回しが裏であるのかは判断できない。それで、数日もするとぼくはそのことを忘れた。

 それから何日かして、ぼくは噂を耳にする。裕紀の兄と周辺は不正を働いたこともなく、ただ、第三者がした罪を彼の名前に転嫁させて証拠を覆い尽くそうとしただけのようだった。だが、そういう不安定な要素が彼の周りにただよい出したということは否めないようだった。それと同様に、ぼくらの会社も景気の煽りを浴びていた。誰も、社長の名誉を汚すことは望んでいなかったので、危ない道は渡らなかったが、一歩間違えれば、自分たちも同じ立場にいるような危うさも確かにあったのだろう。

 ぼくらは過去の繁栄も忘れるようになっていた。また、ある面では美化して懐かしむこともあるようだった。経済についての話だが、ぼくが裕紀のことを思い出すことと、それはよく似ていた。過去の輝かしき日々は美しいものだった。だが、ぼくらは節約の時代に入る。ぼくと雪代の毎日も高い頂上もなければ、崖の底にいるようなこともなかった。ただ、なだらなか道をきちんと靴底で確認するような日々だった。足元に咲いている小さな花を愛で、そのことを見つめ合いながら評価した。

「雪代の店は、大丈夫なの?」
「そこそこだよ。そんなに大きく儲けることもないけど。いまは、なんだか趣味みたいなものになってる。従業員の心配もあるけどね。ひろし君の会社は?」
「大量にリストラというほど、手広くやってないし。段々とスマートな会社に変わってきたから」

 社長が亡くなった後に、会社は転換をせまられた。無駄なものは削ぎ取り、これから必要とするものに肉付けしていった。それで、大きな波にも転覆することはなく、足場をしっかりと固めていた。子どもの教育費もあと数年で終わる。人生に博打を感じることもなく、ただ家族通しで適度に遊ぶトランプのように小さな喜びや起伏があるぐらいの毎日だった。

 そんなある夜、広美の部屋に置いてある聞かなくなったCDを雪代はかけはじめた。ぼくらに最先端の音楽は必要ではなく、そのような数週遅れの音楽がふたりのこころにぴたっとはまった。その若かったメンバーで構成されていたグループは早々に解散をしていた。グループが分解しても、そのような音楽が残っていることをマジックとも奇跡ともぼくは感じていたようだった。それは背中の痒みではなく、勝利の誇らしいゼッケンのようだった。

「いい曲なんだね」ぼくは音が途切れると、そう言った。
「もう一回だけ聴く?」
「うん。ぼくがやるよ」リモコンが手元になかったため、ぼくは機械の前まで行き、指先でボタンを押した。またモーターが回転する音が聞こえ、スピーカーから音が出た。何度も再生が簡単にできるものたち。ボタンひとつで、もう一度ぼくらの前に出現する。誰かが聞かなくなった音楽ですら力を及ぼすのだ。自分の思い出なら尚更そうだろう。
「何で、もって行かなかったんだろう?」雪代は疑問を発する。CDのケースの裏側を眺めながら。
「そういうのは、データで身近にほとんどあるんだろう」

「そうか。はじめて買ったレコードってなに?」
「なんだったろう、忘れたな。妹がいっぱい買ったのは、もうCDだったような気がするな」
「物にこそ思い出ってあると思わない? はじめてダウンロードした曲は、なんて質問、そんなの興醒めな感じね」

 雪代がそう言う。すると二回目の再生も終わった。ぼくらはもうどちらも立ち上がらなかった。多分、ふたりとも頭のなかでむかしの音楽を鳴らしていたのだろう。それは無数にあり、しかし、本当の所、こころの奥にあるのは一曲か、二曲だけだったようにも感じていた。その数曲が、ぼくらの今後をいつまでも温めていくのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(109)

2012年08月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(109)

「大丈夫だったよ。わたし、また妊娠した」と、ゆり江が言った。電話の向こうから、その喜びが電波を通して伝えられる。彼女は一度幼い子どもを事故で亡くしていた。彼女は悲嘆にくれ、ぼくも同様の悲しみを浴びた。「これからも、どんどん、産みつづけていく」とふざけた口調で彼女は言葉を重ねる。

「良かったね」ぼくは、それしか言えない。ぼくは過去に彼女と短い関係をもった。いつも、雪代や裕紀の陰にかくれて存在した。もし、ふたりがいなかったらとぼくは考える。彼女たちの存在しない世界。ぼくはゆり江を選ぶ。しかし、それはぼくの過去をすべて否定することでもあった。もちろん、ぼくは自分の過去をそれなりに愛し、貴く、かけがえのないものだと思っていた。それで、いつも、ゆり江はぼくのそうした不甲斐ない気持ちの狭間の奥にいた。先頭集団を追いかける汗まみれのマラソン選手のように。だからこそ、ぼくは直接には関与しないにせよ彼女に幸せになってほしいと思っていた。幸せしか訪れないでほしかった。まるでぼくは、客観的な立場で給水ボトルを手渡すだけのボランティアのひとのようだった。背中を押したり、声援をかけることすらしない。見守り、手渡すだけの役割。しかし、安全なルートを、幸せにつづく道を走りつづけてほしいことを離れた場所で望む。まったくの都合の良い話でもあるが。

「悲しみなんか、消えないのかもしれないけど、忘れるよ。そして、今度の子もいっぱい可愛がる」
「ゆり江ちゃんみたいなお母さんなら、自慢したくなるよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「でも、年齢的にこれが最後だと思う。そして、自分にそういう順番がまわってきたことに驚いている。正直、戸惑っていたんだ。で、ひろし君に電話しちゃった」

 ぼくは、まだ彼女を幼い女性だと思っていた。愛護をされる存在として。その勘違いは多分、永久につづくのだろう。
「大丈夫だよ。でも、ごめん。ずっと、気になっていたんだ」
「なにを?」
「喜んでいるのに、釘を刺すみたいで悪いんだけど、いや、冷や水を浴びせるか」
「どうしたの」
「いやね、いつかゆり江ちゃんの写真を、写真館で見た。家族三人の・・・」そこで、少し空白がある。
「ああ、あれか。すっかり、忘れていた。まだ、飾ってあったんだ」彼女はぼくが告げた写真のことを思い出したようだった。ゆり江と夫と最初の子のすました表情の写真。いつもより少し緊張した姿のゆり江。ぼくは外回りの途中にそれをある場所で発見した。

「そう。幸せそうだった。ぼくは、嬉しくなったし、また、悲しくなった」
「うちにもあったのかな。ふたりは、もう立ち直ったから、あれを焼き増ししてもらいたいな」
「もし仮にだけど、兄弟が亡くなったということを話してあげる? 新しい子に」
「写真も残っているから、いつか、訊かれるでしょうね。これは誰って。でも、どうしたの?」
「ごめんね、うれしい最中に。裕紀を可愛がってた叔母が亡くなって、裕紀のことを話せるひとがまたいなくなってしまったなって」いなくなっても存在していた誰かをぼくらは忘れてしまうのか、それとも、伝えつづける必要があるのかが、ぼくの命題ともそのときは考えていたのだ。

「そうなんだ。じゃあ、わたしは、これからもひろし君にとって、大事なひとでいられるんだ」
「そんなことがなくても、ずっと、大事だよ」
「二十年ぐらい遅い言葉だよ。あのときに言ってほしかった」ぼくは口をつぐむ。彼女がふざけているのは分かっている。でも、ぼくはその言葉を言う可能性もずっとあったが、最後の一線ではそれをきっぱりと拒否した。その拒否こそが自分のずるさの証しだった。そして、ぼくはその曖昧さを何度も繰り返し、自分自身に許した。

「言えれば、良かったと思うよ」
「ありがとう。でも、あと何十年もこれから子育てに力を注ぐ。いつか、ひろし君のことも忘れてる。思い出の遠くに、トンネルを何本も抜けた遠い向こうに、ひろし君はいるだけ」
「それでもいいよ」
「でも、いつか言うかもね。ママが好きになったひとはね、ママのことを第一にしてくれなかった。あなたは、そういうひとだけになったら駄目よって」
「ごめん」
「冗談だよ。好きになって良かったよ。奥さんと、まだまだ仲がいいんでしょう?」
「うん」
「それから?」
「娘も東京に行って、これから、ふたりで仲良く暮らしていくしかぼくらの未来にはないから」

「そして、彼らは幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」ゆり江は笑う。その笑い声は何年も変わらなかった。ぼくは過去に、その笑い声を何度も何度も聞いたことを思い出し、そのいくつかの情景も目の前にくっきりと浮かんだ。彼女の瞳のなかにあるひかり。

「ゆり江ちゃんもそうなるよ。あの家に笑いが響き合って」
 このような電話のやりとりがあった。ぼくは、それを夢のなかの出来事のように感じている。むかしに会ったゆり江という可愛らしい少女に声をかけたことも、あれはおとぎ話のなかの挿話でもあるようだ。だが、ぼくの電話の着信には彼女の名前がある。それが現実でもあることの確かな証拠だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(108)

2012年08月27日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(108)

 ぼくは特急電車に乗り、地元に戻っている途中だ。東京で会うべきひとに会えず、今後、もう会うこともなくなった。寂寥という言葉をぼくははじめて実感している。そういう言葉があったことすら知らなかったようだ。トンネルを抜けるたびに、ぼくは我が家へ近付いている訳だが、普段と違って見慣れた景色の到来にもこころは晴れず、重苦しいままだった。

 ぼくが、そのような過去の人間関係をつづけていることを雪代は知らなかった。秘密というものではない。ただ、伝える必要性を感じてこなかった。それぞれ、数十年も生きていれば、簡単に断ち切れない関係のひとつやふたつはあるのかもしれない。ぼくのもそのひとつだった。だが、もうそれを秘密にすることも終わった。もう関係そのものが終わったのだ。

「広美に会ったの?」雪代は、いつものように出迎える。ぼくは裕紀が死んだときに、このひととの関係で救われ、立ち直ったのだとあらためて知った。
「うん、会ったよ。瑠美ちゃんもいつものようにいた」
「あの子たち、仲が良いのね。喧嘩、しないのかしら? いつもいるのに」
「やっぱり、どこかでするんだろう」
「そうだよね。お腹空いてる?」

「空いてるけど、東京で、これ、買ってきたよ」ぼくは包みの袋を雪代に渡す。
「ご飯があるから、これでいいか。佃煮っていっぱい種類があるんだね。あと、適当にサラダでも作る」ぼくは、裕紀の叔母に会いにいったときに渡しそびれたものをそこで見る。叔父が好物で、見舞いには相応しくないが、なぜだか、それを買っていた。そして、ここまで受け取るひともいないため持って来てしまっていた。

 ぼくは冷蔵庫を開け、ビールの缶を開ける。
「疲れた?」
「いつも通りだよ。終わらない会議。やらなければならない仕事」ひとの死をとめられない自分。正直さを見失った自分。
「広美とはなにを食べたの?」
「パスタとかピザとか、若い子が好きそうなもの」雪代は笑う。
「なんか年寄りみたいな口調」
「ビールに佃煮、これこそがぼくの食べたいもの」ぼくは箸でそれを口に運ぶ。起伏がないことをいまの自分はのぞんでいた。なにも事件がおこらず、日々の生活は脅かされない。ぼくはその簡単に思えることを、このテーブルを前にする雪代を見ながら考えていた。崩れる積み木。虫に喰われた衣服。

「広美には、男友達がいるみたい?」
「さあ、どうなんだろう。心配なの?」
「まゆみちゃんは悪い子じゃなかったけど。わたし、いまでも大好きなんだけどね。でも、ああいうのも親の立場になると辛いから」

 突然の妊娠。それは、突然の死と比べてどれほどの悲劇であるか、ぼくは考える。どちらも歓迎されないのだろうか。誰かをひとり産み出し、誰かをひとりこの世から抹殺する。ぼくは、きょうは厭世的すぎ、正しい判断ができるような状態でもなかった。
 
 あまりご飯も喉を通らず、ビールだけをだらだらと飲んだ。それから、シャワーを浴びた。ぼくは勢いの強いお湯を浴びながら、数々のむかしの出来事を思い出し、そこで涙も流していたようだった。ぼくと裕紀は幸せな結婚生活を送っていた。ぼくを回顧するフィルムでもあれば、そこに多くの時間を割き、たくさんのエピソードが語られるのだろう。だが、友人は多く語ってくれても、裕紀の親類のエピソードはそれほどない。彼女の兄はぼくを毛嫌いした。交際していた若い妹を簡単に切り捨てた男として認識し、留学先をたずねた両親を事故に遭わすきっかけをつくった張本人として。裕紀の叔母はなぜ裕紀だけではなく、このぼくでさえも素直に認めてくれたのだろう。美緒という少女が急に出現し、彼女が遠くからぼくらの和解のきっかけの種をもってきたと思ったら、自分の役は終わったとでもいうように裕紀の叔母はこの世を去った。ぼくは、いつでも彼女の無償の潔さみたいなものを感じていた。ぼくは、その恩恵だけをもらい、なにも彼女に返すことができなかった。その意味での涙がぼくから溢れ出て、こぼれたのだろう。

「泣いてたの?」ぼくが、シャワーから出ると、雪代が訊ねた。「いいよ、隠さないでも。もう、どれぐらい、ひろし君と付き合ったと思ってるの?」
「いろいろあるからね」
「もう少し、強いお酒飲む?」言い終わらぬうちに雪代はワインのコルクを開けた。「どうぞ」テーブルの上で雪代はグラスの足元をぼく側に押した。ぼくはそれを手に取り、グラスを空けた。

「広美は、島本さんの顔を覚えてるのかね? なんか楽しかった思い出をもっているのかな」
「あんまり、覚えていないんじゃない。あの子、小さかったから」
「覚えていてほしい?」
「とくには」
「それを伝えたいと思う?」
「訊かれれば。どうしたの?」
「みんな、いろいろなことを忘れちゃうんだなと思って、残念だなって」
「でも、仕方ないでしょう。偉くなって、伝記にでも書かれなければ、そのひとのことなんて伝承されない」
「雪代のことも、ぼくは忘れちゃうよ」

「忘れないでしょう。若いときのひろし君のことも充分すぎるほど好きになったし、別れたのに、こうしてまた結婚もしてる」この事実を抜いたら、一体、ぼくの何が残るという挑戦の言葉にも感じられた。実際、それを抜かしたら、ぼくのフィルムは、あまりにもドラマに欠け、脚本家を泣かせるだろう。しかし、ぼくは雪代のことを振り返って思い出したりはしない。なぜなら、それは未来にもつながるものとして認め、ぼくの過去といまとの連結部分にしっかりと組み込まれているからだ。蝶番をはずせないドア。向こうにもこちら側にも、だから雪代はいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(107)

2012年08月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(107)

 ぼくは東京への出張に行き、裕紀の叔母を病院に見舞いに行くことを楽しみにしていた。見舞いを楽しみにするという言葉自体が矛盾していた。いろいろと報告を済ますという義務感と、ぼくにはまだ裕紀が種を蒔いていた未来があるかもしれないという漠然としたものを待ち望み、淡い気持ちを伝える喜びがあった。しかし、なにごとも遅いということがあるのだ。

「すいません、入院患者の部屋番号をききたいのですが」ぼくは患者の名前を告げる。対応したひとは気まずそうな顔をしたが、直ぐに事務的な口調にかわる。彼女はいない。退院したわけでもない。数日前に彼女は亡くなっていた。ぼくらには個人的なつながりがあったが、それは当人同士が知っている糸で、誰かを巻き込んでいる関係ではなかった。だから、ぼくには連絡がなくても仕様がない。でも、それはあんまりだ、という気持ちがあった。

 彼女の遺体はもうない。ただの煙と灰になった。ぼくは、こうして裕紀のときと同じように、大事な儀式に加わらなかった。結び付けた裕紀がいない以上、ぼくらは他人だった。でも、確実に裕紀を媒介にしての友人になっていた。友人のように思い出話をして笑い合う関係にはなれなかったのだが。ぼくらに共通するのは喪失感という悲しみだけだった。しかし、ぼくらはその喪失を交換して確かめる必要があったのだ。これで、ぼくは裕紀のことを話せる仲間を失ったのだ。これで、ぼくがいずれ死ねば、裕紀のこともこの地上から滅びるのだった。痕跡はなにも残らない。

 ぼくは裕紀の叔父に電話をする。彼はぼくと叔母との関係の継続をあまり知らなかった。そして、その後ろ向きの関係を嫌っていた。そういう意味が含まれていたのか、ぼくに連絡しなかった。そもそも、ぼくの連絡先を知らなかった。

 彼も喪失感を抱いていた。それでも、ここ数年、病気で苦しんでいた妻がその状態にとどまらなくてもよくなったという安堵も同時に感じているようだった。ぼくは、なぐさめたかったが上手い言葉はでてこなかった。

「ひろしさんも、自分の生活があるんだから、そっちを大切にしたほうがいいよ。終わった関係より」
 ぼくは手遅れになった事態に当惑していた。しかし、こういう場面がいずれ来るのだということぐらい、想定していても良さそうだった。だが、ぼくは失うということを恐れていた。頭の片隅にも入れたくなかった。それで、結果としてぼくはより大きな悲劇と対面しなければならなくなる。準備をしていても悲しむものなのだから、いきなりそれと直面すれば、悲しみ以上のやり切れなさがぼくの身体の核には残った。東京に来れば、毎月ではないが、連絡を取り合って、ぼくらは会った。代わり映えしない近況も話した。その相手はもういない。ぼくの思い出にしかそれは残らない。

 美緒という少女はこのことを、どう感じているのだろう。最近になって彼女はやっと裕紀のことを情報として手に入れる。自分に似た顔をもつ親類の若過ぎる死。さらに、その女性を溺愛した女性を失った。生きるということが残酷な別れに向かうレールに過ぎないのだ、と思うかもしれない。それは、自分の思いあがった考えなのだろうか。若い、柔らかいこころは、いとも簡単に悲劇など乗り越えてしまうのだろうか。

「ぼくが最初の結婚をしたとき、あまり味方がいなかったんだ。奥さんの叔母さんがいてね、とても、優しくしてくれて、いろいろと世話をしてくれた。ぼくは、いまになると無頓着な人間だったと気付くけど、結婚できて単純に嬉しかったということもあったし、仕事で忙しかったこともあるし、その奥さんにも辛い思いをさせてきたかもね、と気付いた」

 ぼくは東京で会うことになっていた広美が遅れている間に、先にいたその友人である瑠美という女性を前にして、こんな発言をしていた。

「優しいひとだったんですね」
「そうなんだ。今回、東京に来て会おうと思っていたけど、もう亡くなっていた」
「そのひとが、亡くなっていた?」
「そう」そこに広美が入ってきた。ぼくは前の妻のことを話している自分を嫌悪して、直ぐに止めた。それからも快活に振舞い、いつもの義理の父の役柄を演じた。楽しい時間は過ぎいくが、悲しみは錨を下ろし、そこに固定する印象をもった。ふたりになったら、瑠美はぼくの前の妻のことやその家族のことを広美に話すだろう。けれども、ぼくは広美にも自分の実際の父のことを話せる余裕も与えたかった。彼女は意図して控えていたわけではない。ただ、記憶は磨耗していくものだ。それで、忘れ去られていくのだ。ぼくは、裕紀や叔母のことを口に出すことにより、それをどこかに刻み付けたかった。それが、関係のない瑠美という女性だったにしても。

 ぼくは、別れていつものビジネス・ホテルのベッドに横たわる。何の気なしに頭部にあった有線放送をつけた。
「ぼくは壁を縦横無尽に張り巡らす。なにひとつ、通過させることのない要塞。友情があった。でも、友情は苦痛にしかつながらない」と、若い男性の歌声が流れた。そのシンプルさのゆえにぼくの胸に突き刺さる。ぼくは岩なのだ。なんの感情ももたない石の固まりなのだ、と同じように思おうとした。だが、ぼくの石になり切らない目から涙が流れる。ぼくはそれを拭うこともできないほどの疲労感の固まりとして石になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流求と覚醒の街角(4)試着室

2012年08月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(4)試着室
 
 ぼくは、試着室で洋服を試している奈美を待っている。

 彼女は試着室のなかに数着の洋服を持ち込んだ。いくつかのカラーがぼくの目の前を素通りする。ぼくはそれを合図にそこから離れ、噴水のある広場に向かった。その付近では子どもたちがソフト・クリームを食べている。白もあれば、ピンクのソフト・クリームもあった。ぼくはその味を思い出す。ぼくは横で紙コップに注がれたビールを飲んでいた。

 ぼくらは前日、奈美の部屋で映画を見ていた。映画の登場人物は当然のこと洋服を着ている。それは流行の最先端を行くべき使命を与えられたような映画だった。それゆえに会話は浮ついたもので、地に足が着いたものには感じられなかった。しかし、色の使い方は見事であった。ぼくは同じような色彩の洪水をこの場所でも感じている。ぼくは奈美が寝てしまった後にひとりで白黒の映画をみた。主人公は肺病にかかっているひとのような咳をして、暗い眼をしていた。

 ぼくもいつの間にかそのまま寝てしまい、朝になるとシャワーを浴びて、昨日と同じ格好の洋服に袖を通した。奈美は洗濯をしていた。それから、クローゼットを開け、きょう着るべき服を選んでいた。普段は職場への通勤に見合う落ち着いた色とデザインの服を着ていたが、休日は異なっていた。12色の色鉛筆と、24色の色鉛筆ぐらいの差があった。きょうは後者だ。

 彼女は手早く料理を作る。赤いパプリカ。緑のアボカド。黄色いコーヒーのカップ。青い皿。ぼくは白黒の世界を忘れる。部屋を出ると、となりの新婚夫妻がぼくらに会釈した。ぼくも見慣れない彼らに同じような態度で接した。ぼくらは似た年代でありながら、責任感というところでは雲泥の差があるようだった。階段を降り、駅に向かって歩く。軽い登り坂は満腹の腹を適度に揺する。たくさん寝たはずなのに、ぼくはあくびをする。

 駅で電車を待つ。
「普段は、学生がたくさん乗っているんだよ。満員。さっきのとなりの旦那さんもその学校の先生」
「え、挨拶したひと?」
「そう。お勉強ができそうな顔をしてたでしょう?」

 ぼくはその短い邂逅であった数秒では瞬時の判断ができなかった。ただ、失礼にあたらないぐらいに見ただけだった。それに、奈美の評判もあった。見知らぬ男が日曜の朝に部屋からでてきたということが、減点にならないといいのだが。

 ぼくらは到着した電車に乗り込む。閑散としている車内。そこから数駅で大きな駅につながる。その間の駅では乗客は増えることもなく、急激に減ることもなかった。ただ、一定の人数を満たすことが厳守されているようだった。先ほどの夫婦のうわさ話をききながらターミナル駅に着いた。そこで、どっとひとが降り、そのまま折り返して行き先が変わる役目を果たす電車を待っていた大勢のお客さんが折り返す電車に乗った。

 ぼくらは小物を見たり、靴屋に入ったりした。太陽は居場所をはっきりさせないようにそっと自然な暖かさを加え、吹き抜ける風も自分の仕事をたまに思い出すぐらいののどかな日だった。

 それも奈美がデパートに入ると、風向きは変わる。穏やかさは大気の不安定に移り、足元をくすぐる海の波もホースで水を撒かれるような形をとる。
「これ、可愛くない?」
「同じようなの着ていなかったっけ? この前」
「あれは、ここが・・・」彼女はその説明を丹念にする。ぼくはその違いがまるっきり分からない。それで、洋服が何着か奈美の腕のなかで抱かれる。店員は忍び足をしていたように背後に近付いた。

「お似合いになると思いますよ。どうぞ、よろしかったら」店員は、試着室を指差す。ぼくには数分間の待機時間ができる。それで、ビールを飲みながら噴水を見ていた。別の子がソフト・クリームを買ってもらい不器用に舐めていた。落っことしてしまうようなヒヤヒヤさせる気持ちをぼくは何度か経験し、案の定、その通りになった。落とした本人は泣き、その母は怒る。だが、あまりにも泣き止まないので今度はなだめる。ぼくは自分のビールの紙コップが空になったので席をたつ。席といっても噴水の縁にある模造の大理石のような固い石段だったのだが。

 ぼくは奈美が消えた試着室のある店に向かった。彼女がレジでお金をはらっているタイミングであった。それから振り返り、嬉しそうな顔でいくつかの角張った袋をぶら提げて歩いてきた。

「買うつもりはなかったんだけど、見ているうちについつい。迷って、買おうか思案して、やっと買いに来て、来週には、もうなかったというのは嫌だからね」
 彼女の一連のこころの動きは分かる。ぼくも迷わずにビールを飲んでいた。およそ費やした時間は20分弱。また、そこを通りかかる。噴水は同じように水を上方に向けていた。さっきのソフト・クリームを落とした子はいなかった。奈美は、そのことをまったく知らない。

「わたしも、アイス食べたくなった。買ってくる。いる?」
「いらない。落としちゃダメだよ」
「落とすわけないじゃない、子どもじゃないんだから。あ、これ、ちょっと持ってて」買ったばかりの洋服が入っている袋をぼくは手渡された。ぼくは奈美が選ぶ味を予測する。多分、あれ。中の店員は背中を向け、手を回しているらしい様子が分かる。奈美はいくらか背伸びをして、待ちどうしそうにそれを眺めていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(106)

2012年08月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(106)

「ごめん、もう絵本なんか読む年代ではないと思うけど、美緒さんにしてあげられることって、これぐらいだと思って」ぼくは再び美緒という少女と対面していた。自分から会いたかった訳でもない。ただ、裕紀のことについて知りたいという希望をひとつぐらいは叶えてあげたいという親切心のあらわれだった。その親切さは無償の気持ちから出た訳でもないのだろう。それは打算でもあるようだった。

「随分と古い本のようですね」彼女は磨り減った角を手の平でさすった。
「新品を買えれば良かったんだけど、絶版みたいなので手に入らなかった」彼女はそれでという顔をした。わたしが手にしているこれは一体なんなのだろう?
「どこかに、残っていたんですか?」
「まあ由来はともかくとして、その本が作られた際に若いときの裕紀が関わったようなので、君にも差し上げようと思った」

 ぼくは若い裕紀といま言った。その若いという言葉が、なぜ使われたのか考えていた。美緒という女性と比較したらその言葉を用いなかったはずだ。当時の裕紀はぼくが知っている範囲での裕紀として若かったのか。いまのぼくの年齢からすると、当然、若いままだ。彼女は年を加えることを金輪際、放棄しているのだ。

「もともとは外国のひとが書いた本なんだ」
「そうみたいだね。ぼくは子どもを育てなかったから、そういうのを読んであげる機会ももたなかった」
「うちにはたくさん本があるんですけど、これは貴重ですね。大切にします」
「本を読むのが好き?」
「ええ」彼女はためらうように頷いた。「裕紀さんも好きですか?」
 彼女は、過去形をここでは使うべきだった。好きだったんですか?

「うん、たくさんの本を読んでいたよ。でも、ぼくがいちばん影響を受けたのは、クラシックの音楽だよ。いまでも曲名はいっさい知らないけど、ふとどこかできれいなメロディーにぶつかると、ああ、裕紀もこれを聴いていたなとしみじみと思う」なぜ、ぼくは自分の思い出を切り売りしているのだろう。この少女に伝えるべき何かをぼくは内蔵しているのか。それを、どこかで裕紀は求めているのだろうか。顔の相似が自然とぼくを饒舌にさせた。多分、ぼくは裕紀とこのように途絶えることなく、ずっと話しつづけていたかったのだろう。その願いは、あの病院の一室で終わる。裕紀は何かに反応することはない。ぼくが発する言葉にもしない。たくさんの感受性に恵まれたこころを置き去りにした。

「共有した時間があった?」
「若い女性が、そういう感じ方をするのって、特殊だと思うけどね」
「近藤さんは、わたしの父を恨んでいますか?」唐突に彼女は言った。
「もう過ぎたことだし、でも、恨む必要なんかどこにある。ぼくが、もっと気をつけていれば病気だって早期に発見できたかもしれないのは事実だしね。それを怠たったのはほかでもないぼくだよ。自分自身」ぼくは、許されなかった感情を美緒に告げ、彼女から許しを得ようとしているように思えた。そのような要望を受け入れられるような年代ではない。ただ、裕紀の膝にすがりつき甘えるような年頃でもあるのだ。ぼくもできるなら、同じようにしたかったのだが。
「父と母に近藤さんと会うことを言いました。うちの両親は、もう悪い感情をもっていないようでした」
「じゃあ、あの手紙の内容はいまになって効をそうしたんだ」
「だといいんですけど・・・」
「不満みたいにきこえるね」

「もっと早くするべきでした。ごめんなさい。もう手遅れになってしまうほど、時間が経ってしまいました」彼女はまた本を撫でた。その手付きは、この本ぐらい古びてしまったという風にも感じられた。
「いちばん喜んでくれるひとは、もういないからね」
「東京の叔母さんがいます」
「そうか、言ったんだ」

「喜んでくれましたけど、また、体調がよくなくって、とても、心配です。いま、入院しています」
「そうなんだ。また、お見舞いに行かなくちゃ」ぼくはあの病院が苦手だった。そこに足を踏み入れることは苦痛に近いものだった。だが、ぼくはその苦さも甘んじて受け入れなければならない。
「叔母さんも手紙のことを言うと驚いていました。それで、とても喜んでいました。優しいゆうちゃんがすることらしいって」
「原因をつくったのは、ぼくだけど」
「いいえ、その原因をつくったのは、わたしの父ですよ」頑固そうに美緒はきっぱりと言った。そういう真摯な表情をすると、より一層裕紀に似てきた。「あれがなかったら、もっとわたしの家にも近寄りやすくって、遠慮することもなく、みんな来られたのに」

「それは理想論だよ。ああいうことをしていたらって考えない方がいいよ。ぼくもそれで随分と苦しんだんだから。これでもね」それで一生を棒に振る直前までいったとは言えなかった。ただ、その純粋さが恐く、自分が大してその純粋さを所有していない事実も恐ろしかった。ぼくらはそれから程なくして別れ、本の分だけぼくの荷物は軽くなった。同じぐらいのこころの晴れなかった部分も軽やかになったような気がした。裕紀は亡くなってもまだぼくに尽くそうとしていた。それに報いる方法がひとつとしてないことを残念に思う。やはり、生きている間に、あのとき以上に懸命に優しくしていればよかったのだ。そのことを十年も前の自分は知ろうともしなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(25)

2012年08月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(25)

「由美ちゃん、スカートのお尻の部分が真っ黒だよ。ママに怒られない?」いつものファミリー・レストランに入ると、児玉さんが娘に声をかける。
「すべり台、さっき、してたから。でも、いいの。パパが新しい洗濯機を買ってくれるから」
 ぼくは、飲みかけのビールを吹き出しそうになる。
「ほんとうですか? 川島先生、お金持ち」

「違うよ。この前、食器洗浄機を買ったばかりだから。そんな余裕はまったくない」ぼくは鼻のしたの泡をぬぐう。「由美、なにかを買うときは、その前に労働という貴いことをして、ある程度のお金をためて、それからお買い物するんだよ」ぼくは噛んでふくめるように由美をさとす。
「でも、何回かに分けて払う仕方もあるって、ママが言ってた」
「よくない考えだね。由美もいつか大きくなったら、きちんと毎日、働くことになるんだよ」
「学校に行かないの?」
「学校を卒業してから」

 しかし、それはずっと先の話だ。娘が大きくなるまでに途方もない費用がかかる。スカートは小さくなり、新たなものが必要になる。学費もそれなりにかかる。そのようなことを考えながら、ある夕方、なにもかも忘れるようにビールを飲んでいる。ぼくは、それでも新たな物語にせっつかれている。登場人物は、自分たちの行動が書かれるのをじっと待っている。撹拌する洗濯機の中味のようにもつれあいながら。

「大学を卒業したら、どうするの?」マーガレットは、未来を漠然と思いながらケンに訊く。
「地元にもどって、就職口を探すよ。それとも、もっと全然誰も知らないところに行って働いてみるのもいいかもね。それで?」
「わたしは母がいるからな」
「なにか決まっているの?」

「父の知り合いが弁護士事務所をしていて、そこのお手伝いとか」まだ均等に女性が男性と肩を並べて働くという時代でもなかった。しかし、そういうものが徐々に古びた考えになるということも予感させる時代でもあった。変化に対応することは容易ではなく、逆に、そんなに難しいことが要求されているわけでもない。
 家事に便利な品物が作られ、それによってみなが楽になるのかと思いきや、ひとはまだもっと忙しい環境に身を置いた。その忙しく振舞う日々で大切なものも置き去りにされていく。
「ここは、勉強するためだけの土地だから、快適でもいつか抜け出ないといけない」

 ケンの気持ちも変わる。ここに入って、それこそたくさんのものを学ぼうとした思いはこなれていき、一年が過ぎ、二年目も通り越し、段々と終わりが見えるようになる。そこに焦りと満足があり、その間を揺れ動く。じっとしないところ、一定の場所に足場を見出せないところが人間の美点でもあり、欠点でもあるものだとケンは実感していた。その通り過ぎてしまう時間のなかで、何かを必死に捉まえるという作業も求められていた。ケンはマーガレットを失いたくはなかった。だが、流れ行く時間のほうが大きく、そこにのまれてしまうのも小さな人間には相応しいとも思った。

「パパ、帰ろうか?」
「うん。その前にジョンの餌を買わないと」
「先生、お帰りですか?」児玉さんが客との応対をしながら、ぼくらを見送った。
「洗濯機のために、お金を稼がないと。物語を必要としているひとなんて、そんなに見当たらないけどね」
「それでも、貴いことですから。では、また。由美ちゃんもバイバイ」
「パパ、貴いって、なんのこと?」ぼくらは店から出て階段を降りている。

「貴重なこと。価値のあるもの」
「価値って?」
「ものの値打ち。ダイヤモンドみたいなものかな。小さくても、高価で貴重なもの」
「パパのお仕事が?」
「違うよ。何かをはじめたことを、あきらめないで、それに向かってすすむ態度が貴重。その結果は二の次」うん? そうなのか? そう思いながらもぼくの手には犬の餌分だけの荷物が増え、汗をかきながら傾かない陽のなかを伸びるふたつの大小の影に向かって歩いた。

「汚れたんで、シャワーを浴びちゃおうか?」

 ぼくらは熱い湯で身体も頭も洗う。その後、脱いだ衣服や由美のスカートも洗濯機に放り込み、洗剤をいれて回転させた。ぼくは夕方も終わるころにそれをベランダに干している。乾いたほうを由美は小さな手で畳んでいた。
「これが、証拠隠滅。スカートもきれいになったし。由美も勉強しておいで。パパも、もう少しお仕事するから」

 マーガレットにはもっと安定した場所があるのかもしれない。それは就職というものではなく、結婚という立場に身を置くことなのだろう。ケンは勉強を終え、疲れた目でぼんやりと窓外を見ながら、そう思っていた。自分が安定した地位につけるには数年先のことなのだろう。その数年で人生は決まってしまう危うさもあった。

「パパが由美のスカートを洗ってくれて証拠隠滅してくれた」妻が玄関に入ると、由美がそう言って迎えていた。「ママ、雨降ってるの?」
「そうよ、由美の嫌いな雷も遠くで鳴っている」彼女の髪は濡れていた。ぼくは急いでベランダに行くと、そこには濡れた衣類が吊るされていた。「パパたちは、この音、気付かなかったのかしら?」
「パパのお仕事はダイヤモンドぐらいに貴重だから」と、由美は覚えたての言葉を使う。
「そうなんだ。あまりにも小さくて、パパの貴重さにうっかりして気付かなかった」と妻は自分の肩のあたりをタオルで拭き、満足そうにそう言った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(105)

2012年08月24日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(105)

 ぼくは、姪に電話をする。こういう本があるんだけど、それを取り寄せたりすることが可能かどうかの質問をするために。彼女は本屋でバイトをしており、そのお陰で都合が良かった。
「残念ながら、絶版。良い本なんだけどね。そもそも、そんなに流通しなかったよ」
「そうなんだ。惜しいな」
「でも、うちに2冊あるんだ」
「どうして?」
「子どものときに裕紀ちゃんがくれた。最初は1冊だけだったけど、わたしが泣いて、奪い合いになるのが嫌で。そうしたら、もう1冊くれたんだ」

 ぼくはその過去の情景をまったく思い出せないでいる。
「2冊か・・・」
「どうしても、必要なの?」
「どうしてもって訳じゃないんだけどね」
「お兄ちゃんのは、もう必要ないと思うよ。そんなにメルヘンチックな人間じゃないから」
「そう」
「それを、誰に上げるの? そのプレゼントに見合うかどうかによる」
「プレゼントかどうか、言ってないよ」
「でも、誰かに上げるんでしょう?」彼女の勘の良さに当惑しながらも、彼女ぐらいの年齢のひとに対して自分が真実を告げるかどうかの問題になった。真実に耐え得る年代にもう達しているのだろうか。だが、なぜ、やましくもないことを誤魔化す必要がでてくるのだろう。

「そうなんだ。なんの約束もないんだけどね」ぼくは、でもまだためらう。姪はそのまま質問も加えず、じっと受話器の向こうで待っていた。「裕紀にはお兄さんがいて、そのひとには娘がいたんだ。この前、ひょんなことからぼくらは会ったんだ」
「わたしも、知ってる」ぼくはなぜだか唖然とする。世の中はぼくの関知しないところで動いているのだろうか。
「どうして?」
「おじさん、なんか、きょう、疑問ばっかりだね」彼女は、そこで小声で笑う。「だって、この前読んでくれるって渡したものに、その子のも載っていたから。はじめは知らなかったけど、わたしたち、市役所みたいなところに呼ばれて、賞状をもらった。図書券もだけど。そこで、会った」

「そうなんだ。じゃあ、裕紀に似ていることも知っているんだ」
「おじさん。ごめんなさい。わたし、あのときまだ子どもだったから、段々といまでは裕紀ちゃんの顔を思い出せなくなっている。写真を見直して、似ていることは分かったけど」

「そうなんだね。大分前のことになってしまったんだね」ぼくはただ残念で、無性にやり切れなかった。「ごめん、話の続きで、あの子はぼくと裕紀のお兄さんが親しくなかったんで、まあぼくの所為で自分の叔母である裕紀の思い出をあまりもっていない。いや、皆無に近いと思う。でも、いろいろと知りたがっていた。それで、その本に裕紀が関わっているということを最近になって知って、できれば、買ってプレゼントしたいと思っていたんだ」

「優しいんだね、おじさん。でも、最近になって知ったと言ったの」
「残念ながら」
「良い本なのに。妻の仕事を知らない夫」
「みんな、そうなるんだよ」そして、後悔するんだよ、とどうしても付け加えたかったが、未練がましかったのでやめた。
「ひとつならいいよ」
「ほんとに? くれる?」
「いいよ。今度、持って行く。でも、おじさんに貸しがひとつ」
「うん、何か叶えてあげるよ」

「ありがとう。じゃあ、その日に」姪は予定を決め、ぼくは手近のカレンダーに丸を書き込み、そこに姪の名前も記した。ぼくはなぜそんなことをすすんでしているのだろうか。ぼくこそが、裕紀がぼくのために自分の兄との和解のために手紙を大量に送っていたことへの借りがあった。それは、結果として実らなかったが、した行為を無下にすることはできなかった。過去の忘れられていた箱が開かれると、そこには愛の記念の結晶が詰まっていたのだ。ぼくはその箱の中味を知った。内容は読まなかったが、彼女の肉体の苦しみだけではなく、ぼくは精神的なダメージも加えていたのだというショックがあった。それもまた自分は知らない。知らないことに満足と誇りがあるぐらい、自分は愚かだった。その償いのために、ぼくは美緒という少女に優しく接しようとしているのだろう。本を渡して。自分はその存在をつい先日まで知らなかったにせよ。

「なにか、いいことがあった?」雪代は、怪訝な様子と、興味があることを兼ね備えた表情をしていた。
「ううん、別に」
「そう。でも、楽しそうだよ」
「うん。姪に頼んだら、入手困難な本が手に入りそうになってね」ぼくは、そこまでは告げる。「ところで、雪代の知らない面って、まだまだ、たくさんあるのかな?」

「急にどうしたの。このままだよ。夜中、こっそり起きて、ひろし君の寝顔をじっと見て、微笑むということもしてないよ」つまらなそうな表情で雪代は雑誌を閉じた。「ひろし君こそ、秘密があるんじゃない」
「人間なんて、どこかに秘密がある生き物だよ」
「一般論で、誤魔化した」

「今度、本を家まで持ってきてくれるって。いなかったら、受け取ってくれる? 多分、いるけど」
「そう。若い女の子と夕飯、いっしょに食べたいな」
「あいつ、あんまり食べないよ。それで、身体も細いまま」裕紀の顔すら思い出せなくなった女性。それは当然か。まだ小さなうちに別れてしまったんだ。ぼくは、広美も死別した実の父の島本さんの顔を忘れてしまったのかが気になった。そして、数ヶ月、別のところで暮らしているぼくの顔すら忘れてしまうのだろうかという心配と焦燥を感じていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(104)

2012年08月23日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(104)

 ぼくの甥と瑠美という女性は結局、会わなかった。ぼくは彼らを結び合わせる必然性をもっていないが、関心はあった。関心はあっても、具体的なことはほどこさなかった。興味はありながらも、それに対しての打つ手はなにひとつしなかった。ぼくは、言葉に惑わされている。

 ある女性は、ぼくの妻の死をあらかじめ知っていた。口には出さなかったが、それを予見していた。ぼくは彼女を失った後に田舎に戻り、ある少女と交友関係ができるとも言った。親しくなったその少女は、雪代の娘として目の前にあらわれた。漠然とした言葉の数々がぼくの足取りの前に置かれていた。しかし、もうそのひとと会うことはないだろう。東京の支社に行っても、彼女はもういなかった。そのそばのマンションから、どこかに引っ越していた。ぼくが、そのひとを必要としなくなったということをそれは意味していたのだろうか。ならば、ぼくは、最初から必要ともしていない。ただ、彼女が散歩をさせていた犬が可愛かったので話すようになっただけだ。

 そのひとが、最後にぼくの甥と瑠美という女性がいずれ結婚するのだ、と残して去った。最後の置手紙のようにそれはぼくの胸にしまわれていた。どこかで会い、互いに好意をもたなければならない。そのことが今回は先延ばしにされた。いや、ただぼくが知らないだけなのだろうか。

 また、東京に出張がある。ぼくは広美にも瑠美にも会った。だが、自然と夜は都会の片隅にひとりで埋没することを今回は望んだ。ぼくが裕紀と結婚していた当時によく行った店をのぞこうと思っていた。なぜ、今頃になってそのような気持ちになったのだろう。多分、遠くで美緒という少女が関係しているのだ。それは無意識の領域というより、はっきりと主張をつづけていた。それを自分は敢えて無視するような形をとった。無視してもかくれんぼの下手な子どものようにその姿は明らかだった。

 ぼくが店に入ると、なかの店員は見覚えのあるひとだ、という表情を作った。だが、それを思い出せないという様子もしていた。ぼくは名乗ることもせず、奥の椅子にすわった。最初に出たひとの奥さんである店の別のひとが注文を訊きに来た際に、ぼくの身元はばれる。

「お久し振りですね? お仕事で?」ここにもうぼくが住んでいないことも認識しているようだ。
「ええ、仕事です。月に一度、東京に出て来ます」それからぼくは食べたい料理の名を伝え、彼女は小さな紙にペンで記し、奥に消える。そのまま10分近くぼくはなにもしないで、空想のとりこになる。本ももっていなかった。新聞も手元にない。その店はテレビも置いていない。静かにどちらの趣味か分からないながらシャンソンのような音楽が流れているだけだった。

 ぼくはひとりでいる。帰る家も近所にはなく、いまはやぼったいビジネス・ホテルがあるのみだ。これがぼくの連れて来られた場所だった。

 ぼくの前には架空の裕紀がいる。来年は、あれとあれをしよう、と彼女は言うはずだった。ぼくは休暇の申請をして、その予定を生み出す。実現化させるように、小さな障害を取り除く。だが、もちろん彼女にはもう要求がない。要求こそが生きている証なのだろうと思う。ぼくの食欲のように。
「グラタンです。以前もよく召し上がられた・・・」
「覚えてますか?」
「もちろんです。奥さんも好きだった」

 彼女の思い出をもっているひとがまだいた。美緒という女性は裕紀の思い出を集めたいと言っていた。その思いは些細な収穫しか得ないのだ。まるで砂金や砂鉄ぐらいの分量しか。その言葉だけでは重要な意味をなさない。グラタンが好き、ということに一体、どれほどの個性が詰まっているのだろう。それは虚しいものだった。ぼくらがそのときに交わした会話や、いくつかの表情や、触れてしまった指の感触や温かみが伴わなければ、それは何の意味もなさないのだろう。解釈を付け加えることもできない。その虚しさを追うために、ぼくはきょうここで座っていたのだろうか。

「これなんですけど・・・」店のひとがなにかをもってきた。「探したら、ありました。奥さんがお仕事の関係の方とお見えになって、外国の絵本を翻訳したとかで、ひとつうちの子にくれました。それが、まだ残っていました」
 ぼくはそれを受け取る。だが、何も覚えていなかった。
「ぜんぜん、知らないけど」その本の間に裕紀の筆跡で、その子どものものであろう名前と幼稚園に入園しておめでとうという文字が書かれたメモが挟まれていた。ぼくは痕跡を追い求めるのだ。
「大切にして読んでたんですけど、いまは、すっかり大人になって」
「そうなんだ。これ、まだ、どこかで売っているのかな・・・」
「さあ、どうなんでしょう。でも、奥さんの名前は載っていないみたいですね」

 それがどういう経緯のためなのかぼくは知らない。そもそも、そういう仕事をしていたことも知らなかった。ぼくは言葉の無意味さをなげいたが、いっしょに暮らしていても、目の前にいたはずなのに何も知らなかったことをまた気付かされた。それで、食後のコーヒーを飲み終え、ホテルに帰るのにもためらい、ぼくはその絵本をパラパラとめくる。裕紀が生み出した文字。それは裕紀の声がきこえてきそうな表現だった。ぼくはその題をメモにとり、もし売っていれば美緒にプレゼントしたいと思った。それぐらいが、彼女にできる最善のことで、それ以上の深入りをぼくはしないよう自分の気持ちに柵を作った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(103)

2012年08月22日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(103)

 広美と瑠美はそれぞれリュックを背負って旅行に出かけた。もっと華やいだ場所もあると思うが、海沿いまで電車で行き、小さなフェリーに乗って、数日間をこれまた小さな島で過ごすそうである。特にこれといって決まった予定があるわけではなく、広美は趣味にしはじめたカメラを持っており、舞台に憧れる瑠美は、「感性を磨く」という漠然とした希望しかもっていないようだ。ただ、仲の良いふたりが、その親密さを増すために選んだ土地がそこだったのだろう。そこに、ぼくは単純だが美しい若さを感じた。

 ぼくは便が良い駅まで車で送った。彼女らはそこで降り、両手を振って屋根のあるところに消えた。ぼくはそのように同性とふたりで旅をした経験がないことに気付いた。ぼくは大学に入る前に雪代と交際をはじめ、しばらくして同棲することになった。年上だった彼女は翌年からもう働き、普通の青年がする貧乏旅行やバイクでのツーリングなどしたこともなかった。彼女のふところは潤い、ぼくもバイトで貯めたお金を彼女との時間のために充てた。

 ぼくらは親の拘束下にいないということで自由であり、いつもいっしょにいられるという逆の意味での不自由もあった。そのため、ぼくらは親の心配をかけているということに対しても無頓着であり、もし、仮に広美が同じような生活をしていたら、ぼくらは許さなかったかもしれない。虫の良い話でもあるが、事実はそういうものであり、ぼくらも年を取ったということらしかった。世間の目を恐れなかったふたりは親の役目を与えられ、過剰になることはなかったが、どこかで制限も求めていた。

 ぼくは一日働き、家に戻ってきた。まだ、車の中は若い女性の匂いがするようだった。
「気付いたけど、ぼくも、あのように友人同士で、旅行とかしておけば良かったなとか思った」
「後悔してるの?」
「違うけど。いや、そういう意味では後悔している。やり残しているというニュアンスに近いね」
「若くして、同棲しちゃったもんね。でも、東京に、わたしがいるときは、自由もあったでしょう」
「そういえば、あったね」
「やっぱり、ひろし君は若い女の子と楽しんでたんだよ。何があっても」
「かなり、断定的だね」
「証拠でもあげようか?」

「いや、いいよ」ぼくの浮ついた気持ちはどこかで消えた。いや、沈静化した。だが、空想はやめられなかった。しかし、段々と、ぼくの考えは移り変わっていく。夜、そんなに広くない部屋で枕を並べ、自分の将来について話す。応援があったり、自分に足りないものを指摘されたりする。笑い合い、いつの間にかとなりで寝息を立てている友人においていかれた不安感のため自分も寝ようとするが、いつになく目が冴えている。ぼくは、そのような過去の一日があったようなおぼろげな空想を楽しみ終えた。
「なんか、眠れない。さっきのコーヒーのせいかな。となりに入っていい」雪代はぼくの軽い布団をめくる。

「どうしたの?」そう言いながらもぼくは暗い室内のため彼女の顔色などは見てとることができなかった。
「わたしがひろし君の青春を味気ないものにしたみたいで、さっきのこと憤慨している」
「あれ以上のもの、ぼくは得られなかった。その当時の男の子なんて、雪代みたいな女性と付き合えた喜びしか感じていない生き物だよ」
「ならいいけど」
「ぼくが喜んだことも、憂いているときも話したいのは正直に雪代だけだった」
「そう、ありがとう。むかし、若いときはあの小さなアパートでこうして抱き合ったね」
「うん。何日かすると、雪代は東京にまた帰った」
「ベランダから見送ってくれたね」

「そうだった」ぼくらは追憶の映像に彩られた中で、間もなく眠ってしまったようだ。あれが、ぼくの10代の終わりと20代の前半だった。ぼくはその関係の永続性を信じながらも、いつの日か、別れが待ち受けていることを知らなかった。ぼくが今度は東京に転勤して、そこで裕紀と会うことなどもより困難な予想だった。でも、いまではみなすべて起きてしまった事柄なのだ。

 翌々日の夕方晩く、広美と瑠美が帰ってきた。玄関に置かれたスニーカーは汚れ、彼女たちはいくらか日焼けをしたようだった。

「どうだった? 楽しかった」雪代がたずねると、彼女たちは答えもせずにお互いの視線を合わせて笑った。それが何よりも正確な解答だった。「お腹、空いたでしょう? ご飯をいっぱい炊くって、なんだか幸せなことなのね」と言って、炊飯器のふたを開いた。湯気がのぼり、おいしそうな匂いが部屋に充満した。ぼくも空腹を感じる。それに似たものを感じるという方が正しいようだ。ぼくは先ずビールを飲みだす。

 彼女たちはテーブルで忙しなくご飯を食べた。それから風呂に入って、広美のパジャマをふたりで着てアイスを食べていた。ぼくと雪代はただ旅館がいっしょになったひとたちを見るように、横でふたりで話した。今日の洗いものは広美たちがした。彼女たちがそれも終え、部屋に引き上げるとやっと落ち着いた心地になった。

 その翌日、彼女たちが東京に戻ってしまうと、安堵というより、もっと深い淋しさのようなものを感じた。ぼくは大学に入ると直ぐに雪代と暮らした。自分の母も同じような心細さを感じていたかもしれないということを今頃になって知るのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(102)

2012年08月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(102)

 長い休みになって広美が帰ってきた。少し印象がかわっている。ひとりで暮らしたせいか責任感のようなものが芽生え、表情にも浮かんでいた。それは、もしかしたら買い被りかもしれない。だが、少し大人になっているのは誰が見ても事実だ。彼女はひとりではなく友人の瑠美をともなっていた。彼女とこちらに何日か泊まり、それから数日ふたりで旅行をするそうである。

 瑠美という女性は、ぼくの甥と結婚することになるのだ、とひとりの女性がある日ふと言った。ぼくにとっては唐突な言葉だった。その信頼性を認めることを受け入れるか拒むのかの判断には迷ったが、同じひとが裕紀は手紙をどこかに残しているとも言っていた。彼女は自分の兄に、ぼくに対しての許しを願ういわば嘆願書のようなものをかなりの数にのぼり出していた。その兄の気持ちは結果としてひるがえることはなかったが、彼の娘はその手紙から影響を受けた。それでぼくを探し、勇気をふりしぼって会いに来た。

 いつものふたりだけの食事が四人で囲むことになり、それだけで華やいだものになった。ぼくは、そのこと自体を喜びながらも、美緒という女性に会った後遺症をまだ引きずっていた。過去を塗り替えたい衝動との戦いということに近いのかもしれない。ぼくは今、テーブルにすわり紛れもない未来をつくっている。だが、裕紀は生きていて、兄もぼくとの不和への解消の許しを与える。ぼくらの間には親密な関係が修復され、いや、作り上げられ、小さな美緒という子どもの成長を毎年のように会って見守り確認するという行程がどこかにあったかもしれない。その空想を破れない衝動が内心にあった。だが、そのようなものは一切、どこにもない。ぼくはテーブルの前で話す広美と瑠美を見ている。これがぼくに与えられた現実だ。この現実のためにぼくは40と数年だけ生きてきていた。

 ぼくは持っている裕紀についての情報を廃らすことを恐れていた。だが、そのことについて話し合えるのは、彼女の叔母やゆり江とだけだった。そのことを新たに美緒にも伝えたいと思ったが、それは一方的な情報の伝達で、会話という分野からは程遠かった。ぼくは新たな裕紀の一面を、ぼくが知らない一面も同時に教わりたかったのだ。だが、彼女にそれを求めることは不可能であり、困難であり、かつ非常識でもあった。そういう意味では、彼女の記憶は薄れさせていくしか道はのこっていなかった。

「ひろし君、元気ないよね? こんな若い女性がふたりもいるのに」と、広美が言った。
「そうかな、いつもと同じだよ」とぼくは答える。
「そう。ちょっと友だちに会ってくるね」と広美は言い、ふたりは夕飯後、外にでかけた。瑠美という子ももともとはこちらに住んでいた。それから、東京に引越し、そこで広美と再会する。その空白の期間も連絡を取り合っていた。そのことをなつかしむ友人もまだまだこちらに残っているのだ。
「片付け、手伝って」と、雪代が言った。
「いいよ」ぼくは皿を取り、シンクに運んだ。彼女はスポンジに皿をつけ、横にいるぼくに手渡した。ぼくはそれを流水でそそぎ、乾かすために縦に並べた。

「わたしも、あの女の子の文章、読んだよ」
「そう」
「わたしもあんな風に誰かに慕われていたかな。同じ状況だったら」
「どっちが良いかなんて誰も分からないよ。慕われていないという意味じゃないよ。自分の娘がこうしていて、その友だちと普通にご飯を食べて、笑い合って。そのことの価値がどれほどあるか、自分じゃ分からないもんだよ」
「でも、ひろし君も幸せだよ」雪代は向く。
「そんなことは充分、分かってるよ」

「そうかな? 広美はときどき失礼なこともあるけど、きちんとひろし君に敬意をもっている。一方的に嫌うということもありえたのに。ずっと、わたしはそのことが再婚したときから不安だった」
「良くできた女の子だったよ。あの当時から」
「友だちの前でも恥ずかしがらないで、いっしょに友人のように振舞うしね」
「うん」
「何だか、今日、娘が戻ってきて、普通にこうしてご飯をたべて、それで、再婚して良かったなとしみじみ実感している。ひろし君はどうか分からないけど」

「ぼくをまともな世界に戻してくれたのは、雪代と広美だよ」
「でも、その前提として、まともじゃない世界に行く必要があった」
「あれは、勝手に連れて行かれたんだよ。自分の意志など抜きで」
「その経験がなかったら、わたしたちは必要じゃなかったの?」
「そんなことはないよ、絶対に」
「でも、ひろし君はたまに、その世界を懐かしんでいるように思える」

 それは図星だったのだろう。最後の皿をぼくはすすぐ。雪代は先に手を拭いた。それが済むとそのタオルをぼくに手渡した。ぼくも同じように手を拭いて乾かす。雪代は冷蔵庫を開け、飲み残しのワインの瓶を取り出した。グラスをふたつ取り、テーブルに戻った。彼女は二つに注ぎ、こちらを凝視した。

「ありがとう、あの子のこととかも。あの子、きちんと育った。ひとりじゃ多分できなかったから。いつか言おうと思っていたんだけど、何となくタイミングを逃してしまって。でも、きょうみたいな日に言うのがいちばんぴったりと来るのかもね。ありがとう」

 ぼくはひとつのグラスを受け取る。これが、ぼくの現在だった。美しさも醜さもすべて含み、すべてを除外した現実だった。ぼくは一瞬だけ過去に行くのを辞め、この甘美な現実を最高のものと思おうとしていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壊れゆくブレイン(101)

2012年08月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(101)

 ぼくは自宅で姪から借りた冊子を手に取った。パラパラとページをめくり、美緒の名前を探した。それは直ぐに見つかった。ぼくはソファのうえに身体を横たえ、行儀悪い読み方だなと思いながらも、その体勢こそがいまはいちばんしっくりしているようにも感じた。だが、ぼくは読み始めることをしなかった。起き直して、冷蔵庫の前まで行き、ビールを取り出し、ひと口飲んで、またさっきの姿勢にもどった。頭上にはきちんと印刷された文があり、横のテーブルには缶のビールがあった。だが、きれいな印刷された文字で読むより、ぼくは美緒の手書きの文字でも読みたかった。さまざまな難癖を見つけては、ぼくはその作業を先延ばしにしようとしていたのかもしれない。だが、それもついには終わり、ぼくは最初から読み出した。

「家族のアルバムを見ることは誰しもの楽しみかもしれません。わたしにとってもそうでした。両親は几帳面にわたしの成長の記録を残してくれました。赤ちゃんの髪が伸び、可愛らしいリボンがつけられます。自分のだけではなく、家族の分も見せてもらいました。すると、たまにしか会わない親戚のひとの顔も段々と覚えるようになりました。幼いわたしは両親にひとりひとりの名前をたずね、来年のお正月や夏休みに会ったときは、きちんと彼らの名前を呼んで挨拶しようとこころに誓いました。

 ひとりの女性がいます。そのひとは父の妹でした。わたしがそのひとのことを訊こうとすると、両親は困ったような様子を浮かべます。あとで分かることですが、彼女は若いときに病気で亡くなってしまったようです。わたしも何度か会ったそうですが、残念ながらそのときの記憶があまりありません。

 その女性の名前ももちろん覚えましたが挨拶することは当然できません。だけど、他のひとがその名前を口にするのが自然と耳に入ってきます。彼女の名前はわたしと結びつけるのに好都合のようでした。なぜならわたしたちの外見はとても似ているらしいのです。

 わたしも大きくなり、自分の写真も増えました。髪形もかわり、洋服も徐々に大人に近いものを着るようになります。そのような時期にふと古い写真を見ると、わたしは彼女に近い容貌をしていることに指摘されなくても気付きました。わたしはそれを恐れるようになります。彼女に似れば似るほど、わたしは彼女と同じような短い人生しか待っていないのではないかという恐れでした。ひとは何かを学ぶときにはお手本が必要になります。良い見本は、悪い模倣になることはなく、良い本質を受け継ぐようになると思います。わたしの叔母のことを誰しもが誉めました。そのころの自分は反対にいたずらばかりを繰り返す子どもでした。だから、その女性の前例を見習う自分は、彼女の辛いところだけを引き継ぎ、若くして病気になるのだ、という幼いこころを不安に陥れるほどの心配に囚われていきました。

 ある日、わたしはそのことを母に告げます。あなたは、あなたというひとつの存在なのだから、全部、誰かと同じ人生を歩むことはないとはっきりと言ってくれました。また手足の長さがそれぞれひとりひとり違うように、同じことはしたくてもかえってできないものだとも説明してくれました。そういう視点で写真を見ると、わたしと叔母の差異も目につくようになります。唇の形も違いますし、目のまわりの表情も異なっています。しかし、それはパーツの問題であって、全体から受ける印象は相変わらず似ていたままでした。

 わたしはさらに成長をつづけます。叔母の変化はこれ以上、アルバムに加わることはないのです。わたしは考え方自体を転換させようと思いました。彼女は幸せな結婚をしたとも聞きました。若いときに両親を亡くす不幸もありましたが、わたしの両親は元気でいろいろなことを応援してくれています。留学したことが生かされ英語にも堪能で、東京できちんと働いていたようです。わたしは悪い前例をすべて忘れてしまい、彼女の良い模範となるべく長所を見つけようと決心しました。同じように英語を学び、同じように仕事でも誇りをもって頑張るのだ。でも、なるべくなら、彼女みたいなひとから英語を教わりたかったな、と弱気になることもあります。それで、これからもいまはいないのですが、彼女の良かったところをほかのひとにも訊きまわり、良い前例の確かな証拠を収集したいです。それで、いつかわたしに似ていると言われるかもしれない女の子たちの見本になれるような女性に自分もなりたいと思います。」

 ぼくは一度読み、さらにビールを飲み、また二度読んだ。

 しばらくひとりで天井を見上げていた。裕紀の美点をぼくは知っている。それを知らずに終わる人々が世界のほとんどなのだということも大人の理性で知っている。だが、それを真摯に知りたいという気持ちをもっている少女がいたことにも驚いている。ぼくの姪もそういう気持ちをもっていた。その若いふたりは自分の未来を恐れていた。だが、恐れる必要などまったくないのだとぼくは言ってあげたい。でも、それは言葉として期待に応えられるほど伝わってくれないのかもしれない。自分でただ勝ち取るしか方法はないのだろう。ぼくが、あの裕紀を失ったばかりの日々から抜け出せたように。

「前例を恐れない」という題名だった。ぼくはその冊子を閉じ、自分の部屋の机に置く。ぼくは美緒という女性が大人になったときのことを考える。いつか恋をする。信頼の置けない自分みたいなひとに会わないことを願う。病気などしない健康な身体をもっていることも望んだ。しかし、そこまでだった。裕紀の未来が停まったように、美緒という女性が白髪になったり、腰を曲げて歩くということは想像できない。実際、そうなるにはあまりにも未来は長過ぎた。また反対にあまりにも人生は早過ぎ、疾走する馬を捕まえられないような不安感もぼくに与えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流求と覚醒の街角(3)駅

2012年08月20日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(3)駅

 ぼくは駅にいる。

 毎日、大勢のひとびとを目的地に連れて行くべき起点となり、帰るべき家への経由地となる駅。ぼくは会社の仲間が京都駅と品川駅が似ていると言ったことを思い出している。駅という目的柄、同じような形状や構造が求められるのではないかと、単純に、ぼくはその発言の趣旨を捉えていた。ぼくは待ち合わせのために、そこにいる。不特定多数のひとがそこを通り、ぼくはそのうちのひとりと約束がある。そのこと自体を奇跡と認識する。奇跡を起こすために、もう数十分だけ先延ばしにするだけの余裕が必要となる。

 駅にいる。ぼくは過去に大好きになった女性がいた。そのひと以上にぼくは誰かを愛せないと決めていた。オルセーという名前の美術館にいっしょにいる。そこは、もともとは駅舎だったらしい。電車は大勢のひとびとを運ぶ。用途のために車両は延びる必要があり、その耐用に間に合わない施設がある。オルセーも同じような運命に遭う。結果として美術館として再利用され、再利用のほうにぼくらはより親しみを感じる。

 その女性が、「男と女」というフランス映画を教えてくれた。駅にいる女性。レースをする男性が車で戸惑いながらもそこに駆けつける。ダバ・ダバ・ダ。ぼくは、ひとり誰にも聞こえないようにメロディーを口ずさむ。お互いが傷を抱えながらも新たな生活と喜びを模索する映画だった。初恋など結局はひとつの通過駅に過ぎないのだとあらかじめ示されたのだ。ぼくとその最初の女性にとっても。

 ソフィア・ローレンは列車で、いなくなった夫を求めてさすらう。ひまわり畑。ヘンリー・マンシーニの美しすぎる音楽。彼女は映画をよく観た。ぼくは、彼女の部屋で古い映画のコレクションをいっしょに楽しむ。

 「さよなら子供たち」という映画もそこにある。列車はどこからかひとを運び、どこかへひとを連れ去ってしまう。行く先がもう戻れない場所だってあったのだ、過去には。ある人種には。

 電車が何台か停まり、その度にひとびとを改札口から吐き出す。また一段落すると、同じように一群のひとびとを送り出す。家が待っており、家族がいる。ひとり暮らしのひとは、自分のしたかった趣味のために、我が家へ戻る。その通過点としての駅。

 ぼくは志賀直哉という小説家が残したものの中で、駅で主人公に女性を蹴らせるという場面があったことを思い出している。それを、あんまりだと思いながらもリアルに感じていた過去のことを、不思議といまよみがえらせていた。電車に乗ろうとしながら、それを拒否する主人公。なぜ、それをいま思い出す必要があったのだろう。ぼくはただ来ない女性を待っているだけなのに。

 駅の時計はどこよりも正確だ。それは何人ものひとの動きに関係する。会社に遅れればあるひとの効率が奪われ、待ち合わせに遅れれば信用にも関わる。しかし、奈美はまだ来ない。

 ぼくは「天国と地獄」という黒澤映画まで思い出している。走り行く列車の窓の隙間からその用途のために加工された薄いカバンを誘拐犯に渡す身代金をつめこみ投げ落とす。列車は走りつつ、その行方を追わない。緊迫した白黒の場面。ひとを運ぶためのものが、そのカバンがある地点から動かないということのために使われる。次に移動するのは拾ったものが足でそのカバンを安全なところに運び去るためだ。

 ぼくは待っている。何度かひとの群れを眺めた。
「ごめん、待った?」奈美があらわれる。それを待ち望んでいたのだということを忘れている。ぼくは自分の過去に知った風景や記憶をさぐることを目的としはじめていた。
「ちょっとだけね」
「今日、給料日だったんで、お金をおろすため銀行に寄ったら、長蛇の列ができていた。でも、長蛇の列ってなに?」
「順番待ちの列かな」ぼくはひとの列が曲りくねっていることを思い浮かべる。
「ごめん、なにかおごるね」

 ぼくらは駅の中を去る。だいたいだが必ず階段があり、そこをエスカレーターで降りる。飲食店がある。携帯ショップがある。洋服屋や花屋もあった。ぼくらはひとつの飲食店に入るのだろう。昼からもう6時間ほど経っている。ぼくは腕時計を見ると、それは7時28分を告げていた。

「駅について考えていたんだ」ぼくはエスカレーターを降りた地点で、横に並びなおした奈美に言った。
「時刻表とか切符の値段とか? ダイヤ改正?」
「堅苦しい響きだな。違うよ。駅を舞台にした映画とか本の話題として。何かある?」
「お母さんに連れて行ってもらった、大好きな俳優さんのモンゴメリー・クリフトの駅で別れる話。多分、母もそういう経験があるのかもしれないのね。随分と感情移入してたもん。となりで大人しく観ていた子どもの自分が気付くぐらいだから」
「ローマのテルミニ駅。終着駅。ヴィットリオ・デ・シーカ監督。なんだ、ひまわりもか」
「え、あれも、そうなの?」
「そうすると駅が好きなのかな」

 ぼくらは終着駅にたどりつく。象徴的に。でも、それはもちろん始発駅であることを同時に意味する。ひとつの恋が終わった。ぼくは、それを終着だと決め付けていた。どこにも動けない自分がいる。だが、あらたに列車は動き出す。それが連れて行く場所は分からないながらも、乗り込んでしまった以上、道中を楽しみ、窓外の景色を堪能しようとしていた。奈美はぼくの腕にからみつく。
「ここの、お店どう?」と彼女が訊く。ひまわりのような笑顔。象徴的に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする