爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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最後の火花 2

2014年11月30日 | 最後の火花
最後の火花 2

 ぼくの彼女は浮気を辞めたくないらしかった。ぼくが彼女に示せる愛情は、誰かの病気ですら無言で受容することも含まれることになる。なぜか、ぼくは結論を先延ばしにしている。別れるということはとても簡単であり、それゆえにかなり困難なことでもあった。ぼくは母と山形さんとの関係を踏襲しようとしている。押し退けても意識の奥深くで望んでいるのだった。

 もし科学者ならばサンプルの採取の方法や場所を、複数にすることを検討するだろう。ぼくは敢えてひとつに限定してしまう。それが幸福の見本であるからでもなく、川の底に沈んでいるもの、取り除けない沈殿した物質のようにぼくの最深部に潜むのだ。

 宗教を衣替えのように簡単に変えられない民族。ぼくが光子に対して抱いている感情はそれほどの高みを有していないが、似たようなものであることも否定できない。裏切られても信じる。裏切られるからこそ信じる。手っ取り早い変化など決してないのだ。救済の手立ても自ら断ち切る。

 だが、関係など常に問題ばかりが起こっているはずもない。最初もいまも好き同士であることには間違いない。ただ、ちょっとだけ光子は愛情に溢れているのだ。抑え込めない欲望があるのだ。ぼくらは旅先にいる。大きなダムを見ていた。山形さんは水の循環を教えてくれた。それこそが地球だと。人間はもっと複雑にする。水を堰き止め、飲料用や、工業用に水を貯め込んだ。そして、吐き出す。ぼくは下を見ながら、台風や洪水を封じ込めない世界のことも考えている。ぼくは原理も分からない。たくさんのパワーが集約され、溢れた力は破壊をもたらす。破壊と感じるのは、このぼくの側からの勝手な感覚で、たまにはどこかを均す力が働くこともあるのだろう。

 水しぶきが光子の頬にあたる。ぼくらは何度か別れた時期がある。しかし、いまはこうしている。永続を信じているが、生きているのは今という突端だけである。オゾンやアルファ波など意味も分からないまま、音の響きだけで声に出してみる。ひとは快楽に導く物質を出すらしい。快楽を追い駆けることで人生は成り立っていないが、たまにアクセントのように割り込ませることは可能だ。もちろん、反対の悲劇も音符と音符の間に挟まった。

 ぼくらは旅館に戻る。彼女は温泉に行っている。ぼくは部屋のなかで川のせせらぎを聞いていた。水は循環する。ひとの記憶も行ったり来たりした。ぼくは自分の肩幅が山形さんより劣っていないことをある日に知った。暗くなりかけている窓の外の反射により、ガラスは鮮明さのない鏡となってその姿を写した。

 没個性のはずの浴衣が、光子が袖を通した結果、女性であることを無言で濃厚に主張した。風呂上りの匂いがそれに加わる。一片の布が立体になる。地球というものの設計図をぼくは頭に浮かべた。平面にどれほど詳細に書いても、いまのような形にはならないだろう。そこには象がいて、クジラもいる。無数にひとびともいる。大量に殺される運命の一団があった。ぼくも人類の一員ならば加害者の芽を有しているのだ。ぼくがアウシュビッツを管理して、エノラ・ゲイのどこかにあるひとつのスイッチを押した。押す形式か未確認だが。

 極端な思考に傾く自分を光子の身体が和らげる。脳は溶ける。ぼくに快楽の芽があるならば、彼女にもあった。ぼくは自分の運動を山形さんに照らし合わせる。これは彼の行為なのだ。人類の一部である自分は、おおよそ山形さんに類似する。

 ぼくらはそれぞれの布団に戻る。ふたつのセットは密着していたのだが。お互いの匂いが混ざり合っていることを認識する。ぼくは、はだけた浴衣を着て、温泉に再度、向かった。まだ入っているひとがいた。旅館の従業員のようにも思える。ぼくはゆっくりと浸かり、日頃の疲れを癒そうとした。ぼくは山形さんの年齢を越えてしまうのかもしれないと考えていたが、実際のところ、彼の年を知らなかった。母は二十代の半ばだったから、年齢的にいまのぼくぐらいだったのだろう。

 ぼくには闇がある。同時に光もある。光の子という名前の女性と交際している。

 とうとうぼくひとりになった。湯はなめらかで、さっきより温度は下がっているようだ。ずっと入っていられそうな気分だった。湯と一体化する。水は人間の味方であり、勢いが強ければ拷問になり、量が多ければ洪水になってしまう。その恐れがある。ぼくという物体は絶対に狂気に、ときには凶器にならないと言い切れるのだろうか。恋人を愛しすぎた結果、その方向と出口が危うくなる可能性は皆無なのだろうか。

 ぼくは立ち上がる。ひざまでしか湯はなかった。湯ぶねを出て、身体をぬぐう。ぼくの身体から光子の匂いが消える。消えたのは匂いだけだった。存在がまったく消えることなどない。ぼくは山形さんの残像を育てている。彼のことばをある時期まで信じていた。物語を伝えた声の調子を信じている。あの声をなつかしんでいる。あのさっきまでいた湯にも溶け込んでいる。

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最後の火花 1

2014年11月29日 | 最後の火花
最後の火花 1

 彼は、名前は山形さんであったと思うが、しばしば長い話をしてくれた。その話と彼の魅力ある映像がごっちゃになって植え付けられてしまっている。その分離は、いまさらコーヒーとミルクを分けられないぐらいに難しいものになっている。

「うどん粉を捏ねるように、山がつくられて、固い棒で筋をうまく引っ掻き溝にして、水を山の方から流した。じょうろのようなもので。いつまでもそんなことをつづけていたら、海がいっぱいになってしまうので、ときおり、洗面器のようなものですくいとって、またそれを山から流す。これが地球だ」

 ぼくは山形さんのひざの上にいる。彼は何日か前から母と暮らしていた。当然、ぼくともということだ。

 ふたりはどこで会ったのだろう。出会いというのに意味を見つけられるほど、ぼくは成長していない。いるものはいて、いなくなったものは見えなくなるだけで、深い意味を必要としていない。

「地球って、どこにあるの?」
「ここだよ」山形さんはぼくが乗っているあぐらのひざを畳の床に音をたてるように叩き付けた。
「ここ?」
「そう。自分の居場所。人間の唯一の棲み家。家賃を払えば、何十年かいられるところ」

 ぼくは彼のひざの上から降りる。母は料理をしている。鼻歌も聞こえる。機嫌がいいのだろう。ぼくは、縁側から下をのぞき、棒を拾ってぬかるんだ地面を掘ろうとしたが、力が弱く棒は手から離れてしまった。振り返って山形さんに助けを求めようとしたが、彼はもういなかった。その代わりに、母と彼の会話が台所の方で小さく聞こえた。ぼくは石の台の上にあるサンダルを履き、棒をひろって壁に投げつけた。すると、となりの犬の鳴き声がした。怒りより、過分に甘えが混ざった声だった。ぼくは壁をよじのぼり、犬小屋と鎖を見てから犬の名前を呼んだ。

 部屋にもどって、手を洗ってから夕飯を食べはじめる。まだ、夜には遠い時間だった。太陽は名残りの領域でもなかった。山形さんのランニングのシャツは肉体を酷使して働いてきた姿を微塵も隠していなかった。充溢する力強さは大人と子どもの溝をいかんなく発揮する。それは茶碗を空にするスピードとも匹敵する。ぼくは直ぐに満杯になって座布団の上に横になった。そのまま寝てしまうこともあるが、山形さんが来てからは軽々とぼくは自分の布団に運ばれるらしい。

 目が覚めると、誰かが風呂に入っている音がする。ひとりの音だけのこともあるし、複数の声が聞こえてくることもある。ぼくは固く目をつぶり、直ぐに夢のなかに戻ろうとするが、そんな努力をしなくてもあっさりとその状態はやってきた。次の記憶は、もう朝になっている。

 山形さんは近所の工場で雇われた。本当をいえば、うちに来たのが先かどちらかは分からない。正装もネクタイも必要ない。普段とあまり変わらない格好で家をでた。朝よりいくらか汗臭くなった身体を外の水道で流していた。見慣れない人間を拒む犬はそのうちに手なずけられていった。犬もホースの水を浴びてうれしそうにした。ぼくら家族も同じだったのだろう。

「地球には酸素があって、みどりがあった」
「酸素って?」
「この空気だよ」山形さんは手を広げる。ぼくは彼の声を後ろの首元で感じていたが、質問がある際は振り返ることも多かった。
「もし、なかったら?」

「想像つかないけど、大事なものだから、なければ、みんな死んじゃうよ」彼は自分の手で首をしめるマネをした。ぼくは、空気がなくなってしまったように息苦しい感じがした。だが、お盆をたずさえた母が山形さんの振る舞いをたしなめた。ぼくらはテーブルを囲み、ご飯の時間を楽しんだ。母は化粧をしている。夕方にどこかに出かけた姿のままだった。いつもより華やかで輝いていた。ぼくは、その当時の母の年齢のことを考えることもない。いるものはいて、あるものはある。ただ、その状況を信じるしかなかったのだ。想像も、架空も、今後も未来もない。日々、手に触れるものだけが暮らしだった。生活の全部だった。

 ぼくはひとりで風呂に入る。仕事のないぼくの順番が常に先だった。そして、布団にもぐり込む。蚊の音を気にする間もなく、ぼくは寝てしまう。竹林を通る風の音がした。これも夢の一部であろうと明確なものがひとつもない状態をもてあそんでいる。目も寝ている。耳も寝ている。頭も寝ている。同時にやってきて、同時に意識が戻ってくる。そう思っているのは子どもの自分かもしれない。どこか、一部は一瞬だけずれて寝ることも起こり得る。ぼくの耳は眠りに誘われない。迷子になってみんなを探している。母の泣き声のような、むせび泣きとでも表現したいような音が聞こえる。となりの部屋に母はいる。ぼくはその部屋に意識が向かいながら、躊躇させるなにかもあった。そのなにかにぴったりと当てはまる言葉が思い浮かばない。明日、山形さんに訊こうと思う。彼は物知りなのだ。力もあるのだ。いろいろな経験をしてきたのだ。小さな弱い子とは比べられないほどに強い大人の男だった。

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雑貨生活(13)

2014年11月27日 | 雑貨生活
雑貨生活(13)

 そして、書き終わった物語をみつめている。

 書き終わっただけで、自分以外の目に留まるわけでもない。ショートがゴロを捕った時点で試合は終了なのだろうか。それは、違う。ファーストに投げて、審判がアウトを宣告してはじめて終わりになる。その役目は読むひとなのだろうか。

 ひとの目に留まらない。それを不幸でもあり、幸福に浸かる逆の意味の温床でもあると考える。賢さのアピールは批判精神やけなしと同義語の世界なのだ。

 ナット・キング・コールがカラオケ・コンテストの賞金荒らしであると想像する。もう、ぼくは暇になったのだ。思考は自由であることをしつけの悪い子どものように望んでいた。

「普段は、なにを?」と、いささかうんざりしている司会者に質問される。あんた、アマチュアとしては能力があり過ぎると、冷たい気持ちになっている。アマチュアは応援されてこそ、アマチュアだった。軽蔑されるぐらい達者で強いのは問答無用でプロである。

「小さな工場を営んでおります」
「プロになる気は?」
「ところで、プロって、なんでしょう?」

「単純に、君がいてくれたこと。君がしてくれたこと。ただ、それだけを感謝される人々ではないでしょうか」司会者は感謝されないで、いつも仕事を終えていた。不満だったのである。耳をくすぐる言葉を、誰もが必要としている。

 産み落とした卵を掘り返す。ウミガメも泣いてばかりはいられない。恍惚も忘れ、我に返って誤字脱字を確認する。ひとは間違いに気付かない。余程、注意しても見落としてしまう。実践を実戦にしていた。ぼくは、あるときにはソルジャーだった。ネクタイのしわが現状に復旧する。パラドックスである。あるときは、タイム・マシンの発明家になっていた。もとの状態。原状。気付いたのは一部であろう。秋のキノコといっしょである。枯れ木をめくれば、裏にごっそりとあるのだろう。

 だが、情熱も大事だった。アドレナリンの放出のない芸術作品を誰がのぞむのだろう。ゲルニカ。平和で冷静な世界をあらわすゲルニカ。ユートピアとしてのゲルニカ。いや、草上の昼食。

 ぼくは昼ご飯を準備する。冷えたビールの缶を開け、祝杯をあげてしまう。とうとうサグラダ・ファミリアは完成したのだ。いつ、これ以上の歓喜の瞬間があるのだろうか。ぼくはツナの缶も開け、マヨネーズでまぜてサンドイッチにした。簡素なパーティー。

 冷蔵庫をさらに物色するとピクルスがあった。西洋漬け物。寝かすと好転するものもある。新鮮さが第一のものもある。できたてほやほや。

 しかし、発注者もいない。これで面接の準備ができる。ウミガメは海にもどるのだ。成長しようが、我が子が野垂れ死にしようが亀に責任はない。あとは宇宙と地球のバランスだけだった。最後の空想にもどる。オスカー・ピーターソンがコンテストで特技を披露する。

「普段はなにを?」
「タイピストです」
「大柄ですね?」
「指先は器用です」

 人生は出会いで構成されている。受け入れるのも排除するのも自由であり、性分が大きく未来を左右する。特技と情熱のミックスがプロへと誘導する。入口には力ある応援者がいるべきだ。ぼくには残念ながらいなかった。これも事実ではない。特技にも劣り、情熱を最優先させる環境もなかった。言い訳ばかりしている。勝手に妊娠したウミガメはどこかの海岸で卵を産んだ。身ごもった身体を心配して席をゆずる優しき勇敢なひとも見つけられなかった。そう考えながらビールをもう一缶開けた。

 ぼくは部屋に戻り、ドラマの最終回を見ている。彼女の船出。幸先が良かった。拍手で迎えいれられた。

 主人公は結局、若い女性を選んで長年、連れ添った酸いも甘いも知る彼女のもとを去る。うれしさもなく、新しいアパートで若い女性が買い物に出かけている間に、ベランダから暮れゆく夕日を見て、ひとりで泣いている。彼女は「道」というイタリアの古い映画が好きだった。悲しみの言い伝えとしての表し方とは別に、本質では男女が入れ替わったかのようなエンディングだった。男だけが悲しみの底を見る。途中で女性たちは飽きる。ぼくは、その古い映画の良さが分からなかったが、いま、このドラマとして生き返ってみると、神々しいようなすがすがしいような感じがした。

 ぼくは同じようにベランダに立つ。夕焼けにはまだ早い時間だった。カラスも泣かない。早朝の小鳥たちもいない。町がもたらす音がする。快適でもなければ、騒音でもないいつものノイズだった。すると、玄関のチャイムが鳴る。

 郵便配達員がそこにいる。制服と馴れた口調が、その職業の従事者であることを証明する。誇りのようなものもあった。ぼくは印鑑を探し、小さな枠に押す。受取人は彼女の名前だった。適度な重さであることしかぼくには分からない。昨日もぼくらの永続する関係のことを話し合ったばかりだった。ぼくは生活費を工面することを、もっとも貴いことだと思おうとした。その前に、遺作が生まれた。

 証明する。証明する。

 ぼくの最初にして前人未到の最高傑作を読んでもらうしかない。ぼくは生きていたのだ。

 それは、次回からお目にかけることができる。

 と格好ばかりつけたが、ビールの在庫の帳尻が一致するように、スーパーで同じ銘柄を買うことを、この迷走した文の終わりとして書き足す。蛇の足。象の鼻輪。キリンのネックレス。このぼくのライフ。

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雑貨生活(12)

2014年11月26日 | 雑貨生活
雑貨生活(12)

 結末をどうしようかと苦慮している。

 車輪はあるのだ。いささか錆びているようで軋んだ音を出す。でも、無理に力づくでここまで連れてきた。完成が近付く。ダムを造っても水は張っていない。それほど大きくない。ならば、これは樽なのか。真水はせっせと注ぎ込んだ。さらに成功に近付ける化学反応、発酵させる物質はどこに売っているのだろう。

 自分というチューブを使い切りたい。しぼり切りたい。しかし、結末のことで苦労しても、最初から読まないのが大多数なのだ。世界の六十億人以上が。最後までたどり着かない頂上を、ぼくは無意味に目指している。自己満足以外にこの状態を的確にあらわす表現があるのだろうか。

 だが、チューブをしぼっている。その作業が好きだとしか言いようがない。

 彼女のドラマの評判があがっている。徐々に、という緩やかなアゲンストで。いや、逆らっているのは無意識のぼくなのだ。ひとの成功がねたましい。これもウソだ。ぼくが家事が得意になればいいのだ。丸くおさまる。安定した生活。三食昼寝付き。いや、表現者のはしくれであることも堪能する。

 ハッピー・エンド。悲劇。メイク・ドラマ。

 ドラマを数回、見逃しても途中から盛り上がることは可能なのだ。すると、結論がより重要になる。だが、ぼくは子どものころに好きだった番組の最後をどれほど覚えているだろう。なにが、印象にのこらす核なのだろうか。パトラッシュは眠る。ぼくも一旦、眠ることにする。

 昼寝から目覚めても解決策がその間に勝手にできあがっているわけもなかった。数時間、人生を無駄にしただけである。では、無駄ではない人生などどこにあるのだろう。ぼくはひとりで頭脳明晰にならないまま質疑応答をしている。ぼくは知り得る範囲の四文字熟語を考えることになってしまう。

 寝起きの脳はうまく働いてくれない。お買い物がてら、外を歩く。看板を目にする。水回りのトラブル。つまり。そして屋号。ぼくは、つまり、というのを「イット・ミーンズ」と口に出している。要するに。ぼくは結論に拘泥していた。配管にものが詰まっている状態のことなのだ。つまる。

「あ、靴下」とも、言っている。道路に落ちているのは手袋だった。靴下が落ちる可能性は靴がある以上、少ない。ぼくの脳は結論ではなく、退化に向かっている。ちがう。これぐらいの間違いは誰しもがする。

 漠然とした色や形状でひとは判断を下している。カボチャやトマトは律義だった。青い魚は切り身になって正体をごまかした。細い野菜も、大幅な区別を不鮮明にする。アスパラ。いんげん。ぼくの脳は数パーセントも使っていない。

 袋につめ、マーケットを後にする。メルカート。マルカーノ。そんなことを考えながらぼくは大判焼きを店の前の屋台で買う。たい焼きでもなく、人形焼でもない。ましてや、タコ焼きでもない。中味の好みで選んだ。ひとの中味など見抜けない自分なのに。ぼくは、マルカーノのなにを知っているのだろう。

 では、シピンは? ジョンソンは? マニエルは?

 ひとりはメッツの監督になった。たしか優勝もしたはずだ。ひとりはデッド・ボールを受けて、特注のヘルメットをしていた。知っているのは、それぐらいだ。ひとは、ひとのことを上澄みでしか理解していない。

 友情を深めるということも、全員が会社員になってしまえばその余裕もない。たまに会って酒を飲む。あとは冠婚葬祭というイベントとでしか会わなくなる。変化なども知らず、再婚相手のことも知らない。ぼくの好奇心はどこに捌け口があるのだろうか。

 小学生のランドセルを追うように自分も家に向かっている。好奇心の強そうな娘が家にいたら、どれほどぼくの仕事の幅も増えるだろうと責任転嫁のような他力本願のようなことをぼんやりと考えている。また、四文字熟語の魔力に憑りつかれている。

 冷蔵庫に居場所があるものはそこに押し込め、日用品は棚や引き出しにしまった。ぼくは結末に向かおうと挑んでいる。最終コーナーのようなものにいる自分を発見する。後ろを振り向く。出来もよく分からない。だが、走ってしまった。今更、抹消することも抹殺することもできない。彼は彼で、どんな親であろうと成長したいのだ。

 疲れて彼女が帰ってくる。サバの味噌煮を彼女がつくる。好奇心の強かった少女かもしれない、彼女も。彼女の父はその生活が楽しかったんだろうなと想像できる。ぼくが別の世界にいる。どこかで合流する。マルカーノみたいに彼女がいるチームに加わる。世界の反対なのだ。ルールも違うのだ。馴染むのには時間がかかる。共通点は、サバの味噌煮ぐらいだった。共通であることには差異が少ないということを立証しなければならない。サバの味噌煮のアレンジなどいらない。これであればいい。ぼくは満足感とともに箸をすすめる。結末には骨がのこる。つまりは背骨として貫く主題をそもそも見失っているのだった。原則としてのサバの味噌煮。要するに、いや、裏返してもサバ。サバの一味。サバの友情。集団行動は廃され、孤独になって皿にのってしまった。

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雑貨生活(11)

2014年11月23日 | 雑貨生活
雑貨生活(11)

 書き初めというものを思い出している。手の外側が汚れる。あの姿が頑張りだった。

 同時に筆という文字がつかわれる最初の経験も思い出している。筆には是認も抵抗もできない。ただ名称を受け入れる。自分の名前もそうだった。抗議はできないのだ。

 同じ顔がないように、自分の名前も同じ字画のひととは会わなかった。「ジョン・スミス」という名前があるらしい。「山田太郎」のような不特定で匿名性を与えるものとして。例題。太郎と花子は買い物をして、のこりのお釣りと買ったもののりんごとみかんの数を調査される。

 はじめるのもむずかしく、途中からの再開もなかなか困難だった。ぼくの頭は寄り道を理由づけられている。フェリーニならその過程を映画にできるのだろうが、物語という根幹を離れられない自分には受け入れられない内容だった。斬新さをおそれている。

 つづきが思い浮かばない。ひとは困ると空中をぼんやりと眺める。視線がただよっている。見たい対象もない。取り敢えず意味もなく冷蔵庫を開ける。CDが終わってしまったので盤を変える。音符の数と、文字の数と、その組み合わせを考えてみる。考えて、もし、答えが出たとしても、さらにつづきが生まれるわけでもない。タバコでも吸えるひとは、ここで一服という瞬間だろうか。すると、電話が鳴った。ぼくはそこにあるのを忘れていた。リモコンで音楽の音量を落とし、受話器を取った。

 間違い電話だった。また音量を上げる。劇的な変化など世の中には一切ないようにも思えてきた。

 にわとりならば、じっと座っているだけで卵が産まれるような気もする。卵というぼくの作品を数種類の料理として誰かが加工してくれる。

 家のチャイムが鳴る。新聞の勧誘だった。サービスの条件を提示する。集中できないことを言い訳にする環境をみなが作り上げているようだった。机に向かう。また、空中を飛翔する我が目であった。ドリブルが下手なサッカー選手。潔癖症なラグビー選手。スクラムもできない。シャイな関取。一枚、覆うものを常に欲しがる。文字を操れない自分。すすめたい。一ヤードでも遠くに。

 紫外線をおそれるゴルファー。対人恐怖症のテニス選手。手のふるえが止まらない画家。仕事は我慢の連続なのだ。

 夕方になり、夜になる。豆腐屋の到来を告げる音がして、学校のチャイムも終わる。こういう無為な一日もあるのだろう。彼女がやがて帰ってくる。ぼくは風呂場を掃除する。毛というのは、いったん身体から離れると気味の悪い代物だった。

 彼女が帰ってきた。料理をはじめる。手際がいい。ふたりでだらしない格好で寝そべり、ドラマのつづきを見る。

 主人公は意外なことに若い活発そうな女性に惚れられて、誘われるままに外で会っている。何をしていたか問われてウソの捻出が苦手であることを暴かれる。あたふたして、追求されるまま白状してしまう。

「これも、やばいね」ぼくだと思っているひとが複数いるのだ。
「なにが?」
「みな作り物を、作り物と思わないひともいるからね」
「あなた、あんなことしないじゃない。してるの?」
「まさか」

 ぼくは契約というものを大事にする性質なのだ。自由契約になってから次を求める。次のトレード先を事前調査して確約してから、前の契約にケリをつけるひともいる。いろいろだ。

「どうだった?」
「楽しいね。これなら反響もいいんだろうな」
「そうみたいだね」

 評判がよければうれしいものだ。褒め言葉がひとを動かす原動力として有効な働きをする。貶されてよろこぶひとも稀にいる。負をエネルギーに変換させるときこそ力を発揮するひと。いろいろだ。

 ぼくはグラスやコーヒー茶碗を洗う。彼女は手に入念にクリームを塗っていた。眉も心細げだ。一日を終えるときにいっしょにいるひと。ぼくは一日、ウソをつかなかった。

 電気を消す。ぼくの周辺にインスピレーションの泉があるようにも思う。それは彼女のものかもしれない。

 ぼくは大工のような職業をイメージする。道具も揃っている。どれも、使い慣れたものだ。木材もあり、釘も瓦も用意されている。準備は整い、あとは作業手順通りに動けばいいのだ。創造性も感じられる。達成感もある。高揚も味方になり、ひとに使われるうっとうしさもない。ぼくは眠ろうとしていた。となりの女性はすでに入口から出口に向かう数時間のうちにいるようだった。トンネルの中。明日も生きているという確証もないのに、みなが簡単に眠った。

 あっという間に翌朝になっている。夢も見なかった。彼女は仕度をしている。目の周りも手がかかっている。ぼくは急に思い立って、キッチン・タイマーを三分にセットして歯をみがきはじめた。歯のみがきかたを完成させなければならない。しかし一度、達成したら終わりというものでもない。毎日、毎日、一日数回、くり返すものなのだ。アラームがなる。口をすすぐ。ひとが不快にならないようマナーにも気を付ける。だが、今日も誰かと会う約束はない。鉛筆でも削ってこころの準備をしたいが、その作業もいらない。中空を見る。ヒントが欲しい。若い子に誘われる運命を考える。完全なアリバイを検討する。ウソには、均衡をはからすためか、いつもと違う要素がまぎれこんでしまうのだろう。挙動によってばれてしまう。ばれて困らないこともあるだろうが、多くはのちのち損害を、代償を払うはめになるのだ。

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雑貨生活(10)

2014年11月22日 | 雑貨生活
雑貨生活(10)

 ぼくはグッド・バイという離縁を目的とする物語を読んでいる。

 大食漢(副産物の長所か短所)の美女を見つけ、金銭や食事と引き換えにその女性を連れまわして無言で愛人たちと縁を切る。いや、ひとことだけ口にする。「グッド・バイ」と。それなりのお金を包んで。それほどまでの圧倒的な美女なのだ。写真や映像というものではないので、どのようにでも書ける。ぼくは、笑っている。休日の彼女は次回作で頭を悩ませていた。だから、イライラを正当化させる。

 ぼくは買い物を頼まれる。外は晴れていた。家に閉じ困っているのがもったいない陽気である。だが、ただなんとなく外に居つづけるのもむずかしい。用が終われば帰る。ずっと帰りたくないと駄々をこねる少年たちがむかしにはいた。本当のホームレスになりたいわけでもない。先延ばしをのぞんでいるのだ。

 先延ばしは決着ではない。解決はここを区切りにするという意志なのだ。表明なのだ。

 近所の公園で休憩をする。のどかであるという善を全身で感じる。年金をもらうには賭け金がいる。そういう立場にいる自分を予想する。医者や弁護士という高給取りをイメージする。教育に元手をかけ、何年後かに回収する。具体的なイメージを教えてくれない、またはつかんでいない両親のもとで暮らした。恨みもないが、ただ空室の部屋のようなものを漠然と与えてくれたことだけに感謝している。そこに荷物を放り込むのは自分だった。その荷物の部品を組み合わせ、なにかを作ろうとしている。失敗もしていないが、成功もしていない。

 忘れられたボールが、向かいのベンチの下に挟まっていた。球体はどこにでも転がる。自分もそうなりたいと思っていたが、あのボールのようにいくつかのこだわりのためか、さまざまな場所で引っ掛かっていた。すると、球体であるより立方体であることを望んでいるようだった。スムーズさに欠け、角がある。

 ゆっくりと歩いてもいずれ家に着く。彼女の仕事ははかどっているだろうか。もともと、集中力のあるタイプなのだ。女性と集中力は反語であるような気もする。

「遅かったのね?」
「暖かいから、ちょっとぼんやりとしていた。太陽、気持ちいいよ」

「あとで行く」遅くても、反対に早くても言葉が出てくる口。そうしながらも手は動いている。ぼくは袋から品物を取り出し、冷蔵庫にいれる。
「あ、忘れた」
「何を? うっかりさん」

 ぼくは返事をせずに、もう一度、スーパーに向かった。失敗を揉み消すのだ。棚からチーズを探す。彼女が最近、気に入っているもの。意外と高いものだった。いままでは値段も知らずにぼくも食べていた。彼女は段々と生活レベルを上げていくのかもしれない。現状維持という負け惜しみ的な、後ろ向きな考えにこだわっている自分もいる。これだから、球体ではないのだ。

「チーズあった?」行動は看視されている。
「あったよ、ほら」ぼくは鼻の先に突き付ける。

「やっと、終わった」彼女は背をのけぞらせる。満点でもないけど、不満もない。そういうときの口調だった。いろいろなことを学んでしまう、いっしょにいると。

「どう?」
「まあまあね。お昼にする?」手際の良さ。ゴールへと向かう道筋。

 ぼくは理想自体を不必要なものと定義する。いま、目の前にあるものが経常的に正しいのだ。しかし、未来を美化させ、過去をひたすらなつかしむ。いまこそ、唯一、愛するに値するものなのだ。

 ぼくはパスタを口にする。
「さっき、なに読んでたの?」
「グッド・バイ」

「あれ、好きね。でも、一方的な物語」
「女性は食い意地が張っているという話だよ」
「食べる姿って、色気があるのよ。ほら」彼女は演じてみせる。本当は演じるひとの元を書くひとなのに。

 太陽を浴びる。微風を感じる。そして、ぼくらは交互に風が混じった表現を言い合うことになった。台風からはじまり風来坊で終わる。

 彼女の背の高さ。細み。太さ。凹凸。ぼくは理想があったのだろうか。巻尺を持ち歩き、計りつづけて探したのだろうか。髪の長さ。流行。ホッテントット。

 ぼくの表面。表層。できること、とできないこと。したいこと。したくないこと。しなければならないこと。してはいけないこと。それらの円の重なりの中心にぼくがいるようだった。ひとの関心は少しずつずれていき、方眼紙の点もそれにつられ、前後左右に動いていくのだろう。

「夜ご飯、なんにする?」

 生活の最たる問い。ぼくは不思議と嫌悪感をおぼえる。
「となり駅の近くに新しい店ができてたから、そこ行く?」
「なんで知ってるの?」答えではない。
「この前、そこまで歩いたから。運動不足解消で」
「どういう種類の料理?」

 ぼくはざっくりと説明する。そして、財布の中味を頭のなかで確認する。彼女の収入に頼らない。たまには、おごる。ぼく自身のルールを作り、ぼくは自分をその鋳型に当てはめる。球体ではない。

 彼女は納得する。物語のヒントのようなものを、つかみかけて手放してしまう。球体に近付く風船。空に舞ってしまう。それも彼らの仕事だった。数パーセントが空に消える。首輪をつけて飼いならすこともなかなかむずかしいのが同じく自由な発想の芽生えだった。

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雑貨生活(9)

2014年11月21日 | 雑貨生活
雑貨生活(9)

 ぼくは断られることに馴れていく。習慣化する。

 ぼくの履歴書の役目をした短編は何人かの手に回り、コピーがあるので処分された。破棄される運命のものをわざわざ生み出す。生み出してしまった。絶滅収容所。拒否の世界。

 自分の価値が、ひとの目には認識されない。ぼくは彼女をきちんと評価している。社会も同じく評価している。だから、彼女にはその価値があるのだ。疑うことすらできない。彼女はぼくを好きになった。世間はぼくの値打ちを認めていない。すると、どちらかの目の焦点が狂っていることになる。ぼくは、こうして冷静に判断できる能力を有していた。

 三話目のドラマを見ている。疎遠になりかけている友人からも電話がかかってくる。ぼくの近況が誤って伝わっていく。伝言ゲームのように。ちょっとずつ改悪されていく。不思議なものだ。ぼくは前の交際相手が、もし見ていたらどう評価しているか急に心配になった。ぼくのたけのこ。

「ぼくの評判がどんどん悪くなっていくんだけど?」クレームは伝えるべきなのだ。誠実に。

「あれ、あなたじゃないのよ」彼女は取り合わない。「それに、ドラマ自体は、みんな褒めてくれてるし」
「そうか。世界で不満があるのは、ぼくだけか」ぼくのたけのこも。
「でも、何度も見てるんでしょう?」

「その通り」笑いというのは安定した大人が楽しむ最上級のゲームなのだ。飢餓の只中や地震の瓦解現場で楽しむほど必要ではないかもしれないが、別の落ち着いた日々に最もリラックスさせるのは笑うという受動的な幸福であるのだろう。ぼくはそして、笑っている。

「あれ、残念だったね。精一杯、頑張ったのに」

「まあ、仕方がないよ」頑張ったから残念なのか。もっとふてくされるべきなのか。ぼくは自分の能力を社会に提示しようと願っても、途中で堰き止めてしまう人間が介在するのはなぜなのか。それが彼の仕事なのだ。選別こそが人生で正しいものなのだ。ぼくらは日々、選ぶ。選ぶというのは反面、選ばれない多数のものが存在することでもある。シチューを食べたいと望めば、味噌汁は放棄され、カレーライスを嘱望すれば、とんこつラーメンの出番はない。だが、次がある。大人は無理かもしれないが、青年には山ほどの希望があるのだ。

 ぼくは頼まれて友人の仕事を手伝っている。とある倉庫を片付けている。ビルが解体される前に、何でも放り込んでいた倉庫があった。その荷物を選別して、他の小さな場所に移動させなければならない。作業に励んでいる。仕事の代価は肉体を動かすことに比例するという法則のなかに友人はいた。その暮らしが肉体を頑健にした。ぼくの指はささくれひとつない。

「あれ、お前の彼女が書いてるんだろ? すごいな。おもしろいし」
 また賛同者がひとり。
「で?」
「え?」

「いや、あのクズみたいな人間のモデルがどうとか、いつも訊かれるんでね」
「そうなんだ。気にならないけど」昼休みも終わる。労働は空腹をもたらす。家に帰ってビールを飲んだら、よりおいしいだろうなと想像する。この想像こそがご褒美だった。しかし、いまは満腹感がもたらす眠さが襲ってきそうだった。その誘惑を振り払うように仕上げとして熱いコーヒーを飲んだ。

「さ、午後も頑張ろう」と、友人は自分とぼくに掛け声をかける。

 ぼくは考えることを止めている。止められている。まだ未知の自身の傑作の出だしなど、頭のなかから払拭されている。ぼくのたけのこも消えた。もちろん、煮こごりもカボチャもいない。目の前の物体の有用、不必要を区分けしてトラックに積むだけでいいのだ。外には二台のトラックがある。居残るものと残骸となるもの。ほぼ同量の荷物がおんぶされるようにトラックの荷台に積まれていった。

 それに合わせて当然のこと倉庫は空になる。ここも解体される。別の業者が請け負うのだろう。新しい更地には何かが建ち、ぼくらはその原型を忘れる運命にある。遺産としてのこすほど価値のないものたち。

 四時過ぎには用は済んだ。ぼくは手と顔を洗った。腕にはいくつかのすり傷があった。遠くに高いビルが見える。乱立する都会の中央。あの中に何万人もの労働者がいて、仕事を終えた余暇にはドラマを見るのだろう。自分のきょうの一日はクズではなかった。対価どおりの働きはしてみせた。

 トラックで途中の駅まで送ってもらった。彼は、残るものの方のトラックに乗っていた。そこまで行き、明日、別のひとが積み下ろすそうだ。ぼくは顔も知らない。彼女のドラマを見ているひとびとも多くは知らない。知らないということは幸福だった。ぼくの作品を却下させたひとは知っている。好きこのんでそうしたわけではないだろうが、知るというのは、そのこと自体に悪が含まれるようだった。

 ぼくは切符を買い、途中で念のため、ビールを買った。絶対に冷蔵庫にはあるのだろうが、いつもより多く飲むかもしれない。だが、実際は彼女に揺り起こされるまえに消費した量はたった一口程度のものだった。

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雑貨生活(8)

2014年11月20日 | 雑貨生活
雑貨生活(8)

 ぼくは文献を調べている。

 人生のさまざまな小事も判例という前例が正しい掟として中心に君臨するのだ。

 男性という愚かで純情な生き物。女性という分配利益に対して狡猾な猛者たち。吉原という場所で働く。身請けという言葉もある。ぼくらはヴァージニティーの神々しさを尊ぼうという共通の認識で生きてこなかったのか。それとも、すれっからしという事実をひた隠しにする生き物がいいのか。

 リハーサルを繰り返し、遊びという境遇から軽々と越えてしまう。それが情とも呼べた。歴史という言葉を使ってもいい。落語というのも、大きな天上の愛でも、反対に荒んだ憎悪でもなく、もっとささいな情で動くひとたちを肯定する成り立ちの話芸のようだった。ぼくはラジオを聞いていた。惚れた女の解放を願っている男性。

 ドラマの二話目を見た。実家から電話がかかってくる。

「あれ、あんたなの?」

 世の中は現実とフィクションの曖昧な境界線をすぐに飛び越えてしまうひとたちのエリアだった。

「ちがうよ」
「でも、彼女でしょう、書いたの。あんなに良い子なんだから、迷惑かけないでね」
「かけないよ。幸せにしてるよ」何の根拠も、但し書きもない口からのでまかせ。

 ぼくは電話を切る。通話から解放される。おじいさんは芝刈りで、おばあさんは川で洗濯する。ぼくは思案をして、彼女は外で働いている。夜もドラマを書いている。

 ぼくは疑っている。彼女とあの担当者の親しさを。ぼくは証明できない。未来の傑作に頭は占有されてしまっている。他のことは些末な立場にしておく。ぼくは男女の機微を分かっていない。分かっていないからこそ文献を漁っているのだ。

 芸術にそもそも判例など必要なのだろうか。ピカソの偉大さは前例がないからに他ならない。だが、文字をつかい、ある程度の人数に読んでもらわなければならない。画期的なことなど不可能なのだ。入り込む余地もない。その大勢は不服の大多数として生まれ直し、こぼれ落ちるのが数人の味方であり、わずかの賛同者が誕生する。その前に個人作業がある。その仕入れをいまはしている。

 自分の行動ですら言い訳を探している。

 ドラマの二話目。だらしない主人公の恋人は職場で優しい男性が気になりかけている。センスの良い洋服。回りを巻き込んでも優雅にすすめる仕事ぶり。ぼくは、かたつむりのように殻のなかで仕事をしている。結局、あの日は自分でクリーニング屋に行き、彼女の洋服を受け取った。体のいいヒモである。受付の女性と無駄話をする。危害を加える人間ではないのだ。昼間、職場に出かけなくても。

 母は息子の恋人としてある女性と会う。気に入るも、気が進まないも自由の立場にいた。天秤の皿にはなにも置かれていない。水平という正しい基準。そこにひとつ好意が載せられる。加算。しくじる。ちょっと減点。その微妙な変更を加えて、一定の場所が決まってしまったようだ。自分の息子と見合うという地点より、高評価の義理の娘候補ができる。むかしのひと。その彼女の親に迷惑がかからないよう願っている。彼女も身請けされ、解放される。

 迷惑をかけないという否定的なスタンス。幸せにするという能動的な約束。反対と賛成。応援とヤジ。

 労働はある組織が利益をあげるためにして、その分け前をいくばくか受け取るための行為。彼女はいまそれをしている。あの担当者はそのためにぼくの文字を読んでいる。将来の利益を生まなければ没である。簡単な、とても簡単な理屈だ。没になる可能性が大きいものをまじめな気持ちで書いている自分の行為は、すなわち労働ではないという結論に達する。では、なんだ? 楽しみ。しかし、これは楽しみだけで構成されていない。苦しさ。現実からの逃げ。趣味。では、落語家はなんなんだ?

 ぼくは資料を読んでいる。ある関係性や、親しさの継続を望むことが恋慕という状態のようでもあった。そこに神秘も、誠心も、聖心も、ヴァージニティーも決して必要ないようであった。独占すらいらないのかもしれない。ぼくは彼女の浮気をおそれている。浮気ではない、ぼくの名誉が汚されることが耐えられそうにないので恐れている。拒みたいと思っている。

 彼女の書いたものでひとが動いている。誰かが台本にして配り、指揮するひとはすべてをコントロールして、俳優は演じ、五十分ほどの枠に誰かがまとめている。そこに利益が生じる可能性があるからだ。他のテレビ局の裏番組と競い、勝利者は次の出番があった。似た内容を要求され、新しい題材を熱望する。似たものが生まれるには、ぼくのだらしなさは維持されなければならず、新しいものであるならば、別のヒーローがいる。

 しかし、彼女の夢はたしかに叶いかかっている。幸せなど平等のタイミングでやってこないのだ。仮面ライダーとショッカーは悲しいかな、共存できない。中東の隣り合う地域も、またそうである。

 身請けの統計を取りたい。グラフにして説明してこそ、会社員であった。当時の女郎はこれほど。衛生的には満足かどうかも調べなければならない。すると、芝浜はここからキロでいうと何キロで、漁獲量は最盛期ですとこれ、と示すことが会社の方法である。ぼくは、自分自身で困っている。

 ぼくは文献に飽きている。自分に似た主人公を再度、画面に映す。

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雑貨生活(7)

2014年11月19日 | 雑貨生活
雑貨生活(7)

 ぼくは、ひとに会ったときに感じる疲れを翌日まで連れてきてしまっている。幼子の手を引くように。彼女は、なんだか怒っている。調整をのぞんだ面会で、古風な和式な建築物の接合部のようにうまく組み合わされなかったことを悔やみ、恨んでいた。

 なぜか、彼女は担当者と同じく、ぼくの向かいにすわっていた。ぼくはその立場の差異に戸惑っていた。彼女はぼくといっしょに質問の受け答えをしたり、援助をするのが役目ではなかったのか。帰りにそのことを訊く。

「チャンスはフェアじゃなきゃ」

 そもそも、自分の交遊関係を利用しての対面など、ぼくに分こそあれ、足を引っ張るような真似はしなくてもいいように思う。ぼくは履歴書のように自分の書きあげた短編をそっと出す。男性はそっと読みだす。

「コピーは?」
「あります。プリントなら何度でもできますから」

 オリジナルがむずかしい世の中。世界にひとつしかないサイン。マリー・アントワネットのジュエリー。

「帰ってから、ゆっくりと読みますね。きょうは楽しく食事でもしましょう」

 だが、楽しいのはふたりだけのようだった。彼女のドラマをべた褒めしている。もちろん、される理由もある。ぼくも何度も見て、来週を楽しみにしていた。彼らの話は尽きない。ぼくはネクタイがもたらす苦しみすら感じはじめていた。ひとは機転の利くタイプと会って夜の時間を楽しみたいのだ。彼女はどこまでも能弁になれた。その行為はぼくへの援護射撃であることは知っている。しかし、いささかやり過ぎているようにも映る。ふたりが恋人同士でぼくは見届ける親戚のようだった。ぼくはあるいは嫉妬深いのだろうか。

「普段は、家庭料理を味わっているんですよね?」

 当然のことを当然のこととして訊く。ひとはそこから逃れられない。

「彼女のたけのこ、おいしいですよ」
「そんな繊細なこともするんですね」ハンサムくんは、料理に使うべき語彙を知らないのかもしれない。ぼくは嫉妬を加速させる。いや、自分の劣等感の出口を誤りだしている。

「あれ、全部食べた?」
「食べたよ」

 彼女のたけのこ理論を担当者は聞いている。ひとの好みはずっと同じで一定しているのだと。「わたしの方から好きになったけど、彼の前の恋人と自分が正反対なので、告白されることもないのは知っていたし、反対にそれとなくわたしをどう思っているのか探りを入れても、煮え切らないし、決心して、わたしが好きと告げたら、オーケーしてくれた。あっさりと。でもね、これも復讐なのよ。彼は前のたけのこを好きなままなのよ。わたしは、煮こごりかなんか」

 担当者は素敵な感じで笑う。いや、不敵な笑いか。

「男性なんか、そんなものですよ。初恋をひきずり、簡単に終わらせてしまった恋を裏表にしたりして点検して」

「いや、この通り、ぼくは彼女を好きでいられる」ことばというのは微妙に変化してしまう、口から出る際に。

 ぼくらは帰り道を歩いている。

「好きでいられる? むりやり、好きになってくれているってこと?」

 口げんかのための口げんか。それ以降も、ぼくの応対のまずさを並べている。ぼくは書きかけの傑作に意識を集中しだした。胃から腸に、きょう口にしたものが移行していく。ぼくの傑作もそういう過程を踏んでいるのだろう。産道を抜ける。お母さんは苦しむ。もう少しの辛抱だ。

「読んでくれるのかね?」ぼくの質問。

「わたし、それ、読んだっけ?」彼女の再質問。
「朝のうちに書き直したから、ちょっと変わっているよ」
「いま、話して」

 ぼくらは歩いている。電車が横を通り過ぎる。たくさんのひとを運ぶ乗り物。家族が待つ家。ぼくは好きと証明できるのか。たけのこに飽きて、カボチャだって好きになれる。いや、こちらの方がおいしいのだ。復讐なんて、そんな野暮な言葉を持ち出してはいけない。

「おもしろそうね。でも、なにかが欠けている。足りてない」
「どんなこと?」
「ガッツのようなもの」

「これは、そうしたガッツとか真剣さとか敢えて、排除させるから成功するんだよ」
「そう」ひとは声のトーンだけで小馬鹿にできるのだ。「アイス、冷たいアイス食べたくなった」
「あったかいのも、ぬるいのも、きっと、売ってないよ」
「いやな性格ね、ほんと」

 ぼくはレジ前に並んでいる。ただ、ぼんやりといままで読んだ本のあらすじを頭のなかで棚卸しした。さよならを切り出す物語。出会いという本能的な喜びをあらわす本。後悔という甘美さを示す内容。突き進む状況を壊される変化の時期。

「袋に入れます?」ぼくは現実から遊離していたが、その問いでようやく連れ戻される。
「ひとつでいいの?」

 ガードレールにもたれる彼女。袋を破り、棒についた冷たいものを唇で挟む。

「おいしい?」
「おいしいよ、食べる?」答えを得る前に、彼女はもうぼくの口先にアイスを差し出していた。食べようとした瞬間、滅多にしないネクタイの上にしずくが落下した。「ああ、だめね。仕事前にクリーニング屋に寄るよ」と彼女は明日の予定を多少、変える。
「引き取るものないの?」
「どうだったかな」とあれこれ頭に映像が行き交う様子を見せ、ぼくが口にできなかったアイスを最後まで頬張った。

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悪童の書 cm

2014年11月18日 | 悪童の書
cm

 コマーシャル。広告。宣伝。

 売れると期待されるものはスポンサーが付き、資本投下される。反面、問題を起こして、コマーシャルも打ち止めになる。

 九十人のそれぞれの悪事を反省しているひとにインタビューを試み、物語に仕上げた。異なる悪行。その取材にかかるもろもろの経費ぐらいは捻出したかったが、そうもいかない。みなさん安眠を取り戻してもらえればいいが、書きのこした自分は、思い残すこともなくこの世を去れる。これ以上、悪事が増えないことを祈るばかりだ。

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悪童の書 cl

2014年11月17日 | 悪童の書
cl

 ぼくは赤ん坊でもないのに、両足を抱え込むようにもちあげられ、この姿勢はまさに天花粉をはたかれるのを待っている格好だなと気付いていた。大人になりたかった自分は、結局は愛するという行為を望めば、幼児のようにバカげた振る舞いに付き合わされることを知った。なぜ、衣服を脱ぐ必要があるのか。裸になったら誰かに叱られていた未熟な境遇が恋しく、懐かしかった。

 せめて二秒でも好きになったことがある女性を、別の誰かが同意のもと貫通させる場合、ぼくらは決して「知人」というスタンスであるべきではない。ぼくと女性とのわずかな歴史に、彼はちょっとでも登場するべきでもなく、ぼくも彼のキャラクターやヒストリーの一部を知っていてはいけない。接点があってはならないのだ。ぼくらは適当に縫い合わされたパッチワークになってしまい、それぞれの模様の役割を負ってしまう。その布は表裏のふたつのみでもなく、また複雑に繁殖、増殖させて布を重ね合わせるのだろう。

 絶対に「邂逅」の際の話題もなく、その生活範疇のなかにいてはいけない。

 しかし、なった。まんまと。誰に見境がないのか?

 あんなに、毛嫌いしていた犬でもぼくは好きになれたのだ。ピーマンもにんじんも食べられる。

 いや、それは決して好きという感情で定義できるものではない。愛着の継続性に親しみ、馴染むということだけであった。いやいや、生きたものには不本意ながら愛着が芽生えるものなのだ。当初の意図とは別のところで。

 ひとがひとに対して全面なる愛情の確証たる表情をする。奥のあの子も。百戦錬磨のこの子も。

 友人がされた(素人風のあの子や水商売のこの子も)その表情は、客観的にゆえ認識できても、自分になされたその表情は見落としがちだ。だが、デジタル世界。むかしの写真のデータを再調査する。あの子は、まさにぼくに対して、このつまらないぼくに対してしていたのだ。ぼくは、遅ればせながら数年後にその表情を発見する。

 この提案はどうだろう。著名な法律事務所のように弁護士たちの名前を連名にしてビルの入口に掲げているところもある。すると、ある女性も関わった男性の苗字のすべてを、自分の名前に継ぎ足して列記する必要があるのかもしれない。レノン・マッカートニー、ジャガー・リチャーズとか。スミス&ウエッソン。

 山田、佐藤、鈴木、木下、佐藤まゆみさん、発言は挙手をしてからにしてください。この同姓の佐藤は、同一人物なのですか? それとも別人ですか?

「異議があります。本件と関係ないと思います」
「不承不承ながら認めます」

 ひとは練習と日々の鍛練と継続性を美化する。ぼくは正岡子規の住まいを好奇心から写真に撮っている。しかし、そこはカメラを気軽に取り出してはいけない場所でもあった。プライバシーは尊重されるべきだ。だが、楽しそうに(幸福の予感が充満の)中年の男女は跳ぶように歩き、ぼくのことを電柱以上に気にかけない。これから行われることが待ち遠しいのだ。愛は、こころの問題ではなかった。少年たちが腕相撲で自分の腕力を競うぐらいの楽しみが肉体には事前に備わっているのだ。

 ぼくは自分の順番と嗜好と持続時間を知られることを恐れているだけなのだ。

「え、いきなり飛車、横に動かすの?」

 という真っ当ではない順序と展開を。アプローチの仕方。将棋の王道を外れる攻め手。

 本音をいえば、ぼくは旅行の手配をして、空港に行き、手荷物をあずけ、税関を抜けて、飛行機に乗ってシートベルトを締めた段階までしか楽しめないのだ。機内食もおいしくない。よその国へも行きたくない。実行という現実をどうにか避けたいと思っている。ぼくは受容される。パスポートにスタンプを押される。帰りになる。次になる。ねだられる。せまられる。ぼくは追い駆けていたのではないのか? 立場が逆転されていた。そして、天花粉をはたかれる。おしめは乾いている。

 ひとは精神の生き物であるべきだ。壁ドンでトキメキ! ではない。

 しかし、不本意ながら背中のホックを外している。上になったり、下になったり、交互になったり。女性の意見を取り入れる。希望があるそうである。

 ふと我に返る。ぼくに肉親はいないのか? 永井荷風に近付けるのか? 玉の井を着流しで優雅に歩く。表札には長い長い苗字の表札がかかっている。あれらは親がいなくなったから書く権利を有するのではないのか。

 ムードを高める。ボーイズⅡメンのハーモニーをかける。結果、意図しないのにパブロフの犬にそのグループがなってしまう。ぼくは実験したいわけでもない。相手が変われば、ぼくも変われるのか。引き出しは多くない。中味もガラガラだ。

 お金を介入させるということを常におそれている。ぼくは精神の生き物なのだ。乞われればというスタンスが必須でもある。ぼくは生意気な少女みたいなこころもちなのか。自分という価値が目減りする。能動という意欲も減少する。谷崎爺さんの七転八倒ぶりを読む。やはり、早めにこの世を去った方が良さそうだった。白い錠剤の宣伝に釘付けになった。この子の名前もどれほど付け加えるのか、その潜在能力を想像して、良い映画を紹介するように、ハンカチで涙を拭きながら、カメラの前で一証人として触れ回ってみたいなとも思っている。「じゃあ、ぼくも!」と誰かが競りに参加して、意外と安価で落札する。そして、ひとりの女性のふしだらさの署名運動のキャンペーンを起こす。いや、素晴らしさかな。

 めいめいが所有権を主張する島々たち。ぼくも異性をそう見ることにしよう。ぼくのものでもあり、ある面では、彼のものでもある。次の入国は断られるかもしれないが。

 オリバー・ツイストみたいな傑作を書きたかったのにな。

 せっかく、字も読めるし、書けるのに。

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悪童の書 ck

2014年11月16日 | 悪童の書
ck

 人妻をナンパしていると、数メートル先に夫らしき姿を発見。どうする、オレ? オレの待ち受ける未来、危うし。確実に危うし。待ち侘びるのは、火あぶりの刑。

 こんな出だしを見境もなく書きはじめた自分は、どう落とし前をつけるのだろう。落とし前田のクラッカー。

 フィクションであれば、冷や汗はいらない。走れ、メロス。走れ、マキバオー。走れ、シンボリルドルフ。

 物語と道徳の問題をすり替えることをためらわない。古着のジーンズを君たちは、嫌悪感もなく履けるのか? 古本屋の棚にひそむ本に、前任者、前所有者によるラインマーカーとしての託宣や、善悪の判断を勝手に委ねてしまったことに後悔の雑念はないのだろうか。これで、ごまかしは有効になったろうか。

 走っている。陸上部の練習の頑張り以来、走っている。窃盗の未遂なのにつかまる。しかし、彼はどう、ぼくを断罪するのだろうか。

 緋文字。スカーレット・レター。ナサニエル・ホーソーン。

 それは確実に有罪になるべきことを実行した確信犯に与えられるべき称号だった。ぼくらの間に同意もない。反目もない。愛すらもない。愛って、ところで、何だ?

 災いなるかな、パリサイ人よ。あなたがたは天の扉を閉ざしてしまう。

 番台にすわって、銭湯の風呂の温度を入れないぐらいに熱くしてしまう。

 あとで自分たちはぬるくして、適温の湯に浸かる。

 皿と杯という外側を清めるが、内側は放縦と貪欲が支配している。

 引用もまた、ごまかしの隠し玉である。内側の放縦な欲求の発露として、口説く段階を路上で露呈したのはまぎれもなく自分であった。足よりも脳が活躍している。ここで、もし転んだら最悪だ。恥の上塗り。

 ぼくは彼女が結婚しているとなぜ気付き、どうして理解していると思い込んでいるのか。遠目で年代だけで判断している。独身は、やはり独身らしい容貌をしているのだろうか。指輪の有無も分からない。

 責められる理由もない。密通でもない。声をかけた、あるいは、かけ損なっただけである。万引きしようと思っただけで、もう泥棒と認定されるのだろうか。席をゆずろうと一瞬でも考え、そのまま実行しなくても善人との賞賛を得られるのだろうか。行動こそが最終ジャッジである。

「もう、ここを歩くなよな!」と、彼は宣告する。彼の主張は正しいのだろうか。ぼくの行動を規定する運命を彼は握っていいのだろうか。

 ぼくは解放される。この恥をドラム缶に入れて沈め、海の底で永遠に眠らす覚悟でいた。しかし、物語を操る亡霊が、ぼくに題材の提供を強要する。おもしろい話を集めろと胸ぐらをつかんで。そう取材に答えてくれたひとは熱心に語ってくれた。

 声をかけたはいいが、作戦は皆無である。食事でもするのか。またプールにでも飛び込むように休憩という表札を目指して突き進むのか。ぼくにノルマを全うさせる体力や気力はあるのか。ノルマンディーには上陸するべきなのだろうか。

 賢い人間になりたかった自分は、いつの間にか、道で追われている。自分の行動に対する言い訳を発明し、絞り出さなければならない。「あまりにも、きれいだったので」すると、きれいに手入れした花壇の花を勝手に摘んでもいいという結論に達してしまう。「ついてきそうだったので」こうなると、迷子の犬を拾ったという理屈になる。

「ということがあってね!」と、会話のついでに話す。失敗談の披露が生きるということ。

「その日、ふたりは夜、燃えましたよ」導火線。ぼくというウラン。こんな下品な発言をする友人がいる気楽さと憂鬱。その発言を引き出してしまったのも、ぼくの行動に端を発していた。

 ナンパの失敗はひとりでトボトボ帰るという最後のはずだが、ぼくの荷は重い。酔いも霧散してしまった。知り合いを抱けばよいのだ。その知り合いになるには、一度目というのが必ず訪れる運命ではないのか。ぼくは初回を華やかに彩る覚悟でいたのではないのか。

 しかし、懲りない。自分の値打ちを高く見積もらなくなるのだ、大人は段々と。そして、きれいさを残す女性は稀少になるのだ。サンゴを遠くまで取りに来るのだ。船に乗って。ぼくも同じことをしようとしただけで、結果、夫に拿捕される。領海侵犯という罪の名で。

 審判にさらされる自分。答弁も下手くそだ。冤罪という神々しさに覆われている。

 失敗を記しているだけで、もし、成功だったらぼくは書くことを遠慮しているだろう。そして、病気をもらう。その原因をもらう。ものごとを笑いにできるセンスのあるひとびとたち。

「ボールが止まって見えるという野球選手。絶好調の風俗嬢にはなにが見える?」
「肉眼で、クラミジアが見える」

 テレビを見て大笑いする。ぼくは、自分に自信があったのだろうか。そこそこのハンサムを内心でモデル・チェンジ(劣化)し忘れたのか? お金を払ってまで、その行為をしたくない。アップル・ストア前のように行列や、順番待ちの札でも無制限に配りたい。

 しかし、ひとりも手に入れられない。逆に所有者に追われている。逃げ切りたい。でも、つかまったときのみっともなさも充分に味わってみたい。その比較。両方は手に入れられない。どちらかだ。匿名ということでインタビューに応じてくれたひとの弁だけ入手した。どうも影武者がいそうな気もする。

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悪童の書 cj

2014年11月15日 | 悪童の書
cj

「直結」と、その行為を呼んでいた。それ以外で、その表現を使った試しがない。だから、連想するのはひとつだけに限定される。

 共有のスクーターがあった。誰かが乗り回している。ぼくもその恩恵にあずかる。何人も乗ったからガソリンもなくなったはずだ。これも誰かが(あるいは自分が)ガソリンスタンドに行き、数リットル分だけ入れていたのだろう。だが、記憶にない。

 記憶に潜む映像もある。ぼくらはまだ中学生。ぼくは楽しく乗り回し、スピードを出し過ぎる。初心者の失敗。自転車とスクーターのブレーキの加減を見誤る。壁に激突。前輪の支柱がゆがむ。そこに本当の持ち主が出現。ぼくらの遊び道具は奪われる。楽園の追放であった。

 しかし、被害者はただ泣き寝入り。前科というゆるやかな囲い込みから逃げ出す自分。そこらが自分たちの遊び場の際であった。近くに駄菓子屋がありミリンダを飲む。王冠を平らにして遊ぶこととは縁を切っている。児童館でプロレスごっこをして、はだしのゲンを読み、ブルーという気分を味わう。家に帰り、安いラジカセで裸足の季節や野ばらのエチュードを聞く。友人は盗んだ自転車に乗り、職務質問をされる。

「あれ、絶対にしない方がいいよ!」と、経験者らしく熱く語る。多分、その通りなのだろう。

 駄菓子屋の横に隠微な自動販売機がある。アメリカの宇宙局が発明した特許だと思うが、夜になると中味が見え、売られている雑誌の表紙が目に留まった。ぼくらは数百円を出し合い、一冊を買う。なぜか、魚拓のようにした部分の特集を買ってしまって後悔する。世の中は想像力の場所だとも思うが、あれはあんまりだったなと残念がった。

 もう少し離れた場所(歩いても二分ぐらい。いかに狭い世界なのか)でパーマをかける。臭い液体を頭にかけ、不良の完成である。だが、ぼくには意外と根深い倫理観も混在している。

 女性たちは友人に話しかけたそうにモジモジしている。恥ずかしさというのが少女の特権であった。年下の美人が不思議と友人のことを好きになっている。だが、彼は別の同級生に執念を抱き、そのチャンスをみすみす棒にふる。だが、おそらくふたりのお父さんになっている。運命というのはなかなか分からないものだった。

 ぼくは当時の親友と連れ立ってある女性の写真を撮りに行く。可愛い子であった。彼女も恥ずかしそうになかなか家の外に出てくれなかった。後にぼくのことを好きになってくれた気もしたが、もう別の子にこころは動いていた。ふたりの差がどこにあるのかいまでは分からない。しかし、チャンピオン・ベルトは代々、受け継がれていくものなのだ。

 その親友は駒込(当時は世界の果てであり、裏側)の方に引っ越した。裕福な家庭なのか、こちらに風呂なしアパートの一室を借りていた。ぼくらは放課後、そこにたまる。時計もテレビもない部屋で、ぼくらも腕時計などしていない。まだ七時ぐらいだと予想していたが、とっくに十一時を過ぎていたようだ。空腹の問題はどうしていたのだろう? 兄が来たような気もするし、近くにいる別の友人だったかもしれない。ぼくは家に帰り、彼は駅に向かった。その彼ともごたごたして、ぼくは一方的に殴りつけ、彼は越境をやめた。その後、数年経ってからだが一度だけ、家に遊びにきた。あんなに親しかったのに共通するものは、もう何もないことをひしひしと感じた。いっしょにいるということがいかに重要であるかを教えられる。

 近くの団地に手品師が住んでいるといううわさがあった。ぼくの失敗も悪も布で覆い一瞬にして消し去ってほしいとも願うが、そう都合よく世の中は回らない。反対に、失ってしまったものも見事にテーブルのうえに再現させてほしいが、それも叶わない。ガソリンはなくなるのだ。世界は、より広くなっていく。隣町に行く。陽の高いうちから酒を飲みはじめる面々がきょうもいる。その間に小さな工場がたくさんある。材木の匂いもしていた。旋盤かなにかで指を落とした友人の父のことをからかう。労働というのも過酷で厳しいものだった。指先で文字を入力するのとはけた違いにしんどいものだった。ぼくは電卓をたたいてみる。正確な答えはひとつしかない。間違えれば、やり直し。ぼくの少年時代。もう正邪も美醜も無関係で、はっきりとひとつしかない。つながった連続の映像。飛び飛びの記憶。少女たち。手品のようにあの姿でもう一度だけ見たいものだが、それももちろん叶わない。自分自身が肩の痛い、近さというものを怖がる視力しか有していないのだ。

 後年、自分のお金でも誰のお金でも、一台のバイクも車も買わなかった。もともと、エンジン系が好きでもなく、酒と寝そべって文庫本でも読むほうが向いていた。

 ある少女がぼくの前をスクーターで走り抜ける。まだヘルメットの常用はしなくてもよい時期だった。好きだったのに簡単に別れてしまった少女。もどらないという絶対的な時間の効果。話したであろういくつかの言葉。別の女性も走り抜ける。交わしたであろういくつかの約束。ぼくは彼女が振りかけていたコロンの匂いだけを覚えている。ケルンという水が語源らしいことも知っている。知識も増えたが、あの土地での自由の時間こそ貴いものだった。駄菓子の味。大人買いという暴虐と奪略。

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悪童の書 ci

2014年11月14日 | 悪童の書
ci

 ひとりという単位。

 もっと前にしたのかもしれないが、明確な映像として追跡できるのは、二十代の半ばに居酒屋のカウンターでカレイの煮付けをつついている姿が、ひとりで飲むことにチャレンジした最初の方のことであった。友人たちと飲む、ということがそれまでは普通のことであった。いま振り返ると、ひとりで飲んだ機会は逆転して多くなってしまったとも思われる。

「淋しい」ということばが辞書に載っているが、本来、自分にはあまりないのかもしれない。分量として少ないというのが正しい表現でもあるようだ。映画館にも入れるし、飛行機に乗って金沢の兼六園にも行き、長崎で眼鏡橋を渡る。ひとりということに何の不満もない。もちろん、親しい友人とも楽しめる。厭世でいられるほど、厄介な性分でもない。

 六人しかいない職場の部屋。三十代の末。無駄話をしている。そのなかに男女一人ずつの割合で、ひとりで飲食店にも入れず、行動の枠を狭めてしまっているひとがいた。

「できるの?」
「ひとり暮らし、ずっとしてて、できなかったら、とっくに飢え死にしてますよ」という極論に達するセリフを吐く。「でも、なにがいやなんですか?」

「あのひと、友だちもいないのかな、と思われてるんじゃないかとか、いろいろ考えて」
「ひとの目が気になる?」
「そういうこと」

 この男性のひとりは優しい性質であった。後年、もうひとり別の優しい男性に会うことになるが、ふたりは双璧であった。どこが? と解説を試みたくなるが、目線や接し方が、「できないことある? 困ってるの?」という感じだからだろう。犬派、と勝手に決める。自分とは正反対であるらしい。ぼくは、多少のギスギス感を愛している。その間に挟まった小さな小石を拾い集めることが、すなわち人生だとも思っている。

 ひとの目が、では、まったく気にならない、周囲は目もない石で成り立っているのかと問われれば、そうでもない。見栄っ張りでもあり、「ダサイ」というレッテルは全存在をかけて身に受けないように励んでいる。すると、反対にひとりで飲んでいる姿に多少、自分自身で酔っているのかもしれない。しかし、当初はそうだったとしても、随分と長い期間、そうしているのだから、これが普通で日常にも化けてしまっているのだろう。ただ単純に酒を飲みたい気持ちが消せないだけ、待ち遠しいだけともいえた。友人など待っていられるか。ひとりで、できるもん。

 飲み物もつまみも酔うスピードも自分自身が決定した。割り勘の支払でレジ前でグダグダという時間もない。ひとに話しかけられ、ひとに話す。何もなければテレビを見て、人生の数分を費やす。面倒な問題もある。政治や宗教はそう簡単に酒場の話題にならないが、スポーツの応援するチームによって、機嫌を上げ下げするひとびともいる。これは、多い。

 ハット・トリックやサイクル・ヒットという幸運が世の中にはあって、オウン・ゴールやフイルダース・チョイスという賭けにも似た不運がある。そういう際どい場面はなかなかやってこないが、手に汗握る瞬間は、コップをつかむ手も緩める。自分の部屋にいるかのように振る舞えるかどうかが試されている。ならば、部屋で飲めばよいという簡単な結論になる。

 ひとは環境を少しだけ変えたい。だが、同じ店にずっと通いつづけ、常連という動かない地位が待ち受ける。おしぼりを手のひらのなかで動かしながら、一言も発していないのに目の前に飲み物が置かれる。これがしたいのなら、やはり、家にいればいいのにとも思う。しかし、家は安楽な地ではないのかもしれない。

 昼の定食屋。おじさんたちが集団で来る。席と人数の関係で二つのテーブルに別れるが席は直ぐに用意できると提案される。だが、その案を即座に拒んでいる。

「なんで?」とぼくはひとり頬張りながら、こころでひとり言を反響させている。おじさんの顔を見て料理がうまくなるわけでもない。今日、重要な話題がありそうにも思えない。ぼくは、淋しさという観念を失っている。

 だが、これだけはひとりは無理だよな、ということを想像してみる。焼肉屋。カラオケ店。だが、すすんで行きたいところでもない。旅先で水族館にもひとりで入ってしまった。熊本で飛行機が水蒸気の過分な空で発着できずに延期になり、困った環境で一日だけ自由が増えたため、動物園にも入ってしまった。ひとの視線など関係なかったのだ。

 通勤ラッシュの改札で毎朝、おばさんふたりが楽しそうに会話しながら通過している。話していないと死んでしまう雪山での遭難のような状況にいるんだという風に見ている。黙っているのも苦ではなく、話さないのも苦痛に感じるときもある。ひとは分かり合えない生き物だと決め、分からないながらも会話でぽっかりと浮かぶイメージを近似値に近付ける努力も惜しまない。たまにだけど。

 ひとり、ラーメンをすする。汚れはじめた新聞を読む。長いことばが短く省略されている。その共通項らしき大元の文字がぼくには教えられていない。誰かに訊きたい。答えを得られれば、うるさがって直ぐに無視したい。勝手な生き物。我がままを押し通せないほど、世間は自分に束縛も不自由さも強要しないのだ。ひとりの勇者の勝利。

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悪童の書 ch

2014年11月13日 | 悪童の書
ch

 愛新覚羅を頭領に祀り、国家をつくる。傀儡ということばを大人になって知る。

 甘粕という軍人を教授(旧帝国大学)と名乗るひとが演じる。

 東アジア。

 憎しみなどなくなるとも決して思っていないし、なくそうという努力にこれからも今後も関わろうとも思っていない。どうぞ、お好きに。ぼくはそのケーキを食べないけどね。

 まったく無縁でいられるほど世界は広くない。父はそこで生まれたらしい。子どもを荷物(財産)として持って帰るのを面倒がれば、昭和四十四年生まれの自分の生誕はどうなっているのかと想像する。敗戦時に四歳ぐらいの男の子。満州にのこっても酒飲みの体質を存分に発揮したのだろうか。しかし、日本にいて、日本の女性と出会い、二人目の子どもとしてぼくは産声をあげる。あまりにも泣かないので祖父はぼくを唖と早々に勝手に認定した。医学的根拠もなく、ただの雰囲気で。そもそもが人見知りであるのも間違いない。

 大連という場所でピアノを習った少女が、後日、「ロング・イエロー・ロード」というエリントンにも匹敵する曲を産み出す。日本が海外にも食指を伸ばしたころだった。

 母の旧姓は大陸からやって来たことを想像させる名前だった。もし、過去のどっかの遠い遠い時点でボート・ピープルとして到来していなければ、その最果てにいる自分の運命はどういうものか、これまた想像する。いつまでも授乳をやめない子だったといわれるが、それは作り話なのだ、と幼少のときに、ぼくは即座に否定した。大人になれば、あれがキライな男性というのも、なかなか想像はむずかしい。タモリさんは、「星人」と名付けて、その脂肪の膨らみに対する愛着を肯定していた。

 もらえる身体能力などほぼ等しいに違いない。極東方面のグループの一員としては。バスケット・ボールをするために作られてもおらず、フット・ボールで体当たりすることにも恵まれていない。第五福竜丸(ラッキー・ドラゴン)に乗って被爆するぐらいが、妥当な民族なのだろう。ある視点から見れば。

 気が付けば、日本橋の上空には風景を台無しにする高速道路がかかっており、大阪のどこかには万博のためのモニュメントが燦然と立っている。アジアの一員としていること。

 そこには長崎と広島があった。いまだに相対性理論の骨子を理解していない。スイッチを押すひとがいて、その指示を出すひとがいる。軍というのが命令で成り立っているのであれば優れたパイロットと乗組員であり、ヒューマンな観点から見れば、とんでもないひとでなしで、人殺しだった。

 それが戦争なのだといえば、そういえた。言葉があるからには実体があるのだ。いや、実体があるから言葉として割り振られる。ある東南アジアからの発言として、やられる一方だった弱虫たちが西洋文明に立ち向かった事実として真珠湾からそれ以降のできごとを容認するひともいる。だが、懲りない面々はベトナムを餌食にする。枯葉剤という物質を発明して、発明されたら撒かないわけにはいかない。倉庫に備蓄するために作ったのでもないだろう。ぼくの書き記した悪が、悪という地点までに達していないことに不満になる。

 結果、誰かが苦しむ。黄色いひとびと。歌のうまい黒人の少年は大人になり白くなっていた。潜在的に同化する。いや、洗剤的にか。

 インカ帝国、アンデス文明の終焉。ミケランジェロのピエタによる容貌の洗脳。中東の男性とその母。終わったものとして学んでいる。金(ゴールド)という発明。流出する金銀財宝。

 世界史と日本史を学ぶ。ローマ帝国があり、清もあり、ギリシアの哲学者もいた。さっそうと駆け抜けるヒーローもいる。みな、領土をひろげることを目指す。しかし、現在は民族ごとに分割することに傾いている。

 日本にいる。民族で別れたがる、区別したがる彼らの容貌や思想の差など分からないままだ。島の西や北を奪われたり、返してくれるという口約束を信じたりする。返してもらっても、ぼくはそこに住まない。いまのアパートが別の領土になったら確かに困るだろう。

 歴史もウソであり捏造である。それを避けるために真実らしきものを書きのこす。書けば書くほど想像と勝手な解釈が入り込む。さらに付け足す。歴史家という執念のかたまりらしきひとを思い浮かべる。自分の歴史を、自分でのこすしか方法がないヒーロー性の欠如を自分で全うする。数回のチェックを経て、担当者のサインをもらってこそ真実性を帯び、製本に値するものとなる。

 ぼくはイングランドのサッカーやアイス・スケートを見る。東アジアのひとびとが発明した競技ではない。それでも、競技者が増えれば世界的な大会も発明され、運営される。その場で、ぼくと似通った背格好のひとが活躍する姿を堪能する。ぼくに応援すべき国家などない。ただ、望まないながらにここに生まれただけなのだ。ペルーでも良かったし、スペインで生まれ船に乗り、喜望峰を越えても良かったのだ。だが、鏡を見る。自分というものを規定するのはこの顔で、この色で、この体格なのだ。パスポートにも貼られる顔。東アジアのひと。ホン・サンスの映画を好む。

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