爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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最後の火花 43

2015年03月31日 | 最後の火花
最後の火花 43

 母と山形さんの間では結婚のような話がされていた。いっしょに住むことと結婚との相違がぼくには分からなかった。誓いのような部分が増えるのだろうか。ぼくにもいつかそういうひとが現れるのかもしれないが、少女たちのずるさの根のようなものに拒否をしたがる自分もいた。

 ぼくは今日も山形さんと歩いている。彼が父親の役目をあらたに負っても何の問題もなかった。すでに靴に足は入りかけていた。今更、脱いでもらうほどぼくの潔癖感は薄かった。

「立ち直ること」突然、山形さんが言う。「立ち返ることかな……」
「なんのこと?」
「人間がね」ためらいがちに彼はつぶやく。「人間にとっていちばん美しい場面」

 ぼくにはその根拠となることも、前例もまったくない。子どもなんか明日という観念もなくまっすぐに突き進んでいるだけだ。やり直すことの貴さも潔くない反証も、どちらもできないし知らない。

「どうやって立ち直るの?」
「きっかけを見失わないことだな。些細なきっかけだとしても」

 失敗だという後悔の感情がもたげる。依怙地になるのも自由だし、反省するのも自由だった。そういうことを山形さんは説明して、いつものように物語の部屋の扉を開けはじめた。
「勢力に反対している。古典ということを大切にすれば、新興勢力は排除しなければならない」大人はむずかしいことばを使うものだった。

「まったく分からないよ」
「あるひとは昔の規則が大好きだった。ルール変更があっても、前の方法で攻めたり、守ったりしている」段々とぼくに近付いてくる内容だった。「もしくは新しいものを買ったのに、わざわざ、使い慣れている所為もあるが、旧いものを引っ張り出して使っている」

「ものは大事にしないと」
「その通り」

 ぼくの足もとの靴は新品とは呼べなかった。だが、靴屋の前を毎日、通りがかる暮らしでもないので欲求も渇望も膨らまずにすんでいた。

「どうなるの?」
「大事なことに気付かされる。身をもって」山形さんは上空を仰ぎ見た。太陽がまぶしいのか目を瞬かせた。「誰もが根底から覆すほどの大きなきっかけを与えられるわけもないけど、いつものように例外というのもあるんだ」

「なにが起こるの?」
「目が見えなくなって、声だけが聞こえる」

 ぼくは目をつぶってみた。山形さんの歩く音が聞こえた。ぼくはまた追いつくように走った。
「待って」
「よく聞こえたか?」
「目が開いてないと不安になるよ」
「五感というぐらいだから」
「なにそれ?」
「見ること、聞くこと、さわること、味、におい。人間が外部のものを判断するときに真っ先に働くもの」

「ひとつでもないと大変だね?」
「大変だろうな。親からもらった大事なものだから」彼はウィンクをした。片目をつぶって微笑みも片頬に浮かべる。「それからだな、反対されているひとが間違っているといさめてくる」

「正しいことに気付くの?」
「気付かざるを得ない。しばらくして目も再び見えるようになった。そして、回心。立ち直る」
「正しい道を歩む」
「だから、失敗を恐れることもない。間違いも恥ずべきことでもない。ただ、分かったら素直に謝ったり、もう一度、立ちかえればいいんだ」

「でも、一回目からきちんとした方がいい?」ぼくは母の結婚にどこかで拘っているのかもしれなかった。
「タイプによるよ。直ぐにできるひともいれば、失敗しないとすすめないという面倒なタイプもいる。どちらが正しいということもないから」

 ぼくは自分がどちらに属す人間なのか考えようとした。失敗と呼べるほどのものもなく、成功体験もない。合格も不合格もなく、放棄も棄権もない。ぼくはまだ子どもなのだ。抵抗するにも受容するにも裁量や権限など与えられてもいなかった。

 山形さんは話し足りなそうな感じもして、同時に、すべてを語り尽くした充足感のようなものもあった。その証拠のように口をすぼめて、いつもの如くタバコを吸った。ぼくはそのパッケージを山形さんと同義語とした。一致させる意味合い。彼がその色であり、その匂いが彼だった。ぼくはその後もその匂いに拘泥した。

「ずっといっしょにいられるの?」ぼくは用意もしていなかったが、ついそう口にしてしまった。
「そうなっても構わないか?」
「お母さんに訊いて」ぼくは恥じらいという感情があることを知る。口に出してはいけないことを言いながら、返答を理解できない子どもだと振る舞いたかった。その不自然さと自分の演技の差が、恥になったのだろう。

「大人になるまで見守るよ」

 彼は宣言する。その宣言こそが美しいのだ。守ろうが、しくじろうが宣言が美しい。ぼくは失敗を恐れないことを学んだばかりだった。自分自身というより生きている全員に当てはまることなのだ。ぼくは狭量である。そして、許容したいとも願っている。ひとを責め、その後に許す。許していると勘違いして糾弾している。五感を教わったばかりだが、大人になればもっともっと複雑な感情を有しているのかもしれない。タバコを吸い終わる山形さんの横でぼくは固く目を閉じた。タバコの炎の最後の音がして、踏みつぶす砂利の音もした。目を開けたら、彼は父親になっているのかもしれない。ぼくは呼び方の変更を余儀なくされる。またそのことも恥ずかしく目を簡単に開けられなかった。


最後の火花 42

2015年03月30日 | 最後の火花
最後の火花 42 

 ローマ時代。電話網が発達していなくても、情報は隅々まで伝達される。しかし、目の前にいる人間の気持ちが理解できないこともある。二千年も隔たっているのに、ほとんど人間の凡庸な部分は同じだ。余ったこころのクッション材を詰め込む箇所には野心があり、失意がある。インフラ整備があり、廃墟もある。

 ぼくらはレンタル店にいてベン・ハーという大仕掛けの映画のジャケットを手にする。
「見たことある?」
「前に、だいぶ前に見たと思うよ」
「見てもいい?」
「どうぞ」

 勝手に若い女性が見るような内容ではないと思っていた。這い上がるヒーロー。
 正直にいえば小さな画面で見るような映画でもない。暗いなかで目を凝らして、じっと息をひそめて楽しむ。
「可哀そうだね」と光子が言う。登場人物の誰に対しての感想か分からない。悲哀に通じる数人の候補者がいた。
「とくに、誰?」

「病気の女性たち。あんなところにいて、無視されて」
 しかし、奇跡の当事者の一員になる。
「最後には直ったよ」
「そうね。どこが良かった?」

 ぼくはこのやりとりが苦手だ。ぼくという物体は発酵する時間を待つようにできている。当意即妙などの能力は少ししかなく、いや、はっきりと当人が認知済みだが欠如している。だが、会話を成立させるために何か言わなければならない。「ガレー船から出られたこと」
「他には?」
「嘲笑される救世主」みんな実力を知らないのに、風に揺られて判断している。この部分も口に出すべきなのだろう。
「裏切りのあとで」
「知ってるんだ?」
「バカにしている。知らないひといる?」
「いっぱいいるよ」どんな証明にもあたらない仮の報告。いっぱいとは? 「生まれなかった方がよかったのだ」

「なにが?」彼女はやはり知らないのだ。
「裏切ったひと」
「わたしも裏切るよ」と急に光子が真剣な表情で語りかける。
「知ってるよ」
「なにを?」今度は急激に向きになる。
「誰しもが裏切られる可能性を有している。一般論に逃げれば」ぼくは昔のことを思い出した。「いつか聞いたな。好き同士な関係がはじめにないと、裏切るという行為すらできないと」

 光子の脳がもしマンガなら透明な地肌の下で思考の固まりが回転して最後にランプが点くところだ。
「じゃあ、わたしも裏切る権利をもっている」
「ぼくもね」
「だが、裏切らない、で」

 ぼくが裏切るという立場に廻れることなどない。ぼくは、あの日に完全にひとりになったのだ。捨て子で拾われるには大きくなり過ぎ、ひとりでやり繰りするにはまだ義務の部分が多く課せられていた。生後間もない子犬のときに飼われるべきなのだ。完全ではないがある種の鋳型ができつつあった。その鋳型は持ち主もいなくなり叩き割られた。ぼくは、その部品をかき集めたもので構成されている。

「裏切るわけもないだろう」ぼくは目が乾いている。長時間、画面を見ていたので仕方がない。目薬をさがす。数滴だけ、のこっている。映画の主人公は水をもらって、生き返る。ぼくも数滴の液体を目に入れて回復させる。ぼやけた目で外を見ると、緑の樹木が窓の一部を彩っていた。カラーの世界はありがたい。数十年前の映画の色彩は現実の色合いとは程遠かった。だが、色の把握も固定観念のひとつに過ぎないと考える。全員が同じ色だと思っているものも、多少のずれは生じているのだろう。考え方や感じ方がそれぞれまったくの同一、均一ではないように、色の捉え方も違っている。

「置いておくと忘れちゃうので、さっさと返しに行こう」
「さっき借りたばかりだよ」
「でも、もう見ないでしょう?」

 その通り。ぼくらは軽装なまま近くまで歩く。延滞料はなし。ぼくの身分もこの数時間で突然に上昇することもなければ下降することもない。這い上がる必要もなく、踏みとどまる頑張りもいらない。偽証もなく、誤解もない。ぼくのことをいまこの時間に考えているのは光子だけかもしれない。その脳の数パーセントも占めていない可能性もある。ガレー船のことも忘れ、病気の女性たちへの同情もなくすだろう。ぼくには手放せないものが多くあった。しかし、それは正確な表現ではない。山形さんと、彼が話したことの信憑性と、母の姿があった。病気でも生きていた方が良かっただろう。ぼくは、母を看病したり、世話をする。だが、どれもできなかった。

 品物を返すと手ぶらになった。雨もまったく降りそうにない。その空の手を光子は突然、にぎる。信頼というレッテルを貼りつけるように、そこには安心感と充足感があった。

「はじめて女性と手を握ったのはいつ?」
「高校生ぐらいかな」
「うれしかった?」

「うん」正直でありつづけることはむずかしい。ぼくはこの初々しい高校生との関係が近いうちに壊れるであろうことを予測していた。預言者でもないが、その通りになった。安心と悲しみをブレンドした気持ちがぼくにはあった。ぼくは自分の行いで嫌われたのではないということをずっと大切にしようとした。破られた世界記録のようにいまでは価値が目減りしたが、それでもあの記憶はぼくにとって(だけ)大切なものだったのだ。


最後の火花 41

2015年03月26日 | 最後の火花
最後の火花 41

 ぼくは信頼感と共に起き、信頼感と共に寝た。疑うという気持ちがどこから侵入してくるのかまだ分からない。乳児には虫歯がなく、口移しをしなければ永遠に避けられるという迷信を、ぼくのこころは、自分のこころの歯止めと囲いを信じようとしている。薄っぺらい障子の鉄壁な封鎖や閉塞度合いを固く信じる。

 ある日、裏切るということが母と山形さんの間で話されていた。ぼくは、負の感情であることは予測しながらも具体的な醜さや失意を理解できるまでには成長していなかった。
「裏切るというのは最初からキライなもの同士では成り立たないんだ」と山形さんはぼくとふたりで歩きながら言った。ぼくは地獄ということばを覚えたてで、それこそがその意味するものの等身大のような感じをもった。

「気持ちが変化するの?」
「するんだな」納得という感じで深くうなずいた。「自分の名前が裏切りと同義語になったひとがいる」
「イヤなことだね」

「みんな役割が与えられるんだよ。それぞれ。名誉や栄誉と汚名という役割が」

 名付け親が良い暮らしができるように漢字を割り振る。ひらがなやカタカナもある。しかし、その名前自体に別の意味が付けられてしまう。

「そのひとはなにをしたの?」
「尊敬するひとを、なにがしかのお金をもらった代わりに売ってしまう」

 ぼくは混乱する。絡まった考えを解きほぐそうと質問を挟む誘惑に駆られる。「お願いしたひとがいたから、裏切ることになったの? そうすると、そもそも、そのひとも悪いひとじゃないの?」
「賢くなったな。疑問をもつことは良いことなんだぞ」山形さんは満足げにぼくの頭を撫でる。
「お金をはらっても捕まえてほしいひとがいて、お金を受け取って居場所を教えるひとがいて、お金をかけて探さなければならない悪いひとがいる」
「懸賞金」急に山形さんは言った。
「なにそれ?」

「逃げ惑っているひとを探すために大金が懸けられる」ぼくらは同じ罪を犯しているように木材を拾った。「でも、悪いことをしていなかったら。冤罪だったとしたら?」
「冤罪って?」
「間違って罪を負わされるひと」
「そんなことないよ。証拠だってあるから、悪いひとなんでしょう」性善説も反対の説も両方とも信じていなかったぼくが訊く。

「不本意ながら、完全に正しさに包まれた世界に住んでいるわけじゃない。子どものうちは、でも親に守ってもらうしかないんだ。正義は常に正しいと」

 だから、ぼくは半分は完全な世界に住んでいることになる。もう半分の半分ぐらいも正しい場所にいた。だから、信頼と共に寝起きできたのだ。
「その後はどうなるの?」
「どっちの?」
「どっちも」

「先ず、悪い方は、お金をもらった方は、合図をして尊敬していたひとを教える。そして、捕まった。扇動したという罪なのかな。首謀者。ひとが静かに大人しいことを強いられる社会も、ほんのちょっと前まであったし、当然、いまもある。支配者とされる側」

「どっちがいいの?」
「どっちも恵まれているし、どっちも悲しい存在だ」
「役割?」
「そういうこと。魚屋さんは魚屋さん」
「ぼくはなにになるの?」
「勉強して、高給取りになれ。騙されていることが理解できるぐらいの優越感はもっておくべきだけど」
「捕まえた後は?」

「後悔する。そして、見つからないようにどこかに行く」山形さんはタバコを吸おうとする。しかし、紙のやわな袋は空だった。「どっかに行った。良いひとは、冤罪を晴らせない。そこが物語の美しいところだ」
「濡れ衣」ぼくは精一杯の大人びたことばを使う。
「たまにある。自分の目で見極めないと、ただの賛同者となって、自分も後悔することになる。ひとは大多数のなかにいる方が安心するからな」

 ぼくは風が強い日に、ひとりで立ってこらえたことを思い出していた。なにか棒につかまりたいし、そばに誰かがいてほしかった。ぼくは、あの日になにをしようとしていたのだろう。家に着いて戸を開ける。心配している母の顔。ぼくはどこか壁のあるところで風が止むまで休んでいてもよかったのだ。なぜ、そうしなかったのだろう。

「ぼくはしないよ」子どもは身勝手なことを誓う。その判断に躊躇することも知らずに、大威張りで誓う。
「ひとりはつらいんだぞ。敵の目は多く、的外れな非難を受ける」
「それでも耐えるよ」ぼくは弱者に肩入れしたが、自分がその後、どういう道を歩むのかまったく知らなかった。

 山形さんは木材を肩に担ぐ。ぼくは木で編んだ冠をふざけてかぶる。山形さんは木を掃った際に手のひらを傷つけていた。彼のポケットのなかで小銭が触れ合う音がした。ぼくの正義は、その小銭でどうにでもなるのだ。

「疲れたか?」
「ううん」
「でも、ちょっとだけ休もう」

 山形さんは肩のうえの縛られた木を床に置いた。間もなく雷鳴がして、急に大雨が落ちてきた。ぼくは冠を投げ捨てる。小さな小屋があって、ぼくらはそこで雨宿りをした。小屋は動物のエサの臭いがした。だが、どこにもその姿はなかった。山形さんのおでこに水滴がついている。ぼくは彼が何歳ぐらいなのか想像する。母の年齢は大体は分かった。だから、その想像はとてもむずかしい部類というところにはいなかった。


最後の火花 40

2015年03月24日 | 最後の火花
最後の火花 40

 清潔など生身の人間を評価する際にもちだす基準として正しいのだろうか? 悪に傾き、臆病さに常に誘惑され、ひとの看視がないところではうやむやにできるという安全と保身。汚れをまとうことが人間の仕事でもある。それがすべて悪いことでもない。ぼくは洗濯機用の洗剤の話をしているのでもなかった。

 ぼくは選ばれていなかった。だが、事件の渦中にいる人間としては選ばれていた。母と山形さんは互いの人生に関わることを意図的に選んだが、ぼくは選んでいなかった。その後の大変さに至る道もぼくは選んでいなかった。だが、拒否はできない。

 預言も占いもぼく個人を認めることはない。ナンバープレートもIDも付与されていない。だが、大多数という区分けから一時だけ追い出された。いまはどこに所属しているかも分からない。恵まれた職場に入り、恵まれた容姿や資質の女性がそばにいた。ぼくが選んだ。同時に会社もぼくを選び、女性もぼくを疎んじなかった。

 母は老化を防いだ。命を代償にして。ぼくは若い母の思い出しかない。それは風化されることは決してなく、日に日に美化される。そして、美化される途中で忘却という段階に入る。ぼくが今日、わざわざ思い出さないとすれば、彼女のことを考えたのは息をしているひとでは皆無であろう。どこかで、山形さんの白髪頭に包まれた脳は、彼女のことを考えるかもしれない。だが、ぼくは確かめる術を知らない。ぼくらは完全に他人になったのだ。あの日を境に。

 その他人が師弟になって、ものごとが伝承される。他人同士だから愛という幻影を追える。家族も長くても共有するのは二十年ぐらいのわずかな時間のみかもしれない。ぼくはもっと短かった。すると他人も家族も二十年という差のみで威張ったり、片方は嘆いたりしているのだ。

 ぼくは厭世的になる。その二十年を燃焼させるように暮らすことはそれでも尊かった。必死に相手を探すことは無意味でもなかった。ぼくは選ばれる。運命という大それた宣言もなく。

 テレビでサッカーを見ていた。弱いチームの救世主ということである選手がハット・トリックをした。救世主は揃いのユニフォームを着て、スパイクを履いている。ぼくのイメージとは大違いだ。さらに不快なこととして、ぼくの応援する側に彼はいなかった。だから、ぼくらにとっては救世主ではない。破壊者であり、冒涜者である。

 たかがサッカーだ。たかがひとりの人生だ。ひとりの力によって大勢の運命が大幅に変わるわけもない。しかし、サッカーの結果と内容でも、多くのひとの気持ちは縦横に揺れ動いた。ぼくもわずかふたりの愛と狂気によって、運命を狂わされた。これも、このことばを使いたいだけなのだ。運命と呼べるほど、ぼくの生活は映画的でもないし、照明もスポットライトも当たらない。

 サッカーの逆転がもう望めない時間帯に光子が食材をスーパーの袋に入れてやってきた。運命でもない、宿命でもない日々の暮らし。おそらく生きる全日数を導きなど関与しないところで普通は暮らすのだろう。良い人間になりたいと思うのは数日かもしれない。ぼくは悪い人間を避けることに力を費やした。悪いというのは、きっかけがあったからで、それがなかったらぼくには美しい思い出しかのこらなかったはずだ。

 だが、その悪も懐かしさが段々と覆ってしまう。テーブルにはオムライスが並べられた。懐かしさが卵であり、現実はそのしたの赤い米だった。もうそれは分離する必要もなく、一口大にスプーンですくい口のなかにそのまま放り入れてしまう。具材ではなく、料理されたもの。

「負けたの?」
「負けたよ。あっちにはスターがあらわれた」

 すると若者がインタビューを受けている映像に変わった。彼は自分の活躍をよろこびながらも、冷静にチームの仲間やファンの応援への感謝を忘れなかった。生意気ぐらいが若者の特権であると思っているが、世の中はもうそうした事実を肯定したり、許したりはしてくれないのだろう。たたくことに秀でた社会。罵詈雑言は若者にではなく、引退間近のものに示した方が良さそうだ。だが、わざわざ叱責しなくても、世間はきれいに存在を忘れていってくれるのだろう。

「人気がでそうだね」
「そうだろうね。あのルックス」
「そんなに格好良くないじゃん」
「あれを見ろよ。世間はそうは思っていないよ」

 彼が手をスタンドに向けて振る。女性たちは泣きださんばかりに絶叫する。間もなく、他のスタジアムの状況や結果に場面が変わってしまった。

「スポーツ選手も数年だよね」
「だから、尊いんだよ」
「新しい職業を探さないといけないね」
「でも、しないわけにはいかない」
「使命だから?」
「そうだろうね。能力は育てないといけない」

 ぼくは皿を洗う。キッチンの窓から見える塀のうえには猫が悠然と歩いている。通行証もないが、そこはあの猫の道だった。どこに行くのか、どこに戻るのかぼくには分からない。しかし、実際にはぼくも光子も同じようなものだろう。どこかに行って、どこかで眠る。皿は乾燥され、テレビは次のコマーシャルのためにもうひとつの番組を流す。


最後の火花 39

2015年03月21日 | 最後の火花
最後の火花 39

 一才分だけ大人になる。一日の積み重ねに過ぎないものが、一年という単位になってみると急に重みを与える。昨日と今日の差は微小なはずなのに。これを機に、ぼくは手伝いを増やされた。妥当かどうかも比較する要素がない。だから、簡単に受け入れる。

「あたらしい約束だな」と自分のことのように誇らしげに山形さんは言った。「一才だけお兄ちゃんになった」

 ぼくはその響きに戸惑う。兄というのは、もっと小さい弟か妹がいることが前提なのだ。母は、ぼくの独占が許されないで別の子の母になる。だが、杞憂ということば自体を知らないままに杞憂に終わることもあるのだ。また根幹ということの調査や検証にも未熟ながら、物語の根幹を教えられる。
「純潔な女性が母親になる」山形さんはぼそっとそう言った。ぼくは母のことを言われているのかと予想した。「運命の子を産む」

 それで、ぼく以外の誰かであることが分かる。運命という宿命的な響きも神々しさもぼくは有していない。でも、試してみる価値はあった。

「お母さんのこと?」
「ハハハ」と快適に笑った。「きれいだけど、そうじゃない」

 ぼくは出産に至る過程などよくは知らない。数年後にいっしょに暮らしている仲間たちに方法を教えてもらうことになった。不本意ともいえないが、理解不能と一方的に拒否できるほど魅力に欠けるものでもない。

「誰が育てるの?」これはぼくの立場とも通じていた。
「家族はいるんだ。夫婦にもなったし」

 ぼくは夫婦というものであらわせる最大のものと最小のものを思い巡らした。最後はいっしょの墓に入り(当時、相次いで老夫婦が近所で他界したばかりだった)、最も小さなものは、ただ同じ屋根に暮らしているだけで、楽しそうにもしていないひとたち。こちらもサンプルがそばにあった。

「どこが、運命の子なの?」片田舎でちやほやされない境遇であることをまだ認識していないながらも、かすかな嫉妬はあったのだろう。

「待ち望まれていた。何年も何年も」
「誰から?」
「多くのひとから。悲しみの多いひとたちから」

「期待に負けるね」ぼくは最近、覚えたことばを使わないわけにはいかない。

「どうなんだろう」山形さんは、自分が送ってきた日々を思い返すような表情をした。ぼくには振り返るものなどまだない。過去とこれからが等分に近くなれば、より具体的な映像として点検できるのだろう。しかし、点検しても免許のない技術者のように過去は誰にも触れられず、変更ができないものだ。「お前だって、みんなから愛されているんだぞ」敢えて、付け加えるように彼は語った。

 待ち望まれた子どもというものがそもそも納得できなかった。誰も準備通りに子どもなどこしらえないのだ。男女だって半分の確率しかない。ぼくは母を選べない。山形さんは、この家を選んだ。大人にならない限り、自分の意志での選択などできないのだ。ぼくは夕飯の献立を選んでいない。着る服だって、タンスから取り出されたのを着ているだけだ。もっと大きな選択など、ぼくに委ねられるのは遠く先であろう。

「その子は、どうなるの?」
「もっと、ましな生き方を提示した。ひとには優しく、また間違っているひとには間違っていると指摘する」
「それで?」

「素直なひとは改善して、頑固なひとは自分の都合ではなく、彼が正しくないんだと言いふらした。不利益というのを大人はきらうもんだよ」
「ケンカになるね?」
「ケンカになるかもな。裁判で判決を待つほど、悠長な時代じゃないからな」
「お母さんは?」

「そうなることを知っていたのかな、知らないのかな」
「あんまり悲しませない方がいいよね」
「そういうもんだな。でも、大きな使命で生きるひとは関係ない地帯に足を踏み込んでしまうもんだよ」
「使命って?」
「これをしておかないと、後々、気持ちが悪いことだよ。簡単にいえば」

 ぼくの理解の限界を超える。爪を切っておくとか、髪をそろそろ切ろうかとか、母が言うことは使命ではないような気もする。命令ですらない。忠告でもない。もっと優しいものだった。使命というのは息苦しい感じがあった。大人になっても、そういう堅苦しさから逃げたいという誘惑があった。宿題を放棄して、いくつもの行事を無視する。母は悲しむかもしれないし、誰かに、ぼくの行いと、反対の行わなかったことに対して頭を下げるかもしれない。ぼくは責任を使命に転換する。しかし、これも違う。さらに大きな野望なのかもしれない。野望というのは自分のため、という利己的を養分として成り立ってしまうようだ。使命は義務に近い。権利ではない。一方的なプレゼントだ。箱を開けて、その瞬間に驚くようなプレゼントだった。

「いつか、お前も見つけられるといいな」
「見つけないとダメ?」ぼくはまだ逃げ腰である。

「男の子には、したことで誉められ、勲章を首にかけられるようなことが重要なんだよ」と言ってすわってタバコを吸った。「目に見えないものでもな。評価されなくても」

 ぼくは自分の首からメダルがぶら下がっている姿を想像する。運動で。あるいは、勉強と研究で。その運命の子には、いったい何が与えられたのだろう。大きな豪華な家だろうか。子や孫がたくさんいる生活だろうか。それとも、相当な地位や社長という肩書だろうか。山形さんはタバコを踏みつぶして消した。それを合図にぼくらはまた歩き出した。純潔な母を媒介にした関係のままで。


最後の火花 38

2015年03月19日 | 最後の火花
最後の火花 38

 ぼくと光子は水族館にいた。なにかを絶対的に見たいわけでもなく、反対に絶対に見たくないわけでもない。だから、ここにいる。休日の過ごし方。ひとは何かをして時間を潰す。墓に入るまでの猶予の間に。

「ああいう生き方っていいね」光子は上空を眺めながら言った。
「どれ?」

 爪のずっと先にコバンザメがいる。飛行機のエンジンのように均等に左右にぶら下がっていた。ひれと翼の違いがあるにしろ。

「良くない?」
「そうかね」ぼくは自分の裁量で生きなければならなかったのが早くに訪れたことに痛みに似たものがあった。同時に拒否ができるものならしたかったことも覚えている。「主体性がなさ過ぎない?」

「ずっと守られているんだよ」その状態がなにものにも代えがたい魅力のように彼女は言った。

 ぼくに返事はない。魚たちが知恵をつかって生み出したことではないのだろう。本能に頼った習性が勝手に行動を規定する。大人になっても方言が抜けきらないひとのように。もう一部というより捨てられない全部という感覚に近く。

「うっかり、飲まれたりしないのかね?」
「油断しているとあるんじゃないの。会話で協定を決めているんでもないんだから」

 これを許しているからにはどちらにもメリットがあるのだろう。共存。
「束縛でもないけど、許容でもあるのかな」

「うん?」光子は目を見開き、こちらを凝視した。十センチほどの距離しかない顔。それ以上、近付けば互いを視界で認めるのは困難になる。あの小さなサメも視界や視野では目立たないだろう。そもそも魚やサメの視力の鮮明さなど分かりようもないのだが。

 ピラニアもいる。それなりに悪い顔つきをしている。こちらの先入観があるのでよりそう見えるのだろう。

「姿としてならいちばん何が好き?」
「アロワナ」
「食べるとしたら?」

「カツオ」ぼくの好みは変わる。子どものときに食卓にカツオが並んだ記憶などない。ぼくは川魚をよろこんで食べた。あの新鮮さをこの町は受け入れてくれないだろう。そして、あの魚はあの場所でもう一度、食べることに意味があるのかもしれない。

 すると、水槽に餌が入れられて多くの魚の胃袋を満たす。ペンギンもショーの合間にご褒美にあずかる。訓練はアメとムチで成り立つのだ。高等な生物だと思っている自分は別の動機づけが必要になる。メリットは現在という時間軸だけではなく、長きに渡りとか、将来のどこかの地点という感覚も捨ててはいけない。だから、いま頑張るとか、いまは罪を犯せないという風につながった。だが、ぼくの周囲はそういう思考で成り立ってはいなかった。

 ある地点で悪い行為をやめさせるために、あるひとは魚の腹からでて触れ告げた。将来を見越してのことであり、せっかちさも性急さも捨てないといけない。だが、のんびりもできない。ゴールは誰かがもっており、自分の手にはない。能力の有無も無視され、資本の投入もない。ただの絶対的な命令。背くことは罪だった。

 ぼくはイルカを見る。訓練で芸を披露する。自分の意志はないが、能力がないとショーとして成立しない。いや、身体を水中から出すことが意志なのだ。ぼくはなにも分からなくなる。

 座席の前の方はイルカの急激な落下により水しぶきをかぶってしまう。これがエンターテイメントなのだ。迷惑を受け入れることも許容して歓声の一部と化す。みんなが笑っている。ぼくはもっと小さなころにこの楽しみを経験するべきだった。母がいて、山形さんがいたころぐらいの年齢に。

「はじめて?」
「かもしれない。テレビで見たことはあったけど」

 食堂の大きさに比べてテレビは小さなものだった。もちろん、食事中には消えていた。夕飯と睡眠の間のわずかな時間が生きた選り好みのできない情報と接する時間だった。アイドルに思い入れを注ぎ込むには独占という舞台が不可欠のようにも思う。ひとりだけの部屋もない。ぼくはひとりになりたくなかったし、同時にひとりになりたかった。

 ぼくらは外に出た。そこではじめて浜のような匂いがあそこに漂っていたことを知った。いなくなったひとの匂いを思い出すこともあるが、ほとんどの時間、失われている。たまに似たひと、あるいは同一のひととすれ違うから思い出せるのだ。ぼくの鼻に決定権があるのでもない。小さな微粒子がぼくの記憶の底から裏返して、ひっくり返して探そうとする。

「楽しかった?」
「楽しいよ」
「もっと楽しい顔して」
「してない?」
「してない、してない。全然、してない」

 そのフレーズと響きのため、ぼくは笑う。なぜ、楽しくない素振りになってしまうのだろう。ぼくが経験するはずだった楽しみが奪われてしまったため。光子の幼少時の記憶に嫉妬したため。母も山形さんも、当然のことぼくもイルカの水を浴びるべきだったという喪失のため。だが、ぼくは心底、よろこんでいたのだ。それを正当に表せないことが、ぼくの怠惰と罰の後遺症だった。

「罰として、おいしいものを食べさせて」
「罰じゃなくても、食べさせるよ。芸ができたらね」

 光子は鳴きまねをする。見知らぬ子がそれを見て笑った。笑いの波紋がひろがる。たしなめようとする母も自分の子どものまねを聞いて、笑いはじめた。弟は、魚のぬいぐるみを抱きながら、ふて腐れたような表情をしていた。


最後の火花 37

2015年03月16日 | 最後の火花
最後の火花 37

 ぼくと山形さんは川原で釣り糸を垂れている。浅瀬ではもっと原始的な筒状の網を放り込み、いったん入り込んだら抜け出せない仕組みを利用したものに魚がかかるのを待っていた。

 竿先は揺れなかった。時間の経過もまったく気にしないでぼんやりと川面を吹き抜ける静かな風を感じていた。草の匂いは濃厚だった。生命の放出をまったくためらっていなかった。その後、山形さんは小さな魚を二匹だけ釣った。あまりにも小さい方はまた川のなかに離すと、身体を左右にきれいに動かしながら、あっという間に逃げて見えなくなってしまった。魚は学習するのかと考えている。しかし、目の前に餌があれば注意を忘れてしまうだろうことは予測できた。だが、ぼくの餌の周囲には学習済みの魚のみがいるようだった。

「ダメだな。あれ、あげてこいよ」

 と山形さんは仕掛けのある方を指差してから言った。ぼくは期待をしながら糸を引っ張る。なかは重かった。

「入ってるよ」
「いっぱいか?」
「うん」

 山形さんも竿を置き、こちらに近付いてきた。
「入ってるな」山形さんが腰辺りまで持ち上げると、水が勢いよく出た。「うなぎもいて、ナマズもいる」

 小さな魚もかなりいたが、水といっしょに川原に落ちてしまったものもあった。網には破れ目があった。ぼくはそれらをすくい取り、川のなかに放り投げた。
「ナマズって食べられるの?」
「食べられないこともないけど、地震を予知するっていうぐらいだから賢いんだろうな。飼ってみようっか?」

 山形さんは持ち帰り用の袋に移した。その際に、小魚がナマズの口からでてきて驚くことになった。
「でてきた!」
「消化されてないみたいだな」といいながらも手慣れた様子で、ウナギもナマズも袋におさまった。

 ぼくも片方の取っ手をもち、ゆっくりとふたりで歩きながら運んだ。水の量は少なかったがそれでも重かった。ウナギは今晩の夕飯に出るだろう。ナマズは水槽に移される。あの顔は美しいとはいえないが、味があるともいえた。観察の楽しみを想像する。

「むかし、さっきの小魚のように大きな魚に呑み込まれた男性がいた」
「ウソだ。無理だよ」
「無理と言ったら、その話が成立しなくなる。つづきがあるからな」
「直ぐ吐き出されるんでしょう?」

「違うな、しばらくだ。ある使命に背いて船で逃げてしまう男性だった。だが、他の船員にばれてしまい、海に落とされる。使命は使命だ。まだ、有効だから助けられて、数日間、魚のなかにいた」
「気持ち悪いな」

「そうだろうな。何日か経って、吐き出される。それで、あきらめて逃げてきた仕事を果たそうとする」
「どんな仕事?」
「悪いことをやめなさいと隅々まで触れ回ること。彼は、きちんと任務を果たす」

「最初から、やればいいのに」ぼくは自分の身勝手さも忘れ、正論を放つ。
「性格はそれぞれだからな。でも、勤勉に働けば働くほど、自分がうそつきの側に廻ってしまうおそれもあった」
「むずかしいね」ぼくにはそれがどういうことだか、まったく分からなかった。「働くって、いちばん、正直さが大事なんでしょう?」
「その通り」

「どうして、うそつきになるの?」
「悪いことをしているひとが大勢いるので、ここを滅ぼすと告げ廻っているんだ」
「自分で?」

「告げるのだけで、滅ぼすのは別の方」
「いやな役目だね」
「そうだな。だけど、彼は勤勉だって言っただろう。みんな、悪いことを止める」
「すると、どうなるの?」

「町を滅ぼすという指令は撤回されてしまう」
「それでいいのに」
「だが、人間には面子というものがあって、最初の約束をしまい込むにはなかなかむずかしいんだ。彼はふて腐れる。あなたは最初からあの町を滅ぼすことなんか望んでいなかったんでしょう? とな。徒労に終わった自分のためにふて腐れる」
「うん。気持ちは分かるね」

「彼は日陰で休む。燃え尽きたんだろうな。だが、その日陰を作ってくれた植物を枯らしてしまう」
「どうして?」
「彼にものの大事さ、道理を教えるためだよ。こんな小さなものを惜しむなら、ひとの命はもっと大切だろう、とね」

 ぼくは黙る。約束を果たそうとして、自分の遊びですっかり忘れてしまう場面に直面したことを。やろうと思っていたのも確かであり、ごまかそうとする気持ちも同じぐらいに大きかった。だが、結果だけを見て注意される。結果は苦しいほど大切なものだった。今日、釣れた魚の数字。この重さ。夕飯になるもの。

「理解した?」
「どうだろう。結末はオレも知らないんだ」
「気持ち悪いね」
「すんなり終わることもなかなかないんだぞ。ほら、もういいよ。ひとりでもつよ。竿だけ頼む」

 ぼくは二本の釣竿をもった。ぼくと山形さんの背丈のように竿も長短があった。竹の節が手にしっくりと馴染む。たくさん釣れるのも運ならば、引っ掛からないことも運だった。だが、ぼくは山形さんと川にいることが好きだった。魚たちはその楽しい時間を彩る副産物に過ぎない。ぼくは電気を発する魚たちがいることを昨日知った。そのナマズが違うことを願っている。腹のなかの魚はショック死をしたのかもしれない。電気による痺れ。しかし、こころのどこかで感電してみたいとも思った。ぼくは教えてもらえなかったことにふて腐れるかもしれない。だが、ぼくは甘えのなかに存在している。慰められることも期待している。母の胎内にいることの象徴なのかと、さっきの話を反芻していた。出てからの指令も期待して。


最後の火花 36

2015年03月14日 | 最後の火花
最後の火花 36

 ぼくは夢を見た。そう思っているからには目が覚めたことになる。

 内容はこういう不思議なものだった。ぼくは小さな娘を抱いている。不慣れな重心で前方に自然と傾きそうな身体だった。その体勢でエスカレーターに乗ろうとしていた。前にすすまないと乗れないが、歩をすすめると下に倒れそうになる。ぼくは初心者だ。後ろに妻であろうひとがいる。そこはデパートのようだった。どうやらここで待ち合わせをしているらしい。目の前にあらわれたのは妻の姿の数十年後という感じであった。だから、義理の母であると理解する。ぼくは友人に接する以上の丁寧さであいさつをする。彼女もなれなれしい感じがないが、それでも、親しそうな様子であいさつを返した。ぼくらは食堂のようなところに入り、娘を横の幼児用の高めのイスに座らせ、妻とその母を対面にして向かい合っていた。

 目が覚めて不思議な感じがしたのは、ぼくはそのうちの誰とも会ったことがないという理由からだった。娘は当然だが、妻となるひととも、その女性を育てた母にも覚えがない。いったい、彼女らはどこからぼくの夢にもぐりこんだのだろう。どこかで生きているのだろうか。似たひともいない。まったくの初対面。ぼくは不思議以外の感情をもてないでいた。だから、夢として成り立っているともいえた。

「汗、かいているね」

 初夏のような陽気だった。太陽自体が腕まくりをしたようだった。もしくはTシャツ姿の太陽。生き生きと生命感をあふれさせ働いている。恩恵としてぼくらの身体もあたたまり、こころも活動的にした。

「へんな夢だった」
「どんな?」
「結婚して、娘もいて、義理の母にも会う?」
「わたしとお母さん?」
「会ったこともないひとたちだよ」
「正夢とか願望?」
「そうじゃないだろうけど」

 ぼくは立ち上がりトイレに立った。前傾というのは自分しかいなければ、とても簡単なものだった。ぼくはトイレのレバーをずらして水を流す。前傾して手を洗い、前傾して顔を洗った。

「わたしも電話の仕事をしている夢を見た。すべてを盗聴のように監視されていて、対応の仕方をチェックされていたんだ。注意しにきたひとも、休憩中に会話を楽しんだ同僚も誰も知らなかった。不思議だね」
「どこかで会うのかね?」ぼくの謎は、すべてのひとも経験する謎なのかもしれない。
「会うのかしらね、運命的に」

「じゃあ、運命って?」ぼくは、どうでもよい問いを発する。定義など知りたくもないし、深いところでは正解もないのだろう。運命的に出会い、運命的なアクシデントに遭い、運命的に別れる。運命的に失恋して、運命的に再会する。シェルブールの雨傘のガスステーションのように。

「寝言をいっているひとに語り掛けちゃいけないっていう迷信があるよね?」
「そうなんだ」ぼくは前傾して冷蔵庫を開ける。イチゴがある。ミキサーに入れようかと戸棚を探す。「オレ、たまに言う?」
「言うこともあるよ。ジュースにするの?」
「うん」
「わたしも飲む」

 ヒーローでもヒロインでもないふたり。それで充分だった。ぼくには天才などない。二流。二番煎じ。エピゴーネン。ぼくはそういう類いのジャズのサックス奏者のレコードを探して、スピーカーから流した。画期的なことをする理由もない。ただリラックスさせられる。本人は緊張してレコーディングをしたのかもしれないが、聴く側はこころの絡まった糸をほぐされる。

 夢などジュースののど越しのように直ぐに忘れてしまう。だが、ぼくはきょうの夢の印象をなかなか手放せなかった。エスカレーターが危険な場所だとそれまで考えたこともなかった。転がり落ちる心配もない。きれいごとを言えば、ぼくには守るものができたのだろう。

「きょう、髪を切りに行く予定なんだ」
「終わるころ、近くまで行くから食事する?」
「うん」

 ぼくは母に髪を切ってもらった。数回だけ、山形さんが切ったことがある。母は数日後に手直しをした。彼女は器用にできていた。山形さんも実際の機械をいじるのには向いていた。用途がもっと固く、ごわごわしたものに向いているのだろう。繊細な作業と美化を目指すのは機械を直すことと相反する仕事だろうか。

「きれいにしてもらってきな」

 ぼくは二流である。その存在はくつがえらない。また二流のピアニストのレコードに替える。鬼気迫るものなどない。もしかしたら演奏者の名前もいらないのかもしれない。風や芝生や街路樹の匿名性のように。

 数時間後、ぼくは約束の場所に向かうためにひとりで歩いていた。このどこかに夢の妻となるひとがいるのかもしれない。だが、本当は知っている。そんな偶然はないことを。ぼくの願望があの形をとったのだろう。または喪失なのか。ぼくは母に抱かれた日に戻りたいのかもしれない。ひとの夢を解釈する以上に。

 ぼくにもつづきが必要だった。そばに行くと光子は美容師に見送られ楽しそうに話していた。彼は二流でいることを許されないのかもしれない。一日、数人の髪を切り、常に満点を求められる。気を抜くこともできない。ぼくはこの数時間、緊張を強いられることもなかった。今夜もないだろう。楽な人生だ。美しく楽な人生だった。とてつもなく。


最後の火花 35

2015年03月11日 | 最後の火花
最後の火花 35

「夢って意味があるの?」素朴な疑問がぼくにはあった。

「夢、見たの?」と母が訊いた。答えを得られないまま、ぼくは洗面所に行って顔を洗った。洗面所という表現をつかったが、流しに蛇口があるだけだ。石鹸がみかんの網に入れられている。ぼくは泡立てて顔を洗う。

 食卓をかこみながら夢のはなしをする。徒競走をしているが、足が動かない。何度か見たような気もするが、夢であるかどうかを判定するほど、経験も分析力もなかった。

「願望と現状の差なのかしらね?」と母は言う。ぼくに具体的な理解はない。あの映像が生の生活で、この場にいるのが虚像のような気もする。しかし、どちらかに完全に決めてしまうほど、証明する材料も手がかりも確証もなかった。

「むかし、命がけで夢の説き明かしをしたひとがいる」ふたりきりになると山形さんがそうもらした。
「じゃあ、意味があるんだ?」
「むかしはな。遠いむかしはな」
「いまはない?」
「さあ。分からないことは、どう転がっても分からないよ」
「どういうことがあったの?」
「夢をみたけど、それがどういう意味か分からない。それで、何人ものひとを呼んで、答えてもらおうとした」

「何人もいれば大丈夫だね。もんじゅの知恵」ぼくが数人で遊んでいるときに膝を突き合わせてルール作りに励んでいる際に、山形さんがそう言ったことを覚えていた。

「そうだな。だが、なかなかむずかしくて解明されなかった」
「じゃあ、困るね」
「困るな。だが、この話がある以上、誰かがその能力を有していることになる。ヒーローは眠ったままではいられないから」
「どうなるの?」

「悲しいことに権威者が夢を見た。自分におもしろくないことを言えば、生死も委ねられ、地位も立場も簡単に奪うことができる。そのための権威者だからな」
「むごいね。殺されるの?」
「本音とか真実を言うことは、いつもむずかしい。だが、真っ正直に語ってしまった。だが、最後には助かる。これもヒーローのヒーローたる所以だ。そして、続編がつくられる」
「また、つづきは来週で」
「そういうこと」

 真実もまたつづきになってしまった。ぼくの夢はぼくにとっては現実であるが、他人にしてみれば架空中の架空だった。どこにも起こらないこと。まったくの神秘であり、不思議な夜の一コマで終わる。

 白黒の世界。意識をコントロール下に置かないことで訪れる世界。その謎を解けという命令自体が無謀だった。しかし、できたひともいた。ぼくにはまだまだできないことが多い。好き嫌いが食べ物にもあった。いつか偏食が直るのかもしれないが、ずっと変わらないものもあるだろう。意図的に変えないということもある。それは頑固と呼ばれたり、生まれついてのという肯定の意味合いとして認められるものもある。だが、根本的には将来に訪れるであろう変化など分からないし、解釈も求めていない。

「おじさんも夢を見るの?」
「そりゃ、見るよ」
「楽しいの? 悲しいの?」

「大人って、楽しみの分量が徐々に減っていくもんだよ。暮らしの心配や生活もあるし、やってしまった失敗もそう簡単に覆るものでもないし」
「それも悲しいね」
「でも、自分だけという自由もある。学校で算数が解けないことで叱られることもない。むだなことも省いても怒られることもなくなるし」
「じゃあ、バランスが取れてるね」
「そういうもんだよ」

 現実をよくしようとする動きのひずみが夢にあらわれる。ぼくは分析ばかりしている。世の中に分析など必要ないのだ。予測も反省もない。ぼくはただの子ども。この一瞬だけを生きる子ども。深く寝ても朝には誰かが揺り起こしてくれる子ども。日用品のストックを心配しなくてもよい子ども。いつか辞めなくてはならない立場だが、それまでは力も権威もないが充分に恵まれた環境のひとりだった。

「夢の説き明かしの通りになったの?」
「その通り。失敗は許されないから」
「失敗をすると思うと、緊張するよ」ぼくは食事中にくしゃみをしたくなる癖があった。行儀の問題よりもっと前の話だ。鼻がむずむずする。そちらの咄嗟の意識がぼくの気持ちの主導権を勝手に奪ってしまう。
「訓練すると、上達するよ、なんでも。楽観的になるといいよ」
「この前は、適度な緊張感が大事だと言ってたよ」
「やることによって多少、違う。走る前は、すこしの緊張が自分のパワーを存分に発揮する役目にたつから。テストは自分ひとりで受けているぐらいの勇気と度胸が必要だな」

「緊張すれば? 緊張しすぎれば?」
「萎縮してしまう。自分の実力すら出せなくなってしまう」
「覚えておくよ」とぼくは言う。覚えておくかどうかも本当はぼくの意志ではない。ぼくの一部分が勝手に司って働いているだけだ。覚えていると誓って忘れ、忘れようと願っても、いつまでも居つづけるものもいるし、あった。
「そうだな。お前はやるよ。いつも勝つ側にいられるよ」

 無責任な誓いをひとびとは絶えずする。それも励ましの一部だった。誰が実力以上に自分を認めてくれるだろうか。ぼくの成長に責任あるひとだけだ。山形さんも担ってしまう。母だけが、信頼感を無心に浴びせるひとだったのに。たったひとりの。


最後の火花 34

2015年03月09日 | 最後の火花
最後の火花 34

 ぼくはひとが成熟するということを知らなかった。あの少女がぼくの母と同じ年齢になれるとも本当に思っていなかった。未来もなければ、逆算もない。大人になった自分は過程のことを考えられる。ある種の予測がきちんと全うすることも、裏切られることも知っている。驚きが減るからこそ大人になるのだ。正しいとか誤りすら問題にしない大人になる。鈍麻。無頓着の勝利。

 だが、あの少女は確実にぼくの母の年齢を越す。ここにいる光子と同じように。

 こころにのこるラブレターのような番組がテレビで放映されていた。有名人も賢者も恋をすれば、足首に巻きつかれる愚かさの錨の重さからまぬがれられない。時が経てば恥に通じる。だとしたら恋の現実は恥と定義できるのだろうか?

「書いたことある?」光子がチョコレートを食べながら訊く。そして、腕を伸ばして皿をぼくに近付けた。
「ないと思うよ。なんでだろう…」
「書くに値する子がいなかった?」

「どうだろうね」ぼくという存在が好意より嫌悪に密接していた時期があった。だから、すべての関係性に躊躇をしていた。ぼくは殺されるような体験をする母をもっている子どもなのだ。負の側に招き寄せられる。「もらうとうれしい、やっぱり?」

「そりゃそうだよ」
「あなたの息はりんごのよう。いちごのような唇」
「なにそれ?」

「口説き文句。白い歯って、ええな」
「トマトのような唇だけど、わたし」
「冷えたトマト、きらいだよ」
「冷たくないよ、あったかいよ、こんなに」

 ぼくはラブレターというぬくもりのないものを愛せるかどうか考えている。しかし、あれはあれで温度も湿度もあるものだろう。

「光子はもらった?」
「もちろん、もらったし、それに、たくさん書いた」
「たくさん書くようなもの?」
「ヒット曲は、毎年、生まれるんだよ」

 ヒット曲は次の段階として、懐メロという役割を帯びる。出世魚のように。骨になるだけの運命の魚たち。
「動物園でも行くか」
「なんで、また急に?」
「最初に行ったときの感動を思い出したくて。それに、たくさん、種類が増えているだろう、最近は」

「実際に触れるところもあるよ、背中とか。そこにする?」

 日曜日。ぼくは自分の文字を最近、見なくなっている。印鑑ではなくサインで本人の証拠としてすます地域もあるそうだ。筆力や癖は工場で彫られた安物の印より、そのひとをより表すだろう。ルールというのは疑問をもたなければ流れ作業の一員でいられ、「?」というマークを個々につけてしまえば、すべてが複雑極まる足かせと段差になった。

 象にキバはなかった。キリンの首は思った以上に長かった。意志の疎通が充分にとれそうな小さな動物たちもいた。歴史上、クマに襲われた人数の統計をあたまに浮かべる。正確な答えなどもちろんない。凡そという数字もでてこない。ぼくが育った場所にまぎれこんで居付いた犬のことを思い出していた。だが、名前は犬の代表のようなものだったことは思い出せても正確な答えはここでも出てこなかった。ぼくは執着すらおそれるようになっていたのだろう。それらは剥がされる前提として存在していた。

「どれが好み?」
「どれといってもないけど、シロクマかな」
「ちょっと、黄色いね」

 みんな檻のなかでは完全ではいられない。個性を隠して、看守の顔色をうかがう。あるいは教師、もしくは飼育員のを。
「光子は?」
「子ザル。抱っこされている小さいの」

 母性本能という漠然とした包みをぼくは考える。本能というからには絶対的に備わっていなければならない。父性というのはある種の役割を担ってからはじめて芽生えるのかもしれない。だが、弟や妹思いのお兄さんもいる。トップに立ちたがるサルたち。ボスという本能と嗅覚。ラブレターもなく、もっと根源的な魅力と恫喝で会得するのかもしれない。

 ぼくらは園のそとにでる。夕暮れと空腹というのがセットで訪れる。雑踏の町。薄暗くなった町はネオンを手繰り寄せる。サルが太鼓を叩くおもちゃがある。シンバルを打ちつける古典的なものもおもちゃ屋に並べられていた。購入をそそられるにはいささか古びているような気もする。もっと性能の良いゲームを少年たちは求めるだろう。

「誰が買うんだろう?」とぼくはぼそっと言った。
「売り物というより、おもちゃ屋の目印じゃないの。客寄せパンダ。サルだけど」

 多くの男女が駅前で待ち合わせをしているようだった。通信を手紙という時間差のあるものに頼るわけにはいかない。だが、永遠に生き方を変えてしまう力を手紙は有しているのかもしれない。
「どこにする? ここにする?」ぼくの足は棒になる。
「もうちょっと見てからにしていい?」
「いいよ」

 お客を自分の店に引き寄せようと、数人から声をかけられた。光子は立ったままメニューを確認していた。一度の食事。一度の手紙。一度の会話。息はリンゴにはならない。ぼくはあくびが出た。眠いわけでも退屈なわけでもなかった。酸素の供給量のような気もする。光子は決めた。ぼくらは連れ立って店員のあとを追い駆ける。エレベーターのボタンが押され、彼はまた路上にもどった。


最後の火花 33

2015年03月03日 | 最後の火花
最後の火花 33

 近所のお姉さんがラブレターをもらったとか、あげたということがぼくの家で話題になっていた。ひとの炎の周りを囲み、踊って賑やかになる。

「どんな手紙?」ぼくは好奇心を示す。
「大体は、好きと告白するんだよ」
「手紙でわざわざ?」
「手紙でわざわざ」
「どういう感じがするの?」
「大人になってもらえば分かるよ」
「おじさん、もらった?」

「もらったかな」そう言い終わる前に山形さんはほほ笑んだ。ぼくはその表情で受け取って訪れる感情を想像してみる。だが、書くべき内容などぼくにはまったく浮かばない。同時に書かれている内容も分からない。いくつもの言葉の組み合わせで喜ばすこともでき、悲しませることもできるのだろう。ぼくは子どもながら当事者でないことに安堵していた。好きというのはそうそうありそうにもなかった。両者の気持ちが一致することも、ほとんど不可能か、奇跡のようにも思えた。

「どんなことを書くの?」ぼくは山形さんと歩いている。彼が母に書くようなことはもうないだろうと疑っていながらも訊ねる。

「まあ、誉めるんだな。誉められて腹が立つなんて、普通は滅多にない」
「誉めるんだね」
「いつかな。だけど、無暗に誉めてもなんだし、的確に誉めるには注意力がいるな」

「どういう風に?」
「そうだな」彼は思案する。「あなたの息はりんごのようだとか」
「りんごジュース、飲んだの?」
「甘酸っぱいということだよ。身体の特徴についても、スタイルがいいとかね」

「どういう風に?」
「あなたの首は象牙の塔みたいだとか」
「象牙って?」
「象のキバ」
「それで、誉めてるの?」

「あれは印鑑をつくったり、貴重なもんだし。さらにすべすべして色が白い例えかもしれないな。動物園で確認するか」

 ぼくはまだ動物園というものに入ったことがなかった。いたるところで動物をみつけてひとつの場所に集める。ぼくはそこでケンカがはじまらないのかと不安になった。犬と猫でもささいないさかいをまき散らしていた。もっと多数のものがいれば、面倒もその分だけ増えるだろう。

 ぼくは歩いている。自分が誉めことばを受けるに値するためには、どんな価値が必要なのかと想像していた。誰かの子どもとなること。別の優秀な遺伝子。ぼくはそんなことはまだ知らない。しかし、よそのおばさんがひとに高低をつけたがるのは気付きはじめていた。ぼくは特別、上にはいない。もっと広い家。もっと広い庭。先生という総称で呼ばれる職業の息子や娘。

「ケンカに負けないためには反対のことを言えばいい」

 ぼくは既に泣いて帰った経験がある。山形さんは不快な顔をする。母は抱いてなぐさめようとする。その行為のために、ぼくは涙を流さないために努力を要することを知る。

「りんごの息の反対?」

 山形さんは静かに頷き、ぼくの答えを何遍も促した。「家に帰ったら、汚いことばを使ったらダメだぞ」

「うん」ぼくは、この時間を大切にする。後日、味方がひとりも居ないところに入り、敵から仲間に移行する間に何度、これらのことばを活用したことだろう。その為に、頬や身体にいくつかの傷をつけた。だが、倍以上の数をぼくは相手に刻んでいたのだ。動物園のサルの大将となんらかわるところのない競争と自意識。

 ぼくは家に入り靴を脱いだ。使うことばを変化させる。ぼくはまだ誰にも手紙を書いたことがなかった。能動的に文章を書こうという意図もなかった。メモすら書かない。だが、母の書き記したメモでおやつの場所を知る。母が居ない間にするべきこともこれで理解できた。しかし、それは伝達ということのみを主にしたものだった。ちょっと気分をよくさせるという魔法はここにはない。その差がぼくには分からない。分かるまでには年数を要するだろう。

「手紙を書くなら字がきれいだと、少し賢く見える。字もデザインだから、絵も上手になれる」

 ぼくは混乱する。発した山形さんに直ぐに質問をして解答を得ようとした。
 答えは、四角という空白にバランスよく書くことがコツらしい。線やマス目がなくてもそれを感じて全体に見合った大きさにする。ぼくは新聞の字のようにうまく書ける機械を考えていた。誰もが同じようなきれいな字を書ける機械。でも、それでは個性がなくなってしまうのだろう。

 すると、個性すら欠点や美点を内包するからこそ成り立つということになる。誰も欠点は誉めないだろう。ぼくはある女の子のことをあらためて考えてみた。彼女がぼくより足が遅いからといってキライになるわけでもなかった。これは欠点なのだろうか? 追い駆けられて直ぐにつかまり泣き出すことも欠点とはならなかった。そのことを兄に告げ口することは欠点にも思えた。ぼくの頭は痛いゲンコツにつながることを予想するので、結果も欠点だった。というか減点だった。だが、ぼくはアフリカの四本足で走り、スピードを讃えられる動物のように追い駆けない訳にはいかなかった。ぼくはついでにラブレターのことを考えてみる。あの女の子にはどんな誉めことばがふさわしいのだろう。息も知らない。首の形も思い出せない。カラフルなスカート。たまにつける髪をとめるリボン。これはあの子というより、あの子自身をまとう、装うものだった。


最後の火花 32

2015年03月02日 | 最後の火花
最後の火花 32

 本当に得たいひとのところに品物は来るべきなのだ。いちばん、大事にするひと。

 ぼくは光子の部屋に置いてあった方丈記を勝手にもちだして読んでいた。自分の力ではどうしようもないことが、若いころのぼくの身に降りかかった。ぼくは解決方法も分からないままその重い毛布の下から逃れようとした。それがうまくいったのか、まったくの裏目にでたのかもいまだに判断できない。ここにいまいることが常に正しければ、上々だったともいえる。仮想ということが人間の脳のどこかで活躍を求めているならば、当然、失敗の要素も結果もきれいに拭えない。高等たる人類の脳というものを捨て切らなければ幸福も訪れないのかもしれない。また、ぼく自身に幸福が訪れる価値も予感もそうそうつかめなかった。

 しかし現在の幸福を楽しめない大人にもなりたくなかった。ぼくはいったん本を閉じ、あのときのやる瀬なさや虚無感を引っ張り出そうとしていた。

 すべては終わりに近づくために行っている。早く終わってほしいということもあれば、この状態をずっと維持したいという願望もある。ぼくは母と山形さんがいる生活を望み、いなくなった日々の淋しさと怒りを早く終わらせたかった。

 だが、どんな努力も時間の経過には敵わない。落ち葉が堆肥となる長い時間が必要だった。いくつもの獣の足にも踏みつけられ、虫たちがその陰でせっせと補助部隊として働く。ぼくはまた本を開く。

 自分が主導権をにぎって決定できない類いのことを山形さんは語った。自分が決定したことによる罪の重みもあった。選択の自由のご褒美としての後悔と罪悪感。ぼくはひとの所為にしたい誘惑にかられる。母を選んだのはぼくだったのか。ただ待合所で次の空いている腹を待っていただけなのか。運行しているバスは無数にあったのに。前後左右に。

 若さというのは自分で切り開くことではないのだろうか。ぼくはこの本に敢えて抵抗感を呼び覚まそうとする。死ぬまで全力で、そして、燃え尽きるというタイプもいて歌とギターでその性分を披露する。若いままでいられることを疑わない少女たちも共鳴して応援する。

 最後。最後の日の態度。報われるということも栄誉も寿命に一日分を付け加えてくれるわけでもなかった。数々の思い出だけがのこる。思い出は過剰に美しくなり、極端に悲劇を圧縮した。浅瀬のような部分は皆無だ。陸かおぼれるほどの深さか。それしかない。

 ぼくは読み終える。そう長いものでもない。だが、一生ささったままの棘をぼくに突っ込んだ。これがしたいために本を読み、これをしたくなかったために快活に生きようとした。その間で自分ができあがる。

 賢いひとになる必要があるのか。それは幸福に直結するのだろうか。疑問もなく、ありのままに波のように来る日も来る日も送れたら、偉大にならないにせよ幸せにより近付く可能性がある。

 ぼくは本をまた光子の本棚に戻す。ちょうど、それぐらいの薄いすき間がのこったままだった。ぴったりとはめる。ぼくが読んだことも誰も知らない。

 誰も知らないということが唯一の幸福なのだ。母と山形さんはある日、世間に見つかってしまった。ぼくも埋もれるのが単純にむずかしくなった。ぼくに論破も言い訳もない。彼らの失策は同時にぼくの失策であるのだ。ぼくはあの待合室で呼ばれた日を想像する。一致した番号を両者がにぎり、その片割れの母の胎内に移動する。

 光子は料理の材料を手にして戻ってきた。ぼくは換気のために開けていた窓を閉める。一定にしか刻まない温度の高低をぼくらの身体は別々に感じる。

「さっき、誰に会ったと思う?」と彼女はうれしそうに話し出した。

 ぼくはそのひとを映像化させる。ぼんやりとした目鼻立ちしか分からない。ぼくは会うという事態を一時、避ける運命になった。再会はよろこびではなく苦痛の側にいた。ぼくを守る母も山形さんもいなかった。そして、彼らの行いがぼくを孤立へと導いた。

「今度、会ってみる?」とぼくは訊かれる。友人の多さは常に善だった。
「うん。どっかに行こう」
「乗り気じゃない?」
「そんなこともないよ」探すにときがある。知恵あるひとは、いろいろなことを教えてくれる。

 ぼくらはテーブルに向かい合う。肩を並べて食べたあの食堂の記憶。ずるさをむりやり覚えさせられた幼少時。狡猾な群れ。ぼくはそこにいまもいる。一部だがいまもいる。

 光子は偶然あったひととの貴重な思い出を話し止めなかった。共通の過去を未来に引きずり込むことも幸福につながるのだろうか。失ったものは、そのまま放置して腐敗されるに任せるしか方法はないのかもしれない。それでも、勝手に美化される。漂白も、循環もないのに、きれいなものとして化けてしまう。ぼくはおそろしくなる。それを消すように汚れた皿を運び、勢いよく流水で流した。ぼくの体内にも浄化槽のようなものがあるだろう。汚泥があればあるほど、性能の良さを見極められる。美はひとを惹きつけ、醜はひとを突き放した。強い力をともなって。完全にではないが。