最後の火花 43
母と山形さんの間では結婚のような話がされていた。いっしょに住むことと結婚との相違がぼくには分からなかった。誓いのような部分が増えるのだろうか。ぼくにもいつかそういうひとが現れるのかもしれないが、少女たちのずるさの根のようなものに拒否をしたがる自分もいた。
ぼくは今日も山形さんと歩いている。彼が父親の役目をあらたに負っても何の問題もなかった。すでに靴に足は入りかけていた。今更、脱いでもらうほどぼくの潔癖感は薄かった。
「立ち直ること」突然、山形さんが言う。「立ち返ることかな……」
「なんのこと?」
「人間がね」ためらいがちに彼はつぶやく。「人間にとっていちばん美しい場面」
ぼくにはその根拠となることも、前例もまったくない。子どもなんか明日という観念もなくまっすぐに突き進んでいるだけだ。やり直すことの貴さも潔くない反証も、どちらもできないし知らない。
「どうやって立ち直るの?」
「きっかけを見失わないことだな。些細なきっかけだとしても」
失敗だという後悔の感情がもたげる。依怙地になるのも自由だし、反省するのも自由だった。そういうことを山形さんは説明して、いつものように物語の部屋の扉を開けはじめた。
「勢力に反対している。古典ということを大切にすれば、新興勢力は排除しなければならない」大人はむずかしいことばを使うものだった。
「まったく分からないよ」
「あるひとは昔の規則が大好きだった。ルール変更があっても、前の方法で攻めたり、守ったりしている」段々とぼくに近付いてくる内容だった。「もしくは新しいものを買ったのに、わざわざ、使い慣れている所為もあるが、旧いものを引っ張り出して使っている」
「ものは大事にしないと」
「その通り」
ぼくの足もとの靴は新品とは呼べなかった。だが、靴屋の前を毎日、通りがかる暮らしでもないので欲求も渇望も膨らまずにすんでいた。
「どうなるの?」
「大事なことに気付かされる。身をもって」山形さんは上空を仰ぎ見た。太陽がまぶしいのか目を瞬かせた。「誰もが根底から覆すほどの大きなきっかけを与えられるわけもないけど、いつものように例外というのもあるんだ」
「なにが起こるの?」
「目が見えなくなって、声だけが聞こえる」
ぼくは目をつぶってみた。山形さんの歩く音が聞こえた。ぼくはまた追いつくように走った。
「待って」
「よく聞こえたか?」
「目が開いてないと不安になるよ」
「五感というぐらいだから」
「なにそれ?」
「見ること、聞くこと、さわること、味、におい。人間が外部のものを判断するときに真っ先に働くもの」
「ひとつでもないと大変だね?」
「大変だろうな。親からもらった大事なものだから」彼はウィンクをした。片目をつぶって微笑みも片頬に浮かべる。「それからだな、反対されているひとが間違っているといさめてくる」
「正しいことに気付くの?」
「気付かざるを得ない。しばらくして目も再び見えるようになった。そして、回心。立ち直る」
「正しい道を歩む」
「だから、失敗を恐れることもない。間違いも恥ずべきことでもない。ただ、分かったら素直に謝ったり、もう一度、立ちかえればいいんだ」
「でも、一回目からきちんとした方がいい?」ぼくは母の結婚にどこかで拘っているのかもしれなかった。
「タイプによるよ。直ぐにできるひともいれば、失敗しないとすすめないという面倒なタイプもいる。どちらが正しいということもないから」
ぼくは自分がどちらに属す人間なのか考えようとした。失敗と呼べるほどのものもなく、成功体験もない。合格も不合格もなく、放棄も棄権もない。ぼくはまだ子どもなのだ。抵抗するにも受容するにも裁量や権限など与えられてもいなかった。
山形さんは話し足りなそうな感じもして、同時に、すべてを語り尽くした充足感のようなものもあった。その証拠のように口をすぼめて、いつもの如くタバコを吸った。ぼくはそのパッケージを山形さんと同義語とした。一致させる意味合い。彼がその色であり、その匂いが彼だった。ぼくはその後もその匂いに拘泥した。
「ずっといっしょにいられるの?」ぼくは用意もしていなかったが、ついそう口にしてしまった。
「そうなっても構わないか?」
「お母さんに訊いて」ぼくは恥じらいという感情があることを知る。口に出してはいけないことを言いながら、返答を理解できない子どもだと振る舞いたかった。その不自然さと自分の演技の差が、恥になったのだろう。
「大人になるまで見守るよ」
彼は宣言する。その宣言こそが美しいのだ。守ろうが、しくじろうが宣言が美しい。ぼくは失敗を恐れないことを学んだばかりだった。自分自身というより生きている全員に当てはまることなのだ。ぼくは狭量である。そして、許容したいとも願っている。ひとを責め、その後に許す。許していると勘違いして糾弾している。五感を教わったばかりだが、大人になればもっともっと複雑な感情を有しているのかもしれない。タバコを吸い終わる山形さんの横でぼくは固く目を閉じた。タバコの炎の最後の音がして、踏みつぶす砂利の音もした。目を開けたら、彼は父親になっているのかもしれない。ぼくは呼び方の変更を余儀なくされる。またそのことも恥ずかしく目を簡単に開けられなかった。
母と山形さんの間では結婚のような話がされていた。いっしょに住むことと結婚との相違がぼくには分からなかった。誓いのような部分が増えるのだろうか。ぼくにもいつかそういうひとが現れるのかもしれないが、少女たちのずるさの根のようなものに拒否をしたがる自分もいた。
ぼくは今日も山形さんと歩いている。彼が父親の役目をあらたに負っても何の問題もなかった。すでに靴に足は入りかけていた。今更、脱いでもらうほどぼくの潔癖感は薄かった。
「立ち直ること」突然、山形さんが言う。「立ち返ることかな……」
「なんのこと?」
「人間がね」ためらいがちに彼はつぶやく。「人間にとっていちばん美しい場面」
ぼくにはその根拠となることも、前例もまったくない。子どもなんか明日という観念もなくまっすぐに突き進んでいるだけだ。やり直すことの貴さも潔くない反証も、どちらもできないし知らない。
「どうやって立ち直るの?」
「きっかけを見失わないことだな。些細なきっかけだとしても」
失敗だという後悔の感情がもたげる。依怙地になるのも自由だし、反省するのも自由だった。そういうことを山形さんは説明して、いつものように物語の部屋の扉を開けはじめた。
「勢力に反対している。古典ということを大切にすれば、新興勢力は排除しなければならない」大人はむずかしいことばを使うものだった。
「まったく分からないよ」
「あるひとは昔の規則が大好きだった。ルール変更があっても、前の方法で攻めたり、守ったりしている」段々とぼくに近付いてくる内容だった。「もしくは新しいものを買ったのに、わざわざ、使い慣れている所為もあるが、旧いものを引っ張り出して使っている」
「ものは大事にしないと」
「その通り」
ぼくの足もとの靴は新品とは呼べなかった。だが、靴屋の前を毎日、通りがかる暮らしでもないので欲求も渇望も膨らまずにすんでいた。
「どうなるの?」
「大事なことに気付かされる。身をもって」山形さんは上空を仰ぎ見た。太陽がまぶしいのか目を瞬かせた。「誰もが根底から覆すほどの大きなきっかけを与えられるわけもないけど、いつものように例外というのもあるんだ」
「なにが起こるの?」
「目が見えなくなって、声だけが聞こえる」
ぼくは目をつぶってみた。山形さんの歩く音が聞こえた。ぼくはまた追いつくように走った。
「待って」
「よく聞こえたか?」
「目が開いてないと不安になるよ」
「五感というぐらいだから」
「なにそれ?」
「見ること、聞くこと、さわること、味、におい。人間が外部のものを判断するときに真っ先に働くもの」
「ひとつでもないと大変だね?」
「大変だろうな。親からもらった大事なものだから」彼はウィンクをした。片目をつぶって微笑みも片頬に浮かべる。「それからだな、反対されているひとが間違っているといさめてくる」
「正しいことに気付くの?」
「気付かざるを得ない。しばらくして目も再び見えるようになった。そして、回心。立ち直る」
「正しい道を歩む」
「だから、失敗を恐れることもない。間違いも恥ずべきことでもない。ただ、分かったら素直に謝ったり、もう一度、立ちかえればいいんだ」
「でも、一回目からきちんとした方がいい?」ぼくは母の結婚にどこかで拘っているのかもしれなかった。
「タイプによるよ。直ぐにできるひともいれば、失敗しないとすすめないという面倒なタイプもいる。どちらが正しいということもないから」
ぼくは自分がどちらに属す人間なのか考えようとした。失敗と呼べるほどのものもなく、成功体験もない。合格も不合格もなく、放棄も棄権もない。ぼくはまだ子どもなのだ。抵抗するにも受容するにも裁量や権限など与えられてもいなかった。
山形さんは話し足りなそうな感じもして、同時に、すべてを語り尽くした充足感のようなものもあった。その証拠のように口をすぼめて、いつもの如くタバコを吸った。ぼくはそのパッケージを山形さんと同義語とした。一致させる意味合い。彼がその色であり、その匂いが彼だった。ぼくはその後もその匂いに拘泥した。
「ずっといっしょにいられるの?」ぼくは用意もしていなかったが、ついそう口にしてしまった。
「そうなっても構わないか?」
「お母さんに訊いて」ぼくは恥じらいという感情があることを知る。口に出してはいけないことを言いながら、返答を理解できない子どもだと振る舞いたかった。その不自然さと自分の演技の差が、恥になったのだろう。
「大人になるまで見守るよ」
彼は宣言する。その宣言こそが美しいのだ。守ろうが、しくじろうが宣言が美しい。ぼくは失敗を恐れないことを学んだばかりだった。自分自身というより生きている全員に当てはまることなのだ。ぼくは狭量である。そして、許容したいとも願っている。ひとを責め、その後に許す。許していると勘違いして糾弾している。五感を教わったばかりだが、大人になればもっともっと複雑な感情を有しているのかもしれない。タバコを吸い終わる山形さんの横でぼくは固く目を閉じた。タバコの炎の最後の音がして、踏みつぶす砂利の音もした。目を開けたら、彼は父親になっているのかもしれない。ぼくは呼び方の変更を余儀なくされる。またそのことも恥ずかしく目を簡単に開けられなかった。