16歳-32
最後のデートからおよそひと月ほどして手紙が届いた。放置の期限である。ぼくは文字を読む。その後も自分がずっとしつづける行為でもあるが、ダイレクトにもっとも響いたのは、根底から揺るがしたのは、この文章であった。彼女はぼくとの短い期間で終わってしまった交際にありがたくも感謝を述べている。非難も叱責もない。その後、何度も別の女性にはされたことなのに、若い彼女はしなかった。
ぼくは呆気にとられる。この期間に進展も発展の努力もしないくせに、ここで終わってしまうのかという単純な驚きである。そして、自分は愚かなことをしてしまった、そのために何もしなかったという自分への憐みがともなったものである。ぼくは彼女のこころがわりを覆す努力をしようとも思わなかった。なにもリアクションがなければ、それはすなわち同意である。ここで完全に終わった。すべての終わりはさっぱりするものでもないということも教えられる。後味の苦さ。
ぼくがとった行動は二つあった。
先ずは写真を焼いた。こうすれば簡単に次にすすめると浅はかにも考えたからかもしれない。これほど陳腐で言い古された慰めとならない言葉が持ち主のない空中から耳打ちする。彼女ひとりが女性じゃないよ、と。だが、ぼくにとってひとりだった。アマチュアの競技者が四年間追い求める唯一の大会のように。
写真と実物との差は歴然とあるというが、記憶にあるその写真は彼女そのままの愛らしさを寸分の狂いもなく刻み付けていた。ぼくは失う。後日、グループでデートした友人がその写真をもっていた。やはり、愛らしさという虚勢も化粧も施さない表現がいちばんぴったりときた。
だが、焼いた。ぼくのこころからもいなくなった。そう単純に終わればよいが、そうはいかない。埋葬の許可もないまま葬ることはむずかしい。いずれ土中から暴かれる。
あとひとつは、すべてがいやになりバイトを辞めた。高校も辞め、バイトも辞める。もし仮に自分の身内にそういう選択をする若者がいるならば、ぼくもやはりまっとうな道をすすむよう押しとどめたい。
だが、ぼくが取らなかった行動の方がのちのちの影響は大きく、傷もひろがった。しないということが、こんなにも力を発揮するとは当然に予想もしていない。その結果のひとつひとつを拾い集める。数としては神社の境内の銀杏ほどもないが、そんなに少なくない数でもあった。しかし、大まかに言えばひとつの不幸という総称でまとめてもよさそうだった。
ぼくはまだ十六才である。このときの恋など簡単に忘れてしまうだろうとも思っている。彼女には悪いが。世界には数えきれないほどの女性がいた。若くて魅力があり、ぼくのことを好きになってくれるひとも彼女が最後だとも思えなかった。しかし、日が経つにつれ、いちばん欲しいのは彼女とのあのなにもない時間であることに気付いた。しつこいようだが、ぼくは若かった。この、もしかしたら自分で招いた苦難を乗り切るのはそうむずかしくなさそうだった。毎日、悲嘆にくれるには元気もありすぎたし、エネルギーも充ちていた。満タンの車はどこにでもいけるのだ。それでも、点火の仕組みはどこかで狂いはじめていた。
ぼくは、なぜはっきりときらいになったわけでもない相手との交遊を、こうも簡単に投げ捨ててしまうことをためらわなかったのだろう。次がいたからという理由でもない。打ち込むためのなにかが待っている訳でもない。ただのシンプルな欠陥品だ。根底には両親のいさかいというものが影響を与えているのかもしれないが、その部分をひとの所為にするのもずるかった。それに、これはぼくの人生である。すべての良いことも、悪いことも、世間や環境の下での避けられなかった被害ではなく、自分を基盤にしたうえでの意識した主体性での選択、あるいは逃げられない無意識での流れと思いたかった。どちらにせよ、加害者側であり、加担するという方式をとっているはずだった。
彼女にも選びたい次があるのだろう。連絡をくれない相手を気長に待っているほど、魅力がうせたわけでもない。充分、若い蜂々を惹きつけられることが可能な存在のままなのだ。
だが、ぼくはそれを遠い架空の世界であるとでも思っていたのだろう。アリババの話とか、シンデレラの靴の物語でもあるように。
いままで何度もかけた電話番号がもういらなくなった数字になったことを知った。その数字の組み合わせを覚えていても、彼女にかける権利はもうないのだ。選挙におちた政治家。クビをきられた会社員。もう威力のあるボールを投げられなくなった野球選手。ぼくも同類だった。まだ十六才だったのに。
気持ちというのは断続的ではなく継続性のあるものだった。ボーリングの球のような重い球体を坂道からゆっくりと転がす。はじめは止めるのも容易で障害物に引っかかることも起こり得た。だが、次第にそのものが力強さを増し加え、意志のようなものまでもつように感じられる。失恋したからといって急に停めることもできない。それ自体が、もう勝手な主導権をもって動いているのだ。だが、どこかの壁にぶつからなければいけない。もしくは川や沼のようなところに落ちなければいけない。そこが実際の終点であり、終止符である。ぼくは転がるものから飛び降り目にしないで終わらせよう、済ませようともまだ考えている。
最後のデートからおよそひと月ほどして手紙が届いた。放置の期限である。ぼくは文字を読む。その後も自分がずっとしつづける行為でもあるが、ダイレクトにもっとも響いたのは、根底から揺るがしたのは、この文章であった。彼女はぼくとの短い期間で終わってしまった交際にありがたくも感謝を述べている。非難も叱責もない。その後、何度も別の女性にはされたことなのに、若い彼女はしなかった。
ぼくは呆気にとられる。この期間に進展も発展の努力もしないくせに、ここで終わってしまうのかという単純な驚きである。そして、自分は愚かなことをしてしまった、そのために何もしなかったという自分への憐みがともなったものである。ぼくは彼女のこころがわりを覆す努力をしようとも思わなかった。なにもリアクションがなければ、それはすなわち同意である。ここで完全に終わった。すべての終わりはさっぱりするものでもないということも教えられる。後味の苦さ。
ぼくがとった行動は二つあった。
先ずは写真を焼いた。こうすれば簡単に次にすすめると浅はかにも考えたからかもしれない。これほど陳腐で言い古された慰めとならない言葉が持ち主のない空中から耳打ちする。彼女ひとりが女性じゃないよ、と。だが、ぼくにとってひとりだった。アマチュアの競技者が四年間追い求める唯一の大会のように。
写真と実物との差は歴然とあるというが、記憶にあるその写真は彼女そのままの愛らしさを寸分の狂いもなく刻み付けていた。ぼくは失う。後日、グループでデートした友人がその写真をもっていた。やはり、愛らしさという虚勢も化粧も施さない表現がいちばんぴったりときた。
だが、焼いた。ぼくのこころからもいなくなった。そう単純に終わればよいが、そうはいかない。埋葬の許可もないまま葬ることはむずかしい。いずれ土中から暴かれる。
あとひとつは、すべてがいやになりバイトを辞めた。高校も辞め、バイトも辞める。もし仮に自分の身内にそういう選択をする若者がいるならば、ぼくもやはりまっとうな道をすすむよう押しとどめたい。
だが、ぼくが取らなかった行動の方がのちのちの影響は大きく、傷もひろがった。しないということが、こんなにも力を発揮するとは当然に予想もしていない。その結果のひとつひとつを拾い集める。数としては神社の境内の銀杏ほどもないが、そんなに少なくない数でもあった。しかし、大まかに言えばひとつの不幸という総称でまとめてもよさそうだった。
ぼくはまだ十六才である。このときの恋など簡単に忘れてしまうだろうとも思っている。彼女には悪いが。世界には数えきれないほどの女性がいた。若くて魅力があり、ぼくのことを好きになってくれるひとも彼女が最後だとも思えなかった。しかし、日が経つにつれ、いちばん欲しいのは彼女とのあのなにもない時間であることに気付いた。しつこいようだが、ぼくは若かった。この、もしかしたら自分で招いた苦難を乗り切るのはそうむずかしくなさそうだった。毎日、悲嘆にくれるには元気もありすぎたし、エネルギーも充ちていた。満タンの車はどこにでもいけるのだ。それでも、点火の仕組みはどこかで狂いはじめていた。
ぼくは、なぜはっきりときらいになったわけでもない相手との交遊を、こうも簡単に投げ捨ててしまうことをためらわなかったのだろう。次がいたからという理由でもない。打ち込むためのなにかが待っている訳でもない。ただのシンプルな欠陥品だ。根底には両親のいさかいというものが影響を与えているのかもしれないが、その部分をひとの所為にするのもずるかった。それに、これはぼくの人生である。すべての良いことも、悪いことも、世間や環境の下での避けられなかった被害ではなく、自分を基盤にしたうえでの意識した主体性での選択、あるいは逃げられない無意識での流れと思いたかった。どちらにせよ、加害者側であり、加担するという方式をとっているはずだった。
彼女にも選びたい次があるのだろう。連絡をくれない相手を気長に待っているほど、魅力がうせたわけでもない。充分、若い蜂々を惹きつけられることが可能な存在のままなのだ。
だが、ぼくはそれを遠い架空の世界であるとでも思っていたのだろう。アリババの話とか、シンデレラの靴の物語でもあるように。
いままで何度もかけた電話番号がもういらなくなった数字になったことを知った。その数字の組み合わせを覚えていても、彼女にかける権利はもうないのだ。選挙におちた政治家。クビをきられた会社員。もう威力のあるボールを投げられなくなった野球選手。ぼくも同類だった。まだ十六才だったのに。
気持ちというのは断続的ではなく継続性のあるものだった。ボーリングの球のような重い球体を坂道からゆっくりと転がす。はじめは止めるのも容易で障害物に引っかかることも起こり得た。だが、次第にそのものが力強さを増し加え、意志のようなものまでもつように感じられる。失恋したからといって急に停めることもできない。それ自体が、もう勝手な主導権をもって動いているのだ。だが、どこかの壁にぶつからなければいけない。もしくは川や沼のようなところに落ちなければいけない。そこが実際の終点であり、終止符である。ぼくは転がるものから飛び降り目にしないで終わらせよう、済ませようともまだ考えている。