爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(1)

2011年09月30日 | Untrue Love
Untrue Love(1)

 ぼくは、まだ小学生の高学年で、田舎に帰省している。そこには、いつも遊んでいる友だちもいなく、退屈さを持て余していたが、物置に放置されていた釣竿を見つけてそれを片手に、きれいな小川が流れる土手をうろちょろしている。

 鮒が2、3びき釣れたが、永続して住む家でもないので、飼うことは念頭にもなかった。それで、それら数匹を持ち帰ることもなく、またその川の中に逃がす。自由になった魚影は透明な川の水を通しても、はっきりと見えた。ぼくが、いま住んでいる場所ではありえない風景だった。

 夕刻になり、その遊びにも飽きて、また空腹を覚え、田舎の家に戻ろうとしている。釣竿はぼくの手の平のなかで途端に棒切れと化し、伸びきった草を切る刀の役目もする。

 そうして、気づかぬうちにその狭い土手の向こうから少女が歩いて来る。

 彼女は、東京から来た見慣れぬ少年にはにかみを覚え、声をかけられずにいて、ぼくは逆に東京の女の子と違う原始的な魅力のため、声をかけられないで互いに無言で通り過ぎる。

 それに加えて、すれ違う際に、どちらも、気難しい顔をしている。ぼくらが認識していた世界は違うのだ。

 食事を終え、祭りの音を追いかけるようにおじさんたちといっしょに、夜の闇から明るい方に歩いていく。

 そこに、先ほど会った原始的な少女がいて、昼とは違う風貌で、色鮮やかで、華やかな浴衣を着て、幾分、白っぽい顔に変わった姿で、またぼくとすれ違う。

 彼女は、ぼくが地元のひとといるためか、明らかな他人という領域から抜け出たことを確認して安心した様子で、にっこりと微笑む。

 おじさんも同じように笑い、その子の名前を呼ぶ。ぼくは、そこでおじさんの声を通して彼女の名前を知る。正確にはあだ名を知る。

 ぼくがその場所で部外者ではなくなった一瞬だった。

 暑い昼間、陽炎のようにぼくは幻影を見る。東京の空調を控えたオフィスの中。

 だが、田舎に帰ったことは記憶から遠く、そんな甘い思い出もむかしのことになって近くにはない。
 ただ、指先がキーボードを打つのを追いかけるように、ぼくの頭の中の記憶は流れて行った。カタカタという音とともに。夏休みという思い出のくくりの中で。

 しかし、ぼくらは再会することになり、その機会は彼女が東京の大学に通うため、上京してからになるのだ。

 おじさんは、心細げな彼女に対して、ぼくを頼るようにいうが、ぼくは東京にいるガールフレンドとの浮ついた関係のため、そんな女性と会うことを疎んじてしまう。母はおじさんとの電話の内容をぼくに言ったが、ぼくはただ面倒なので頷いただけだった。

 華やかさを求める年代があれば、ぼくは、完全にそこに埋没していた。

 誰にも、洒落た会話もできない女性と歩いているところを見られたくなかった。誰にも。

しかし、思春期になると両親といっしょに帰省する機会もなくなったので、現在の彼女の姿を知らない。
「山本さん、ぼうっとしてますね? 終わったらビールでもどうですか?」
「そうしようっか」

 ぼくは首の向きを変え、ある職場の同僚にそう言う。彼女は手帳になにかを書き込む。ぼくは、それを見ながら空想に戻る。
 盆踊りの翌日、ぼくは咲子というその女性の家に使いを頼まれる。なにかを持たされ、それを渡して、何かを持ち帰るのを待つ間にジュースを与えられた。ぼくは、瓶に口をつけ首を後ろに反らせてそれを飲んでいる。すると後方から、ある少女の声が聞こえる。

「いつまで、こっちにいるの?」
「あと、2、3日だと思うけど」
「楽しかった?」
「どうだろう。でも、絵日記になら書ける」
「宿題?」
「うん、それが残っている」ぼくは、この地にも同程度の宿題があるか理解しようとしたが、結局は分からなかったし質問もしなかった。
「なんの? 盆踊り?」
「川で釣りをした話とか、川辺でマスを食べたとか」
「あれ、おいしいでしょう?」彼女は得意げに言う。ぼくはそれに対してなぜだか裏切りたくない気持ちをもった。でも、実際にもおいしかったのだ。
「うん、おいしかったよ」
「東京、楽しい?」
「来るといいよ。いつも、自分がいるところは分からない」
「女の子も可愛い? テレビに出る人みたいに」
「さあ、分かんない。分かんないよ」異性に対して強烈な衝動など、多分、まだぼくは持っていなかったのだろう。

「ごめんね、待たせて。これ、重いけど、男の子だからね、大丈夫よね」咲子の母は、ぼくをどのように見ているのか分からないまま、そう言った。そして、荷物を手渡した。「咲子、途中まで送って行きな」
「いいです、平気です」
「いいのよ、さあ」と、言って彼女の背中を押して促した。

 ぼくは縁側から腰をあげ、彼女は玄関に回り、サンダルを履いてこちら側に廻ってきて、いっしょになって歩いた。ぼくはどこか気恥ずかしかったが、彼女はこうした経験になれていそうもないようだが、それでも、無頓着のような顔をしていて、いっしょに隣について来た。

「今年の夏のこと、いつか、忘れてしまうのかな?」彼女はなにかをむしり、握った手を開きそれを放った。ぼくには、まだ時間の観念というものがとぼしかった。それを前後して、振り返ったり忘れたりという意味が分からなかった。それゆえに、ぼくは返事をせず、彼女も返事を期待しないまま、また小さな手の平の中になにかを掴んでいた。
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償いの書(109)

2011年09月25日 | 償いの書
償いの書(109)

 結局、ぼくは幹事になってその場を仕切っている。金曜の夕方。解放的な気分が町にも溢れている。25人ぐらいが集まる予定で、みなばらばらにやって来た。ぼくは、時間の関係上、裕紀を迎えに行くことはできなかったが、彼女も5分ほど前にはそこに着いた。

「場所、直ぐに分かった?」
「これでも、ひろし君より、東京長いんだよ」彼女は微笑む。そのことより、ほんとうは彼女の顔色を心配していたが、以前と同じような色合いを帯びているので、その心配もいくらか薄らいだ。

 笠原さんが乾杯のために立ち上がり、上田さんを簡単に冷やかし、皆のグラスが鳴った。それから、20分ぐらい経っただろうか、上田さんの挨拶をきくことになる。

「オレには、信頼している2人の後輩がいて、尊敬もしているが、ある面ではやり切れなくも思っている。ひとりは、近藤で、今日もありがとう。近藤は、オレらの高校に入ってきた。同じラグビー部の1年後輩で、その時までは弱小というチームにくるまれ、友人たちを増やし、のほほんと3年間遊んで暮らす予定だった。だが、近藤にはそんな気持ちはさらさらなく、自分を励まし、またオレらを台風のように巻き込み、なんだかオレらも情熱に呑み込まれるような形で、そのシステム化される中に入ってしまった。結局は、彼の夢は果たせなかったけれども、ある面では、いまでもオレは後輩たちの強さをテレビで見る楽しみができた。近藤のあの小さな決意が大きな収穫をあげた。だけれども、のんびりと遊びのように部活をする予定は狂ってしまった。汗と泥にまみれた青春。後悔してないけど。でも、智美と引き合わせてくれたのも彼だし、最終的に近藤には文句が言えない。ありがとう。もうひとりは笠原で、オレらは芸術的な勘をたよりに、思い込みだけで仕事をしてきた。仕事も遊びの延長なんだ、という思いで楽しかった。それを捨て去るというのは、矢張りいやだった。だが、笠原のこまめさにより、会社は利益をあげ、他社から信頼も勝ち取り、スケジュールは無駄に延びることもなく、仕事は快適にすすんでいく。その反面、遊びなんだという気持ちはいくらか消えてしまった」

「いまでも、遊んでいるじゃないですか」

「昔は、もっとだよ。そのふたりの気が合うのは、多分、こういう理由からなのだろう。ふたりがこの場をセッティングしてくれ、そこにはミスが入り込まないのは知っている。こういう後輩をもてた男の36歳の誕生日を祝ってくれてありがとう。あと、裕紀ちゃんも病気から直ったみたいで、来てくれてありがとう。もっと、元気になって、またどこか行こう」

 拍手が鳴る。ぼくの評価は、そういう形で露になった。そして、笠原さんとなぜ気持ちがあうのか上田さんの口から説明されて納得がいった。自分の過去の情熱は、別の人間をも動かしたのだという気持ちが、その日のぼくには誇らしかった。

 逆に裕紀の病気のことを知らないひとも中にはいた。それで、何人かに訊かれはしたが、智美が間にたって、そこは話をまとめているらしかった。そこに遅れて高井君がきた。笠原さんの旦那。ぼくらの地元で別の高校のラグビー部に所属していた。

 彼の身体も大きく、直ぐにおいしそうにお酒を飲み、料理を食べた。途中で、笠原さんに促されたように裕紀の体調を訊いた。
「もう、大丈夫なんだよ。奥さんにもお見舞いに来てもらった。ひろし君をたくさん励ましてくれた。彼のほうが死んでしまうぐらいに忙しかったから」
「そうだったんだ?」高井君は妻に訊く。ぼくは、いまだに笠原さんと呼んでいる事実に気付いた。
「そう、ある日、わたしの前で泣いた。妻を思って泣いた。それぐらいに愛しているんだと思った」
「泣いたの?」今度は、裕紀が驚いた。
「ついね。彼女はいつもからかうけど、こうなるなら別のひとの前でするべきだったよ」
「そんなに心配してくれてたんだ」裕紀はうつむく。
「もう決して、誰の前でも泣かないよ。とくに言いふらす奴の前では泣かないよ」その決意は、彼女がぼくを悲しませる理由を根絶する決意でもあった。

 店員さんは続々とグラスを持ってきて、変わりに空いたものを引っ込めた。金曜の夕方は夜になり、酔い過ぎたあとの復讐の土曜の朝を、ぼくは思い浮かべた。この会は陰では裕紀の元気になった姿を見せるものだった。それは成功し、彼女も思いのほか楽しそうにしていた。

「ぼくらは大切なひとを失うわけにはいかない。だから、来年も再来年も、もっと人数を増やしつつ、オレの誕生日を祝ってくれ」最後のほうになり、少し酔った上田さんは、大きな声でみなに言った。
「利己的に聞こえますよ。別の誰かでもいいんじゃないですか?」
「うるさいぞ、笠原。オレがお前を育ててあげたんだぞ。いや、裕紀ちゃんも来年も会おう。そういうことをオレは言いたかったんだ」

 裕紀が退院して半年ぐらいが経っていた。彼女は回復に向かっていた。ぼくらは以前のように友人たちと笑い、たくさん話し、ぼくは浮かれて飲んで酔った。映像として記憶に残るある病院の一室に寝ている裕紀は幻か、もしくは悪い夢だったのだと思おうとした。それは、この部屋にいる限り成功し永続する感じをもった。
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償いの書(108)

2011年09月24日 | 償いの書
償いの書(108)

 会社を出ると、上杉さんに会う。彼女は陽の当たらない預言者。見えなくても良いものが見える幸運と不吉さ。ぼくは、彼女の能力より彼女が連れている犬が好きだ。ぼくになついている。
「犬の散歩コースって、何通りあるか知ってる?」ぼくが屈んで犬を撫でていると、頭の上方から質問がきこえた。
「さあ、20か30通りですか」ざっと、自分が職場まで歩いてくるルートを考えたが、それ以上の答えを告げた。

「ほんとは、無限大」
「まあ、そう言われるとそうですね。道は無数にあるんだから」
「でも、大体は1種類しか選ばない。犬もその方が安心するし」
「うん、そうですね。決まった場所に片足をあげる」
「そう、男の子なら。近藤くんもひとつのことに拘っている」
「妻が病気でした」

「優しくする方法も無限にある。冷たい仕打ちは彼女のこころから消えている。だが、あなたに与えられないもので、こころが縛られているよう。あなたは、気にもしていないのに」
「うん、やはり見事ですね」
「この子も、ひとつのルートを歩きたがっている。不満もなく毎日、同じ道を。じゃあ、歩かせるわね。また」

 彼女の後ろ姿を眺める。犬は、名残惜しそうにくるっと頭をこちらに向けた。でも、直ぐ忘れたように駆け足になった。毎日、同じ道。

「奥さん、元気になりました?」電話の向こうで笠原さんの声がする。
「うん、徐々にだけどね」
「まだ、若いんだから直ぐ、はつらつとなりますよね?」それは疑問というより同意だった。ぼくもそうなってほしかったが、声にはでなかった。だが、彼女のほうが余程、若い。そして、生きいきとしている。
「どうしたの? 喧嘩でもした」
「まさか。私たちは仲が良いんです。でも、たまには喧嘩もするけど」

「そう、喧嘩ができるぐらいがいいよ」ぼくの視線の先には、見知らぬ犬がいがみあっていた。彼らは同類を敵と考えているのか、見方と考えじゃれたがっているのか判断しようとしたが、結局のところは無理だった。
「上田さんの誕生日を祝ってあげたいな、と考えていたんです」

「いいね」
「そうすれば、裕紀さんもたくさんのひとに会えるでしょう。陰の理由は彼女の回復パーティー」
「自分が目立つのが嫌いだからね」
「そう。わたしはいちばんになりたいけど」
「そういう個性も素敵だよ」
「じゃあ、打ち合わせしてくれます?」
「あれ、笠原さんが段取りするんじゃないの?」
「まあ、そう言わずに」

 ぼくらは夕方に待ち合わせをした。ぼくは、裕紀に電話をして遅くなることを告げ、彼女も旦那さんに理由を言った。ぼくらは、それぐらいに認められた友人になっていた。
「ぼくの会社のそばには、こういうひとがいるんだ」と言って、上杉という女性のことをかいつまんで話した。
「やっぱり、そういうひといるんですね。それで?」
「それででもないんだけど、昔に別れてしまった男性のことって、やっぱり、恨んだりする?」
「まあ、多少は。でも、憎しみも愛情も、記憶としては同じ部屋にいるような気もしてます」

「そうなんだ」ぼくはある部屋の中をイメージする。別々ではないのか? タンスの2段目には過去の愛情の対象がいて、3段目には憎しみの対象が納まっている。

「どうして、そんなこと訊いたんですか?」
「ぼくは、ある女性と付き合うために、ある女性を放り出した」
「知ってます。周知の事実」
「裕紀は、恨まなかったのかなと思って」
「だって、結婚してるじゃないですか。ずっと、長い間」
「そうなんだけど、ぼくはそのことを気にしている。反対に彼女は、子どもを産めなかったことを気にしている。ぼくは、何とも思っていないのに」
「意見が食い違っている」

「意見としても出てこない。その手前にいる」
「お互いのことが好きなんですね。見習わなくちゃ」
「ぼくらは一回、お互いを失った。また、今回もぼくは失う可能性をもった。ある一線をぼくらの関係は越えてしまったのかもしれない。いつか、失うんだという心配が、いつもポケットに入っているような気がしている」
「それぐらい、病気の影響がある?」

「うん。確かにある」重い雰囲気になってしまったが、急に隣の席の皿が床に落ち、その共鳴と数人の歓声が一瞬にして、ぼくらのこころを変えてしまった。心配がそこに移って、皿を割ったような感じがあった。
「そうだ、上田さんの。誰を呼びます?」
「そうだね」ぼくは、指を折って人数を確認した。その行為を見て、「なんか、そういう姿、おじさんみたいですよ」と笠原さんが言う。「これが?」とぼくは、両手で同じ作業をした。確かに、若者っぽくはないようだった。皿は片付き、新しい料理が隣の席に運ばれたようだった。それで、すべてを忘れたように、4、5人の楽しそうな会話が戻っていた。
「お店は、近藤さんが予約してください。会社で出てくれる人を教えますから」
「そうだね。でも、押し付けられたような気がしているよ」

「いいんですよ。ラグビー部の後輩なんですから。彼に帰る時間を言ってありますので、わたし、そろそろ失礼しますね」
「そう。彼にもよろしく」
「まだ、います?」
「どうしようかな、もう一杯飲もうかな」
「隣の女性客に誘われても、断ってくださいよ」
「そんなに、もてないよ」

「知ってます。でも、泣いた近藤さんは可愛かったですよ。また泣くと、母性本能をくすぐられるひともいるかも。じゃあ、ご馳走様」彼女は颯爽と消えた。泣いたことを否定する理由をたくさん思い浮かべたが、どれも言えなかった。だが、彼女の大らかさが、ぼくを救ってくれているのは確かだった。
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償いの書(107)

2011年09月23日 | 償いの書
償いの書(107)

 ぼくは、バックを抱え自分の家の玄関前に着いた。彼女は扉の向こうで以前のような元気な姿でいるのだろうか。そのことが心配の種のひとつになっている。地元にいるときも電話では話したが、声だけでは実際の様子は分からない。だが、声だけを聞くと元気なことは間違いようのない事実のようでもあった。

「ただいま」
「お帰り、どうだった、向こう?」
「あいつらにあったよ」あいつらというのはぼくらの共同認識で甥や姪たちに対するくだけた呼び方だった。
「そう、大きくなったかな」
「かなりね。外見だけでもなく考え方も成長するもんだよ」自分が口にするまでは、そう思ってもいないはずだったが、不思議と口にすると、彼らの成長が理解できるような気がした。この離れた距離を通して。「その証拠に帰る前に手紙を手渡された」
「あの子たちに?」

「そうだよ。ここに2通」ぼくは、バックの手前のジッパーを開け、それを取り出した。
「何が書いてあるの?」彼女は容易に手を伸ばさなかった。
「え、読んでないよ。親展と言われたし」
「まさか?」

「まあ、嘘だけど。それを読む楽しみは裕紀のものだろう」
 彼女はようやく手を伸ばし、手紙を受け取った。しかし、なかなか封を開けなかった。ぼくは、その間に汚れた衣類を取り出し、洗濯機に突っ込んだ。そして、電源を入れ、いま履いている靴下も脱ぎ、そこに投げ込んだ。白い泡ができ、それを無感動に見つめる。

 もどると、彼女はカーテンの隙間から入る日射しのもとで手紙を読んでいた。感動のためか目頭が濡れているようにも感じられた。ぼくは手を洗い、ビールを冷蔵庫から取り出した。出張が終わったことを証明するように缶を開ける。

「どうだった?」
「大人になった、読んでみる?」
「うん」ぼくは受け取り、先ずは女の子の筆致を見る。
「ゆうきおねいちゃん。げんきになりましたか。わたしもこのまえ、ちゅうしゃをうたれました。とても、いたかったです。ママにきくと、あれぐらいにいたいびょうきになったとおしえてくれました。でも、もういたくないです。なんにちかねたらわすれちゃいました。おねいちゃんも、もういたくないといいんだけども。また、あそんでください。めぐみ」
「そういえば、彼女は片腕をおさえて病気のことをぼくに訊いた。あれが、痛さの強烈な証拠なんだろうね」
「そうなんだ、予防注射かなにかかな?」

「子どもはたくさん、注射を受けるもんだよね。次は?」
「ゆうきおばさん。こんにちは。かずやです。遠足に行ったり、サッカーをしたり、たまに宿題がおくれたりしてお父さんにおこられたりして、大いそがしの生活をおくっています。ひろし君はよくあそんでくれるけど、ゆうきおばさんとはなかなか会えなくて残念です。また、こっちにきていろいろなことをおしえてください。いもうとも会いたがっています。おとうさんもおかあさんも、ついでに、ぼくもです。写真いれました」

 自分の考えが手紙を通して思った以上に伝わることを彼らは、どれほど知っていたのだろうか。ぼくらは文明のもと、電話で話したり、ビデオを見たりもできるが、このたどたどしい文字でしか伝わらないものも確かにあることを知った。彼らは成長し、文字という共有財産をまなび、それを暖かい気持ちの代弁として使った。ぼくは、自分が受けた教育のことを考えている。それは、あまりにも格安に受けた気もするし、もっとそれを利用尽くしておけば良かったという悔恨の情も生まれた。しかし、いまからでも遅くないのだ。ぼくは優しさを裕紀のために使う。甥や姪も優しさのために使った。

「みんな、心配してくれる」
「自分がそうしてきたからだよ。誰も嫌いなひとのことを心配したりしない」
「そう思う?」
「うん。彼らに報えるのは、元気になって、また遊んであげることだよ。彼らは、いつの間にか大人になり、友人との時間を大切に、貴重に思って、ぼくらのことなんか直ぐに忘れてしまう。その前に、彼らに思い出を植え付けないと」
「そうだね、そうする」裕紀はそう言うと、手紙をしまい、自分の仕事用の引き出しの中にそっと置いた。ぼくの缶ビールは空になり、ちょっと眠気をもよおした。目をつぶると、数十分だけソファーの上で眠っていたらしい。

「ひろし君のほうが疲れている。毎日、働いている」目を覚ますと、彼女は優しげな口調でそう言った。
「会社員なんて、みんなそういうもんだよ。どっかでご飯でも食べに行こうか。さっき冷蔵庫のなかに足りないものがあるような気もしている。スーパーにも寄ろう」
 彼女は着替え、ぼくらはいっしょに外に出た。いっしょにエレベーターを待ち、いっしょにポストを覗いた。ダイレクトメールが何通か入っていた。そこには甥たちのそぼくな筆跡はなかった。ただ、事務的に世の中は進み続けるようだった。根本的に。

「会ったの、それだけ?」
「あとは社長と飲んで、甥たちと公園で遊んだぐらい。そういえば、外回りに付き合い、裕紀のお祖母ちゃんのお墓の横を通った。あの辺がいちばん変わらないな」と、感傷的にぼくは言った。だが、ぼくは彼女の祖母のお墓のまえで自分が発した言葉には触れなかった。それを、誰かに伝えてしまえば、ぼくの神聖な気持ち自体が消えてしまうような気がしていたからだ。
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償いの書(106)

2011年09月19日 | 償いの書
償いの書(106)

 ぼくが店の扉を開けると、もう来ていた社長の背中がカウンターに見えた。彼はだいたいが、せっかちにできていた。ぼくも、待ち合わせの時間より早目に着いたのだが。
「お、来たか。ビールでいいか」と、いいカウンターの向こうからグラスをひとつ貰い、ぼくに手渡した。それをビールで満たすと、ぼくらはその縁に口をつけた。

「近藤君、久し振り」
「どうも、ご無沙汰してます」
「もっと、遠慮しないで、来てちょうだい」と言って、店のひとはおしぼりを渡したあと、自分の手元に視線を戻した。何かを煮ているような香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。それで、さらにぼくは空腹を感じた。

「なにに、する?」社長が注文を訊く。
「適当に、お任せで大丈夫です」ぼくは、以前にしげしげと来ていたときのように大雑把な注文の仕方をとった。
「じゃあ、それで」彼も自分の荷が下りたような言い方をした。「それで、裕紀ちゃんは大丈夫なのか、ほんとうに?」
「ええ、手術もうまくいったみたいだし」
「それなら、いいけど。これ、お見舞いに行けなかった代わりだ」と言って、白い封筒をくれた。それはある程度の重みがあった。

「すいません、遠慮なくいただきます」彼はぼくがいくら抵抗したところで、それを引っ込めないことを知っていた。
「つらいな、自分のことじゃないと」
「そうですね、だけど、ぼくらは病気にならないほど頑強になってしまった。あの練習の賜物です」
「でも、健康診断ぐらいは毎年、受けているんだろう」
「そう、それは。裕紀は会社を辞めてしまってから、もしかしたら、そういうことがおろそかになってしまったのかも」
「管理不足、お前の」
「その通りです。職務怠慢」
「部下は、きちんと管理できているのに」
「ありがとうございます」

 社長は、こういう湿っぽい話に慣れていないのか、用があるといって会計を済ませ、さっさと帰ってしまった。実際に用などはないはずだった。ぼくと飲む日は、いつもそうだったから、それは分かった。
「奥さん、病気になったの?」
「そう、癌で手術した」
「可哀想に、若いんでしょう」

「まだ、35です」店のカウンターと向こうでぼくらはとりとめもなく話す。お客はまばらだったが、それらのひとも段々と時間とともに消えていった。ぼくと彼女は何回か関係をもった。だが、それも10年近く経った話で、それが事実であったか、ぼくらは互いに思い出さないようにしていた。ぼくは別の話題を考える。裕紀のことを軽々しく誰かに話す気分でもなかったのだ。それで、加藤さんというその女性にはひとりの男の子がいたことを思い出す。父親とは別れ、ぼくはその子にサッカーを教えていた時期があった。ふと、それが気になりだした。

「彼は、もう大人になったかな」
「まだ、学生だけど、料理が好き」
「へえ、似てるんだ」
「スポーツも真似で、料理も真似だって言っている」
「それを越えると、独創的なものが生まれる」
「そう。どう、おいしい?」
「おいしいです」と言うと、おかわりの小皿がでた。
「近藤君は強がりだから、誰かに甘えられない?」
「むかし、甘えてしまった」
「甘えすぎた。甘えすぎて、手に負えないほどだった」
「それで、突っ張ねられた」
「そうする時期もあるのよ。また、甘えたい?」
「いや、今回はいいです。すいません。自分の無茶の結果が妻の病気につながって、また治るのを妨げられてしまうような心配もある」

「そうよ、ゲンを担いでいるのね」
「そうかもしれない。お会計は?」
「この分も社長さんに請求する。だから、ほっとしたかったら、また来てね」
「そうします」彼女は店の外まで出て、ぼくの背中を勇気が出るかのように軽く叩いた。その温かみを感じたまま、ぼくは布団のなかに入った。

 目を覚ますと、下から甥っ子や姪っ子の声がする。そして、彼らと話す妹の声もする。
「朝寝坊のお兄ちゃんが来たよ。遊んでもらいな」と妹は、早速彼らを促した。だが、遠慮の間があって、来ないのかと思っていたら甥が背中へ飛びついてきた。「なにか、食べたら。外に行こう」と彼を振り払い、台所に入った。ぼくは、ご飯を口に運び、妹の心配げな顔を見る。
「大変だった?」
「まあ、それは大変だよ」
「みんな、あのひとのこと大好きなのに。取り上げられたら、どんなに悲しいだろう」
「大丈夫だよ。いまは予後だけど、元気になったらまたこっちに来るよ」

 ぼくが顔を洗い、部屋に戻ると、彼らは外で遊ぶことをせがんだ。それで、ぼくも靴を履き、太陽の下へ飛び出す。公園で回転する遊戯につかまる甥の歓声を聞き、姪がすわるブランコの背を押した。それが終わると、妹が持たせたサンドイッチを食べ、水筒のふたを開け、コップにジュースを3つ注いだ。

「裕紀お姉ちゃん、病気になったの?」
「そうだけど、心配いらないよ」
「痛かったの?」姪ははじめて注射を刺された記憶でもあるのか、片腕をおさえて言った。
「痛いけど、大人は泣いちゃいけないんだよ。それに、ぼくらは、君らみたいな子どもをもつことができなくなってしまったかもしれないんだ。だから、今度、東京に遊びにきて裕紀に優しくしてくれたり、遊んでくれるかな。そうすると、病気も早く治ると思うんだ」
「するよ。お姉ちゃん、ずっと好きだもん」ぼくは両手で彼らの頭を撫でる。ぼくは、ある場面でひとを傷つけ、ある場面では冷たい言葉を吐いた。その報いは少なく、こうして優しい甥や姪をもてた。それだけでも、ぼくは恵まれた人生なのだと思っていた。
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償いの書(105)

2011年09月18日 | 償いの書
償いの書(105)

 本社の会議に出るため、地元に戻った。たまに、こちらのことを忘れ、たまに追憶の気持ちをもってふと思い出す。何人かの表情は更新されないままで残り、また幾人かは年齢が変わったことをその顔から読み取る。
「大病、したんだって?」社長が、会議前に椅子に座っているぼくの後方から肩に手を置き、そう言った。
「ええ、そうなんですけど、いまは、回復に向かってます」
「金銭の方は?」

「大丈夫です。心配ないです。もともと彼女は裕福な家庭に育っている」
「でも、頼れるひとも少ないんだろう?」
「ええ、両親もいないし、ぼくがしっかりしないと」
「そうだな、近藤が東京に行くこと、決めたのが良かったのかな?」
「社長が?」
「そうだ」
「だって、かなり成果を残せたとも思っています」
「しわ寄せの話だよ。うちも女房に迷惑をかけたから」

 人間は、社会的な生き物である。子孫を残して、もう終わりという動物たちや植物ではなかった。ぼくの体力的ピークはラグビー部時代で終わったが、そこから目に見えない形で衰えていく。それを制御しながら、今度は社会的な成功を模索する。ぼくが関わった仕事は形あるものとなり、ぼくの妻は体力的に衰えていった。その比例を振り返ると、ぼくはやり切れなくなっていた。

 自分の思いとは違い、会議は進んでいく。議題は話され、質問があり、回答を求められた。それから、宿題がのこり、その期限が決められた。それは体力がないと進まないが、体力だけでは解決しなかった。

「きょう、泊まっていくんだろう、付き合えよ」と、社長は会議が終わったあとに言った。
「ええ、そうします」
 午後は、車に同乗して若いスタッフとともに現場を廻った。東京から来た社員は当初は萎縮していたが、自分がここの出身だと知ると、萎縮は疑問や好奇心に変わり、たくさんの質問を受けた。ぼくは、丁寧に答えたつもりだが、離れている裕紀のことも忘れることはできなかった。
「ちょっと、停まってもらっていい?」
「どうしたんですか、ここで?」
「そう」ぼくは、舗道に足を着け、後ろ手にドアを閉めた。
「付いて行きます?」
「いや、いいよ。ちょっと、自分の用だから」

 そこは、裕紀の祖母が眠っている場所だった。ぼくらは、まだ10代のときにここに来た。その懐かしい景色をぼくは窓の外に見て、急に降りたくなってしまった。何の用意もしていない。ただ、なにかを誰かに開けっ広げに伝えてみたかった。それは、生きているものではなくても良かったのだ。胸のうちを語りかけるだけなら、返答はいらないのかもしれない。

 ぼくは、ある墓石の前に立ち尽くす。裕紀がずっと使ってきた名前。28年間つかってきた苗字がそこにあった。

「すいません、彼女をあのような状態にしてしまった。もし、知っているなら、もっと前にもぼくは酷いことをしていたんです。自分の都合だけで、ある女性のもとに走ってしまった。なぜか、それをぼくは今回の病気と結び付けてしまうような気持ちを拭いきれません。彼女はぼくを引き留め、関心を保つために無意識的に病気になった。それで、ぼくは仕事場と病院を往復した。そんなことで証明するしか、ぼくの変わらない気持ちをアピールすることしかできないのでしょうか? ぼくは、そんなことをしなくても、とても彼女を大切に思っています。だから、永久的にそれを証明できるように、また彼女の元気を取り戻させてくれないでしょうか。それが、可能ならば、どんな代償でも支払います。どんなものでも」

 ぼくは、彼女の祖母に言っているわけでもなかった。だが、自分の気持ちを整理し、まとめるためにはこの場所が最適で、必然さもあった。だが、見知らぬ彼女の祖母を耳代わりにして、ぼくはもっと大いなるものに頼ろうとした。この数ヶ月のぼくの定まらない思いはこの場所で形あるものに結実した。それで、ぼくは何分経ったのかも分からないまま停めてあった車の前に戻った。
「思い出の場所ですか?」彼も車外に出て、呑気そうに缶コーヒーを飲んでいた。

「待たせてしまったかな?」
「少しは。でも、メモをまとめる時間が必要だったもので、助かりました。で、思い出の場所なんですか、ここ?」
「若い頃に妻とデートをした」
「デートに向く場所にも思えないですけど」
「そう言われると、そうだね。彼女、古風なひとなんだろうね」ぼくらは、ふたりとも車に乗り、シートベルトをしめた。ぼくは、先程のことばを反復しようと思ったが、もう差し出したものが戻らないように、ある面では忘れた。あとは、自分の力ではどうにもならないことを知っていたのかもしれない。だが、ぼくはまだまだどこかでもがきたい気持ちもあった。

 外回りも終え、ぼくは実家の前で降ろしてもらった。
「お疲れなさい」と、母は言う。「お帰り」と父も言った。ぼくは、子どもを迎えるこのような状態を裕紀にも作ってあげたい気持ちをもった。だが、彼女はひとりで東京で寝るのだろう。「ご飯は?」
「社長と食う」
「甥っ子たちと明日、会う?」

「そうだね、でも手ぶらだった。忘れてた。ついでに何か買ってくる」
「いいのよ。裕紀ちゃん、大変だったんだから」
「うん」ぼくは涙を拭うようにして風呂場に向かった。シャワーを浴び、考えていることは、どうにかして、あのころの10代の裕紀のはつらつとした姿に戻してあげたかったということだ。
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償いの書(104)

2011年09月17日 | 償いの書
償いの書(104)

 ぼくは、仕事の合間に缶コーヒーを飲みながら、携帯電話の履歴を探っていた。そこには、「ゆり江」という名前があった。ぼくはその名前の上を素通りして、次の履歴にあった別の急ぎの電話をかけた。発注していた品物の納品が遅れることを告げられ、それをまた別の人間に連絡した。それも一息つくと、あらためて、ゆり江という表示の番号に電話をかけた。

「いま、裕紀さんと電話をしていた。癌だったって、教えてくれた」
「そう、やっと退院したけど」
「大丈夫? お見舞いにも行けなかった」それは、どちらの気持ちを心配してかの大丈夫という発言にいたったかは不明だった。ぼくの気持ち?
「大変だったけど、段々と落ち着いてきている」
「もっと、早くに教えてもらえればよかった」
「こういうときは、バタバタするものだよ。でも、気付かなくてごめん」
「わたし、いけなかったでしょうか?」
「なにが?」
「ひろしさんとのこと隠していて」
「だって、あれはもう何年も前に終わったことだし」

「終わったことか。わたし、裕紀さんのことが世界でいちばん、好きなんです。ずっと、憧れていたんです。優しくって、面倒見がよくて」
「ぼくも、彼女の良さをこれでも知っている積もりだよ。君以上にそばにいるんだから」
「意地悪な言い方。でも、そんな大切なひとと別れることができるひとがいたなんて・・・」彼女は無言になり、その過去に起こった状況を思い浮かべているようだった。だが、突然、「それで、そのひとを苦しめなければならないと思った」
「どんな理由であれ、ぼくらは出会い、でも、ぼくは君のことも好きになってしまった。いけないことだとも、今は思っていない」

「いくらか少なめに」
「会うタイミングが悪かっただけだよ」
「わたし、裕紀さんに会いにいってもいい?」
「もちろん、いいよ。彼女も喜ぶよ」
「わたし、反省している。裕紀さんの思い出からなにかを一部でも奪ってしまったかもしれない。その反省を胸に収めたままに出来ないかも」
「出来るよ。言わないよ」

「じゃあ、何日かしてから行きます。驚かないでください」
「裕紀をいたわることを、いちばんに考えてね。これ以上、ぼくも裕紀も心労に耐えられない」
「自分勝手な言い方のような気も・・・」電話を終え、ぼくはぬるくなったコーヒーを喉に注ぎいれた。いつも以上にそれは苦く、また、逆に後味は変に甘かった。

 普段のように家に帰ると、裕紀はこころを喜ばせていた。
「ゆり江ちゃんが来てくれるんだって。家のことも忙しいのにね」
「そう、良かったね」
「え、なんか知ってた? もっと、びっくりするかと思った」
「いや、退院してからいろいろなひとが来ているから、彼女も友人だし・・・」
「そう?」

 ぼくは、裕紀と再会してから彼女を最優先に考えてきたつもりだった。さらに、病後はもっと彼女を大切にしようと誓っていた。それは、当然の帰結だった。彼女を失うことはできないのだ。ぼくは、そのことでずっと前に苦しみ、彼女から憎まれていたと思っていた。だが、それは心配していた自分が馬鹿だったというぐらいにあっさりと解決され、それゆえに、ぼくは、彼女をもっと愛そうとしていた。

 しかし、なぜ、裕紀がという思いも拭い切れなかった。こんなにも愛らしく、ひとと争うこともしらずに生活をしようと決めていた子が病気になるなんて。

 2日ほど経って、家に着くと、ゆり江がいた。会わないうちに、一段と女性らしくなっていた。ぼくへの復讐ということで、裕紀のためにぼくに近付いてきた女性。ぼくと雪代が別れでもすれば、その念願が叶うはずだった。だが、雪代は多分、知らないままの状態を保った。そのような青臭い感情と同じ土俵に立てるほど、彼女は子どもではなかった。ぼくは、その一途な思いに嵌まり、また迷いふたつの生活を送った。いつか、ゆり江は別の男性を見つけ、ぼくから去った。ぼくらは本当の意味で憎みあうこともできず、お互いがあたたかい思い出を胸に秘めるにいたった。

 それらを裕紀はすべて知らない。自分のために、別れたような男性を破滅させようと考えた少女がいたことも、逆にそれが出会いのきっかけになってしまったことも、ぼくらの間に交友ができてしまったことも。
 ゆり江はそのことで、いまだに悩んでいるらしかった。ぼくらは、病気にさせてしまったという問題と責任を追及し、また、自分らの健康ささえ否定しようとした。なぜ、ぼくらではなく、いたいけな裕紀なのだ?

「みんな、心配してくれるから、そのエネルギーをもらって、元気になってきた」裕紀は、笑う。「ひろし君もたくさんの女性たちの優しさを知ってくれたと思う」
「ゆうちゃんが、いちばん、優しいです」ゆり江はそう言った。それは二番目などないという決意であり、彼女なりの結論だった。
「そう?」裕紀は、こちらに眼を向けそう訊く。
「そう思うよ」
「こんなに心配かけたのに?」

「ぼくは裕紀からもらった分の半分も返せていない。まだまだ、裕紀はたくさんの利子を請求する権利がある」

 それは、ぼくなりの償いでもあり、癒せない傷をあたえた後悔の念でもあった。そのために、裕紀は病気になるのか? 身体の問題は逆の意味では軽く、ぼくのこころは、そういう影響下のもと蝕まれる必要があるのかもしれない。それも償いなのか? ぼくは、答えのない問題を思案し続け、裕紀とゆり江というふたりの女性がぼくに示した愛情も、余程、遠くに行ってしまったような気がしていた。
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償いの書(103)

2011年09月16日 | 償いの書
償いの書(103)

 裕紀は退院して、家に戻ってきている。それは、とても喜ばしいことだった。だが、彼女には定期的に通院するという仕事が増えた。だからといって、不平を言うようなこともなかった。ただ、彼女の頑張ろうという精神の糸は途絶え、動きも緩やかになった。家事も、自分の仕事も。

 ぼくは、それでもそんな姿を愛していた。なるべく、仕事を早く切り上げるようにして家事も最初のうちは手伝っていた。しかし、30代中盤にもなると、仕事の量が減るようなことは決してなく、間もなく、いつものような生活のリズムに戻ってしまった。

 物事が回復する一連の時間がぼくは好きだった。ラグビーをしていたときに上級生が急に抜け、チームは混沌とする。だが、いつかは整然としはじめて、新たな活力を得たものだった。裕紀の人生にもそういう段階が早めに来ただけなのだ。ぼくは、その回復を手伝い、ぼくらの関係もより一層強固なものになって欲しかった。

 叔母さんも心配でたまらず、昼によく寄るようになっていた。ぼくが帰る頃にはもういなかったが、家事を手伝った気配や雰囲気があった。
「お兄さんたちは?」
「たまに電話で話す」
「ぼくを恨む理由がまた増えたような気がする」
「そんな風に思わないで、ね」
「でも、そう考えているはずだ」
「ただ、わたしが病気になっただけ」

 ぼくは、口を噤む。医師は言った。彼女をもっと愛するように。そのために、ぼくは裕紀をきつく抱いた。「どうしたの?」と、彼女はおびえたような声を出す。
「ぼくの前から居なくなってほしくない」
「ずっと、居る。わたしは好きなひとを一度、失ってしまった。二度も失いたくないもん」
「それも、ぼくの所為だ」

「違うよ。もっと誰かの大きな力があるのよ」彼女は、運命のようなものを信じようとしている。自分が理由もなく病気になり、不摂生をしたわけでもなく、過労し過ぎたということもなかった。そして、少女はある少年を失い、ある青年を見つけた。ぼくもある少女を失い、東京でその女性の数年後の姿を知る。いくつかの遍歴がありながらも、ぼくらは上手く行っていたのだ。彼女は、病気のことを恨んでいないようだった。だが、逆にぼくは、裕紀を失いかねない病気のことをはっきりと憎んだ。それは、どうしようもないかもしれないが、根絶される必要があり、もう一度、出番が来てはならなかった。ぼくは、彼女を抱きしめ、そう願っている。

 彼女が外出することは減ったが、代わりに友人たちが昼間、遊びに来るようになったらしい。たまに、夜になっても智美がいたりした。

「お、こんにちは。帰んなくてもいいの?」ぼくはカバンをぶら提げたままの姿で、智美に言った。
「彼、出張しているのよ」
「そういえば、まだ、学生のときに、うちに居たことが多かったな」ぼくは昔の彼女を思い出している。母や妹と彼女は打ち解け、自分の家にいるように振舞っていた。
「そうだったね。でも、こんなおじさんじゃなかった。きりっとしたスポーツマンが帰ってくるはずだった」
「それは、こちらも同感です」

 ぼくは、女性二人を前にして、夕飯を食べる。彼女らはたくさんの話す事柄があり、ぼくは口を挟める状況ではなかった。智美も、うわさによると何度か流産をして、子どもをもうけることができなかった。同じ状況なので上田さんになんとなく問いたずねたとき、彼はそう答えた。それ以降、ぼくはその話題に触れなかった。ぼくらも、また同じ運命のもとに動いていた。

 それで、幸せが減ったのかは分からない。でも、確かにぼくは幸福な部類にいた。彼女の病気が発覚してから、それはより一層痛感した。このままの状態がずっとつづくようにとぼくは切に願うようになったからだ。足場は崩れていき、ぼくは土砂から落ち、水に浸る。そのようなイメージの夢を何度かみるようになった。そして、いやな汗をかいた。

「また、来てね」裕紀は智美を見送る。ぼくは、その後ろで手を振る。その場に、母や妹がいるような錯覚をもっている。彼女らも裕紀と電話で話したが、なかなか、こちらに来ることは難しかった。それでも、会話の最中は裕紀も嬉しそうにしていた。ぼくは、それをきくともなくきいていると楽しさが伝染するような気がした。
「ごめんね、そんなことまでしてもらって」ぼくが使い終わった皿を洗っていると、彼女は申し訳なさそうに言う。
「ラグビーの合宿で、もっと大量の皿を下級生は洗ったもんだよ。いまなら、触りたくもない、先輩の服とかもね」
「楽しそう」
「楽しくないけど、やっぱり、楽しかったな」

 ぼくら二人にはお互いのそのころの状況の映像が浮かんでいるはずだった。彼女は新鮮で好奇心に満ち、優しさに溢れていた。ぼくは無骨ながらも、彼女を日に日に好きになっていった。でも、もうひとりの女性のことも魔術的に惹かれてしまった。
「映画でも、今週末、久し振りに見に行こうか?」ぼくは濡れた手をタオルで拭きながら彼女に言う。

「そうだね、もっと体力をつけなきゃ」
「ゆっくりと」
「そう、ゆっくりと」何度も言うが、ぼくは回復の段階が好きだった。それゆえに、この状態を愛せなくても、馴染もうとするぐらいの努力はするべきだった。いつか、彼女は元気になり、もっときれいな女性に生まれ変わるのだと思っている。タオルを洗濯機に入れ、ぼくはスイッチを着ける。先輩の汚れた洋服を思い出し、その日の暑い日射しすら、ぼくの目の前にあるような気がしていた。
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償いの書(102)

2011年09月10日 | 償いの書
償いの書(102)

 ある女性の存在が失われようとしている。それは、大げさか。しかし、彼女はぼくにとって取替えが利くものではなかった。ほかのもので代用するということなど出来なくて当然だった。

 ぼくは、ある部屋に呼ばれ、医師と面談を終えた。
 会話の内容は卵巣が癌に冒されているということだった。ぼくは、そのことをイメージしようとしたが、なかなかできなかった。

「それで、治る?」敬意を払いながらも、自分の口調は友人と話すようになってしまった。結論としては、ある部分を取り除けば、可能ということだった。
「お子さんは?」
「いないです」
「残念ですね。でも、治ったらきちんと愛してください。治らなくても、もちろん、きちんと愛してください」医師は自信をうかがわせながらも、その説明は科学にたずさわるひとというより宗教家に近かった。ぼくは、うなずいた。
「どうだった、先生?」
「賢そうなひとだった」
「わたしの身体は?」
「彼には治す責任がある」
「癌なんでしょう」
「違うと思うよ」

「ひろし君、保険に入ってるのを忘れないで。口座には、癌になった分だけお金が支払われる」ぼくは、唖然とした顔をする。その表情を見咎められて、「ね」と言われた。「嘘をつくのが、いつも下手」
「でも、治るよ。手術をすれば」
「そうだね、治す。ごめんね、心配をかける妻で」
「もっと、悪態をついたりしろよ。世間を恨んだり、ぼくをなじったり、叔母さんに向かってわめいたり」
「なんで、そんなことするの?」
「普通は、みんな、するんだよ。被害者になったときは」
「被害者じゃないかもしれないもん。加害者に近いかも」

「どうして?」
「ひろし君が可哀想だから」
「裕紀のほうが可哀想だよ。こんなに、若いのに」
「お父さんになれないひろし君。妻の看病をするひろし君。病院と会社を往復するひろし君。ひとりでご飯を食べるひろし君」
「直ぐ退院して、そんな生活ともお別れだね」
「再発する心配がずっとある」

「しないかもしれない」だが、ぼくはその後、何日も病院と職場を往復した。自分を憐れむ気持ちはなかったが、忙しいのは確かだった。仕事を融通することは、なかなか難しく、そのため、家ではぼろ雑巾のようになって寝た。眠りが浅くもっと心配すると思ったが、そうはならなかった。かえって、友人たちのほうが過度な心配をして、ぼくは彼らを慰めるほうになった。

「せっかく、取り戻した関係なのに、こうなってしまったね」智美は泣きながら言った。ぼくと裕紀がふたたび結ばれたのを喜んだのは、彼ら夫婦だった。ぼくらをいつも支援してくれ、その力が大きかったことを、ここで改めて発見した。だが、ぼくは誰に対しても弱音を吐けなかった。

「愛し方が足りなかったかな?」
「裕紀は、そんなことは絶対に言わなかった。逆に大切にされ過ぎている。もっと、粗雑に扱われてもいいとも言っていた」
「ぼくは、一度、乱暴に扱った。若い無知であり過ぎる年代の少女に対して」
「わたしたちも忘れることはできないけど、もうそれも終止符を打っていいころかもね」
「退院したら、そうする」
 退院したら、そうする。それを、ぼくは独り言のように頭に浮かべつづけた。シャワーを浴びているときも、通勤電車の中でも、テレビを見て、食事を摂っているときも。

 ある日、笠原さんから電話があった。「お見舞いに行ってもいいですか?」という内容だった。裕紀は、手術を終え(それは成功らしかった)病室で静養していた。
「今日、ぼくも寄るから、一緒に来る? 多分、話し相手が少なく、退屈していると思う。それに意外と人見知りであることを発見したので、顔なじみのひとがいると喜ぶと思うよ」

 彼女は花束を抱え、待ち合わせの場所に立っていた。きれいな真紅なバラだった。
「ありがとう。じゃあ、行くか」
 ぼくは部屋に入る前に軽くノックをして、顔をのぞかせた。「笠原さんが来てくれた」
「そう」彼女は化粧っ気のない顔にメガネをかけていた。
「こんにちは。体調は、どうですか?」
「ご飯も段々と食べれるようになっている。早く、ひろし君にも美味しいご飯を作ってあげたい。何にもできないひとだから」
「わたしの彼もそうでした。あの地方のラグビー部員は、そういうのに向かないんでしょうかね?」
「上田さんは、なんでも出来るじゃん」
「そうでしたね。偏見でした」

 それから一時間近くも話したようだった。限られた空間での時間は思ったより早く過ぎた。叔母さんも顔を見せ、互いが挨拶をする。
「きれいなお嬢さん」と、叔母さんは単純に感嘆の声をあげる。
「ひろし君の再婚相手をさがすのよ」
「ゆうちゃんは、いつもそういうつまらないことばっかり言う」

 入れ替わりに、ぼくらは退散した。途中、笠原さんが「どっかで、飲んで行きましょうか? 近藤さん、疲れた顔してますよ」と振り向いて言う。

 ぼくは鏡を見るような気持ちで、自分のほほを撫でた。それで、何が分かるわけでもないが、その言葉で、自分の疲れた表情があることが証明されたような気になった。

 ぼくらは、落ち着いた店に入る。笠原さんとは猥雑な店に入ることもあったが、今日はそんな気分ではなかった。ぼくらは、グラスを前にして、意図もせずに乾杯をする。「裕紀さんが早く治るように」と、彼女がぼそっと言った。その自然な温かみにぼくのこころは打たれる。ぼくは、誰にも弱みを見せないつもりだったが、急に気が緩んで思わず涙を流してしまった。女性の前で泣いた思い出など皆無だったが、ぼくのこころはそれを乗り越えてしまうほど弱っていた。

「ごめん、男が泣いた。まわりが変な目で見るかもしれない」
「大丈夫ですよ。可愛いですよ、近藤さんの泣いた顔」彼女を友人だとは思っていたが、真剣な気持ちで大切な人間なのだと再確認した夜だった。
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償いの書(101)

2011年09月04日 | 償いの書
償いの書(101)

 自分自身の心配だけがこころを占めてきた時代はいつまでだったのだろう? 高校でラグビー部に入ってからは、もうチームのことを優先していた。ぼくは、全国大会に出るべく努力をしていたが、それは、自分ひとりの力ではどうにもならなかった。監督の指導があって、仲間が必要だった。すると、中学生のときにした高校受験の心配が最後だったのかもしれない。

 いまは、裕紀の病気のことが頭を占領している。それを覚られもしないように仕事をした。いつもと同じように振る舞い、いつもと同じように笑った。仕事相手もこころの変化には気付かず、確かな手応えもあった。それも終わり、ぼくは出張の帰りに新幹線に乗っていた。新聞を手にして、車内で売られている飲み物を買った。だが、自分の味覚のせいで、その味はないも同然だった。裕紀は、どうしているのだろう?

 駅に着き、会社に連絡だけ入れ、ぼくは裕紀のいる病院に向かった。ぼくは自分の身体も丈夫なため、そういう場所には寄り付かなかった。これも、ラグビーのときに、骨折をした友人を見舞ったことを思い出している。彼は、いま元気なのだろうか?

 病院内に入り、看護婦さんに場所を聞き、部屋に案内された。自分は、冷たい夫だった。ぼくの何回かの浮気のせいで、裕紀は病気になったのだと、不思議にそう感じた。
「来てくれたんだ」裕紀は、笑う。だけど、ぼくはいままでのようにその表情を手放しでは喜べない。
「ごめん、遅くなった。今日も付き添えなくてごめん。あれ、叔母さんは?」
「さっきまで居てくれたけど、やはり、家の用事もあるらしく」
「そうだよね、淋しかった?」
「そういう風に考えられる暇もなかった。ひろし君も帰ったらひとりになるね。家のことよろしくね」
「任せておけよ」
「いろいろ考えて、心配になった。でも、心配する前に治ってくれることを願うようにした。まだ、ひろし君との生活もつづきをしたいし・・・」

「ぼくもだよ。そうだ、何か必要なものあった?」
「だいたい、持ってきたし、あとは叔母さんが必要なものを持ってきてくれる約束になった」
「そうか、良かった」
「仕事、どうだった? 力を入れていたけど」
「うまくいったよ。でも、もう、そんなこと心配しなくていいんだよ」
「心配するよ。病院で寝てても妻だよ」
「先生は、優しい?」
「ひろし君とも話がしたいって。妻の余命は、とか言われたら教えてね」
「そんなに非道くないよ。ただの手術で治る程度の問題だよ」
「楽観的」

「そう、楽観的。これ、写真、持ってきたんだね」ぼくは裕紀のベッドの横にある小さな台の上に並べられている写真を指差した。
「子どもに囲まれたひろし君。わたしが見たかったひろし君。果たせなかったひろし君」
「そんな悲観的なことを言うなよ。いまの医学ならば方法や抜け道ぐらい、たくさんあるだろう」
「どうかな」
「子どもなんかいなくても、ただ、裕紀と暮らしたいよ。早く治して、また、好きなとこ、どこにでも行こう」
「そうする。ほんと、そうする。ごめん、面会の時間があって・・・・」
「そうだった。ゆっくり休むといいよ」ぼくは、彼女のおでこにキスをした。それは冷んやりとしていた。「じゃあ、明日、また来るよ」

 彼女は手を振る。ぼくは、彼女を苛酷な状況にいつも追い込む人間のような気がした。若い彼女と別れ、留学先に追放した。いまは、こうして病院内に押し込んでいる。自分は陽気に振舞ったが、やはり、自分の運命を悲観していた。どこかで、間違った選択をしたのか?

 地元の駅で降り、そのまま続く商店街を歩いた。金曜の夜の雑踏が自分にはいまいましかった。ぼくも浮かれる民衆の一員でいたかった。しかし、そこの部外者であることは事実のようだった。こころは寂れ、地面を蹴る歩調も重かった。だが、どこかで夕飯をとらなければいけない。それで、ある店に入る。

「あれ、きょうはひとりで?」その無造作な言葉が、ぼくには痛かった。
「急に空腹になったもんで」
「そうですか、何にします?」

 メニューを開く手間もなく、ぼくは注文する。料理が運ばれてくる前にビールで喉を潤した。今日は、自分が存分に暖めてきたプロジェクトが蕾を終える日でもあった。ぼくは、同僚たちとそれを祝い、また、裕紀とも週末を仕事のことを一切忘れ、楽しめると期待していた。だが、ぼくの頭には心配しか残らなかった、数杯、ビールがはいったグラスを空け、それでも、ぼくには酔いなど簡単に来てはくれないようだった。

 食事を終えて、コンビニエンス・ストアに寄り、飲み物をパックで買った。ビニール袋を渡され、それを持って見慣れた道を歩いている。いつもなら、この辺りで裕紀のことを思い出し、彼女の一日のことを振り返ったものだった。今日は、なにをしていたのだろう。自分の仕事はすすんだのか。友人とも会ったのかなどと。

 だが、今日の裕紀の一日を自分は、もう知ってしまっていた。検査を受け、薬を飲み、ベッドで寝ていた。そう考えながら、ぼくは家の鍵を空ける。
 電気のスイッチをつけ、カーテンを開けた。なぜか、自分は、
「裕紀、いるんだろう?」と、小声とも呼べない音量でその名前を口に出していた。
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償いの書(100)

2011年09月03日 | 償いの書
償いの書(100)

 ぼくは、これまでの自分の人生のなかでいちばん不幸なことはラグビーの全国大会に出られなかったことだと規定していた。しかし、それは、ぼく個人の問題だった。でも、傷はきちんと傷跡として残った。あの日が来るまでは。

 ぼくは、いつものように仕事から帰る。その日は、珍しく家の照明が消えていた。夜の8時も過ぎていたので、裕紀がいない訳はなかったが、それでも家の中にひとの様子があるようにも思えなかったのでポケットから鍵を取り出した。だが、試しに取っ手をひねるとドアは何の抵抗もなく開いた。

「裕紀、いるの?」と暗い室内に呼びかける。でも、返事はなかった。ぼくは手探りに照明のスイッチをつけると、うなだれたような姿の裕紀が目に映った。「なんだ、いたのか。どうしたの、暗い中で?」

 裕紀の周りには、書類のようなものが散乱していた。良く見るとアルバムや、日記のようなものであるらしかった。
「ごめんね、ひろし君」
「なにが? とりあえず、こっちに来なよ」
「ごめんね、ひろし君」
「だから、どうしたんだよ」ぼくは、日常の生活が手の平からこぼれ落ちてしまう不安と戦い、それゆえにいらだった。
「この写真、覚えてる?」それは、ぼくが東京に来る前に撮ってもらったサッカー少年たちに囲まれている写真だった。「わたし、この写真大好き」それをぼくの側に向ける。「この子も覚えてる?」それは、ぼくらが新婚旅行の際に立ち寄った家でのニュージーランドの少年だった。「ひろし君は、子どもに囲まれていると、凄く楽しそう」

「どうかな? でも、そう見えるね」
「ごめんね、わたし、卵巣の病気なんだって」
「え、どこ?」
「今日、病院に行った。何だか身体の調子があまり良くなかった。それで、調べたら大事になった。もう、どうやら、ひろし君の子どもは産めないみたい」
「良く分かんないな」ぼく自身も少しパニックになる。

「やっぱり、ひろし君は正解しか望んでいない。私を10代のときに捨てたのも間違っていなかったし、東京に来て、私と会うのはきっと間違いだった。そのことを本能的に知っていた」
「何言ってんだよ。別れたのはもちろん、間違いだし、会って、こうして楽しく生活して来れたじゃないか」
「とうとう、ひろし君の役に立てない自分を発見した」
「裕紀がいるだけで充分だよ。分かってくれていると思っていた」ぼくは、本心でそう言う。
「本当?」
「本当だよ。こっちに来なよ。ちょっと片付けよう」ぼくは裕紀の手を引き、傍らに座らせた。「最初から話してみなよ」

「体調が悪かったので病院に行った。すると、先生の表情が変わり、レントゲンを撮ったり、揉みくちゃにされた」それは、感情の問題が関係していて、通常の検査の一環であることは理解できた。「今日は、帰ってもいいけど、荷物をもって明日から入院しろと言われた」
「じゃあ、これは?」ぼくは、広げられた荷物のほうを指差す。
「明日の準備だったけど、いろいろなものに思いが捉われた」
「だったら、もっと早く言えばいいのに」
「追い詰められていたし、ひろし君にも謝らなければいけなかったし」
「謝る必要なんか、どこにもないじゃん」
「嫌いにならない?」
「ならないよ、なれないよ」

「明日、病院にひとりで行かなければならない。ひろし君もいっしょに行ってくれる?」ぼくは、口では彼女を大切に思いながらも、日々の仕事の遣り繰りの変更が難儀なことのもどかしさを感じていた。「やっぱり、無理?」

「ごめん、明日、出張で大切な会議に出なければならなかったんだ」それは、ずっと暖めてきたプロジェクトが成功するかどうかの局面に立たされていた最後の日だった。
「気にしないで。ひとりで出来るよ」
 ぼくらは気を取り直し、裕紀の気持ちもようやく落ち着き、簡単な食事を取ってぼくらはその後、ベッドに入った。
「手をつないでくれる?」

「いいよ」ぼくは、裕紀の手を握る。彼女はすると寝息をたてたが、ぼくの目は冴え、どうやっても眠りの入り口は見つからなかった。それで、ぼくは目をつぶったまま、裕紀の手を握り続け、明日の仕事の進行度合をはかった。
「身体のほうは、どっか痛くないの?」翌朝になって目を覚ました裕紀に訊いた。ぼくは、やはり正確な病状を理解していないのだろう。

「大丈夫だよ。眠れなかった?」
「ううん、平気。やっぱり、休んで、病院に付き合おうか?」それでも、ぼくは仕事の成り行きも心配していた。
「いいの。昨日は、ちょっと甘えてみたかっただけ」
「叔母さんに電話しとくね」
「ごめんね。なんか、みんなに迷惑かけちゃうね」

「生きるって、迷惑をかけるもんだよ」ぼくは、それをいたわる覚悟で発言したが、どう受け止められるかは考えてもいなかった。「いや、裕紀のことを皆、心配しているので、迷惑なんてことを考える必要もないよ」そう言いながら、ぼくは彼女の叔母に電話をして、後ろ髪を引かれながら出勤した。通勤電車の座席は珍しく空いていて、ぼくは座って腰を落ち着ける。目をつぶり、昨日からの成り行きを考える。ぼくは、彼女に過去のある日、冷たい仕打ちをした。無条件にぼくのことを愛してくれた少女を無常にも捨てた。その挽回として、今日ぐらいはなにがあっても仕事を休み、彼女に付き添うべきであったのだ。彼女が悲嘆にくれているときに、ぼくの些細な仕事の成功など何の意味があるのだろう。ぼくは、職場の最寄り駅に着くまで悶々とそのことを考え続けた。
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償いの書(99)

2011年09月03日 | 償いの書
償いの書(99)

 もし、仮に人生が70年とするならば、ぼくらはおよそ半分近くを生きたことになる。その前半にぼくは何度か自分の意志とは別のところで恋をして、こころを奪われていった。裕紀と再会してからは、より意思的に彼女を愛した。そのひとが妻になり、ぼくはそこそこに満足のいく仕事をして、それはたまには失敗や軽率なミスをしたが、埋められないほどの痛手も受けず、2人でゆっくりできるほどの収入もあり、友人たちも減るより、反対に自分なりの予想通りなだらかに増えていった。

 ぼくは、満足いったのだ。思い描いていた人生がどういうものかは日々の雑事に追われ忘れていったが、自分の面前にあるものも、そう悪いものではなかった。仕事帰り、買い忘れたものを裕紀に頼まれ、スーパーに入る。ぼくは、それを買い求め家に帰るが、もしかしたら、そこに裕紀のいない生活もありえたのだと考え不安になる。もしかしたら、ぼくには仕事に必要な知識も技術もなく、ただ虫けらのように扱われる立場もありえたのだとも考える。だが、そうはならなかった。

 それが現実であり、自分にどれほどの幸運とラッキーさが内在されていたかは判断できず、逆に自分はどれぐらいの不運を浴びるのか、それとも、浴びてきたのかは知らなかった。

「これで、良かったんだよね?」
「そう、ありがとう。やっぱり、頼りになるね」
「お世辞に聞こえるよ」
「だって、お世辞だもん」彼女はキッチンのほうに振り返り、袋から取り出した調味料を直ぐに使った。ぼくは、それをどれ程の分量を使うのかがいまだに知らなかったが、出された料理の味を確認すると、やはり、必要なものだったのだと覚る。彼女は段々と料理を覚えて、レパートリーが増えた。まだ、自分が正確に誰と結婚することを知らなかった年頃に彼女は母を失った。同時に父も失った。伝承するものは彼女の味覚だけであり、それを手の感触や言葉で伝えてもらうことはできなかった。もっと、幼いころには教えられたのかもしれないが、彼女の母は忙しいひとだった。それで、彼女は祖母との生活を楽しんだ。それで、たまに彼女の口から出る言い回しやメモの内容に使われる言葉が古いことが散見された。

「おいしい?」
「おいしいよ」これが、ぼくの前半の物語であり、成功という確固たる言葉で規定することは出来ないが、確かにうまくいった人生だった。そう振り返ることばかりすることはないが、この日の単純な居心地の良さと小さな喜びは、ぼくに安定した安堵感を与えてくれた。それには、ぼくのいまの仕事が必要であり、裕紀の存在も必要不可欠であった。そう思うたびに、ぼくは東京への転勤と、そこで再会することになった裕紀のことを、運命だったと思わないわけにはいかなかった。裕紀も、そう思ってくれているといいが、言葉にするのは照れくさく、結局は、頭のなかをゆっくりと行き過ぎるだけで、そのままどこかに消えた。ふたたび浮かび上がっても、結果としてはいつも同じものだった。

 ぼくらは、大体は休みをいっしょに過ごした。行く場所は、町でのデパートであったり、潮の匂いが感じられる公園であったり、彼女の叔母の家でもあった。

 疲れた一日をぼくらは帰りの電車の座席で感じている。彼女は目をつぶり、ぼくの側にもたれかかっている。前の席には帽子をかぶった10代後半らしい少年が耳にヘッドホンをいれ、小刻みに身体を揺らしていた。彼は、いつか誰か愛する人を見つけるのか。それとも、もう居るのかということをぼくは頭の中で考えている。ぼくは、その年代のときに裕紀と別れてしまい、だが、いまはこうしてぼくの横で身体の重みをあずけ、安心して寝ている彼女がいた。出入り口のところには、20代の半ばの男女が楽しそうにふざけあっていた。それが、永遠のものであるのか、それとも期限が限られているものかをぼくは夢想する。

 ぼくらの生命体の継続には限界があった。それを意識しないことのほうが多いが、確かに限界があった。ただ、でも安らかに目をつぶっている裕紀は、このままぼくの傍にいてもらいたかった。最寄りの駅に近付き、彼女を起こすことにためらいを感じる。彼女がこのまま何の心配もない生活を送れるようにと思いながら、ぼくは彼女の肩を揺すぶる。

「もう着くよ」
「そう。わたし、寝てた?」それは自分がいちばん知っているようにも思えたが、
「寝てたみたいだよ」と、小さな声で答えた。他の雑踏に混じり、ぼくらはホームに出る。アナウンスが鳴り、電車はぼくらの背後で出発した。ぼくは、それがどこに行くのか? 象徴的にぼくらをどのような場所に連れて行くのかを想像している。
「寝たら、お腹空いた」と裕紀は、無邪気に言ったので、ぼくは現実に帰る。
「どこかで、食べていく? ぼくも、喉渇いた」
「ビールならあそこ、ワインならあそこ」
 その時に、ぼくは生活を共有したという認識に思い当たっている。はじめてのことから説明する必要はもうなく、これがぼくらの生活の根幹ともなっているのだ。
「そうだね」
「どっちにする?」ぼくには選択する猶予が許されており、しかし、裕紀を選らばなかったことは決して許されなかったのだとも同時に気付いている。
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