爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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メカニズム(20)

2016年08月29日 | メカニズム
メカニズム(20)

「今日、なんの日か覚えてる?」ぼくは地獄に通じる質問をされる。もちろん、覚えていない。今日は、明日と昨日の中間にあるだけだ。
「さあ」
「やっぱり」

 無言というのも、また地獄の一面だった。男は黙って、というコマーシャルを思い出している。ウディ・アレンの世界観と正反対にあるもの。
「それで?」腹をくくる。
「なんにもないよ」

「なんだ」安堵する。そして、カレンダーを眺める。生まれた日を境に大人になるわけではない。大きな経験が節目となって大人に変える。伏し目がちで。だが、ほんとうに今日はなにもない日なのか? 試験に不合格なのではないか。ぼくはぼんやりと考える。頭のなかでひとみと会ってからのあれこれを思い浮かべている。最初のデート。最初のあれこれ。数回目のあれこれ。最後のあれこれ。なかなか最後を判断するのはむずかしい。ぼくらは継続中の関係なのだ。

 継続というのは、あやふやで、ふわふわして、特別な楽しみがあった。新聞記者も手を出せない途中という段階。歴史家のわずらわしい手も入らない。ただ当事者だけが存在する。

「休みだから、どこかでご飯でも食べる?」
「いいね」
「なにがいい?」
「寿司、焼き肉、ハンバーグ、カレー」
「もっと、いいものにしましょう。たまには」

 やばい。やはり、何かの記念日なのか? オレは試されるという過程の正式な当事者なのか。
「どこか探そうか?」
「ほんとうは、もう予約してあるんだ」

 決定的である。ぼくはトイレにいったん避難する。もしくは非難される準備を整える。ことばの魔術師は、ダジャレしか思いつかない。それから、シャワーを浴びて久々にひげを剃る。つるりとした肌にローションを塗る。できあがりだ。しかし、記念日を思い出せない。まったくの空白だ。オレの脳は砂漠であり、卵のいないカマキリの卵であった。

「おめかし」とひとみはぼくの服装をからかった。まだ、笑顔がある。いつか怒りに変化するかもしれない。予兆はおびえとなってつながる。安心感を得たい。そして、与えたい。ふたり連れ立って燻される前の外に出る。夜は若かった。ぼくは誰かの模倣にしか過ぎない。

「ほんとうは、明日なの。なんの日か覚えてる?」

 ぼくの記憶には、タイガースの三連続バックスクリーンしかない。そんな日でもない。夜の空気は苦かった。さんまのはらわた並みに苦かった。

メカニズム(19)

2016年08月28日 | メカニズム
メカニズム(19)

 失業保険も間もなく切れる。国家のお世話になる。運営会社の一員として。いま、徴兵されたら断る言い訳が立たない。それはそれ、と胸を張って主張することも不可能だ。甘い汁と、苦い水。生まれた場所。橋の下。

 日本語が便利なものか、また、どのような用途にもっともふさわしい部類の言語か考えてみる。答えらしきものもない。精神性も依存する。陽気にはしゃぐことをブラジル人ほどできないかもしれない。陰鬱になるには、リッチであり過ぎた。空爆もなく、銃もない。目出度い。

 一員であることに安堵する。同じ通貨を使い、同じおにぎりを買う。好みというのは鮭か、おかかぐらいの差しかない。稲作文明。

 特技を考慮する。得意なことを仕事にするひともいる。洋服をデザインしたり、またそれをもとに塗ったりもする。着るという行為を見せるという行為に変えるモデルさんがいる。その身体のデザインも設計もある種の完成品だった。

 すると急に完成というものが分からなくなる。棺桶に入った直後が完成か。それとも、灰となって自分の身体が消えた時点が完成か。さらには、どこか頂点らしきものを指すことばなのだろうか。どれも完成に近く、どこも限りなく未完成であった。

 混乱した頭で買い物帰りに歩いていると、しとしと雨が降ってきた。傘をもっていないので小走りで歩く。ひとは環境に左右される。全員に不幸のミサイルが狙っても、予知して防御できる場合もあった。単純に折り畳み傘ぐらい持っておけばよかった、というミスを大げさに考える。走っている遠くに虹が見える。虹を主題に、なにかおもしろいものが書ければよかった。ねぎが揺れる。ワカメが揺れる。さざえはない。ポストは空だった。赤紙も幸運なことになかった。ポケットからカギを取り出し、もう何回したか分からないカギを開ける作業を一度、追加した。

メカニズム(18)

2016年08月21日 | メカニズム
メカニズム(18)

 魚は骨があってこそ魚であった。ぼくが作っているのは、単なる軟体動物である。もしくは、価値のない夏祭りの夜店の金魚のようなものだ。骨格がない。そして、歯応えなども誰も求めていない。ひとりの女性の眠気覚ましのようなものだ。あるいは反対に入眠の儀式の道具。

 最初は頼まれたものでも、のちのち真剣に行えば天職という高みにまで達するだろうか。しかし、つなぎの仕事であることは自分がよく知っていた。そもそも、仕事とも呼べない。高尚なる暇つぶし。

 鍵盤を八十八の数だけ左右に並べる。お金はいちばん左端でいい。気にも留めない風に。そのなかにピカソもあって、ライカのカメラもある。カフカがあって、ルイ・アームストロングもいる。お金にならないものこそ品の良い音がする。しかし、品性をなくした酔っ払いとの接客によって、段階を経るが、それがぼくの生活費のもととなった。原材料。それでも、ぼくは自分の人生をきれいに奏でたい。

 骨がない物語の糸口を探す。ギャンブルに夢中になるひとの話はどうだろう。はじめのうちは幸福の何たるかも知らないのに数回は勝つ。負けてこそ、血が逆上して入れあげる理由が生じる。最後にすってんてんになり身ぐるみをはがされる。無一文になり起死回生の勝負に出る。そういう情熱も意欲もない自分は机上だけのやりとりで信憑性に欠けてしまう。

 骨がない。つまりは経験がない。ぼくは自分の鍵盤を空想のなかで眺める。半分ぐらいは、もしくはそのまた半分ぐらいは汚れたものがあった方がリアルになるのかもしれない。すると、家のチャイムが急になって驚いた。どんな使者が訪れたのだろう? 殺し屋か? 恫喝されるのか。

 新聞の勧誘員だった。洗剤を見せられる。ひとみにはお気に入りがあって、それ以外は試すこともできない。ぼくはその馬鹿げた理由を言うつもりもない。厭な顔を置き土産に戸を閉じた。断るのも仕事であり、断られるのも仕事であった。もっと神秘的でガッツのある鍵盤を望んでいた。


メカニズム(17)

2016年08月20日 | メカニズム
メカニズム(17)

 なんだかひとみの服装や仕草が変わる。ひとは変わるものなのか、幼少期からのその成り立ちの変更を拒むものなのか、自分には分からない。ただ、世間の波となる流行がある。老若男女がその一部を支え、構成するのも事実だ。そして、ある瞬間が瞬時に過去となって写真や雑誌のなかに急速冷凍のように閉じ込められる。なつかしいとか、恥かしいとの赤面をともなう感想が生まれる。

 古びるものもあって、古びない輝きを維持するものもある。どちらも正しい。ぼくは数ヵ月だけ古びる。サイズは変わらない。爪と髪だけが成長している。

 短い読み物が増えていく。ディケンズのような巨大な本を考えてみる。誰かが待ってくれれば、収入の確保の目途があれば、やってみたい気もする。これもいつもの言い訳のひとつだ。するひとは直ぐに行動に移す。

 ぼくは甘えている。収入が最近はほとんどない。貯蓄もしなければ、利殖もない。どんどん減っていく収入。しかし、生活に困ることはない。いまのところは。世間の一員に加わっていないという不安があるのみだ。上司の悪口も言ってみたい。同僚と帰りに居酒屋で飲んでみたい。後輩のミスを棚上げにして誰かに頭を下げてみたい。どれからも自由であり、どれからも招かれていない。オレは、ひとなのか?

 うだうだと考えているのもあきらめ、日課になっているノートの書き込みをすすめる。新聞に四コマ漫画を描いている方の苦労を知る。ノートの隅にイラストを描いている。これは広告なのだ。絵もきれいな額があってこそだった。

 近未来の世界。ひとは考えることをあきらめ、遂行ということしかできなくなる。車輪にのるモルモットのようなものをイメージする。近未来の映像が、身近で手頃なものになってしまう。自分にはこの方面の能力がないのだろう。欠落。新聞に挟まれているチラシがポストの横に捨てられていたので興味本位に拾ってきた。ぼくはソファに横たわりそれを眺める。世界には商品がたくさんあった。他店よりいくらかでも安く。芸術とは、どういうものだろう。他人より、いくらかでも高い名声と、流通するお金での評価を。開眼。ぼくは、そのスーパーに足を運ぶ。時間だけが、ぼくを苦しめる唯一の原因のようだった。

メカニズム(16)

2016年08月18日 | メカニズム
メカニズム(16)

 ドライバーの飛距離が伸びる。ゴルフをしたこともない自分だが、その快感は簡単に想像できた。上達という幸福がある。停滞という不安もある。無我夢中という恍惚もあって、生あくびという退屈さもある。

 若者は、伸びる余地がある。老いたるものは、かわすテクニックがある。牛と闘牛士の話のようだ。若いときに選んだ職業がある人間の一生の歩みを拘束する。ひとは従事したものでかたどられる。銀行員はまさしく銀行員のように。売人は売人のように。集金という類似の形態をとっても、外見はかように異なってしまう。

 ひとみの知り合いだった女性の女優としての主演映画が作られる。手の届かないところに行ってしまう。ぼくらは尻尾をつかむような意気込みで映画館に向かった。他人になるとお金が貰える仕事。他にそういうものがあるのかぼくは鑑賞しながら考えている。ピエロ。教師や警察官。これは反対だ。不道徳に傾くと、職業を首になる。では、自分ってなんだ?

「きれいになったね」とひとみは感想を言う。
「そんなに?」
「そんなに。視線を意識するって、とても重要なことだから」
「ひとみも、もう少し頑張れば、あれぐらいになれたんじゃないのかな」
「自分の実力なんか。いちばん自分が知ってないと」

 ぼくは知らない。なにものでもない。無職で女性の稼ぎに頼っている男。飛距離は伸びるかもしれず、ここらが限界かもしれない。池ポチャから這い上がる力を有し、反対に何度も池ポチャを繰り返すかもしれない。明日はどちらにしろ分からない。

「いっしょに行動しているから、きょうは物語はなしだよ」
「いいよ。たまには休憩しなくちゃ。わたしだって、鬼じゃなし」
「鬼嫁じゃなし」
「え?」
「そういう単語もあるんだなって。あるから、いる。いるからある」

 怖い嫁の監視下にいる男性の話を思い付く。明日は、これだ。ひとみは職業と関係なく清楚に見える。ぼくはトイレの鏡で確認すると、どうやら無精ひげを生やす姿は無職そのままの証明のようだった。職業が容貌を規定して、そこから振り落とされてもまったく答えは同じようだった。


メカニズム(15)

2016年08月15日 | メカニズム
メカニズム(15)

 書いたものが貯まっていく。遠い先の終わりを意識するようになる。大人はゴールを設定してしまう。子どもはいつまでも遊びたがる。良識という鎖がぼくを不自由にし、固定した。

 直ぐにスランプが訪れる。向いていない、という甘えに浸かる。ぼくは音楽に逃避する。

 キース・ジャレットというひとが異国にいた。当然もつべきであろう金銭欲とか、女性から人気が得たいとかの邪念が一切、奏でる音から感じられなかった。正当なる妥協とか打算も見当たらない。ただ、真摯にピアノに向き合っている。それをつづければ発狂というゴールが待っているような気もする。ぼくは、他にはゴッホしかこの危うい生真面目さの匂いを感じなかった。

 そして、生身の自分は緩やかさを肯定する。空腹もあり、頭痛もあって、睡魔も襲う。

 ひとみは化粧をしている。自分の満足というより、ひとへ見せるということが過分に含まれているようだ。そのような洋服を着ている。ぼくは誉めるべきなのであろう。実際、そう口にした。服装のセンスのないひともどこか魅力がある。ガードが低い印象を与えるのか。だが、ジャブという小さな手法を用いなければ、強打にもつながらない。強打は、ぼくの望むところではなかった。なけなしの人生訓を奥から引っ張り出さなくても。

 音楽が終わる。静寂があるのみだ。本物の肉体は疲労を感じる。複製の音源はなんどでも繰り返して聴ける。別の音楽をかける。ひとりでピアノに向かう男。ぼくが払うのは数千円の円盤代だけだ。ほぼ半永久的に所有することを許される。フロントドアからの許可もなかったが。

 ひとみは出掛ける。いつもより少し早い時間だ。約束があるという。危険な、かつ抵抗までに及ばない淫靡なにおいがする。なす術もない自分は目を逸らすようにノートを開く。

 野心や下心が芸術をけん引する場合もある。反対に、まったくその隠すべき体臭を感じさせないひともいる。芸術とか音楽に立ち向かう態度。ぼくはまだ知らない。永久に知らないままだろう。

 女性が洋服を買いに行く話を思い付く。しかし、生まれたのは時間の経過ののろさに飽きて暇をつぶす男性の話になった。これを読めば自分への注意と批難と勘繰ってしまうかもしれない。薄氷を踏む、という使い慣れないことばが浮かぶ。字にすると薄い氷だった。ぼくは冷蔵庫から氷を取り出し、酒の瓶をもぎたての氷入りのグラスに傾けた。


メカニズム(14)

2016年08月14日 | メカニズム
メカニズム(14)

 三話が終わる。「そんなに、悪くない」という評価だった。感想というのはさまざまだ。好評にも悪評にも与えられる理由が多い。

 ひとみはテーブルにノートを載せて、爪を塗りながら視線を交互に向けている。どちらがより重要なのか分からない。ぼくの時間をかけた物語の扱われ方が、なんだか残念だった。あれも、我が子だ。手塩にかけた。

「うん?」
「いや、爪、きれいだなって」
「商売道具だから」

 彼女に視線を向ける男性も、少なくない数がいることだろう。それに比べて、ぼくは根気よく、ひとりの女性を愛して、物語を捧げている。向上心というものも、はじめて芽生えた。ベストではなく、ベターを。いや、反対か。

 女性の化粧の経過を見るということが大人の条件だった。突然の登場は若いときだけの栄誉だ。ぼくはその最中にいる。ひとみは六本木に仕事へ。ぼくは洗濯機を回す。大人は下着を脱がすというだけではなく、干すという段階も加わる。魅力的な小さな物体が、ただの乾かされるのを待つ色気のない布となる。

 ノートを開く。いくつもの文字で白い部分を埋めなければいけない。どうしても浮かばないとテレビをつけてしまう。本日の相場。今夜の夕飯。明日の天気。どれも自分とは無関係のようにも思える。テレビを一旦、消す。

 遅い散歩に出る。小学生も塾に行く時間のようだ。その年代の子があたまに入れなければいけない内容を自分は思い出せない。何人かの先生についての記憶の断片はいまだに消えない。好きなひとと、そうでもないひと。だが、そうでもないひとのある注意がいちばん貴重だったような気もする。今になってみれば。だから、きょうは真実に似せた物語を準備することにする。まな板に載せ、切れ味の悪い包丁を用意して。

 歩きながら物語をつくりあげる。ひとりの人間が、ぼくのなかで年老いることを拒んでいる。再び会えば設定を変えなければいけなくなる。年齢や見た目にひとは影響されやすい。弱まれば、憎みつづけることもできないだろう。恐怖感も威圧感もいだけない。三年近く、ほとんど毎日のように会った先生も、思い出すのはたったひとつの事実だけだった。いつか、ひとみもぼくのどこか一部で判断する。その唯一といえるものを磨きたいと思う。家に着く。ノートを開く。

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メカニズム(13)

2016年08月13日 | メカニズム
メカニズム(13)

 二話が終わる。我が子に夕飯を用意する母の気持ちを理解する。麻婆豆腐ばかりが料理ではない。

 ゴーヤー・チャンプルー。ホウレン草のお浸し。手を替え、品を替えである。だが、昨夜は彼女の帰宅前に寝てしまっていた。彼女は冷蔵庫から食料を出して、食べてから眠った。ノートも開いている。まあまあ、という評価だった。努力が足りない。改善こそが愛だった。ぼくは、きょうのノルマの達成を考える。そして、職探しを疎かにしている。

 ネットでニュースを見る。死ぬ、という事実が最後のニュースになる方々がいる。跡をにごさないという名誉が与えられる。彼の遺産はいくらでした、という露骨な記事もなく、相続は修羅場と化しましたという追跡もない。死は安泰だ。

 死ぬ間際の最後のひとことという題で物語を捻出する。優しい人間の罵詈雑言か、憎まれた奴の最後の感謝か。ドラマティックという秘蔵のナイフをぼくは用意している。これも、うそだ。誰か、下請け業者を見つけたいところだった。

 ちなみに、ぼくの最後のセリフは決まっている。不二子ちゃんは、ルパンのことが好きだったのかしら、だけだ。永遠の謎。謎こそが美なのだ。

 外に出る。宅配業者のひとが汗をかきつつ働いている。それも、ノルマだ。きょうの分は、きょうに終わらす。無数の箱を、無数の四角い造りの家に運ぶ。中には何が入っているのだろう? ぼくに知る権利はない。開く権利もない。ぼくのノートを開く権利がひとみにはある。

 散歩されている犬がいる。自由そうでありながら、首輪につながれている。ぼくもなにかにつながれ、もう片端ではまたどこにも結ばれていない。多少の税金を払うぐらいが、ぼくの任務だった。

 ひとみがメモにのこした食材を仕入れる。おつりをもらう。「まいど」とハスキーな声で背中にあいさつを送られる。ポストにはひとみ宛ての手紙が入っている。これも、ぼくには開く権利がない。世の中が、ぼくに秘密を作ろうとしているとの被害妄想の種を見つけて、勝手に育てようとしている。最後のことばを考えながら横になると、そのまま昼寝につながった。美しい連鎖。

 夕方になる。休みで一日、どこかで過ごしていたひとみが戻ってきてしまう。男の子には言い訳が厳禁だ。ぼくはペンを握り、今夜の一話を書き込んだ。


メカニズム(12)

2016年08月09日 | メカニズム
メカニズム(12)

 一話は終わった。ひとりの読者(発注と受注を兼ねる)に不満はなさそうである。命までは奪われないアラビアン・ナイト。地道に物語を紡ぐ。

 日暮里は墓と死者の町。鴬谷は歓喜と休憩、ときには宿泊の町。人生の隣り合わせた縮図。表裏一体。上野はダミ声の町。秋葉原は、かつてのひとみの町。ぼくも通った町。いまは六本木になる。木や樹木はどこにあるのだろう? 六本のビル。六百本のビル。となりには麻と布の町。切れ端ならば、問屋は日暮里と浅草橋。馬がいない馬喰町。飯と倉の町も六本木の近くにあり、北方領土の一部を担っている、あるいは司っている町でもある。

 ぼくは物語に飽きて、あらゆる種類の地図を眺めていた。町の景色はかわるが、地図はそれほど変わらない。国の境界線も変わるが、ひとびとは相変わらず二足歩行である。ぼくはその足を使って、暇に任せて歩いていた。

 モームという英国人は、ひとを観察していれば勝手に物語は湧くと豪語していた。頭のなかの構造がそうなっているのだろう。すると町角のタバコ屋のおばさんも物語の名手となれる。ぼくは散歩のついでに古びたタバコ屋でガムと水を買った。利益はわずかのようにも思える。

 夜の町で酒の相手をするひとみ。原価はわずかのようでもある。もともとは水である。蒸留したり、発酵したりして誰かを酔わせる。ポッとなる。世界の輪郭が曖昧になる。財布のひもが緩む。そして、ぼくもこうして散歩できる身分でいた。

 墓のなかを歩く。徳川家というのが相続の種を無視して終わる。外国人が鎖国をきらう。ニートをきらうお母さんと同列かもしれない。戸を開く。部屋には風呂にも入らずにゲームをしている若者がいる。その姿が日本だったのか。ぼくはくたびれて、生きている間も死んでからも交流のない無名のひとの墓の横にすわって、ひとみからもらったノートを開く。前のページには、「はなまる」がついている。よくできました。

 ぼくは空を見る。飛行機雲があった。飛行機のなかでの小さな騒動というテーマを考える。トイレの鍵の開け方が分からなくて閉じ込められた少年の数十分の内部と外部の攻防を描く。扉を開くのが物語ともいえた。ある決定的な最中に。


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メカニズム(11)

2016年08月07日 | メカニズム
メカニズム(11)

 仕事というのは労力が金銭的な価値に相応するものとして化け、生活が潤わなければならない。赤字は、だから仕事ではない。単なる仕事に似せたもの。

 ぼくは以前の職場の同僚の結婚式の案内を手にする。その同僚の相手の女性は医者だった。ぼくは、彼女の職業を訊かれたらきちんと答えるだろうか。貴賎はない、と胸を張って言い退けられるだろうか? いや、おそらく。

 だが、幸せだった。ぼくはカフェで古びたノートを開く。小さな辞書も用意した。言葉の魔術師になるのだ。

 ノート・パソコンでは動画の誘惑に負けてしまうかもしれない。突然、音量ボタンを誤って操作して、部屋中にあえぎ声が響き渡る可能性もある。ぼくは、赤面するだろう。自主的な出入り禁止を自分に命じる。

 まじめなヘルマン・ヘッセのような物語を書くつもりだったが、あたまのなかを取り換えないと、その命題は失われる。ぼくは、今日の分を仕立てあげなければいけない。のこされた時間は数時間。約束は約束だ。すると、ベビーカーの美女がやってくる。

「となり、いいですか?」
「もちろん」
「お勉強?」
「ま、そんなものです」
「うちの子、起きて騒いだら迷惑になってしまいますね」
「まさか。泣くのが仕事だから」金銭的な価値に直結という自論を簡単に捨てる。

 ぼくはずるずると会話を引き延ばしてしまい、きょうの達成すべきノルマを早くも忘れようとしている。そもそも、わざわざ外でしなければいけないことでもない。たくさんの気をそらすものがあるのだから。

「あのときの保険、まだ入ってます?」
「解約してないから、そのままだと思いますよ」
「あれ、お得なんですよ。いまでも、お勧めだけど。もう、扱ってないんじゃないかな」

「子どもがいるのが、いちばんの保険ですよ」と、ぼくは思ってもいないことを口にする。足かせ。足手まとい。ぼくは、ひとりで世界中を旅するのだ。現実逃避のみがぼくの当面の仕事だった。


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メカニズム(10)

2016年08月06日 | メカニズム
メカニズム(10)

 ぼくは駅までひとみを迎えに行き、改札を抜けたあとに数泊分の荷物をもった。

「ありがとう」
「どうだった?」
「ただの帰省と同じになった」

 家に着くと、荷物を出した。洗濯するものや、いつもの定位置にもどるもの。小さな化粧品。そして、お土産と言って小さな包みを最後に出した。

「なに、これ?」
「ノート。まっさらな」満足気にひとみは言う。デザインがいささか古びている。その由来を説明する。「田舎に本屋と文房具屋を兼ねて、いっしょに売っているような場所あるでしょう、狭いのに。用もないけど、なつかしいなって入ったら、その古いノートがまだ売ってた」

「骨董品」
「アンティーク」優しげな口調で言い直す。「そこに仕事に疲れたわたしだけのために、物語を書いてくれないかな。帰りの道中でずっと考えていた。素敵な提案だなって」
「ぼくが?」
「そう、ぼくが。どうせ、暇なときに、やらしい動画ばっかり見ているんでしょう!」
「心外だな」
「ひとは事実だと怒る。ウソだと笑って否定できる」
「そうかもね」
「約束して」

 ぼくに仕事ができる。いや、収入の可能性につながらないものは仕事ではない。時間つぶしができただけだ。ぼくは、この世にいもしない聖女を探しているのだ。いなければ、自分でこしらえて、それを文字で紙に刻み付けるしかないのだ。彫刻家やカメラマンならうっとりとするものを見せることができるだろう。紙はむずかしい。ひとは読んだものを勝手に自分に引き寄せてしまう。

 ひとみはシャワーで汗を流している。ぼくは、その間にペンをつかんで、ノートを開いた。少し黄ばんでいる。読者がひとりいる。たくさんの男性の話し相手となって疲れた女性が唯一の読者だ。手練手管。酔い。紫煙。ドンペリニヨン。マカロン。ぼくの思考は直ぐに底をついた。動画を見たい誘惑に駆られる。ぼくの想像力も枯渇している。偶像を生み出せない。

「そうだ、きょう、仕事をしているときに来ていた保険の女性に会った。いつの間にか、お母さんになってた」ぼくは髪を拭いているひとみに話しかける。

「そう。それだけで終わったの?」
「終わったよ。ベビーカーに可愛い子どもが乗ってた」
「男の子? 女の子? 名前は?」
「知らない。聞かなかった」
「うっかりだね」ドライヤーのスイッチが入る。「神は細部に宿る。ディテールが大事。いまの仕事で覚えた」
「仕事を辞めたことを言ったら、もったいないだって……」
「自分でもそう思っているの?」
「そんなことないよ」
「なら、何を言われてもいいじゃない。わたしが食べさせてあげるから。だから、見返りにおもしろいお話をつくってね」

 眠る前におとぎ話を要求する少女の如しである。ぼくは仮の父となって、それに応じなければならない。ほんとうは、別にしなければならない重要なことがあるような気もしている。誰かが、きっとぼくを待っている。