Untrue Love(118)
その年は梅雨がはじまる前なのに雨が多く降った。ぼくは靴が傷むのを恐れたのか、単純に木下さんに会いたいためなのか分からないまま閉店間際のデパートに入った。彼女がいるかどうかも確かめずに。だが、ぼくの視線は彼女を認め、彼女もぼくのことを見た。ここにいるべきではないひとを思いがけなく見つけたように。
「山本さん、靴を買いに?」
「雨ばっかりで、靴も乾く暇がないから」ぼくは彼女の他人行儀の対応に戸惑っていた。
「似合うの、ありますよ」彼女は靴をとる。そして、かがんでぼくの前に差し出す。「多分、サイズはこれぐらいでしょう」
「みんなのを覚えているんですか?」
「大体はね。これも企業努力だから」彼女は以前のように微笑む。一、二ヶ月前の以前にしか過ぎないのだが。「わたしの趣味でもあるし」
ぼくは、取り出された靴に足を入れる。最初は窮屈だと思っていたが、足首をまわし中にいる足を確認すると、悲鳴をあげることもなく快適であるということは、こういうことなのだと理解させてくれる何かがあった。
「ぴったりですね」ぼくは感想を述べる。彼女は手で船のような形をつくった。それがぼくの足の形状を指していることに気付くのには多少の時間が必要だった。それから、もう一度、彼女は笑った。
「ぴったり。買ってくれるのを待っていたぐらいにぴったり」
そして、ぼくの財布は開かれる。ぼくは、お金を払いながら、彼女の今後の予定を訊く。
店を出ると、雨はやんでいた。傘を面倒そうにもっている会社員がいた。家庭や会社に縛られ、さらに傘にもという表情だった。それらが充足をあたえてくれることはなく、彼には不満の種がひとつ増すだけだったのだ。おそらくは。
ぼくは、待ち合わせの場所に立っている。路面はまだ濡れている。電飾の光線がその小さな水溜りに反射している。ぼくの両手には傘があり、いつものカバンがあり、そして、新たな靴の箱が納まる袋があった。ぼくはあそこで汚れてもかまわない格好でバイトをしていた。重い荷物を運び、社会の成り立ちの一員になることを知った。物事には裏側があり、それは美しくもないが、当然、誰かがやらなければならないものなので、わずかながら貴いものに変化させる義務もあった。労働は賃金にかわり、ぼくはそれで女性と会った。しかし、若さこそがいちばん重要だったのだ。躊躇をしないまま決断をして、少しは悩み、少しは解決策を練り、結局はどうにかなった。このように雨も際限なく降りつづけるわけでもない。
「今日は、なんだか気合の入った服をしてこなかった。朝は随分と雨が降ってたし」
その待ち合わせの場所に来た久代さんは言い訳めいたことを口にした。もう四年近くにもなる前は、彼女はぼくに比べて大人すぎて映ったが、いまは対等な立場にいるようだった。この変化の原因がどこにあるのかも分からない。ただ、いくらか自分に主導権が与えられつつあるということでもあるようだった。主体的になにかをするわけでもないが、はじめる権利も終わらせる権利もぼくは握ることができるのだという過大な自信のせいであろうか。しかし、はじまってもいないし、無論、終わらす勇気も覚悟もない。主導権も傘立てにある傘と同じぐらいに置き忘れてしまいそうだった。雨がやんでしまえば。
「お腹空いたでしょう? 順平くん」
「なんだ、名前忘れたのかと思ってました」
「まさか。仕事なれた?」
「まだまだ、全然ですよ」
「順平くんなら、できないことはないでしょう」
「そこまで言ってくれるんですか・・・」
「うん。紹介文でも書いてあげようか?」彼女が年をとらないのか、ぼくが急激に大人になってしまったのか分からないが、この変化は好ましいものだった。
「成長しても、もう靴のサイズは変わらない」
「でも、いずれ履かなくなるよ。下駄箱でほこりをかぶって、忘れちゃうんだよ。むかしのものというひとつのくくりのなかで」
ぼくはそういうラベルの貼った大きな袋状のようなものを想像してみる。カンガルーの子どもが下界に興味がある目付きで外を見ている。子どもがもう戻らなくなったら、そこには何があるのだろう。ぼくは、自分の袋にはまだなにも入っていないと確信していた。しかし、思い出してみればあんなにも仲が良かった友だちの名前を一部か、全部か忘れてしまっている。タケシかタカシかも思い出せない子もいた。すると、その袋は段々と膨張する未来だけが待っているようだった。そこにあらゆるものを放り込む。労わる機会がくるのか、懐かしむ時間を待ち望むのか考えもせずに、無節操に。
ぼくらはゆっくりとご飯を食べ、お酒をちょっとだけ飲んだ。窓の外は久しぶりの星空を楽しんでいるようだった。だが、遠い空には既に雨雲の前兆のようなものがあった。
「やっぱり、明日も雨なんですかね?」
「新しい靴を履きだすタイミングとしては不似合いだね」
「もう一日か、二日だけ我慢します」
ぼくはその言葉を信じ込ませるように靴の入っている紙袋を撫でた。
時間の余裕もそれほどにはなく、早い時間で切り上げた。お会計を済ませて外に出ると、ぼくはやはり傘を店内に立てかけたまま忘れていた。久代さんが二本の傘を持ってきてくれた。
「やっぱり、忘れてるね。もう、明日も降るんだから忘れちゃダメだよ」と彼女は渡す際にそう言葉を付け加えた。ぼくは、彼女自身を忘れないでね、という言葉として受け取った。傘や靴など代用の利くものではないので、また形あるものとしてではなくなるので、ぼくは忘れる心配など無用のことだと思っている。しかし、形がなくなると思いはじめていた自分にも驚いていた。形あるものとないもののどちらにより記憶は残りつづけるのだろう。ぼくは地下鉄で手すりにかけずにひとときも傘を離さないでいた。これが久代さんとのつながりのすべてでもあるように。
その年は梅雨がはじまる前なのに雨が多く降った。ぼくは靴が傷むのを恐れたのか、単純に木下さんに会いたいためなのか分からないまま閉店間際のデパートに入った。彼女がいるかどうかも確かめずに。だが、ぼくの視線は彼女を認め、彼女もぼくのことを見た。ここにいるべきではないひとを思いがけなく見つけたように。
「山本さん、靴を買いに?」
「雨ばっかりで、靴も乾く暇がないから」ぼくは彼女の他人行儀の対応に戸惑っていた。
「似合うの、ありますよ」彼女は靴をとる。そして、かがんでぼくの前に差し出す。「多分、サイズはこれぐらいでしょう」
「みんなのを覚えているんですか?」
「大体はね。これも企業努力だから」彼女は以前のように微笑む。一、二ヶ月前の以前にしか過ぎないのだが。「わたしの趣味でもあるし」
ぼくは、取り出された靴に足を入れる。最初は窮屈だと思っていたが、足首をまわし中にいる足を確認すると、悲鳴をあげることもなく快適であるということは、こういうことなのだと理解させてくれる何かがあった。
「ぴったりですね」ぼくは感想を述べる。彼女は手で船のような形をつくった。それがぼくの足の形状を指していることに気付くのには多少の時間が必要だった。それから、もう一度、彼女は笑った。
「ぴったり。買ってくれるのを待っていたぐらいにぴったり」
そして、ぼくの財布は開かれる。ぼくは、お金を払いながら、彼女の今後の予定を訊く。
店を出ると、雨はやんでいた。傘を面倒そうにもっている会社員がいた。家庭や会社に縛られ、さらに傘にもという表情だった。それらが充足をあたえてくれることはなく、彼には不満の種がひとつ増すだけだったのだ。おそらくは。
ぼくは、待ち合わせの場所に立っている。路面はまだ濡れている。電飾の光線がその小さな水溜りに反射している。ぼくの両手には傘があり、いつものカバンがあり、そして、新たな靴の箱が納まる袋があった。ぼくはあそこで汚れてもかまわない格好でバイトをしていた。重い荷物を運び、社会の成り立ちの一員になることを知った。物事には裏側があり、それは美しくもないが、当然、誰かがやらなければならないものなので、わずかながら貴いものに変化させる義務もあった。労働は賃金にかわり、ぼくはそれで女性と会った。しかし、若さこそがいちばん重要だったのだ。躊躇をしないまま決断をして、少しは悩み、少しは解決策を練り、結局はどうにかなった。このように雨も際限なく降りつづけるわけでもない。
「今日は、なんだか気合の入った服をしてこなかった。朝は随分と雨が降ってたし」
その待ち合わせの場所に来た久代さんは言い訳めいたことを口にした。もう四年近くにもなる前は、彼女はぼくに比べて大人すぎて映ったが、いまは対等な立場にいるようだった。この変化の原因がどこにあるのかも分からない。ただ、いくらか自分に主導権が与えられつつあるということでもあるようだった。主体的になにかをするわけでもないが、はじめる権利も終わらせる権利もぼくは握ることができるのだという過大な自信のせいであろうか。しかし、はじまってもいないし、無論、終わらす勇気も覚悟もない。主導権も傘立てにある傘と同じぐらいに置き忘れてしまいそうだった。雨がやんでしまえば。
「お腹空いたでしょう? 順平くん」
「なんだ、名前忘れたのかと思ってました」
「まさか。仕事なれた?」
「まだまだ、全然ですよ」
「順平くんなら、できないことはないでしょう」
「そこまで言ってくれるんですか・・・」
「うん。紹介文でも書いてあげようか?」彼女が年をとらないのか、ぼくが急激に大人になってしまったのか分からないが、この変化は好ましいものだった。
「成長しても、もう靴のサイズは変わらない」
「でも、いずれ履かなくなるよ。下駄箱でほこりをかぶって、忘れちゃうんだよ。むかしのものというひとつのくくりのなかで」
ぼくはそういうラベルの貼った大きな袋状のようなものを想像してみる。カンガルーの子どもが下界に興味がある目付きで外を見ている。子どもがもう戻らなくなったら、そこには何があるのだろう。ぼくは、自分の袋にはまだなにも入っていないと確信していた。しかし、思い出してみればあんなにも仲が良かった友だちの名前を一部か、全部か忘れてしまっている。タケシかタカシかも思い出せない子もいた。すると、その袋は段々と膨張する未来だけが待っているようだった。そこにあらゆるものを放り込む。労わる機会がくるのか、懐かしむ時間を待ち望むのか考えもせずに、無節操に。
ぼくらはゆっくりとご飯を食べ、お酒をちょっとだけ飲んだ。窓の外は久しぶりの星空を楽しんでいるようだった。だが、遠い空には既に雨雲の前兆のようなものがあった。
「やっぱり、明日も雨なんですかね?」
「新しい靴を履きだすタイミングとしては不似合いだね」
「もう一日か、二日だけ我慢します」
ぼくはその言葉を信じ込ませるように靴の入っている紙袋を撫でた。
時間の余裕もそれほどにはなく、早い時間で切り上げた。お会計を済ませて外に出ると、ぼくはやはり傘を店内に立てかけたまま忘れていた。久代さんが二本の傘を持ってきてくれた。
「やっぱり、忘れてるね。もう、明日も降るんだから忘れちゃダメだよ」と彼女は渡す際にそう言葉を付け加えた。ぼくは、彼女自身を忘れないでね、という言葉として受け取った。傘や靴など代用の利くものではないので、また形あるものとしてではなくなるので、ぼくは忘れる心配など無用のことだと思っている。しかし、形がなくなると思いはじめていた自分にも驚いていた。形あるものとないもののどちらにより記憶は残りつづけるのだろう。ぼくは地下鉄で手すりにかけずにひとときも傘を離さないでいた。これが久代さんとのつながりのすべてでもあるように。