爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(118)

2013年02月24日 | Untrue Love
Untrue Love(118)

 その年は梅雨がはじまる前なのに雨が多く降った。ぼくは靴が傷むのを恐れたのか、単純に木下さんに会いたいためなのか分からないまま閉店間際のデパートに入った。彼女がいるかどうかも確かめずに。だが、ぼくの視線は彼女を認め、彼女もぼくのことを見た。ここにいるべきではないひとを思いがけなく見つけたように。

「山本さん、靴を買いに?」
「雨ばっかりで、靴も乾く暇がないから」ぼくは彼女の他人行儀の対応に戸惑っていた。
「似合うの、ありますよ」彼女は靴をとる。そして、かがんでぼくの前に差し出す。「多分、サイズはこれぐらいでしょう」

「みんなのを覚えているんですか?」
「大体はね。これも企業努力だから」彼女は以前のように微笑む。一、二ヶ月前の以前にしか過ぎないのだが。「わたしの趣味でもあるし」

 ぼくは、取り出された靴に足を入れる。最初は窮屈だと思っていたが、足首をまわし中にいる足を確認すると、悲鳴をあげることもなく快適であるということは、こういうことなのだと理解させてくれる何かがあった。
「ぴったりですね」ぼくは感想を述べる。彼女は手で船のような形をつくった。それがぼくの足の形状を指していることに気付くのには多少の時間が必要だった。それから、もう一度、彼女は笑った。

「ぴったり。買ってくれるのを待っていたぐらいにぴったり」
 そして、ぼくの財布は開かれる。ぼくは、お金を払いながら、彼女の今後の予定を訊く。

 店を出ると、雨はやんでいた。傘を面倒そうにもっている会社員がいた。家庭や会社に縛られ、さらに傘にもという表情だった。それらが充足をあたえてくれることはなく、彼には不満の種がひとつ増すだけだったのだ。おそらくは。

 ぼくは、待ち合わせの場所に立っている。路面はまだ濡れている。電飾の光線がその小さな水溜りに反射している。ぼくの両手には傘があり、いつものカバンがあり、そして、新たな靴の箱が納まる袋があった。ぼくはあそこで汚れてもかまわない格好でバイトをしていた。重い荷物を運び、社会の成り立ちの一員になることを知った。物事には裏側があり、それは美しくもないが、当然、誰かがやらなければならないものなので、わずかながら貴いものに変化させる義務もあった。労働は賃金にかわり、ぼくはそれで女性と会った。しかし、若さこそがいちばん重要だったのだ。躊躇をしないまま決断をして、少しは悩み、少しは解決策を練り、結局はどうにかなった。このように雨も際限なく降りつづけるわけでもない。

「今日は、なんだか気合の入った服をしてこなかった。朝は随分と雨が降ってたし」

 その待ち合わせの場所に来た久代さんは言い訳めいたことを口にした。もう四年近くにもなる前は、彼女はぼくに比べて大人すぎて映ったが、いまは対等な立場にいるようだった。この変化の原因がどこにあるのかも分からない。ただ、いくらか自分に主導権が与えられつつあるということでもあるようだった。主体的になにかをするわけでもないが、はじめる権利も終わらせる権利もぼくは握ることができるのだという過大な自信のせいであろうか。しかし、はじまってもいないし、無論、終わらす勇気も覚悟もない。主導権も傘立てにある傘と同じぐらいに置き忘れてしまいそうだった。雨がやんでしまえば。

「お腹空いたでしょう? 順平くん」
「なんだ、名前忘れたのかと思ってました」
「まさか。仕事なれた?」
「まだまだ、全然ですよ」
「順平くんなら、できないことはないでしょう」
「そこまで言ってくれるんですか・・・」
「うん。紹介文でも書いてあげようか?」彼女が年をとらないのか、ぼくが急激に大人になってしまったのか分からないが、この変化は好ましいものだった。
「成長しても、もう靴のサイズは変わらない」
「でも、いずれ履かなくなるよ。下駄箱でほこりをかぶって、忘れちゃうんだよ。むかしのものというひとつのくくりのなかで」

 ぼくはそういうラベルの貼った大きな袋状のようなものを想像してみる。カンガルーの子どもが下界に興味がある目付きで外を見ている。子どもがもう戻らなくなったら、そこには何があるのだろう。ぼくは、自分の袋にはまだなにも入っていないと確信していた。しかし、思い出してみればあんなにも仲が良かった友だちの名前を一部か、全部か忘れてしまっている。タケシかタカシかも思い出せない子もいた。すると、その袋は段々と膨張する未来だけが待っているようだった。そこにあらゆるものを放り込む。労わる機会がくるのか、懐かしむ時間を待ち望むのか考えもせずに、無節操に。

 ぼくらはゆっくりとご飯を食べ、お酒をちょっとだけ飲んだ。窓の外は久しぶりの星空を楽しんでいるようだった。だが、遠い空には既に雨雲の前兆のようなものがあった。
「やっぱり、明日も雨なんですかね?」
「新しい靴を履きだすタイミングとしては不似合いだね」
「もう一日か、二日だけ我慢します」

 ぼくはその言葉を信じ込ませるように靴の入っている紙袋を撫でた。

 時間の余裕もそれほどにはなく、早い時間で切り上げた。お会計を済ませて外に出ると、ぼくはやはり傘を店内に立てかけたまま忘れていた。久代さんが二本の傘を持ってきてくれた。

「やっぱり、忘れてるね。もう、明日も降るんだから忘れちゃダメだよ」と彼女は渡す際にそう言葉を付け加えた。ぼくは、彼女自身を忘れないでね、という言葉として受け取った。傘や靴など代用の利くものではないので、また形あるものとしてではなくなるので、ぼくは忘れる心配など無用のことだと思っている。しかし、形がなくなると思いはじめていた自分にも驚いていた。形あるものとないもののどちらにより記憶は残りつづけるのだろう。ぼくは地下鉄で手すりにかけずにひとときも傘を離さないでいた。これが久代さんとのつながりのすべてでもあるように。

Untrue Love(117)

2013年02月23日 | Untrue Love
Untrue Love(117)

 期間があまりにも開き過ぎてしまったので、仕事帰りにユミと会うことになった。何も変わっていないと思っていたが、待ち合わせの場所に小走りにやってくるユミの自然な姿を見て、ぼくの姿や格好は、社会に組み込まれた人間のように映った。制服をまとった自分は、個人というより企業の利益が優先されるのだ。

 ぼくらは店に入って夕飯を食べる。

「給料、もらったんだ。それに、髪も切ったんだ」彼女は逃げ出してしまったペットを見るような目付きで、ぼくの頭部を眺めた。「でも、いいよ。一度、離れて、また、あのひとが良かったなと思えば、戻ればいいんだから」
「何か、重大な真理についてのことを知ってる口調だね」
「だって、そうじゃない?」
「そうだよ」ぼくは自分のことは棚に置き、世の中はそうは簡単に行かないものだとも思っていた。咲子と早間はいずれ別れるのだろう。この瞬間にもその岐路は訪れているのかもしれない。また、免れて先延ばしにされたかもしれなかった。しかし、戻りたければ戻ればいいという段階が、悠然と待ってくれているとは考えにくい。機会を逃したものは、ただ、歯噛みをしながら後悔をひとしれずするべきなのだった。

「理由を言うとね」と、ぼくは髪の問題に話を移した。それは、こうだ。外回りに先輩に連れて行かれる前日、ぼくの伸び過ぎた髪を彼は不快に感じ、「金がないなら、立て替えてやるよ」と言って札入れを出す仕草まで先輩はした。それで、会社のそばにある店に飛び込みで入って、ひとが不快にならない程度に切ってもらった。そういう経緯があったのだ。
「なんだ、それなら、やっぱりわたしの腕の確かさに戻ってくる余地がたくさんあるんじゃない」と、誇らしげに彼女は言った。「でもね、こうして会う関係だけでも、もちろん、満足してるよ」とも、付け加えた。返事や同意を要求する顔もしたが、ぼくは、自分の髪型を彼女はどのぐらいに採点しているのかが気になった。

 ぼくらは春の夜の町を歩く。仕事というものが普段の自分の脳を占有する度合いをまったく知らなかった自分が帰って来る。ぼくは陽気な彼女に伝染される。だが、それもわざと演じているような自分自身への偽りの気持ちもあった。すべてに対してしっくりこなかったものが、彼女の一部を遠ざける結果にもなった。

「わたし、明日休みなんだ。前みたいに家に行ってもいい?」
「いいけど、ぼく、明日早いよ」
「朝、いっしょに出るよ」

 ビールとつまみを途中の店で買って、家に着いた。ぼくはスーツをハンガーにかけ、シャワーを浴びた。そこから出てタオルで身体を拭いていると、案の定、彼女は机のうえの写真立てを発見していた。
「このひとたちは?」
「咲子がバイトしてたところ」正直に言ったが、すべての情報を開示したわけでもない。「辞めるから、ぼくも行ったんだろう」
「お店のひとなのかな、服が違うよ」それは別の日であるという意味だ。「まだ、ここ、あるの? 咲子ちゃんが辞めたけど・・・」
「あるよ。その大柄な男性が、女性に興味のないひと」
「今度、いっしょに行かない?」
「そうだね」彼女たちの軌道は違っているので、ぶつかる可能性は皆無なのだとぼくは単純に信じていた。「シャワーでも浴びたら、疲れただろう?」
「そうする」

 彼女が居ない間に写真を隠してもわざとらしいので、ぼくは一度手に取り、またそれを元の場所に戻した。でも、やましいところもないし、疑われる情報もそこからだけでは汲み取れなかった。だが、ぼくは状況を客観的に判断できる才能もない。しらみつぶしに見れば、微小な証拠の品の採取ができ、犯人に仕立て上げるのも簡単だろう。

 ビールを飲みはじめる。ユミはぼくの服を着た。ぼくと会わない間に、彼女は誰かと会ったりしなかったのだろうか? 疑問があれば訊ねればいい。独占したければ、宣言すればよかっただけだ。だが、そうはしない。ぼくらはビールの軽い酔いの力によって、ボーダーラインを消していく。この状態はベストではないが、悪い要素は決して含まれていない。底に澱みはもしかしたらあるのかもしれないが、強く、より強引に掻き回さなければ濁りは表面に浮かんでこない。こうしたためらいなのか不誠実なのか分からないが耐えられないほどに思うほどには、澱みもないのかもしれない。

 ぼくらは、すべてを忘れる力があることを信じてお互いに強く抱き合った。言葉にしないものの代わりに身体を用いた。ぼくは企業の利益など心中になく、ただ自分の利益だけを優先させる存在だった。その結果のユミの顔も見ることができた。輝けるひととき。春の夜。そして、夜中。

 翌朝、ぼくらは駅に向かっている。彼女の今日の一日はどうなるのだろう。前なら、一日を無駄にしたとも思わずにいっしょに過ごした。時間という計量の目盛りは変わっていないが、体内のものは手抜きの利かない会社での生活に乗っ取られ、水没してしまっているようだ。その分、増量時の川の水位のように橋げたを埋め尽くそうとしていた。駅で、反対側の電車に乗り込むため、ぼくらは改札を通過したところで別れた。ぼくの顔は備え付けの鏡に一瞬だけ写った。それは、どこか険しい顔をしていた。振り返っても、ユミはもういない。彼女といる間も、この表情をもし浮かべていたとしたら、それは可哀想なことをしたなといささかの後悔を感じた。それも、もっともっと短い一瞬のことだった。

Untrue Love(116)

2013年02月22日 | Untrue Love
Untrue Love(116)

 バイト先で咲子の忘れ物が残っているというので、いつみさんに手渡された。もう出向かない場所にも自分がいた痕跡があるのだ。風化する前の段階では、本人に戻る。博物館に陳列されているものたちには引き取る相手がいない。ガラクタでもないので、それらは第三者の目を奪う価値がたとえあったとしても。

 ぼくはいつみさんと会う約束があったので、咲子に連絡をとる手間を省き、ぼくに手っ取り早く頼む方法を彼女は選んだ。
「それで、何ですか?」
「お皿でも洗うときに外したのかな、華奢な指輪。あそこで指輪を外してお皿を洗うのは、わたしか、咲子ちゃんだけ。それに、このようにわたしはあまりしないから」

 いつみさんは指を空中に捧げた。爪も短く、指輪もなし。飾り気を除外しても、それは女性以外の何物でもないような繊細な指だった。
「そのうち、大きなものをはめますよ」
「ひとを殴るときにつかえるように」彼女は大口を開けて笑った。

 ぼくはポケットにティッシュでくるんだ指輪を放り込んだ。しかし、もしそれが大事なものであれば、そう簡単に忘れてしまうようなものなのだろうか。そこには意思や決意があるようにも思えた。敢えて、どこかに置いて来ようとしたのか。それとも、無意識の領域で、その物体を自分とは遠くに置きたがったのだろうか。ぼくは、多分、考えすぎているのだろう。咲子に手渡せば、ただ受け取り、「あそこに忘れてたんだ」と、ほっとした安堵の表情を浮かべる。そして、また指にはめる。それで完結する問題なのだ。

 ぼくは、いつみさんと話しながらもポケットのなかを意識している。自分で買ったものなのだろうか。それとも、誰かから貰ったものだろうか。くれるのは、早間からで、何かの記念にプレゼントされたのだろうか。だが、ぼくはそのもの自体が高価なのか、安っぽいものであるのかも分からない。ポケットに無雑作に入れるのをいつみさんが止めなかったので、それなりの値段なのだろう。しかし、彼女も普段から身近なものとして扱ってこないのであれば、価値を把握するのも難しいのだろう。ぼくはポケットの無機質なものが感情をもっているかのようにこころなしか恐れていた。

 そして、もう一度、ポケットから取り出し、中味を確認した。光線にあたり、かすかに輝いている。

「これって、どれぐらいの値段なんですかね?」と、つい口走った。
「質屋にでも売るつもり?」
「まさか。途中で失くしたら弁償できるぐらいの値段かどうか知りたかっただけ」
「じゃあ、帰りまで持っててやるよ。値段というか、思い出が含まれた値段もあるしね」
「プレゼントだと思う?」ぼくは、いつみさんに戻した。彼女はバッグにしまった。

「プレゼントって、定義だけどね」彼女はコーヒーを飲みながら、少し難しいことを考えているような表情をした。「こっそり買って、あっと驚かすように差し出すのもプレゼントだし、いっしょに買いに行って、ああでもない、こうでもないと言いながら店頭で選んで、男性が最終的にお金を払うのもプレゼントでしょう?」と言った。そのためにぼくは求めていた答えを導けなかった。
「いつみさんは、どっちが好き?」
「どっちだろう? 敬語、やめてくれたんだ。ありがとう」と、また本題からずれた。
「やめてないですよ」
「やめてたよ、さっきから、ずっと」
「そうですかね、先輩はずっと敬うようにしてたのに」

 いつみさんは、笑いながらも難しい顔はくずさずにいた。眉間には細いしわが寄っていた。それは日中に会っている証拠だとぼくには感じられただけだった。外は五月の陽気で、ここちよい光が窓のそとに見えている。
「いつか、わたしにも買ってくれるひとができるかな?」
「できますよ。ぼくも、買いますよ」
「また、敬語口調にわざと戻してるよ、順平くん」
「買ってやるよ。これで、いいですか?」
「それで、いい。ばっちり」と言いながらいつみさんは大きく頷いた。

 ぼくらはそれから外を歩いた。中古のカメラ屋のショー・ウインドウがあって、となりには時計の同じものを扱う店もあった。
「こういう誰が使ったものか分からないものに抵抗があるひとっているけど、順平くんはどっち?」
「大丈夫ですね。気にもならない。どうですか?」
「わたし、少しダメなんだ」
「新品じゃないとダメ?」

「それほどまで、潔癖じゃないけど、そうだよ、きれい汚いの話じゃなくて、大げさに言えば怨念みたいなものがありそうで」
「オカルトですね」
「違うよ。誰かが大事にしてきたものって、何だか、やっぱり気持ちが入って、詰まってそうじゃない」
「物にも記憶がある?」
「そう。年輪みたいなものがね」

 ぼくも十年前なら、このようにあごにひげなど生えなかった。いつみさんの顔も、もちろん十年前とは違うだろう。眉間にしわなどもなく、無傷のままの指先の持ち主だったはずだ。仕事がらか生活の一部としてか、その指に包丁やナイフが傷をのこす。揚げ物のやけど痕がつく。少し経てば消えるものもあり、永久に居場所を見つけることもあるのだ。それを確認しつづけることが男女の健全な営みのように思えた。ぼくはいつみさんに指輪を買うという仮の約束をした。その代償として、二年後や三年後の彼女のささいな変化をも見つけ、正当に知るチャンスができる。幸運なら、もっと長期に渡る期間に移行するかもしれない。ぼくの大事にしようと思う気持ちは、彼女にいくらかの刻みや切り込みをつけるのだろうか? 表層的な花の開花のように直かにあらわれるのではなく、もっと深い部分にも根を張りめぐらすことは可能なのだろうか。もし、そうだとしたら、ぼくはそれを選びたいとも思う。

Untrue Love(115)

2013年02月18日 | Untrue Love
Untrue Love(115)

 仕事から帰りポストを開けると、見馴れない封筒があった。それを手に取り、自室のテーブルのうえに無雑作に置いた。夕飯を食べたり、一日のやるべき仕事を済ますと、やっと封を開けた。中味はぼくが働いた後の格好のままでいつみさんの店に寄ったときの写真だった。ネクタイをしめているぼくがいる。ひとりだけで写ったものがあり、いつみさんとキヨシさんが並んでいるものもあった。さらに咲子の同じようなものもあった。彼女はそこでのバイトを辞めると言った。その記念なのだろうか、何人かに囲まれて写っていた。

 ぼくらは喜んで自分の痕跡をのこす。自分のある日がそこに刻み付けられる。失くさない限り、それはふたたび自分のもとに戻る。だが、現在という立場がそのまま継続されていれば、重要さはそれほどには増さない。頂上で日の出を見て、また一合目に還ったぼくらには、あの時間が、貴重なものとなり得るのだ。もう一度、簡単には山に登る機会も迎えられないのだから。

 ぼくはまた封筒に写真を収め、引き出しに入れた。このようにその場の無頓着な判断によって、あとで探す羽目になるのだ。だが、ぼくはその写真を探す必要がくるのかそれすらも知らない。彼女らの顔を忘れることもないだろう。また、明日会えばいいのだからとの淡い期待の更新の日々のなかにいて。

 ぼくが持っていて、まったく同じものを多分、いつみさんやキヨシさんも所有している。咲子も自分のものぐらいは貰ったのだろう。彼らもぼくを永久に失うことができず、写真で再確認できる。また、探そうと思えば、この送り先の住所を見つければいい。ぼくは山奥で遭難したひとのように自分を設定する。誰かが探しに来る。ぼくは寒さのなかで眠ってしまいそうになる。頬を叩かれ、身体のぬくもりで包まれるのを感じる。その幻想の必要性がどこにあるのか分からないまま、ぼくはその映像を懐かしんだ。過去に自分に起きた事柄のような実感を帯びていた。

 結局、ぼくは次の日の仕事からの帰り道に通った古い写真館のワゴン・セールで売られていた写真立てを買った。もう商売が成り立たず、閉店をする様子であった。だから、現像された受取りを待つ写真が置かれていたであろう棚は空で、どこかで感じるべきであった薬品のような匂いもなかった。ぼくは、おつりが必要な札を出したが、もっている小銭で間に合う値段にまけてくれた。採算を度外視した段階にあるのだ。ぼくはいつみさんの母の写真を一度だけ部屋で見た。どこかで、このお店のひとに似ていると思っていた。ぼくの感傷がその無理な合致に輪をかけた。

 買ったものは両開きで、ぼくがいつみさんとキヨシさんと写っているものを左側に挟み、右には咲子がいる三人の写真を同じように入れた。それを勉強のために座ることがなくなりつつある机の上面に置いた。みな、笑っている。そのままの状態で歴史になることもなく笑っている。その作業は普通のこととして、無意識に行っていた。なにかの記念であるとか予兆であるとかの気持ちはない。ただ、飾るべき写真があるので、その用途を充たしたものを手に入れただけだ。そこで、ユミが見る恐れがあることに気付き、その場になったらまた引き出しにしまおうと思って躊躇することなく、そのままにした。まだ、五月の初旬のことだ。ぼくの姿は、あれから一月ほどしか経っていない。だから、ほぼ同じ姿だ。ただ、現在の髪型が写真と比べ、いささか伸びすぎているようにも思えた。

 次の日の午前には飾ってあることが新鮮だったが、夜にはもう忘れていた。部屋の一部となり、装飾にもなっていない。ぼくはあの商店街のいっかくにある写真屋のことは、それでも関連させずに思い出していた。営業をして自分が売り込むべき機器の必要のない店とも判断していた。何度かメンテナンスで通い、段々と打ち解けていき、その店の歴史を聞いている自分を想像した。古い写真を見せてもらい、それぞれの暮らしの背景や、笑顔の理由や生真面目な表情を解説してもらうのだ。

 ぼくは、そこで自分の机を見た。もし、これがどこかで発見され、誰か見知らぬひとが先入観なしで、この写真を見たときにどう解釈するのだろうかと思い浮かべた。ぼくは、やはり新入社員のように見えるだろう。となりのふたりは? 横の別のひとりは誰なのだ? 姿形のあまりにも違うふたりは兄弟には見えない。ぼくが片側にいる女性に恋する気持ちをもっていたことは、その二次元の世界から浮かび上がる力を有しているのだろうか。ぼくはどこかで見た古い結婚式の写真を思い出している。彼らは、黒い服を着たかしこまった男性と、横で特別な髪型に結った初々しい女性がセットになっていることにより、お目出度い儀式に向かうことが理解できるのだろう。姿が多くの判断する材料になる。ハリウッド映画なら熱烈なキス・シーンでそれを証明するのだろう。ならば、この平面の写真はなにを情報として与えてくれるのだろう。

 何十年も経って、見知らぬひとが見る。もし、可能ならばいつみさんの母の写真の横に、これと同じものがアルバムのなかに貼られていることを願った。だが、それもぼくが関知することではない。ぼくは、この事実すらユミの前で隠そうとしているのだ。ずるさと卑怯というレッテルが似合う人間なのだった。それでも、ぼくはこの写真のなかで無垢に、あどけなく笑っている。会社に入ったばかりの人間。だますことなど得意なことではなく、どうやっても不可能な人間として、このなかで笑っている。

Untrue Love(114)

2013年02月17日 | Untrue Love
Untrue Love(114)

 朝寝坊をしたので、咲子の車がアパートの前に停まっても、まだ完全に準備はできていなかった。そこにある洋服を着込んで、バッグに必要な荷物を詰め込んで、玄関のカギを慌ててしめた。運転もしていないのに、咲子は両手を生真面目にハンドルの上に乗せたままだった。ぼくは父の車の後部座席を開け、バッグを放り込んだ。昨夜の仕事後の飲み会で緊張が緩んだためか、少しだけ飲みすぎてしまったらしい。

「そこの、コンビニまで運転してくれる?」と言って、ぼくは助手席に乗った。

 そこに着き、ぼくはパンと飲み物と、なかった歯ブラシセットを買った。そこで、運転を交代して、ぼくは最寄りの入り口から高速道路に車を入れた。
「帰るのって、やっぱり、楽しいの?」ぼくらは咲子の帰省のため、田舎に向かっている。ぼくは数年ぶりで、彼女は数ヶ月ぶりだ。ぼくは会うひとたちの関係性をまだうまくつかめずにいる。またぼくのことも余所もののひとのような扱いをした。だが、それはぼくが飲酒を許す年齢に達しなかったからかもしれず、今回は変わるかもしれない予想があった。咲子は実家で何泊かして、ぼくも一日だけそこに泊まる。あとは、いつものように近くのホテルで、気楽に観光をする予定だった。

「楽しいというか、普通に戻る」
「かぐや姫みたいだね。いつか、帰らないといけない」ぼくは、実際、そういう話だったかと自分の意見を点検した。間違っていないだろうと思い、すると、彼女がなぜか、はかない生き物のように思えた。「そうだ、早間とは最近どうなの?」ぼくは片方の当事者と卒業してから会う機会が激減した。いや、違うな、一度も会っていなかった。

「多分、終わると思う?」
「終わるって、なにが?」ぼくは、彼女の言葉数の少なさにいつも戸惑った。「別れるってこと?」
「うん」横でかすかに首が前後に動く様子が目のはしに入った。「そうなると、思う」
「冗談じゃなく?」ぼくは、そこで空腹の合図が腹から鳴った。買ったパンの袋をかじり、いくつかの切れ端を口に放り込んだ。「仲直りをすれば、元通りになるんでしょう?」原因を知らない人間の当てずっぽう以外の何ものでもない。「そうか、喧嘩したのか?」
「違う。向こうに新しく好きなひとができた」

 ぼくは、その言葉をパンと同時にのみこんだ。喧嘩なら許したり、多めに見たりという方法があった。解決する過程の順番も考えられた。しかし、ひとは誰に対しても、「そのひとを好きにならないで」などと、言えそうにない。「嫌いにならないで」と、すがることはできそうである。しかし、咲子がそうした作戦をすることも想像できなかった。
「でも、まだ、決まったんじゃないでしょう?」
「うん」と、また彼女は首を縦に振った。それが、良いことなのか、また新たに真摯な男性を見つけるほうが彼女にとって幸福なのかどうか判断しようとした。ぼくの周囲にいる女性たちのことも同じように考えた。真摯な男性、というものがいればそれは構わないではないかと思った。誠実、思いやり、どうやらその成分がぼくには薄かった。濃くする方法も思い当たらない。

「バイトはどう?」
「こっちも、連休明けに辞める」
「そうなんだ。もう充分?」
「うん。いろいろ学べたしね」
「楽しかった?」
「田舎にいるときには想像できない生活だった」
「早間は来なかったの?」
「来ない。一度も」

「また、いつみさんの休みがなくなるのかな・・・」
「新しいバイトの子がくるみたい。キヨシさんが面接をしたとか言っていた」
「どういう基準で選んだらいいんだろうね」
「愛想があるとか、機転が利くとかなんでしょうね」と咲子は答えたが、彼女はどちらももっていないようにも思えた。「そうだ、仕事なれた?」
「まあまあね」それ以外、具体的ななにかを示すことができるほど、すべてに精通していない未熟ながらの不満があった。
「咲子も来年だよな。もう決まっているの?」
「だいたいは」
「格好いいひとも、そこにいるよ。でも、早間も格好いいか」

 咲子自体が別れたがっているのか、継続したいのか本心が分からないため、話の運びようもなかった。ただ、二本の選択の道をぼくは行きつ戻りつするだけだった。

 随分と長い時間を運転して高速を降りた地点から、また咲子に運転を代わってもらった。どこが、一方通行であり、どこが近道かも分からない。ぼくは、窓を開け、快適な空気を吸った。途中で車を停めてもらい、公衆トイレに入った。そのそばに幼少期に遊んだ小さな小さな小川があるので、そこでまた再度停まった。小さいと思っているのは、いまのぼくの観点からの意見で、子どものときには、もっと渡りきれないほどの幅があるのだと感じていた。拡張工事の反対のことがあったのかもしれないが、いまの自分には大股で飛び越えられるぐらいの幅しかなかった。記憶は、とても残念であるとぼくは思っていた。だが、数日ここにいればまた感じ方も違うのかもしれない。夕方、ここをひとりで懐かしく歩いてみようと計画をたてた。咲子の帰省というものがなくなってしまえば、ぼくはここに来る機会もなくなるのだ。もし、来るとしたら誰を連れて来たいのだろうかとも考えた。木下さんのスカートをひらひらとする風が流れる時間も貴重であった。ユミの原色の服がこの場所に立ったときにどう写るのかも想像した。いつみさんはこの場所にしゃがみ、手の指先を川のきれいな水に浸している。それにも飽き足らず、裸足の足先をそこに入れる。

「冷たくて、気持ちいいよ」との彼女の言葉を想像する。すると、その幻想を破るように咲子が誰かに挨拶する声が聞こえた。普段、咲子から出るのと違ったイントネーションがそこにはあった。饒舌さとも遠いが、それでも、寛いだ印象は過分にあった。その夜、ぼくは彼女の家族と親戚たちと飲み交わした。そのときの咲子の言葉は聞き取るのが困難なほどであり、ぼくの耳は受け入れることを願いながら奥底では抵抗をしていた。

Untrue Love(113)

2013年02月16日 | Untrue Love
Untrue Love(113)

 家に着き、カバンを床に置き、ネクタイを緩めた。この一連の動作がなぜだか自分を薄汚れたものに感じさせた。ぼくは床に座り、途中でレンタルしたビデオを流しながら、ビールを飲んだ。桜は散り、町は緑色で覆われ、それが放つ匂いが鼻腔にせまってきた。高校に入ったときや、大学に通いだしたころはどうだったのだろうと思い出そうとしたが、ぼくの記憶の部屋のカギはきちんと施錠され、簡単には取り出せそうになかった。仮に開いたとしても、なかには何もないのかもしれない。すると、いまの感情もどこかに捨てられる要素がたくさんありそうだった。ぼくは画面のなかの見知らぬ町の景色を眺めている。そこにも大勢のひとが住み、それぞれの欲求や野望があるようだった。自分もそれを構成するひとりなのだと思うと、なんだか切なかった。

 ぼくは、途中で停めてシャワーを浴びた。髪は、やはりもう伸びはじめていた。今度は、どこで切ればいいのだろうと思案した。わざわざ、ユミが働く店に予約をして他人行儀な姿で切ってもらうのは気乗りがしなかった。だからといって新たに開拓する勇気もない。タオルで頭を乾かして、また冷蔵庫からビールを出し、ビデオを再生した。

 ぼくは見ながら早間や紗枝のことを思い出していた。普段、毎日のように会えると思っていたので、わざわざ電話をかけるようなことをしてこなかった。計画をしなくても大学で、ふたりに会えた。それはとても簡単で、安易なことだった。しかし、違う環境に所属するようになると、簡単なことが意外と大変であることに気付く。ぼくは新たな人間関係を構築するようにせまられ、後に置いてきたものは、懐かしいというジャンルでくくられるようになるのだ。ぼくは何かに対して、懐かしいという感情を抱いてこなかったことを知る。それは過去の層が薄かったからでもあり、人間との濃密すぎる関係も皆無だったかもしれなかった。ふたりとも、濃いという程のものはなかった。だが、ぼくは無性に彼らと会って、無駄話に興じたかった。これが、懐かしさの正確な実態なのだろう。ぼくは、自然とそれを押し殺す。ぼくが思っているほど、彼らが感じていないだろうことを恐れた。片思いというものにも似ていた。それは、やはりやり場のない不幸せな状態であるようだった。

 ビデオを見終わったので、テープを巻き戻してから取り出して箱に納めた。いま行っていたことは巻き戻すというステップを踏んだとしても、それは過去に戻ったことではない。復元でもない。巻き戻すという行為自体が現実でもあり、未来への返却という過程につながるものだった。ぼくは、友人関係のなれあいを巻き戻して思い返し、永久に劣化しないように記憶にとどめる作業に変更しようとした。劣化させないことに視点を置き過ぎれば、未来は入り込む余地がない。彼らの未来を受け入れることを承諾すれば、思い出は振り返る必要もない。それは友人たちの能動的な問題ではなく、ぼくが行動を起こすか否かに着眼がおかれた結論だった。

 以前は、バイトに行けば、木下さんに会えた。それも、やはり当然のことだと思っていた。いまは、連絡を取り、予定を調整して、何度か計画は伸び、繰り返すうちに会うことすら面倒になることもあり得る、いや、面倒に思うことが、もう破局の前兆なのだ。いま、ぼくは破局という言葉を頭に浮かべた。しかし、壊すほどぼくらはしっかりと結び合っていないのかもしれない。答えを探すのは簡単なことのようにも思える。受話器をはずし、いくつかの番号を押す。すると、彼女の声がきこえる、その声のトーンで、そのひと本来のぼくに対する気持ちの置き場が理解できるのだ。だが、ぼくはその行為をしなかった。眠気と軽い酔いに負け、ビデオを返そうとカバンの上に入れ、毛布をかぶった。横に誰かいてくれたらいいなと瞬時に思ったが、次はもう朝だった。

 ぼくは、それ程の種類がないがネクタイを選ぶ場面にいる。いつみさんがくれたものがある。気に入っていたとしても毎日、首にするものではない。週に一度か二度だ。多くても。代わりにそれ以外のものも出番がやって来る。ぼくの大学時代と同じだ。いつみさんがいて、ユミがいた。同時に二本も三本もすることは決してないが、毎日ではなければ無理もきいた。

 ぼくは玄関を出る。ビデオを店の横にある箱に投函した。もう内容が思い出せない不安があった。間違って、もう一度借りてしまう恐れがあった。でも、そうなったらそうなったでもう一度楽しめばいいのだ。懐かしさを伴わない新鮮な感情を作ればいいのだ。できれば、そういう間違いは犯したくはないが。

 ぼくは電車に乗る。つり革を握る。今日の予定のあらましを事前に引き出す。そこには懐かしさなどという甘い感情が入り込む隙間も余地もなかった。ただ、新たな冒険だけがあるのだ。それを冒険だとあえて思おうとした。しかし、本当の意味での冒険はいつみさんと最初に過ごした夜の鮮烈さであり、ユミをぼくのアパートにはじめて泊めたときだったのだと気付く。ぼくはつり革を強く握る。何年も前に木下さんは地下鉄に通じる階段で不自然にぼくの頬にキスをした。この車内で思い返すぼくにとってはとても自然なことだった。そして、目的地に着く。背中を突き飛ばされるように、強い力でぼくはホームに押し出される。その木下さんの胸に飛び込んだ日も、何かの強い力が働いていたのだ。その喜びの衝撃もこの瞬間の比ではないこともまた知っていた。

Untrue Love(112)

2013年02月14日 | Untrue Love
Untrue Love(112)

 こころの余裕ができると、余計なことが考えられるようになる。彼女たちがぼくにとって決して余計なものではなかったのだが。仕事の合間、昼休み、午後のふとした瞬間に、それらの女性の映像がぼくの目の前に幻影のように浮かんだ。過去のモニュメントを眺めるように、ぼくはひとときこころを奪われる。ぼくにとっての、ささやかな万里の長城であり、ピラミッドであった。歴史の堆積が徐々に塵をかぶせようと努力しても、それらは抵抗することもなく厳然とそこに残る。だが、ぼくが目の前に浮かべるのは過去の一ページに過ぎなく、昨日や一昨日の思い出ではなかった。

 週末には思いを刷新するべく会おうとした。しかし、木下さんやユミは働いていた。いつみさんは昨夜の疲れが残っていた。ぼくの自由が利かないのか、彼女らの不自由さが問題なのかは分からなかった。比較しようにもサンプルが少なかった。ぼくの会社員生活はまだまだはじまったばかりであり、波の具合をつかめない新米漁師のような気分だった。まだ、足が地に着かず、船は満遍なく揺らいだ。ぼくは、どこかにもたれかかる必要があり、それは過去の関係を拠りどころにするべきだった。

 実家に戻り、両親と昼ごはんを食べた。そこには咲子がいた。五月の連休に田舎に帰ると言ったので、母が交代で車を運転すれば疲労も少なくて安心だと述べた。ぼくも、どこかに行って気分転換を求めていたので簡単に了承した。その頃には春が全盛になり、ぼくもいくらか落ち着いた状態になっているだろうと自分自身の未来を傍観した。彼女も大学の最終学年であり、来年はぼくと同じ立場になる。彼女が放っている静けさが、世の中を渡り切る妨げにならなければいいけれどと、ぼくはその場で思っていた。

 夕方には、いつみさんが会ってくれることになった。ぼくは実家から待ち合わせの場所に向かった。今日は、実家にいたので車を借りていた。途中でガソリンを入れ、春の一日を快適に運転する。ラジオで、地域の情報を聞いていたが、それにも飽きたので古い音楽を流すチャンネルに合わせた。

「うちの親の代からの常連さんがマンションを買ったので、キヨシが新築祝いでも届ければと頼まれたので、いっしょに付き合ってくれない?」

 先ほど、電話でいつみさんはそう言っていたので、ぼくは車を出すことにしたのだ。彼女の家の前まで行き、彼女は横に乗る。気軽な格好で、いくらか若やいで見えた。もちろん、まだまだ若い。だが、店に立っていると自信というか迫力に満ちたものもいくらかだがあった。その防備が脱ぎ捨てられ、普通のひとりの女性に戻っていた。

 ぼくは海岸沿いを走る。そのマンションを買った男性は国道の横を走る路線で都心まで通うのだ。そして、当然のことだがまた帰る。その基になる場所を買ったのだ。ぼくも賃貸ということではなく、あるべき居場所を自分のものにするという日が来るのだろうかと想像した。

「ちょっと待ってて、直ぐ済むから」いつみさんは、後ろの座席から荷物を取り出し、曲がり角に消えた。ぼくも追いかけるように車を降り、身体を伸ばした。近くに潮の匂いがする。海水浴の人影はない。それにつられて起こる歓声も、とうもろこしの焼けるにおいもない。ぼくは、その時期にいつみさんとここを再訪している様を想像した。いつか、ぼくらはプールに行った。木下さんは、その後、ぼくらがビールを飲んで気持ちよくなった姿を見かけたと言っていた。いや、海ならユミの方が似合うのかもしれない。ぼくにはたくさんの可能性があり、同時に数少ない選択の幅しかなかった。ぼくは、彼女らのすべてを忘れてしまうような女性に、突然、会う日が来るのだろうか。それは、考えづらかった。しかし、高校生の自分には、いまのこの生じている生活の予測自体も無理だったのだ。

「終わったよ。せっかく、ここまで来たんだからもう少しまで遠くに行こうよ。ちょくちょく来られるところでもないんだから」
「いいですよ。でも、いつでもこの辺りまでなら大丈夫ですよ」
「そういう希望は成し遂げられないんだよ。わたしには、あの町の空気を吸う時間が待っているから。でも、来られるといいな」
「また、絶対に来ますよ。さ、行きましょうか」

 また、海沿いの道を走る。段々と夜に変わる。薄闇というのは無性に美しいものだと思った。ぼくらはレストランに入り、日常を忘れた。だが、どちらが、過去からのつながりを感じられるのかとしたら、もしかしたら、こちらの方が強いのだろう。すると、これが日常の情景なのだろうか。日常の一部にいつみさんを組み込んだ場合は、ほかのひとたちは排除されるべき運命なのだろうか。それも、また悲しさがともなう決断なのだ。普通の休日を、普通に会って楽しむ相手。それがひとりでもいれば充分なはずだった。

 夜も遅くなって、実家のそばに車を帰しに行った。駐車場に車を止め、歩きながらカギのこすれる金属音をきいていた。実家の明かりはもうすべて消えてしまっていたので渡すことができない。咲子のアパートまで余分に歩くと、まだ室内の明かりが灯っていたので、ぼくは玄関の扉を軽く叩いた。彼女は首を窓から出し、手を伸ばしてぼくが握っていたカギを受け取った。彼女から明日以降に両親のどちらかに返却してもらえばいい。

「デートだったの?」
「まあ、そんなもんだよ」
「お休み」と咲子が言ったので、ぼくも同じ言葉を夜のしじまに見合った、闇を乱すことのない口調で言った。

Untrue Love(111)

2013年02月13日 | Untrue Love
Untrue Love(111)

 ぼくは、もう大学には行かない。バイトのためにあの町に行くこともない。二十二年間の経験は、働くという一点のみに結びつくものだった。親に買ってもらったスーツを着た。靴は、木下さんに貰ったものだ。ネクタイは、いつみさんのプレゼントで、ベルトや財布はユミを思い立たせるものだった。しかし、それは毎日の使用の繰り返しの頻度が増えることにより、ぼくに附属するものになる。相手は、もうきっかけでしかない。それが段々と過去になり、過去は当然、冷めて薄まり往くものだった。

 緊張の連続の日々と新鮮な体験が、自分の思いの多くの部分を占有する。そこから締め出されるものが、止むを得ないが発生する。たくさんの学ぶべきものが、目の前に所狭しと並べられ、既に学んでしまったり記憶していると判断が下されるものは、あとで簡単に取り戻せると思って、気にも留めない。

 学生時代からのアパートをそのまま引きずって住んでいたのでスタートの地点は同じだったが、行き先が違った。通勤ルートが新たにできる。乗り換えの場所で目にする風景も、ぼくの変化のあらわれの正確な証拠のようで見ていると嬉しくなった。

 だが、ぼくはあの関係を、あのまま通りに継続しようと思っていた。困ったことも生じていないので打ち切る理由もなかった。それでも、それは時間や日数や予定が思い通りにならない限り、変更せざるを得ないものだとも気付いていた。気付いても、新たなことばかりでは打ちのめられそうになるぼくの均衡を保つためにも、彼女らの存在は必要なものだった。ぼくは、飽くまでも利己的に作られているようだった。

 自分の新たな姿を見せること、その変化を証明するように、いつみさんの店に仕事帰りに行く。気持ち的には、七五三の少年と変わりはない。ぼくは、四年前のぼくではない。だが、紛れもなくあのときのぼくもいた。体内にきちんと眠っていた。いや、眠ってはいない。こうして、成長している。

「ネクタイ、似合っているね。髪形も、さわやかだよ」
「そうですか」

 ぼくの様子の変化を何人かの常連さんも見咎める。キヨシさんの視線にも入る。ぼくは、自分の労したお金で食事をする。スーツも靴も一生もつほど耐久があるものではない。給料とボーナスでやりくりする。いつか、新調する。その生活がはじまったのだ。このふたりは、ここでその毎日と格闘していたのだと思ったら、とても貴く見えた。だが、必死さは微塵もうかがえない。とても、楽しく毎日を過ごすことは他人にも好印象を与え、良い影響をくれるものだと知った。できるなら、自分もそうありたいと願った。願ったからには、実行し、成功させる責任も芽生えてしまったようだった。

「もう、帰ります。明日も早いから」

 ぼくは上着を着て、会計を済ませ、外に出た。四月の夜空はまだまだ寒さを根底から捨て切れず、ぼくの身体に忍び込み、実感させるものだった。ぼくは駅に向かう。ここに久代さんもユミもいる。だが、ぼくはふたりには会わなかった。同時に三人に会うことはできないのだ。別々でもしない方が良いのは分かっている。だが、この日のぼくは気楽だった。すべてが快適に順調に運んでいるのだと思わせる風が流れているようだった。その風はとても心地よく、簡単に思考をやめさせる力があった。だから、ぼくはくよくよすることもなく、ただ、ぐっすりと眠り、翌日も新たな日に向かった。

 歓迎会があり、初々しい面子が集まった。ぼくは、仲間とライバルを同時にもつのだ。それが親しい関係になるのか、蹴落とすべき、また、蹴落とされる相手として映るのか分からない。関係を深めないようにしても、そのようなことは不可能だ。これからの多くの時間をここで過ごし、空気を吸う。同じ考えに染まり、同じ集団として働く。目標はひとつになり、ある程度の犠牲が求められる。だが、ほんとうの意味で、ぼくは誰と多くの時間を過ごしたいと思っているのだろう。誰に染まり、誰に愛着を求めているのだろう。何を得て、何を忘れてしまうのだろう。

「大学時代は、楽しかった?」

 会も終わり、同じ帰り道の男性と連れ立って駅に向かった。

「良かったよ。楽しいと感じるようになるのは、まだまだ先かもしれないね。まだ、思い出にもなっていない」
「そう。彼女とかできた? いたら、まだ、つづいている?」
「どうだろう」ぼくの言葉はそれだった。できたと胸を張って言えるほど、ぼくはひとりにも決めていない。思い出もいくつかの部屋があり、分類される結果となった。誰かひとりを狂おしいほど愛していない気もした。だが、愛以外の何ものでもないことを自分がいちばんよく知っていた。「自慢するほどのものは、ないかもしれない」
「自慢することもないじゃん。ありのままで」
「いまでも、つづいているの?」

 ぼくの発した質問が余程うれしいのか彼の答えは用意されていたように淀みなくすらすらと述べられる。彼女の仕事は土日の休みも融通が利かないようで、でも、会えなくてもぼくらの関係は簡単には終わらないだろうねと誇らしく語っていた。ぼくは、そのうちのどれかを終わらす必要があり、どれも失くしたくなかった。未来は楽しいものであるものだという期待と、むなしいものに化けるのだという不安がぼくの胸のうちにあった。四年前に戻って、ぼくは自分が下そうとしていた回答を、推敲し添削する時間を挟むべきだったのだ。いまからでも、それは遅くないと思おうとした。だが、卵のからは割られ、中身は皿にあった。オムレツができるのか、ケーキになるのか、フライの衣になるのか自分でも分からない。ただ、黄色い色は確実に見えていた。強引にかき混ぜられるのを求めているようにも見えた。

Untrue Love(110)

2013年02月11日 | Untrue Love
Untrue Love(110)

 ぼくは、ユミに髪を切ってもらう。

「これが、わたしが考える新入社員用の髪型。とても、似合ってるよ」
「でも、まだ早くない? まだ、それまでに伸びるよ」
「もう、ダメ。ボランティアはこれが最後。こっちも、もうその時期はなにかと忙しくなるし、面倒は見切れない。切ってもらいたいときは、お店に予約して」
「先輩たちに気に入られるかな?」
「そんなこと、大して気にしていないんでしょう? 本当は・・・」
「なんで、気にしてるよ」
「うそばっかり」

「どんな根拠で?」
「とても、マイペースだから。わたしのことを、好きとか言わないから」
「なんだ」
「なんだって、なに?」
「言ってもいいよ」
「言ってもいいし、言わなくてもいいし。主導権は自分にあると」

 その日の彼女は不機嫌だった。その火種に自分で風を送り、さらに勢いを増すよう働きかけている。でも、鏡をのぞくとぼくの髪型のでき栄えはなかなかだった。
「やっぱり、うまいね」
「実力があるんだよ。お世辞だと分かってるけど、それはほんと」
「お世辞じゃないし、本気だよ」

 ユミは無言でいる。使ったものを片付け、自分の手を洗った。
「これで、ずっと生活しなければならないしね。そのために腕を磨かないと」

 ぼくは逃げるようにシャワーを浴びた。そこはぼくの家だった。思ったより手の感触は髪が少ないと認識していた。簡単に洗えて、そして、すすがれる。部屋のなかには重苦しい緊張があり、いくらか立腹しているユミがいた。ぼくは、それすらも排水口に流れてしまうことを望む。しかし、ひとつひとつ解決するしか方法はない。このように、仕事をするようにでもなれば、バイトとは違い誰かの不機嫌をもっと多く相手にしなければならないのだと思った。だが、ずっとそこに引きこもっている訳にもいかない。タオルを手に取り、部屋に戻った。彼女は流しのコップや皿を洗ってくれていた。
「あ、ありがとう」
「いいえ」

「この前、ビデオをひとりで見ててね、あの日、電話をくれた夜。その監督の最新作を調べてみたら、映画館で今週までやってるんだ。それ、見に行かない? いまからなら、それを夕方から見て、終わったらご飯の時間にちょうどいいから」ぼくは、いつになく饒舌であると自分自身に感じていた。懇切丁寧に説明を求めているひとには、手間を惜しまないでそうする必要がある。ぼくは、恋人と接しているというより、仕事モードに近かった。それは演技からはじまり、ゴールが喜びになるのか、ため息に化けるのかは知らなかった。両方が混在するものかもしれない。また、時間の経過で交互に味わえるものかもしれない。一種類に限定するべきものでもないのかもしれないし、その必要もないのだろう。判断ではなく、そこに飛び込むこと、首まで浸かることが大切なことだった。

「どこで?」ユミが訊ねたので、ぼくは、場所を告げる。
「行く気になった?」
「そこなら、途中で寄りたいところがある」
「じゃあ、決まり」

 この一日の途中のどこかで、ぼくはユミに「好きだ」という言葉を言わなければいけないのだろう。それは求められたから発するべきものでもない。だが、言葉にするよう促されている。もし、言わなかったとしたら、関係はギクシャクとしたものになり、反対に、このひとは、その言葉に重きを置いていないのだと良い方向に解釈するかもしれなかった。いや、それは良い方向なのだろうか。ぼくは、自分のずるさを正当化するたくさんの策を考えながら着替えていた。間もなく、着替えは終わったが、解決策などひとつもない。ぼくはカギを閉めて、歩き出していたユミを追った。彼女の背中。その背中にも表情や感情があるようだった。

 チケットを窓口で二枚ぶん買う。

 ビデオで見たのは、何度目かの恋をする主人公の話だった。ぼくは座席にすわり横にいるユミにその粗筋を話した。今回の映画がそれに関連したものかどうかは分からない。続編というものではないのだから、ストーリーをあらかじめ説明しても新鮮味が奪われる危険はなさそうだった。だが、その監督からすれば、どれも続編であり、つづきであるとも言えた。また自分の思いの別バージョンでもあると言えた。音楽なら正規に発売された歌唱だけが残り、別のテイクは未発表のまま眠る。荒削りなそのひと本来の個性を死後に発表されたそのテイクで、魅力を再発見できる場合もある。映画は、いくつかの本数で満たされる。一本の傑作で、残るすべてが駄作でも、その一本が貴い。すると、ここにいるユミは、ぼくの気持ちのいくつかあるうちの別バージョンなのだろうか。それとも、これこそが発表されるべき、ぼくの本質なのだろうか。まだ、分からない。だから、ぼくは好きだという告白を胸のうちで食い止める。

「楽しかったじゃん」

 ユミの気持ちは二時間にも満たない時間で入れ替わっていた。主人公は、また恋をして、別れて、偶然に再会して、以前からずっと好きだったのだという気持ちが沈んだところにあり、思い掛けなくふたが開いて、それが不意に浮かび上がったものだから、やっと気付いたという感じだった。再会した場面でも直ぐに恋心を告げない。家に帰り、この不確かな違和感が正解なのかどうかひとりで判断しようとしていた。だが、どれを見ても、窓の外の鳥や、例えば、行き過ぎる消防車を見ても、干された布団のシーツを見ても、相手のことを連想させる何かがあった。ぼくは、食事をしながらも自分の言うべき言葉と、口にするべきではない結論を天秤にかけていた。数日、眠れば答えは勝手に与えられるのだと思おうとした。未来任せがすべてを良き方向に向かわせるのだと、伸びる髪を待つように、ぼくはただじっとしていた。

Untrue Love(109)

2013年02月10日 | Untrue Love
Untrue Love(109)

 ぼくは、いつみさんの家を出て、駅に向かって歩きながら、自分が受けたものを比較していた。

 子どもがぼくの身体に自転車ごとぶつかった。それは、はっきりとマイナスな事柄だった。その後、いつみさんの部屋に行き、優しさを受け取った。それは、ぼくから見ればプラスとして加算されるべきものだった。結局、プラスが上回っているともいえた。すると、あの少年の衝突もぼくにとって恩恵の代償なのだとも思えた。感謝こそしないが、あれはあって当然なことだった。起こるべき事柄でもあった。だが、まだ、強がりながらもぼくの脇腹はかすかに痛んだ。

 ぼくは家に帰って、借りたままで見忘れていたビデオを見た。ひとりでいることの幸福をしみじみと感じるような時間だった。ぼくの片手にはリモコンがあり、もう片手にはビールがあった。主人公は何度目かの恋をする。その想いが一度きりで終わらないと知ったのは、いつのことだったのだろう。自分が異性に夢中になるという立場に置かれることも知らなかった幼き日。初恋をしている主人公に感情移入ができた日。その相手の気持ちを勝ち取ることだけが当面の目的であり、また、永久の意志でもあった。しかし、その瞬間には永続性が伴っていない。関係を築き、なだらかなものを山にして、強固に構築しなければならない。瞬間の喜びは一時で費えるものだった。だから、間もなく終わりを告げる。喜びと同等の失意の悲しみが訪れる。失恋の痛手を克服できないで、やけになる映画の登場人物もいた。ぼくは、それも分かった。だが、その状態すらもいつか終わる。ひとは、後ろ向きだけに生きることに専念するのができないのだ。困難という言葉は似つかわしくないかもしれない。でも、できないことに変わりはない。それに、新たな登場人物が舞台の袖で出番を待っている。そのことを観客の全員が知っていても、主役のひとだけが気付いていない。筋書きも与えられていない。

 ぼくは、高校のときの交際相手と映画を見に行った日のことを思い出した。内容より、横浜のあの一角という土地で覚えていた。横に彼女が座っているということだけでドキドキとしていた。だが、彼女はいったいぼくに何を残してくれたのだろう。反対に、ぼくは彼女にいまでも思い返してもらうほど、何かを残せていたのだろうかというやり切れない焦燥があった。彼女は、するりと逃げ、ぼくは女心というものが物体としてつかみ切れないと思ったのかもしれない。それで、経験則から学んで、つかもうともしていない現在がうまれたのだろう。しかし、それも言い訳だ。ぼくにも、筋書きや台本が与えられていない。今日の衝突事故が事前に知らされていないという同じ意味で。

「ユミです」電話が鳴ったので、ぼくは画面を一時停止にした。思考も同様だった。高校のときの彼女の動きも止まった。だが、それはいまになって、そもそも新たに動き出すことが難しいひとだったのだ。関係が終わったからには、過去の一場面を繰り返して流すだけだった。巻き戻して、以前に見た場面をもう一度、見る。その行為によって、気付かされることもある。ひとは細部を意外と見過ごしているのだ。いや、反対かもしれない。細部だけを見た気になって、これが全体だと判断し、大局や大筋を外れて失っている。だが、記憶は細部の集積ともいえた。またそれに細部が美しければ、積み重なった全体像も総合して美しくもなりえると言えた。少ないポイントをこつこつと稼ぎ、いつの間にか大きな加点の結果を手に入れるように。

「どうしたの?」
「どうもしない。特に用事もなかった。もう直ぐで、会社に入ってしまうなと思ったら、大学生の順平くんともう少しだけ、話しておこうと思って」
「何も、変わらないよ」
「変わるよ」
「具体的には?」

 その質問は男女間では成り立たない問題にも思えた。ぼくは、ずっとビデオを見て「変わる」ということを意識させられつづけていたのだ。初恋も変わり、終わり、失恋の痛手すら取り戻せない我が身。取り戻せたとしても、そこに甘美なものがまぶせられている。全体的に甘い、淡い思い出になるのだ。それに、二番目の恋が、秋の台風のように襲来する。なぎ倒される樹木の本数も分からない。進路も予想できない。だが、それも上空を通過する。そして、晴天が待っていた。ぼくは、ユミの存在が台風になり得ていたのか、もし、そうならば、何番目の台風だったのか考えようとした。

「いつか、変わらない証拠を見せるよ」
「いつかって、いつ?」
「四月か、五月か六月。それに、夏も」

 彼女は夏の予定を立てる。台風はまだ来ない。別の大きな気象の動きの範疇にぼくはいるのかもしれない。だが、変わる。ユミも変わるのだろう。でも、ぼくは髪型や洋服が夏物になったことぐらいにしか想像力を働かすことができなかった。

 ぼくらは今度のユミの休日の予定を立てる。ぼくはもったいぶって返事も即答せずに壁のカレンダーを眺める。その紙を何枚か破れば、もう社会人なのだ。もちろん、破らなくても社会人になるのだ。それが儀式のようにも思えた。左側から徐々に破かれる。2が切り取られ、3も終わる。4は未来。ぼくの未来は決まっている。会社員という文字だけが台本の表紙に書かれている。内容は、まっさらだ。普通は配役とかキャスティングとして選ばれたひとの文字がめくったページにあるのだろうか。そこに、まだユミの名前はあるのだろうか。順番は? いつみさんや木下さんは? 早間の出番は、これからもあるのだろうか。「咲子、田舎に帰る」というメモは挟まれているのか。ぼくには、何も分からない。ただ、ユミと会う今度の休みのことだけが埋まった。だが、それは新しい台本ではない。いまの使い古された台本の最終ページぐらいにあたる場面で見つかるのであろう。

Untrue Love(108)

2013年02月09日 | Untrue Love
Untrue Love(108)

 自転車に乗って疾走する少年がぼくの脇腹にぶつかった。彼は転がり、まわりの歩行者にとって、ぼくは加害者として映っているようだった。ぼくの身体も痛んでいた。いや、痛みの到来はもう少し遅かった。その少年の母親が同じように自転車で、買い物をしたものをかごに載せて直ぐにやって来た。その少年の普段からの注意力の散漫を知っている母は正当な判断をして、ぼくに浴びせられる罪あるひとの視線を防いでくれた。

「大丈夫ですか?」と、その母は言った。泣き出している彼の前で、自分は痛いなどと言い出せなかった。それで、この場から去るふたりを見送り、近くにあったトイレに入ってシャツをめくり、その箇所を点検した。皮膚が赤く滲んでいた。ぼくはその痛みや軽い傷より、他者の誤った視線がこわかった。簡単に正義が入れ替わりそうな世の中を、あまりにも知らなすぎた自分も愚かで哀れだった。

「ということがあったんですよ、さっき」と、ぼくはいつみさんに会って話した。
「大丈夫なの? あとで、見せてごらんよ」

 その甘い言葉に同意するように、痛んだところがジンジンと主張をして、同調を求めているようだった。
「平気ですよ。でも、かすかに痛んでますけどね」
「ぼんやりと、考え事でもしてたんじゃないの? あの辺り、けっこう、いつも混んでるから危ないんだよ」

 ぼくは反対の立場で、もし、いつみさんに自転車でもぶつかったりしたら、簡単にあの少年を許していただろうかと考えていた。その母に文句をつけ、少年の首元をつかみ、執拗に謝罪をさせる。自分が、そうも正義を振り回すことなど想像できなかったが、いつみさんのためならしたであろう。それで、傍若無人なひととして偽りの視線をまた浴びる。だが、その射すような視線もいつみさんのためなら怖くなかった。ぼくは段々と本気になっていた。いや、もっと前からなのは知っていたが、それを黒い大きな布で覆っていた。だが、この痛みが引き金となって、なにが大事か気付かせてくれているかのようだった。

 ぼくは、その後いつみさんの部屋にいた。服をめくり、女医にでも見せるようにいつみさんの視線を受けた。彼女の指は軽くそこを触り、「けっこう、強かったね」と感想をもらした。「冷やしたほうがいいよ、これ」と言って、氷を割りタオルを浸した。ぼくは寝そべり、彼女がここまで来るのを眺めていた。そして、タオルがそこに乗る。ひんやりとした感触が気持ちよかった。

「きょうは、おあずけだね」と、いつみさんは付け足した。そう言いながらも寝そべるぼくのおでこに自分の唇を近付けた。「キヨシもよく、怪我したな」

 ぼくはこの立場を不本意だと思いながらも、いつみさんの専心を奪えたことによる心地よさも実感としてあった。
「そのまま寝てな。ちょっと、買い物してくる」彼女は玄関の方に向かった。「鍵はいいか」というひとりごとも聞こえた。
「自転車にくれぐれも気をつけてくださいね」
「うん」と小さく言い、笑い声があとにつづいた。

 ぼくはその楽な姿勢でぼんやりと天井を見ていた。主のいない女性の部屋。そこで、ぼくは服をめくり、痛みを取り除くために冷やしていた。徐々にタオルはぬるくなっていった。そのことと調和するように、ぼくの眠気が入り込み、いつの間にか寝てしまったらしい。気がつくと、鍋からなにかのにおいが立ち込めている。ぼくは、一瞬だけそこがどこか分からずにいた。また、その料理の途中の女性が誰かも直ぐには思い出せなかった。そのことをぼくは恥ずかしく思っていた。ここで、ぼくはいろいろなものを清算するべきだとも感じていた。だが、友人の誰に自分のものを貸したか思い出せないむかしのことも頭にあった。多分、あいつだったのかな、という見当で話をすすめる。「それ、オレが返したときに、また、あいつに貸したんだよ」と友人は言った。いったい、ぼくの宝物とするべき対象はどこにいってしまったのか、という不確かさと、見極めない自分の不甲斐なさもあった。ぼくは、まだまどろみの最中のように、寝転んで考えていた。

「寝ちゃったみたいです」
「そうみたいだね。留守番としては失格だけど」

 姿はないが、紛れもなくいつみさんの声だった。あの店にいるいつみさんは、あまり調理をしない。ぼくらがあのままの関係だったら、彼女の手料理の味などぼくは知らないままだったのだ。ぼくは常温にもどってしまっている、いや、ぼくの体温によってもっと温くなったタオルをテーブルに置き、立ち上がった。

「我を忘れて寝てました」彼女の背中が見えるところまで行くと、ぼくはそう言った。
「もう直った?」
「直ってはいないですけど、痛みは引きました」
「そう。よかった」彼女は振り向く。この瞬間の彼女。長い年月のある瞬間の彼女。ぼくが、もしカメラだったら、きちんと切り取れるのに、とぼくは思っていた。「もうすぐ、できるよ。いっしょに食べよう」
「きょうは、おあずけだから」
「そう、おあずけ」
「でも、直りましたよ」
「あとで、チェックする」彼女はお玉でスープをよそう。「その傷のほうね」

 泣き出した少年がいる。彼の夕飯は、あの母が載せた自転車のかごのもので作られるのだろう。ぼくは、その子をぼくといつみさんの子どもだと敢えて錯覚するように仕向けた。すると、ぼくはこれほどまでにいつみさんを独占することができないことに気付く。やはり、ぼくはまだ痛がっていた方が良かったのだとも感じていた。だが、残念ながら痛みはもうない。痛いと主張し続けるほど、子どもでもいられなかった。

Untrue Love(107)

2013年02月04日 | Untrue Love
Untrue Love(107)

「こいつ、最後までわたしのことを女性として見なかった」今後は会うことも少なくなるということで、最後に紗枝とふたりきりで会った。彼女は、その開放感がもたらす余波として酔っていた。ぼくは、早間という括りのなかで女性を見ていた。そこに、咲子がいて、紗枝もいた。獰猛な動物も、追われる側の動物も檻が垣根としてあることによって共存している動物園の様子をぼくは思い出している。ぼくらは、きちんと区分けされていた。餌を与えてくれる飼育員も別だった。動物もアフリカから連れて来られたものがいて、南極を棲み家にしているものもいた。でも、仮初めの宿で暮らしていた。もう自力では戻れない。ぼくらも、日々の生活をつづけることによって、自力では戻れない場所に来て、もうまっさらにはならない考えや習慣を身に着けてしまった。

 グループとして生活することを選んだからには抵抗しようとしても有無を言わせず色に染まる。学生として所属している環境内で色濃く影響を受けるのだから、会社にでも入れば猶更だろう。共通項としての上空の曇り空のような支配。ときどき降る雨に同じように濡れる。別の傘の下に入るぼくと紗枝の考えの幅もいつか異なってくる。ある日には、もう一致点もないかもしれない。重複もしない。持ち出す共通の話題は過去の思い出話だけになる。あの時の君や、あなたはこうだった、ああだった。その時点でぼくらの成長はストップしてしまう。関係性の維持や継続もなんだかもの悲しいものだった。それを引っ張ろうとする努力も一切が無駄なものに思えた。

 だが、段々とぼくも酔いはじめ、そういった空想の重圧を軽々と跳ね除けてしまう。
「じゃあ、紗枝はそういった目で一度でもぼくを見てくれたかな?」
「ないよ」彼女は快活に笑った。「だって、好きになってくれる可能性のないひとに関心をもっても時間が無駄になるだけでしょう」

 だが、彼女は早間との別れを無駄に嘆き、そのために多くの時間も無駄にしていたではないかとぼくは思っていた。ひとこともそのようなことは言わないが、事実であった。それでも、まったく無駄な時間を過ごさない人間などひとりもいない。突き詰めれば、ぼくのこの時間も無駄であり、紗枝の酔いも無駄であった。でも、これが楽しくない時間では決してない。未来がすぼまっていくことを前提としているので、言いたいことをある程度、制限もせずに口にすることができた。

「順平くんは、彼氏がいるひとをずっと好きだったの?」
「違うよ。でも、なんで?」
「誰かを好きになっていそうなんだけど、どこかで、なんだか辛そうだから」
「辛そうね・・・」
「辛いというか、困っているというか、なんとなくそういう類のものだよ」

「辛くないよ、それに、ほかのどれでもない」事実というのは多面的なものの一面からの評価でしかないことを知る。ぼくはとても楽しいと思いながら、一部としては辛かった。嫌われたくないとも思いながらも、一面では全員の愛を失うことを望んでいた。あの三人のうちの誰かひとりに決めることになるのは知っていたが、その決定を自分自身の考えで下さなかった。
「なら、いいけど。辛いなら、いつでも相談に乗るよ」
「それで、全員、翌日にはぼくの秘密を知っているんだ」
「そういうこともあるかもね」彼女はまた笑った。この女性が永遠に幸せで、この笑いを忘れる日が来ないことをぼくは願った。そして、他のひとにも同じ笑いを永続的に与えたかった。だが、自分の力の及ぼす範囲も知っていた。ぼくはいまより辛い日々を迎え、あるいは、いまが幸福でもなかったのだと、もっと上位の幸せな状態に打ち震えているかもしれない。

「ほんとに困ったら言うよ」
「そうして」ぼくらは未来のあてのない約束をする。「でも、本気で好きになったことができて良かったと思っている。この学生時代に」
「それは、早間のこと?」

 彼女の返答はなかった。ぼくは、自分に対して、「野暮」というレッテルを貼り、その言葉を自身にはじめて使った。紗枝が悩みや辛い気持ちを打ち明けなくても、ぼくはそのあらましを知っていた。また、その傷をひとりで耐えたことも知っていた。ぼくは力強く彼女を励まし、その堪えた道のりの立派さを認めたかったが、それも野暮の上塗りに過ぎなかった。だから、口を閉じた。

「順平くんも、胸を張っていえるほどの、多いのか、少ないのか分からないけど、ひとりでも、そういう相手がいたんでしょう?」
「いたよ」
「どこが好きだった?」正確に言えば、誰のどこが好きだった、ということだ。

「率直さ。自分がここに生まれてラッキーだったと純粋に楽しんでいるところ。前向きになにかを学習したいと思っている気持ち」
「素敵なひとだね」素敵なひとたち。いつみさん、ユミ、久代さんの特色をひとつずつぼくは思い浮かべていた。彼女らがいて、受けた恩恵を誰も、どんなものも奪えないのだと感じると、酔ったぼくはこの世界の支配者にでもなった錯覚をした。反対に、彼女たちはぼくのどこを手放しでほめるのだろう。先ほどの紗枝の宣言と同じように、「好きになってよかった」としみじみと思うことがあるのだろうかと想像した。答えを導き出すのは簡単だ。当人たちに質問して訊き出せばいい。その点検を面倒くさがらずに毎日、決まった時間に行うことが愛ある関係とも言えた。結果としてぼくは喜び、重荷に感じる。だが、その重さは思ったより軽いのかもしれない。ある日、跳び箱や逆上がりを難儀なこととして捉えなくなった日のように簡単なものかもしれなかった。

Untrue Love(106)

2013年02月04日 | Untrue Love
Untrue Love(106)

 最初のサービス・エリアまで咲子が運転した。ぼくは、はじめて彼女が運転する車に乗る。思いのほか安定していた。急発進もなければ、急ブレーキもない。ただ、周りとの関係を一定の間隔で保っており、その結果、ぼくは後部座席で安心していられる。

 また早間が運転しだすと、ぼくは横に静かにすわっている咲子に、先ほどまでの運転をほめた。

「田舎にいるときに、こっそりと運転したことがあるから」と彼女は打ち明ける。それがどのような場所で、どのぐらいの頻度か、いつものように彼女の情報は少なかった。一方の早間は若い男性の特徴と主張のように、前を行く車を何度か追い越した。しかし、もちろん好んで事故を起こしたいと思っている訳ではない。ぼくは、昨夜の寝不足分を取り戻すように、後ろの席で目をつぶった。ただ、運ばれるだけの自分は、運転の能力の差の範囲外にいて、気楽な身分だった。

 翌日、木下さんに会った。
「この前、偶然に入った店に順平くんの知り合いの子がいた。いっしょに靴を買いに来てくれたひと。名前、なんだっけ?」
「咲子のことかな」
「そう。あの子は、順平くんと、どういう関係なの? はっきり聞いていなかったと思うけど」
「ぼくの両親は、中、高と同じ学校で、だから、ぼくが帰ることのできる田舎はひとつしかないんです。そのどちらかの弟のお嫁さんの、うん、嫁ぎ先に来る前のもともとの実家にいた子だと思うけど。そのおばさんには会ったことがあるから。あれは、弟の奥さんの姉か妹かな。その娘」
「なんか、赤の他人のことを話してるみたいだよ」
「そう言われると、そうですね。漠然とした親類。でも、分かりますかね、とても狭い世界だから」ぼく自身がその関係に混乱していた。頭のなかで実線と点線を作り、彼らを結びつけようと努力したが無駄なようだった。

「じゃあ、付き合っても問題にならない間柄?」
「多分、そうなんでしょうね。どうなんだろう。考えたこともないけど」
「でも、面倒を見てる?」
「そうでもないですよ。ただ、両親の、ぼくの両親の家のそばにアパートを借りて、ひとりで暮らしているだけだから」

「緩やかな監視下で。息子の監視もしないのに」
「若い女性ですからね。いろいろと田舎では心配するんじゃないですか。お目付け役が必要」その言葉に反応して久代さんは笑う。
「ところで、仮にその子に、わたしのことを説明するとしたら、どうなる?」いつもの冷静さに似合わず、好奇心に溢れた視線を向けた。
「デパートで靴を売っている女性。たまにぼくと会ってくれる。すすんでかどうかは分からないけど、厭そうにも思えない」
「いやじゃないよ。でも、順平くんの気持ちが入っていないので、答えとしては不備」
「会いたくなる。でも、その咲子の店に別のひとと行ってるみたいだから」
「なんだ、聞いてたの? 言えばいいじゃない。ただ、気が合いそうだから数回だけ試しに会おうとしたけど、打ち解けなかった。次はないかもね」

 その男性との次がないだけで、別の男性との未来のすべてが消滅した訳でもなかった。当然、ぼくにその機会を妨害する権利はない。作ろうと思えばできる。だが、作った結果として、ぼくはいつみさんとユミを同時に失う。だから、ぼくはその問題を棚上げする。論理としてはまっとうだったが、気持ちとしては、正論ではないことを正直に認めていた。
「あの店、順平くんも行くの?」
「咲子がいるところで、楽しくもないし、酔いたくもない」
「でも、学生なんだから、毎日、働いているわけでもないんでしょう? 週に2、3回?」
「そのぐらいでしょうね」実際は、もっと少なかった。
「じゃあ、いない日を選んで行けばいいじゃない」

「そうですね。でも、店はあそこばかりじゃないし」ぼくは、しかし、そこに行くことがあった。ひとつはキヨシさんの料理が見事で、ぼくの空腹を埋めてくれるからであり、もっと大きな理由でいつみさんがいるからだった。ぼくは、この生活を大学に通っている間、つづけた。そばでバイトをしていたからであり、彼女たちがその町で存在していたからその生活が生まれてしまったのだ。そのように他人のせいにしているうちにぼくの生活も間もなく終わる。過ごす場所が変わり、もうバイトをしなくてもよくなる。そのバイトの代わりに毎日の仕事で忙殺される。休日にあの町に戻るとも思えない。土日にはユミと会える機会も少なくなる。ぼくは、こうして環境の変化の流れで、自分の生活と範囲を変えようとしていた。作為もない完全犯罪であり、その代償として、ぼくは大人になり、淋しさの何たるかを理解し手に入れる。万事順調のようだった。

「学生時代に何種類かのバイトを順平くんはすればよかったのにね。複数のものを比較して検討する。自分が向いているものなんて、実際にやってみないことには分からないことって、たくさんあるのよ。知ってた?」

 それは、バイトの話だけではない。早間の家には何台かの車があった。ぼくは、ひとつのアパートの住み心地しか知らない。洋服を気分によって取り替える女性のことも考えた。木下さんの今日の服をぼくは見る。それは、木下さんと分離したものでありながら。木下さん以外の何ものでもないようだった。時計が木下さんであり、もちろん、靴が木下さんだった。

Untrue Love(105)

2013年02月03日 | Untrue Love
Untrue Love(105)

 ぼくは車の後部座席にいる。運転しているのは早間だ。となりには咲子もいた。早間に関係する別荘があり、ふたりだけでそこに行かせるのはまずいというぼくの両親の判断により、ぼくはしたくもない役目を自分に課している。だが、それほど気が重いわけでもない。自分の置かれた状況から一時でも離れるのは楽しいものだった。それに、こうして気楽な気持ちでいられる時期ものこり少なくなってきた。

 ぼくはふたりが親密でいる時間を知らない。早間とは四年近くの交遊があり、咲子とは小さなころの彼女には会ったが、それ以降の情報をぼくは持ち合わせていなかった。それからこちらで大学に通うことになった彼女をふたたび目にする。どちらにより近い気持ちを有しているのかと言えば、早間の方に分がありそうだった。かといって、彼の女性への接し方をよくは思っていない。しかし、心配してもはじまらないし、誰かを好きになることを阻害する意思など毛頭なかった。勝手にしてもらえばいいのだ。それに、ぼく自身もあるがままに勝手にしていた。それで、困ったことにもならなかった。いや、少しなっていた。

「順平と、もっと、こうした時間をもっておけばよかったな」
「だって、早間には、いつも女性がそばにいたじゃないか」ぼくは、あたりまえのこととして言ったが、咲子がいることを単純に忘れていた。

「結局、オレは、順平が誰のことを好きなのか知らないまま終わる。咲子、知ってる?」話を変える必要も感じないように、普通の口調で早間は話した。その問いの咲子の答えは、首を左右に揺らすという動きだけだった。「でも、いるんだろう?」
「まあ、いないこともないけど」
「目の前に連れて来られない理由があるとか?」
「ないよ」
「ないってことは、いることは、いる。それが導き出した答え」彼は、運転しながらひとりで笑った。

 途中、大きな湖に寄った。透明度があり、神秘的な印象をそこにいる人間に与えた。咲子と早間はちょっと離れたところにいた。見えなくなったなと思っていると、ソフトクリームを手にした咲子がまたあらわれた。ぼくが、女性とここにいるとしたら、いったい誰を選んでいるのだろうと考えた。木下さんは別の男性と会っていると咲子が言った。ぼくらには正式な関係がない以上、それに文句をつける立場にぼくはいない。だが、言いがかりをつける役割が自分にもあったらよいのになとも思っている。のどかな湖面を見ながらも、ぼくのこころは波立っていた。

 ふたりはこちらに近寄ってくる。早間にぼくが好きな女性を伝えなかった咲子。反対に、彼の遊びの相手がいることを咲子に伝えられない自分。世の中はだいぶ欺瞞で膨らんでしまったようだった。もっと、シンプルで遊び相手もそれほどいなかった五、六才のころの自分のことを考えていた。彼がいなければ、ぼくの日曜は終わりだった。ひとりでする遊びを見つけなければならない。父は、日曜もよく仕事をしていた。その自分が休日ごとに会う女性を変えている。これを成長というならば、なんとなくむなしいものでもあるようだった。そこで、ふたりはぼくの前まで来てしまったので、ぼくも考えを中断した。

 また車に乗り、目的の場所に着いた。途中で、ビールや簡単な食材を買った。掃除や後片付けが面倒なので二部屋だけ使うことになった。ぼくがひとりで占有できる部屋と、早間と咲子の部屋。ぼくはなるべく素面でいる時間を減らそうと考えていた。そして、それを実行した。途中でぼくは自分の部屋に戻る。少しだけかびた匂いがする。その部屋にはテレビもなく、小さなラジオをつけた。それで、古い洋楽の特集をきいた。

 洗い物をする音がして、彼らも自分たちの部屋に入ったようだった。ぼくは田舎に行ったときのことを思い出していた。暑い夏休み。やはり、同じ年頃の同性の子がいなかったので、ぼくはひとりでいた。土手を歩き、ここでも透明だった川に釣り糸を下ろし、魚を追った。よく日にやけた少女に出会った。それが咲子であった。あの時のぼくらには共通の話題もなく、また女性が大事にしているものたちへの嫌悪と無理解がぼくにはあった。違う生き物と判断していたのだろう。それも、いまも大して変わらない。だが、ぼくらは早間を介在させることによって、理解の種がひとつ増える。ぼくにもほかの女性を通しての情報があった。サンプルが増えたのだろう。

 音楽の特集の時間も終わり、深夜のニュースになってしまったのでぼくはラジオを消してしまった。酔いはもう戻ってこなく、目が冴えてしまった。ぼくは、となりにいるのが木下さんと見知らぬ男性だと思おうとした。いや、そういう疑いの気持ちが膨らんでいくことを抑えられなかった。ぼくの愛の一角が崩れることにより、ほかの二辺との均衡も台無しになるのだ、という自己中心的な感情も抑えられなかった。残ったふたりを大事にしなければならない。反対だ。そのふたりときっぱりと袂を分け、木下さんを取り戻さないといけない。それがぼくに与えられた使命なのだ、と見慣れない天井の模様をぼんやりと眺めながらぼくは考えていた。しかし、木下さんと会う約束もぼくはきちんと取り付けている。その際に、そのことを問い質す自分がいるとは、とても思えなかった。そうして得た結果が怖かった。つづけることも怖く、別れることも怖かった。

 朝、扉を開けるとふたりはもう起きていた。とても、すがすがしい顔だった。反対にぼくは寝不足のような顔と頭をしていた。その立場は逆でもよかったのだ。逆の方がしっくり来るのだとぼくはなぜだか腹立たしく考えていた。

Untrue Love(104)

2013年02月02日 | Untrue Love
Untrue Love(104)

「さっき、飲んだコーヒーが効いてきた。これから、家に帰っても眠れそうにないんだ。よく、ここに、おばさんに頼んで泊まらせてもらってるから。そこのソファに」

「そうなんだ」ぼくは、自分の実家で営まれていることを知らなかった。その罪悪感にも似た気持ちが反論を抑えてしまうことにつながった。「じゃあ、きちんと戸締りだけして。オレ、2階に行くから」

 ぼくは階段を登る。その段差すら懐かしく感じていた。木の温もり。ぼくは、数年前まで自分の部屋として毎日を過ごしていた部屋に戻った。まだ、誰のことをも知らなかった自分。ユミもいつみさんも、木下さんの存在も知らなかった自分。そのこと自体も懐かしかった。だから、女性がこの部屋に入ったこともない。いまのアパートにはユミがいた。反対に、いつみさんや木下さんの部屋にぼくは足を踏み込んだ。

 ベッドに横になっても、自分もなかなか寝付かれそうになかった。下では物音ひとつしない。彼女がすべらすペンや鉛筆や消しゴムでノートをこする音は二階までもれてこない。ぼくは、立ち上がり備え付けの本棚の前に立った。そこも歴史に取り残されたような状況になっていた。数年前まで確かに貴重なものとして使っていた参考書があった。開くとマーカーの色があったが、いく分、かすれているようにも思えた。そのラインの下の文字がどれほど自分にとって必要な情報であったのか、ぼくには確かめようもなかった。探し当てた埋蔵品を過去、どのような意図で利用していたのか判断に困る発掘者のように。

 横には、夏目漱石の本があった。自分が買ったものもあれば、活字への愛を子どもに伝達したかった親が買い揃えたものもあった。その本が、どちらの範疇に分類されるのか思い出せないが、眠れそうにもなかったので一冊だけ抜き取り、ベッドの上で転がりながら読み始めた。

 主人公は、兄嫁とどこかに出かける。アクシデントがあり、そこから戻れなくなり一泊することになった。兄は、自分の妻の心中をつかまえることに困難を覚えている。女性の気持ちをきちんと認識することなど不可能な行為なのだと、ぼくは寝そべりながら思っていた。弟は困った状況にはまり込んでしまったと憂いながらも、自然の猛威の前になす術もない。見知らぬ土地で一泊をする決意をする。兄嫁は同意もしなければ、反論もしない。この捉えきれない気持ちを兄は毎日、味わっているのだと弟は思う。

 下で、グラスなのか瀬戸物なのかが重なりこすれる音がした。この地域は夜中、静かなことをまた思い出していた。ぼくのアパートの周りで学生や塾の帰りの子どもたちが騒いでいる様子を好ましい生活のノイズとして、この瞬間のぼくは考えていた。

 兄は、その日の状況を問い詰めない。弟も訊かれないので自分からは説明しない。しかし、精神の均衡をいくらか壊しはじめている兄は、緊迫した面持ちで弟を罵倒する。早く伝える責任があるだろうと。

「自分は、女性の内面をすべて掌握したいのだ」という趣旨のことを兄は言う。弟はその世界から去ろうと決める。ぼくは、誰一人として、女性の気持ちを理解していない。いっしょに過ごす時間が楽しいことは知っている。その楽しみの先に、暖かな保養地としての海岸のような景色があるのか、それとも一転して奈落のようなものが口を開けて待っているのか分からなかった。だが、しばらくすると思考も停止し、いつの間にか睡魔がからみついて、ぼくは寝てしまったらしい。

 ぼくは、夢を見る。この部屋にいつみさんが来ていた。彼女は制服を着ている。土手で話してもらった彼女の過去の印象がここで結実していた。ぼくの本棚を彼女は眺めている。その後姿は木下さんになった。ぼくは、そんなことはいいからゲームでもしようと横に誘う。そして、ゲームを始めると対戦相手はユミになっていた。彼女が勝てば誇らしさに満ちた顔になり、負ければぼくの腕を思いっきりなぐった。ぼくは避けることもなくその力を受け止めた。これが、彼女の示す愛の表現方法だと思いながら。

 母親がトレイのうえに飲み物を載せ、部屋の戸を開けた。その姿は店にいるいつみさんと同じ姿だった。彼女は、ぼくの母だったのか、と眠りのなかのぼくは疑問をもつこともなくその事実を受け入れた。となりのユミは笑顔でそれをもらう。両手に乗ったお盆。彼女はスプーンで紅茶をかきまわした。

 眠りのなかでまた部屋が開く。しかし、それは夢ではなく実質に近かった。ぼくは三人のうちの誰であるのか素早く判断しようと思ったが、顔がよく見えなかった。その姿は、ぼくの布団の横にもぐりこむ。そして、「寒いから、こうして、暖めて」と言った。ぼくは夢のなかで、またなぜか先ほどの本を読み進んでいた。しかし、それも別の本に変わっていた。田舎から東京に大学進学のために出向く主人公。その移動はどこかで泊まる時間を組み込まないと到着しないころの話だった。主人公は、ある同じ列車の女性と旅館の同部屋になる。布団も二つある訳ではない。男性は自分を律する。その律することのむなしさを女性は翌日、事実とあざけりが混ざったものとして告げる。

 朝になっていた。読みかけの本は机の上にきちんと置かれていた。電気を消した覚えもないが、部屋の明かりはついていなかった。ぼくの肩辺りが、ユミに殴られたかのように痺れて痛かった。両親は今日の夕方に戻る。バイトも学校もなかったぼくは二度寝の誘惑を断ち切れるかどうかを悩んでいた。