最後の火花 58
本を開く。お腹が減ってレストランに入ると、いろいろ準備をさせられる。食べるための用意のはずが違和感を生む。しかし、料理には準備がかかせない。わたしは食卓のテーブルでお菓子を食べながら読んでいた。
「なに、読んでるの?」加藤さんが訊く。わたしは表紙を見せる。
「レストランに行くのね」
「いま、いろんなことさせられている」
「どうなるのかしらね? わたしも仕度をしなくちゃと」
加藤さんは包丁で軽やかな音を立てている。ものを切る行為というより、太鼓でリズムを取っているようだった。わたしは耳を澄ます。すると、家のチャイムが鳴った。来客は、加藤さんが頼んでいた包丁を研ぐ役目のひとだった。玄関の横で、そのおじさんは道具をひろげた。石を水で濡らし、さっきまで加藤さんが使っていたものや、あと数本を石の上でこすりだした。
「見るの、はじめて?」おじさんが訊く。
「うん。むずかしい?」
「いまは、そんなでもないよ」
気付かないうちに母が目の前にいた。
「包丁研ぎね」言いながら玄関の戸を開けた。
「ここの奥様?」背中も見えなくなってからおじさんがわたしに訊ねた。
「そう。お母さん」
「あ、なんだ。君もここの子か」
わたしは加藤さんの娘と思われていたらしい。おじさんはしゃべりながらも熱心に包丁をすべらせていた。しばらくすると終わったようで磨かれたものを水で注ぎ、陽にかざした。
「切れる?」わたしの問いに彼は紙を出し、すっと切れ目をいれた。「見事」
わたしは加藤さんを呼びに行く。加藤さんはお財布を開く。食材といっしょにあとで精算されるのだろう。専用のお財布の柄だから。わたしは荷物箱をもつ男性を見送る。
「仕事、あれだけなの、おじさん?」
「どうなんでしょうね。ハサミとかもあるけど、あれだけなのかな」加藤さんはまた料理にとりかかる。ニンジンの皮をむき、それが終わると細かく切った。
「きょう、なに?」
「シチュー」
「よかった」加藤さんのシチューはおいしかった。手の中の包丁の持ち主は本当はお母さんかもしれないが、もう加藤さんのものといっても問題ないようだった。
わたしは食事をしながら、いろいろな仕事があることに対しての質問をする。手っ取り早くいえば、手作業や指先の器用なひとの仕事は、勉強とは無関係であるという解答をほしかったのかもしれない。わたしは勉強の時間を苦痛に感じるときがある。怠けたいわけでもなく、好きなことを目指して、そのための訓練は厭わないつもりだ。しかし、算数はいらなかった。
「でも、世の中の大体はしかるべき料金があって、おつりを計算できないと損をすることになるんだよ」と父は優しく説明する。その通りだった。正論に負ける。子どもには幸せになってほしい。そんな親心。
わたしは部屋で本のつづきを読む。いつまでも終わらない本もあってほしいと思うが、これは絶対に一日で読んでしまえる分量だ。店側の要求がなんだか不可解になる。最後はびっくりする。そして、終わり。わたしは恐くなって身震いした。
また階下に降りる。母はメロンを切っている。母もそれぐらいはできる。種が数粒のこっている。
「やっぱり、切れ味が良いのね」
「どうしたの?」父は昼のできごとを知らない。
「包丁を研いでもらった」わたしは見たままの映像を説明する。
父は日用品と売上ということを説明する。ヒット商品というものもたまにあるが定期的に売れるものを改善することも素晴らしいのだと教えてくれる。
「ヒット商品って?」
「みんなが欲しくなるものができて流行になって、ブームが起きる。ゲームとかね」
「反対は?」
「定期的に売れるもの。ランドセルとか学習机とかも」
わたしは自分の部屋のなかを想像する。ランドセルは学校の友だちのみんながひとつずつ持っている。いま、幼稚園の子も、全員が必要になる。必要以上につくったら余ってしまうだろう。だが、ニンジンやお豆腐と違って、来年まで取っておいてもダメになるわけでもない。
「付加価値もある」と父はむずかしいことばを使った。机のデザインや年齢がかわってもサイズや高低で対応できるとが、その意味らしい。
わたしは賢くなる。自分の口で付加価値と言ってみる。明日になれば忘れているかもしれない。
ひとつの本が生まれる。みんなが読んでいる。また読みたくなるまで取っておく。包丁のように研ぐ必要もない。いろいろ勉強などで頭をつかうと内容を忘れてしまう。忘れないためにはノートに書いて、家でお母さんにも確認してもらうといいと先生は言った。先生とわたしと母は、同じルールの下で文字を書かなければいけない。それを困らない程度に教えてくれるのが学校なのだろう。わたしはひとりでお遣いに行った際に、おつりを計算できなければいけなかった。レストランでいくらの値打ちがあるのかも、いずれ知らなければならないだろう。欲しいものかどうかの質問も具体的にできなければならない。選別や選定と父はいった。メロンを三人で食べるには頃合いの計算も必要だった。弟や妹が生まれれば、四等分できるんだなと勝手に考えたが、そんなに食べるには赤ちゃんが随分と大きくならなければ無理な話だった。
本を開く。お腹が減ってレストランに入ると、いろいろ準備をさせられる。食べるための用意のはずが違和感を生む。しかし、料理には準備がかかせない。わたしは食卓のテーブルでお菓子を食べながら読んでいた。
「なに、読んでるの?」加藤さんが訊く。わたしは表紙を見せる。
「レストランに行くのね」
「いま、いろんなことさせられている」
「どうなるのかしらね? わたしも仕度をしなくちゃと」
加藤さんは包丁で軽やかな音を立てている。ものを切る行為というより、太鼓でリズムを取っているようだった。わたしは耳を澄ます。すると、家のチャイムが鳴った。来客は、加藤さんが頼んでいた包丁を研ぐ役目のひとだった。玄関の横で、そのおじさんは道具をひろげた。石を水で濡らし、さっきまで加藤さんが使っていたものや、あと数本を石の上でこすりだした。
「見るの、はじめて?」おじさんが訊く。
「うん。むずかしい?」
「いまは、そんなでもないよ」
気付かないうちに母が目の前にいた。
「包丁研ぎね」言いながら玄関の戸を開けた。
「ここの奥様?」背中も見えなくなってからおじさんがわたしに訊ねた。
「そう。お母さん」
「あ、なんだ。君もここの子か」
わたしは加藤さんの娘と思われていたらしい。おじさんはしゃべりながらも熱心に包丁をすべらせていた。しばらくすると終わったようで磨かれたものを水で注ぎ、陽にかざした。
「切れる?」わたしの問いに彼は紙を出し、すっと切れ目をいれた。「見事」
わたしは加藤さんを呼びに行く。加藤さんはお財布を開く。食材といっしょにあとで精算されるのだろう。専用のお財布の柄だから。わたしは荷物箱をもつ男性を見送る。
「仕事、あれだけなの、おじさん?」
「どうなんでしょうね。ハサミとかもあるけど、あれだけなのかな」加藤さんはまた料理にとりかかる。ニンジンの皮をむき、それが終わると細かく切った。
「きょう、なに?」
「シチュー」
「よかった」加藤さんのシチューはおいしかった。手の中の包丁の持ち主は本当はお母さんかもしれないが、もう加藤さんのものといっても問題ないようだった。
わたしは食事をしながら、いろいろな仕事があることに対しての質問をする。手っ取り早くいえば、手作業や指先の器用なひとの仕事は、勉強とは無関係であるという解答をほしかったのかもしれない。わたしは勉強の時間を苦痛に感じるときがある。怠けたいわけでもなく、好きなことを目指して、そのための訓練は厭わないつもりだ。しかし、算数はいらなかった。
「でも、世の中の大体はしかるべき料金があって、おつりを計算できないと損をすることになるんだよ」と父は優しく説明する。その通りだった。正論に負ける。子どもには幸せになってほしい。そんな親心。
わたしは部屋で本のつづきを読む。いつまでも終わらない本もあってほしいと思うが、これは絶対に一日で読んでしまえる分量だ。店側の要求がなんだか不可解になる。最後はびっくりする。そして、終わり。わたしは恐くなって身震いした。
また階下に降りる。母はメロンを切っている。母もそれぐらいはできる。種が数粒のこっている。
「やっぱり、切れ味が良いのね」
「どうしたの?」父は昼のできごとを知らない。
「包丁を研いでもらった」わたしは見たままの映像を説明する。
父は日用品と売上ということを説明する。ヒット商品というものもたまにあるが定期的に売れるものを改善することも素晴らしいのだと教えてくれる。
「ヒット商品って?」
「みんなが欲しくなるものができて流行になって、ブームが起きる。ゲームとかね」
「反対は?」
「定期的に売れるもの。ランドセルとか学習机とかも」
わたしは自分の部屋のなかを想像する。ランドセルは学校の友だちのみんながひとつずつ持っている。いま、幼稚園の子も、全員が必要になる。必要以上につくったら余ってしまうだろう。だが、ニンジンやお豆腐と違って、来年まで取っておいてもダメになるわけでもない。
「付加価値もある」と父はむずかしいことばを使った。机のデザインや年齢がかわってもサイズや高低で対応できるとが、その意味らしい。
わたしは賢くなる。自分の口で付加価値と言ってみる。明日になれば忘れているかもしれない。
ひとつの本が生まれる。みんなが読んでいる。また読みたくなるまで取っておく。包丁のように研ぐ必要もない。いろいろ勉強などで頭をつかうと内容を忘れてしまう。忘れないためにはノートに書いて、家でお母さんにも確認してもらうといいと先生は言った。先生とわたしと母は、同じルールの下で文字を書かなければいけない。それを困らない程度に教えてくれるのが学校なのだろう。わたしはひとりでお遣いに行った際に、おつりを計算できなければいけなかった。レストランでいくらの値打ちがあるのかも、いずれ知らなければならないだろう。欲しいものかどうかの質問も具体的にできなければならない。選別や選定と父はいった。メロンを三人で食べるには頃合いの計算も必要だった。弟や妹が生まれれば、四等分できるんだなと勝手に考えたが、そんなに食べるには赤ちゃんが随分と大きくならなければ無理な話だった。