爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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最後の火花 58

2015年04月29日 | 最後の火花
最後の火花 58

 本を開く。お腹が減ってレストランに入ると、いろいろ準備をさせられる。食べるための用意のはずが違和感を生む。しかし、料理には準備がかかせない。わたしは食卓のテーブルでお菓子を食べながら読んでいた。

「なに、読んでるの?」加藤さんが訊く。わたしは表紙を見せる。
「レストランに行くのね」
「いま、いろんなことさせられている」
「どうなるのかしらね? わたしも仕度をしなくちゃと」

 加藤さんは包丁で軽やかな音を立てている。ものを切る行為というより、太鼓でリズムを取っているようだった。わたしは耳を澄ます。すると、家のチャイムが鳴った。来客は、加藤さんが頼んでいた包丁を研ぐ役目のひとだった。玄関の横で、そのおじさんは道具をひろげた。石を水で濡らし、さっきまで加藤さんが使っていたものや、あと数本を石の上でこすりだした。

「見るの、はじめて?」おじさんが訊く。
「うん。むずかしい?」
「いまは、そんなでもないよ」

 気付かないうちに母が目の前にいた。
「包丁研ぎね」言いながら玄関の戸を開けた。
「ここの奥様?」背中も見えなくなってからおじさんがわたしに訊ねた。
「そう。お母さん」
「あ、なんだ。君もここの子か」

 わたしは加藤さんの娘と思われていたらしい。おじさんはしゃべりながらも熱心に包丁をすべらせていた。しばらくすると終わったようで磨かれたものを水で注ぎ、陽にかざした。

「切れる?」わたしの問いに彼は紙を出し、すっと切れ目をいれた。「見事」
 わたしは加藤さんを呼びに行く。加藤さんはお財布を開く。食材といっしょにあとで精算されるのだろう。専用のお財布の柄だから。わたしは荷物箱をもつ男性を見送る。

「仕事、あれだけなの、おじさん?」
「どうなんでしょうね。ハサミとかもあるけど、あれだけなのかな」加藤さんはまた料理にとりかかる。ニンジンの皮をむき、それが終わると細かく切った。
「きょう、なに?」
「シチュー」
「よかった」加藤さんのシチューはおいしかった。手の中の包丁の持ち主は本当はお母さんかもしれないが、もう加藤さんのものといっても問題ないようだった。

 わたしは食事をしながら、いろいろな仕事があることに対しての質問をする。手っ取り早くいえば、手作業や指先の器用なひとの仕事は、勉強とは無関係であるという解答をほしかったのかもしれない。わたしは勉強の時間を苦痛に感じるときがある。怠けたいわけでもなく、好きなことを目指して、そのための訓練は厭わないつもりだ。しかし、算数はいらなかった。

「でも、世の中の大体はしかるべき料金があって、おつりを計算できないと損をすることになるんだよ」と父は優しく説明する。その通りだった。正論に負ける。子どもには幸せになってほしい。そんな親心。

 わたしは部屋で本のつづきを読む。いつまでも終わらない本もあってほしいと思うが、これは絶対に一日で読んでしまえる分量だ。店側の要求がなんだか不可解になる。最後はびっくりする。そして、終わり。わたしは恐くなって身震いした。

 また階下に降りる。母はメロンを切っている。母もそれぐらいはできる。種が数粒のこっている。

「やっぱり、切れ味が良いのね」
「どうしたの?」父は昼のできごとを知らない。
「包丁を研いでもらった」わたしは見たままの映像を説明する。

 父は日用品と売上ということを説明する。ヒット商品というものもたまにあるが定期的に売れるものを改善することも素晴らしいのだと教えてくれる。
「ヒット商品って?」
「みんなが欲しくなるものができて流行になって、ブームが起きる。ゲームとかね」
「反対は?」
「定期的に売れるもの。ランドセルとか学習机とかも」

 わたしは自分の部屋のなかを想像する。ランドセルは学校の友だちのみんながひとつずつ持っている。いま、幼稚園の子も、全員が必要になる。必要以上につくったら余ってしまうだろう。だが、ニンジンやお豆腐と違って、来年まで取っておいてもダメになるわけでもない。

「付加価値もある」と父はむずかしいことばを使った。机のデザインや年齢がかわってもサイズや高低で対応できるとが、その意味らしい。

 わたしは賢くなる。自分の口で付加価値と言ってみる。明日になれば忘れているかもしれない。

 ひとつの本が生まれる。みんなが読んでいる。また読みたくなるまで取っておく。包丁のように研ぐ必要もない。いろいろ勉強などで頭をつかうと内容を忘れてしまう。忘れないためにはノートに書いて、家でお母さんにも確認してもらうといいと先生は言った。先生とわたしと母は、同じルールの下で文字を書かなければいけない。それを困らない程度に教えてくれるのが学校なのだろう。わたしはひとりでお遣いに行った際に、おつりを計算できなければいけなかった。レストランでいくらの値打ちがあるのかも、いずれ知らなければならないだろう。欲しいものかどうかの質問も具体的にできなければならない。選別や選定と父はいった。メロンを三人で食べるには頃合いの計算も必要だった。弟や妹が生まれれば、四等分できるんだなと勝手に考えたが、そんなに食べるには赤ちゃんが随分と大きくならなければ無理な話だった。


最後の火花 57

2015年04月27日 | 最後の火花
最後の火花 57

 わたしは服のボタンを外される。ひとつひとつの丸がボタンホールから解放されるたびに緊張度が高まる。わたしは男性の前で裸の身体をさらしたことがない。海外のビーチでは海に入るときに女性も裸が許される地域もあるそうだが、わたしはしないだろう。いや、雰囲気に流されるかもしれない。簡単に。

 寝そべっている。へんな格好をさせられて女性になった。保健室に連れて行ってもらわなければならないほど痛かった。復讐を誓う。

 わたしは今頃になって、あのドッジ・ボールの日を思い出すとは意外だった。気恥ずかしさとその後の一体感が似ていたのかもしれない。わたしは家に帰り、丁寧に身体を洗ってベッドに横たわる。何だか、まだジンジンとしていた。最初という段階はいつでも大変なのだ。わたしは前の彼のことを考えている。彼も同じことをわたし以外の別の誰かにしているのだ。そのひとはわたし以上の痛みを感じるべきなのだと考えている。わたしは感じなくてもいい嫉妬をわざわざ再燃させている。どこかに逃げ込むように本を開くことにする。

 少女がアジアで大人になる。ラマンという小説が本棚にあった。わたしはそれを手元に寄せる。罪という感覚も快楽の耽溺のどちらもない。感情はもっと先になって働かせればいい。いまはこの皮膚がある身体での体験が最重要なのだ。分析も反省も若さには不釣り合いだった。だが、もうわたしには二度目というものしかのこされていない。二度目も五百回目もそう大して変わらないだろう。ゴールのテープを既に切ってしまったのだ。封も開けられてしまった。風船はあとはしぼむだけ。いや、空中に舞いあがるだけだ。

 彼から数日、電話が来ない。わたしは心配になる。どこかで失敗したのだ。違う。彼が失敗したのだ。これも正解ではない。ふたりとも初心者だったのだ。余裕も、遊びもいまはなかった。ただ必死に挑んだだけなのだ。

 学校に通っている。わたしは周囲を見渡す。誰かに勘付かれるかもしれない。誰かに気付いてほしい。その両端に気持ちは揺れている。もう複数の男性とそういう関係をしている子もいた。彼はわたしのことを友人に話してしまっているのだろうか。わたしは、対面したときにどういう表情をすればよいのだろうか。まとも、という中途半端なことばを自分に当てはめようとしていた。

 最初の機会から時間が経つ。彼は忘れてしまったかのように同じ誘いをしなかった。大切にされていると思いながら不安もある。魅力がなかったのか? どこかに欠点や欠陥があったのか。実際に問い質すことはできないが、しばらくして二度目があった。

 特別なことではなくなる。本を読むのと同じように習慣という範疇に移行する。譲り渡される。回数というのは勘所に通じる。彼は依頼する側で、わたしは頼まれたことを実行する。反対はまだなかった。

 本の世界はもっと美しく、もっと盛り上がりや激情があった。これが芸術という姿が放つ凝縮された結晶なのかもしれない。現実は汗と眠気と疲労があった。どちらにしろ喜びも奪い去られなかったのだが。

 彼の家に呼ばれる。放課後に、それをする。親はいなかった。わたしはまた制服を着て駅まで見送られ、電車に乗って帰った。その途中で前の彼とばったり会った。彼も女性といた。きれいに化粧をしている。年上という感じだった。わたしは自分が随分と子どもっぽいと認識する。だからといって急に変われない。

 彼は気恥ずかしそうに離れていった。無関係になりたいと思いながら、願わなくてもそうなることは薄々知っていた。いつか会わなくなり、名前すら思い出せなくなるかもしれない。

 家にはもう両親がそろっている。わたしの顔をみて怪訝そうな表情を浮かべた。彼らも知っているのだ。だが、わたしは大人にならなければならない。将来、自分も家族をもつようになるのだから。

 わたしはこれぞお説教という時間を設けられたことがない。基本的に約束事を大幅に踏み外すことができないタイプだったのだ。隠し事もなく、ウソもない。少なくともいままではということになる。

 父はウイスキーのグラスを片手に部屋にこもった。レコードをかける。大人の男性も段々と少年にもどる。趣味に没頭して、家族のことを忘れる。母はそのことを責めなければ、気にもかけていない様子だった。母は絶対に父でなければいけなかったのだろうか。わたしが生まれたので、正しい選択としか思いたくもない。父はスピーカーの再生音といっしょにアコースティック・ギターを爪でひっかいている。会社では充足できないなにかがあるのだろう。わたしも学校や、そこにいる友人だけでは満たされない何物かがあった。

 ストーンズのアンジーという曲がかかっている。そのギターを父も弾いている。母は、都々逸だと評した。幼いときに耳にした祖父のしわがれた声。それにそっくりらしい。わたしは鼻歌をうたいながら本を仰向けになって読む。記念日も刻印もないただの一日が増える。わたしは大人になってしまう。なにが起きても動揺もしない、びくともしない大木のようなおばさんになってしまう。


最後の火花 56

2015年04月24日 | 最後の火花
最後の火花 56

 学校で身体測定がある。身長が伸びて、体重も増える。学校ではお姉さんやお兄さんがいる。六年生になれば、もっと大きくなるだろう。ランドセルが不釣り合いな体型の大きなひとたち。成長とは牛乳の量でもあるらしい。わたしはあまり好きではない。

 同じクラスのいちばん大きな男の子と、いちばん小さな女の子の身長差はもう随分とあった。フェアとか公平というのが大事だと、いつもお父さんはいうが、この状態をどう説明してくれるのだろう。

 わたしは家に帰り、ガリバー旅行記を読む。加藤さんはトマトジュースを飲んでいる。わたしはこれも好きではない。大きくなり過ぎると、いろいろ面倒が起こってしまう。だが、挿絵のコントラストがおもしろくてずっとそのページを開いたままにしている。

「つかまっちゃったのね」と加藤さんは家事の合間に絵をのぞく。わたしはおやつを食べながら首だけでうなずいた。

「学校でも大きい男の子と、小さな女の子では、同じ学年だとも思えないぐらいになってる」
「遺伝かしらね?」
「遺伝って?」
「親譲り。みっちゃんのパパは賢いから、みっちゃんも本が好きになるとか」

「顔、似てないよ」
「似てるわよ。余分にママに似てるけど」

 すると母がもどってきた。わたしは顔をじっとみる。
「どうしたの、なんか付いてる?」大人はすぐにそういう会話の仕方をする。

「わたしが似てるって、加藤さんが言ったから」
「それは似てるわよ、親子なんだから。お腹痛かったんだから」

 母は自室で普段着に着替える。顔だけが外出のままの姿でのこっている。
「似ない部分もあるんでしょう?」
「あるでしょう。時代とかが違うし、もっとお勉強も頑張れば、ずっと頭の良い子になれるのよ」
「悪いことしたら?」
「どっちにも似てないことになる」

 親からコピーされることもあるが、本物と贋作に必ず差があるように、絶対に一致しない。そもそも父と母の成分をひとつに混ぜ合わせるという不可解な行程が加わっているのだ。でも、わたしはどうやったらふたつのものが重なった自分になれたのだろう? これが愛?

 分からないから訊く。父が口を酸っぱくして言うことだった。分からないことは知っているひとに必ず訊きなさい。恥ずかしいことではない。訊かれた方は頼られたことで満足するのだと。

「ところで、わたしはどこから来たの?」

 父は困ったような、むせたときにするような表情をした。母はついにこのときが来たという顔をする。

「若い男性と若い女性が知り合って、お互いのことが好きという頂点に達すると、ある日、お腹のなかに小さな卵を作ってもらえるの。それから、一年近く経って、男の子や女の子が生まれる」母は能弁だ。

「卵なの?」
「卵とはちょっと違うんだけど、卵なのかな、やっぱり」

 なんとなく腑に落ちない。でも、これ以上、追求してはいけない気もした。お互いが好きになるということが大切な前提条件らしい。わたしにも対象が見つかるのだろうか。

 運動が得意な子。責任感のつよい子。弁の立つ子。質問されるともじもじしちゃう女の子。いつもは元気なのに朗読になると小さな声になる子。でも、最初に愛があった両親がいる。

 わたしはガリバーのつづきを読む。お父さんが見ていたサーカスの映画には不思議なひとびとがでていた。でも、最初に親同士の愛がある。愛は似たような大きさのひとにしか感じないのだろうか。どこかに惹かれる要素がある。まだ、わたしには早いのだろう。

 ガリバーは今度は自分が小さな人間になってしまった。周りが大きいからだ。あの大きな男の子と小さな女の子の見る世界も異なっているのかもしれない。でも、身長がどれだけ伸びるかなど誰も決められない。大きなひとが有利になるスポーツもある。大きなことで不利になることなど、どこかにあるのだろうか。

 夜中、お腹が痛くなって目が覚める。卵の夢を見ていたからかもしれない。誰かがおへそから卵をつめこんだ。わたしはおへそを触る。大丈夫、閉じてある。兄弟がいっぱいいる子もいた。卵をお母さんはたくさん入れられるのだ。だが、あの子にこのことを訊いたら恥ずかしがるかもしれないのでやめておこう。

 次の日は体育の時間があった。ドッジ・ボールが顔にぶつかって倒れてしまった。しばらくするとわたしの周りにひとが集まってくる。昨日までのガリバーの挿絵を思い出す。わたしは大げさに担架に乗せられて保健室に運ばれた。

「運動、苦手?」と保険の先生が訊く。白衣がとても似合う輝くようなきれいな先生だった。
「得意だけど、ぼんやりしてたから」
「じゃあ、今度はぶつけ返してやりなさい」
「そうする」

 わたしはリボンの結び目を直されて部屋を出た。いま帰れば着替えにまだ間に合う。給食もいっぱい食べて、あの子に強いボールを投げられるようになる。だが、いまは鼻が痛かった。なんで、あんなに油断していたのだろう。よく眠れなかったからか。手を洗って顔を拭いた。

 教室に入ると、みんなが心配した顔をする。わたしは笑って平気なことを示した。投げた子は謝ろうかどうしようかと考えている様子だったが、結局、謝らなかった。言いつけてもいないが、その子のお母さんが家まで謝りに来た。わたしは手土産のお菓子を食べる。加藤さんもいっしょに食べた。


最後の火花 55

2015年04月24日 | 最後の火花
最後の火花 55

 なんとなくという簡単な気分だけで彼と別れてしまった。その選択に深い考慮などがあったかも分からない。ただ、周囲には失恋の歌や本がたくさんあった。その誘因となるひとつをわたしも簡単に増やして、付け足してしまった。

 好きじゃなくなったわけでもない。いっしょにいたかったと思っていた。どうして、こんな結果になってしまったのだろう。でも、終わったことは終わったのだ。わたしは終わりを告げる手紙を書いてしまった。返事もないから了承なのだろう。わたしは若く、何事にも回復力があった。

 別れた彼のうわさを聞く。以前とまったく様子が変わらないそうだ。すると、わたしという存在があってもなくてもよかったことになってしまう。それもまた悔しかった。

 わたしは本を読む。失恋の本を探す。天の夕顔という理不尽な本があった。片思いをつづける男性。その気持ちを受け入れたが先延ばしにする女性。でも、親密な、濃密な感情の交差がある。男性が可哀そう過ぎて泣く。彼にもこれぐらいの未練をもってほしいとも思うし、実際、そうなったらこわいだろう。

 わたしは安定しながらもどこかでこころのバランスを失っている。安定に不ということば足せば簡単に不安定になった。わたしは、その不をつけたり外したりしている。

 何度か偶然、彼に会う。相変わらず、格好いい。彼の好きだといった感情はどこに消えてしまったのだろう? 燃えカスのようなものがどこかにのこっているのだろうか。わたしより可愛い彼女がもういるんだろうか。その子におもしろい話をしてあげているのだろうか。わたしには小さな嫉妬があった。だが、表面はそんなことをかくしてにこやかに挨拶する。

 しかし、別れてからわたしの人気が上昇した気もする。恋は偉大なのだろう。ひとりの女性の成分を麗しくした。わたしはまた本に顔をうずめる。

「最近、長電話すくないのね?」と母が無頓着に訊く。返事に窮していると、「ね、かかってこないよね?」さらに追い打ちをかける。
「うん」
「別れたの?」
「ま、そういうこと」冷静にこたえたが、そういう質問をすることに腹が立ちながらも白々しい気もした。

 わたしはお風呂場で泣き、自室でも泣いた。そういう女性っぽさが醜くて、みじめでキライだった。そう思ってもどんどん泣けた。

 わたしは彼の家に電話をかけて直ぐに切った。その意味のない行動をしないことには生きていけなかった。写真を出してはしまった。わたしは幸せそうだった。数週間前のわたしは。

 だが、ある日、この真剣さが消えていった。いや、ちょっと違う。薄まっていった。外も春だった。自転車を漕いで桜並木を突っ走った。家に着くと、ヘッドホンで音楽を聴いた。失恋の効能は別れの曲がこころの深くまで浸透することだった。わたしは大人になりかけなのだ。たったひとつの恋がうまくいかないぐらいで、なんだというのだ。わたしの価値が減るわけもなし、かえって魅力が増すぐらいに考える。わたしは負け惜しみも覚えていく。

 学校の友人が恋をしている。写真を見せられる。その男性の友だちを紹介してくれると言う。同じ部活を頑張っているそうだ。汗と友情の関係。無下にして、断る理由がひとつもない。今度、会う予定が立てられた。わたしは服装を選ぶ。これはあの彼がほめてくれたものだと認めざるをえない。過去の体積が増えていく。

 わたしは写真だけで知っていた男性に会った。同じ年齢の高校生。徐々にとか、段階を経て好きになるということが不可能な状況だった。なんだか、最近、気になってというもやもやした感じも与えられない。スーパーでどちらのニンジンの方が見栄えが良いと判断するような安易さだった。これも、別れたわたしが経験する段階なのだろう。

 結局、ふたりで会う予定ができた。デートという神聖さも神々しさもまだ感じられない。手探り。試着。返品。そうした営みを通過して本物になっていくのだろう。

 ふたりで会うようになってから何回目かにキスをされる。ふたり目。通算。数というのは正直だった。引き寄せあうというのは磁石と砂鉄だった。磁石にくっつくクリップのようなものをわたし自身として想像する。数秒後に磁力がなくなる。わたしは目を開く。胸の鼓動が速くなっていく。

「きちんと付き合うことにしたい」
「わたしは、もうそうなってると思っていた」本音ともウソともどちらとも呼べない返事をわたしはしていた。

 わたしは失恋の本を閉じて、恋がはじまる本を読もうとする。探しあぐねていると、父の部屋から流れるレコードの音が聞こえる。コレクションを望んでいたわけでもないのだろうが、母が疎んじるほどレコードの種類が揃ってしまっていた。

 わたしは、その音に合わせてハミングする。「ハロー・ヤング・ラバーズ、かかとに羽をつけて」と男性が低音で唄っている。わたしは前の方がより本物の恋のようにも思えていた。だが、新しいものも不満ではない。もっと先になれば比べることも忘れてしまうだろう。きっと。
「ご近所迷惑になるわよ」と母が父かわたしが飛び跳ねる音のどちらかに向かって言った。


最後の火花 54

2015年04月23日 | 最後の火花
最後の火花 54

 親友と離ればなれになる。友だちの転校が決まったのだ。住む場所を変えるということを本当に理解していたかといえばそうではない。わたしはずっとここに住むことになるだろう。だから、理由を訊いた。お父さんの職場が別の場所になるのだ。反対することも考えられないほど、友だちは無力だった。最後にプレゼントを交換する。彼女はわたしに一冊の本をくれた。わたしはその本を抱えて歩きながら泣いていた。その涙の理由も本質的には分からない。さびしいとか悔しいとかがいろいろと混じり合った複雑な感情のふたが開き、涙となってあらわれたのだろう。

 母はいなかった。わたしは加藤さんのエプロンにつかまって最後の涙の仕上げをする。間もなく、おやつを食べて少し落ち着いた。

「新しい友だちができるわよ」と、帰ってきた母は素っ気ないことを言った。いっしょに悲しんでくれた加藤さんとは受け取り方が違うらしい。

 わたしは自分の部屋で本を読む。

 主人公は騙されて幽閉されてしまう。正義を知っている身にとっては、間違いなく応援してしまう。裏切った者たちをとっちめてやりたいと思い、恵まれた環境に戻ってほしいと願った。原始的なよろこびが本を読んで満たされる。わたしは夢中になってしまいプレゼントをしてくれた子のことをつい忘れてしまっていた。

「お父さん、職場変わらないの?」
「どうして」
「お友だちのお父さんが転勤になったのよね」
「そうだったのか、残念だな。お父さんも若いときはいろいろ廻されたけど、いまはもうないな」

「どうして?」
「どうしてなんだろう。会社の社風かな。若いときにいろいろ見ておくようにとか」
「お母さんもいっしょ?」
「いっしょのときもあったのよ」
「加藤さんも?」
「加藤さんは、光子が生まれてから来てもらっているから」

 父と母は、別の場所にいた。ふたりは誰がつくったご飯を食べていたのだろう。

「どんな本だったの?」わたしはプレゼントを交換したことを告げていた。それから、大体の内容を話した。
「岩窟王か」と父は言う。

「古い呼び方」と母は訂正するように言った。わたしは、どういう意味だか分からなかった。父はそれについて説明する。世の中の外国語の本はふたつの言語を操れる誰かによって日本語に直されたものらしい。

「そういう職業も立派だぞ。光子も頑張るか?」と父は嬉しそうに訊く。

 わたしの頭は混乱する。ふたつのことばを持っていたとしたら、どっちで咄嗟のひとことを言うのだろうかとか、ことばをふたつ使える分量の箱であたまはいっぱいになってしまわないのだろうかという心配があったからだ。

 ご飯が済んでみんなでニュースを見た。殺人事件があって、内縁の妻という表現が使われていた。容疑者は前科一犯だった。母は顔を背ける。女性には男の子がいて、無事保護されたと無機質な声が伝える。

「どうなるの?」
「親戚のところか、祖父母のところとか、なければ施設だろうね」
「お小遣いは?」
「さあ、どうなんだろう」
「もういいから、お風呂に入って寝なさい」と母が言った。その後は円がどうとか、天気がこうとか話していた。

 わたしは珍しくお父さんと入る。

「翻訳って、さっきのお金の話に似ているの?」
「そうだな。世界ではアメリカが発行しているドルというのが基準になっている。その一枚を出すと、いくらの円に交換できるかという仕組み。そのまま交換しないでドルがつかえる国もいっぱいあるんだよ」

「なんで、基準なの?」
「いちばん安定して、しっかりしているからかもしれない。背骨みたいなもんだ。これがなければ、足の骨も腕も無意味になってしまうからな」
「でも、前後するんでしょう?」

「そうだよ。ことばが変わるように、お金の価値も戦争でも起こってしまえば、無価値になる危険もあるよ」
「銀行には何枚あるの?」
「お父さんも知らない。お母さんが通帳を握っているからね」と、父は笑いながら言った。

 わたしはお風呂から出て、母にタオルでくるまれる。無事保護される、と小声で言ってみた。もし、お母さんが死んでしまったら、どうなるだろう。誰がわたしの身体を拭くのだろう。

 わたしは無実なのに、牢屋に入れられたひとの本のつづきを読む。世の中にはそういう可能性もあるのだ。根絶させるのが警察の役目でもあり、間違えるのも警察の役目なのだろう。

「目が悪くなるから、もう寝なさい」父が部屋をのぞきに来る。わたしの部屋の電気を消すと、ふたりはいっしょの横の部屋に入った。

 友だちはわたし以外のひとと親しくなるかもしれない。そして、わたしのことを忘れる。電話を活用するほど大人になっていなかった。どこかで大人になってからまた会えるかもしれない。そのときまで、この本を大切にしようと本棚に並べた。

 朝になる。父はもういなかった。代わりに加藤さんがやってくる。母は封筒を差し出す。加藤さんはうやうやしく受け取って、バッグにしまった。あれがお給料というものだろう。なかはドルかもしれない。

「加藤さんは転勤しない?」
「どういうこと?」
「光子のお友だちのお父さんが転勤してさびしいのよね」
「さびしいって、とっても大事なことなのよ」と、愛用のエプロンを身体に巻き付けながら加藤さんはきっぱりと言った。


最後の火花 53

2015年04月22日 | 最後の火花
最後の火花 53

 わたしは彼と待ち合わせをしている。数分だけ遅れる。男性は化粧の分だけ時間がかからないので、これぐらいはよしとする。彼は駅のベンチにすわって本を読んでいた。彼の名前を呼ぶと、目を上げてうれしそうな表情をした。その途端に直ぐに本をジーンズの後ろのポケットに無雑作にいれてしまった。青い表紙。

「なに、読んでたの?」
「ふて腐れた男の子の話」彼はまた器用に後ろに手をまわして、つかんだ本のタイトルを見せた。
「ホールデン・コールフィールド」
「知ってんだ?」
「お父さんが好きだから」

「親と本とかの話をするの?」彼は信じられないという表情をする。
「するし、家にいっぱい買ってもらった本がある」
「一度、行ってみたいな」彼は何気なく言った。ピンチはチャンスである。
「世の中に不満があるの?」わたしは話題をさらっと変える。「そんな風に見えないけど」

「ないと思えばないし、あると思えばあるんじゃないの」他人事のような口振りだった。彼はじっとわたしの顔を見る。今日は日曜日だった。いつもの放課後は化粧などしていない。「ないと思えばないし」

 彼は歩き出す。大きなポケットには本がある。もう片方にはお財布がある。そして、手ぶらだった。わたしは彼の前後に揺れる腕をつかまえた。

「怒んないの?」
「なにを?」
「遅刻したから」
「そうだった」彼は駅の時計を見る。まだ数分しか経っていない。「これぐらいならね」
「どれぐらいまでなら許す?」
「ひとによるよ」

「わたしなら?」
「一時間ぐらいかな」
「そんなに?」
「え、多いの? 少ないの?」
「長いか、短いかだけど、長いよ、とっても」わたしには一時間待たせる価値があった。魅力もあった。だが、与えられた境遇にあぐらをかくということは常に悪であり、不正直だった。

「同じぐらい待つだろ?」
「待たないよ」わたしの返事に彼は不服な顔をした。

 緊張感となれ合いの狭間にいた。わたしはドキドキを失いながら安心を得る。最終的には無頓着まで進んでしまう危険があるが、そこまではいかせない。だから、うまくもないのに丁寧にお化粧もしたのだ。

 彼は吊り革につかまり、わたしはその腕をつかんだ。顔が近くにある。ひげがある。違う。剃られたひげの痕がある。さわってみたい。電車のなかでいちゃいちゃするのはどうかなとも思う。彼は窓の外を見ていた。あたまのなかに侵入して考えていることをのぞいてみたいと思った。

「え?」彼が振り向く。ひとつの音でわたしのこころはざわめいた。
「なんでもないよ」
「くち、ちょっと動いたよ」
「え?」
「それ、くせ?」

「分かんない」はっきりとした否定ではないが、本心を確かめるように彼はじっとわたしの目をみる。彼はきれいなまつげをしていた。わたしは加点をしている。彼は減点方式を採用しているのだろうか。どうでもよいことを考える。

「ずっと関係がつづけば、明らかになるけどね」
「そうかもね。そうだ、あの本ね、不満があるから、妥協をしたくないから物語はすすんでいくんだよね」
「観察もなかったら、世間と自分の差も分からないから」

 乗換駅に着く。階段をのぼる。ずっと、というものの感覚を彼はどのぐらいの時間と定義しているのか教えてもらいたくなった。一時間待つ、ということは随分と気長だ。わたしの二十五才や三十才はずっとという範疇に入っているのだろうか。彼はジーンズがまだ似合う年頃なのだろうか。

 目的地に着いた。多くの若者がいる。だが、わたしは彼を選んでいた。反対かもしれない。選ばれていた。彼といっしょに甘いデザートを食べる。彼の本はわたしのバッグにいれてあげた。窓の下にはたくさんのひとがいる。比較も点検もなく、ただわたしは幸せだった。誰かといて自分の幸福感がふくらむということを知った。となりのテーブルには横柄なおじさんがいて、この幸せな気分を台無しにした。彼もいつか、ああなってしまうのだろうか。

「若さだけが大事だとも思えないけど」彼は小声で言う。「自分が偉いとか思った時点で、人間は終わりなのかもね」わたしたちは外に出る。たくさんの若者がいる。流行というものを通過して、かつ遅れることに怯えている。歩幅が流行とともにあるという実感が欲しかった。その割にふたりとも古臭い本を読んでいた。

 父の会社のロゴが見える。彼はどういう会社に入るのだろう。本を書いてくれて、わたしだけが読むということに憧れた。両親はそんなことには不満だろう。彼のお母さんはどういう方かしら。わたしは加藤さんを想像する。すべてを手早くこなす能力をもっているひと。わたしは好かれようと強く願いつづけ、結果、唇の端がゆがんでしまう予感がした。

 はぐれないように手をつなぐ。あの本の妹の名前を思い出そうとする。実際に名前が書かれていただろうか。彼に今度、訊いてみよう。

 わたしはバッグの本を別れ際に渡しそびれてしまった。今度、会う時に返さないといけない。彼はつづきが読めない。どのぐらいまでなら待ってくれるのだろう。わたしは、どれぐらいまでならまた会うことを待てるのだろうか。


最後の火花 52

2015年04月21日 | 最後の火花
最後の火花 52

 わたしはピノキオを読んでいる。人形はウソをつくと鼻が伸びた。わたしは口の端が子どもに似つかわしくなく、すこし歪んだ。どんなささいな変化もあらわれないように願ったが、表情はこころや意志に反して動いてしまう。残念なことに。

「小さなウソをつくと、あとで大きなウソをつくことも厭わなかったり、大泥棒になってしまう」と、母は言った。論理の飛躍ということばを知らなくても、わたしはそれに似たものを感じていた。

 ピノキオは木製の人形がほんものの男の子になる物語だった。まじめに暮らしさえすれば。だが、たくさんの誘惑があり、彼は常に負けてしまう。そこが可愛さの根幹だとも思える。レールからはみ出さないことで得られるものと、楽しみやチャンスを奪われることを天秤にかければ、彼の失敗にも納得させられる。そして、彼に訪れたトラブルこそが物語を発展させる基盤でもあった。

「屁理屈」と今度は父に叱られる。父は常に居丈高にならない。一度も見たことがない。しかし、そうすることすら頑固におもえるときもある。感情に揺さぶられてしてしまう失言など父にはないみたいだった。

 学校では大体がウソをついている子たちで満ちていた。あとあとの計画のためという賢い子もいれば、自分のウソであとで困るのを体現する子もいた。自分の発言に首をしめられる。ほかにもウソ自体を忘れ、「そんなこと言っていないよ」という一点張りで主張を肯定して、最後は苦し紛れに泣いた子もいる。素直な子は数人だけいた。もっとよい特徴として絶対にウソも悪口もいわなかった。先生は、「稀有」というむずかしいことばを使って誉めた。わたしはいつものように口の片側を歪めてしまった。

 小さなウソは小さなウソ以上のものにならず、世の中を覆そうという大それた考えもない。わたしは人形の波乱万丈の人生を楽しむ。もうそれは人形の領域をはるかに越えていた。

 おじいさんは一心に愛情を注ぐ。こういう立場にならなければ愛情などというものの本物さを打ち出せないのだ。老齢になり、欲も減り、がむしゃらさも消え、次の世代にものや愛を与える。

 わたしは母の母からお小遣いをもらう。母にも子ども時代があったということを理解するのは容易くなかった。母もきっとウソをついた。万が一、クラスの数パーセントに属すのだったら、わたしの母には相応しくないのかもしれない。

 わたしはぬいぐるみを手繰り寄せ、彼らの物語をつくってあげる。だが、最後にはいつも決まって閉じた口の片方を指で斜めに曲げてしまった。彼らにも秘密があった。わたしはそのひとつを布団の裾をまくり、まるでクジラの大口に見立てて呑み込ませる。彼は苦しみ、やっと飛び出した。わたしは抱きしめてあげる。その瞬間に、父がドアを開いた。

「どうしたの? 寝ないとダメだよ」
「クジラの口からでてきたから、慰めてあげた」
「どれどれ」父はベッドの横にすわる。それからぬいぐるみを抱えた。「潮水をいっぱい飲んだのかな」
「少しだけ」

 わたしがそう言うと、父はわたしを寝かせてからそのぬいぐるみも横に置いた。壁の電気を消して、薄くドアを開いたまま出ていってしまった。

「クジラのなかって、どんなの?」わたしは答えも用意する。浮き輪や小さなボートもクジラは呑み込んでしまっていて、彼はそれらに掴ったり、乗ったりして平和に過ごしたそうである。

 朝になる。冒険に出てみたいなという気持ちがあるが、ランドセルを背負って学校に行かなければいけない。加藤さんが買い物かごをぶら提げて朝からやってくる。大根が数本、見えた。

「なに、つくるの?」
「ブリと大根。イカと大根にしようっか?」
「お父さん、ブリが好き」
「じゃあ、そっちだね。早く、帰ってくるのかしら」

 加藤さんの旦那さんは、どんなものを食べるのだろう? 全然、別の物をふたつの家族のために用意する苦労を考える。ふたつも学校に行かないとしたら? ふたつの給食を食べないとしたら。すべてが大変だった。

 学校の通学路の途中で友だちに会う。昨日のテレビ番組の話をする。わたしは見ていなかった。その時間は母と食卓にいて加藤さんのつくった料理を食べていた。

「加藤さんは、クジラも食べるのよ」
「あんな大きいの?」
「小さく切ってね」
「なかにピノキオいるかな?」
「なに?」

 わたしは説明をする。母は知っているのか知らないのかどちらともとれない表情をしていた。
「というクジラが活躍する話」
「ピノキオは良い子になるのね」
「愛情をたっぷり注がれて」
「じゃあ、光子ちゃんもそうなってくれるのね」
「なってるよ」
「そうね」

 おかずはブリだった。母は骨をとるのに難儀している。一本もないように取り除いてくれているはずなのに。父も帰ってきて、ビールをお供にして食べていた。わたしがビンをにぎって注ごうとするといつも叱る。そういうマネははしたないそうである。わたしは将来、旦那さんに手の込んだ料理を作ってあげようと誓った。男と女の役目がどうとかむずかしいことは考えないことにする。父は加藤さんの料理に満足していた。


最後の火花 51

2015年04月18日 | 最後の火花
最後の火花 51

 わたしは本を読んでいる。朝、起きると一匹の虫になってしまう主人公。本にしおりを挿む。今日はデートがあるのだ。仕度をして玄関を出る。犬の頭を撫でる。

 彼がいる。告白されたから好きになったのか、それとも、告白がきっかけになったとはいえ、彼のことがその前から好きだったのだろうか。わたしは主導権を握るはずだったが、告白されてしまった。

 十代の若者。胸もお尻も女性とは違う。わたしは彼のお尻をつねってみたいと思う。だが、そんな真似はしない。彼は楽しい話をしてくれる。わたしがいることで彼は幸せになる。おそらく、そうだろう。

 好きでいながらわたしは彼の何を知っているのだろう。身長、体重、視力、家族、兄弟。何も知らない。いや、いくらかは知っている。反対にわたしのことをどれほど知っているだろう。サイズとして。色彩として。

 彼にキスをされた。うれしいという感覚が確かにあった。湧き上がった。明日の朝、虫になっていないといい。わたしの女という物体が彼によろこびを与える。どこか遠くにわたしと瓜二つの女性がいたとしたら、彼はそのひとのことも好きになってしまうのだろうか。どこかに似ている女性がいるのかもしれない。そのひとは幸福なのだろうか。外見の相似は幸福感も似通ってくるものだろうか。

 彼は家まで送ってくれる。彼に抱きしめられる。大きな樹にしがみついているみたいな気がする。彼の樹液を吸う。お風呂に入って眠る。朝、虫になっていないといい。

 わたしは料理ができるようになった。自分でお弁当をつくって持っていく。学校は女性ばかりだ。わたしは彼のことを友人に話す。その友人が頭に浮かべるのは、どんなにわたしが丁寧に根気よく説明したとしても、会わない限り別人のようにも思える。だが、なんとなく会って欲しくない。彼がわたしのことを好きな気持ちは変わらないと思うが、ほんとうのところ友人のことを魅力的と判断するかもしれない。

 わたしは彼と夜の町を歩く。手がつながっている。少し、汗をかいている。彼が買ってくれたジュースを公園のベンチにすわって飲む。この場所のことを一生、忘れないんだろうなと考えている。彼も同じ気持ちであるといい。

 彼と長電話をして母に叱られる。あのひとは無口だと思っていたが、そうではなかった。彼はわたしの話を素直に聞いてくれる。口があって良かった。電話を切る。あっという間に時間は過ぎてしまう。次に会うときの洋服を選んでみる。交互に重ね合わせて理想の自分を探す。わたしの体内の成分や組織表が変わってくる。わたしはもっと好かれたいと願っていた。あれほど、自分に主導権があると思っていたのに、彼の一挙手一投足で気分が一変してしまう。個人の確固たる位置など不変ではないのだ。つまり、わたしは恋をしている。

 彼も恋をしている。わたしたちの誕生日は数日しか離れていない。自分たちが同じ病院の保育器のなかにいることを想像してみる。彼はわたしの横で寝ている。ある日、おっぱいを飲んでいる姿を見て可愛いと思いながらも嫉妬している自分を感じる。しかし、会ったのは数年前で、きちんと付き合うようになったのは最近のこと。わたしは何人かに告白される。自分からしたことはなかった。能動的とか、主導権とかずっと思ってきたのに、その誓いは簡単に破れた。お姫様は待っていてはいけないのに。

 母はドラマを見て泣いていた。父の帰りは遅かった。彼は将来、どんな仕事をするのだろう? ゴルフなんかもはじめてしまうのだろうか。あのままの若い元気な彼のままでいてほしい。

 冷蔵庫を開けて飲み物を探す。バスタオルで頭を乾かしながら、母の横でドラマを見る。泣けるような内容ではなかった。涙腺というのは、どうも年齢とともに緩んでしまうらしい。彼は泣いたことがあるのだろうか? お姫様を探す気でいるのだろうか。

「歯をみがいてから寝なさいよ」
「やめてよ、子どもじゃないんだから」

 わたしは鏡に向かって歯をみがいている。この唇は半分は彼のものになってしまった。いつか、キスが上手だと言われる。だが、それはふしだらな証しのようにも感じてしまう。

 父が帰ってきた。階下で犬が鳴いている。わたしはベッドに寝そべり、本を伏せた。理不尽なまま主人公は変身後の姿で終わる。ハッピー・エンドという厄介なる希望は忘れられた。わたしには幸せしか訪れないと考える。

 次に会える日を予想する。わたしは布団から手を出し、唇をそっと指でなぞった。彼はわたしのことが好きらしい。この唇も、この背丈も、わたしの笑顔も全部、好きなのだ。そう考えているうちに朝になっている。目覚ましをとめ、鏡を見て虫になっていない自分に安心して、もう少しきれいになれそうなのだが、と無理に自分のこころを納得させる。

 もっときれいになったら、もっと好かれるのだろうか。彼はいま現在のわたしが気に入っている。だとしたら、変化というものがいちばん怖くなった。


最後の火花 50

2015年04月17日 | 最後の火花
最後の火花 50

 わたしは本に育てられた。自分の部屋の四つの壁には本が並んでいた。もちろん、その本棚の隙間にはぬいぐるみなんかもあった。両親は、どちらも本を読むことが好きで、わたしもその能力というか嗜好を受け継いだ。そのわたしの物語。

 最初は王子様と女性が出会う。お姫様候補。その対象は常に受け身であった。わたしはその境遇を好ましいものだとは思っていない。選択権は女性にもあるのだ。わたしは幼い時から、表面には出さなくてもそうすることに決めた。わたしは選ばれる側ではなく、選ぶ側にいるのだと。

 ある日、ジャンヌ・ダルクという勇者を知る。わたしは、スカートを履いている。自分もズボンを履いて馬にまたがり戦場に立ちたいと思っていた。勇敢な人間。だが、わたしは着飾られることにも抵抗しない。いつか、自分の日が来たら、わたしはしたいことをするのだった。そして、ジャンヌ・ダルクは実在していたという事実に驚く。天秤の端には本当の話があって、もう片方には作りものの世界があった。

 母はわたしが学校から帰るといつも本を読んでいた。家事全般をしてくれる女性が通ってきていて、キッチンのテーブルにはその日のおやつが彼女によって用意されていた。わたしは彼女を観察する。そして、ここではない本当の家での生活を訊いてみる。わたしと似た年頃の男の子がいて、彼のおやつは誰が用意するのか急に心配になった。そこにも家事をしてくれるひとがいるのだろうか。とても、そうは思えない。学校のみんなも、家に別のひとがいることはなかった。

 わたしは宿題を済ませ、本を読む。母はドアを開いてわたしのその姿を確認すると、とても安心したような表情をする。わたしは母を喜ばすために本を読んでいる訳ではなかったが、新しい本を買ってくれるので文句は言わない。わたしに常に選択権があるのだ。

 父は仕事から帰るとその日の夕刊を読んだ。内容をかいつまんで話してくれる。その後、三人で座ってテレビのニュースを見るが、父の話で予習ができている結果、大体のことが分かった。だが、スポーツだけはその場になってみないと分からない。クラスの本の好きな男の子は野球選手の話を読んでいた。ベーブ・ルースはつまりは泥棒だった。

 休日は両親とデパートに行った。大きな書店にも寄ってもらう。母は自分で料理をしないのに、料理の本を買った。わたしは家でそれをパラパラとめくる。世の中には作り方を教えてくれる親切なひとが多くいることに驚いていた。わたしは秘密ということを大切にしたがった。自分だけの方法を見つけたら占有したいという感情に捉われるだろう。結局、その本はお手伝いの加藤さんのために役立った。わたしも恩恵をうけておいしい夕飯をいただいた。

 父は防音の部屋でギターを弾いている。わたしは母からピアノを習った。わたしは途中からレコードを頼りにする。母は別の先生の指導というチャンスを生んでくれなかった。自分の方法がいちばん良いと信じていたのか、そもそも、いちばんという観念すらなかったのかもしれない。やるからにはトップに立つとか優勝とかいう負けん気が母にはなかった。彼女のためにいろいろなひとが周りで働くようにできていたからだろう。

 父はたまにゴルフに行った。スコアというのは正直につけなければいけないらしい。ウソの報告はご法度だった。たまにそういうひともいて笑い話にする。

「ひとつのウソを許すと、あとからあとからその簡単なやり方になれてしまう」と父は言った。かといって父はいつも力むということがなかった。笑うだけで、たまにという周期でも怒ることはしない。学校の先生がいいつけを守らない子のことを叱った姿を見て、ある面ではうらやましく思う。わたしも大人になったら自分のことを叱ってくれるひとを探してみたいという気持ちにさせた。母は、それでも不服はないようだった。

 わたしは寝る前にベッドのなかでも本を読む。これは完全に誰かがつくった物語だ。わたしは自分の空想に入ることに決める。加藤さんの家でいっしょにご飯をつくっている。そこの男の子はわたしに優しくしてくれるだろうか。特別扱いをしてくれるだろうか。だが、わたしが決めればいいことなのだ。誰かに好きになってもらう。

 いつの間にか朝になっている。父は色の似たようなスーツを毎日、着ている。わたしが学校に行きたくない気分でも、父にはそういう揺れみたいなものはないようだった。うれしくもなく、悲しくもない。ハンカチを手渡されて母が後ろから見送る。母はそのままテーブルに座り、ぼんやりとしていた。カレンダーを眺め、美容院に行く日だとか、誰かに会うとかの約束を再確認している。わたしは大人になったら仕事もしなければならないだろう。休みたいという気分に不意に襲われたら、どう対処するのだろう。

 加藤さんがやってきた。

「光子ちゃん、もう学校に行く時間ですよ」と彼女は言う。時計を見る。加藤さんの寸分狂わない行動にいつもびっくりさせられる。わたしはランドセルを背負って靴を履く。「行ってきます」と言うと、前の家の犬が楽しそうに尻尾をふった。


最後の火花 49

2015年04月15日 | 最後の火花
最後の火花 49

 天につばを吐く。吐き捨てる。この象徴的な行為が自分にできる最後のお願いのアプローチであり、反抗の表明でもあるようだった。どこに反抗したいのかも分からない。間もなく降ってくるつばを頭にかぶるのは自分であることも知っていた。その不潔さと汚れが自分の過去だった。

 ノートがある。自分の文字か山形さんの筆跡か判別できない。それも嘘でわざとごちゃ混ぜにしている。そのなかにこうある。

「意志的練磨だけを念頭に置いてぼくは生活を送っていた。それがぼくの静かなる戦いであり、確固たる信念でもあった。信念であるから誰からも揺さぶられたくない」

 これは、どういうことなのだろう。もし山形さんのものならば、彼が語りつづけた物語の真意が無効になる。もし、自分の書いた事柄ならば、ぼくには前提として意志の力を発揮できるだけの不幸の重しが必要になっていたわけだ。引っくり返すことが許されるだけの負荷。

 さらにこうある。

「生きるとは、一日、一日、加害者になることなのだ。その脅えに屈することなく、息を吸いつづけることなのだ」やはり、これは山形さんのものなのだろう。ぼくは加害者という能動的な立場を嫌った。態度を保留させている状態こそが善だった。そもそも判断や決断という状況に足を踏み込まないようにしていたのだ。

 しかし、ぼくの本音の片鱗も見え隠れする。ぼく自身の半生を知ることに嫌悪感を抱いたひともいた。ぼくは一滴の汚染された水であり、育った葉っぱの栄養素を吸い取る虫だった。これも考えすぎかもしれない。世間はそれほどひとに関心をもてなくなるのだ。大勢で対象を踏み潰す無言の合意ができていなければ。

 ぼくの過去は新聞の無数の記事の集積のどこかにあるのだろうか。収集し忘れたゴミのようなものとして。警察に保管されている文書は母の容姿をどう表現しているのだろう。口笛を吹き、からかわれたのだろうか。蔑みの目を向けられたり、反対に同情を買ったのだろうか。

 ぼくは信ぴょう性も検証も信じていない。なにかを信じるということが不可能になった。だが、これも悲観的過ぎる。ぼくは信じ、愛するようになるだろう。誰かの助けがいるかもしれないし、個人の頑張りだけで克服するのかもしれない。未来の範疇は、未来に任せるべきなのだ。現在の、もしくは過去のぼくがすべてを判断してはいけない。未来という余白の大きさや偉大さを当面は信じることにする。

 光子は寝ている。となりにいるぼくは夜中がこわい子どもではない。だが、ぼくにも夢を見る権利がある。ぼくはあの場所にいる。山形さんと釣りをした場所。なまずの感触。田んぼのにおい。カエルの泣き声。ぼくはひとりでそこに行く。過去の記憶に挟まれながらも自由にまぎれ込んでいく。

 彼女にも彼女なりの成長を育んだ環境がある。ぼくのよりもっと幸福で、恵まれていて美しいものだろう。でも、ぼくは交換したいとも思わなかった。もちろん、取り替えることはできないが、愛着というのには長い期間、押された漬け物のように自分以外のものが加わってぼくの味となっているのだろう。味覚の根本も変わらない。ぼくはあの味噌をなつかしみ、あの空気や景色を思い出している。

 その無関係のふたりがいまはいっしょにいた。なんの配慮があったのかふたりは出会ってしまう。母はどこで山形さんを見つけたのだろう。山形さんはどこに、ぼくという厄介な存在を考慮しながらも母の魅力を受け入れるこころのすき間を作ったのだろう。

 一過性であるものが永続性という段階に入れ替わる。メンテナンスを繰り返し、理想の作業を追求する。ある地点から飛行機の自動制御のようにいつまでもすすんでいく。山形さんは墜落した。母も衝突した。ぼくは生き延びた。山形さんはなぜぼくを生かしたのだろう。殺すにも値しないほどの愛しかなかったのだろうか。

 ぼくは山形さんが放った物語を忘れる。信じることは幸福を阻んだ。最深部では幸福というのはそんなに浮かれた軽々しいものではないことも知っていた。人造の湖の底に眠る失われた都市にこそ幸福の源泉があるのだろう。だから、ぼくもあの日々にしか幸福はないことになる。

 ぼくの幸福の予兆となっているものが目を覚ます。あくびをする。体温がある。細い首が見える。絞めるなど簡単なほどのきゃしゃな白い首。ぼくはそこに唇を寄せる。

「朝から?」

 と、光子は訊く。ぼくは母の最期になった時間を忘れている。日射しは強かった。誰かがぼくの目を覆う。暗い中でも耳は機能していた。砂利を走る音。戸を開ける音。弁解のような山形さんの声もする。ぼくは彼の手紙を捨てるべきではなかったのだ。いまさら、焼却炉を覗きこんだとしてもひとかけらの灰もないだろう。母の灰もない。いや、どこかにある。ぼくは灰以上の温かな存在を抱く。未来をつくる。過去の分量より多いはずだが、ぼくは過去に芯を置いてしまっていた。三倍も四倍も未来が伸びなければ、バランスは取れないだろう。旧い分銅をつかった量りのように、永遠にそれは重さを決めかねて揺れつづけるのかもしれない。生きているものは前後左右に勝手に揺れ、母は当然、微動だにしない。


最後の火花 48

2015年04月14日 | 最後の火花
最後の火花 48

 あれから山形さんは四角い囲いに覆われた。彼は以前もそこにいたそうである。帰巣本能が充分に発達していたのだろう。彼がまだそこにいるのか、とっくに出てきているのかは知らない。ぼくらはあの日に縁を切り、そのまま元通りの他人の状態にもどった。

 ぼくは彼の意のままだったのかどうか知らないが、彼の母校である施設に入れられた。彼が話してくれた物語をぼくも教わる。何度も何度も繰り返される話。救出は近付いて、近付いたと思ったらまた去った。ぼくは小学校と中学校、さらに高校をそこから通い、ひとりで暮らすようになったのは寮のある会社に入ってからだ。

 ぼくは普通であろうとした。本当のなったかもしれない自分に憧れ、無意味な嫉妬をするようなこともあった。段々とぼくの身に付着した塗装やメッキは自然と剝がれ、あるがままの自分も受け入れるようになる。

 山形さんから度々、手紙も来たようだった。彼はぼくがいる住所を知っていた。そもそも彼がいたところなのだ。ぼくは一度も読むこともなく、封も切らずに焼却炉に放り込んだ。誰もとがめることはなかった。その場を離れてからは、自分の行為にも送り主への罪悪感なども無になり、もう悩むことはなかった。

 ぼくは寮の一室で小さな画面のテレビを見る。仕事で疲れた身体には野球のナイト・ゲームがふさわしい。彼らはある面では夢を叶えた人々だった。大人になるまでに練習の送り迎えがあり、たくさんの用具を買ってくれる両親がいることが想像される。人前に出しても恥ずかしくならないようにするには、ささやかな資本投下が必須なのだろう。ぼくは眠い目をこすり、仕事で有用になる資格の参考書を手に取った。

 結局、ぼくは誰かを本気で好きになることはなかったような気もした。恋する相手と恋する映画を見る。その暗い室内でぼくはひとり醒めていた。彼女が好きなのはぼくの本質ではなく、ぼくの皮膚で成り立っている外見の一部に過ぎないのだと判断している。あるいは髪、あるいは声、あるいはぼくの手の平の温度。

 すると、ぼくも似たようなものでしかない。彼女の若さ。カールされた髪。シャンプーの匂い。寝ぼけたときの黒目勝ちの目。甘えたときの声と触れ合う肩。

 本気にならなければと願っている。彼女がぼくに関心をもつ以上に、ぼくの思いが上回らなければいけない。ぼくは勝手にこう規定している。その調和のバランスが崩れたときに母は横たわった姿で登場、再登場してしまう。

 だが、彼女はぼくの母に似ていなかった。ぼくの愛も燃え上がらなかった。愛は育つのだという信念がどこから入り込んだのか不明だが、そうなるようなことはなかった。訪れる予感もなかった。

 しかしながら、ぼくは光子を見つける。好かれようと思いたくなかったが、こころのどこかで魅了されている対象と一致という感覚になりたかった。もちろん、きらわれたくもなかった。しばらくの間は、自分の存在が彼女のどこにもないだろうことは予測できた。ある日、彼女の目の片隅にぼくがいることが窺い知れる。小さな会釈をするようになって、きちんとした挨拶になる。さらに時間が経って、彼女の瞳にぼくへの関心が読み取れるようになった。ぼくはうれしい反面、恐怖を感じる。ぼくは、山形さんに育てられたのだ。彼の思考がぼくの全身の小さな細胞、細い毛細血管までに達していることを知る。愛は、殺意にまで通じる。愛は建設的なことではなく、破壊と同義語なのだ。

 だが、互いの欲求は密に接することを望んでいた。一致したいと願いながら相違点を探している。彼女は深い愛情におぼれながら育った。両親は最善のものを与える。奪われるということに両親は防波堤のようになって抵抗して歯止めの役割を担った。ぼくは、その頃、浅瀬もなく津波に一掃された土に缶が転がっているようなこころだった。

 うまくいく。彼女はぼくに会っても最愛のひとを探すという生涯のプランを辞めることはなかった。高く売れるときは高く売り抜くべきなのだ。ぼくという銘柄は、やましい部分があった。上場も許されていない。いつか紙切れとなってしまうかもしれない。そのウソ、あるいは真実を弁護する気も、弁解する能力もぼくは有していなかった。

 彼女に去られるのは困りながら、できるだけ早く去ってほしいとも願っていた。多少の長い短いの差こそあれ、結論は同じなのだ。

 ぼくというひとりの物語。預言があったら楽だろうと思う。子どもにとって、将来を真っ当にも狂わせることのどちらもできるはずもない。ぼくは母の横でいっしょに死んでいればよかったとも思う。ぼくの身体も血で濡れている。指も手も赤くなっている。山形さんは遠くまで逃げ去ればいい。そして、ひとりで暮らせる家を、小さな小屋のようなものを建てる。

 ここまで書いてもぼくは特別ではない。同じ場所で生活していた少年や少女たちは、もっと深い闇に放り込まれていた。しかし、比較というのは常に間違うのだ。彼らは、ぼくのことを憐れんでいたかもしれない。母は信頼をして、その信頼を裏切られたことを認識していたのだろうか。死人と話すことはできないことを知ってはいながら、ぼくは十数年、そんなことばかりをしてきたのだ。


最後の火花 47

2015年04月13日 | 最後の火花
最後の火花 47

 母と山形さんは未来のことについて話し合っていた。順調にすすめば、ぼくの苗字も山形となる可能性があった。同じく、母も山形を名乗る。この三角形であらわせる関係性をぼくは美しく感じていた。ぼくは母を喜ばすと同時に、山形さんの喜ぶ姿も見たいと願っていた。その為に、ぼくは勉強をして運動もがんばることを自分に課そうとした。

「未来のために計画を練ることはよいことだよ」山形さんは古びたグローブをふたつ探してくれた。その大きい方の革の手触りやはめ心地を何度も試していた。「突然、思いがけないことが起こっても壊れないぐらいの強固さで練った計画は」

 ぼくは手始めにキャッチ・ボールを教えてもらう。空き地はいくらでもあった。その様子を野良犬がじっと見ている。まるで若いときの運動の楽しみをなつかしがっているかのように。

 ぼくの身体は温まって汗にかわる。ぼくは後ろにボールをはじき、取り損なってかがんで拾った。音を上げるまで山形さんは一心に投げ返してくれた。

「将来、良いピッチャーになるかもな。もっと、練習すれば」

 ぼくの未来の青図が語られる。ぼくは同年代の子たちとも練習したいが、同時に同年代の子より際立った能力を手にしたかった。これも矛盾と負けず嫌いな性分の一部なのだろう。

「練習するよ」
「未来は自分で変えられるんだぞ」と山形さんは誓うように言った。「常に、被害者のふりをしてはいけない」

 ぼくは家でもひとりでグローブをはめたり、はずしたりを繰り返した。バットも手に入れ、ひとりで素振りをした。それはいつか重いボールを打ち返すための練習であり、喝采が周囲で聞こえるはずだった。未来の予測は甘かった。心配という感情がぼくにはなく、緊張も失敗もなかった。いつから、その可能性を考慮に入れ出すのだろう。一抹の不安は重大な失敗の結果となって実を結ぶ。つかみ損ねた風船のひものようにぼくの空想は限りない場所へと連れて行ってしまう。ぼくは手の平が赤くなったのを見て、そこにしゃがんだ。

「毎日、つづけることだよ、大事なことは」と山形さんが言った。彼は木材を伐る。発達した筋肉は役に立つのだ。力が大人の男なのだ。無限の物語のストックも大人に不可欠なのだろう。ぼくは彼を手本にする。その当時、越えるという観点はどこにも見られなかった。ただ、がむしゃらに近付くこと、追いつくことを願っていた。そして、大事なこととして母のような恋人や妻をぼくは見つけられるかもしれない。

「予見することができるようになる」
「なにを?」
「スポーツというのも、それぞれのクセで成り立っているから、集中して観察すれば、凡その傾向は分かるもんだよ」
「分かると、どうなるの?」

「楽になって、自分に幸運を引き寄せやすくなる」
「その通りにしようとしたり、見抜かれていると思うと緊張しちゃうよ」
「そこは、ポーカー・フェイスで」
「なに、それ?」
「平然として、相手にさとられないよう感情を押し込める」
「できないよ」
「できるようになるよ、訓練すれば。偉大なスポーツ選手は一時の感情に負けるはずもないんだから」

 ぼくは夕飯を食べている。感情を隠す努力をいまからはじめる。
「おいしくないの?」と母が訊く。
「おいしいよ」
「だったら、もう少しおいしそうな顔しなさいよ。おかわりいる?」
「うん」ぼくはお茶碗を差し出す。

「はい、どうぞ」母は笑っている。「なに、今度は。ふてくされたような顔をして」母は山形さんの方を向く。「なにか、いらない知恵をつけたの?」
「してないよ」山形さんはわざと子どものような箸使いでご飯をかっこんだ。ぼくもそれをマネした。

「もっと、一粒一粒、味わって食べなさい」
「はい」と山形さんとぼくは同時に口に出した。そして、三人で笑う。感情を押し殺す挑戦は、ご飯以外のときにすることに決めた。

 この映像が最後の団欒の記憶としてのこる。翌日、母は命を止めた。山形さんは数人の制服姿のひとに連れて行かれた。ぼくはこの家の居住権を主張するほど大人にはなっていなかった。荷造りというものもないし、その役目を誰かが負ってくれ愛用の品々をもってきてくれたが、そこにグローブはなかった。愛されたという記憶もあり、愛は終わったのだという感情も散乱されたようだがのこった。集めるという作業をしてこなかった。集めたところで母は命を吹き返すこともない。なにが原因だったのかも分からない。ただ、いなくなった。意味合いとしてはそれで充分だったが、やはり、不足という状態もそのまま心理にさからうように居残りつづけた。ぼくは感情を殺すことを実地で経験した。いつまでも扉を閉じておく覚悟だったが、そうもいかない。

 いつかあの場所に帰ることがあるのだろうか。ぼくは勇者にもならず、臆病さを多少、内在させた普通の人間だった。だが、周囲は普通であることを許してもくれなかった。父や母の職業を訊かれ、尊敬するひとの名前を要求した。印象にのこった日というのを面接で訊かれる。横たわる母の身体とでもいえばよかったのだろうか。ぼくは拒絶して、世間も受け入れるふりをしながらも、当然の如く素直に拒絶した。悪いウィルスのように。


最後の火花 46

2015年04月11日 | 最後の火花
最後の火花 46

 ぼくは光子の部屋にいる。室内では「アビイ・ロード」という歴史的な名盤が流れている。ジョージ・ハリソンの名曲が二曲あり、レコードでいうところのB面は、流れるようにつながる。自分たちの仕事の結晶が音楽愛好家のこころをなぐさめる。愛といえば、これも愛だった。

「この部分、とっても好き」光子はそう言って終わったCDを別のものに替えた。
「ビートルズ、他のはないの?」

「うちには全部あるけど、ここにはこれだけ」うちというのは実家だった。「お父さんが好きで、全部そろえていたから。ギターも弾くんだよ」

 ぼくは演奏した様子の写真を見たことがあった。自分のライフ・スタイルに自信のある表情をしている。当然、家族という囲いを守ることに頑張った強みがあった。

「いっしょに演奏したりも?」
「したことあったよ」彼女はピアノを弾く。そういう暮らし向きがあったことをぼくは大人になる最後の方まで知らなかった。塾も習い事もぼくには無縁だった。学習は義務教育の範囲内で充分であり、そこから恩恵を存分に受けるよう励まされた。「ごめんね、自慢みたいで」
「謝ることないよ、楽しい思い出なんだから」関係ができれば、ひとの楽しみも自分の喜びとして実感できる。だが、ぼくの負の過去に同調してもらいたいとは決して思わなかった。

 圧倒的な才能が残した名盤に比べれば、次のアルバムはおもしろいとはなかなか思えなかった。数曲のクオリティは小高い丘だが、起伏もあってセンスは全編を覆わない。分かっていてもインスピレーションのようなものが与えられなければ、凡人はそこで頑張るしか仕方がない。だが、よくよく考えてみれば複雑な指の動きや呼吸を操ることをしている楽器の習熟者を凡人と呼ぶには、あまりにも才能が輝きすぎているともいえた。ぼくは長年かけて、培ったものなどひとつもない。ひとつもないというのは間違いで、外部にでて表彰されるようなものはない。恨みを消そうとする努力、喪失から立ち直ろうとしたことなど精神面ではなかなか働いたのだ。これも誰が指揮したということでもなく、勝手に働いたともいえた。

「趣味は?」
「突然、どうしたの見合いみたいに」
「わたしが知らない隠された趣味とか、あるのかなと思って、急に」
「映画ぐらいだね」
「どうして?」

「ひとりになれたから」それも不確実な理由だ。ほんとうのところ、自分の小遣いのためと、集団生活になじむことを拒否したためにバイトをはじめ、その場にあった無料の券をもらっただけなのだ。ぼくは帰りを引き延ばすことができた。バイト仲間たちはもっと華やいだ隣町の映画館にデートに行っていた。ぼくは古典的ともいえる外観の映画館の暗さにまぎれ込み、ひまを潰す老人や営業マンに囲まれて静かに見ていた。

「楽しかった?」
「能動的でもないけど、音楽やスポーツに比べれば。でも、楽しかったよ」

 そのそばにあった喫茶店で働いている女性とデートをした。彼女も高校生だった。彼女の家まで送ることもあり、代わりに彼女もぼくの家まで送りたいと約束させられた。ぼくは気を許し、自分の住まいの前まで連れて行く。彼女は驚く。ぼくの両親が少なくともここにはいないことを知る。その後も会ったが、バイト先を変えてしまったようで会わなくなった。

「いちばん、好きな映画は?」
「そのころに見たのか分からないけど」ぼくは内容を説明する。レスリングをしている主人公。愛する女性を見つける。突然、いなくなる。愛という必死なる思いは、明日という観念を放棄してこそ成り立つのだと最後の場面で教えてくれた。
「明日は、もっとわたしを愛してくれるかもしれないのに。わたしもだけど」
「愛というのは、してはいけないことの羅列かと思っていた」
「例えば?」
「根に持たないとか、恨まないとかの」
「悲観的」

「育てられ方だよ」ぼくは自分がドラム・セットをプレゼントされ、父と防音のきいた部屋でセッションをする姿を思い浮かべる。上達の度に誉められ、次の誕生日にはより高級な品物を与えられる。そういう段階こそが愛のようだった。だが、本音をいえば、ぼくは愛などという固く握りつぶせばなくなってしまうようなものの実体を知ってはいなかった。

「いまさら、育て方も、よくもわるい方向にも変えられないよ」
「正論は限りなく美しい」

 光子はうんざりした顔をする。ぼくらは黙って音楽を聴く。音楽の好みを変える必要もない。趣味は気に入ったことだけをすればいいのだ。乞われることもない。新たにCDはトレイに吸い込まれる。

「誰、これ?」
「ミルトン・ナシメント。ブラジル人」
「ブラジルのイメージとちょっと違うね」
「あるエピソードがあって、あの音楽は銀行員とか大学生しか聴かない類いの音楽といわれてた」

「土着っぽくないもんね」ぼくは目をつぶって耳を澄ます。「愛にあふれた音楽だね」結局、ぼくには愛というものが分からない。雰囲気以上のものとはならない。全身で守るようなものができてこそ、理解の最初の糸口が訪れるのだろう。いや、全部を捧げる覚悟ができてこそ。それも対価を乞い求めているようで、あさましい感じもした。


最後の火花 45

2015年04月08日 | 最後の火花
最後の火花 45

「愛というのは突き詰めなくても執着ということなのよね。違うかな。お刺身には、醤油が欠かせないということ」母は自信あり気に語っていた。ぼくには愛というものが分からない。漠然という感じでも理解は得られていなく、ただそのものの実体が分からなかった。大人がする話のお化けの正体のように。

「醤油と刺身は密着だろう」山形さんは小皿に生の魚の切り身を浸しながらそう言った。「馴れ合いかな。腐れ縁かな」

「相乗効果。コーヒーとお砂糖」と母は額の汗を拭きつつそう言った。ぼくにとってはどちらでもよく、話に加わることもできない。ただ、ふたりはことば遊びをしているだけのようだったので。

 子どもに、とくにぼくには観念や形而上の問題など必要不可欠なものではなかった。身近なものですべて充足していた。だから、愛という隔たったものの正確な意味合いなど分からなくても良かったのだ。

 ぼくと山形さんはいつものように外出した。数日前からつづいた雨のため地面はぬかるんでいた。小川も川幅を広げ、田んぼも水量を増していた。ぼくらは隣町に行くための道をひたすらに歩く。丁度、行程の半ばあたりにある橋が見えた。一列にならないと渡れないぐらいの幅の狭さだ。山形さんはその細い橋を渡ろうとしたが、前から来たおばあさんに順番をゆずって待っていた。渡り切るとそのおばあさんは会釈をして、礼を述べた。直ぐ山形さんも礼の返事を伝えた。

「これが愛?」
「あれは親切だな」
「どう違うの?」

「どう違うんだろう」疑問の解決を願うような、戸惑うような表情を彼は浮かべる。少し黙って歩いていたが、彼は愛というものの定義を順序立てて並べていった。

 だが、ぼくはどれほど本気になって聞いていたのだろう。ぬかるみに長靴をわざと入れ、泥がくっつくのをよろこんでいる。

「テストで満点をとっていつまでも自慢する。ひとの失敗や憎らしい行為をノートに書き付けて保存する。こういうのは愛とは反対にあるものだ」
「もしケンカしたら?」
「避けられないけど、なるべくなら早いうちに仲直りをすることだ」
「できてる?」
「できているとはいえないね、正直なところ。死ぬまでには、どうにか短所は克服しないとな」

「そんな面倒で、億劫そうなのに、愛って必要なの?」
「世の中にことばがある以上、必要であることを問答無用に証明している。例えば、海」
「空とか靴も」
「橋。親切」山形さんは満足そうな様子をした。「そして重要なこととして、子どもは面倒とかいわないもんだ。すすんでやることが成長とか上達につながるんだから」
「それも愛?」

「そう。長い腕を相手に差し伸べ、長い腕で相手を包んであげる」それから、彼は聞き慣れないことばを発した。英語というものらしい。ぼくは訊き直す機会を自分に与えない。もう一度きいても、状況はまったく変わらないことを知っていたからだ。だが、山形さんの口は再度、同じことを発した。「ラブ・キープス・ノーレコード・オブ・ロングス」ぼくは、長いということをロングと知っていたのだろうか。そして、同じ文字に異なった響きと意味が付されていることも知っていたのだろうか。もちろん、知らない。愛すらもぼくには重要なものではなかった。

 山形さんは店に入る。その店主の妻はぼくの母にということでおまけをしてくれた。さらに、ぼくにお菓子をひとつくれた。

「あれも親切?」ぼくは菓子を頬張りながら無邪気にきく。

「親切だよ」山形さんの足の速度に合わせるため、ぼくの身体は順応しようと働いているようだ。
「ひとがよろこんでくれるからね」
「そうだな。だが、ありがとうよりもっと大切なことは、お返しをすることだよ」

 ぼくの口に菓子はなくなる。「それも面倒だね。忘れたら、どうするの?」
「相手がこころの帳面に書き加えないことを祈るだけだ」
「祈ることも忘れる」
「いいよ、それでも。みんな忘れるんだから」

 だが、ぼくはこの状況を忘れていない。山形さんとの生活もそう長くはつづかなかったからだろう。ぼくはあのおばさんに親切を返すことができなかった。あの町にもどることもこころの中以外ではなかった。愛という定義の箱のふたを開け、眺めたり手に触れたりしたことはあったが、ぼくの感情は怒りということも無心に育てていった。相手からなめられないことも重大な命令として、ぼくのこころは一方的に送りつづけた。しかし、疲れが濡れた衣服のようにまとわりつくのを避けられなくなれば、愛の箱を開けるのかもしれない。母と山形さんには愛があったのだろうか。それより、お刺身と醤油のような間柄で、理想も形而上の企てもない、地面にこびりついてはなれない人間のまっとうな生きる姿であったのだろうか。

 愛は訪れ、愛は去って行った。精神の面だけではなく、もっと下劣な身体の欲だけのような気もする。すべてを蔑視する理由もなく、ぼくの下で眠る少女たちは微塵も下劣ではない。ぼくを完全に受け入れてくれた。何人かは去り、何人かはぼくの帳面に記載された。その子らと山形さんのどちらに影響を受けたのかと問われれば、女性というものは軽く浮遊するようにできているようだ。砂粒がそこにたまった湯ぶねの感触に山形さんは似ているのかもしれない。


最後の火花 44

2015年04月07日 | 最後の火花
最後の火花 44

 人間は幹なのか、枝振りなのか。本質は同じで不動でも、教育や経験が枝となって裾をひろげ、彩りを加える。次の交際相手に指摘され、前任者への不実や優しさの欠如を思い知らされる。いくら後悔しても思い出を塗り替えることはできない。それが別れの美点でもあり、揺るぎない欠点でもあった。

 いったん切れた感情を再燃させることはできない。途中で、関係を絶たれた未練をすぐに繕い直すこともできない。人間は毛糸ではないのだ。別のセーターにして復活させることなど容易でもない。

 テレビでは若者がインタビューを受けていた。夜の町を徘徊して悪いことを覚えたが親身になってくれるひとに補導され、徐々に気持ちを変えていく。ゴール地点の設定があってこその序盤戦や導入部分であった。若者は改心する。多くの改心しないひとにはスポットを当てない。それが美しくないから。みんなが目を背けたいから。

 しかし、ぼくが光子と出会う前と、出会った以降は確実に違っていた。世界をひとりの仲介者の目を通して眺める。ぼくには、この世界の色はどぎつ過ぎた。母が流していた鮮血のように。山形さんが閉じ込められた車の屋根にある回転するライトのように。

 ほんとうはぼくは情景を見ていないのかもしれない。ぼくの目を覆う冷たい、もしくは温かい手の平があった。無残なことには魅力がある。ぼくも何遍も昆虫の足をむしり取ったはずだ。母も、そうなっただけなのだ。

「親身になってくれたひといた?」なんの作為もなく光子は訊く。
「いたと思う?」なんの動揺もなくぼくは返答する。
「それは、いたでしょう。誰にでもいるはずだもん」

 では、ぼくの所属した社会は誰でもという側ではなかった。その他大勢という躊躇なき部屋。ぼくは無言という安心感のなかにいる。あれは裏切りでもなかった。反逆でもない。喪失ということばで定義するには、ぼくはあまりにも子ども過ぎた。喪失までたどり着くほど、恩恵も充分に受けていない。喪失をひたすらにおそれる思い出の蓄積の量も多くない。

「いなかったと思うよ」
「それは悲観し過ぎた考えだよ」

 ぼくは分析される。ただ親身になってぼくの行状を理解してほしかっただけなのに。眠れない夜、高熱でうなされた夜にこそ、母という存在が必要ではなかったのか。ぼくは対処の仕方だけ教わる。こまめにパジャマを着替えること。うがいを欠かさないこと。これらは都度という頻繁さではなく、一度、聞いたのなら忘れるなという前提条件があった。ぼくだけの保護者ではなく、大勢の男の子や女の子の成長を見届けなければならない立場ならば当然のことだった。

「やっぱり、いたんだろうね」
「誰?」
「とくに、思い出せないけど」

 会話は段差も感じず、支流にもいかなかった。堂々巡り。だが、ぼくは視線で答えを要求される。ぼくを可愛がってくれたお兄さんやお姉さんのようなひともいた。共通した苗字をもっていたらどんなによかっただろうかとも思う。彼らは親身だった。かといってライバルという役割を完全に払拭することもできない。彼らの夕飯の量はぼくの夕飯の量と反比例する。「きょう、なにが食べたい?」という甘いささやきもない。ぼくらは壁の献立の一覧表を確認している。月の初めには、その月の最後の食事まで認識させられてしまう。

「きょう、なにが食べたい?」と、突然、光子が訊く。
「そっか、もう、そんな時間か」
「お腹、空いた?」
「空きはじめた」

 ぼくらは空腹だった。時間通りにイスにすわり、自分の皿とスプーンや箸を用意した。ときに、苦手なものをあげたり、もらったりもした。ぼくらは肉親の愛情を忘れるように努力した。そもそも知らない子たちもいた。世界は限りなく狭く、数十名の顔と名前と親切とむごさのなかで生きていた。

「あれにする?」それから、光子はぼくの好物の名を並べた。ぼくと料理が並列になる。ぼくはあの頃、なにが好きだったのだろう。古いしきたりのなかにいた母と山形さんとの生活のときにはどんなものを食べていたのだろう。大人への過程で変わったのだろうが証人はそばにいない。

 ぼくらはスーパーマーケットまで歩く。財布をもち、調味料を買う。味付けも好き勝手だ。自由自在に好みに近付けることも誰もとがめない。総体のひとりではない。

 ぼくは立ち直る。愛情らしきものを感じている。しかし、実際には小さな好きとキライの間を揺れ動いているだけだ。壮大なものなどいらない。ぼくは小さな愛着と関連性を望みながら、同じ意味合いで恐れてもいた。いつか、奪われる運命にあるものとして。より優れたものと交換可能なのかもしれないが、その証明と保証は誰もできない。

 おかわりをしてもまだ余ってしまった。光子は別の容器に入れ、冷凍庫に入れた。後々のことを考えて行動するという簡単なことがぼくの世界にはなかった。満腹になり、その満腹を次の機会まで保たせるということを強く願っていた。願いだけですべてが叶うものでもなく、ぼくらはいろいろなもので自分の欲求をごまかさなければならなかった。