爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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拒絶の歴史(19)

2009年11月29日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(19)

 ぼくらは、まだ学生であった。本来の仕事である勉強に打ち込むため、裕紀と図書館にも通った。ぼくらは、好きな教科がいくらか違うため、お互いの勉強を教えあうこともできた。似ている部分を見つけあうのも友人として恋人として楽しいことだったが、相違の部分があることもぼくらを向上させる一因になることも知った。

 ぼくは、英語や数学を愛していた。他の言語を世界に違う種類の人々が操りあって生活していることを知ると、胸のなかが不思議なくらいに新鮮になった。自分もそのどれかを身に着けられたら、どんなに良いだろうと思うが、日常的に知り合う外国の人など、ぼくの町にはいなかった。

 裕紀は、国語や社会を勉強することが苦にならないらしかった。ぼくの外国語と同じような観点で、人々がいままで生活してきた歴史や記録として、社会というものを学んでいた。そのことが、なぜか彼女の女性的な一面を美しくさせている要因ではないのかと、ぼくは考えるようになっていた。

 ぼくは静かに数学の問題を解き、その方法を彼女に伝え、彼女は自分なりの年表をつくり、それをぼくに見せてくれた。そこには、とんでもないヒーローが数百年に一度現れ、世界を変革していくようにも思えた。アレキサンダーやナポレオンという力量を計り知れない人々が世界のある時代にいた。ぼくらは、そのような羽根をもぎ取られてしまっているのだろう。偏差値を上げ、優秀なる人材になるため、いくらかましな大学に入ろうとしている。

 その図書館はぼくの家にも近かったので、ある日、勉強が終わった後、彼女をぼくの家に誘った。ぼくの母は誰かにご飯を食べてもらうのが楽しくて仕方がないらしく、ぼくや妹の友人たちに家に来てもらいたがっていた。ぼくは、妹の友人たちと食卓をともにすることも多かったし、彼女らの遠慮のない食欲もいつの間にか知るようになっていたし、驚かなくもなっていた。そのようなことが一般的に行われていた家庭だった。

 彼女は、ケーキを途中の店で買い込み、「急じゃなかったら、わたしが手作りしたのに。おいしいんだよ」と、いくらかの言い訳をのべ、何種類かのケーキを選んでいた。それを揺らさないように、手に持ってぼくらは自分の家に向かった。

「あら、いらっしゃい」と母は愛想よく彼女を迎え、彼女もにっこりと笑った。
 妹も自分の部屋から出て階段を降りてきた。好奇心の固まりである彼女は、いくつもの質問を裕紀に浴びせた。ぼくは、何回かしつこいといったり、途中で話を転換させようとしてみるものの、意外と彼女たちは話が合うらしく、ぼくは黙らざるを得なかった。

 妹も来年、受験を控えており、そろそろ勉強に本腰を入れる時期に入っていた。彼女の志望校のひとつは裕紀の学校ということもあって、その学校内での生活を訊いていた。そんなに選択の幅があるわけでもないので、嫌であったとしても、そこに行くことしかなかったかもしれないが、そこには暖かい学園生活があるらしかった。

 食事も終え、ちょっとゆっくりすると、妹は裕紀を自分の部屋に引っ張った。教えてもらいたい勉強の中味があるみたいで、その解決を裕紀に求めた。

「あとで、お兄ちゃんに訊きなさいよ」と母は言ったが、妹は聞き入れることをしなかった。

 2、30分彼女たちは部屋から出てこなかった。様子を探るわけにも行かず、ぼくは居間でぼんやりとテレビを見ていた。裕紀と同じような年代のアイドルがその中に映っている。彼女らのリアルな人生は、どんなものなのだろうと想像してみるものの、そのときの自分には分かるわけもなかった。

 そこに妹たちが戻ってきて、一緒にケーキを食べた。彼女らは一瞬にして友人になったようだった。部屋のなかでいったい何が行われたのだろう。

 裕紀を送るため、ぼくは家を出た。初夏の空気がさわやかさと濃密なにおいを混ぜ合わせ、ぼくらの周りにただよいはじめた。ぼくは、そっと彼女の手をつなぐ。

「いもうと、うるさくなかった?」
「全然。わたしも妹とか、おんな兄弟とか欲しかったのかな、と思っちゃった」と言った。
 ぼくは、彼女を駅まで送り、その電車が来るまで、近くで話していた。ぼくらの関係は完全なものになりつつあり、その記念のようにぼくは彼女の唇を眺めていた。

拒絶の歴史(18)

2009年11月15日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(18)

 自分の行っていることが、考え方にも作用する。ぼくの思考はラグビー型になるとも言えた。個人で、自分の限界を伸ばすことを目標としているが、どう考えても自分一人で試合を行い、勝つことはできないことになる。チームの存在がぼくの限界もある意味では決めた。そのチームで勝つことがなによりの喜びとなるという感動ももらい、誰かの失敗で決定的に勝利への希望が絶たれることも経験した。それが、自分でないときには安堵し、また誰かを責めるべき強さを自分はもっていないことを知る。

 結局のこと、失敗しか自分にとって本質的な賢さを与えてくれないのかもしれない。勝利の甘みは直ぐにどこかに消えた。敗北は新たな鍛えるべき原動力として機能してくれる要因となった。

 初夏には、他校と試合をして、勝ったり負けたりしながらチームは一丸となり、暖かい目でメンバーの失敗を償おうとした。ぼくは、後輩たちの面倒をみながら、彼らの成長を自分のことのように喜び、彼らの治り切らないクセを自分のことのように心配した。チームを率先して引っ張る能力が自分にはないことを知り、みんなの後ろから後押しする力はあることに気付いていく。

 ぼくは、試合の前に裕紀の姿が観客席のどこかにいることを見つけようとした。見つけることは簡単なことであり、ぼくは直ぐにその存在を確認した。自分の17歳のある姿をしっかりと記憶してくれたのは彼女だけだったかもしれない。他者の記憶にこそ、ぼくは留まっているのだ。そう考えると、ひとの生活の不思議さを感じる。

 秋に行われる本格的な公式戦のために、ぼくらはさまざまなことを試した。上下関係の隔たりがあまり少ないぼくらは、いろいろなことを教え合った。その点で後輩たちも伸び伸びと動き、成果を見せるようになっていく。

 その日は、ぼくも活躍できた。いくらかのトライを決め、相手チームの動きも止めた。そこには経験上の予測があり、また勘が働かないことには出来得ない動きもあった。そのひとつひとつを反省し、自分の糧としていった。

 試合が終わると、ぼくはチームメイトと別れてひとりになり、裕紀と帰ることが多かった。その日もそのようにした。その前に、後輩の山下がぼくらの前を通りかかり愛想の良い笑顔を浮かべ、こちらに近寄ってきた。裕紀に対して面と向かい、自己紹介をいきなりはじめた。ぼくの知らないぼく自身の長所をいくつか並べ、

「ゆうきさん、幸せですよ。近藤さんもそれ以上幸せだと思いますけど」と言って、その言葉だけがぼくらの前に残り、いつの間にか消えていった。

「いつも、ああなんだよ」と、ぼくは彼のエピソードをかいつまんで裕紀に教えた。
「後輩に慕われて、楽しそうね」と彼女は言った。ぼくも、そのことをあらためて考えることもなく、そう感じていた。

 彼女は、何回も見ているうちにラグビーのルールを覚えていった。そのことが、共通の話題としてぼくらにあるため、話していても楽しかったし、もちろんぼくを嬉しい気分にさせてくれた。彼女は、いくつかの相手のチームの長所をあげ、それを封じ込める作戦を考え付いていた。彼女の思考として、欠点をみつけ矯正するという能力がないことにぼくは段々と気付いていく。それだったら、良いことをどんどん伸ばして行きなさい、という考え方らしかった。そのような、系統的な考えをする女性を、ぼくはその後も見つけることは出来なかった。

 試合後は、食欲があふれるほどあり、彼女と一緒にファーストフードの店にはいってお腹を満たすことが多かった。そのような時に彼女の目の形や、髪の色やさまざまなことが好きであるという自分をたびたび発見した。数日、会わないだけで彼女は大人へと移行していき、その過程に立ち会えている自分を幸福に感じていた。

 彼女は、よく電話を取り次ぐ、ぼくの妹のことを訊きたがった。妹はその数秒のうちに世間話を挟んでいるようだった。それで、彼女に会ってみたい、と裕紀は言った。

「つまらない、どこにでもいる女だよ」と、ぼくはハンバーガーの欠けらを口に入れ、そう言った。その言葉は、もしかしたら妹もぼくに対して言っていた言葉かもしれなかった。

 彼女は、実際に会ってみるまではその判断を決めかねているらしかった。その辺は、どこか強情な部分も持っている彼女であった。

拒絶の歴史(17)

2009年11月14日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(17)

 彼女は言葉を要求するようになる。その言葉を烙印として、安心を得ようとするように。

 ぼくは、「わたしのこと、どう思ってる?」と裕紀に訊かれれば、その言葉に対しては答えていた。しかし、自分からはなにも発信しなかった。それでも、その答えや自分がどう思っているかなど、分かっても良さそうなのにと考えていた。一体、女性という生きものは鈍感にできているのだろうかと不思議に思ったぐらいだ。だが、定期的に予防接種をするように、その言葉を必要として待っていたのだろう。

 ぼくは、久々に智美と会った。彼女はぼくの幼馴染で違う学校に通うようになってからは、以前より疎遠になっていたが会えば会ったで直ぐに打ち解ける関係が構築されていた。彼女はまた、裕紀と同じ学校に通っており、ぼくと引き合わせてくれたのも彼女がいてくれたからだ。

 最初のうちはお互いが変化しなかったことや、変わりつつあるいまの状況を話した。ぼくはラグビーを頑張ることによって、自分の知名度がその地域で拡がっている情報を得た。

「智美さんって、近藤さんの知り合いなんですか?」と、彼女の学校の下級生たちは、そう質問することもあるそうだ。そのことは、実際の手触りとしては、なにも自分には伝わってこなかったが、それでもいくらか嬉しい気持ちにさせた。

 しかし、本題はほかのところにあった。

「あの人って、お祭りのときに会った人だよね?」と、河口という女性のことを、彼女はそれとなく話題に載せた。多分、裕紀が心配してのことだろう。ぼくは、そうだ、と答え彼女の情報をいくつか伝えた。智美は、ぼくのことを疑うことなど決してしなかったが、まあ友情の証として、訊かないわけにはいかなかったのだ、と告白した。それも、ぼくが河口という女性を見るときの目が、いつもより違って見えたから裕紀は心配になったと言ったそうだ。だが、現実問題として、ぼくとその女性は年齢も離れており、なにかに進展する可能性などないではないか、と智美を説得しようとしたが、本当に説明を求めているのは、また別の人間であることを思いつく。その言葉を、ぼくは当人を前にしては言わなかった。言う必要性すら感じず、彼女の不安を無駄にあおり、大人へと成長過程にあった自分は、やはりどこまでも利己的だったのであろうか?

 ぼくらは分かれ、それぞれの家に戻った。智美は、彼女にきちんと説明してくれるのだろうか? それとも、もともと楽天的である智美は、なにも心配することもないよ、と簡単にいって片付けてしまうのだろうか。

 ぼくは、食卓に向かっている。妹の顔をじっと見ていると、「なに?」と怪訝そうな表情で問われた。

「お前、お兄ちゃんのこと、学校とかで訊かれるか?」
「まあ、たまには。なんで?」
「別に。それで、なんて答えている?」
「どこにでもいる普通の人とか。質問にもよるけど・・・」

 どこにでもいる普通の人だよな、と自分でもそう思っていた。しかし、そう答えるには質問する方は、どこか違ったものがあると思ってたずねているのだ。なにかの輝きを放っているとか、なにかが優れているとか、また極端にいえば知り合う価値があるかどうかなどを。それは、また欠落した人とか劣っている人にも興味の対象は逆に働くのだろう。その人と遠ざかりたいという反対の気持ちが働くはずだが。

 ぼくは、一日の自分の役目をすべて終え、ベッドに寝転がっている。自分のことを心配している人が、ぼくの近くでいた。電話でもかけるべきだったのだろう、といまの自分は思うがそうはしなかった。ただ、もっと深く知り合うべき価値ある人のリストをいくつか頭の中でこしらえあげた。その先頭には、河口という女性がいたのかもしれない。

 そうしていると部屋のドアがノックされ、妹が首を突っ込んだ。
「その写真のひとから電話だよ」と、言ってドアを半開きにしたまま自分の部屋に向かっていった。

拒絶の歴史(16)

2009年11月08日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(16)

 ぼくは、太陽の下でベンチに座り野球部の試合を見ている。時折り、強い風が吹き砂ぼこりを舞い上げた。

 ぼくの横には裕紀がいた。彼女は女子高に通っていたので同じ学校の男性がスポーツをしている姿を応援するということをしてこなかった。ぼくの試合を見に来てくれることもあったが、当然のようにグラウンドに立っている自分は一緒に見ることはできなかった。それで、たまには同じ視線を共有してもいいのではないか、ということになったのだと思う。

 それは、試合の勝ち負けをあまり意識させないようなのどかな試合だった。誰も上を目指さないランクということで成立している勝負だった。当人たちは、どう思っていたのかしらないが、子供の運動会を暖かく見守るという感じで時間は過ぎていった。

 そのような気持ちで見ることに集中を強いるというようなこともなく、適度な会話と適度な笑みというものがぼくらにあった。数時間が過ぎ、ぼくらの母校は負けてしまった。これで、3年生はより一層勉強に励んでいくのだと思う。もしくは、残された期間を遊びの時間に充てる人もいる。悔いというものを思いつくこともない若さがまだぼくらにはあったのだろう。

 いままで気付かなかったが、ぼくのベンチの数段後ろには河口という女性がいた。彼女は大学の2年目を迎え、二十歳になるころだったと思う。ぼくは、帰りがけその姿に気付き、軽く会釈した。そのぼくらとの数歳の差がいかに大きかったのかと考える。彼女は、ぼくらの相手として手ごわかったラグビー部のひとと交際していたはずだ。彼は、優秀な学校にスカウトされ、いまは東京の大学に通っているはずだった。そのことを忘れている自分がいた。もし、自分の未来にそのような手が差し伸べられたら、自分はどう反応するだろうかと考えていた。

 彼女は、こちらに寄ってきた。そのエレガントという言葉がぴったりと当てはまる彼女の姿をぼくは憧れをもって眺めていた。また、彼女も母校の応援に来るぐらいに、ぼくらの町は小さく、さらに遊べるところも限られていた。

「近藤君にも彼女ができたんだ?」
「ええ、まあ」と言って、いつもながら、もっと気の利いた返事ができないのだろうかと考える。
「優しくしてもらってる?」

 と、彼女は裕紀の方に向かって話しかけた。ぼくもそちらを向き、なんと答えるのだろうかと待っていた。裕紀の口から、小さな声で「はい」という言葉がでてきた。

 その数語を費やしただけで、ぼくらは離れた。彼女の前に出ると、いつも自分が子供じみた存在であることが明らかになっていく。彼女のような人と釣り合うには、なにが欠けているのだろうかと、自分に問いを投げかけたが、きちんとした答えはまだ自分はもっていなかった。

 当然のように裕紀は、その人が誰であるかを質問してきた。ぼくは、いままでの経緯をはなした。はなしたといってもそこには具体的な関係などなにもなかった。ときどき、彼女がぼくの前に現れ、優雅な姿で質問をし、その答えはどうでもよいような表情で返事をきくだけだった。ぼくが、いくらか憧れのような気持ちをもっていることは当然はなさなかった。しかし、話さないからといって伝わらないとは限らなかった。

 そこで、ぼくと裕紀の間にはなんとなくぎくしゃくした空気がながれた。彼女の中に嫉妬などというつまらない感情はいままでなかったはずだが、その小さな波紋のようなものがいくらか残っているようだった。

 嫉妬の感情があろうがなかろうが、ぼくと河口という女性の間には、なにも芽生えていなければ、なにも始まっていなかった。しかし、なにかを期待しているような気持ちがぼくにはあったのだろうか。上を目指さないスポーツの試合をみながらも、ぼくのその頃は、まだまだ未知なる領域に足を踏み入れたいという気持ちが確かにあったはずだ。

 器用な振る舞いになれていない自分はなにも弁解しないし、逆に裕紀のさざなみだったこころを平静にするような言葉も使わなかった。ただ、疑問は疑問のまま、誤解は誤解のまま成立していた。ぼくは、誰かが自分に好意をもつことは当然のことだと考えていた時期だったのだろうか。


拒絶の歴史(15)

2009年11月07日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(15)

「近藤さんのガールフレンドって、ああいう人なんですか。きれいな人ですね」と後輩の山下が練習前に突如、言った。

「なんで知っているの?」

「この前、街で見かけましたよ。なんか親密で声をかけられませんでしたけど」

 人の評価も重要なことかもしれないと考えたのは、このときぐらいからだろう。彼女がきれいであるとかという問題ではなく、自分が感じていることと、世の中の感覚が多少ずれているということもあるらしいとの考え始めだ。まだ、その頃は若かったので、世間より自分が常に正しい、と決めていた。もちろん、世間の評価もある程度は正しいのだ。山下の視線もある程度は正しいのだ。練習中に間違った暴走をすることが多かったにせよ。

 裕紀はぼくが知り始めた頃より確かにきれいになっていた。そのことがぼくに不思議な自尊心を与えた。そして、より一層好きになっていくほど、彼女のなにに対して自分は惹かれていくのだろう、といくらかは考える。ひとりになった夜などに、そのことが突然あたまにのぼる。彼女の内面を知りたどるようにしていくと、そこには暖かさと優しさが常に内在されていることを知る。しかし、ぼくが男性的に求めているのは外面だけだという誤解を与えてしまうことを不安にも感じていた。

 ぼくらは機会を見つけては抱き合うようになっていた。そもそも、そんな機会などありふれている訳でもなかった。また、彼女を通俗的なホテルなどに身を置かすことなど考えたくもない自分もいた。それなので、そのような遭遇はそんなにはなかった。

 山下はなぜかぼくを慕うようになり、練習後にも付き合うようになっていく。彼を連れて、自分の家まで帰ることもよくあった。彼は、図体の割には愛想の良い男で、ぼくの妹とも自然と打ち解けていく。料理を振る舞い、おいしそうに食べてもらうことの好きな母は、彼の豪快な食べぶりに驚くと同時に、とても喜んでいた。ご飯をお代わりする度に彼の評価も高くなった。そして、大人っぽい遠慮などその年代にはないことだし、とくに山下には見られないことだった。

「どれも、とてもおいしい料理ですね」と、その一言ですべてが変わってしまう事実があることを、ぼくはやっと知る。世間は他人の正当な評価を求めているのだ。それは言葉なり、字面にしなければならなかった。

 彼が自分の家に帰っても、ぼくの家族には彼の残した熱と余韻がいつのまにか残ってしまっていた。あまり、他人のことにあれこれ言うことのない父も、山下のことは度々、口にした。

「あいつ、最近来ないな?」という感じにだ。

 ある日曜の午後、春の空気と太陽が入り混じった光線の下にいる裕紀の黒い髪を思い出す。5月の休みにぼくらは遊園地にいる。経済とか集客力とかの心配を考えたこともないようなのどかな時代だった。そして、あふれるばかりに美しい5月のさわやかな空気がぼくらのまわりを包んでいたのだ。

 ぼくらはいくつかの乗り物に乗り、お腹がすくと、ホットドックやソフトクリームを食べた。自分はどこかで山下の食欲を基準にするようになってしまっていた。それに比べれば、当然のように彼女の肩幅は限りなく華奢であり、その食欲も少なかった。彼ならば、ホットドックをいくつ食べるのだろう、と頭の中で考えていた。考えていただけではなく、そのことを彼女にも話した。最近、入った下級生がね、という風に彼のエピソードを披露すると、彼女から自然な笑みがこぼれた。そして、その笑顔をみると、また新しい話題で彼女を笑わせる必要性を感じた。

 楽しかった一日も終わりごろ、彼女は近くまで来たので寄りたいところがあるが、行っても構わないかとぼくに訊いた。ぼくは、洋服や小物でも見るのだろうと考えていたので、そのことには反対も躊躇もしなかった。だが、行った先はある墓地だった。そこには、彼女の祖母が眠っていた。彼女の母は、社交的な活動が多く、彼女の世話や面倒をその祖母がよく見てくれていたそうだ。彼女の持つある古風な一面は、それが引き継がれているのだろう。

 彼女は、ある一角で立ち止まり、そこの前にたたずむと目をつぶって少し下を向いた。いくらか寒くなった空気にぼくは気付いた。彼女は振り向いて、
「ごめん、待たせて」と言ってにっこりと笑った。彼女が無条件で慕うような存在に自分もなりたいと感じた瞬間でもあった。

拒絶の歴史(14)

2009年11月03日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(14)

 4月になり、見慣れぬ顔や制服姿が学校内を歩くようになっている。新入生が学校に入り、自分が所属していたラグビー部にも新しい顔ぶれが増えていった。

 ぼくらの学校は勉強に力を入れ、本格的にスポーツを励みたい人は、県内のほかの学校に行った。それぞれ得意としているスポーツがあり、中学生のときから秀でた部分が少しでもある生徒たちは、先生が推薦するようになっていた。それでも、今回入った面子を見ると、いかにも運動能力に優れた人たちが多くいるように感じた。

 彼らは、それぞれ自己紹介をして、自分の一面をアピールした。自分を売り込まないことには始まらない世の中なのだ、そんなことを学んだのは、もっと後のことだったが。

 山下という名前の新入生は、ラグビーや格闘技をするために生まれたような体型をしていた。少し話すようになると、彼の進路を狂わせてしまった状況が分かった。

「山下なんか、あの学校に行って、そこでも直ぐレギュラーになれそうな気がするけど?」と、強豪校の名前を出し、そう質問した。

「オレも、そうする気だったんですけど、去年の秋のあの試合を見て、近藤さんが倒されても負けない姿を見たら、突然この学校に入りたくなったんです」ぼくの名前を言い、ぼくらがぎりぎり負けた試合のことを語った。自分は、ほかの人間のこころに自分が居残り存在していることなんて、それまでは想像もしていなかった。それはとても嬉しい反面、また逆に彼らにも責任を感じた。本来なら、正当なルートで自分の未来を切り開くはずなのに、間違った険しい道を与えてしまったのだろう。彼が決めたことだが、それでも責任というものはリアルなものとして存在した。

 一年生の練習を見守る役目はぼくになった。上級生のキャプテンがぼくを呼び出し、「お前に任せたからな」と軽く肩をたたき、ぼそっと言って離れ去った。

 ここらで人間の性格を形成する上で、いくつかの過程があることを知る。もちろん、ひとりで生き抜くことなど出来ないので、他者との関係があって生きるというものが成立する。他者のことなど、まったく関与しないで生きることを自分に義務付けているひとがいるらしいことも、その後知った。しかし、自分はそのようなタイプではなかったらしい。自分を成長させることも好きだが、後輩たちが自分の限界を越え、いくつかのステップを乗り越え、あるべき理想に近づいていく姿勢を見ることも、なによりも好きであるらしかった。これは、自分の性格でありながらも嬉しいことだった。

 それは、まだ幼いときに妹の勉強をみていた姿と結びつく。自分では理解していることを、まだ知らない子の頭脳に移植すること、それが難しいのだ。口で説明し、もちろんのこと反応しない脳があり、手本を見せ、失敗する場面をともに考え、少しずつ理解させていく。だが、自転車と同じで一度覚えたことは、彼らは直ぐ次の機会には理解し反応していった。

 そして、それぞれの個性もあった。ぼくは、一方向で教えているわけでもなかったらしい。たくさんつながった乾電池のようにぼくらの電流はそれぞれを通して流れていった。彼らの走り方、彼らのバランスの取り方などをぼくも見習わなければならないことを知った。そこには馬鹿げたプライドなどを入り込ます余地などなかった。ただ、吸収したいという気持ちが強かった。

 真面目に練習したあとは、リラックスする時間も必要だった。その点では三年生になりながらも、権威に程遠い上田先輩がいつものように、その話術で笑わせてくれた。たまには、女性関係のはなしをしてぼくらを笑わせ、同時に引き付けたが、それが智美の話なのかもしれないと考えると、ぼくはあまり笑うことが出来なくなった。そっと部室を去り、薄暗いグラウンドに転がっている用具などを片付けた。
 このように4月は、ぼくを変えていく季節になっていた。

 ぼくには、直ぐ倒れてしまいそうな自信と責任感であったが、そこにきちんとした方法で成長を促すなにかも、程よいタイミングで与えられていったのだろう。そこには数々の人間の印象が同時にインプットされている。

 それは、もちろんぼくの持ち物であり、持ち歩かなければならない荷物であり、忘れてしまうことのできない思い出でもあった。

拒絶の歴史(13)

2009年11月01日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(13)

 身体というものの成り立ちが男性と女性ではまったく違っていた。

 毎日、身体をぶつけ合って飛ばされないように、転がらないように踏ん張って練習をしている。その度合いと熱が増すうちにそのことにも慣れてくる。そして、身体をうまく動かして相手からすり抜ける技も覚えてきた。だが、どうしようもなくぶつけられた強い衝撃によっては、ただグラウンドに転がって上空を見上げている自分を発見することになる。

 春休みになり何日かの練習の休みの日があった。

 ぼくと裕紀は自転車にそれぞれ乗り、丁度良い距離に離れていた彼女のもうひとつの家に向かった。もうひとつある家というものが、どうして存在しているのかは最初は分からなかったが、説明をきくといまの家に住む前にはそこで暮らしていたというのだ。そして、新しい家に住み始めても彼らは前の家を手放す必要性を感じていなかった。なので、それがいまだに残っていた。ある時は別荘のようにつかい、ある時は尋ねてきた親戚を泊まらせ、ある時は集中して勉強するために裕紀の兄たちがそこを使った。

 最近は、誰も行っていないので、空気の入れ替えがてら裕紀がそこに行くことになり、ついでにぼくも一緒に行くことになっていた。彼女は自転車に乗りたいと言って気持ち良さそうに漕いでいた。それ以外の選択肢もなかったぼくらは、春が始まっていく予感とともに、いくらかのあくびを殺して坂を登ったり下ったりした。
 そこは海に面した丘の上に建っていて、遠くには海の匂いを感じ、またその波の音もここちよく聞こえてきた。そういう開放感が前提にあったのだろう。

 彼女は部屋という部屋の窓を開け放ち、その家のなかに風を通した。ぼくは芝生にあるベンチに座り、遠くに見える景色を見ていた。白い雲は動くことをやめたように、そこに留まっていた。

 部屋の中では掃除機をかける音がしてきたので、ぼくも庭にある石の段の上に靴を脱ぎ、なかに入った。そこを手狭と感じる人たちがいるということが信じられないほど大きな家だった。ぼくは、2階にあがり裕紀と同じように窓を開け放ちカーテンの揺れる姿を見ていた。

 ある部屋には子供のころの私物が残っていた。裕紀のであろう机の上には女の子らしい絵が描いてあった。隣の兄の机には、最近にも勉強した形跡である辞書や参考書が乗っていた。それを開き、ページをめくった。重要な点にはアンダーラインが引かれ、分からない部分には小さな文字で解説が書き込まれていた。その本を一冊見ただけでその人の性格が分かるようであった。

 ぼくらは簡単に用を済ませ、庭の芝生の上で用意してあったサンドイッチを食べコーヒーを飲んだ。小鳥たちが恐れながらもぼくたちのそばに近寄ってきつつあった。ぼくはパンの端をつまみとり、彼らのそばに投げた。鳥たちは口に入れ、急いで遠くに飛び、そこで咀嚼していた。普段、ぼくたちがいなかった時はどうしていたのだろうと疑問をもったが直ぐに忘れてしまった。

 あっという間に陽も陰って来た。先ほどとは反対にぼくらは、窓を閉め始めきちんと施錠した。その行為を通してぼくらには不思議な一体感が生まれていた。そして、そのときよりももっと古い時代に存在しているような錯覚もあった。いつのまにか明治や大正にいた名もなき若い夫婦になったように。

 ぼくらは電灯の下で残ってしまったコーヒーを飲み干していた。いつの間にか距離は縮まりぼくらはキスをしていた。その後はどのように進展したのか覚えていないが、ぼくらは裸の身体を寄せ合っていた。彼女の身体はとても柔らかく、ぼくが普段接しているラグビー部員の身体とはまったく違っていた。

 ラジオから音楽が小さな音量で流れていて、その曲を耳にするたびにぼくはその日の情景と彼女への気持ちを反芻させることになった。それから、自分が昨日までと違った自信とどうしようもなく逃れられない責任の一部が、乾電池で動く機械のように自分のこころのなかに組み込まれていった。

 帰りには彼女の目の端に涙のあとがあった。ぼくらは彼女の家のそばまでたどり着き、そこで別れの言葉を口に出した瞬間にどうしようもない喪失感というものを感じた。確かに一秒でも離れたくないという気持ちが自分の中に芽生えていた。