雑貨生活(13)
そして、書き終わった物語をみつめている。
書き終わっただけで、自分以外の目に留まるわけでもない。ショートがゴロを捕った時点で試合は終了なのだろうか。それは、違う。ファーストに投げて、審判がアウトを宣告してはじめて終わりになる。その役目は読むひとなのだろうか。
ひとの目に留まらない。それを不幸でもあり、幸福に浸かる逆の意味の温床でもあると考える。賢さのアピールは批判精神やけなしと同義語の世界なのだ。
ナット・キング・コールがカラオケ・コンテストの賞金荒らしであると想像する。もう、ぼくは暇になったのだ。思考は自由であることをしつけの悪い子どものように望んでいた。
「普段は、なにを?」と、いささかうんざりしている司会者に質問される。あんた、アマチュアとしては能力があり過ぎると、冷たい気持ちになっている。アマチュアは応援されてこそ、アマチュアだった。軽蔑されるぐらい達者で強いのは問答無用でプロである。
「小さな工場を営んでおります」
「プロになる気は?」
「ところで、プロって、なんでしょう?」
「単純に、君がいてくれたこと。君がしてくれたこと。ただ、それだけを感謝される人々ではないでしょうか」司会者は感謝されないで、いつも仕事を終えていた。不満だったのである。耳をくすぐる言葉を、誰もが必要としている。
産み落とした卵を掘り返す。ウミガメも泣いてばかりはいられない。恍惚も忘れ、我に返って誤字脱字を確認する。ひとは間違いに気付かない。余程、注意しても見落としてしまう。実践を実戦にしていた。ぼくは、あるときにはソルジャーだった。ネクタイのしわが現状に復旧する。パラドックスである。あるときは、タイム・マシンの発明家になっていた。もとの状態。原状。気付いたのは一部であろう。秋のキノコといっしょである。枯れ木をめくれば、裏にごっそりとあるのだろう。
だが、情熱も大事だった。アドレナリンの放出のない芸術作品を誰がのぞむのだろう。ゲルニカ。平和で冷静な世界をあらわすゲルニカ。ユートピアとしてのゲルニカ。いや、草上の昼食。
ぼくは昼ご飯を準備する。冷えたビールの缶を開け、祝杯をあげてしまう。とうとうサグラダ・ファミリアは完成したのだ。いつ、これ以上の歓喜の瞬間があるのだろうか。ぼくはツナの缶も開け、マヨネーズでまぜてサンドイッチにした。簡素なパーティー。
冷蔵庫をさらに物色するとピクルスがあった。西洋漬け物。寝かすと好転するものもある。新鮮さが第一のものもある。できたてほやほや。
しかし、発注者もいない。これで面接の準備ができる。ウミガメは海にもどるのだ。成長しようが、我が子が野垂れ死にしようが亀に責任はない。あとは宇宙と地球のバランスだけだった。最後の空想にもどる。オスカー・ピーターソンがコンテストで特技を披露する。
「普段はなにを?」
「タイピストです」
「大柄ですね?」
「指先は器用です」
人生は出会いで構成されている。受け入れるのも排除するのも自由であり、性分が大きく未来を左右する。特技と情熱のミックスがプロへと誘導する。入口には力ある応援者がいるべきだ。ぼくには残念ながらいなかった。これも事実ではない。特技にも劣り、情熱を最優先させる環境もなかった。言い訳ばかりしている。勝手に妊娠したウミガメはどこかの海岸で卵を産んだ。身ごもった身体を心配して席をゆずる優しき勇敢なひとも見つけられなかった。そう考えながらビールをもう一缶開けた。
ぼくは部屋に戻り、ドラマの最終回を見ている。彼女の船出。幸先が良かった。拍手で迎えいれられた。
主人公は結局、若い女性を選んで長年、連れ添った酸いも甘いも知る彼女のもとを去る。うれしさもなく、新しいアパートで若い女性が買い物に出かけている間に、ベランダから暮れゆく夕日を見て、ひとりで泣いている。彼女は「道」というイタリアの古い映画が好きだった。悲しみの言い伝えとしての表し方とは別に、本質では男女が入れ替わったかのようなエンディングだった。男だけが悲しみの底を見る。途中で女性たちは飽きる。ぼくは、その古い映画の良さが分からなかったが、いま、このドラマとして生き返ってみると、神々しいようなすがすがしいような感じがした。
ぼくは同じようにベランダに立つ。夕焼けにはまだ早い時間だった。カラスも泣かない。早朝の小鳥たちもいない。町がもたらす音がする。快適でもなければ、騒音でもないいつものノイズだった。すると、玄関のチャイムが鳴る。
郵便配達員がそこにいる。制服と馴れた口調が、その職業の従事者であることを証明する。誇りのようなものもあった。ぼくは印鑑を探し、小さな枠に押す。受取人は彼女の名前だった。適度な重さであることしかぼくには分からない。昨日もぼくらの永続する関係のことを話し合ったばかりだった。ぼくは生活費を工面することを、もっとも貴いことだと思おうとした。その前に、遺作が生まれた。
証明する。証明する。
ぼくの最初にして前人未到の最高傑作を読んでもらうしかない。ぼくは生きていたのだ。
それは、次回からお目にかけることができる。
と格好ばかりつけたが、ビールの在庫の帳尻が一致するように、スーパーで同じ銘柄を買うことを、この迷走した文の終わりとして書き足す。蛇の足。象の鼻輪。キリンのネックレス。このぼくのライフ。
そして、書き終わった物語をみつめている。
書き終わっただけで、自分以外の目に留まるわけでもない。ショートがゴロを捕った時点で試合は終了なのだろうか。それは、違う。ファーストに投げて、審判がアウトを宣告してはじめて終わりになる。その役目は読むひとなのだろうか。
ひとの目に留まらない。それを不幸でもあり、幸福に浸かる逆の意味の温床でもあると考える。賢さのアピールは批判精神やけなしと同義語の世界なのだ。
ナット・キング・コールがカラオケ・コンテストの賞金荒らしであると想像する。もう、ぼくは暇になったのだ。思考は自由であることをしつけの悪い子どものように望んでいた。
「普段は、なにを?」と、いささかうんざりしている司会者に質問される。あんた、アマチュアとしては能力があり過ぎると、冷たい気持ちになっている。アマチュアは応援されてこそ、アマチュアだった。軽蔑されるぐらい達者で強いのは問答無用でプロである。
「小さな工場を営んでおります」
「プロになる気は?」
「ところで、プロって、なんでしょう?」
「単純に、君がいてくれたこと。君がしてくれたこと。ただ、それだけを感謝される人々ではないでしょうか」司会者は感謝されないで、いつも仕事を終えていた。不満だったのである。耳をくすぐる言葉を、誰もが必要としている。
産み落とした卵を掘り返す。ウミガメも泣いてばかりはいられない。恍惚も忘れ、我に返って誤字脱字を確認する。ひとは間違いに気付かない。余程、注意しても見落としてしまう。実践を実戦にしていた。ぼくは、あるときにはソルジャーだった。ネクタイのしわが現状に復旧する。パラドックスである。あるときは、タイム・マシンの発明家になっていた。もとの状態。原状。気付いたのは一部であろう。秋のキノコといっしょである。枯れ木をめくれば、裏にごっそりとあるのだろう。
だが、情熱も大事だった。アドレナリンの放出のない芸術作品を誰がのぞむのだろう。ゲルニカ。平和で冷静な世界をあらわすゲルニカ。ユートピアとしてのゲルニカ。いや、草上の昼食。
ぼくは昼ご飯を準備する。冷えたビールの缶を開け、祝杯をあげてしまう。とうとうサグラダ・ファミリアは完成したのだ。いつ、これ以上の歓喜の瞬間があるのだろうか。ぼくはツナの缶も開け、マヨネーズでまぜてサンドイッチにした。簡素なパーティー。
冷蔵庫をさらに物色するとピクルスがあった。西洋漬け物。寝かすと好転するものもある。新鮮さが第一のものもある。できたてほやほや。
しかし、発注者もいない。これで面接の準備ができる。ウミガメは海にもどるのだ。成長しようが、我が子が野垂れ死にしようが亀に責任はない。あとは宇宙と地球のバランスだけだった。最後の空想にもどる。オスカー・ピーターソンがコンテストで特技を披露する。
「普段はなにを?」
「タイピストです」
「大柄ですね?」
「指先は器用です」
人生は出会いで構成されている。受け入れるのも排除するのも自由であり、性分が大きく未来を左右する。特技と情熱のミックスがプロへと誘導する。入口には力ある応援者がいるべきだ。ぼくには残念ながらいなかった。これも事実ではない。特技にも劣り、情熱を最優先させる環境もなかった。言い訳ばかりしている。勝手に妊娠したウミガメはどこかの海岸で卵を産んだ。身ごもった身体を心配して席をゆずる優しき勇敢なひとも見つけられなかった。そう考えながらビールをもう一缶開けた。
ぼくは部屋に戻り、ドラマの最終回を見ている。彼女の船出。幸先が良かった。拍手で迎えいれられた。
主人公は結局、若い女性を選んで長年、連れ添った酸いも甘いも知る彼女のもとを去る。うれしさもなく、新しいアパートで若い女性が買い物に出かけている間に、ベランダから暮れゆく夕日を見て、ひとりで泣いている。彼女は「道」というイタリアの古い映画が好きだった。悲しみの言い伝えとしての表し方とは別に、本質では男女が入れ替わったかのようなエンディングだった。男だけが悲しみの底を見る。途中で女性たちは飽きる。ぼくは、その古い映画の良さが分からなかったが、いま、このドラマとして生き返ってみると、神々しいようなすがすがしいような感じがした。
ぼくは同じようにベランダに立つ。夕焼けにはまだ早い時間だった。カラスも泣かない。早朝の小鳥たちもいない。町がもたらす音がする。快適でもなければ、騒音でもないいつものノイズだった。すると、玄関のチャイムが鳴る。
郵便配達員がそこにいる。制服と馴れた口調が、その職業の従事者であることを証明する。誇りのようなものもあった。ぼくは印鑑を探し、小さな枠に押す。受取人は彼女の名前だった。適度な重さであることしかぼくには分からない。昨日もぼくらの永続する関係のことを話し合ったばかりだった。ぼくは生活費を工面することを、もっとも貴いことだと思おうとした。その前に、遺作が生まれた。
証明する。証明する。
ぼくの最初にして前人未到の最高傑作を読んでもらうしかない。ぼくは生きていたのだ。
それは、次回からお目にかけることができる。
と格好ばかりつけたが、ビールの在庫の帳尻が一致するように、スーパーで同じ銘柄を買うことを、この迷走した文の終わりとして書き足す。蛇の足。象の鼻輪。キリンのネックレス。このぼくのライフ。