爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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雑貨生活(13)

2014年11月27日 | 雑貨生活
雑貨生活(13)

 そして、書き終わった物語をみつめている。

 書き終わっただけで、自分以外の目に留まるわけでもない。ショートがゴロを捕った時点で試合は終了なのだろうか。それは、違う。ファーストに投げて、審判がアウトを宣告してはじめて終わりになる。その役目は読むひとなのだろうか。

 ひとの目に留まらない。それを不幸でもあり、幸福に浸かる逆の意味の温床でもあると考える。賢さのアピールは批判精神やけなしと同義語の世界なのだ。

 ナット・キング・コールがカラオケ・コンテストの賞金荒らしであると想像する。もう、ぼくは暇になったのだ。思考は自由であることをしつけの悪い子どものように望んでいた。

「普段は、なにを?」と、いささかうんざりしている司会者に質問される。あんた、アマチュアとしては能力があり過ぎると、冷たい気持ちになっている。アマチュアは応援されてこそ、アマチュアだった。軽蔑されるぐらい達者で強いのは問答無用でプロである。

「小さな工場を営んでおります」
「プロになる気は?」
「ところで、プロって、なんでしょう?」

「単純に、君がいてくれたこと。君がしてくれたこと。ただ、それだけを感謝される人々ではないでしょうか」司会者は感謝されないで、いつも仕事を終えていた。不満だったのである。耳をくすぐる言葉を、誰もが必要としている。

 産み落とした卵を掘り返す。ウミガメも泣いてばかりはいられない。恍惚も忘れ、我に返って誤字脱字を確認する。ひとは間違いに気付かない。余程、注意しても見落としてしまう。実践を実戦にしていた。ぼくは、あるときにはソルジャーだった。ネクタイのしわが現状に復旧する。パラドックスである。あるときは、タイム・マシンの発明家になっていた。もとの状態。原状。気付いたのは一部であろう。秋のキノコといっしょである。枯れ木をめくれば、裏にごっそりとあるのだろう。

 だが、情熱も大事だった。アドレナリンの放出のない芸術作品を誰がのぞむのだろう。ゲルニカ。平和で冷静な世界をあらわすゲルニカ。ユートピアとしてのゲルニカ。いや、草上の昼食。

 ぼくは昼ご飯を準備する。冷えたビールの缶を開け、祝杯をあげてしまう。とうとうサグラダ・ファミリアは完成したのだ。いつ、これ以上の歓喜の瞬間があるのだろうか。ぼくはツナの缶も開け、マヨネーズでまぜてサンドイッチにした。簡素なパーティー。

 冷蔵庫をさらに物色するとピクルスがあった。西洋漬け物。寝かすと好転するものもある。新鮮さが第一のものもある。できたてほやほや。

 しかし、発注者もいない。これで面接の準備ができる。ウミガメは海にもどるのだ。成長しようが、我が子が野垂れ死にしようが亀に責任はない。あとは宇宙と地球のバランスだけだった。最後の空想にもどる。オスカー・ピーターソンがコンテストで特技を披露する。

「普段はなにを?」
「タイピストです」
「大柄ですね?」
「指先は器用です」

 人生は出会いで構成されている。受け入れるのも排除するのも自由であり、性分が大きく未来を左右する。特技と情熱のミックスがプロへと誘導する。入口には力ある応援者がいるべきだ。ぼくには残念ながらいなかった。これも事実ではない。特技にも劣り、情熱を最優先させる環境もなかった。言い訳ばかりしている。勝手に妊娠したウミガメはどこかの海岸で卵を産んだ。身ごもった身体を心配して席をゆずる優しき勇敢なひとも見つけられなかった。そう考えながらビールをもう一缶開けた。

 ぼくは部屋に戻り、ドラマの最終回を見ている。彼女の船出。幸先が良かった。拍手で迎えいれられた。

 主人公は結局、若い女性を選んで長年、連れ添った酸いも甘いも知る彼女のもとを去る。うれしさもなく、新しいアパートで若い女性が買い物に出かけている間に、ベランダから暮れゆく夕日を見て、ひとりで泣いている。彼女は「道」というイタリアの古い映画が好きだった。悲しみの言い伝えとしての表し方とは別に、本質では男女が入れ替わったかのようなエンディングだった。男だけが悲しみの底を見る。途中で女性たちは飽きる。ぼくは、その古い映画の良さが分からなかったが、いま、このドラマとして生き返ってみると、神々しいようなすがすがしいような感じがした。

 ぼくは同じようにベランダに立つ。夕焼けにはまだ早い時間だった。カラスも泣かない。早朝の小鳥たちもいない。町がもたらす音がする。快適でもなければ、騒音でもないいつものノイズだった。すると、玄関のチャイムが鳴る。

 郵便配達員がそこにいる。制服と馴れた口調が、その職業の従事者であることを証明する。誇りのようなものもあった。ぼくは印鑑を探し、小さな枠に押す。受取人は彼女の名前だった。適度な重さであることしかぼくには分からない。昨日もぼくらの永続する関係のことを話し合ったばかりだった。ぼくは生活費を工面することを、もっとも貴いことだと思おうとした。その前に、遺作が生まれた。

 証明する。証明する。

 ぼくの最初にして前人未到の最高傑作を読んでもらうしかない。ぼくは生きていたのだ。

 それは、次回からお目にかけることができる。

 と格好ばかりつけたが、ビールの在庫の帳尻が一致するように、スーパーで同じ銘柄を買うことを、この迷走した文の終わりとして書き足す。蛇の足。象の鼻輪。キリンのネックレス。このぼくのライフ。

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雑貨生活(12)

2014年11月26日 | 雑貨生活
雑貨生活(12)

 結末をどうしようかと苦慮している。

 車輪はあるのだ。いささか錆びているようで軋んだ音を出す。でも、無理に力づくでここまで連れてきた。完成が近付く。ダムを造っても水は張っていない。それほど大きくない。ならば、これは樽なのか。真水はせっせと注ぎ込んだ。さらに成功に近付ける化学反応、発酵させる物質はどこに売っているのだろう。

 自分というチューブを使い切りたい。しぼり切りたい。しかし、結末のことで苦労しても、最初から読まないのが大多数なのだ。世界の六十億人以上が。最後までたどり着かない頂上を、ぼくは無意味に目指している。自己満足以外にこの状態を的確にあらわす表現があるのだろうか。

 だが、チューブをしぼっている。その作業が好きだとしか言いようがない。

 彼女のドラマの評判があがっている。徐々に、という緩やかなアゲンストで。いや、逆らっているのは無意識のぼくなのだ。ひとの成功がねたましい。これもウソだ。ぼくが家事が得意になればいいのだ。丸くおさまる。安定した生活。三食昼寝付き。いや、表現者のはしくれであることも堪能する。

 ハッピー・エンド。悲劇。メイク・ドラマ。

 ドラマを数回、見逃しても途中から盛り上がることは可能なのだ。すると、結論がより重要になる。だが、ぼくは子どものころに好きだった番組の最後をどれほど覚えているだろう。なにが、印象にのこらす核なのだろうか。パトラッシュは眠る。ぼくも一旦、眠ることにする。

 昼寝から目覚めても解決策がその間に勝手にできあがっているわけもなかった。数時間、人生を無駄にしただけである。では、無駄ではない人生などどこにあるのだろう。ぼくはひとりで頭脳明晰にならないまま質疑応答をしている。ぼくは知り得る範囲の四文字熟語を考えることになってしまう。

 寝起きの脳はうまく働いてくれない。お買い物がてら、外を歩く。看板を目にする。水回りのトラブル。つまり。そして屋号。ぼくは、つまり、というのを「イット・ミーンズ」と口に出している。要するに。ぼくは結論に拘泥していた。配管にものが詰まっている状態のことなのだ。つまる。

「あ、靴下」とも、言っている。道路に落ちているのは手袋だった。靴下が落ちる可能性は靴がある以上、少ない。ぼくの脳は結論ではなく、退化に向かっている。ちがう。これぐらいの間違いは誰しもがする。

 漠然とした色や形状でひとは判断を下している。カボチャやトマトは律義だった。青い魚は切り身になって正体をごまかした。細い野菜も、大幅な区別を不鮮明にする。アスパラ。いんげん。ぼくの脳は数パーセントも使っていない。

 袋につめ、マーケットを後にする。メルカート。マルカーノ。そんなことを考えながらぼくは大判焼きを店の前の屋台で買う。たい焼きでもなく、人形焼でもない。ましてや、タコ焼きでもない。中味の好みで選んだ。ひとの中味など見抜けない自分なのに。ぼくは、マルカーノのなにを知っているのだろう。

 では、シピンは? ジョンソンは? マニエルは?

 ひとりはメッツの監督になった。たしか優勝もしたはずだ。ひとりはデッド・ボールを受けて、特注のヘルメットをしていた。知っているのは、それぐらいだ。ひとは、ひとのことを上澄みでしか理解していない。

 友情を深めるということも、全員が会社員になってしまえばその余裕もない。たまに会って酒を飲む。あとは冠婚葬祭というイベントとでしか会わなくなる。変化なども知らず、再婚相手のことも知らない。ぼくの好奇心はどこに捌け口があるのだろうか。

 小学生のランドセルを追うように自分も家に向かっている。好奇心の強そうな娘が家にいたら、どれほどぼくの仕事の幅も増えるだろうと責任転嫁のような他力本願のようなことをぼんやりと考えている。また、四文字熟語の魔力に憑りつかれている。

 冷蔵庫に居場所があるものはそこに押し込め、日用品は棚や引き出しにしまった。ぼくは結末に向かおうと挑んでいる。最終コーナーのようなものにいる自分を発見する。後ろを振り向く。出来もよく分からない。だが、走ってしまった。今更、抹消することも抹殺することもできない。彼は彼で、どんな親であろうと成長したいのだ。

 疲れて彼女が帰ってくる。サバの味噌煮を彼女がつくる。好奇心の強かった少女かもしれない、彼女も。彼女の父はその生活が楽しかったんだろうなと想像できる。ぼくが別の世界にいる。どこかで合流する。マルカーノみたいに彼女がいるチームに加わる。世界の反対なのだ。ルールも違うのだ。馴染むのには時間がかかる。共通点は、サバの味噌煮ぐらいだった。共通であることには差異が少ないということを立証しなければならない。サバの味噌煮のアレンジなどいらない。これであればいい。ぼくは満足感とともに箸をすすめる。結末には骨がのこる。つまりは背骨として貫く主題をそもそも見失っているのだった。原則としてのサバの味噌煮。要するに、いや、裏返してもサバ。サバの一味。サバの友情。集団行動は廃され、孤独になって皿にのってしまった。

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雑貨生活(11)

2014年11月23日 | 雑貨生活
雑貨生活(11)

 書き初めというものを思い出している。手の外側が汚れる。あの姿が頑張りだった。

 同時に筆という文字がつかわれる最初の経験も思い出している。筆には是認も抵抗もできない。ただ名称を受け入れる。自分の名前もそうだった。抗議はできないのだ。

 同じ顔がないように、自分の名前も同じ字画のひととは会わなかった。「ジョン・スミス」という名前があるらしい。「山田太郎」のような不特定で匿名性を与えるものとして。例題。太郎と花子は買い物をして、のこりのお釣りと買ったもののりんごとみかんの数を調査される。

 はじめるのもむずかしく、途中からの再開もなかなか困難だった。ぼくの頭は寄り道を理由づけられている。フェリーニならその過程を映画にできるのだろうが、物語という根幹を離れられない自分には受け入れられない内容だった。斬新さをおそれている。

 つづきが思い浮かばない。ひとは困ると空中をぼんやりと眺める。視線がただよっている。見たい対象もない。取り敢えず意味もなく冷蔵庫を開ける。CDが終わってしまったので盤を変える。音符の数と、文字の数と、その組み合わせを考えてみる。考えて、もし、答えが出たとしても、さらにつづきが生まれるわけでもない。タバコでも吸えるひとは、ここで一服という瞬間だろうか。すると、電話が鳴った。ぼくはそこにあるのを忘れていた。リモコンで音楽の音量を落とし、受話器を取った。

 間違い電話だった。また音量を上げる。劇的な変化など世の中には一切ないようにも思えてきた。

 にわとりならば、じっと座っているだけで卵が産まれるような気もする。卵というぼくの作品を数種類の料理として誰かが加工してくれる。

 家のチャイムが鳴る。新聞の勧誘だった。サービスの条件を提示する。集中できないことを言い訳にする環境をみなが作り上げているようだった。机に向かう。また、空中を飛翔する我が目であった。ドリブルが下手なサッカー選手。潔癖症なラグビー選手。スクラムもできない。シャイな関取。一枚、覆うものを常に欲しがる。文字を操れない自分。すすめたい。一ヤードでも遠くに。

 紫外線をおそれるゴルファー。対人恐怖症のテニス選手。手のふるえが止まらない画家。仕事は我慢の連続なのだ。

 夕方になり、夜になる。豆腐屋の到来を告げる音がして、学校のチャイムも終わる。こういう無為な一日もあるのだろう。彼女がやがて帰ってくる。ぼくは風呂場を掃除する。毛というのは、いったん身体から離れると気味の悪い代物だった。

 彼女が帰ってきた。料理をはじめる。手際がいい。ふたりでだらしない格好で寝そべり、ドラマのつづきを見る。

 主人公は意外なことに若い活発そうな女性に惚れられて、誘われるままに外で会っている。何をしていたか問われてウソの捻出が苦手であることを暴かれる。あたふたして、追求されるまま白状してしまう。

「これも、やばいね」ぼくだと思っているひとが複数いるのだ。
「なにが?」
「みな作り物を、作り物と思わないひともいるからね」
「あなた、あんなことしないじゃない。してるの?」
「まさか」

 ぼくは契約というものを大事にする性質なのだ。自由契約になってから次を求める。次のトレード先を事前調査して確約してから、前の契約にケリをつけるひともいる。いろいろだ。

「どうだった?」
「楽しいね。これなら反響もいいんだろうな」
「そうみたいだね」

 評判がよければうれしいものだ。褒め言葉がひとを動かす原動力として有効な働きをする。貶されてよろこぶひとも稀にいる。負をエネルギーに変換させるときこそ力を発揮するひと。いろいろだ。

 ぼくはグラスやコーヒー茶碗を洗う。彼女は手に入念にクリームを塗っていた。眉も心細げだ。一日を終えるときにいっしょにいるひと。ぼくは一日、ウソをつかなかった。

 電気を消す。ぼくの周辺にインスピレーションの泉があるようにも思う。それは彼女のものかもしれない。

 ぼくは大工のような職業をイメージする。道具も揃っている。どれも、使い慣れたものだ。木材もあり、釘も瓦も用意されている。準備は整い、あとは作業手順通りに動けばいいのだ。創造性も感じられる。達成感もある。高揚も味方になり、ひとに使われるうっとうしさもない。ぼくは眠ろうとしていた。となりの女性はすでに入口から出口に向かう数時間のうちにいるようだった。トンネルの中。明日も生きているという確証もないのに、みなが簡単に眠った。

 あっという間に翌朝になっている。夢も見なかった。彼女は仕度をしている。目の周りも手がかかっている。ぼくは急に思い立って、キッチン・タイマーを三分にセットして歯をみがきはじめた。歯のみがきかたを完成させなければならない。しかし一度、達成したら終わりというものでもない。毎日、毎日、一日数回、くり返すものなのだ。アラームがなる。口をすすぐ。ひとが不快にならないようマナーにも気を付ける。だが、今日も誰かと会う約束はない。鉛筆でも削ってこころの準備をしたいが、その作業もいらない。中空を見る。ヒントが欲しい。若い子に誘われる運命を考える。完全なアリバイを検討する。ウソには、均衡をはからすためか、いつもと違う要素がまぎれこんでしまうのだろう。挙動によってばれてしまう。ばれて困らないこともあるだろうが、多くはのちのち損害を、代償を払うはめになるのだ。

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雑貨生活(10)

2014年11月22日 | 雑貨生活
雑貨生活(10)

 ぼくはグッド・バイという離縁を目的とする物語を読んでいる。

 大食漢(副産物の長所か短所)の美女を見つけ、金銭や食事と引き換えにその女性を連れまわして無言で愛人たちと縁を切る。いや、ひとことだけ口にする。「グッド・バイ」と。それなりのお金を包んで。それほどまでの圧倒的な美女なのだ。写真や映像というものではないので、どのようにでも書ける。ぼくは、笑っている。休日の彼女は次回作で頭を悩ませていた。だから、イライラを正当化させる。

 ぼくは買い物を頼まれる。外は晴れていた。家に閉じ困っているのがもったいない陽気である。だが、ただなんとなく外に居つづけるのもむずかしい。用が終われば帰る。ずっと帰りたくないと駄々をこねる少年たちがむかしにはいた。本当のホームレスになりたいわけでもない。先延ばしをのぞんでいるのだ。

 先延ばしは決着ではない。解決はここを区切りにするという意志なのだ。表明なのだ。

 近所の公園で休憩をする。のどかであるという善を全身で感じる。年金をもらうには賭け金がいる。そういう立場にいる自分を予想する。医者や弁護士という高給取りをイメージする。教育に元手をかけ、何年後かに回収する。具体的なイメージを教えてくれない、またはつかんでいない両親のもとで暮らした。恨みもないが、ただ空室の部屋のようなものを漠然と与えてくれたことだけに感謝している。そこに荷物を放り込むのは自分だった。その荷物の部品を組み合わせ、なにかを作ろうとしている。失敗もしていないが、成功もしていない。

 忘れられたボールが、向かいのベンチの下に挟まっていた。球体はどこにでも転がる。自分もそうなりたいと思っていたが、あのボールのようにいくつかのこだわりのためか、さまざまな場所で引っ掛かっていた。すると、球体であるより立方体であることを望んでいるようだった。スムーズさに欠け、角がある。

 ゆっくりと歩いてもいずれ家に着く。彼女の仕事ははかどっているだろうか。もともと、集中力のあるタイプなのだ。女性と集中力は反語であるような気もする。

「遅かったのね?」
「暖かいから、ちょっとぼんやりとしていた。太陽、気持ちいいよ」

「あとで行く」遅くても、反対に早くても言葉が出てくる口。そうしながらも手は動いている。ぼくは袋から品物を取り出し、冷蔵庫にいれる。
「あ、忘れた」
「何を? うっかりさん」

 ぼくは返事をせずに、もう一度、スーパーに向かった。失敗を揉み消すのだ。棚からチーズを探す。彼女が最近、気に入っているもの。意外と高いものだった。いままでは値段も知らずにぼくも食べていた。彼女は段々と生活レベルを上げていくのかもしれない。現状維持という負け惜しみ的な、後ろ向きな考えにこだわっている自分もいる。これだから、球体ではないのだ。

「チーズあった?」行動は看視されている。
「あったよ、ほら」ぼくは鼻の先に突き付ける。

「やっと、終わった」彼女は背をのけぞらせる。満点でもないけど、不満もない。そういうときの口調だった。いろいろなことを学んでしまう、いっしょにいると。

「どう?」
「まあまあね。お昼にする?」手際の良さ。ゴールへと向かう道筋。

 ぼくは理想自体を不必要なものと定義する。いま、目の前にあるものが経常的に正しいのだ。しかし、未来を美化させ、過去をひたすらなつかしむ。いまこそ、唯一、愛するに値するものなのだ。

 ぼくはパスタを口にする。
「さっき、なに読んでたの?」
「グッド・バイ」

「あれ、好きね。でも、一方的な物語」
「女性は食い意地が張っているという話だよ」
「食べる姿って、色気があるのよ。ほら」彼女は演じてみせる。本当は演じるひとの元を書くひとなのに。

 太陽を浴びる。微風を感じる。そして、ぼくらは交互に風が混じった表現を言い合うことになった。台風からはじまり風来坊で終わる。

 彼女の背の高さ。細み。太さ。凹凸。ぼくは理想があったのだろうか。巻尺を持ち歩き、計りつづけて探したのだろうか。髪の長さ。流行。ホッテントット。

 ぼくの表面。表層。できること、とできないこと。したいこと。したくないこと。しなければならないこと。してはいけないこと。それらの円の重なりの中心にぼくがいるようだった。ひとの関心は少しずつずれていき、方眼紙の点もそれにつられ、前後左右に動いていくのだろう。

「夜ご飯、なんにする?」

 生活の最たる問い。ぼくは不思議と嫌悪感をおぼえる。
「となり駅の近くに新しい店ができてたから、そこ行く?」
「なんで知ってるの?」答えではない。
「この前、そこまで歩いたから。運動不足解消で」
「どういう種類の料理?」

 ぼくはざっくりと説明する。そして、財布の中味を頭のなかで確認する。彼女の収入に頼らない。たまには、おごる。ぼく自身のルールを作り、ぼくは自分をその鋳型に当てはめる。球体ではない。

 彼女は納得する。物語のヒントのようなものを、つかみかけて手放してしまう。球体に近付く風船。空に舞ってしまう。それも彼らの仕事だった。数パーセントが空に消える。首輪をつけて飼いならすこともなかなかむずかしいのが同じく自由な発想の芽生えだった。

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雑貨生活(9)

2014年11月21日 | 雑貨生活
雑貨生活(9)

 ぼくは断られることに馴れていく。習慣化する。

 ぼくの履歴書の役目をした短編は何人かの手に回り、コピーがあるので処分された。破棄される運命のものをわざわざ生み出す。生み出してしまった。絶滅収容所。拒否の世界。

 自分の価値が、ひとの目には認識されない。ぼくは彼女をきちんと評価している。社会も同じく評価している。だから、彼女にはその価値があるのだ。疑うことすらできない。彼女はぼくを好きになった。世間はぼくの値打ちを認めていない。すると、どちらかの目の焦点が狂っていることになる。ぼくは、こうして冷静に判断できる能力を有していた。

 三話目のドラマを見ている。疎遠になりかけている友人からも電話がかかってくる。ぼくの近況が誤って伝わっていく。伝言ゲームのように。ちょっとずつ改悪されていく。不思議なものだ。ぼくは前の交際相手が、もし見ていたらどう評価しているか急に心配になった。ぼくのたけのこ。

「ぼくの評判がどんどん悪くなっていくんだけど?」クレームは伝えるべきなのだ。誠実に。

「あれ、あなたじゃないのよ」彼女は取り合わない。「それに、ドラマ自体は、みんな褒めてくれてるし」
「そうか。世界で不満があるのは、ぼくだけか」ぼくのたけのこも。
「でも、何度も見てるんでしょう?」

「その通り」笑いというのは安定した大人が楽しむ最上級のゲームなのだ。飢餓の只中や地震の瓦解現場で楽しむほど必要ではないかもしれないが、別の落ち着いた日々に最もリラックスさせるのは笑うという受動的な幸福であるのだろう。ぼくはそして、笑っている。

「あれ、残念だったね。精一杯、頑張ったのに」

「まあ、仕方がないよ」頑張ったから残念なのか。もっとふてくされるべきなのか。ぼくは自分の能力を社会に提示しようと願っても、途中で堰き止めてしまう人間が介在するのはなぜなのか。それが彼の仕事なのだ。選別こそが人生で正しいものなのだ。ぼくらは日々、選ぶ。選ぶというのは反面、選ばれない多数のものが存在することでもある。シチューを食べたいと望めば、味噌汁は放棄され、カレーライスを嘱望すれば、とんこつラーメンの出番はない。だが、次がある。大人は無理かもしれないが、青年には山ほどの希望があるのだ。

 ぼくは頼まれて友人の仕事を手伝っている。とある倉庫を片付けている。ビルが解体される前に、何でも放り込んでいた倉庫があった。その荷物を選別して、他の小さな場所に移動させなければならない。作業に励んでいる。仕事の代価は肉体を動かすことに比例するという法則のなかに友人はいた。その暮らしが肉体を頑健にした。ぼくの指はささくれひとつない。

「あれ、お前の彼女が書いてるんだろ? すごいな。おもしろいし」
 また賛同者がひとり。
「で?」
「え?」

「いや、あのクズみたいな人間のモデルがどうとか、いつも訊かれるんでね」
「そうなんだ。気にならないけど」昼休みも終わる。労働は空腹をもたらす。家に帰ってビールを飲んだら、よりおいしいだろうなと想像する。この想像こそがご褒美だった。しかし、いまは満腹感がもたらす眠さが襲ってきそうだった。その誘惑を振り払うように仕上げとして熱いコーヒーを飲んだ。

「さ、午後も頑張ろう」と、友人は自分とぼくに掛け声をかける。

 ぼくは考えることを止めている。止められている。まだ未知の自身の傑作の出だしなど、頭のなかから払拭されている。ぼくのたけのこも消えた。もちろん、煮こごりもカボチャもいない。目の前の物体の有用、不必要を区分けしてトラックに積むだけでいいのだ。外には二台のトラックがある。居残るものと残骸となるもの。ほぼ同量の荷物がおんぶされるようにトラックの荷台に積まれていった。

 それに合わせて当然のこと倉庫は空になる。ここも解体される。別の業者が請け負うのだろう。新しい更地には何かが建ち、ぼくらはその原型を忘れる運命にある。遺産としてのこすほど価値のないものたち。

 四時過ぎには用は済んだ。ぼくは手と顔を洗った。腕にはいくつかのすり傷があった。遠くに高いビルが見える。乱立する都会の中央。あの中に何万人もの労働者がいて、仕事を終えた余暇にはドラマを見るのだろう。自分のきょうの一日はクズではなかった。対価どおりの働きはしてみせた。

 トラックで途中の駅まで送ってもらった。彼は、残るものの方のトラックに乗っていた。そこまで行き、明日、別のひとが積み下ろすそうだ。ぼくは顔も知らない。彼女のドラマを見ているひとびとも多くは知らない。知らないということは幸福だった。ぼくの作品を却下させたひとは知っている。好きこのんでそうしたわけではないだろうが、知るというのは、そのこと自体に悪が含まれるようだった。

 ぼくは切符を買い、途中で念のため、ビールを買った。絶対に冷蔵庫にはあるのだろうが、いつもより多く飲むかもしれない。だが、実際は彼女に揺り起こされるまえに消費した量はたった一口程度のものだった。

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雑貨生活(8)

2014年11月20日 | 雑貨生活
雑貨生活(8)

 ぼくは文献を調べている。

 人生のさまざまな小事も判例という前例が正しい掟として中心に君臨するのだ。

 男性という愚かで純情な生き物。女性という分配利益に対して狡猾な猛者たち。吉原という場所で働く。身請けという言葉もある。ぼくらはヴァージニティーの神々しさを尊ぼうという共通の認識で生きてこなかったのか。それとも、すれっからしという事実をひた隠しにする生き物がいいのか。

 リハーサルを繰り返し、遊びという境遇から軽々と越えてしまう。それが情とも呼べた。歴史という言葉を使ってもいい。落語というのも、大きな天上の愛でも、反対に荒んだ憎悪でもなく、もっとささいな情で動くひとたちを肯定する成り立ちの話芸のようだった。ぼくはラジオを聞いていた。惚れた女の解放を願っている男性。

 ドラマの二話目を見た。実家から電話がかかってくる。

「あれ、あんたなの?」

 世の中は現実とフィクションの曖昧な境界線をすぐに飛び越えてしまうひとたちのエリアだった。

「ちがうよ」
「でも、彼女でしょう、書いたの。あんなに良い子なんだから、迷惑かけないでね」
「かけないよ。幸せにしてるよ」何の根拠も、但し書きもない口からのでまかせ。

 ぼくは電話を切る。通話から解放される。おじいさんは芝刈りで、おばあさんは川で洗濯する。ぼくは思案をして、彼女は外で働いている。夜もドラマを書いている。

 ぼくは疑っている。彼女とあの担当者の親しさを。ぼくは証明できない。未来の傑作に頭は占有されてしまっている。他のことは些末な立場にしておく。ぼくは男女の機微を分かっていない。分かっていないからこそ文献を漁っているのだ。

 芸術にそもそも判例など必要なのだろうか。ピカソの偉大さは前例がないからに他ならない。だが、文字をつかい、ある程度の人数に読んでもらわなければならない。画期的なことなど不可能なのだ。入り込む余地もない。その大勢は不服の大多数として生まれ直し、こぼれ落ちるのが数人の味方であり、わずかの賛同者が誕生する。その前に個人作業がある。その仕入れをいまはしている。

 自分の行動ですら言い訳を探している。

 ドラマの二話目。だらしない主人公の恋人は職場で優しい男性が気になりかけている。センスの良い洋服。回りを巻き込んでも優雅にすすめる仕事ぶり。ぼくは、かたつむりのように殻のなかで仕事をしている。結局、あの日は自分でクリーニング屋に行き、彼女の洋服を受け取った。体のいいヒモである。受付の女性と無駄話をする。危害を加える人間ではないのだ。昼間、職場に出かけなくても。

 母は息子の恋人としてある女性と会う。気に入るも、気が進まないも自由の立場にいた。天秤の皿にはなにも置かれていない。水平という正しい基準。そこにひとつ好意が載せられる。加算。しくじる。ちょっと減点。その微妙な変更を加えて、一定の場所が決まってしまったようだ。自分の息子と見合うという地点より、高評価の義理の娘候補ができる。むかしのひと。その彼女の親に迷惑がかからないよう願っている。彼女も身請けされ、解放される。

 迷惑をかけないという否定的なスタンス。幸せにするという能動的な約束。反対と賛成。応援とヤジ。

 労働はある組織が利益をあげるためにして、その分け前をいくばくか受け取るための行為。彼女はいまそれをしている。あの担当者はそのためにぼくの文字を読んでいる。将来の利益を生まなければ没である。簡単な、とても簡単な理屈だ。没になる可能性が大きいものをまじめな気持ちで書いている自分の行為は、すなわち労働ではないという結論に達する。では、なんだ? 楽しみ。しかし、これは楽しみだけで構成されていない。苦しさ。現実からの逃げ。趣味。では、落語家はなんなんだ?

 ぼくは資料を読んでいる。ある関係性や、親しさの継続を望むことが恋慕という状態のようでもあった。そこに神秘も、誠心も、聖心も、ヴァージニティーも決して必要ないようであった。独占すらいらないのかもしれない。ぼくは彼女の浮気をおそれている。浮気ではない、ぼくの名誉が汚されることが耐えられそうにないので恐れている。拒みたいと思っている。

 彼女の書いたものでひとが動いている。誰かが台本にして配り、指揮するひとはすべてをコントロールして、俳優は演じ、五十分ほどの枠に誰かがまとめている。そこに利益が生じる可能性があるからだ。他のテレビ局の裏番組と競い、勝利者は次の出番があった。似た内容を要求され、新しい題材を熱望する。似たものが生まれるには、ぼくのだらしなさは維持されなければならず、新しいものであるならば、別のヒーローがいる。

 しかし、彼女の夢はたしかに叶いかかっている。幸せなど平等のタイミングでやってこないのだ。仮面ライダーとショッカーは悲しいかな、共存できない。中東の隣り合う地域も、またそうである。

 身請けの統計を取りたい。グラフにして説明してこそ、会社員であった。当時の女郎はこれほど。衛生的には満足かどうかも調べなければならない。すると、芝浜はここからキロでいうと何キロで、漁獲量は最盛期ですとこれ、と示すことが会社の方法である。ぼくは、自分自身で困っている。

 ぼくは文献に飽きている。自分に似た主人公を再度、画面に映す。

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雑貨生活(7)

2014年11月19日 | 雑貨生活
雑貨生活(7)

 ぼくは、ひとに会ったときに感じる疲れを翌日まで連れてきてしまっている。幼子の手を引くように。彼女は、なんだか怒っている。調整をのぞんだ面会で、古風な和式な建築物の接合部のようにうまく組み合わされなかったことを悔やみ、恨んでいた。

 なぜか、彼女は担当者と同じく、ぼくの向かいにすわっていた。ぼくはその立場の差異に戸惑っていた。彼女はぼくといっしょに質問の受け答えをしたり、援助をするのが役目ではなかったのか。帰りにそのことを訊く。

「チャンスはフェアじゃなきゃ」

 そもそも、自分の交遊関係を利用しての対面など、ぼくに分こそあれ、足を引っ張るような真似はしなくてもいいように思う。ぼくは履歴書のように自分の書きあげた短編をそっと出す。男性はそっと読みだす。

「コピーは?」
「あります。プリントなら何度でもできますから」

 オリジナルがむずかしい世の中。世界にひとつしかないサイン。マリー・アントワネットのジュエリー。

「帰ってから、ゆっくりと読みますね。きょうは楽しく食事でもしましょう」

 だが、楽しいのはふたりだけのようだった。彼女のドラマをべた褒めしている。もちろん、される理由もある。ぼくも何度も見て、来週を楽しみにしていた。彼らの話は尽きない。ぼくはネクタイがもたらす苦しみすら感じはじめていた。ひとは機転の利くタイプと会って夜の時間を楽しみたいのだ。彼女はどこまでも能弁になれた。その行為はぼくへの援護射撃であることは知っている。しかし、いささかやり過ぎているようにも映る。ふたりが恋人同士でぼくは見届ける親戚のようだった。ぼくはあるいは嫉妬深いのだろうか。

「普段は、家庭料理を味わっているんですよね?」

 当然のことを当然のこととして訊く。ひとはそこから逃れられない。

「彼女のたけのこ、おいしいですよ」
「そんな繊細なこともするんですね」ハンサムくんは、料理に使うべき語彙を知らないのかもしれない。ぼくは嫉妬を加速させる。いや、自分の劣等感の出口を誤りだしている。

「あれ、全部食べた?」
「食べたよ」

 彼女のたけのこ理論を担当者は聞いている。ひとの好みはずっと同じで一定しているのだと。「わたしの方から好きになったけど、彼の前の恋人と自分が正反対なので、告白されることもないのは知っていたし、反対にそれとなくわたしをどう思っているのか探りを入れても、煮え切らないし、決心して、わたしが好きと告げたら、オーケーしてくれた。あっさりと。でもね、これも復讐なのよ。彼は前のたけのこを好きなままなのよ。わたしは、煮こごりかなんか」

 担当者は素敵な感じで笑う。いや、不敵な笑いか。

「男性なんか、そんなものですよ。初恋をひきずり、簡単に終わらせてしまった恋を裏表にしたりして点検して」

「いや、この通り、ぼくは彼女を好きでいられる」ことばというのは微妙に変化してしまう、口から出る際に。

 ぼくらは帰り道を歩いている。

「好きでいられる? むりやり、好きになってくれているってこと?」

 口げんかのための口げんか。それ以降も、ぼくの応対のまずさを並べている。ぼくは書きかけの傑作に意識を集中しだした。胃から腸に、きょう口にしたものが移行していく。ぼくの傑作もそういう過程を踏んでいるのだろう。産道を抜ける。お母さんは苦しむ。もう少しの辛抱だ。

「読んでくれるのかね?」ぼくの質問。

「わたし、それ、読んだっけ?」彼女の再質問。
「朝のうちに書き直したから、ちょっと変わっているよ」
「いま、話して」

 ぼくらは歩いている。電車が横を通り過ぎる。たくさんのひとを運ぶ乗り物。家族が待つ家。ぼくは好きと証明できるのか。たけのこに飽きて、カボチャだって好きになれる。いや、こちらの方がおいしいのだ。復讐なんて、そんな野暮な言葉を持ち出してはいけない。

「おもしろそうね。でも、なにかが欠けている。足りてない」
「どんなこと?」
「ガッツのようなもの」

「これは、そうしたガッツとか真剣さとか敢えて、排除させるから成功するんだよ」
「そう」ひとは声のトーンだけで小馬鹿にできるのだ。「アイス、冷たいアイス食べたくなった」
「あったかいのも、ぬるいのも、きっと、売ってないよ」
「いやな性格ね、ほんと」

 ぼくはレジ前に並んでいる。ただ、ぼんやりといままで読んだ本のあらすじを頭のなかで棚卸しした。さよならを切り出す物語。出会いという本能的な喜びをあらわす本。後悔という甘美さを示す内容。突き進む状況を壊される変化の時期。

「袋に入れます?」ぼくは現実から遊離していたが、その問いでようやく連れ戻される。
「ひとつでいいの?」

 ガードレールにもたれる彼女。袋を破り、棒についた冷たいものを唇で挟む。

「おいしい?」
「おいしいよ、食べる?」答えを得る前に、彼女はもうぼくの口先にアイスを差し出していた。食べようとした瞬間、滅多にしないネクタイの上にしずくが落下した。「ああ、だめね。仕事前にクリーニング屋に寄るよ」と彼女は明日の予定を多少、変える。
「引き取るものないの?」
「どうだったかな」とあれこれ頭に映像が行き交う様子を見せ、ぼくが口にできなかったアイスを最後まで頬張った。

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雑貨生活(6)

2014年10月25日 | 雑貨生活
雑貨生活(6)

 ぼくは彼女が書いたドラマを見ている。最初はうれしい気持ちでいっぱいだったが、そのうち、その気分は干潮の浅瀬に打ち上げられた流木にでもなってしまったようだった。

 主役もいれば脇役もいる。主役といっても栄光を帯びないことを知らされる。その駄目な主人公はまるでぼくのようだった。彼女の目を通して映るぼくはこのようなものなのだろう。しかし、嫌いであるということでもなさそうだった。どこかで愛着も感じられる。しかし、こころのどこかで自分をハンサムだと定義した感覚は猛スピードで振り落とされる。高速道路に散らばったぼくの自尊心。そして、通行止め。回収中。

「あれ、ぼくなのかね?」
「さあ」

 第一話は終わったところである。ぼくはつづきが気になる。

 発注や依頼があるので、工場の機械は作動する。職人が積み重ねた経験と、長年で培った勘が、思い通りの品々を完成させる。納期までに。多少の欠陥品を取り除いても、満足いく数は充たされたのだ。

 ひとの頭脳もこういう作業に向いているのだろうか。彼女は、とっくに書き終えて、製本された台本として俳優さんの手にも渡っている。言い間違いや読めない漢字の暴露で、リハーサル中に失笑も起こる。もう一回、やり直せばすむ話だ。ひとは台本のもとに行動する。

 その滑稽なヒーローのふるまいが相変わらず、引っかかっている。彼女を引き留める会社と、独立を願う意識が拮抗して、彼女をイライラさせている。しかし、まだ出社のしがらみを断ち切れないで、彼女は化粧をくりかえす。カバンを持ち、玄関でふりかえってキスを強要する。いや、要求する。

「ね、今日だけは、丁寧にひげを剃ってね。それで、待ち合わせに絶対に遅れないでね」

 念を入れる。念入りに。彼女は自分のものを売り込む力より、ぼくを後押しすることに必死と呼べるまでのエネルギーを注いでいる。ひとは、どんなことより身だしなみが重要なのだ。笑顔で相手のこころを勝ち取り、その恩恵で作品もやっと手にされる。出来具合いなど二の次なのだ。見栄えの良いもの。立派に見えるもの。価値がありそうなもの。エッフェル塔のようなもの。

 ぼくは横になり、豆をつまみながら昨夜のドラマを見ている。ぼくは徹夜気味の彼女の姿がまず浮かんでしまう。時間は限られていて、日中の仕事を終えて、眠くならないよう軽めの夕飯ですませて、机に向かっている。女性のお尻など、長時間、椅子にすわるようには作られていないのだ。

 ぼくは一日、仕事をしていた。仕事のようなことをしていた。周辺には誘惑が多かった。爪切りは伸びる量と切れる量のせめぎあいで汲々としており、鏡は自分の顔にできた微細な変化を見逃さない。眉と眉の間の適当な距離をはさみで調べる。犬が眉毛を描かれている。あの心細そうな表情を思い出して、ひとりで笑う。

 ぼくも机に向かう。男性が指先の動きだけで稼ぐには、どこかで不正があるような気もしていた。重い荷物を汗水たらしてかつぎ、昼飯はどんぶり飯をがっつく。ものの数分で食事も終わり、新聞紙をひろげただけの固い床で昼寝をする。胃薬も程度の良い枕も必要ない。安楽な感触。考え事は無数にあった。

 なぜ、書いているのか。ぼくにある闇は、ひとりになり、発表できる範囲というのを自分のなかでぎりぎりに設定して、その許す半ばあたりのことを書こうとしている。闇は深いのだ。反対から見れば、とても浅いのだ。

 ぼくは立ち上がり、クローゼットのなかで着られることもなくぶら下がっているスーツを見つける。外に出して風に当てる。今日は出番だ。しかし、ネクタイがない。引き出しを開けると器用に丸められ、柄だけは分かるように入れられていた。巻きずしを選ぶようにぼくはそのひとつをとる。わさび色。

 なぜ、面接時のような不安な気持ちでいるのだろう。

 その不安感を忘れるように、追及をかわすように、ぼくはコーヒーを入れ直して、また昨日のドラマを再生した。

 さすがに見せることを求められている俳優が演じているのだから当人よりいくらかまともに見えるが、いつもの定番のよれよれの服装で、靴もかかとをおさめることもなくだらしなく履かれている。それが許されるのはいくつぐらいまでなのだろうか。

 ぼくが言ったであろうひとこともセリフとして成立している。ぼくは観察者だったのだ。圧倒的なまでに無言のメモが支配する頭首だったのだ。あれ、当主だ。主だ。違うか、党首だ。ことばは多過ぎる。

 だが、いや、だから、ぼくは自分の素行を観察されているなど思ってみなかった。視線はこちら側からの一方通行で、自分の振る舞いには無防備だった。だが、こうして、それらしき人物が作られて、演じられてしまっている。

 素行を注意、指摘されることなど、とっくに終わっている事実のはずだった。きょう、会うべきはずのひとは、あのドラマを見てしまっているのだろうか。「あ、こいつが、あのダメ人間のモデルか?」と、思ってしまうのだろうか。ぼくはドラマを見ながら段々とその主役をマネしはじめている自分を感じる。これは、マネか、それとも、原型の模倣か。鋳型はどちらなのだ。丹念な仕事を売りにする職人なら直ぐに見分けられるのだろうが、ぼくにはそこまでのゆとりはない。ぼくはひげを剃る準備をしなければならない。犬のように、愛らしく見える眉も描かなければならない。

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雑貨生活(5)

2014年10月24日 | 雑貨生活
雑貨生活(5)

 ぼくは万引きを常習とする。

 私の家の玄関にきれいなパンプスが置いてある。
 黄色と黒のリボンがついている。

 彼女の部屋にそのような靴はない。これは現在のことではないのかもしれない。しかし、趣味からいっても、彼女がそのようなタイプの靴を好んで履くようにも思えなかった。

 別に自分自身のことしか書いてはいけないという法則などないのだ。ぼくにもオリバー・ツイストが書けるのかもしれないし。

 ぼくは彼女が録りためたテレビのドラマを見ていた。俳優論。俳優というのはどこかにいる誰かになるべきだというのがぼくのつまらない持論だった。海での生活が舞台であれば漁師になり、山ならば木こりになる。もちろん、それらのひとが主人公になるドラマをぼくは急に想像できない。誰か、もっと機転の利くひとがいつか作ってくれるのだろう。「あまくん」

 オマージュ。リメイク。むかしの着物はきれいに洗って仕立て直したらしい。ぼくは彼女の無数のメモを、引き出しごと抜き取り、床に置いた。紙片はカサカサとしている。自分で書きのこしたものでありながら、日が経つと客観的な隔たりもできる。芸術への奉仕への快感と同時に、冷静な審美眼も求められている。だが、それは共存するのだろうか。

 彼女が書いたドラマが今度、一回だけ放映される。評判が良ければ次があるそうである。試写の段階ですでに内定のようなものが出されているそうだ。よく聞けばそこには政治のようなものがある。政治というのは内密と多数派の派閥に気に入られるという大雑把なぼくの印象で、そう表したに過ぎない。

「どういう話?」
「復讐と気付かないで、潜在的な復讐する原動力に支配される話」
「え?」

「あなたみたいに」
「ぼくみたい?」
「前の女性を美化して忘れられないフリをしているけど、正反対にいる私を選ぶということで、きっちりと復讐しているのよ」
「好みが変わるだけだろう」
「変わらないよ、そんなの」
「変わるよ」
「たけのこが好きなひとは、ずっと、たけのこが好き」

 ひとの目に触れる。その第一段階がそもそも難しかった。ゼロからイチ。それを二にするのは簡単な気もする。永続して三十や四十にするのもまた難しい。枯渇。干上がった井戸。ぼくは一匙の水も得ないまま、将来を心配している。

 翌朝、彼女は出勤する。寝不足気味でも元気があった。

「仕事が終わったら、ちょっと、打ち合わせがあるから遅くなる」

 政治。段取り。票数。経費のやりくり。ひとは参加した場合は、勝たなければならない。アマチュアでも。

 ぼくは自分のスニーカーを天日に干した。殺菌にでもなるという漠然とした予想とともに。となりに彼女の分もそろえて置いた。足のサイズが分かる。だが、なかまで見ない。サイズというのはなんなのだろう? 胸のサイズ。美しいことばの数々をぼくは声に出す。第一位は、「勇敢」のようにも思えた。つづいて「柔らかい胸」も候補として首を長くして待っているのだ。

 玄関の戸を閉め、「柔らかそうな胸」という。そこには期待値があるため、より美しくなる。短いスカート。短くなったスカート。ネクスト。未来に向かって書きながらも、それは過去の集積の美しい沼、たまった澱みのなかから選ばなければならない。ひとはどういう風に行動するのか? なにを怒りにして、どう優しさを際限もなくあらわすのだろう。

 ぼくは復讐をもとにして物語を書こうと挑む。ふたつに対しての挑みだ。新たなものを書き、フッタ女性を冒涜できる機会として。愛が憎しみに転換する分岐点はあそこだったのか。しかし、中間地点もある。なぐさめを要する時間。考え直してほしいと要求できる波打ち際。その浅瀬は絶えず形を変える。そして、いまいる場所と違うところにすすんでしまった錯覚を与える。夕日が落ちる。朝の鮮烈な太陽が新たな一日をためらうはずもない。柔らかそうな胸。柔らかそうな日差し。強烈な紫外線。

 ぼくは彼女の化粧品のうらの小さな文字を読みはじめてしまっていた。文字を読むという病気なのだ。文字がなくなるという強迫観念とも戦っている。

 冷蔵庫を開ける。昨夜のたけのこののこりがラップの下で冷たくなっている。レンジで温め直すこともできるし、その冷たい感触も捨て難かった。ぼくのあの恋の再燃も、このように簡単に保温できればよいのにと思うが、脳の奥にしまわれているタンスの引き出しの取っ手は、もうボロボロになってしまっているらしい。なかなか、開かない。

 労働しなくてもお腹だけが空く。考えることが、すなわち仕事なのだ。

 彼女は帰りが遅くなると言っていた。手渡したものが読まれて結果がでる。書き直しを命じられる。期限がある。反響や、反対の侮蔑があり、投票らしきものもある。ゴー・サインが出る。黄色の信号や赤が青に変わる。黄色と黒のリボンがついている靴と彼女は書いていた。それは通行止めのときに横たわる棒と同じ色だった。その靴はこれ以上の侵入を防ごうとしている。あるいは、もっと時間をかけてという懇願のサインでもある。

 柔らかそうな胸と、ぼくは何度も頭に浮かべている。期待値を越えるものはこの地上にないと自分を慰めようとしていた。まだ見ぬ土地のために冒険者があらわれ、未開の地の草をなたのようなもので切り開きすすんでいく。

 ぼくの書くものが袋とじのなかにある。みな、一刻も無駄にしたくないようにあわてて切り裂く。その為に、文字の途中で分断され、読みづらくなる。読みたい本。読みたそうな本。立派そうなひと。遅くなりそうな帰り。

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雑貨生活(4)

2014年10月23日 | 雑貨生活
雑貨生活(4)

 ぼくはカンニングを繰り返している。

 きれいな女は妊娠している
 クリスマスの半年後に妊娠している
 細い腕と細い足と大きなお腹で妊娠している
 きれいな女はにんしんしている
 クリスマスの半年後に、にんしんしている。

 彼女の机の引き出しを漁っている。それは隠す意図ではなく、見るかもしれない可能性を含んでの秘蔵だった。別に秘密でもなんでもないのかもしれない。総じて家にいる時間の多い自分は、書きかけのものを暴かれる必要もない。そもそも頭のなかにしかないものたちだった。乳は牛から出た時点で、牛乳になるのか? 搾り出される前のものは、何と評するのか? その安楽な状態は次のヨーグルトの地点まで運んでくれない。

 ぼくは、ぼんやりと窓の外を見る。散歩して誰かに会わないと、さらに会話でもしないとヒントも与えてもらえず、このささやかな思考のともしびを抱え込んでいる脳をゆすって、燻りだすこともできない。

 歩いている。サンダル履きではなく、きちんと靴下を履き、スニーカーに足を突っ込んでいる。

 彼女は妊娠したいのか? あの膨らんだ腹の状態を見せびらかして恥かしげもなく歩けるのは女性だからなのか。実践者であることの証拠。ぼくは、自分の生み落した数々の作品を見せびらかしたくはないのだろうか。

 カウンターでコーヒーを待っている。健気に働く女性。このウェイトレスも妊娠したいのか? 将来の痛みを、激痛を待ちうけるほど、女性たちは愚かなのか。その愚かなものを追いかける自分は、愚かさを何倍しなければならないのだろう。

 カップから湯気が出ている。注文の品の名前と、ありがとう、とお持たせしました、しか会話は成立しなかった。ぼくの壮大なるベン・ハーはどこに眠りつづけているのだろう。

 ぼくはゆったりとしたソファにすわる。ひとは書類を横から運ばれ机のうえに乗せられる。それに目を通して、チェックしたり、出金のデータを作ったり、お客さんの問い合わせで意志疎通のむずかしさを嘆いたりして一日を終えるのだ。この過程を明日も繰り返して、来週も一年後も大幅に狂いのない人生を積み上げていく。それが生きるということの経常的なまっとうな立場だった。ぼくは足を踏み外している。平日の昼間に妊婦の女性の姿をあれこれと考察している。

 すると、奇跡が起きる。病院で知り合ったのか妊婦のふたりが親しげに会話をしながらとなりの席についた。病院? そこは病気を治療する場所だった。他にふさわしい名称はないものなのか。病院は幸福と歓喜のステージにもなるのだろうか。

 ぼくはちらっと彼女たちの腹の膨らみ度合いを確認する。そして、いらぬ計算をする。洗濯機のようにスイッチを入れれば数十分後に終わるという簡単なものではない。オーブン以上に時間をかける。圧力なべ。

 だが、脱水はされる。

 ぼくの仕事は思考を紙に刻みつけること。いや、もう紙ではない。空想と現実との摩擦を圧力なべに入れて、温度を高める。電子レンジでの保温よりまともなものをぼくは作っているのだ。いいや、作る過程にまだいて、ベルトコンベアーに流そうとしている。コーヒーを飲みながら。妊婦にあたたかい世界に紛れ込みながら。

 だが、ぼくらに共通項は一切ない。

 空想という油断がまかり通る世界にいると、突然、音がした。妊婦のひじが思いがけなくコーヒーのカップにあたる。午前中の静かな店内では意外と大きな落下音がこだまする。ぼくの足元に液体は流れ込み、その数滴の余波のようなとび跳ねたしずくがぼくのズボンの裾に移動した。母になるひとは気付かない。自分のお腹の大きさほどに気にもかけない。

 ぼくは店を出てズボンのしみをアヴァンギャルドの画家が筆を叩き落とすようにして描いた絵のようだと思った。彼らは全身に絵の具を付着させている。それが仕事なのだ。その汚れこそが労働をした証しだった。

 ぼくはノートすら付けていない。日記も、もうとっくに書くことすら念頭に浮かばない。すべては頭にしまわれている。今日、交通事故にでも遭えば、ぼくの未完の傑作は産声をあげることも許されない。早産。それすらも幸運なのだ。

「やだな、これ、どうしたの? ズボンのしみ」彼女は洗濯するものを選り分けていた。
「ちょっと、外でコーヒーを飲んだときに、カップを落としたひとがいて、その影響」
「影響じゃなく、被害」

 彼女は採点をした。いや、添削をした。

「どんな状況だったの? 自分で落としたの?」

 彼女は、お話をききたがる。眠い目をこすりながらも、つづきを期待するベッドのなかの少女のように。ぼくは、その要望に見事に応えたいと思っている。

「ものの値段だけど、一杯のコーヒーは何と比較して高いとか安いとか考えるのが妥当なんだろう」
「電車で三十分ぐらい乗った区間の料金と。それぐらい、ゆったりするものでしょう?」

 ぼくは想像する。田舎の電車の向かい合う座席。窓辺の台にコーヒーを乗せて、外の景色を見ている。それがいくらぐらいなのか自分には想像もつかない。

「結局ね、妊婦は、もう一杯、無料でもらってた」
「その無料分がズボンの汚れなんだ」

 ぼくはふたつの事実を一致させるのを困難に感じる。また、絶対に一致させなくてはならない理由もひとつもなかった。

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雑貨生活(3)

2014年10月22日 | 雑貨生活
雑貨生活(3)

 終わらない物語というのは言い訳で、そもそも、はじまってもいなかった。

 どこからかスタートしなければならない。きっかけが与えられれば、自転車の車輪のチューブは膨らみ、どこにでも走りだすことができるようになるのだ。
 参考書に目を通さない受験生に油断はないだろうか? 真摯さに欠けているのではないのか。

「ここは、テストに出る」という教師のアドバイスに耳を貸さないことも正当化できるだろうか。賢さをみすみす捨てる覚悟ではないのか。

 ぼくは彼女の留守の隙に、彼女の日記をこっそりと手にする。そこからヒントが得られると願って。藁をもつかむ気持ちというのは、こういう状態のことなのだろう。

 扉
 私は扉
 私は扉を開く、扉を開く
 私は人生の扉を開く
 私は何度も、何度も
 人生の扉を開く

 ぼくは彼女をまったくの他人と感じる。ぼくが知っている人間ではない。詩的な一面がどこかに隠れている。寝ながら腰のあたりをボリボリと掻いているのはこの詩人の卵だったのか。しかし、ぼくはなにかを生み出さなければならない。傑作に近付くなにか。分担作業にするのだ。彼女はお椀を削り、ぼくは漆を塗る。彼女は木材を組み立て、ぼくはペンキを重ねる。どちらが制作者なのか?

 彼女はドラマの脚本を書いている。どこかに応募する算段らしい。ぼくは、その書きかけのものを見つけられない。いや、在処は知っているのだ。そこには頑丈なカギがかけられている。本気を出せば簡単に壊せそうな小さな金庫なのだ。しかし、本気になるまでもない。ぼくの才能は溢れているが蛇口を取りつけていないだけなのだ。

 ぼくらは趣味が合い、気も合うらしく会話が弾んだ。それも遠い話だ。いまのこの部屋にはふたつの机が背を向いて設置されていて、お互いのこつこつした作業の間は黙っているのがルールだった。たまにコーヒーのカップが机にドンと置かれた。飲みたいときは二杯いれるというのもルールだった。

 彼女はいまは普通の仕事をしている。みんな空想や夢でご飯を食べることはできないのだから。別の才能を、通常の時間に持ち込む必要がある。

 おそらく今日も仕事を終えた後にスーパーに寄って食材を調達する。調理をして味付けをぼくに確認させる。その際、決まって、「居ない間、仕事、はかどった?」と訊くのだ。
 ぼくはなりたくもないが「ヒモ」の初段ぐらいになっている。

「まあまあね」
「じゃあ、そのあらすじ、食事しながら、話してちょうだい。わたし、お話し、大好きなの」

 彼女がむりやりぼくの扉を叩いているのだ。トイレット・ペーパーがなくて困難を感じている状態と近いのに。ぼくは、どうやってこの場を乗り切ればよいのだろう。窓のうえから誰か紙のロールを投げ入れてくれないだろうか。親切なひとはいないのか。

 水が湧くので、水を汲む。新鮮な清涼な水が滲み出てくるので、喉をうるおすことができる。

 反対に、温泉となる源泉を探し出し、井戸のような穴を掘る。あれは、何と表現したのだったか? ぼくは言葉を操る魔術師となるよう訓練したのではなかったのか。手品師と言い換えてもいい。だが、タネは確実に入用である。

 ボーリング? それは黒い重たい球をツルツルの床のうえをすべらせ、十本の不可思議な置物のどてっ腹に叩きつけることではなかっただろうか。

 ぼくはテーブルを前にして座っている。彼女が働いている間に生み出した物語を、この場で披露しなければならない。ぼくは爪の先をみる。暇な一日だったのできちんと切れている。
 彼女は少女のように瞳を輝かせている。彼女にとって、チョコレート以上のものであり、アルコールの酔いも同時に得られるものが「お話し」だった。

「それでね」自分の第一声。声の質と音量でごまかそうとしている。声をコントロールする。これこそが文明人の証しだった。甲高くてもいけない。低音やこもった声もダメ。ボソボソも、浮ついているのも不合格。ぼくはしかし自分の顔の骨格と合った音を出す。不似合いではない。

 彼女はスプーンを持っている。いまは空中で停まっている。次のつづきを待っている。「次のつづき?」ぼくは頭のなかに、いままさに生み出されようとしている言葉も採点している。

 昨夜、彼女は友人と電話をしていた。次から次へとことばがとめどなく出ていた。それを会話と評しているのだが、ふたりのそれぞれの互いのモノローグともいえた。口に出る前に、思考の壁を挟むこともしない。そのおしゃべりに興じる女性が、無言で文字が浮かぶ画面を見ている休日がある。ぼくは肩をもむふりをして、その画面をのぞきこもうとするが、彼女は瞬時に別の画面に入れ替えてしまう。

 ぼくは彼女のお手製のスープを飲む。カボチャの味がする。ぼくは彼女と自分の母との年齢の差を考えることになる。カボチャの形を失うなど、母の頭にはなかったはずだ。ごろっとしたカボチャの煮物。ぼくも自分の作品を濾したカボチャにしようと、またもや無意味なことにつなげだした。

「それで?」

「母と買い物に行き、スイカを購入した。ぼくは荷物をもつ係りに任命され、ブラブラと前後に揺すりすぎてスイカの表面をブロックの壁にぶつけて傷つけてしまう。ぼくは絆創膏で応急処置されたひざを見て、スイカにも同じことをしたいと思った」

 彼女はつづきを要求する。

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雑貨生活(2)

2007年02月19日 | 雑貨生活
 そして、ぼくは終わらない物語と格闘している。ちょっと前に書き終えたノートを他人のような視線で眺めている。

 濡れたアスファルトを歩き、
 この道が、君の家や、君のこころに
 通じていると考え、
 手にリボンをかけた。

 そして、遠くから君のマンションの一室の
 明かりが輝き、
 カーテンが白く浮き出し、
 君のシルエットが見えた。
 電話を持っていたが、
 君に直ぐに逢いたかった。

 言葉のむなしさを知り、
 君がぼくのことを
 考えているという熱い視線を夢み、
 
 そのまま散歩して帰って来た。

 猫のように、君のふところに戻る。
 待ったんだ。
 29年間、待ったんだ。

 採点をするように自分のノートを見ている。以前、どこかで誰かの書き残したものの生き写し。やはり、才能がないのだろうか。ノートを閉じる紙の音。スピーカーから流れるブルースの言葉も、繊細さはまったくないように思えるが、時には強く胸を打ったりする。
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雑貨生活(1)

2006年12月21日 | 雑貨生活
 そして、今日もぼくは終わらない小説を書いている。
 人生とは、まったく華々しい所ではないと思いながら、固い椅子にすわり。この場だけでも、運命という季節の花が咲けばよいと考えている造園家のように。
 それが、短編で終わるのか、それとも、長編に化けるのかとも判断がつきかねながら。
 
 仕事場では、お金の計算ばかりをし、数字のあやつり人形となり、完全なる宗教はないものかと夢想し、イスラム教徒の4人の妻のことを愛慕し、結局は傷を負って、野垂れ死に寸前を迎え。

 小出楢重を知り、やはり芸術こそが最高の手作業と胸を打たれる。ぶきっちょな少女の手編みのセーターのように、滑稽でありながらも、実働が感じられる瞬間。

 言い訳ばかりを考え、利益のことを追求し、結局は、少ない労力で最高の成果をあげようと必死になっている人間。必死という言葉を間違って使っているのか。一度も死に物狂いになったことなどないのかもしれない。暖かい布団のなかの温もり。ただ、それを求めているだけなのか。
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