爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(75)

2012年06月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(75)

「まだ、帰らなくていいの?」
 笠原さんはその問いかけに応じて自分の腕時計を見る。

「なんだか、あっという間に時間が過ぎてる。久し振りに会ったのに、以前とそんなに様子が変わっていなくてよかった」
「容姿は変わったけど」
「つまんない。さっき、トイレに行っている間にメールした。帰りにここに迎えに来てくれるって返事があった」
「なら、大丈夫だ。この店、分かるかな」
「うん、知ってた。また、何年も会わなくなるんでしょうね、これから」
「これでも、東京に出張にたまには行くんだ」
「知ってる。智美さんとか上田さんにたまに会ってるとか。それ以外に、いつも会うひととかいるの?」

 ぼくは少し思案して「裕紀のおばさん」と言った。口に出すとそのひとを思い出す。思い出すというからにはそれまで忘れていたという証拠でもあった。だが、まったく消えていたという訳でもない。ぼくと彼女の不思議なつながりがあった。それぞれ自分の大切なものを失ったという事実を介在にして、より一層緊密な関係になっていく。
「会うんだ。それで、なにを話すの?」
「近況とかだよ。彼女はこの前入院した。それも、裕紀が入院してた病院に」
「じゃあ、辛かったでしょう」

「乗り越えなければいけない思い出」しかし、ぼくはそこに寄って見舞っただけなのだ。裕紀の叔母は自分の可愛がっていた人物と同じ病院で寝ていた。どちらの方が辛いかは分からないが、ぼくよりも彼女の方が身に応えただろう。
「生きるって、それでも素敵なことだと思う?」

「もちろん。自分の人生の最後になったら、やはり、オレは生きつづけたいとか叫ぶと思うよ」裕紀は、どうだったのだろう? 看病をしているぼくに申し訳なさそうな態度をしていた。ぼくはもちろん回復すると思って、それにあたっていた。もし、回復しなくてもあの状態ですら続いてほしいと思っている。彼女はまだこの世界にとどまっているという安心感と幸福をぼくに与えてほしかった。しかし、苦しかったのも事実なのだろう。どれほどの痛みが彼女を襲い、それに無抵抗で挑むしかなかった彼女の弱っていく肉体。ぼくに喜びをくれた肉体が痛みに奪われていく。それは虚しいことだった。

「そういう結末がくると知ってても、彼女を選んだ?」
「ぼくらは会ってしまったから。一回、ぼくは無頓着に考えもなしに彼女との縁を切った。しかし、東京でなぜだか再会した。運命がそれを罰したとして、彼女を奪ってしまっても、ぼくは甘んじて受け入れるしかない。でも、もっと簡単な結末にも憧れるよ。童話の終わりのような。それ以来、彼らは寄り添ってふたりで幸せに暮らしましたとさ、という感じにね。君も高井君を選ぶんだろう?」

「多分。でも、いまだに前の彼氏のことを思い出したりもする。なぜ、わたしのことをふったんだろうとか、どこがわたしのいけない部分だったんだろうかとか。そういうことを考える」
「どこも、いけなくないよ」彼女は笑う。

「それは他人だからだよ。裕紀さんのいやな部分だって、当時はあったかもしれないでしょう?」
「多分、あったんだろうけど、それすらも思い出すきっかけの一部分に変化してしまったから、もう何とも言えない」

 ぼくらはやはり友人として性が合っているのか、話しつくすことはなかった。ぼくは、東京にいて、彼女と仕事が終わったあとに会った楽しい日々をなつかしく回想している。ぼくらは笑い、ときには意見が喰い違って多少の口論めいたことはした。ふたりとも、それぞれパートナーがいて幸せで、ぼくから何かが奪われていくという大きな経験もまだしていなかった。そのままの時間が継続していたら、自分はいったいどういう性格になっていたのかと考えている。もっと優しかったのだろうか? 幸運であるということは自分にとって当然で、他人の痛みになど無頓着な横暴さを身につけるようになっていたのだろうか。しかし、いまここにいる自分は違かった。さまざまなものが手の平からこぼれ、それから、もっと前に結んでいた関係を手の平ですくった。義理の娘もできた。痛みはあったにせよ、それなりの、いやそれ以上の幸せにも恵まれてきたのだ。楽しい会話とお酒が、ぼくを前向きな気持ちに変えてくれていた。

 笠原さんはふと口をつぐむ。ずっと気にかかっているようなことを思案している様子だった。ぼくも、それを忘れてはいない。アスファルトを敷き詰めた道が、以前は小石があり、大雨が降れば水たまりができた場所だったということを覚えているように。ぼくの土砂降りの日々。我を忘れ、お酒ですべてを紛らわそうとしていた夕暮れから夜。何人かの女性の肉体を自分の都合の良いように使った。ぼくは不幸で、悲しみの絶頂にいたのだから当然なのだという思い上がった傲慢さがあった。それに優しく同調するように彼女たちはいた。その悲しみをぼくから引き剥がすには、暖かな身体を提供するしか方法がないのだと無意識に感じていたようだった。

 彼女は口を開く。いつか、この言葉を聞くのを待っていたようにぼくの耳はその言葉に馴染む。そして、奥でその言葉を排除するかのように耳鳴りがした。
「あの日のこと覚えてる?」
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(13)

2012年06月28日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(13)

 マーガレットは大学での勉強が終わったあとに、ケンと近くの店で紅茶を飲んでいた。そこに仕事帰りのエドワードが新聞を抱え、通りかかる。その横のパブでその新聞を読みながら、下宿での夕食の前にビールを一杯だけ飲もうと思っていた。エドワードはふたりの姿を発見する。いつもの日常にひびが入る。そして、少しだけ動揺する。声もかけずに通り過ぎようとしたが、マーガレットも彼を見つけ、瞬時の判断で声をかけた。エドワードは持っている新聞を振り、颯爽ととなりのパブに入った。

 ぼくは日曜日に散歩をしている。「あなた、ついでにあの店でキムチを買ってきて」と妻に頼まれた。その用を済ます前に本屋で新刊を買い、ある店に入りコーヒーを飲みながら読んでいた。文章を書く人間のすべてを愛そうと思っている行動。そこにぼくの授業に参加していた狭山君が入って来た。彼の横にはガール・フレンドがいた。

「おっ、川島先生」
「あ、狭山君」
「先生なの?」と横の女性が興味がありそうに彼に訊いていた。このひとはいったい何を教えられるのかしら、という疑問が顔の表情に浮かんでいた。外見は、先生ではなさそうなのに。

「本を書いているんだ。センターで講義をしてくれている。オレも先生の本をやっと読んだ」何だかいやな予感がする。評価を求められる世の中。「まどろっこしい内容だった。結論を早く教えてほしいような」
「正直だね」

 彼は横にすわる。ぼくは本を閉じ相手をする羽目になる。その女性との楽しい時間が削られてしまうのに、ぼくと話すほうを選ぶのか。

「もっと売れるような、インパクトを与えるような、衝撃を起こすようなものを書けばいいのに」
「それは、君に任すよ。託す。ぼくと考えが違うみたいだから」
「どんな考えで?」
「君みたいな若い子たちには分からないだろうけど、売れなくてもいいんだ。お金儲けをしたかったら、ぼくはもっと別の職業を選んでいるから。株の情報を裏で操作したりね。君たちはすぐ先の未来しか時間がないと思っている」
「そうだよな」狭山君は横の女性に同意を求める。いま、彼女の魅力のとりこになる。明日は分からないという脅迫にも思えた。
「君はなにを読んでいるの? ぼくのクズのようなもの以外では・・・」
「ニーチェとか」
「哲学的だな」

「渇かないようにするためには、あらゆる盃から飲むことを学ぶ。純潔を保とうとするには、汚れた水に浸かることも恐れるな。みたいなことが書いてあった」
「衝撃を受けるんだ。それで」
「つまるところ、インパクトがあります。川島さんの書く上でのポリシーみたいなものは、あるんですか?」

 エドワードは新聞を開いている。しかし、いつものようにすんなりと言葉の羅列が脳に入ってこない。それで、ビールを少し飲んだ。液体といっしょに言葉も体内に運ばれていくような錯覚を望んで。しかし、となりでは何を話しているのだろう? それに、あれは誰なのだろう? という疑問がエドワードのこころにあった。

「ただ、書くということに捉われているだけだよ。幼いチャイコフスキー少年は、自分の母に自分の頭のなかに鳴り響いている音楽を停めてくれと懇願する。しかし、それは誰にも中断することはできない。大きくなって自分で楽譜に書き記す以外は」
「それが鳴り響いているんですか?」
「あることは、あるよ。世の中に衝撃を与えなくても。そんなのは地震に望めばいい」
「じゃあ、つまりは何を?」

 ぼくは用件を思い出していた。「こんな映像を想像してもらえるといい。韓国の山奥で毎年、白菜を大量に準備して、それを漬けてキムチを作らないことには来年を迎えられないという気持ちをもつ母。その習慣を捨てることは誰にも止められないと思うんだ」

「まあ、そうでしょうね」渋々、狭山君は納得する。
「そのように、ただ習慣的に仕事をしていきたいだけだよ」
「わたし、キムチ大好き」ガール・フレンドは頭のなかにその赤い食べ物を想像したように声を出した。それで、いい。
「じゃあ、これで」と言って狭山君と彼女は離れた席に移動した。ぼくもまた本を開き(世界中でいちばん大切なものは本のしおりなのだろうか?)つづきを読み出す。

 エドワードはビールを飲み干し、新聞をたたみ、外に出た。なんとなくポケットに手を突っ込み、その袋のなかで小銭をつかんだ。ここに有るもの。確かに手に触れて確認できるもの。それから、もと来た道を戻ろうとしながらとなりの店を覗くとマーガレットと若い男性はいなくなっていた。ぼくも本を閉じ、また目を上げると、狭山君たちはいなくなっていた。彼も彼女の前で張り切る必要があったのだろう。そんな彼を引き立てる役目を負った自分にすこしだけ疲れていた。

 忘れないように総菜屋に寄る。ぼくは、キムチを買う。店のひとは、ぼくと妻の関係を知っているのか知らないのか、ただ勧められたものを買った。なかなか見た目も美味しそうだった。

 ぼくは家に着き、それを妻に渡す。
「いつも買うの、こっちじゃないじゃん」と妻は不服そうであった。しかし、袋から取り出し、端を切って自分の口に入れた。「違うけど、こっちもおいしいか」と不服な顔をいくらか和らげた。
「こっちじゃないじゃん、まったく」と、娘の由美も妻の声音を真似していた。
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壊れゆくブレイン(74)

2012年06月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(74)

 ぼくらはうるさくなり過ぎた店を去り、別の店に入った。それまでは横にすわっていた笠原さんだったが、正面に座ることになった。そのちょっとした差でぼくのもっている印象は変わる。過去に向き合うというより現在の彼女と過ごしているという実感が湧いた。しかし、話していることは随分と過去のことも多かった。その過去の縁をたぐり寄せ、未来の手前の現在に導いた。

「その子は、親の結婚に反対しなかったんだ?」
「むかしからぼくのことを知っているように振舞った」ぼくは口にすることによって新たな認識を勝ち取る。だが、それは新しいというより、そこにある壁を塗り直すというような頭の作業だった。「ぼくらは若い頃からの知り合いだったので、地元に戻って産まれたばかりのその子を抱っこした。子どもなんか持ったことないから、ぼくはその抱っこすら恐々とした」

「想像できる」
「もうその広美も大人になって家族で話していると、まだ意識もなかったようなその経験を娘は覚えていると言ったんだ」
「不思議ね。ありえない話」
「それで、ぼくはこうなる運命もあったのかと思った」
「そういう神秘的な話って、もっとずっと多くあるの?」
「ないよ、ただそれだけ。そういう話をすると娘がいちばん恐がる」
「そのときを覚えて置くように、その瞬間だけ大人の意識をもったのかしら」
「さあ、まったく分からない」
「それで反対もされず、障害もなく再婚を果たす」

「裕紀がいながらも、いつもぼくのこころの一部には雪代がいたのも正直なところだけどね」
「そういうことは第三者に言わない方がいいと思うけど」
「でも、言っちゃった」ぼくは、そうとう酔ってきたのかもしれなかった。ぼくはむかし、彼女の失恋話を聞く役目だった。それが長い時間が経ったいまでは、ぼくの再婚にいたる経緯を説明することになっていた。「高井君とは喧嘩とかしないの?」
「あまり、しないね。子どもに振り回される時間も多いから。そういう経験もないんでしょう?」
「もう広美は足手まといになるような年齢じゃなかったからね。おもちゃ買ってとか言われたこともないし・・・」
「もっと大きなものをいずれ要求されるかも」

 それは留学ということだったり、結婚ということだったりするのかもしれない。そういう役目をする島本さんをぼくはちょっと想像する。だが、いくら酔いがぼくの想像力を増し加えるにせよ、彼はぼくにとってグラウンドで活躍するスター以上にはなってくれなかった。華をもって生まれてきた人物。その華を抱えたまま歴史に葬られ、忘れ去られていく人物に思えた。そうした生きる上での事務的な活動は、もっと地味な人間がするべきなのだ。例えば、ぼくのように。

「彼女はほんとうの父のお母さんを慕っていた。いまは亡くなってしまったけど、そのときに随分と泣いた」
「そうなんだ。可哀想ね」
「あの泣いている彼女をぼくは抱擁してね、そうするしか慰める方法を見つけられなかった。そのときにぼくらは本当の親子になった実感というかつながりを覚えたんだ。それで、彼女にとって、大切なものが失われたことによって、新たな関係が芽生えたんだと思うよ」
「上田さんのお父さんも亡くなった」

「ぼくは、大人になってからいちばん時間を共有してきた大人だよ。むかし風の考えを捨てられなかったひとだけど、新しいことも直ぐに吸収する勇気をもっていた。そうしないと会社が傾くわけだから当然だけど。ぼくは影響をたくさん受けた。あのひとと会って、そのひとの会社の一員になった訳だから、その恩恵はかなり大きい。いや、ぼくのすべてと言ってもいいかもしれないね」
「ほんとうの子どもみたい」

「確かにね。上田さんより、知ってる部分も多い。だけど、そういう親子みたいな濃さがない分だけ、気楽に接することができたのかもしれないよ」それはぼくと広美にも通じるのかもしれない。ぼくは、彼女がどこに行こうが、誰と添い遂げようが、ただちょっと離れた場所で応援するしか自分にはできないのだとも思っていた。もっと本気でぶつかるような、拳骨を浴びせるような関係は本物の親子にしか味わえないのかもしれない。では、本物の関係性というものはどういうものだろうとぼくは酔った頭で定義を作ろうとした。ぼくと笠原さんの関係は? それは本物なのか。ぼくは死んだ裕紀の代替を探していた。あの一夜は本物なのか? それを受け入れた笠原さんの気持ちは偽者であり、偽りとでも呼べるのだろうか?

「彼も嫉妬をしていた。ひろしはオレの親父と仲が良すぎるって。その反面、安心していた。自分のラグビーの後輩が自分が継ぐべき位置にいてくれることによって。ラグビーって、そんなに魅力のあるものなのかしらね。突然だけど」

 ぼくは上田さんから譲り受けた楕円のものを大切に抱え込み走っている姿をイメージした。そのことを良く思わないでタックルをしに来る相手。それは島本さんのはずだった。だが、いまでは逆に彼もぼくのことを応援しているように思えた。妻と娘の未来を託す相手として。それは夕方のひとときが作り上げた美しすぎる幻想であることに間違いはなかった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(12)

2012年06月25日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(12)

 エドワードは幼くして事故で両親を失った。彼は、それでも勉強に励み、自分を節制して悲しみにくれることなく、大学を卒業して、ある銀行で勤めるまでになった。しかし、幼いときに味わった悲しみと喪失感は彼のこころに小さくもない空虚さを残していった。それをどのようなもので埋めるのか彼は知らなかった。また、それを完全に埋めつくことさえ出来ないことだと思っていた。彼は成長してまじめに働き、その仕事ぶりを認められる。その眼差しを差し伸べてくれた先輩はエドワードの孤独感を按じ、休みには家に招くようになった。その妻の手料理を舌が喜び、それよりも家族として、その一員としていることにエドワードは安息感をおぼえるのだった。

「あなた、今日は先生になる日よ」妻が奥から叫ぶ。
「あ、そうだ、忘れてた。土曜日だった」ぼくは急いで仕度をして、その教室に向かう。家族といる安息感はエドワードにとって別の孤独な気持ちを作った。職場のそばに借りているアパートの一室でエドワードはいままでただ過ぎ去っていった孤独な時間を取り戻すことができないことを知ったのだった。そして、今後はその虚しさを、ひとりだけで過ごすことになる時間を早く手放したかった。

 授業の最後は話すこともなくなり、ディスカッションをする時間に自然となった。皆がもつ疑問を提出し合い、それぞれが自分の意見を述べる。意見がなければ黙っていればいい。当然、ぼくは黙っていることが許されないが。妥協点を探し、また次回にでも話し合おうという約束を取り決める。でも、人間は一週間も前のことは忘れるようにできていた。
 ある生徒が手を上げる。

「開高健というひとの小説に、いろいろな物のまわりにある匂いを書きたい。匂いのなかに本質がある、とあります。そのなかで相手の別の人は、使命を書くとも言ってます。匂いは消えても使命は消えない。でも、使命は時間が立つと解釈が変わるが、匂いは変わらない、とも言ってます。どちらが正しいのでしょうか?」

 ぼくは、その言葉に悩む。いや、うっとりしているのだろう。若き野心ある青年は、手を上げる。反論があるらしい。
「オレなら使命を書くな。生き急ぐ使命。革命を起こす勇気。そういうものの方が美しいよ」
「匂いは美しくないとでも?」ぼくは、彼の若さと未熟さに嫉妬しているのだろうか?
「匂いというのは、大抵、美しくないものについての想像を浮かべませんか?」

「世の中は美しいものだけで、成り立っているとでも?」軽いジャブという言葉のやり取りも美しい。
「だから、美しくないものは排除したいんだよ」
「それは、退廃芸術として、あるひとりの人間がしたことと似ているね」ぼくは自分の知識にも酔う。

「わたしは、冷蔵庫の奥で腐らせてしまった食材を捨てるときに、なぜか、一度鼻のそばに持ってきて、匂いを嗅ぎます」と、児玉さんが自分の習慣を告げた。その身なりの上品さと語られた俗っぽいことでその場が中和される。それで、一同が笑い、ぼくと狭山という青年の対決は消えた。しかし、男子のなかにこそ嫉妬はあるのだ。ぼくは彼をみんなの前で言い負かすことを誓った。

 それでも、ぼくは大衆のなかにいる一週間のこの時間が好きになっていた。職場もないとぼくの世間は段々と小さく狭いものになっていった。刺激もなく、ただ10本の指が作り出す物語との格闘になっていたが、ここで発想を得られ、思想の違った方法からスポットを与えられる喜びを感じていたのだった。

 エドワードは自分の部屋にいた。上着を脱ぎハンガーにかけると先程までいた家のもつ匂いがした。その匂いには温か味があるようだった。いっしょに食べた夕飯の匂いがして、食後のコーヒーの香りまでその服が運んでくれたようだった。彼はその上着の胸元に鼻をくっ付けた。そこにマーガレットの匂いがないか点検しようとした。匂いはまるでなかったが、目を瞑るとマーガレットの頬の自然な赤みが浮かぶような気がした。彼女は勉強の分からないところをエドワードに訊いた。彼はその数式を口に出し、ノートに書き込み、説明した。彼はそのノートを見つめながら以前にひとりで勉強をしていた叔父の家での孤独感をなつかしく思い出していた。ぼくは早くここから出て、自分の世界を作りたいと願っていた。そこには妻がいて、やんちゃな男の子か、お人形を抱えてねむる女の子のどちらかがいるべきなのだ。

「どうだった、今日の先生役?」妻がクッキーをつまみながらお茶を飲んでいる。
「ぼくの若い頃って、生意気だったかね?」
「どうかしたの? 生意気には見えなかったけど、世間からずれていて大丈夫なのかと思ってたけどね」
「そう。本を書くということを、偉い高度なことだと思っているような若者がいてね。彼はまだ一語も世間に公表していないのに」
「じゃあ、恥もかかなくていいわけだ」
「まあ、そうだろうけど」身も蓋もない。

 エドワードは翌週の誘いを期待している。ぼくも来週のために、自分のバリケードを増やすように、言葉で武装しようとしていた。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(11)

2012年06月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(11)

 マーガレットはトランクに入れて持ってきたものとは様相の違う服を避暑先で買った。いま、鏡に向かってそれに着替えている。派手な色合いがこちらで少し日焼けした肌に似合っていた。

 そして、その姿で部屋にあらわれ、レナードの前に立った。母の意向を知ってから気乗りのしない何日かを過ごしたが、この絵に描かれている自分というものが日常の一部になりつつあり、直ぐに憂鬱な気持ちを忘れてしまった。今年の夏の自分の姿はレナードの力によって刻印されるのだ、という甘い気持ちがあった。それはときめきにも似ていた。

「似合うじゃない!」と妻が叫びに近い声をあげた。「あなたも見てよ。こっちに来て」
 ぼくは移動する。リビングには娘と妻がいた。娘は小さな浴衣を小さな身体に着けていた。
「お、でかけるの?」
「夜店が出てて、久美子ちゃんが連れて行ってくれるって」と妻が状況を教えてくれた。「あ、来た」
「ちょっと、待ってて。カメラ持ってくるよ」
「早くして」と娘は父に対して命令口調で言った。妻のまさしく小型版だ。
「分かったよ」ぼくは急いで引き出しの中をまさぐりカメラを見つけた。それから玄関に向かい、家の門の前で由美の写真と由美と久美子のふたりの写真を撮った。彼女は照れた様子を見せるが、満更でもない様子でもあった。
「あとでプリントするからね」とぼくは自分のやるべき仕事を頭のなかにメモする。ほんとうにやるべきことはいま、中断されているのだが。「じゃあ、楽しんできてね」

 彼女たちは曲がり角で見えなくなった。その前に手を振った。浴衣の袖はなまめかしい様子を見せた。
「さてと、お茶でも飲む?」
「久美子ちゃんはいい子になったね」
「いやらしい目で見ないでよね。それより、そのカタログでも見ておいてよ」ぼくの前には電化製品のカタログがまだあった。彼女は職場のそばの旅行代理店でもらったカタログを見ている。懇意にしているお陰か裏の情報を仕入れたらしく、この夏休みの旅行の計画を練っている。ぼくは両親の家を思い出し、幼少時代には何にも感慨を与えてくれなかった果樹園の景色をいまは懐かしいものとして思い出していた。妻の両親はここからそう遠くないところに住んでいた。義理の父は孫を泊めることを要求として出し、妻はその代わりになにかを手に入れているようだった。だが、その関係にぼくは口を挟むことはできない。まともな仕事を放棄した時点で、彼らのぼくに対する扱いはぞんざいなものになった。

 レナードの半分の仕事は終わりに近づき、もう一枚に手をつけた。その合間に夏の夜の広場で開かれているコンサートにマーガレットを誘った。マーガレットは承諾し、いったん帰ったレナードが迎えに来るのを待っている。夏の夜の風は、昼のものとは入れ替わり、すがすがしいものになっていた。レナードの服装もいつもよりまとまっており、髭もきれいに剃られていた。マーガレットも髪に飾りをつけ、何回もその角度をあらゆる位置から点検した。

 夜の広場にバイオリンやチェロの音色が響き渡る。官能というものがあるならば、こうした夏の夜のしじまを埋め尽くす音楽のもつ恍惚感なのだろうとマーガレットは思っていた。ここにもし来年も再来年も来るとするならば、自分はいったい誰と来たいのだろうかと、無心に考えてみた。だが、それは誰だか分からなかった。ただ、この今年の快感をいつまでも覚えておこうと決意したのであった。

「わたしの夏休みに、3日間ぐらい旅行するのは大丈夫でしょう?」
「いいよ、気分転換にもなるし、由美の思い出も作ってあげないといけないから」
「白紙の絵日記じゃあ、さまにならないしね」妻はなにかをメモして計算機を叩いた。「ああ、爪も塗らないと。男っていいね、準備に時間がいらなくて」と言って、計算したものだろう数字をまたメモした。

 すると、玄関が開いた。「じゃあね、久美ちゃん。ありがとう」という由美の声が聞こえた。「楽しかったよ、パパ」
 部屋に入って来た彼女の手には小さな袋があった。そこには赤い金魚が窮屈そうに泳いでいた。
「あれ、どうしたの?」妻が尋ねる。いままさに同じような色のものを爪に塗っていたところだった。
「金魚もらった。パパ、なにか入れ物みつけてよ。ジョンがじっと見てるから」愛犬は不可思議な生き物を目の当たりにして、興味深そうな視線を向けていた。これが原因となり、自分の安泰なる地位を失う危うげな予感を抱いていたのだろうか。

 ぼくは倉庫を開けて手頃な入れ物を探した。何年か前に亀を飼っていた水槽がそこにあって、空の中身に水を入れた。金魚はいくらか広々とした世界を手に入れ安堵したようだった。だが、本当のところは誰にも分からない。金魚の気持ち?
「由美がとったの?」
「違う。久美ちゃんが男の子と話し出して、その子がとつぜん金魚すくいをして、久美ちゃんにあげた。だけど、それも必要ないってことで、由美にくれた」
「男の子?」ぼくはそれがどの年代を指しているのか関心をもった。
「高校がいっしょだと思うよ。部活の話もしていたから」
「それで?」
「公園のベンチに座って楽しそうに話していた」
「由美は?」
「たっくんがいたから、たっくんと話していた」
「青春ね」と妻が無くしたピアスでも見つけたように懐かしいような、また酸っぱいものでも口に含んだような表情でそう言った。
「青春だよ」と由美も真似してそう言った。
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壊れゆくブレイン(73)

2012年06月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(73)

「高井君の友だちは、2回目の結婚をするんだね」
「そうみたい。明日、わたしも行く」彼女はそれに着ていく服装の話をした。ぼくはなんとなくその姿を想像して、あらかじめ見たような気になっていた。黒いドレスの彼女。「2回目ってどんな感じ?」
「まじめな話をすれば、離婚してまだどこかにそのひとがいるのと、ぼくはちょっと違うような気がしている」
「そうなんだ。どういう風に?」
「例えば、あるひとのどこかが、多分、自分の価値観とかか微妙にずれてきて、耐えられないほど嫌気がさしてきて別れるんだろう、普通は」ぼくは溜息にも似たようなものを出す。「いっしょに暮らすのに疲れて」
「まあ、そうでしょうね」
「ぼくはそういうことがまったくなかった。ただ、取り上げられた」
「それも、突然」

「それゆえに引き摺る可能性が大きく、実際に引き摺っている」
「未練がましく」
「そう、未練がましく」
「でも、いまのひとも素敵なひとだって、みんな言ってる」
「それは、もちろんその通り」ぼくはそのふたりを自分の人生で手に入れたかったものだといまでは理解していた。そして、部分的には勝利し、その相手を受け入れている時間は、もちろんのこと片方とは他人であった。
「そのひとの娘と、休みにはここに来ている。似てる? ふたりは」

「似てる部分もあるし、やっぱり別な人間だよ。本当のお父さんも魅力的なひとだったし、運動することに秀でたひとだった。高井君の先輩でもあるから。彼のその才能も確かに広美は受け継いでいるよ」
「じゃあ、スポーツできるんだ」
「バスケットをしている」
「背も高い?」
「高いよ」
「でも、いっしょにいれば周りは本当の親子だと普通は思うわけでしょう?」
「考えてもみないけど、普通はそうだろうね」
「嬉しい?」

 ぼくはその質問の意味が分からなかった。しかし、分からないままでそれを放置し、適当に相槌をうった。ぼくらの前のグラスは何度かかわり、それに揚げ物や軽いつまみも食べた。ぼくは自分の人生に何の責任もなかった時代のようにこの瞬間を楽しんでいた。帰るべき時間も決めず、連絡を待っているひとがいることなども考えたことがなかったように。でも、それも大分前のむかしのことだった。

「こっちはどう?」
「自然が満載。でも、駅の周辺の町並みもきれい。あそこに奥さんのお店もあるんでしょう?」
「あるよ」
「時間ができたら寄ってみようかな」
「売り上げに貢献して」
「わたしに似合うようなものもある?」
「あるよ。幅が広いから。40代から10代の後半の子たちもそこに買いに来る」
「じゃあ、お店のひとも若くいられるんだ」
「働いている子たちも徐々に入れ替わるからね」
「最初からその店を持ってたの?」
「違うよ。若いときに働いて、貯金して、こういう店を作ろうという計画をして、それを果たして、という計画を実行した結果」
「頑張ったんだ」

「頑張った」ぼくはそのプロセスを知っていた。そこに加わることはなかったが、ぼくはとなりでその雪代の頑張りを見てきた。その過去は意外と長いものになり、ぼくの年齢もあがってきたことの証拠となった。
 夕方も遅くなりはじめると、近くの席でもにぎやかな声が聞こえるようになった。店主の知り合いはサッカー仲間も多く、そのひとたちはぼくのことも知っていた。彼らは一様に大人になり、ひげが生え声も低くなった。嬌声をあげ、サッカーボールを追い掛け回していた少年たちもそれぞれの役割を担っているようだ。彼らは運動部の出身らしくぼくのそばまで挨拶にきた。その帰りに必ず、笠原さんの顔を見て帰った。「あれは、誰だろう?」という表情がそれらの顔に浮かんだ。

「あの子たちにもサッカーを?」
「何人かはね。ほんとうに小さな町だよ」
「礼儀正しい」
「笠原さんのことも見たいんだろう」
「わたし?」そして驚いたように彼女は振り返ると、何人かの若い子の視線を浴びた。「ほんと、そうみたいね。ひろしさんといっしょのひとは誰だろう、という顔してた」

 ぼくは背中にその視線を感じる。どう説明するのが妥当なのだろう、この関係性を。上田さんの会社のひと。若き彼女とよくお酒を飲んだ。ぼくは失恋直後の彼女にボーイフレンドを紹介してくれと頼まれ、高井君を見つける。ふたりは意気投合して結婚をする。ぼくはそれを喜んだ裕紀のことを覚えている。彼女は夏のデパートの屋上にいる。青い服。あの日々が永遠につづくと思っていたこと。だが、彼女はいなくなり、破れかぶれの自分は笠原さんの両腕のなかで暖まる。生きた人間の息遣いがどうしてもぼくには必要であり、それがぼくをこの世界に引きとどめる役目を負った。ぼくは利用したのかも知れず、そういう難しい関係を作ることは正しくなかったのかもしれない。すでにその前にひとりの死という問題に自分自身がからまっていた。でも、それ以上大きな難題もなかったわけだから、多少のトラブルの増加など自分にとって意味もなかったのだろう。100が101になるようなものだった。それだからといって笠原さんの腕の中の価値が無になるわけでもない。あれは、あれで甘美な状態でもあったのだ。裕紀の死とは、これは別問題なのであろうか。ぼくはそのふたつのことをいつもくっ付けて考えていたが、これからは分離させる手立ても必要だと考え始めていた。

「あのひと、誰って、うるさいんですよ、あいつら」と、お代わりをもってきた店長が言う。ぼくはその疑問への正しい答えをさっきから探そうとしている。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(10)

2012年06月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(10)

 ケンはマーガレットの横顔を見る。教壇ではチャールズ・ディケンズのことが話されている。人物というものがいかに生み出され生命力が与えられ、それを謳歌したり悲嘆にくれたり、失意の生活を送ったり短い幸福の期間を楽しんだりすることが、ある人物の口を通して伝えられた。だが、ケンはマーガレットの横顔を見ていた。そのシルエットが彼に命を与え、求められていない切なさを覚えたりした。

 しかし、昼になり芝生に無造作に座りパンを齧っていると、横にマーガレットが来て同じようにすわった。
「良い天気ね」
 ケンは、マーガレットの顔を正面から見つめる。大人になりかける女性の最後の蕾が膨らむ様子がそこにあらわれているようだった。
 すると、電話がなる。家のエアコンが故障して修理を頼む電話を妻が昨夜かけていた。その返事で急に時間が空いたので電気屋さんがいまから見に来るということだった。取り敢えず、ケンの食事時間を上書き保存する。生命力が与えられようとしたばかりだった。

 作業着姿が似合う彼はエアコンのフタを開け、中を点検している。そして、背中越しに話しかける。
「ご主人さんは、お仕事お休みなんですか?」
 同じように点検する彼の背中を見ていた由美が返事をする。
「パパは、家で本を書いてるの。それが、仕事」
「へえ。うらやましいな。ひとにおべっかをつかったりしなくても良い境遇にいて」
「変わりに妻がおべっかをつかってるんで」
「昨日、電話してくれたひとですか。きれいな声だった」
「家では、普通だけど、電話だと声が高くなるの」と、由美が秘密をばらす。
「お嬢さんも大人になったら、そうなるんだよ」と、背中で彼は笑った。その鼻息のいきおいで、うっすらと溜まっていたほこりが散らばったようだった。

「ならないもん」
「そうか、ならないか。軽のなかに部品があるんで取ってきますね」
 彼は玄関を出る。直ぐに戻り、また脚立のうえに乗った。なにかを取り外し、ポケットに入れ、なにかを付け替え、またフタをしてリモコンを操作した。すると、いままでしていた嫌な摩擦音は消え、直に冷風がぼくらまで届き始めた。
「パパ、直った」
「こういう時には、なんて言うんだっけ?」
「ありがとう」
「そうだね。それで、請求は?」
「いいですよ、これっぽっちの作業には。それよりなにか新しい電化製品は必要じゃありません?」
 ぼくと妻の新婚生活の家財は、妻の両親がこの電気屋さんを通して与えてくれた。それから年月が経ち買い替えが必要なものもでてくるという算段なのだろう。
「パパ、暑くて寝れないから扇風機がほしい」と由美が言った。
「なに言ってんだよ。すぐ寝るじゃないか」

「じゃあ、カタログを置いていきますね。必要なものがあれば、直ぐに駆けつけますんで」
 と言って作業着姿の彼は去った。そのツケになった実際の支払いは妻に任せてしまおうと考えている。エアコンの恩恵を真っ先に受けたのはジョンで、床に腹ばいになりぐっすりと眠っている。娘もいっしょに寝転がり寝息をたてはじめた。そして、ぼくには自分の作業があった。それにはユニフォームもいらない。

「勉強で分からないことがあって、教えてもらえると助かるんだけど」と、マーガレットはケンに要望する。彼が断る理由はひとつもない。自分に自信があることで、それで好意をもっているひとと気持ちが通じるということは一石二鳥でもあった。ふたりは夜の図書館で会うことを約束して、また午後の講義に入った。

 ケンは夜の図書館で下調べをしている。その作業に夢中になり、没頭して待ち合わせのことを忘れかけた。そこにマーガレットはやってきた。昼間とは服装が変わっていて、いまはシックなイメージに映った。

 ふたりは小さな声で話し、勉強の知識を交換した。このひとりが学んだ知識の集合体は死とともに消え去るのだということをケンは考えている。紙かなにかに残さなければひとりの知識はその人体とともに灰になるのだということを実感としてではないが空想の産物として知る。だから、ケンはすすんでマーガレットに教えた。

 勉強も終わり、ふたりは外に出る。新鮮な空気がフィルターを通さなくてもあった時代。彼らはある店に入り、おしゃべりをした。はじめは勉強の続きを、そして、時間が経つうちにそれぞれの個人のことを話し合った。ケンはマーガレットの父の不在を埋めるほどの大人の力量は持ち合わせていなかった。そうした部分では、不思議とエドワードを思い浮かべることになったが、この会話のときはその話のおもしろさにより、現実以外のすべてを忘れた。目の前の現実以外のすべてを忘れることの喜びを体現している。

「あれ、エアコン直ったんだ!」
「あ、そうだ。直ぐにきて直してくれた」
「いくらだった?」妻は一日の疲労という荷物を椅子に置いた。
「そこはいったん引き上げ、代わりにカタログを置いていった」
「もう、やだな。ただっていちばん恐いんだよ」
「ママ、扇風機ほしい。暑くて寝れない」充分、寝たような顔の由美がお願いをする。
「パパに頼んで」
 目の前の現実はぼくにとっては、いささか窮屈なようでもあった。
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壊れゆくブレイン(72)

2012年06月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(72)

 高井という男性がいた。彼はぼくがライバル視していた高校のラグビーチームに所属していた。雪代の前の夫の高校だ。ぼくは彼と笠原さんという女性を結びつける役目を担った。ぼくが介在していなくても彼らは出会う運命だったのだろうか? それも、もう分からない。

 彼はむかしの友だちの結婚があるということで、帰省していた。そこに笠原さん(ぼくは、ずっとなぜだか前の苗字で呼んでいる)も同行することになっていた。

 彼はぼくの職場にやってきた。彼は家具を扱う仕事をしていて、ぼくも東京にいるころはお世話になった。その東京での関係はいまでも続いており、この会社とは無縁ではないので来て当然だった。ぼくは何人かに紹介して、彼と奥でお茶を飲む。もちろん、ぼくと彼の今との結びつきは貧弱なもので、仕事の話も直ぐに底をついた。それで、もっと自分たちに深く印象を残したラグビーの話をした。

「そのひとりが結婚することになりまして」
「遅くない?」
「2回目です。で、2回目の祝儀」
「そんなに親しいんだ」
「あるヤツの娘がもう結婚しているのに、新婚もなにもないんですけど」彼は自分のことのように照れ臭そうに言った。
「そんな年だね」
「近藤さんはどうですか? 順調ですか」ぼくはその質問がなにを指しているのか直ぐに理解できなかった。それがぼくと雪代との関係を示していることを2回目という繋がりで思い出した。
「そうだ、君たちに正式に伝えてこなかったかもしれないね。あんなに親しかった笠原さんにも・・・」
「あいつも来てるんですよ。会ってもらえます?」ぼくらは当人がいないところで、勝手に予定を決めた。その日に高井君は別の用事で親とどこかに行く予定があって、暇にしても悪いと思い、以前に親しかったぼくと彼女を会わせることを考えたらしい。彼女が会うことに同意しているならばぼくが断る理由などなかった。あれから、数年が経っていたとしても。

「ひろしさん、今日は広美ちゃんとじゃないんですね。これまた、きれいなひとと・・・」待ち合わせの場所であるスポーツ・バーに入るといつもの店長がそう言った。
「広美ちゃんって?」と、笠原さんが訊く。
「娘だよ。義理の」
「いっしょに来るんだ。もうお酒が飲めるぐらい大きいの?」
「まだ、高校生。17才かな」
「付き合ってくれるんだ?」
「妻は仕事の関係で日曜も働いているから、暇だったり、大きなスポーツのイベントがあったりするとここで時間を潰す。彼女はお小遣いを減らす必要もないし、友人みたいな関係だよ」
「むかし、わたしの話も同じように聞いてくれたね」
「失恋して自信をなくした笠原さん。なつかしいな」
「はい、注文の品」店長はぼくらの前にグラスを置いた。「どういったご関係なんですか? ふたりは」
「東京時代の知り合い。上田さんの会社のひとだよ」
「社長の息子さんの?」
「そう。夫がこっちのひとだから」とぼくは説明する。すると納得したように彼は離れる。その情報はどこかにインプットされ彼の頭のなかで分類されていくのだろう。

「よく来てるんだ? とても、親しそう」
「子ども時代の彼にサッカーを教えていたから」
「そういうこともしてたんだ」
「ものになった子もいれば、ほかの才能を有している子もいる。淘汰されるって残酷なことだけど、自分の違う魅力を発見できたと思えば、なんでもないね」
「奥さんも魅力的なひとなんでしょう? 上田さんからもたまに聞く」
「ぼくらは離れられない運命だったんだろうね、大げさに言えば。いま、仕事のとき、子どもはどうしてるの?」
「預けてる、その間。もう大きくなったし、そう心配もいらない」
「君がお母さんだもんね」
「誰でもなるよ、時間が来れば」
「誰でもね」ぼくは言葉を発し、受け止めるたびに誰かを思い出す。彼女は決して母という存在にならなかった。それゆえに彼女は気高い印象をぼくに残し続け、手の平から零れ落ちた偶像として刻みつけられていた。

「ならないひともいたって、考えたでしょう」
「いたね。おかわりでも飲む?」笠原さんはうなずく。ぼくらは何年も会っていなかった。裕紀がなくなったあとに会って以来だったと思う。でも、その期間は直ぐに消え去り、ぼくらは以前の友人関係に戻っていた。
「娘さんは進学するの?」
「東京の大学に行きたいと思ってるようだけど・・・」
「じゃあ、そうなったら可愛がってあげる」
「そうしてもらえたら、嬉しいよ」
「悪い人につかまらないように監視してあげる」彼女は笑う。その笑顔はむかしのままだった。
「たまには悪いこともするでしょう、若いんだから」
「悪いことが、ずっと思い出として生き残ったりするからね」

「哲学的」ぼくは自分に起こったそのような状態を思い出している。悪いか悪くないかと決めつけたくもないが、どれも印象に残っているということは正しいようだった。雪代と付き合うために裕紀を手放し、ゆり江との黄昏的な関係のため雪代には黙っていた。そして、自分が死と向き合うことを放棄し、立ち直りたいという気持ちもあきらめるために複数の女性と関係をもった。そのなかに笠原さんとの一日も含まれていた。彼女は、それを意識した上での発言だったのだろうか。

「ひろしさんが、でも、新しい生活を見つけられて嬉しいな」
「自分も死にそうだったからね」
「生き残って、サッカーを教えていた子の店でお酒を飲んでいる」
「きれいな子と」
「客商売としてのお世辞」彼女は店長の働く後ろ姿を見た。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(9)

2012年06月15日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(9)

 ある朝、妻はバッグからレシートの束を取り出している。

「ごめん、これ、忘れてた。あとでコンビニとかでもいいから払っておいてくれる? これ」妻は長方形の紙と長方形のお札を渡す。ぼくは無言で受け取る。お小遣いをもらう中学生のように。「それにしても、税金高いな」妻は別の紙を眺めている。
「税金を払う側と、取り立てる側に二分される、とチェホフは言った」
「どうしたの? 今度の小説かなにか。それに保険料もこんなに。ひさしぶりに真剣に見ると」
「それで、どっかの洟垂れ小僧がインフルエンザの注射が打てるんだよ」
「いまどき、そんな子なんていないのよ。みな、きれいなブランドの服を着ている。年金もこんなにかかってるのね」
「ずっと、払って、支払いが開始される前日に死んでしまう」
「美学のこと? もったいないけど」
「国家に所属するってことは、そういうことなんだろう」
「ポーズはいいから、とにかく払っておいて」
「分かったよ。いってらっしゃい」ポーズをする生き物がいる、とボードレールは言った。別のひとだったかもしれない。妻は仕事ができる人間を装い家から出た。

 マーガレットは、海岸線を歩いている。そこにポーズもなにもない無心な後ろ姿を発見する。あれは、レナードだった。ひともまばらな海の絵でも描いているのだろうか。躊躇しながらもマーガレットはそのそばまで歩いて行った。

「こういう絵も描くんですね?」
「ああ、びっくりした。ええ、夏の間だけの滞在だから、なるべく多くのものを掴み取りたいと思って」邪魔をするのも悪いと思い、マーガレットは少し後方に歩いて行った。自分が見ている景色がある一定の四角いものに切取られ、そこがキャンバスにうつされていった。それを決めるのはレナードでいながらも、またある種の別の力のようでもあった。

 そこで、ぼくは仕事を切り取り、娘を公園に連れて行く。ジョンはブランコの端の鉄の柵につながれる。見知らぬ少年たちがその頭に触れる。暑いのかジョンの舌は伸びている。

「パパ、背中押して」娘がブランコにすわり要求した。ぼくは無心に背中を押す。こっちに戻ってくるとまた押す。そして、その力を必要としなくなった娘は反動で前後に揺れた。マーガレットもただ繰り返す波の行方を目で追っていた。

「優しいパパね、由美ちゃん」その様子を遠くで見ていたのか水沼さんが息子を連れて登場して言った。ぼくはベンチに移動して考え事をしていた。誰に頼まれたわけでもない創作の源泉を追い求めて。「川島さんは、なにか壮大な悩み事でも?」
「まあ、物語をひねくり回すのが仕事ですから」
「真理を追究する? そこにスポットライトを浴びせる」いつの間にか飽きたのか、横に由美もすわっていた。彼女は大人の話に耳を傾けるのが好きなのだ。
「パパの悩みはね、知りたいことの先頭に来るのはね、不二子という女の人がルパンという男の人を好きかどうかだけなんだよ。それに頭をつかってるの」

「そうなの。もっと難しいことを考えているのかと思ってた。由美ちゃん、ありがとう」水沼さんは快活に笑う。「わたしもあのぐらい、胸が大きかったら良かったんだけどね。あ、やだ、いま、見たでしょう? 川島さん」
「見てないですよ。いや、見たかな。誘導尋問ですからね。ぼくは、そんなに大きくなくてもいいと思いますけど」と、言い訳がましいことを言った。

「由美ちゃんのママは?」
「ママはテレビに出るおっぱいの大きい人を必ずバカと言ってる」と由美が付け足す。
「じゃあ、自分はちっちゃいの? そんな風には思えなかったけど」
「大きいほうです」ぼくは、あるがままの事実を言った。なぜ、こんな会話になってしまったのかその方向性が分からなかった。
「ルパンだって、不二子を本気で思っていない」水沼さんは新たな観点を見つけてくる。「刑事に追われることを喜びとして、女性を追いかけることも同じぐらいにしか考えていない」

 マーガレットはふたりの男性から求められていた。それで、前にいるレナードがただ自由に見えた。窮屈さが微塵もないような感じで。決定を強いられるというのは不自由と同義語なのだろうか?
「そこで、コーヒーでも飲みますか?」いつの間にか荷物を片付けたのか、レナードが上からたずねた。そばに来るまでマーガレットは気付かず、ただぼんやりとスカートを拡げすわって考え事をしていた。
 ふたりの前には湯気がたっているカップがふたつテーブルに置かれていた。マーガレットは口をつけるが、熱くて直ぐに唇を離した。

「あつい」
 レナードは笑いながらも心配そうな顔を向ける。彼が描く唇。「なにか心配事でも?」
「どうして?」
「ひとりで海でぼんやりとしていたから」
「描いてもらった絵なんですけど・・・」マーガレットは少し言い難そうであった。「あれを母が別のひとに渡すと言ったから、わたしの意向も訊かずに」
「あの1枚は、もうぼくのものじゃなくなる予定だから、どうするか関係ないですけど、少し、気になりますね。男性に差し上げるとか?」
「聞いてました?」
「いや、大体、女性の絵は男性の部屋に飾られるものだと思って。一般論ですから」

 ぼくは夕方だが、まだ机に向かっていた。そして、妻が帰ってくる。間もなく、食事の時間になり、妻は今日の一日のことを話し始め、娘も似たようにその日の一日のあらましを告げる。
「パパ、きょう、たっくんのママにゆうどうじんもんしてた」
「誘導尋問? どんなことを話してたの?」
「おっぱいのこと」ぼくはビールを吹き出す。泡のいくつかが鼻の頭についた。
「まったくね。ひとが汗水たらして働いているのに。パパはよそのママと楽しそうにしてるのね。ずるいね」母と子は同じような笑い方をした。ぼくは娘がそばにいて、そんないかがわしい話ができるはずもないことを懇々と説明した。しかし、言葉はむなしく、娘の笑顔だけがただ輝いていた。輝きこそが真理なのか?
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壊れゆくブレイン(71)

2012年06月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(71)

 耐えられないほどの生活の重みはぼくにはなかった。ただコンクリートの壁にひびが入っていくように、自分の体内の奥に疲労が蓄積されていった。それでいて大きな不満がある訳でもなかった。目覚めとともに喜びと快活な気持ちがあった若さは消え去りつつあり、日常の繰り返しを要求される大人な日々があった。つまりはそれが40代の半ばを迎えるということなのだろう。

 自分が若いときに将来どういうような生活を望んでいたのかは思い出せないが、結果としては充分ぼくに恩恵を与えてくれているようだった。もちろん、大切なひとを何人も失ってきたし、望みどおりにいかないこともままあった。だが、家には雪代と娘もいた。自分自身の子どもを持つことはできなかったが、本質的にそれを望んでこなかったようにも思える。自分の分身を恐れていたのだろうか。しかし、本当のことはそれすらも分からないというのが事実だった。

 まゆみが実家に帰省していた。ぼくは母になった彼女と子どもを見て、そういう感慨を深めたのかもしれない。ぼくが彼女を知ったのは、まだ大学生のころだったのだ。ぼくは大学で勉強をして、スポーツ・ショップでバイトをしてから、雪代と暮らしている家に帰った。まだ10代の後半だった。

「ひろしがさ、子どもは絶対産むべきだと言いつづけてくれたお陰で、オレは孫の面倒を見るという大切な役目を楽しむことができている」
 店長はそう言い、いやがる孫を執拗にそばに寄せ付け、自分に訪れた役柄を楽しんでいるようだった。
「最初は、反対していたのに」と、まゆみが照れたように言った。
「父親というのは、娘の選択に反対するために存在しているようなもんだから」と店長は自分をそう正当化した。
「ひろし君も?」まゆみが尋ねる。
「ぼくは何も反対しない。ただ応援するだけ、陰ながらね」
「広美ちゃんは元気?」
「元気だよ。あとでうちに来なよ。おじいちゃんに世話は任せて」
「お前からおじいちゃんと言われたくないね。それにお前だって、いずれ遠からずそういう役目がくるんだから覚悟しておけよ」ぼくとまゆみは笑う。

 ぼくはゆり江の両親のことを考えていた。彼らは突然、その役目を失った。ぼくは彼らの新築の家のことを考えていた。そこに若く華やいだ声があり、みなの笑い声がこだましてこそ家の歴史が作られていくのだ。だが、そこが大人たちの悲しみの集積の場になってしまう危険があった。それを許してしまうのか、払い除けることができるのかそれぞれの我慢が試された。ぼくは裕紀を失い、そのガランとした空虚な家を振り返っている。それはぼくのこころの中の象徴でもあった。それを払拭するべき、ぼくは無駄に酒を飲み、人生を破滅させようとしていた。それから、地元にもどり、雪代と会った。彼女はぼくのその甘かった時期を許そうとはしなかった。建て直しの期間が設けられ、そこには広美の無邪気さも役立ったのだろう。そして、あれから随分と時間が経ち、ぼくの体内には淀んだワインの底のオリのような疲労が残っていたのだ。

 思い立ったことを直ぐに行動するようにまゆみはぼくの家に向かった。結局、子どもも連れて来た。
「お客さんを連れてきたよ」と、ぼくは快活に言う。
「誰? あ、まゆみちゃん」と雪代が言うと奥から駆けつけてくる広美の足音が聞こえた。「ちょっと、行儀良く歩きなさいよ。狭い家なんだから」そういうと雪代は荷物を預かるように子どもを抱いた。
「もう、重いでしょう?」
「そうね」
「ずるい。わたしも」と広美が言った。

 それからまゆみたちも家で食事をすることになった。やはり、家には子どもの声があると華やぐようでいつもの家庭とは違った雰囲気があった。それは喜ばしい変化で、みなの顔が笑顔に向かおうとしていることが反応として理解できた。

 ぼくらの普段は静かに本を読んだり、音楽を聴いたりする時間が自然とできていたが、その日だけはその日常が覆されても誰も文句を言わなかった。まゆみたちが喜びと快活さという軽やかな荷物を運んできたのだ。

「広美ちゃん、勉強は?」過去の教え子が気にかかるようでまゆみは質問する。
「してるよ。大学にも行きたいし」
「東京の?」
「多分ね」
「そうなんだ」雪代は驚いたふりをして聞いた。
「心配ですか?」まゆみは自分の質問が波風を立ててしまうことを心配したかのように言った。
「ぜんぜん。わたしたち、ふたりだけの新婚時代がまったくなかったので、それを今からやり直すので、ね?」
「気持ち悪いよ」広美がわざと憎まれ口を言った。
「だったら、広美ちゃんもっと勉強して、絶対に東京の大学に行かないと」

「だったら、そうする」ぼくらは自然と笑う。誰かが家庭にいることによって、ぼくらは普段口にしないような隙間の会話をそこで補填することができるようだった。ぼくらは薄々知っているようなことでも、会話として口に出し成立させる必要があるようだった。その役目をまゆみたちが補ってくれたのだろう。

 すべてが終わり、ぼくはまたまゆみを家まで送る。彼女が広美の家庭教師をしてくれたときによくそうしたものだった。ぼくは小学生に通い始める前の彼女を知り、大学生だった彼女を知っていた。いまは母になり、順番として広美もその後を追うのだろう。ぼくの失った若さもそれで埋め合わせがつくのだろうと無心に考えていた。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(8)

2012年06月11日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(8)

 平日になり、また妻は会社に出掛ける。そこで日常の多くの時間を費やし成果をあげる。ぼくはキーボードに向かう。そこにはほこりがたまり、たまにコーヒーがこぼれ、被害を受ける。

 昼飯を自宅で娘とすませ、宿題もして、気分転換にいつものファミリーレストランにデザートを食べに行った。
「由美ちゃん、お昼ご飯には来てくれなかったんだ?」と、児玉さんの娘の方。
「ママが作ってくれた。それを食べた。美人で、料理も上手だから。これは、洗脳されてるんだけど」
「ンフフ」児玉さんが笑う。「洗脳なんて、言葉知ってるんだ。口が達者ね」児玉さんはこちらを見る。「ほんとはどうなんですか?」
「そ、その通り。美人で料理も上手だよ。きちんと育てられたしね。ぼくみたいなものに見つけられなければ、まあ、もっとね」
「楽で裕福?」
「そうだろうね」そうだったのか? 「洗脳って付け加えてね、と由美はママに言われてるんだよ、ね」
「そうなんだ。あ、ごめんね、由美ちゃん。ちょっと待っててね。急いでプリン持ってくるから」彼女はうなずく。

 マーガレットの絵は形あるものになっていく。肌は生まれ色つやを帯び、瞳はまだなかったが、睫毛がつくられつつあった。その日も終わると、マーガレットは凝った首周りを廻しながらひとりごとのようにささやく。
「絵ができたら、どうしよう?」
「エドワードさんに差し上げたら」マーガレットの母のナンシーは自分の思いを伝える。
「どうして?」
「だって・・・」
「まだ何も決まっていないのに」マーガレットは口をとがらせるようにして言う。それから腹を立てて家を飛び出した。でも、行くところもなかった。ただ、海岸線に通じる馴染みの道をひたすらに歩いた。

 家に残ったナンシーは、楽で裕福な生活が娘に与えられることを望んでいる。人生は苛酷な体験ばかりを経験する場所ではないのだ、という信念があった。それは書物を通して知りえるもので、直に触れるものではなかった。

「はい、由美ちゃん」
「ありがとう」と由美は言う。感謝の気持ちを差し控えないこと、と妻は絶えず教える。そのときはにっこりとすること。それで、娘を連れ歩くぼくの評判も良くなった。自分は仏頂面をしていたとしても。
「先生、母がなにか書いたものを持っていったとか?」
「うん。我が壮大なる半生を」
「それで?」
「それで? まだ、読んでいる途中だけど」
「なにか失礼なことを言った?」
「少しはね」
「母がちょっとだけ憤慨していた」
「まあ、書いたものを批判されればね。ぼくなんかそれをずっと繰り返しているわけだから、お母さんに言ってあげてよ、気にするなって」

 ナンシーは自分の娘の肖像を眺めている。それをついには賛嘆している。身なりのあまりよくなかったレナードだが一旦筆を握れば、そこには本物だけが持つ証拠を提出させることができた。だが、それだからといって彼を全面的に信頼していたわけではない。家に注文を取りに来る御用聞きとなんら扱いは変わらなかった。レナードはそれで不愉快になるようなこともなかった。自分の実力だけを信じて生きてきて、それに他人がどう評価を加えようが批判を入り込ませようが、そのこと自体に関心がなかった。ただ、自分の仕事を完遂させるだけの時間が欲しかっただけだ。

 ぼくは家に帰り、机に向かう。自分の仕事と思っていたが、つい興味をそそられ児玉さんの半生を読み始める。結婚後、彼女はなかなか子どもができなかった。(またもや、その行為のことが長々とつづられるが、ぼくは読み飛ばす権利も持っているのだ)夫の親にもそのことを遠回しに言われ、やっと娘をさずかった瞬間が書かれていた。喜びを隠しながらその日に夫に伝えると意に反して彼はそのことに無関心でいた。期待が大きすぎた児玉さんはショックを受け、食事も喉を通らない。しかし、産まれた子どもを見ると、彼の態度もいくらか変わる。男性は父親としての才能を先天的には与えられていないのだ、後天的に学ぶのだ、その為にわたしは彼の手助けをしようと書かれていた。

 その子どもは、大人になり由美にプリンを運んだ。「悪くないね」とぼくは独り言を言う。そのために自分の仕事がはかどらなくなったとしても。
「パパ、なんか言った?」
「いや、仕事のことだよ」

 マーガレットは防波堤の隅みに座る。灯台は強がって家を抜け出た彼女を隠れさせてくれるように大きくそびえていた。そこでは自分の未来のことを考えずに、過去の楽しかったできごとを振り返っている。ここには、何年も来ていた。まだ父親がいるころ、よくここら辺りをいっしょに散歩した。彼女の父はがっしりとした体格の持ち主でそれだけでも子どものマーガレットにとって頼りになった。その点で、ケンは華奢だった。細い手足を見せながら、トラックで長距離走をしている。彼はどこまでも走れるような無尽蔵のエネルギーが見かけとは違いあるようだった。彼はおしゃべりも得意で、マーガレットをしばしば笑わせた。そこは父とは違っていても、彼女は親しみを覚えるようになる。無口な頼りがいのあるひとも尊敬できるし、笑わせてくれるケンのようなひともいっしょにいると安心できるようになった。
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壊れゆくブレイン(70)

2012年06月07日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(70)

 ぼくは東京に出張に行き、仕事を片付けてビジネスホテルに一旦荷物を置いた。みな加齢という見えない足枷に縛られている。地球が回転するのをやめないように、ぼくらは目を覚まし、一日分の年輪を自分自身に加える。そこにだけは平等というものがあるらしかった。

 ぼくは病院に向かう。裕紀がかつていた病院。そこに彼女の叔母が今度は入院していた。
「ごめんね、ひろしさん」彼女はすまなさそうに、それだけではない小さくなった身体でそこにいた。「ここに来るの、ほんとうはいやでしょう」
「はっきりいって、あまり好きではないですね」
「思い出すから?」
「思い出しますし、それにひとが病気になっていくことに対して無力でいることも、ほんとうにいやなんです」そして、死も。ぼくはゆり江の幼い子どものことも念頭に浮かべる。
「話は変わるけど、裕紀のお兄さんに会ったとか?」

「ああ、会いました。叔母さんがぼくらの味方になってくれたことも知りました」
「いまは、ぼくらじゃなくて、ひろしさんの味方」彼女は弱々しげにほほえむ。そこに若さというものが消えゆこうとしても、それは限りなく美しく尊いものだった。
「許さないとしても、ぼくらには誤解のようなものがほどけていく望みがあった」
「それで、あの子の写真を見た?」
「ああ、あれですね。確かに見ました」
「ゆうちゃんにそっくりだった」

「ええ、驚いています。ぼくは決して、裕紀の外見というか見かけだけを好きになったわけじゃないんですけど、あの子の写真を見たら、彼女のすべてが好きだったことを思い出しました」ぼくはそこで口をつぐむ。「また、それを取り戻せないことを知って悲しくもなります」

「わたしの心残りがひとつ減った。いや、違うのよ。ひろしさんがゆうちゃんを失ったことじゃなくて、無駄に恨まれることがなくなりつつある」
 でも、本当にそうなのだろうかとぼくは考えている。ぼくは裕紀の兄に恨まれることによって、過去のある日、ぼくと裕紀はかけがえのない日々を過ごした証拠にもなり、それがもし解消されるとするならば、ぼくと裕紀の生活も逆に消滅してしまうような危険があった。それぐらい、ぼくにとってそれらの日々は大切なものだったのだろう。
「また、元気になって、外で会いましょう」
「あなたは関係なくなったわたしのことも見舞いに来てくれる優しいひと。ゆうちゃんの兄はきれいごとを並べるけど、滅多にこない」

「忙しいひとだから、足を運びにくいのでしょう」
「せっかく、東京で楽しい時間が持てるのに、こんなところに来させてしまって。次回は、償いをするから」

 ぼくは、驚く。償いという言葉はぼくが裕紀を捨て去った時間を取り戻すために使うべき言葉だったのだ。それ以外には、そのような言葉に相応しい状況はないとも思っていた。

「償いなんて・・・」ぼくは病院を出る。あの日々。ぼくは裕紀を見舞い、そのままひとりで味気ない外食をして、ひとりの部屋で、ひとりのベッドで寝た。いまは違う。雪代がいた。広美は誰かと電話で長話をしている。その子と休日にスポーツ・バーで時間を過ごす。その無為な時間がぼくにとってはとてつもなく貴重なものに思えた。
 ぼくは待ち合わせていた智美と会った。ぼくと彼女は幼馴染みであり、その関係も30年以上になる。
「今日は、なにしてたの?」

「もちろん仕事を終えて、裕紀の叔母を見舞いに病院へ行ってた」
「病気なの? というか、まだ、付き合いあるんだ」
「なぜだかね。ぼくと裕紀はなかなか裕紀の家族から認めてもらえなかったけど、彼女とおじさんは別だったから」
「ひろしはわざとそういう道を歩いてきたのかと思った」
「どうして?」
「学生のときに裕紀と別れ、雪代さんと付き合い、それで仲間から疎んじられ、今度は裕紀と結婚して、彼女の家族から冷たくされる」

「そうだね、そうされても仕方がなかったけど。どちらも、ぼくには必要なわけだったから、いまではね」今、振り返ってみればということだった。それぞれの状況をいまのぼくが知っており、それを過去に伝える方法があるならば、ぼくはどういう選択をするだろうかと思案してみた。だが、その無意味な考えは直ぐに頭から消えた。それは彼女のおしゃべりの力によるものだった。ぼくは彼女の声も何十年と聞いてきたのだ。それは若さという張りがいくらか減った声だった。それでも、馴染みがあることには変わりがなかった。

 ぼくらは数杯のお酒を飲み、来られなかった夫の上田さんの噂話をした。ぼくは彼の職場の同僚の笠原さんの話もきく。その名前を最近は思い出すこともなかった。ぼくは裕紀を亡くしたときに、彼女と寝た。それは代用にするにはあまりにも甘美過ぎる体験だった。だが、彼女はもうぼくとの時間のことなど覚えていないだろう。ぼくが裕紀を思い出すような仕方では誰も痕跡に残す方法を知らないのだ。

 それから、ぼくは自分のホテルに戻った。見なれた狭い部屋。そこで歯を磨き、鏡を見た。裕紀の叔母は償いをすると言った。それは未来のある日にふたたび会うという前提が条件となった約束であり、ぼくは自分の未来に対してそのような守るべき約束がどれほどあるのだろうかと思い浮かべてみた。しかし、酔った頭ではそれがいくつにもならないように思えてきた。そう考えていると横たわった身体は眠りを単純に欲しており、それに抗う気持ちなどぼくには到底なかった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(7)

2012年06月07日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(7)

 土曜日の朝。ぼくは娘と食事を摂っている。妻の昨夜は、自分の職場のチームの仲間と酒を飲み、ふらふらとした足取りで帰ってきた。玄関のカギを開けるのにもたつき、結局、ぼくが玄関まで行き、ドアを開けた。それで、今朝はまだ寝ていた。一週間の頑張りが背景にあり、誰もとがめられない。

 ぼくはひげを剃り、少し小ざっぱりとした服装をして、外出しようとしていた。起きてきた妻は、乱れた髪で玄関まできて送った。
「旦那がそとで働き、妻は家事」とだけ言った。

 ぼくは歩きながら、自分の仕事に手を加える。レナードは、豪快にアルコールを飲みながら、自分のいつもの仕事にかかろうとしているが、気持ちはマーガレットの肖像に傾きかけている。レナードは知らなかったが、マーガレットの母は、そのうちの一枚をエドワードに贈ろうと思っていた。亡くした夫の部下であり、有能な銀行員のエドワード。そのことはマーガレットも知らない。仕事で気が合ったため、エドワードは家にも遊びに来るようになっていた。まだ幼いうちはどちらも異性としては見なかったが、30歳と20歳になり、そういうことを前提として意識するようになった。なにより、マーガレットの母はそのことを望んでいた。銀行員の妻であった自分の喜びと安定をマーガレットにも体験してほしいと。

 避暑の前に、マーガレットは男性のふたりに交際を求められていた。ひとりはエドワードであり、もうひとりは大学がいっしょのケン。前者は結婚を望んでのことであり、後者は学生時代を彩るための交際相手として。まだ、どちらにも返事をしていなかった。その答えとしては夏が終わり、秋になる前に返事をすることになっていた。

「はい、きょうはここまで。発表してくれたひとたちお疲れ様です。また、来週もアーウィン・ショーの小説のなかに見られる都会性と隠れた泥臭い表現ということで議論しますので、本をお忘れなく」

 ぼくは、週に一度の地区のセンターでの先生役を終える。皆は椅子をずらす大きな音をさせながら帰っていった。でも、ひとり、児玉さんが残って近付いてきた。
「アーウィン・ショーとバーナード・ショーは兄弟ですか、という質問をしたひとがいましたね?」と児玉さんはささやく。
「まあ、ひとそれぞれですから」ぼくは苦笑する。
「これ、途中まで書いたんです。わたしの半生」
 ぼくはその束になったものを受け取り、パラパラとめくる。すると、文章が目に飛び込んできた。
「私は、その暑い日に、銀行員であった男性の妻になった。見合いの最中も式の間でさえもきちんと目を見ることはできなかった。そして、その最初の夜。夫はわたしの乳房の先端の敏感な部分を舌で触れた。これがわたしの望んでいたものだったのかと・・・」

「まるで、エロ小説じゃないですか?」
「わ、ひどい、川島先生」
「言い過ぎました」
「先生は自分に忠実であるべきだとおっしゃいました。感想よりも事実を書けと、最初に」
「その通りです」
「自信のない自分にかわって、箔をつけるためにわざわざロシアの文豪の言葉まで引用した。雨が降ったら、ただ雨が降ったと書くようにと」

「そうです。チェホフ」ぼくは都会のビルの上からアジサイのように咲いた下界の傘の群れを眺めている。雨は雲という吸収力のよいオムツさえも乗り越え、したたり落ちてきた。「無駄な美文がひとを遠ざける」
「だから、わたしもそうしました。天からの助けの言葉と思って」
「だけど、誰かが読むかもしれないじゃないですか?」
「誰が読みます? 先生の本だってあまり読まれていないのに」
「わ、ひどい、児玉さん」

 しかし、事実だった。事実はひとを無用に傷つける。ぼくは本屋に生徒のために本を注文した。アーウィン・ショーの短編集。それを30冊ほど頼み、代わりにほこりをかぶりつづける自分の2冊の本の行末を案じていた。
「3、400人?」
「もういいですよ、児玉さん、それぐらいで。帰って読ませてもらいます。コピーはきちんとありますか?」
「創作に悩んだ作家に盗作されないように日付も入れて」
「随分と、いやなことを言いますね」しかし、彼女は悪意もないようなケロッとした表情で帰っていった。

 まだ学生気分が抜け切らないエドワードはマーガレットとともに遊んでくれた。しかし、もう彼は無邪気な遊び相手ではない。仕事も責任ある地位へと進みだし、家庭というものを安らぎの場所として求めていくのだろう。

「お疲れ様、先生。どうだった?」
「無事に済んだけど、最後に嫌味を言われてね。これを書いたひとから」ぼくは無造作に紙の束を放り投げる。妻はそれを読み始める。
「このひと、何歳?」
「60の手前じゃない。か、ちょっと過ぎか」
「かなりきわどい内容ね」
「エロ小説」

「そこまで言わなくても。わたしも書いてみようかしら。女性のなかにはいつでも、聖なる部分と妖艶な女性が棲んでいる。その妖艶な部分を持て余して、わたしは夫に抱きついた。夫とのナイト・ゲームにて、彼は完投することができず、中継ぎやリリーフが必要なようだった。それで、寝てしまった夫の横でわたしはオウン・ゴールを決めた」
「やめてくれよ。最低だよ。下品」

「下品で、ガサツで不潔。あなたの三大嫌いなもの。わたしもそれに近付くのかしら。あなたはそれを避け、マーガレットという偶像を作り上げ、そこに逃げ込む」
「主人公だよ、生活の糧のための小説の」
「それだけで、わたしも娘もご飯を食べてるわけじゃないので、お忘れなく」彼女は笑う。
「いつか、なるよ」夏の午後の忘れ去られる決意。「由美は?」
「友だちのお誕生日とかでお招ばれした。その間にデー・ゲームでもする?」
「なんだか、下品だな」ぼくらは生きているために、さまざまな会話をして、それを実行し書き残す。雨が降ったら・・・
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壊れゆくブレイン(69)

2012年06月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(69)

 ぼくらは悲劇とともに暮らす。

 ぼくは車で外回りをしながらラジオを聞いている。一日を締めくくる予感とその日が無事に過ぎ行こうとしている軽い疲労が証拠としてあった。全国の大きな話題のニュースと天気予報が終わり、ぼくはその社会と無関係でいるような気持ちを残しつつ聞き流していると、次に地元のローカルなニュースに移った。そのタイミングで流れている女性の声もかわった。いささか粘質的な声だった。

 特産品の話題があり、今年の収穫の見込みが話された。ぼくはそれを雪代が食卓に出すときのことを考えていた。また、地元のお祭りのことについても話された。それを遠くから見るために、とある国の観光客が来ることが話題として提供された。そして、事故の話がある。川遊びをしていた子ども。親が目を離した隙に横たわる姿で見つかる。蘇生が試されたが、それは戻ることはなかった。子どもの名前がちゃん付けで呼ばれる。その苗字はゆり江がある日から付けた名前だった。そして、その子どもの名前もぼくは聞き覚えがあった。

 それは新鮮なニュースだった。事故が起きたのは昼過ぎで車内の時間は夕方になり、いまごろは搬送された病院で親がそばにいるはずだった。ぼくはその横たわる身体が裕紀のものであると錯覚する。不意にめまいのようなものを覚え、急いで車を路肩に停めた。ハンドルに置いた両腕に頭をもたせかけ、ぼくはうなだれた。

 ぼくは携帯電話に入っているゆり江の番号を探す。それはむかしの苗字として表示された。だが、かけることをためらう。ぼくは必要とされているのかも分からない。ただ、それが近いうちに鳴ってほしかった。いや、それも違う。永遠に鳴らずに、彼女の子どもではなかったと思いたかった。

 しかし、自宅に戻ると、テレビのニュースでも取り上げられていた。広美は一度、その子に会ったことがあった。学校での課外授業かボランティアで子どもを遠足に連れて行く行事があった。ゆり江もそこにいた。子どもももちろんいた。大勢のなかのひとりとして。広美は彼らを覚えていた。

「ひろし君、こんな事故があった」彼女は動揺していた。
「うん。車で聞いた」
「なに?」遅れて帰ってきた雪代は話題についていけなかった。概要を広美が話す。
「わたし、いっしょに遠足に行って、遊んだ。お母さんも可愛げのある優しいひとだった」
「ひろし君も彼女を知っているのよ」雪代は失くしたものが見つかったような表情をしていた。
「おばさんの友だちでしょう?」広美はぼくの妹と彼女を結びつける。その通りといえば、その通りだった。だが、ぼくとゆり江の古い関係を雪代は口にださなかったが覚えているようだった。

 ぼくの携帯電話は何日かして案の定だが鳴る。ぼくは安堵とともに慰めの言葉を探す。しかし、こころの平和はどこにもなかった。裕紀が亡くなったとき、ゆり江がなにを語ったかがまったく思い出せずにいたが、それでも、彼女がそばにいることがありがたかったことを記憶にとどめている。
「会ってくれる? 渡すものができた」
「もちろん。ぼくが今度はなぐさめる番だから」

 ぼくはゆり江を抱きしめる。その様子を予想している。その場の言葉は荷物でしかなく、ぼくらを遠去ける役目しか与えないであろうことを理解していた。だが、会うと彼女は大きな袋を渡した。
「なに?」
「子どもの部屋になるべきところに飾っておいたけど必要なくなった」ぼくは上からちらりとなかを覗く。ある絵。それはどこかの少女の肖像だが、不思議と裕紀に似ているものだった。「裕紀さんとあの子の死を結び付けて、彼があるのを嫌がった。正直な話」不幸を舞い込ませる絵画。そんなことは絶対にないはずだったが、でも、実際にはそれは起こりつつあった。違う。本当に起きてしまった。「裕紀さんは、意地でもひろし君のそばに居たいのかも、ね。こうして」
「母親もなくて淋しがってた。また、実家に飾るよ」

 負け惜しみのようなことを言ったぼくは疲れ、数歳年取ったような感じを抱いていた。だが、ぼくらはその絵画のことを忘れ(だが、なにかを片時でも、大切であったなにかをきれいに忘れることができるのだろうか?)ある場所で抱き合っていた。ぼくらは死と向き合い、儀式としてそれを済ませなければならないような感情になっていた。脅迫にでもあったように。

「また、誰かが死んで、ひろし君といっしょになってる」ゆり江はぼくの胸の上で泣いた。「大切ななにかをまた失った」
「ぼくは、君と抱き合うためになにかを犠牲にするのかな」もし、そうならば、次回が、このような機会が来るとすれば、それはもっと大きな供物をぼくに求めることだろう。その恐ろしさと見えざる巨大な力を感じ、ぼくはゆり江を抱いている暖かさを忘れ、身震いする。ただ、恐かった。こうして、ゆり江の変わらぬ若い身体を抱いていながらも恐かったのだ。なにかを押し退け、生きつづけることも恐かった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(6)

2012年06月04日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(6)

 妻は食事を済ませ、新聞とバッグをつかみ、ハイヒールを履いて家を出た。赤い唇。いつもの日常。由美も顔を洗い、用意された服に着替えている。

 時刻が9時半ぐらいになると、家のベルが鳴って、玄関が少しだけ開いた。ぼくはテーブルでコーヒーの残りを飲み、ぼんやりとしていた。頭のなかにただようマーガレットの残像を道連れにして。

「由美ちゃん、用意できた?」となりの家の久美子の声だ。
「いま、行く。待って」
 ぼくも同時に玄関に向かった。
「久美ちゃん、悪いね。せっかくの夏休みなのに」
「いいですよ。毎日、プールに行ってるし」

「あの久美ちゃんがね。家の前でビニールの簡易プールに浸かって遊んでいた久美ちゃんがね。おもちゃも入れて」ぼくと妻はその頃に結婚して、この家に移り住んだ。となりには女の子がいて、いまの由美と同じ年頃だった。
「やめてくださいよ。恥ずかしい」

「不潔な中年男性」靴を履きながら、由美がぼそっと言う。背中には小さなリュックがある。
「どうしたの? 由美ちゃん」
「昨日、ママがパパに言ってた。不潔な中年男性だって」
「そうなの」久美子は笑いをこらえながら言った。
「違うんだよ。小説に登場する女性主人公の名前をちらっともらしたら、それを誤解してね。妻が・・・」
「ぼっとん便所みたいな小説だけど」すると、靴を履き終えた由美が立ち上がりながら言う。
「え、なに、由美ちゃん?」
「ぼっとん便所みたいな小説」

「違うだろう、由美。ぼっとん便所がまだある時代を背景にした小説というんだよ、正確には。昭和のリアリズムただようね。苦悩する青年」
「由美ちゃん、ぼっとん便所なんて、知らないんでしょう? 本当は」
「知らない、何それ?」
「あとで説明してあげる」
 久美子は由美の背中のリュックを軽く押し、玄関を出た。
「今日は、自転車は?」
「危険だと思ったので、バスで」久美子は時計をちらりと見た。「いまから歩けば、まだ間に合うよ。さあ」彼女らは歩き出す。ぼくは前の通りまででて、彼女たち二人の背中を見送る。

「パパ、仕事頑張ってね!」と、由美が途中で振り返り、大声で言った。同時に手を振る。となりで久美子は小さく頷いた。ぼくもサンダル履きで手を振る。久美子の父の黒光りしているいつもの靴とは違う様相だった。

 マーガレットは時計を見る。そのアンティークの時計は時間が少し狂うことがあった。だが、いまのように誰もが慌ただしく生活している時代とは異なっていた。時計は3時半を指す。約1時間とちょっとだけこわばった姿勢を自分に強要していたことになる。
「どれぐらいの期間を目安に?」母のナンシーは紅茶を飲みながら画家のレナードに訊いた。
「大体、3週間ぐらいを目途に」
「それで2枚」
「2枚だと、もう少しかな」
「どちらかを譲っていただけるとおっしゃったのかしら?」
「気に入った方を」
 マーガレットはそのふたりの様子を静かに眺めていた。レナードは汚れた服装といい画家とは思えず肉体を駆使して労働している人間に見えた。土ぼこりのするような匂いが似合いそうだ。干草や夏の雲。突然、降り出す雷をつれてくる黒い雲。そう考えていると、マーガレットの耳にはふたりの声と会話が届かなくなっていた。

 そのまま、ぼくの指は動かなくなり、伸びた指先を見て、爪を切った。すると、昼になった。ぼくは馴染みのファミリー・レストランに向かった。
「先生、ひげぐらい剃ったら?」児玉さんがかいがいしく働きながら、動き回っている。そして、ぼくの注文を取りにきたときにそう言った。
「ビールでも飲もうかな」
「お仕事は?」
「朝にしてたけど、行き詰った」
「お嬢さんは?」
「となりの子がプールに連れて行ってくれたんだ。だから、今日は父親業から解放されている」
「あら、優しい。この期間にもっと、仕事、励まないといけませんね」でも、ぼくの仕事が一刻を争うものではないことを誰しもが知っているようだった。緊急病院に輸送される患者が待っているわけでもない。輸送というのは正しい表現か、言葉をひねくりまわした。正確には搬送だったのか? だが、どっちにしろ急ぎではない。それで、彼女はグラスに入ったビールを持ってきてくれた。夏の昼。セミの鳴き声。「明日、教室があるんでしょう?」

「そうだ、土曜日だ」
「課題を出していたとか?」ぼくは週に一度、近くのセンターで文章の授業を受け持っている。
「いや、3ヶ月も経ったから、自分の思いついたことを表現するようにと言っただけ」
「母は、メガネをかけて紙に向かっている。真剣にね」ぼくはその様子を思い浮かべる。文明を持つ人間どもの営み。共有の財産となる文字や絵画の集積。

 レナードは自宅に帰り、さきほどのキャンバスをまた取り出した。となりに同じものを置き、まっさらの片方にも同じ顔の輪郭をつくった。だが、仕事を急がせる気もなかった。レナードはあの部屋にいた心地良さを引き伸ばせる方法を考えていた。策略や長期的な展望など考えたこともないレナードだったが、それだけは思いついてしまった自分を許そうと考えていた。
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