拒絶の歴史(102)
年末になってぼくはバイトを辞めた。結局は、3年半以上もここでお世話になってしまった。それほど、ここは居心地が良く、自分が自分らしくいられる場所だった。ラグビーの経験もあったし、それを中断してからはサッカーのコーチを自分の余った時間にした。幼いころ自分もそれを楽しみ、また同じように幼い子たちがそのスポーツに親しむことを、ぼくは喜びとしていた。それで、実際に店に買いにくるお客様とも知り合いでもあった。信頼できるひとから物を買うということは、何事によれ基本的な物事の捉え方だった。
その最後の日も夕方の4時から夜の店を閉める前の8時まで4時間働いた。もう、翌日は年末の休みになるので店長の家族と外食を共にすることになった。まゆみちゃんは、そのことをとても喜んでいた。
翌日は、少しましな服装をして、外食先に向かった。彼らは、もうテーブルについていてにこやかに談笑していた。ぼくはその場で最後の封筒にはいったバイト代をもらった。それは、ノートや文房具に消えたりもしたが、多くは遊行費として使ってしまった。好きなことをして稼ぐことが重要なものであれば、ぼくはそこで手にいれたことになる。
「今日は、楽しんで喰えよ」と店長は言った。彼は楽しむときには、とことん楽しむ人間なのだ。
「そうします」と言って、満たされたグラスを傾けた。
それから、ぼくの学生時代の話や、バイト時代の話をした。もちろん、交際相手のことも訊かれた。それを、まゆみちゃんは理解しているような顔をして聞いたりうなずいたりしていた。彼女は外食が珍しいらしく、そのことがなにより楽しいようだった。
「いままで楽しかった?」と、店長の奥さんが訊いた。「もっと、活動的なものの方が楽しいかなと思ったものだから」と言葉を足した。
「いえ、充分楽しめました。和やかな環境で、必死に成績をあげるようなことも求められませんでしたし」
「近藤君のお陰で若い子たちがたくさん集まったし、すぐに店に還元されなくても長い目で見ればそれは、とても良かったことだよね」と彼女は夫に同意を求めた。そして、彼は納得したようにうなずいた。
食事も終わり、テーブルにはデザートが並べられた。まゆみちゃんは選ぶのに困っていたようだが、結局は両親からも別の種類のケーキをひと口ずつ貰っていた。最後にぼくは、
「いままで、お世話になりました」と挨拶した。店長は、「こちらこそ、なんにもしてあげられなくて悪かったな」と言ったし、奥さんは、「いままで、ご苦労さま」と言ってねぎらってくれた。
「また、たまには会いに来てくれるんだよね」とまゆみちゃんは、いままでの笑顔を突然うしない急に泣き出してしまった。
「もちろんだよ、どっか遠くに住むわけでもないんだよ。近くにいるから、会いたいときには、また会えるよ」
「ほんとだよね?」と執拗に彼女は訊いた。ぼくは彼女の手を握り、何度も何度も説明した。
店を出ても、彼女はまた同じ質問を繰り返した。ぼくは、その小さな肩を揺すり、違う言葉を使ったのではあるが、同じ内容を話してあげた。誰かが、ぼくのことをこんなに大切に思っていてくれることにぼくは感動していた。彼らと別れ、ひとり月の出ている夜を歩いていると、たまらなく孤独で不安な感じをいだいた。それは、自分が立ち止まっていた地面が急に奪われてしまったようだった。事実、ぼくはその足場を失ってしまうのだ。だが、学生のバイトなどいずれ終わりになることは間違いなかった。ただ、その瞬間を貴重なものとして自分の中に蓄えておけることは自分の人生にとって宝物になるだろうとの予感があった。
家について戸を開けると、雪代が台所に立っていた。彼女のお店も今日で終わりだった。数日は二人でゆっくりできるはずだった。
「どうだった? 楽しかった?」
「最後にまゆみちゃんが泣いた」
「どうして?」
「感傷的になって、淋しくなってしまったんだろう」
「可愛いんだね」
ぼくは、自分の孤独を忘れたく彼女を後ろから抱いた。
「どうしたの?」
「何かが終わってしまったような気がして」
彼女は何も言わず、そのままの体勢でいてくれた。ぼくらは、しばらくの間そうしていた。そして、この人が地上にいることを感謝した。もしかしたら、彼女のいない世界だってありえたのだし、彼女をこのように抱擁する機会もなかったのかもしれない。そう考えると、ぼくの孤独感はいくらか軽減された。それを思うと、自分以外のひとがもっている温かさや優しさという感情をもっと受けたいとも思ったし、またそれ以上に自分のそういう感情を誰かに与えたり、注ぎたいとも思っていた。
これがその年がまもなく終わりそうな時期に起きたことだった。大人になったまゆみちゃんは一体、どういう女性になるのだろうかと、ぼくは眠れないベッドの中で雪代のすこやかな寝息を聞きながら考えていた。
年末になってぼくはバイトを辞めた。結局は、3年半以上もここでお世話になってしまった。それほど、ここは居心地が良く、自分が自分らしくいられる場所だった。ラグビーの経験もあったし、それを中断してからはサッカーのコーチを自分の余った時間にした。幼いころ自分もそれを楽しみ、また同じように幼い子たちがそのスポーツに親しむことを、ぼくは喜びとしていた。それで、実際に店に買いにくるお客様とも知り合いでもあった。信頼できるひとから物を買うということは、何事によれ基本的な物事の捉え方だった。
その最後の日も夕方の4時から夜の店を閉める前の8時まで4時間働いた。もう、翌日は年末の休みになるので店長の家族と外食を共にすることになった。まゆみちゃんは、そのことをとても喜んでいた。
翌日は、少しましな服装をして、外食先に向かった。彼らは、もうテーブルについていてにこやかに談笑していた。ぼくはその場で最後の封筒にはいったバイト代をもらった。それは、ノートや文房具に消えたりもしたが、多くは遊行費として使ってしまった。好きなことをして稼ぐことが重要なものであれば、ぼくはそこで手にいれたことになる。
「今日は、楽しんで喰えよ」と店長は言った。彼は楽しむときには、とことん楽しむ人間なのだ。
「そうします」と言って、満たされたグラスを傾けた。
それから、ぼくの学生時代の話や、バイト時代の話をした。もちろん、交際相手のことも訊かれた。それを、まゆみちゃんは理解しているような顔をして聞いたりうなずいたりしていた。彼女は外食が珍しいらしく、そのことがなにより楽しいようだった。
「いままで楽しかった?」と、店長の奥さんが訊いた。「もっと、活動的なものの方が楽しいかなと思ったものだから」と言葉を足した。
「いえ、充分楽しめました。和やかな環境で、必死に成績をあげるようなことも求められませんでしたし」
「近藤君のお陰で若い子たちがたくさん集まったし、すぐに店に還元されなくても長い目で見ればそれは、とても良かったことだよね」と彼女は夫に同意を求めた。そして、彼は納得したようにうなずいた。
食事も終わり、テーブルにはデザートが並べられた。まゆみちゃんは選ぶのに困っていたようだが、結局は両親からも別の種類のケーキをひと口ずつ貰っていた。最後にぼくは、
「いままで、お世話になりました」と挨拶した。店長は、「こちらこそ、なんにもしてあげられなくて悪かったな」と言ったし、奥さんは、「いままで、ご苦労さま」と言ってねぎらってくれた。
「また、たまには会いに来てくれるんだよね」とまゆみちゃんは、いままでの笑顔を突然うしない急に泣き出してしまった。
「もちろんだよ、どっか遠くに住むわけでもないんだよ。近くにいるから、会いたいときには、また会えるよ」
「ほんとだよね?」と執拗に彼女は訊いた。ぼくは彼女の手を握り、何度も何度も説明した。
店を出ても、彼女はまた同じ質問を繰り返した。ぼくは、その小さな肩を揺すり、違う言葉を使ったのではあるが、同じ内容を話してあげた。誰かが、ぼくのことをこんなに大切に思っていてくれることにぼくは感動していた。彼らと別れ、ひとり月の出ている夜を歩いていると、たまらなく孤独で不安な感じをいだいた。それは、自分が立ち止まっていた地面が急に奪われてしまったようだった。事実、ぼくはその足場を失ってしまうのだ。だが、学生のバイトなどいずれ終わりになることは間違いなかった。ただ、その瞬間を貴重なものとして自分の中に蓄えておけることは自分の人生にとって宝物になるだろうとの予感があった。
家について戸を開けると、雪代が台所に立っていた。彼女のお店も今日で終わりだった。数日は二人でゆっくりできるはずだった。
「どうだった? 楽しかった?」
「最後にまゆみちゃんが泣いた」
「どうして?」
「感傷的になって、淋しくなってしまったんだろう」
「可愛いんだね」
ぼくは、自分の孤独を忘れたく彼女を後ろから抱いた。
「どうしたの?」
「何かが終わってしまったような気がして」
彼女は何も言わず、そのままの体勢でいてくれた。ぼくらは、しばらくの間そうしていた。そして、この人が地上にいることを感謝した。もしかしたら、彼女のいない世界だってありえたのだし、彼女をこのように抱擁する機会もなかったのかもしれない。そう考えると、ぼくの孤独感はいくらか軽減された。それを思うと、自分以外のひとがもっている温かさや優しさという感情をもっと受けたいとも思ったし、またそれ以上に自分のそういう感情を誰かに与えたり、注ぎたいとも思っていた。
これがその年がまもなく終わりそうな時期に起きたことだった。大人になったまゆみちゃんは一体、どういう女性になるのだろうかと、ぼくは眠れないベッドの中で雪代のすこやかな寝息を聞きながら考えていた。