爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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存在理由(61)

2011年01月31日 | 存在理由
(61)

 多分、この日を忘れることはないだろう。

 1993年5月15日。Jリーグが開幕した日だ。ぼくもテレビの前に座っている。

 観客席が映されている。そんなに熱狂した人たちが集まっているとは思っていなかった。2つのチームはプロ化がはじまる前から、ライバル同士だった。そのチームが、きちんと陽の目を浴びた場所で戦っていること自体に感動した。希望をもって待つことへの、正式な回答のような一日だった。

 登録しているのは10チームしかないので、合計5試合が行われるのみだ。

 土曜に、開幕戦があり、マリノスが結果として勝った。ある人たちがまだ現役で活躍できる間に、プロ化が実現して、なぜかぼくは、ほっとしていた。

 だが、本当の開幕は翌日だったのかもしれない。鹿島といういままで聞きなれない町にもチームができる。彼らは赤いユニフォームを着ている。過去に何度も栄光の舞台に立ったブラジルの選手が、魅力的なチームを作り上げ、さらに自身の最後のステージをそこに決めているようだった。

 その40歳の選手は、若手の誰よりも多く走っているように見えた。見えただけではなく、実際に3得点を取り、それ以上にグラウンドを我が物としていた。過去の遺物としてではなく、現時点でも全力を尽くすことを体現しているような美しさがあった。また、短い間にチームをトップレベルに持ち上げた手腕により、その方面での能力も買われていた。

 結局、アントラーズは5対0で勝ち、見るものに衝撃を与えた。華やかな未来が日本には待っているという、皆が無邪気に望んでいた幻想を与えた。そのともしびを抱えていたのは、40歳の選手だったような気がした。

 みどりもその鹿島にいた。試合後、興奮した彼女と電話をした。その気持ちは痛いほど分かった。ぼくもその場にいたかった。しかし、なぜか遠く離れたテレビの前で時間を過ごしている。

 ぼくも興奮の気持ちをどこかにぶつけたかったように思う。試合後、誰かとビールでも飲みながら話したかった。そこで、由紀ちゃんとの約束を実行していないことを思い出し、彼女の家に電話した。偶然にも、その日は暇だったらしく、彼女の家に行くことになった。その前に買っていた、帰国祝いのようなプレゼントを持って、さらに食料をちょっとだけ仕入れ、家に向かった。

 玄関を開けると、彼女のいつもと違うリラックスした顔が見えた。このときに、多分だが、もう後戻りができない感情が芽生えたのだと思う。いままで隠そうとしていた感情が自分に内在されていたのを知ることになるのだ。知って存在が分かれば、ないことにすることは出来ず、はっきりとその存在は主張をはじめる。そして、それを育つままにさせたのだと思う。

 部屋で彼女は簡単な料理を作っていた。そうしたことを目にしていなかったので、自分には意外な気がした。そして、自分は今日見たサッカーのことを話し、彼女はニューヨークの雑誌社での経験と語学学校での生活と友人などの話をした。それを、アルコールの入ったゆったりとした気持ちで聞いていた。

 普段、社内では以前とは違いよそよそしい関係だった。それと、彼女の家族の関係もあり、将来的に高い地位に立つことを、彼女は確約されていた。その面では、あきらかに自分は部外者だった。

 酔いがまわり、遅くならない時間に自分は帰ろうとした。このまま居続けたら、自分の気持ちは終わってしまうような気もした。だが、答えはもう出ていたのかもしれない。

 いくらか涼しくなった外気を感じながら、途中まで送ってもらった。そこで少し立ち話をして、別れた。

 自分は迷っていたのだろう。二つの道があった。若いころから知っているみどりとの関係を永続させること。それとは反対に由紀ちゃんとの新しい関係をはじめること。もう気持は後者に傾いていた。が、しかし、それを打ち明けるエネルギーが自分にはあるのだろうかということが先ず心配で、その次にみどりは簡単に納得してくれるかということが、さらにそれ以上の心配の種だった。

 家に着いて、眠りに就こうとベッドに入るも、なかなか眠れなかった。そのような時に、みどりとの過去の楽しかった出来事が、断片的に思い出された。それを断ち切ってまで、自分の幸せの追求は正しいことなのだろうか、と悩みだすとさらに眠りは遠くなった。眠りの導入口は缶詰の中に入っているように、自分からは隔絶されていた。

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償いの書(22)

2011年01月30日 | 償いの書
償いの書(22)

 ぼくは、これで東京で一年暮らしたことになる。仕事にも慣れ、ここでの生活にも馴染んでいった。人間というのは、なんだかんだ適応する力がある存在なのだと発見する。

 それは、雪代と別れて一年以上経過したことになり、裕紀と再会してから一年に近付くことでもあった。ある人間の思い出はこれからは増えることはなく、それだけに輝いて見えることもあり、懐かしんで思い起こすこともあった。現在というものは現在というだけで、簡単にやり過ごしてしまうこともあった。時間の淘汰がない限り、それは美化されて自分に反映されてくることはないのだろうかと考える。そういう一年間だった。

 職場には、新しく女性が増員され、机や一式がひとつずつ置かれた。最初のうちは戸惑っていたが直ぐに慣れ、去年のいまごろのぼくもそういう時期があったのだろうと思い起こすきっかけにもなった。

 ぼくは、街のなかを飛び回り、いろいろなひとに会った。優しげなお客さんがいて、けんか腰の業者がいたりした。ぼくは、面白いことがあったり、感動することがあれば、それを裕紀に伝えた。彼女は関心があることを示す聞き手の最上級の部類に入った。ぼくは、それで自分の話がうまいという風に錯覚することにもなるのだが、その誤解はぼくを気分の良い気持ちにさせてくれるのだった。

 そのときに新しい大きな仕事が入った。ぼくはある土地にひと月ほど泊まり、その管理をする役目を任せられた。ぼくは荷物を詰め込み、夜の暇な時間を潰すための本なども入れて、出かける用意をした。裕紀に事情を話すと、彼女は淋しがった。休日もあまり作れず、一ヶ月間は彼女に会うことはできないだろうと、ぼくは宣告する。ぼくらは、こういう世界の一員なのだ。自分をあるときは失くし、金銭や立場のために仕事を最優先にする存在なのだ。

 その前日にぼくらは会った。再会してから、ぼくらはこれぐらいの期間すら離れることはなかったのだと、今更ながら思い知る。ぼくは、彼女の顔を覚えておこうと必死になる。彼女もぼくの手の暖かみを忘れないとするかのように手を握った。

 そして、ぼくは彼女の髪の長さや、(この瞬間はいまだけなのだ)目の不思議な色合いなどを確認する。そして、彼女の小さな肩や、この季節の服装を覚える。だが、その時間も終わりに迫り、ぼくは翌日、電車に乗って東京を去った。

 仕事をしている間は、どれもそうだろうが失敗は許されないのでとくに注意を払って、業務に専念した。今回はそれに加えて特別なものだったので、仕事の時間は裕紀のことも思い出すことはなかった。だが、小さなホテルの一室でビールなどをひとり飲んでいると、彼女の声を聞きたくなった。覚えておこうと考えていた彼女の表情やさまざまなものは、とてもおぼろ気で、ぼくを憂鬱なきもちにさせた。こんなにも薄情な人間なのだろうかという気持ちにもなった。だが、写真をみれば、彼女の美点のいくつかを思い返す前触れにもなった。やはり、少ない時間でも時間の淘汰は必要なものであろうかと考える。

 もう3週間が過ぎ、帰るまでに1週間が残っているだけの時期になった。夕方になり、ぼくは仕事を終えた業者とともにお酒を飲んでいた。順調に仕事が捗っていることにそれぞれが興奮し、それをある面で制御し沈めるような中味のある時間だった。それが解散になり、ぼくはひとりで酔いを醒まそうと歩いていた。ホテルの直前の場所でぼくはある姿を見つける。

「やっぱり、来ちゃった」そこにいるのは、裕紀であった。ぼくは、彼女がこんなにも行動的な人間であるとは思ってもいなかったのだろう。それで、嬉しいというより、心配が先になった。「嬉しい?」
「もちろん。だけど、どうしたの?」
「どんなところで仕事をしているのか知りたかった。会いたくて仕方がなかったし、ついでにこの周りも観光してみた」
「明日は休み?」
「日曜日だよ。忘れたの?」
「いや、毎日、つきっきりだったので。社長や支店長が最大限に力を入れている仕事だったので、休みもそれほどないから」

 ぼくらは尽きない話をして、彼女が泊まっているホテルに入った。ぼくは朝までそこにいて、急いで自分の泊まっているより小さなホテルでひげを剃り着替えた。彼女は、地図を不自由にあつかい、ぼくは、こことここを見たほうがよいと案内し、その現場の前で別れた。

 ぼくは、昨日彼女が来てくれたことで、もう1週間だけ簡単に乗り越えられそうな気がした。そして、自分の気持ちや彼女のぼくに対する気持ちを判定する材料にもなった。この会えない時期が、もしかしたら不自然な形態でも自分には必要な時間だったかもしれないと感じた。

 ぼくは、仕事が成功に至った過程と結果を仲間とともに最後に祝杯をあげ、その代わり数日の休みが与えられた時間をどのように使おうなどと考えながらも、やはり最優先には裕紀に会うことだけしか思いつかなかった。

 揺れる電車のなかでひと月分の疲れがどっと出て、いつのまにか居眠りをしていた。その際にも、夢の中に登場するのは裕紀の姿しかなかった。
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償いの書(21)

2011年01月29日 | 償いの書
償いの書(21)

 ぼくは、まだ10代だったときに、いままでのことはすべて継続すると思っていた。誰でも、そう思うだろう。そのときにまだ同じ年頃だった裕紀といくつかの約束をしていたらしい。ぼくは、そのようなことはすべて忘れてしまっている。彼女は、そのうちのいくつかを覚えていて、こんなことを言ったね? とぼくに訊いたが、そのどれをも覚えていないぼくのことに対してすこしがっかりしたような表情をした。

 ぼくは意図して、そのようなことを忘れるように計ったのだろうか? それとも、自分の記憶というものはこれほどまでに不甲斐ないものかなどと思い、自分自身でもやりきれない思いがした。

 3月には大きな遊園地にふたりで行った。それは、ぼくらがまだ地元にいたころ、今後行こうと約束していた場所だったらしい。くどいようだが、ぼくはそのことを忘れている。でも、深く記憶をたどれば、その日が蘇ってきそうなおぼろげな雰囲気はあった。彼女の17歳ぐらいのこと。彼女は意地なのか、誰と交際してもその場所にはいかなかったらしい。もう二度とぼくに会えないかもしれないのに、そこは彼女にとって、ぼくと行くべき場所になったのだと決めていたらしい。ぼくらは、もし仮に東京タワーのふもとで会わなかったら、彼女にとってそこは永久に未知の場所になりえたのだ。

 そのことで期待以上に彼女は喜んでいた。27歳になった裕紀は、10年間待った望みを叶えていたのだ。ぼくにとって、そのような場所はあるのだろうかと考えている。それは、大体雪代と過ごしたときに経験してしまっているかもしれない。思い出の引き出しのストックには、まだ未整理のままそのような状態で雪代との思い出が氾濫していた。

 ぼくらは乗り物にのり、たくさん笑い合い、彼女の新たな表情を手に入れ、ぼくの性格の一部を彼女は知ることになったのかもしれない。楽しい一日はあっという間に過ぎてしまい、夜の闇がぼくらを覆うようになる。ぼくらはひとの目を意識せずに抱き合い、ぼくの背中からこんな声が聞こえてきたような気がした。

「さんざん、彼女に苦労をかけたことだし、今の瞬間を永久なものにお前はしたくないのか? また、この女性を失うことになってもかまわないのか?」
「なんか、あった?」ぼくが背中のほうを振り向くと心配そうに彼女は言った。
「いや、なんか知っているひとのような声がしたもので」
「いた?」
「いや、いない」それは、いるはずもなかった。皆が歓声をあげ、ひかりのほうを見ていた。その言葉は、ぼくの未来から訪れて来たのかもしれないし、過去の17歳のぼくが告げに来たのかもしれない。いいや、山下か上田先輩か、もしくは智美たちのミックスした声と願望だったのかもしれなかった。

 閉園が告げられ、ぼくらはとぼとぼと歩く。彼女のこころには、どのようなものがあり、また眠っているのか。そして、何を望んでいるのか知りたくてたまらなかった。暗いなかで彼女の表情が分からないように、それ以上に、彼女のこころは永久に分からないような気がした。
「さっき、わたしも何か聞こえたような気がした」
「いつ?」
「ひろし君が強く抱いてくれていたとき」
「どんなことが聞こえた」
「教えない」
「うそだろう」
「うそ。彼を手放すことになってもいいのか、とか、彼は誰かのほうに向いてしまわないのか? とかを」
「もう手放さないよ」
「ほんとうに?」ぼくは、見えもしないのに「うん」というように頷いた。

 電車に乗っても、ぼくらの会話はいつもどおりに、はかどらなかった。それは、退屈であるとかつまらない状態だったとかではまったくなく、どちらも、どこからか聞こえて来てしまった声のありかをたどるかのように思いつめていたからかもしれない。ぼくは、そうだったし、彼女もその後、そう告白した。

 裕紀の家のそばの駅で降り、彼女を送ることにした。そこは、ある意味、ぼくの見慣れたいるべき場所になりつつあった。そこには雪代の思い出が混入する心配はなかった。

 家の前で躊躇していると、「どうしたの? 休んでいけば」という優しげなイントネーションを含んだ声で彼女がいった。
 そこに入り、裕紀のいつもの匂いを確認し、ぼくはソファに座った。1杯ずつ冷えた白ワインを飲み、ぼくらは遊園地にいたときの続きのように強く抱き合った。彼女は心細げにぼくに抱かれ、身をすべてゆだねてしまったような状態になった。

「ひろし君もなんか聞こえたんでしょう? さっき。とても、不自然だったもの」
「うん。自分自身からなのか、それとも、山下や上田さんが常に裕紀の味方をしているのを知っているよね? 彼らがぼくらを後押しするように表れて、裕紀を失わないようにとアドバイスに来たような感じがした」
「そうなんだ」

 ぼくらは神秘的な話をしているのではなかった。ただ、決断や選択にあやまりがないように、しかし、それは選択でもなかったのかもしれない。もう、それは決定事項でもあったのだろう。どちらも、言葉としては出さなかったが、すでに結婚というかたちがしっかりとした形でぼくらに表れ、意識をもっているように強くぼくらに要求しだしたきっかけだった。
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存在理由(60)

2011年01月29日 | 存在理由
(60)

 また4月になった。会社から何人かがいなくなり、それより少ない数の人間が充填され、新しい顔ぶれの人がデスクに向かっている。ぼくも、いくらかする仕事に変更があり、おとなの読むべき本ということで、2ページほどの書評を受け持つことになった。そのために、本屋に繁々と通い、読む時間も勤務中に作ってもらうことが出来た。

 時間的にゆとりができて、新しい本の場合は、出版社の人と話したり、その作品の生みの親とも会うことができた。だが、主に読むのは、もう生存をしていない人たちで、その人たちの歴史を振り返ることも多々あった。

 カメラマンを連れては、その作家の眠っている墓地に行ったり、生家が残っているときには、そこに日帰り取材にも行った。こうした仕事が楽しくないわけはなく、歴史と地理への興味も満たされていく。

 何もないところから画期的なものを作り出す人もいるが、彼らは表面的な華やかさがない分だろうか、当然得るべき尊敬を受けていないような気もする。その反面、その頃の若者は、(もちろん自分も含む)何の努力もしないで聴衆の視線を手に入れることばかり考えているようだった。そのことは、現在も続いているのだろう。

 現在の評価だけが正当なものだとしたら、誰も歴史など愛さないかもしれない。しかし、振り返ったり、将来を予測して行動したりする能力が人間には備わっているので、そのことには無頓着でいようとも、自分は思ったはずだ。

 そのような仕事にうつった良い方向での変化を、みどりは素直に喜んでくれた。彼女のいつもの笑顔が、ぼくの人生にもたらした喜びを忘れることはできないだろう。ぼくの隠れている才能というのがもしあるならば、それを最初にみつけ評価してくれるのは、いつも彼女だった。そんな存在をふつうの人は持っていないかもしれないということを知るのは、もっと先のことだった。
 逆に、彼女の存在の良さも自分は同じように感じていたかは、少しだけだが疑問だった。だが、やれるべきことは、したかもしれないし、褒め言葉が彼女に見合うだけ言えてきたかと問われれば、否定するしかなかった。

 そんな彼女は、Jリーグ開幕に向けての仕事で大忙しだった。まだ、その頃の自分もサッカーというスポーツが日本でも市民権を得るということに懐疑的だったかもしれない。しかし、チームは作られ、外国人選手も補強され、準備だけは整ったように思えた。

 世の中でタイミングだけがすべてであるならば、その時をやり過ごせば、サッカーのプロ化というものの実現は不可能だったかもしれない。多分、さまざまなことが到来するタイミングを待ち侘び、誰かが石をひっくり返して探し当ててくれることを待っているのだろう。自分も、もっと大きな人間になるためには、見られていないところでの頑張りを、ある日誰かが陽の目のあたる場所に引っ張り出してくれるのを、一心に待つことになるのだろう。それは、決して来ないかもしれないが。

 ゴールデンウイークになり、ニューヨークから飛行機が来る。その中に由紀ちゃんは乗っているはずだ。居ない間も何度か連絡を取り、ぼくのいる会社の女性のための雑誌の編集に加わることになっていた。彼女には社内に偉くなってしまった兄がいる。その人は、家族だからと言って、評価を変えるようなことはしないはずだ。自分にも厳しく、他人にも平等に厳しい人だった。なので、即戦力にならなければならない、という彼女もプレッシャーを感じていることだろう。

 日本に戻って、家に着いたという連絡をもらった。新しく独り暮らしのマンションは兄によって用意されていた。その部屋からの電話で大体の場所は分かり、電話の終わりに今度、遊びに来てと誘われた。その前に、会社内で会う方が先のはずだ。自分は、人から見られて恥ずかしくない仕事ができているのだろうかと自分に問うた。

 みどりの家のそばの土手で、ビールを片手にグラウンドを眺めている。5月の陽気と怠惰な気持ちが見事に釣り合っているような日だった。大きなグラウンドで野球のユニフォームに包まれてボールを追いかけている少年たちがいる。その横ではサッカーボールの動きに群がる少年たちもいた。人を騙すことなどもなく、自分のこころを偽ったり、騙したり虚栄もなかったあの頃の自分が蘇ってくる。

 彼らもスポーツをして、喜びを感じ、限界に脅え、淘汰され大人になっていくのだろう。そのときには、もっと世の中はましな形体になっているのだろうか、と頭の中で考えたが眼だけは彼らの姿を追っていた。
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存在理由(59)

2011年01月28日 | 存在理由
(59)

 会社に入ってからの利害を抜きにしても、何人かの友人ができ、それにかわって学生時代の友人たちと会う頻度が減っていく。そうしたことを悲しいとも気づかずに日々は過ぎ去っていく。

 今度、連絡をとろう、と頭の片隅のメモ帳のようなものには印しているはずなのに、大きなイベントに絡めない限り、会うこともない。それにもまた無頓着であった。

 冬と春の季節が入れかわる予兆のようなものがある。自分の人生にも、そのような兆しを感じたりもする。みどりは、いつも忙しく飛び回っていた。彼女の自分に対する本心が分からなくなってしまう時もある。その核心に触れる機会もないまま、時間は無常なまでに早く過ぎる。立ち止まって考えることが不可能なほどだし、誰かが回転を速めているのかと誤解するぐらいだ。

 相変わらず、自分は生活の虚構の部分を仕事で担当している。一握りの裕福な人がどこかでページをめくっているのだろう。そのことで、自分にも少なからずメリットもあるが、もっと本質にふれるようなことを考えたくも思う。それが、自分の性分だとも思いだした。

 世界の大部分は、限りないまでも貧困なのだ。

 かといって生活の大筋は、そんなに急に変わらないことも確かだ。与えられたことをうまくこなしながら、生活の糧を得ている。

 学生時代の女性たちも、結婚する人が多くなってきた。自分には、まだ先のことだと思っている。しかし、みどりの周りにもそれらの人は多くなり、彼女も休みには着飾って、そのお祝いに行ったりもした。共通の友人になった場合は、自分も参加することが多くなった。彼女も、まだ自分の結婚などは、近い将来には訪れないこととしているようだ。それに対して、自分も不満はなかった。

 だが、学生時代から知っている仲だが、それぞれ社会に出て、出会うべき人間も増え、年代差も大幅に変わっていく。それによって自分の興味ある対象も自然と違った形をとるのだろう。

 職場のそばに仕事帰りに立ち寄る店ができた。自分に勢いがあるときは、多分近づくこともなかったかもしれないが、世の中の疑問と向き合ったり、解決策のない問題を頭の中でこねくり回すときに、そこにいると落ち着いた。

 なんどか会社の廊下ですれ違った人とも、そこで話すようになる。その人は社内ではベテランなのだが、会社が発行する雑誌がシフトし出したときに、自分の立場を失った、と言った。そのことに不満はないようだが、自分の経験を生かせないことが、不服らしい。そのことを聞いて、こうした機会を通して自分を成長させてもらうよう、さまざまなことを教えてもらおうと思った。それを口に出しては言わなかったが、お互い了承したような気持ちをもった。

 社内でこうした経験をもっている人に最前線で活躍してもらえない状況があることは知っていたし、そうした処遇に不可解さももっていたが、目の前にあらわれた男性は、一見しては分からないが、長く過ごすと能力のある人間だということは、だいぶ年下の自分にも分かった。その人から、業務上のノウハウをたくさん得ることによって、今後の働きの意欲に転嫁させようと思った。そして、そのことは成功したと思う。

 彼は、3月で退職することになっていた。まだまだ一線で活躍できそうだが、半分リタイアして東京を離れて暮らすそうである。その数か月の間に、自分は仕事が終わったあとに気楽な立場で学ぶことができた。知らない知識を、直ぐそばにいる人間がもっていることも分からないで右往左往している状態がかなりあったが、このような経験をとおして、恥を忍んで人に聞くことを苦にしないようと決めた。

 退社する前に、一緒になってその店で飲んだ。生意気だとも思ったが、数々の良い思い出の代償として、その人に奢った。その人も快く受けてくれた。

 店を後にするときに固い握手をして別れた。帰り道、地下鉄に向かう途中で無性に涙が流れてとまることはなかった。近くの公園のベンチにすわり、そのまま泣き続けた。誰かを失って、2度と取り戻すことが出来ない時間にたいして後悔することが起こる。そのベンチから立ち上がり歩きだす頃、自分はなるべく時間を無駄にしないようと決めた。しかし、決めたことを守り通すことの方が難しいことは、自分でも良く知らなかったのだと思う。
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存在理由(58)

2011年01月27日 | 存在理由
(58)

 そうブームになることも世の中に多くはなく、それを作り出している意識もない。部長の意向で、雑誌という消え行くものでありながら、ある程度のクラシックになることも求められていた。そのために普遍的な知識を自分の中でも欲しがった。

 仕事をこなしながら、自分の成長の時間をとることは不可欠でありながら、易きに流れてしまうのもまた自分だった。そのように、後で取り返しのつかない時間が経ってしまうことを感じてしまうこともあるのだろう。

 1993年になっていた。

 経験が足りないことを自覚しながらも、毎日の生活をしている。誰かが亡くなって、その人の成し遂げたことを後追いするような形で学ぶこともある。社長の件ももちろんそうであったが、他の人の立派な業績も後で知る。

 3人の人間について思いを馳せる。

 職場内で音楽の記事を書いている男性がいた。その人の文章でたくさんのことを学ばせてもらった。ジャンルに拘泥せず、(口では簡単にいえるが、本来の意味でそうできる人をぼくはそれほど知らない)気に入った音楽家を紹介していた。

 その人が、追悼記事でディジー・ガレスピーというトランペッターのことを書いていた。戦前のビバップという形体のジャズを作り上げたひとりであり、その相棒と比較して長生きし、ときには熱烈な音のトランペットを吹き、ときにはお道化に徹し、(そのことをよく思わない人も当然のように存在する)大衆に広めることにも貢献したかもしれない。そもそもジャズを大衆の音楽と定義しない人も大勢いるので、なんともいえないのも事実だが。

 そのユニークな音楽家は、麻薬まみれで、短命な人が周りにたくさんいながらも、それとは別個に75歳まで生き延びた。自分は、そんなにも知らなかったが、その追悼記事が素晴らしかったので、彼にCDを貸してもらい。それ以来、その音楽家を好きになっていった。誰かの愛情が伝染することもあるが、まさに今回がそれだった。しかし、何回もいうが、その人がいなくなって同時代の体験ができないことは、いささか悲しいことでもあった。

 ひとりは妖精のような人。その人はローマで迷子のようになった王女の姿であらわれる。

 新聞記者とローマの町を探検し、つかの間の庶民の生活を存分に楽しむ。まさに映画という虚構の中で生活することを許されたような存在だった。その映画は、みどりに執拗に誘われ、いっしょに名画座に観に行った。ロマンチックすぎる先入観があったので、それほどの期待はなかったのだが、暗がりに座ってしまえば、いつかはみどりの存在も忘れてしまうほど、熱中していた。その監督のその他の作品もひろって観たくなってしまった。

 みどりは、ぼくが気に入ったことを喜んで、それから古い白黒の映画を何本か教えてくれた。フランスの映画に良いものがたくさんあったことを知る。

 その映画の中で、はかなげに生きた存在も地球上から消える。誰も歴史を後戻りさせる力がないことを強く確信するだけだった。

 昨年のバルセロナでのオリンピックで、米国のバスケット・ボールのチームは、ドリーム・チームと呼ばれて大活躍した。その中にHIVに感染して引退した選手もいた。その不治の病と思われていたものが、より一層身近になった経験だった。そのことを抜きにしても、そのチームはテレビの前の観客を魅了した。

 その病気にかかったテニス・プレーヤーのアーサー・アッシュという選手が、その頃亡くなった。現役時代の活躍を、自分はよくは知らなかった。だが、その人物に触れれば触れるほど、人間的に素晴らしい存在であることを知って行く。

 あらゆる差別を、自分がベストを尽くさないことの言い訳にしてはいけない、のだとその人から教えられる。その生き方を実践した人も、50年も生きられずに、自分のコートから退場する。さらに、このような人たちを生み出した過去のアメリカの文明の底力を尊敬しないわけにはいかなかった。

 自分を作り上げる過程にあって、この時代も大きかったと思わないわけにはいかない。

 ある日、みどりと、みどりの家の近くの河原に座っている。夕日が沈みかけているが、時にそれが大きく見えることがある。その日もそうだった。それを背景にして、バスケットをしている少年の歓声が聞こえる。
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存在理由(57)

2011年01月26日 | 存在理由
(57)

 将来への見込み、甘い見通しで経済の失敗があるように、人間もさまざまな計画の破たんにぶつかる。しかし、希望をもたない人生になんの魅力があるのだろう。希望を失った瞬間に、死は確実に近づいて来るのだろう。

 誰かの良さを受け継いで、自分のものにするチャンスは常にあり、そうした気持ちを開いておけば、いずれ訪れた機会を見逃すことはないだろう。だが、誰かがいての話だ。

 自分の気持ちの死もあるが、実際の死にも直面しなければならない。1992年も終わろうとしていた時期だ。ずっとお世話になっていた社長が、ある日突然亡くなった。いつも健康そうでいて、ユーモアも兼ね備えている見習うべき模範のような人だった。これから先の長い期間を通して、さまざまなノウハウを会得する未来も、急に潰えてしまった。こんなにも悲しい気持ちに包まれることに、自分自身でも驚いていた。

 亡くなった人を見送らなければならない。たくさんの人が葬儀に参列していた。その弔問客の後ろの方に、由紀ちゃんの顔が見えた。彼女はニューヨークの雑誌社で勉強しているはずだった。久しぶりに見る女性の変化にこころが動くことがよくあったが、彼女の美しさとその変化にも驚いてしまった。目でぼくを見つけると、無理してでも微笑むような表情をした。ぼくも軽く会釈をして応対した。

 その人を亡くした瞬間には、こころの停止状態のような期間があって、それを通過した時の方が悲しさが倍増することもある。ひとりにはなりたくなくて、誰かがそばにいてくれることを切実に熱望する。その時に、みどりは休めなかったし、忙しさの真っ最中でもあった。

 このまま年末の休暇を日本で過ごす予定に変更した由紀ちゃんと会うことになった。彼女の兄は、ぼくの部署の担当部長だ。彼の嫁のお父さんが、亡くなった社長である。部長と社長には考えかたの相違があり、不思議と由紀ちゃんと社長は仲が良かった。

 彼女のニューヨークでの生活を楽しく聞かせてもらった。自分も、将来他の国で生活することが出来れば良いと考えていた。しかし、こうしたことにはなぜか女性の方が、度胸があった。普段の彼女の生活の一面がうかがい知れ、たくさんの質問もしたかったが、その一部をきくことで精一杯だった。

 仕事が終わった後や、休みの間も由紀ちゃんと会うことがあった。彼女は、熱心にぼくの話に耳を傾け、普段は感情をそれほど出さない自分なのだが、饒舌にしてしまうなにかを彼女が持っていることにびっくりもした。その為か、時間は急速に過ぎ去り、またその時間自体を愛惜しむように、ぼくらは会話した。また、次に会える約束も自然と見つけるようにもした。

 みどりは年末に実家に帰った。忙し過ぎて、なにもしない時間を必要としてした。親元に戻り、自分の巣で必死に眠る小さな動物のように暮らすのだろう。それに参加することも、また抵抗することも自分にはなかった。それが愛から出たのか、長い間に自然にできあがった形式なのかは、自分にも分からなかった。

 年があけ、年始早々由紀ちゃんは再びニューヨークに飛び立った。きちんとこちらに戻るのは4月か5月になるとのことだった。いままでは全く連絡をしなかったのだが、今回はこの数カ月近況ぐらいは伝えあうことを約束した。その戻ってくる日を、指折り数えるように待ち望んでいる気持ちが、自分には確かにあった。

 新しい年になり、人事面では部長がスライドして、社長の座に就きそうだった。前ほど、社内にはゆとりの空気は流れないことは確実だろう。その面で不満をもつ人もいるかもしれないし、かえってやり易いという人もいるだろう。万人の平和など、どこにもないのは知っているが、自分は、うまく渡りきれるよう努力することしか考えていなかった。

 みどりも東京に戻ってきた。

 彼女の部屋に座っている。暖房の風が薄いカーテンにぶつかって揺れている。そのカーテンから日差しが入り込んできていた。休暇も終わろうとしている。自分の気持ちに正直であるならば、世の中で衝突は避けられないだろう。自分とみどりとの関係は、すぐに崩れるような間柄ではなくなっているが、耐久年度があるならば、この辺でじっくり点検が必要だったかもしれない。だが、建物に大幅な水漏れもなければ、外傷もほとんど見られない。その所為で、語り合ったりして、チェックすることを怠っていた。問題はある日、ふと浮かび上がるものだろうか。それとも、見えないところに沈んだような形で、存在を示そうとしているものだろうか。
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償いの書(20)

2011年01月24日 | 償いの書
償いの書(20)

「この前の旅行のときにね」と、裕紀は語り出す。「ひろし君の大学生時代の話を、智美ちゃんからきいた」
「どんなこと?」
「スポーツ・ショップでバイトをしていたとか」
「言ってなかったっけ?」
「きいてないよ。そんなことやいろいろ空白の期間を埋めるようなことも教えてもらった」
「そうなんだ。それは有意義なことかどうか分からないけど」
「そこには、可愛い小さな女の子がいたとか」

「ああ、まゆみちゃん。ぼくが働いているときに、丁度、小学校にあがる時期だった。いっしょに文房具を買いにいったのをいまでも思い出すな。いま、どうしているだろう」
「自分にも子どもってほしいもの?」
「まゆみちゃんぐらい、利発な子ならばね。そうならば凄くそう思うよ」
「妹さんにも生まれるんだものね」

 ぼくは、その姿を想像してみる。病院に横たわっている妹の美紀。いつかその横には小さな子どもがひとり増え眠っている。それをぼくの両親が眺めている。その様子は、いつの間にか裕紀の姿になった。彼女は病室にいて、父親になる寸前のぼくがいて、なんと声をかけてよいやら、さまざまな新しいことに対して戸惑っている。化粧をしていない姿なのに、ぼくは裕紀に神々しさすら感じている。ぼくはそのひとつのイメージが自分の頭から離れられなくなっていくのを知る。病室の壁の色や、その匂いや揺れるカーテンまでも。

「あのバイトは、ほんとに楽しかった。後輩たちもその店を利用してくれて、なにも買わなくても彼らはそこを自分のいるべき場所のように感じていてくれた。店長も良いひとだったしね」
「そうなんだ。いつか、その女の子にも会ってみたいな」

「うん、どんな女性になるのか、ぼくもずっと興味がある」ぼくに無尽蔵の愛情の宝庫があって、その数十パーセントをまゆみちゃんに出し惜しみもせず、ささげていることを考えてみる。ぼくには、そうした対象が別にも増えていくのだろうかとも考える。
「それが、自分の子どもだったら、いいのにね」

 ぼくらは段々と家庭を作る話を意識し始める。意図的に持ち出すということではなく、いっしょに映画をみたときや、テレビをみているときに家族の論争があれば、それはぼくひとりだけの問題ではなく、裕紀にも首をつっこんでほしかった。彼女の両親がもういないということが、それを考える上で大きな一因になっていることは間違いないだろう。彼女にも安定した土台が必要なのだ。もちろん、彼女以外にとってもだが。

「わたしはお手伝いぐらいで、バイトをしてこなかった。いろいろな経験ができなかったことを悔しく思っている」と、彼女は本音を吐く。ぼくも、バイトをしたことにより得た経験を喜ばしいことだと思い、さらに何人かのかけがえのない知り合いができたことも、ぼくの人生にプラスされたことを思えば、それは限りなく有意義な日々だったことを知る。

「いつか、戻ったときにふたりでその店に行ってみよう」と、ぼくは話の結論をつけるようにそう言った。ぼくらには守るべき予定や約束が徐々にだが増えていった。それをひとつひとつは憶えていないが、不図した拍子に思い出され、実行に移していない自分の迂闊さを思い出すのだ。

「ほかにも、知らないことをひろし君は経験してきたんだよね」
「ぼくも、裕紀のすべてを知っている訳じゃないよ」
「わたしがお母さんになって、ひろし君の成長を見守るという不思議な夢をその旅のときにみた」
「そう? それで」
「でも、悪いことをしそうになっても、わたしは止めることもできないし、ただ傍観しているだけ」
「でも、お母さんなんだ」
「お母さんみたいなものだけど、もっとそこには親密さがありながら、またベールのようなもので遮られている」
「なんか、怖いな」
「怖くないよ。ただ、じっと見守っているだけ。ひろし君にも、その夢を見てもらいたいぐらい。反対の立場になってもいいけど」

「ぼくが父親で?」
「そう、わたしが娘で、すごい悪いことをするの」
「だって、しそうにないじゃん」

「夢の中ではするの。手出しをしたいと思うけど、どんどん悪いほうに娘はすすんでしまう。途方もないぐらいに」
「いやだね。自分の意思が働かないで、夢のなかだけでその情景を見せ付けられるのは」
「しかし、お母さんだし、お父さんだから守ってあげたいと思ってるの」

 それは、何かの象徴なのだろうか。いずれ、ぼくらはそういう関係になるのだろうか。それとも、彼女は両親の愛情を求めているのだろうか、いや、それは、ぼくの愛が少なすぎるという隠れた意思表示なのか。自分にはどれも分からなかった。

 そして、彼女はそのことを頭のなかに描いているかのような表情をして、空をみつめているようだった。

「しかしだけど、意図した夢を見るのって難しそうだね」と、ぼくはしばらくして興ざめなことを言い、彼女のきょとんとした表情を見ることになる。とても愛らしい表情だったが。彼女は自分の言ったことを忘れてしまったかのように、ぼくのさらなる発言を求めた。
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存在理由(56)

2011年01月23日 | 存在理由
(56)

 1980年代後半から90年ごろまでに、世界中の名画のいくつかが日本にやってきた。そのぐらい経済的な力が日本にはあった。その勢いもいまは消え、過去の栄光に変わりつつある。その頃に就職ができた人間は幸運であり、できなかった人間は不運である。その差によって、大きな問題に後日、発展することなど預言者でもない自分には分かるわけもない。

 いまは、1992年である。就職したい人間の数は、毎年そんなに大差もなく、その職種は景気の動向によって減らさざるを得なくなる。しかし、その心配もいまのところはなかった。多分だが、ぼんやりとした暗雲がたちこめることだけは感じていたかもしれない。

 それで、名画のいくつかが日本にある。それらに興味のあった自分は、米沢先輩からある誘いを受ける。彼女は経済や金融の雑誌を担当していて、有り余る資産の中から購入した行き場のない絵画をみる機会があった。彼女はどういう伝手で、それらの情報を入手したかは分からない。だが、目の前には確かにあった。普段は、人込みにまぎれて背伸びしてみているわけであるが、そこでは会員制のクラブのように、少数で堪能できた。自分に訪れる幸運の数々を並べてみても、それはかなり大きなことだった。

 しかし、感情移入ということを前提に考えれば、それらの画家には一度としてバブルという好機が来たわけもなく、ただひたすら自分の内なる衝動に突き動かされて生きていくわけだ。内なる衝動は結果を求めて声をあげ、それを成し遂げてくれない者には、絶縁状を突き付ける。自分は結果を残したものを見ている。ある程度、お金のないところには、芸術を鑑賞するチャンスもない。そのために、自分は所有はできなくても、一定の金銭を確保する必要を感じる。

 それから、暗くなった金融機関の建物を後にして、夜風に吹かれて歩きだした。幸福な気持ちは、自分を無口にさせた。
「ねえ、どうだった?」と、米沢先輩は尋ねた。
「いやぁ、良かったですよ」
「良い先輩を持ったものでしょう?」

 ぼくは、うなずいた。その様子を見て、彼女は満足気だった。

 米沢先輩の気さくさが、いつも好きでその後は二人で飲みに出掛けた。その性格をあらためて分析すると、口が悪い時もあるが、人を傷つけるような作為もまったくなく、こころから人を心配し、気に入った人を見つけては、兄弟のような感情を出してくれる。その兄弟の一員になった自分には、甘えることが許される状態になるわけだ。

「その後、後輩たちとはどうですか? 一時はうまくいってなかったんでしょう?」
「あら、心配してたの? それなりに健気でいい子たちよ」と、にやっと笑って見せた。知らない人はその笑顔がとても女性的なので、余計な勘違いをしてしまうが、深い意図もなく、ある面ではちょっと意地悪になることもあるのだ。

「なら、いいですけど」と、自分は彼女のきれいなマニュキアが塗ってある指を見ながら言った。

 二人ともあまり飲みすぎることもなく適度な時間に帰った。外は、ひかりの飾り付けの多い時期に差し掛かっていた。繁栄という代償のもとに、いったい後世に残すなにが生まれてくるのだろう、と自分は考えながら歩いている。

 コートのない姿で歩いていると寒く感じる季節になった。100年近くも前に描かれた絵画は、いまも自己を主張していた。その存在は、歴史の淘汰に負けることはなかった。人間の記憶に頼って、忘れられてしまうものがある反面、ひっそりと存在し続けるものもある。誰がスポット・ライトを当てるわけでもなく、パレードが行われることもないが、そのようなものを自分も作ってみたいと思った。そのためには、内なる衝動を待たなければならないのだろうか。

 家に着いた。ロシアの作曲家がつくった演奏のCDをかけた。この作曲家もたえず自分の奥から、このメロディーやリズムを生み出してくれという熱烈な要望に追いかけていたのだろうか。そう思ってみると、与えられた仕事をこなす、毎日の単調さも愛すべきものだと感じた。
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存在理由(55)

2011年01月22日 | 存在理由
(55)

 みどりの影響もあってか、サッカーを愛するようになっている。当面の目標としては、1994年にあるアメリカでのワールド・カップに参加することだ。当然だが、長い予選を勝ち抜いて出場権が得られる。それまでに、さまざまな強化を強いられる。人間の筋肉と同じだ。適度にあった負荷こそが、鍛えるためには必要になってくる。

 秋には、アジアカップが行われた。ブラジルで青春期を過ごした少年がいる。サッカーを愛する民衆を率いる希望の象徴として、彼がいた。そして、その当時のそのサッカー選手はいつも期待を裏切らない状態にいた。追い風に吹かれているのが分かるほどの人間を見るのはまれだが、彼はまさしくそれを体現していた。

 日本の青いユニフォームは広島で暴れ、オランダ人の監督の指導のもとで、東アジアに続き、アジアでもナンバー1の座を手に入れる。結果が残れば、わたしたちの希望も自然とふくれあがるものである。このメンバーなら、なんとかなるのではないか、との甘い約束である。

 それまでは、韓国という野蛮なほど魅力的な攻撃に、いつも苦渋をなめさせられていた。彼らを倒さないことには、日本の存在証明もなかった。また、アジアで最高レベルに達しないならば、世界には到底追いつけないことを認めるのは必至だった。それさえも脱却させる希望が、そのチームにはあった。

 こうして、暇な時間はテレビをみて過ごすことが多くなる。また、たまにはみどりと一緒に見た。好きなことを仕事にしてしまうことは、楽しいことなのだろうか、と言わないながらも自分は常に気にした。きっと両方が表裏一体であるのだろう。だが、気分転換を多く必要とする自分みたいな人間は、難しいのだろう、と決めつける。

「サッカー、見るの好きになったよね?」と、そのような一日に語りかけられた。うん、と返事をしたが自分でも気づかずにそうなっていた。だが、野球を見ることも多かった。とくにシーズン終了間際には、盛り上がって力が入った。

 歴史を塗り替えることが出来るなら、多分、このことを替えたいと思っていることがある。その頃に起こった事件だ。アメリカに留学に行っている学生がいた。言葉の問題ととらえられて報道されたが、文化の違いでもあったかもしれない。銃をもつことが文化なのかどうかは、説明できないが、正当に所持されている銃で玄関先で撃たれた日本の少年がいた。彼は、まだ16歳だった。自分の人生でこうした事件が起こるとも知らなかっただろう。未来は急速になくなってしまった。こうした事実の積み重ねによって、ハリウッド映画で青春の日々を作り上げた自分でさえも、こころの一部にかすかな溝や隙間が入り込んできたのだろう。もしかして、あの国はそんなに宣伝するほどの自由の国ではないのではないかとの疑問がだ。

 またその頃にアメリカの次代の大統領が決まった。いまの自分は知っているが、好戦的な親子に挟まれた女性好きの大統領という認識だ。優秀な妻をもっていることでも名が知られた。

 その国で、サッカーのワールド・カップが開かれる。本当に、その国に踏み込む価値があるのだろうか、という疑問も生まれる。一人の人間で、その国全体を判断することはフェアではないだろう。しかし、いちど芽生えてしまった疑問は、そう簡単には消えることはない。シェークスピアの悲劇のムーア人の主人公もそれで、妻を殺害するくらいだから、不変の事実だろう。

 だが、地球規模のスポーツの祭典だ。こうした事実を覆い隠してしまうほど、それ自体が強烈な力をもつ。そこにはじめて参加する可能性があるのだ。チャレンジすることは、まったく問題ないだろう。

 スポーツ・バーにいる。みどりが横に座っている。冷えたビールも温くなりはじめている。日本は快勝した。
「もう一杯飲む?」
「そうだね。頼んでくるよ。同じものでいい?」と、ぼくは言って立ち上がった。

 冷えたグラスを両手でつかみ、席に戻ってくる。彼女は、小さな鏡を取り出して顔を覗き込んでいた。目の中に小さな異物がはいったようだ。ぼくがその目の中を確認してみると、なにもなかった。近づいて見た顔は、数年の短い歴史で、色褪せてしまうこともなく、ぼくはドキドキした。

「なんか顔が赤くなってるよ」と言われ、適切な言い訳を頭の中で探した。
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存在理由(54)

2011年01月22日 | 存在理由
(54)

 4月に入社した新入社員もそれなりに会社に馴染んでいく。なにかを頼まれなくても、自分で工夫して仕事を見つける。それが出来る人は自然と忙しくなり、逆に出来ない人は、空を見つめる時間が多くなる。ぼくの部署は外に出て、人に会ったりしないと仕事が始まらないので、そうした人間も少なくなる。

 みどりもよその会社で同じようなことをしている。日本のサッカーは夜明け前のような状態で、緑色を基調としたユニフォームが当時、有力なチームだった。スター選手が集まり、美しいサッカーを作り上げ始めていた。どこにもライバルは必要なように、青いユニフォームのチームもそれに匹敵するような形だった。しかし、プロ・リーグが出来る前に、その選手生命のピークを終えようとしている人もいる。それも、だが仕方のない事実だった。自分の思い通りにいかない人生もあることを、ぼく自身も知り始めていた。あることを成し遂げるには、コネや権力や多少のラックを必要とする世の中なのだ。それで、自分の人生にはまだ足りない部分がたくさんあることにも気付くのだった。

 だが、このようなプロ・リーグを作らないことには、ワールド・カップやオリンピックの常連国になることは難しいだろう。そこに居ないことにはなにも始まらない。常任理事国に入っていない日本のように、サッカーでは常に蚊帳の外だった。サッカーのチームとしてももちろんだが、まだ一人として日本人スターも輩出していなかった。今後、そのような可能性を持っている人が出現するかは、まだ誰にも分からなかったかもしれない。しかし、プロ・リーグが出来ることによって、その種は植えられていくのだろう。

 自分の仕事も重要だったが、普段、みどりとの会話から、それらのことを学んでいく。誰かのフィルターを濾過して通った情報は解釈が間違っていることもあるが、みどりの言うことは全面的に信じていた。それで、話すことがお互いにない、という状態は今でもなくて済んだ。それは、恋愛感情をぬきにしても、とても励みになる交友関係でもあった。

 ある日、みどりの写真が家の中で増えていることに気づく。整理もされず乱雑に引き出しにしまってあった。大きなアルバムを買って、きちんと並べて保管しようと考えて、休日に実行した。時期によって、髪型や服装が少しずつ変わっていった。ある年代の女性の責任を負ったことを思いめぐらす。そして、もっと重要なことと考えてみるのだが、自分の一時期の生活を詳しく知っているのは、みどり以外にいないんだな、という事実にも驚いてみる。このことは、もっと後になって強く実感することにもなるのだが。

 目の前にまとまったアルバムが出来上がった。それを紅茶を飲みながら、テーブルに広げ眺めてみる。横には、ぼくが並んで写っている写真も多い。多分、二度と会うこともない通りすがりの人に頼んで撮ってもらったのだろう。腕前が左右する写真じゃない。ただ、記録として残っていることに感謝するのみだ。彼女は、気持の揺れがあまり大きくなく、それが表面に出ないだけかもしれないが、そのため、どの写真も表情は一定を保っている。季節と日差しと服の色が違っているくらいだ。その反面、自分はどれも同じ人間には見えないようだ。喜びの表情もあるし、眠さを隠し切れていない顔もあった。だが、こうしてまとめて見ないとそのことは分からなかった。

 それから数日して、家に遊びにきたみどりに、そのアルバムを見せた。彼女はおとなしく見つめていた。少し経って、あのときはああだった、とか解説をした。自分では忘れていることもあったので、彼女の記憶に関心もした。

「このころは、まだ二人とも学生だったね」と、みどりは言った。 

 その当時、流行っている雑誌から抜け出たような格好を自分はしていた。いまでも、タンスの奥にその服は眠っているのだろうかと考えた。きっと、どこかにまだあるのだろう。引っ越しを数回繰り返すと、いつの間にかなくなってしまうものもある。しかし、それとは反対に、捨てたつもりでもいつまでも手元に残ってしまうものもある。取捨選択の権利は自分にはないのだろうか。
「また、これからも増えるといいね」

 と、みどりはキッチンに向かいながら言った。その表情は見えなかった。自分もそうなってほしいとは思いながらも、その言葉は口からは出なかった。自分でも思いがけないことだ。しかし、口に出さないからといって、望んでいなかったわけでは決してない。この選択も自分にあるのかは謎だった。
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存在理由(53)

2011年01月21日 | 存在理由
(53)

 夏休みになった。その頃は、まだ今ほどには温暖化と叫ばれてはいなかった。それでも、暑い夏にはかわりはなかった。

 思い立って、沖縄に行ったことがないので、一人でチケットを取り、ホテルを手配して飛行機に乗った。頭の中身が、いまの現状での限界が来ると、新鮮な風をいれたく、見知らぬ町を歩いてみたくなる。その土地として、沖縄は理想的な場所だった。

 空港に着き、レンタカーを借り、町を彷徨った。ガイドブックを頼りに、旧跡を調べ、食したこともない料理を味わった。その日常的な生活から離れることによって、見えるものもあるし、足りない部分が理解できることもある。

 日差しの落ちかけたプールに、海水着で出向いた。なにも要求されず、読みかけの本を片手に暗くなるまでいた。となりにみどりが居れば、もっと良かったかもしれないが、休みが合わないので仕方がない。また、合わす努力をしていないのも否めない事実だが。

 次の日には、ゆっくり起き、朝食をたべて、再びきれいになったシーツの上で横になっていた。テレビを見るともなく見ていると、その夏の話題の高校生が野球をしていた。その大きな体格をした選手は、相手チームの作戦により、連続して敬遠され、バットを振り回すことは許されなかった。結果として、相手のチームは勝ったが、それだけに批難もあり、失ったものも大きかった気がする。勝つことが大前提のゲームだが、その美学のないところに多くの観客は、あきれてしまったようだ。長い期間、その選手の成し遂げたことは、それが一番だったような気もするが、のちに世界の名だたる都市で野球をすることなど、知る由もない。その選手は、グローブをはめる左手首に大怪我をした後、長いリハビリを経た休みのあとに登場した試合で、4本もヒットを打つことにより、自分の復帰を祝い、高校生のときとは違い、勝負ということが好きな国で、新たな名誉で、過去の亡霊を塗り替えた。全席勝負ができず、歩かされた高校生ではなくなっていたのだ。

 テレビに疲れると、またプールサイドで時間を過ごした。楽しそうな家族を見ると、自分にもそうしたものが作ることが出来るのかが心配になった。子供の歓声は、水面に響き、その周りに共鳴していった。それは、楽しさの最大限の表れだった。うるさく感じることもなかったが、耳には自然と入ってきた。しかし、読みかけの本に没頭すると、それらのことを忘れてしまった。まわりから人が減っていくことにも、注意しないうちに、またきれいな夕焼けの景色にかわった。

 その所為で、身体の色は赤くなり、いくらか熱を発してもいた。

 夜は、近くのお店で食事をとった。沖縄の音楽が演奏され、より一層開放的な気持ちになった。のちに、あるロック・バンドがそのリズムでヒット曲を作ったが、まだそれは先の話だった。

 沖縄のお酒で、揺れる足を心配しながらホテルの部屋に戻った。夜にもなれば、窓の外の波の音は原始的なものとつながり、この旅で得たものを思い返す。いくつかのことが浮かんだが、それもベッドの上で数分しかもたなかった。

 また逆の道を通り、車を返し飛行機に乗った。はじめて来たのだが、とても名残惜しい気持ちに包まれる。多分、何回か今後も来るような気がした。その時は、みどりも横にいるのだろうか、といくつかのことを頭の中で空想する。たくさんの空想は、たくさんの実現不可能なことにかわり、少しの現実になりかわる。それでも、人間の頭脳をそれらは止められないのだろう。数時間の機内でそれらのことを考えていたが、あっという間に羽田に着いた。また蒸し暑い東京と向き合わなければならない。高校生は、熱した球場での野球ではなく学業にもどって、自分は通勤の日々にかえって行った。

 お土産をもって、みどりに会いに行く。夏が終わると、ヨーロッパのサッカーはリーグ戦がはじまるため、その準備に、彼女は追われていた。その忙しい日常のことを当たり前のこととして自分は認識していた。ヨーロッパと同じように、やっと、日本にもプロリーグが検討され、来年の春には開始されることになった。最初は、10チームで、入れ替え戦が行われる。競争がないところには、繁栄もないということだろう。

 日焼けのした身体で、クーラーの部屋にはいる。そうすると、ちょっと前まで青い空と白い砂浜が目の前にあったことなど忘れてしまう。でも、この経験がいずれ仕事でも役にたちそうな予感がする。
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存在理由(52)

2011年01月20日 | 存在理由
(52)

 旅行のための荷物をみどりは作り、オリンピックの取材のために出掛けた。行き先はバルセロナだ。そこに、日本のサッカーチームはいなかった。しかし、全世界の若さを主体にした市場にとっては、見応えのある競技だろう。そこは、自分をアピールできる場所でもある。

 みどりの母親の体調は、すっかり良くなり元の生活に戻っていた。その面では、彼女は安心していた。サッカーの取材を生きがいに感じている彼女にとっては、またとないチャンスと楽しみという機会でもあるのだろう。いくつかの生涯の記憶になるようぼくは望んでいた。

 みどりは現地にいたが、ぼくは暇をみつけてはテレビの前にいる。

 テレビの前でもいくつかのことは判断できるが、その地にいることによって理解できる興奮は分からない。分からないながらも、吸収しようと努力はしたのだが。

 普段は、自分が日本人であるということも深く考えずに生活している。しかし、同じような顔立ちの同じ言語のひとが活躍すれば、それは感情移入と応援の対象になる。当然だが、何人かの人は活躍し、また何人かの人は思ったような力を発揮できずにいた。

 活躍した中には、日本の女の子もいた。その後、ニュースで何度も使われた言葉を発する。「生きてきた中で、一番しあわせ」、という内容だ。そのセリフは、目標をもって歩んできた人間が、それを達成して、結果をのこしてはじめて発言をしてもよい言葉だ。

 多くのベルトコンベアー的に流れ作業の一環として働いている労働者にとっては、もちろんのこと、精密さの程度の差はあれ、自分もその一員であるのだが、考えられない言葉である。そのために、4年に一度は、このような大会が営まれるのだろう。多くの利権の奪い合いとして、正当なアマチュアスポーツの祭典であるとか、頂点を決めるとかのことを度外視しても、それらは開催される意味があるのだろう。

 また、スポーツの祭典とは似つかわしくないオペラ歌手の歌も聴こえた。

 日本人の作曲家も、自分の能力を発揮する。電気音楽をつかった人は、いまは、立体的な、ある面では東洋的な音づかいで世界を魅了する。それもまた、日本にいる自分にとっても、励みとなるものだった。

 自分の一存でなにごとも、仕事をすすめられない自分がいる。なにごとも調整と、打ち合わせと、予定と、多少の衝突で日々が過ぎていく。その余波として休日があるのだが、その休みの日の頭のなかも、何が流行りか考えてしまう気持ちがあった。
 オリンピックが終わり、数々のメダルは自分の行き場所を決め、栄光と挫折をそれぞれの気持ちは味わい、お祭りは終わる。終わってしまえば、すべてはあっという間のことだ。

 みどりも1・5倍ぐらいになった荷物をかかえ、戻ってきた。充足した顔と、まとめる作業の焦りを含んだ表情も、そこにはあったのだろう。

 着いた連絡をもらったが、彼女は、やはりどこかで心配している母親のことを最優先にし、早めの夏休みをとって帰省した。ぼくは、またもや人が少なくなったオフィスでワープロを打っている。その明滅する光をとおして、自分の存在が表れるような気持ちに、最近はなっている。

 少なくなったオフィスで同僚の顔を見つけては、ビールを飲みに誘った。そのビールを飲んだ開放感で同期から、さまざまな情報を入手する。そういう情報を集める能力がある人がいて、同期はまさしく、そのような人物だった。自分には、知らない会社内の秘密がたくさんあることを知る。しかし、知らなくても良いことまで、入ってきてしまった。やはり、自分は、そのような情報を手に入れる時間があるなら、取材をつうじて、まともな記事を作ることに専念した方がよさそうだ、という考えに到達する。

 そのようなことを何日かして、自分にも夏休みがやってくる。最近は、あきらめているがみどりと一緒になることもなかった。テレビをつければオリンピックで活躍できた人が、引っ張りだこで、どこの番組にもあふれ出していた。彼らは、そのような活躍をしたのだろう。しかし、忘れやすい大衆がいて、4年間もこの記憶を維持できるかは誰も知らない。

 去年の雑誌という形体もそうである。

 1992年の夏の話である。
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存在理由(51)

2011年01月18日 | 存在理由
(51)

 普通に暮らしているだけでは、理解のできない事柄がある。ある事件を通して、はじめて頭の中に、印象が植え付けられる。まだ、ヨーロッパということが、頭の中でしっかりとイメージできずにいる。その頃に、ユーゴスラビアという地で、分裂と紛争が起こる。

 政治を扱っている部署では、慌ただしくなる。不幸な事件だが、彼らの働いている動きをみると、ある面ではうらやましくもなる。自分の喝望として、どんなことでもよいから真実に近づきたい、という気持ちがあった。ある事件を通して、人間の存在が浮かび上がることもある。どのように生きることが正しいのか、平和とは、どういう状態なのだろうか、ということもだ。

 自分は、あいかわらず、上っ面をすくったような記事を作り上げていた。それは、ある面にとっては、過剰な消費に組み込まれている人たちには、大がつくほどの真実なのかもしれないが、たまには愛着を失ってしまうこともあった。だが、自分の潔癖さを主張して、正しい人間であるとも、消費文化に関与していないとも思ってはいないが、時々、やりきれなくなることもあった。

 民族の対立がある状態も、銃をもって立ち上がることも自分にはなかった。多分、今後もないだろう。それが、美しいことだとも、説明抜きに正しいことだとも考えていないが、存在を立証する必要がある人たちもいるのだろう。

 自分たちの行動が正しいことだと思っていても、他の人はそう思わないかもしれない。それで国家として、いくつかの制裁を受けることになる。みどりの働いているサッカーの雑誌にもそのことが触れられている。ユーゴという国が、サッカーで魅力的なチームを作っていた。しかし、それらの事件をきっかけにして、さまざまな大会から閉め出しをくっていく。

 自分の能力があって、そのことを誰もが認め、尊敬と自信をえるはずだったのに、国際的な場所でアピールすることを奪われてしまう。スポーツなど瑣末なことだと考える人もいるかもしれないが、スポーツを愛する大多数の人にとっては、小さな問題として簡単に片づけることなど出来ないだろう。

 そのような内容をスポーツ雑誌の片隅にみどりは残していた。得点と勝敗の結果にしか注目しない人にとってみれば、それもどうでも良い問題かもしれない。だが、自分にとってはその記事を読むことによって、感動をもらった。そして、そのことを電話して直ぐに伝えた。

 くどいようだが、彼女の兄はサッカーを愛する少年で、その青い時代のまっさかりに命を落とした。そのためか、途中で夢をあきらめさせられる境遇の人に対して、彼女の同情は厚かった。その純粋な気持ちは、それらのことを経験しないぼくの胸にもしっかりと届いた。

 その後のことだが、制裁はながく続き、選手たちの運命も変わっていくのだろう。選手としての寿命は短いものである。働ける場所を探さなければいけない。その頃は、どんな未来が待っているのかもちろん知らない。実現はまだ先のことになるが、その内の一人の有能な選手は、日本のプロ・リーグに表れることになる。争いという貝の中から生み出された真珠のような価値あるプレーヤーだ。その面だけ考えればメリットは大きいのだが、ひとの内面の傷については、他者がどうこう判断することは出来ないだろう。

 このように地球の一部の場所では紛争があり、それでも、自分のまわりでは比較的のどかな時間が過ぎていた。

 相変わらず、自分の仕事は忙しく、するべきことも拡張していった。自分で、記事を書いたりすることも好きだったが、費用削減なのか、フリーライターをたくさん使い、その選考や選別を自分もすることになった。それらを拾いあつめて、編集する作業を上司にくっついて習った。自分が頑張ると、上司の仕事量はつられて減り、もっと自分の荷も重くなっていく。

 それら集まった人たちをライバル視しながら、自分がするべき仕事は、どういうものだろう、とふと悩むこともある。だが、世界が平和で、自分自身の居心地の良い場所があるなら、一先ずの満足を感じなければならないだろう。
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存在理由(50)

2011年01月18日 | 存在理由
(50)
 
 ふたたび、みどりとの関係は安定され良好なものになっていく。もちろん、大幅に下向をしていくというふうなことはなかったが、ぼくの気の多さをとがめるようなこともなかった。彼女は空いている時間があると、友人に最近、赤ちゃんができたとのことで、そちらに行くことも多かった。自分は、その当時は、家庭的なことに一切興味が涌かなかった。それで、その家に何度か誘われたこともあるが、三回に二回は断ってしまう。

 それでも、写してきた写真をみれば、それなりに可愛いものだとは思う。思うが、自分の家に、その存在がいることは、理解できなかった。それよりも、その年齢としては当然のことかもしれないが、仕事で成果をあげることを最前に考えていた。
 徐々に紙面で自分が関わることも増えていった。圧倒的な正解がないことにより、よりこちらの方がよさそう、よりこうすれば良くなると思案すると、時間はいくらあっても足りなかった。みどりも違う会社で、同じようなことをしているはずだから必然的に、お互いが提出しあう時間は、少ないものになっていく。

 それでも、お互いの性格を理解し始めるという段階ではないので、直ぐに関係が薄らいでしまうということはないかもしれないが、長期的に考えれば、隙間の予感のようなものが訪れるかもしれない。しかし、若さという結果を心配しないものは、いまが上手くいっていれば、このまま継続するものだ、という浅はかな考えに包まれるものだろう。

 だが、彼女に合わせることもした。自分でもその頃は、休日の一部にもなっていたが、一緒にサッカーを観戦した。彼女は、横にいるぼくのことを忘れてしまうほど、熱狂した。その熱狂の気持ちは、客観的な視線につながるのかは理解できなかった。しかし、そのような熱中のモーターがなければ、みどりの仕事の維持は難しかったのだろう。

 会っていないときには、どこかにみどりの存在を意識していることがある。それで、目の前に表れると安心して、かえって話さなくなることもあった。それは、もう劇的な変化を通過する時期でもないので、仕方のないことかもしれないが、女性にとっては不満の残ることもあるだろう。彼女は、ぼくの言葉数がすくないと言った。

「それは、いまはじまったことじゃないのは、知っているだろう?」と返答するしかなかった。女性は、急に改善要求を突き付けることがある。自分としては、なりたくてなったわけでもない自分の性格を、変えろといわれても、どうすることもできなかった。生まれてくる前に、母親の胎内にいる少年にプログラミングしてほしいところだ。

 と、いいつつも普段は不満など、お互いにもっていなかった。ぼくにとっては、身体に馴染んでしまったようなジーンズを新品ととりかえる必要も感じていなかったし、多分、みどりも同様なことを考えていただろう。

 雑誌社が突然、いそがしくなる時がある。

 ある男性の歌手が死んだ。若い気持ちをとりこにしたその歌手は、その若さの代表の潜在的な気持ちに足元をすくわれるように自分の命をおとした。自分としては、同世代だが、共感したことはなかった。それでも、学生時代のまわりの友人たちはよく聴いていた。そのことで利益を得たのであれば、その代償もとうぜん支払わなければならない、とその時の自分は考える。だが、彼の歌を別の人がうたうのを聴けば、やはり魅力があるものだと感じる。

 20代半ばで亡くなる人がいる反面、まだ、ほとんどの人は、なにひとつ成し遂げていないだろう。そのことでは大変、立派でもある。しかし、時間の経過と淘汰がなければ、なにも結論付けてはいけないと、いまの自分は考えたりもする。

 そして、その時期の自分はなにひとつ成し遂げていなかった。いくつかの人間関係ができあがり、それを維持したり、別のものとつないだりして、ものになる何かを探していた。

 みどりの部屋のラジオから追悼番組と称して、その永遠に若さをとどめた歌手の切なげな歌が流れていた。ぼくは、テーブルに座りながら、意識もせずに聴いていた。彼女は茹でたスパゲティを手にして、そのラジオからの音楽を一緒に口ずさみながら、テーブルに近づいた。なかなか会えなかった日々を埋めようと、彼女は優しさを全面にだした日だった。冷えたスパークリング・ワインを開け、グラスに注いだ。その歌を聴くと、自然にその日の情景がうかんでくるようになった。
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