傾かない天秤(5)
人間は仕事をする。ある時期になると。働かないものは食べてはいけないという教訓もある。たくさんの仕送りを受け、夢を追うのもまた自由である。革命を望まなければ。
みゆきは大きな和菓子屋の広報の仕事をしている。対する相手は彼女の朗らかな様子を見て、その味に信頼を置く。しかし、そもそもその前にその会社の評判は良いものだった。ひとは甘いものを食べながらギスギスしたりはしない。彼女自身とイメージが一致している。幸福というのは単純にそういう結びつきのことなのだろう。
さゆりという女性はテーブルに向かって座り、メガネを外して目頭をもんでいる。いろいろと凝るタイプなのだ。次は肩に交差させた両手を置いて、首筋にうつった。周りにもおしゃれな仲間が多い。女性誌の編集の仕事をしている。写真を選び、文章の校正をしている。日本語というのは不思議な形態だ。断言するには向いていない。意図して表情や仕草で感情を込めないと能面のように無表情なものとなる。
彼らは集まってミーティングをしている。売れるものこそ正しいのだ。衣服という流行の最先端にいる。どうやらトレンドといっているらしい。反対にベーシックな形もある。売れるのが善。売れないのは悪か、あるいは醜。たくさんの電話が鳴り、たくさんの請求書や領収書がくる。流行とはまったく関係なく電卓を叩いている部署もある。間もなくお昼である。上階の社員食堂にいくメンバーもいれば、お手製のお弁当を広げているひともいる。外出して近くの飲食店で定食をかっこむ面々もいる。ネクタイにしみをつけるひともいて、食後の歯磨きを入念にして、口紅を塗り直す女性もいる。陰口に余念のないふたりがいて、孤独に読書にはげむひとりもいる。人間には会社がある。有給休暇という不思議な形態を発明する。わたしたちには金銭という偶像がない。お金をためる必要もなければ、借金にあえぎ、苦しむ機会もない。
さゆりは帰り支度をしている。きょうは妊娠した仲間の一時的なお別れ会がある。数年後には職場にもどってくる予定だ。赤ちゃんを預ける施設があって、子どももそこが職場のようにして一日を過ごす。おやつを食べて昼寝をする。昼食の準備にかかる割烹着姿の女性たちもいる。
みんな働いていた。わたしは望遠鏡を別の地点に向ける。フロリダというところだ。リタイアした中年たちがのんびりと暮らしていた。これこそが人生の究極のよろこびとも思えた。
ちょっと方向を変える。わたしの集中力はすぐに途切れるのだ。キューバという地点があった。みんなのんびりと路上で会話をしていた。いきいきと暮らしている。わたしは夜の東京に目を向ける。まぶしいばかりの光の洪水だった。無数のビルがあって、またまた無数の飲食店がある。それぞれに常連という固定客がいて、高級な店には着飾った夜の蝶がいる。そのうちの六本木のひとりはトイレで苦しげに吐いている。夜がはじまったばかりなのに。蝶ですら人間なのだ。
妊婦はジュースを飲んでいる。一年近く胎内で育て、さらに一年ぐらい匍匐前進をして、よちよち歩きの時期があり、さらに数年後にやっとひとりでも恐くなくなる。さらに十年ぐらいして確固たる個性が芽生える。長期戦だ。そのスタートにいる。その未来を気にもせずにタバコを吹かしている男性がいる。さゆりが煙の行方を注意をした。その男性はなにを指摘されたのか分からずにいたが、ようやくタバコを灰皿のうえで揉み消した。鈍感は罪であるのかもしれない。
十一時になったので夜勤の当番と変わる。わたしは勤務日報にハンコを押して部屋にもどろうとするが、そこで上司に呼び止められる。
「人間に興味を持ちすぎだよ。ベルリン天使の詩を見過ぎているのかもしれないな。あれは、発禁処分にしないといけないな。記録はもっと簡潔に、もっとシンプルに。君の感想などは、あまりいらないのだよ。残念ながらね」
わたしは悲しげに頷く。些細なデティールこそが全体なのだ。些末な印象こそが有意義なのだ。しかし、本音はでてこない。本音を慎むことこそが、ここの暮らしで、つまりは仕事の意義だった。
わたしは朝まで人間がつくった映画を見る。七人の侍を見て、ジョセフ・L・マンキーウィッツという監督の愉快な三人の妻への手紙を堪能する。わたしの報告書が冗長になるはずだ。
この後の映画のなかの登場しないナレーターこそが、狂言回しの魅力である。もしかしたらわたしはこの同じ役目を自分に当てはめようとしているのかもしれない。わたしは視聴禁止の予感に備え、前以って不正コピーをする。笑うという行為がここでは足りていない。わたしは段々と愚かに傾きつつあるのかもしれない。優秀な報告者は自分の脳など介在させることなく淡々と仕事をしている。ある意味では粛々と。そう考えていると朝日が東京を覆う。さゆりは化粧をしている。血色の悪い顔だ。周期によって不機嫌になる場合が女性にはある。わたしたちには不機嫌すらない。厄介なものだ。
人間は仕事をする。ある時期になると。働かないものは食べてはいけないという教訓もある。たくさんの仕送りを受け、夢を追うのもまた自由である。革命を望まなければ。
みゆきは大きな和菓子屋の広報の仕事をしている。対する相手は彼女の朗らかな様子を見て、その味に信頼を置く。しかし、そもそもその前にその会社の評判は良いものだった。ひとは甘いものを食べながらギスギスしたりはしない。彼女自身とイメージが一致している。幸福というのは単純にそういう結びつきのことなのだろう。
さゆりという女性はテーブルに向かって座り、メガネを外して目頭をもんでいる。いろいろと凝るタイプなのだ。次は肩に交差させた両手を置いて、首筋にうつった。周りにもおしゃれな仲間が多い。女性誌の編集の仕事をしている。写真を選び、文章の校正をしている。日本語というのは不思議な形態だ。断言するには向いていない。意図して表情や仕草で感情を込めないと能面のように無表情なものとなる。
彼らは集まってミーティングをしている。売れるものこそ正しいのだ。衣服という流行の最先端にいる。どうやらトレンドといっているらしい。反対にベーシックな形もある。売れるのが善。売れないのは悪か、あるいは醜。たくさんの電話が鳴り、たくさんの請求書や領収書がくる。流行とはまったく関係なく電卓を叩いている部署もある。間もなくお昼である。上階の社員食堂にいくメンバーもいれば、お手製のお弁当を広げているひともいる。外出して近くの飲食店で定食をかっこむ面々もいる。ネクタイにしみをつけるひともいて、食後の歯磨きを入念にして、口紅を塗り直す女性もいる。陰口に余念のないふたりがいて、孤独に読書にはげむひとりもいる。人間には会社がある。有給休暇という不思議な形態を発明する。わたしたちには金銭という偶像がない。お金をためる必要もなければ、借金にあえぎ、苦しむ機会もない。
さゆりは帰り支度をしている。きょうは妊娠した仲間の一時的なお別れ会がある。数年後には職場にもどってくる予定だ。赤ちゃんを預ける施設があって、子どももそこが職場のようにして一日を過ごす。おやつを食べて昼寝をする。昼食の準備にかかる割烹着姿の女性たちもいる。
みんな働いていた。わたしは望遠鏡を別の地点に向ける。フロリダというところだ。リタイアした中年たちがのんびりと暮らしていた。これこそが人生の究極のよろこびとも思えた。
ちょっと方向を変える。わたしの集中力はすぐに途切れるのだ。キューバという地点があった。みんなのんびりと路上で会話をしていた。いきいきと暮らしている。わたしは夜の東京に目を向ける。まぶしいばかりの光の洪水だった。無数のビルがあって、またまた無数の飲食店がある。それぞれに常連という固定客がいて、高級な店には着飾った夜の蝶がいる。そのうちの六本木のひとりはトイレで苦しげに吐いている。夜がはじまったばかりなのに。蝶ですら人間なのだ。
妊婦はジュースを飲んでいる。一年近く胎内で育て、さらに一年ぐらい匍匐前進をして、よちよち歩きの時期があり、さらに数年後にやっとひとりでも恐くなくなる。さらに十年ぐらいして確固たる個性が芽生える。長期戦だ。そのスタートにいる。その未来を気にもせずにタバコを吹かしている男性がいる。さゆりが煙の行方を注意をした。その男性はなにを指摘されたのか分からずにいたが、ようやくタバコを灰皿のうえで揉み消した。鈍感は罪であるのかもしれない。
十一時になったので夜勤の当番と変わる。わたしは勤務日報にハンコを押して部屋にもどろうとするが、そこで上司に呼び止められる。
「人間に興味を持ちすぎだよ。ベルリン天使の詩を見過ぎているのかもしれないな。あれは、発禁処分にしないといけないな。記録はもっと簡潔に、もっとシンプルに。君の感想などは、あまりいらないのだよ。残念ながらね」
わたしは悲しげに頷く。些細なデティールこそが全体なのだ。些末な印象こそが有意義なのだ。しかし、本音はでてこない。本音を慎むことこそが、ここの暮らしで、つまりは仕事の意義だった。
わたしは朝まで人間がつくった映画を見る。七人の侍を見て、ジョセフ・L・マンキーウィッツという監督の愉快な三人の妻への手紙を堪能する。わたしの報告書が冗長になるはずだ。
この後の映画のなかの登場しないナレーターこそが、狂言回しの魅力である。もしかしたらわたしはこの同じ役目を自分に当てはめようとしているのかもしれない。わたしは視聴禁止の予感に備え、前以って不正コピーをする。笑うという行為がここでは足りていない。わたしは段々と愚かに傾きつつあるのかもしれない。優秀な報告者は自分の脳など介在させることなく淡々と仕事をしている。ある意味では粛々と。そう考えていると朝日が東京を覆う。さゆりは化粧をしている。血色の悪い顔だ。周期によって不機嫌になる場合が女性にはある。わたしたちには不機嫌すらない。厄介なものだ。