爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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傾かない天秤(5)

2015年09月30日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(5)

 人間は仕事をする。ある時期になると。働かないものは食べてはいけないという教訓もある。たくさんの仕送りを受け、夢を追うのもまた自由である。革命を望まなければ。

 みゆきは大きな和菓子屋の広報の仕事をしている。対する相手は彼女の朗らかな様子を見て、その味に信頼を置く。しかし、そもそもその前にその会社の評判は良いものだった。ひとは甘いものを食べながらギスギスしたりはしない。彼女自身とイメージが一致している。幸福というのは単純にそういう結びつきのことなのだろう。

 さゆりという女性はテーブルに向かって座り、メガネを外して目頭をもんでいる。いろいろと凝るタイプなのだ。次は肩に交差させた両手を置いて、首筋にうつった。周りにもおしゃれな仲間が多い。女性誌の編集の仕事をしている。写真を選び、文章の校正をしている。日本語というのは不思議な形態だ。断言するには向いていない。意図して表情や仕草で感情を込めないと能面のように無表情なものとなる。

 彼らは集まってミーティングをしている。売れるものこそ正しいのだ。衣服という流行の最先端にいる。どうやらトレンドといっているらしい。反対にベーシックな形もある。売れるのが善。売れないのは悪か、あるいは醜。たくさんの電話が鳴り、たくさんの請求書や領収書がくる。流行とはまったく関係なく電卓を叩いている部署もある。間もなくお昼である。上階の社員食堂にいくメンバーもいれば、お手製のお弁当を広げているひともいる。外出して近くの飲食店で定食をかっこむ面々もいる。ネクタイにしみをつけるひともいて、食後の歯磨きを入念にして、口紅を塗り直す女性もいる。陰口に余念のないふたりがいて、孤独に読書にはげむひとりもいる。人間には会社がある。有給休暇という不思議な形態を発明する。わたしたちには金銭という偶像がない。お金をためる必要もなければ、借金にあえぎ、苦しむ機会もない。

 さゆりは帰り支度をしている。きょうは妊娠した仲間の一時的なお別れ会がある。数年後には職場にもどってくる予定だ。赤ちゃんを預ける施設があって、子どももそこが職場のようにして一日を過ごす。おやつを食べて昼寝をする。昼食の準備にかかる割烹着姿の女性たちもいる。

 みんな働いていた。わたしは望遠鏡を別の地点に向ける。フロリダというところだ。リタイアした中年たちがのんびりと暮らしていた。これこそが人生の究極のよろこびとも思えた。

 ちょっと方向を変える。わたしの集中力はすぐに途切れるのだ。キューバという地点があった。みんなのんびりと路上で会話をしていた。いきいきと暮らしている。わたしは夜の東京に目を向ける。まぶしいばかりの光の洪水だった。無数のビルがあって、またまた無数の飲食店がある。それぞれに常連という固定客がいて、高級な店には着飾った夜の蝶がいる。そのうちの六本木のひとりはトイレで苦しげに吐いている。夜がはじまったばかりなのに。蝶ですら人間なのだ。

 妊婦はジュースを飲んでいる。一年近く胎内で育て、さらに一年ぐらい匍匐前進をして、よちよち歩きの時期があり、さらに数年後にやっとひとりでも恐くなくなる。さらに十年ぐらいして確固たる個性が芽生える。長期戦だ。そのスタートにいる。その未来を気にもせずにタバコを吹かしている男性がいる。さゆりが煙の行方を注意をした。その男性はなにを指摘されたのか分からずにいたが、ようやくタバコを灰皿のうえで揉み消した。鈍感は罪であるのかもしれない。

 十一時になったので夜勤の当番と変わる。わたしは勤務日報にハンコを押して部屋にもどろうとするが、そこで上司に呼び止められる。

「人間に興味を持ちすぎだよ。ベルリン天使の詩を見過ぎているのかもしれないな。あれは、発禁処分にしないといけないな。記録はもっと簡潔に、もっとシンプルに。君の感想などは、あまりいらないのだよ。残念ながらね」

 わたしは悲しげに頷く。些細なデティールこそが全体なのだ。些末な印象こそが有意義なのだ。しかし、本音はでてこない。本音を慎むことこそが、ここの暮らしで、つまりは仕事の意義だった。

 わたしは朝まで人間がつくった映画を見る。七人の侍を見て、ジョセフ・L・マンキーウィッツという監督の愉快な三人の妻への手紙を堪能する。わたしの報告書が冗長になるはずだ。

 この後の映画のなかの登場しないナレーターこそが、狂言回しの魅力である。もしかしたらわたしはこの同じ役目を自分に当てはめようとしているのかもしれない。わたしは視聴禁止の予感に備え、前以って不正コピーをする。笑うという行為がここでは足りていない。わたしは段々と愚かに傾きつつあるのかもしれない。優秀な報告者は自分の脳など介在させることなく淡々と仕事をしている。ある意味では粛々と。そう考えていると朝日が東京を覆う。さゆりは化粧をしている。血色の悪い顔だ。周期によって不機嫌になる場合が女性にはある。わたしたちには不機嫌すらない。厄介なものだ。



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傾かない天秤(4)

2015年09月28日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(4)

 そう深く調査をしないでも、人間というものは男性と女性と大きく異なった存在だった。社会学者というものもいて、肯定的な意見を述べれば互いは補完する関係らしく、否定的な見解に立てば、永久に理解しえない、交わることのない運命らしい。肯定と否定を反対にしてもまったく問題もないことだが。

 友情という性質もある。男性は大人になっても子どもっぽさをその関係にのこしたいらしい。女性たちはずっと話している。こちらの言語を操る機器で解析すると、どうも相互の意思疎通というのを文明的ではないと判断してしまう。その問題は重要でもないので、半永久的に棚上げである。

 ふたりの女性は電話をしたり、メールというものをしている。わたしたちの組織は無限に情報を収集する能力がある。主にみゆきという女性が発信して、さゆりが遅れて返信をしている。今度の休日に会う約束が成立した。約束というのは契約より軽い形式で、多少の時間の前後は許されるものだ。

 わたしは調査報告のための手引を眺める。人間というものの規範や行動姿勢やモラルがたくさん書かれている。遅刻というのはある種の人間にとって不治の病いであるそうだ。わたしはぺらぺらとめくる。鈍感は罪である、と考える指導者がいて、麻痺こそが人生の醍醐味であると考えているひともいる。几帳面な人間がわざわざある物質によって冴えたる脳を鈍麻させ、中毒症状に至る場合もある。カウンセラーという仕事や、医者という尊き職業について従事することもある。わたしたちはサンプルを採取して分類する。まだこの地球という球体をのこさなければいけないのだ。

 海辺が開発され観光客を誘う。ふたりはモノレールに乗ってそこに向かっている。空は青く、すがすがしい風が吹いている。彼女らはおいしい食べ物の話をして、男性の話題ももちろんある。好みの異性とは容貌と性格と年収の兼ね合いでもあり、自分と同じような価値観ともいっている。自分を成長させてくれるひとがいい、とみゆきは望み、さゆりという方は言うことをすぐさまきいてくれる年下も捨てがたいと語った。

 総じて相性というものになるらしいが、わたしたちが組んだプログラミングのボタンを押せば一遍に分かるのだが、わたしたちは介入するも最後の判断はしない。ふたりにも三人の候補者がそれぞれいる。わたしはその資料を詳細に見たいと思うが、いまのところ名前と年齢しか分からない。さゆりのリストにはひとりの年下の男性がいた。その担当も別のどこかにいる。

 わたしたちは結託することを許されていない。しかし、正直にいえばわたしはこの組織がどこを、なにを目指しているのかは正確には分かっていないのだ。ただ、与えられた任務をミスしないように、前任者のやり方を見事に踏襲するように、自分の新たな考えを簡単に取り入れないようにしているだけだ。しかし、ミスは蜂が甘い蜜を集めるようにどこかからやってくる。失敗が起こると、そこで全員に周知される。台風の発生させる数を間違え、南風のボタンを関係のない季節に押してしまった。揉み消そうとしても、わたしたちを看視しているグループがあっさりと見破ってしまう。組織間の交代があるので、わたしも今度はあちら側に行く可能性がある。それも、あるテストに合格してからだ。

 人間というのは自分の人生を楽しむほかに、物語を書く能力を有しているひともいた。ドストエフスキーやトルストイやバルザックという方々は時間が経過しても少数から尊敬されている。わたしもそれらの読み物をダウンロードして部屋にストックしている。わたしたちには、そういう能力をもつものなどひとりもいない。皆無なのだ。どこかで厳しく取り締まられているのか、それとも、そもそもわたしたちは過去のどこかでみすみすそれらの能力を失ってしまったのかもしれない。

 わたしは白昼夢のなかにいる。女性同士の際限なき会話が苦手であり、催眠術にかかったように自分の意識が消えかかってしまう。だが、やっと話を終えて、レストランに入り料理の注文をはじめる。決まったのかと思うも、そこからがまた長かった。ああでもないこうでもない、とまた問答がつづく。結局、ふりだしにもどりパスタの味付けが決まる。

 わたしは味覚音痴である。ふたりの食べ物の味を想像するしかない。彼女らは口を拭い、運ばれてきたデザートに移る。ウエィターは紺の腰からしたのエプロンをしている。ボールペンとオーダーを記入する紙の束がポケットに入っていた。作法とかをうるさく言われたのか、彼はきれいな文字を書いた。だから、奥の厨房の仲間からもうけがいい。それだけではないのかもしれない。わたしたちの意志の疎通はもっとシンプルである。字という個性が満載のものを採用していないのだ。

 ふたりは砂浜のうえに腰かけている。夕日がだんだんと水平線に落ちはじめている。人間はもっていなはずの永遠という観念をあたまにうかべる。波の音もきこえる。悠久の歴史。その一員であることは、やはり楽しそうである。




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傾かない天秤(3)

2015年09月26日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(3)

 十年一日の如し。同じく天秤の両端にもある感想として、ときは走馬灯のように。

 わたしは調査と観察をしている。虫かごでうごめく物体のようなものとして。輝ける蛍。小うるさいセミたち。優雅なトンボたち。人間も自分より微細なものに関心がある。だが、当の人間はずっと複雑な生き物だ。身体という容器も成長にともない容貌を変え、服装や髪形も異なっていく。暮らす場所も変容する。ここ数年の間にビルも多くなった。飛行機も無数に飛び交い、地球を狭い場所にわざわざした。だが、それでも待ち合わせには相手はなかなかやってこないのだ。スピードを重視する社会なのに。

 十八才の女性たちが五年という月日を経過した。きょうは意図しないのにふたりはばったりと再会してしまうことになる。わたしは主任というささやかな地位を与えられ、ひさびさに望遠鏡をのぞく。根っからの下っ端なのだ。こういう作業がいちばん楽しい。

 みゆきという女性はあるお店で甘いコーヒーを飲んでいる。彼女は若き日のデートのことを思い出していたが、相手の名前は忘れてしまっている。そこでドアが開く。重い戸を押したのはさゆりという女性だった。わたしは若さというものに感激して直視することすら恥ずかしくなっている。だが、そんな気持ちでは業務にならないので、監視をつづける。東ドイツの熟練したスパイのように。

 ふたりは目が合う。どこかで会ったことがあるひとだと理解したが、両者ともそれがいつで、どこでということをなかなか思い出せないでいた。

 さゆりという女性もコーヒーを注文している。彼女のものは苦さが売りだった。彼女はここの常連であり、店員が名前を呼んだ拍子にみゆきという女性の顔がぱっと華やいだ。

「あ、あのときの?」
「ふたりは知り合い?」店員が間に入る。みゆきは母校の名前を告げる。ここから数時間、電車で北に向かうとある地域だ。
「あ、彼を取り合った」さゆりも合点して、納得する。この数年間を帳消しにして、あの過去のひとときのことをなつかしがった。
「物騒な間柄だね」ハンサムな店員は危険を察知するかのように奥にもどる。

 ふたりはあれほど恋焦がれていた男性の名を思い出せないでいる。一瞬だけ険悪な気持ちになったが、それでも、地元の同年代に会ったことで、こころを綻ばせていく。

「この近くで働いているの?」近況を語り合うことがスタートだ。ふたりは業務内容を教える。わたしは報告書のページをめくる。どちらにも嘘はない。突然、虚構を間に挟むのを厭わないひともいる。見栄なのか、プライドなのか。あるがままの真実こそが美しいが、そう簡単にはいかないときもあるらしい。

「彼とは? 名前、なんだっけ?」みゆきはあっけらかんとしていた。「さゆりさんが本命だったのよね」
「あの日から、会っていない」
「ごめん」
「謝ることないよ、だいぶ、むかしの思い出だから」

 わたしはあの日にふたりを遭遇させるというミスを注意され、謹慎になったのだ。わたしたちも未来のすべてを分かっているわけではない。業務をこなすだけでへとへとになり、大きな希望も、壮大な願いもなく、淡々と働いている末端の存在なのだ。

 ふたりは電話番号を交換している。ふたつの手の平のうえの小さな機械のメモリーに名前と数字が貯えられる。その会社の株価はあがり、研究者と独創家は新たな発明を強いられる。コーヒー豆にも特許を。

 人間は友情という美しいものをもっている。その萌芽がふたりにはあった。わたしという意識だけの存在の涙腺もゆるみだしている。わたしの失敗は容易く揉みつぶされる。

 共通の時間と言語がふたりには介在して、隙をつくる。油断があるのが青少年の美しさであり、信頼こそがもっとも貴き美徳だった。疑念や裏切りは大人の領域だった。

 わたしは木山くんという青年の更新された情報を入手しようとしたが、厳重に管理され手が届かなかった。わたしがもし見てしまったら、またミスを誘発してしまうかもしれない。何度か、その垣根を掻い潜ろうと苦労するも、不正なパスワードで引っ掛かり部屋のブザーがなる。優秀なる同僚が設定を変えてくれ、安全な状態にもどる。

 ふたりは木山くんのその後のことなど知りたくない。だが、わたしには下司な興味がある。研修を繰り返しても高貴な存在になるのはなかなかむずかしい。わたしは机を離れ、ベルリンの壁の報告書を手にする。明日の朝まで交代の仲間がいる。夜勤の観察者。わたしは退出のハンコを押す。一度、なくしたらこっぴどく叱られた。統制とか管理がすすんだ世界はきびしいものだ。

 わたしは部屋で人間と同じ気持ちで壁を破壊する。わたしは勇気と感動を追体験する。人間は、ときに素晴らしいものだ。欠点が完全に拭いきれないからこそ、美しくもなり得る。

 二十代前半の美しい、輝ける女性たち。わたしは夢を見る。壁をこわして、低くなったものを跳び越える。いつの間にか、わたしも人間の姿となっている。目覚ましが鳴り、ゆっくりと起き直る。次の勤務のため、定かではないハンコを探す。



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傾かない天秤(2)

2015年09月24日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(2)

 数か月が過ぎる。木山くんの高校生活も終わりに近付いている。通う大学も決まった。彼は勉強もできるのだ。ふたりの女性もそれぞれ進路を決める。わたしは大学というところが分からない。ここでは誰かに教育を授けるというシステムを採択していない。いつその仕事を覚えたのか分からないまま、その労働に従事している。

 人間には給料というご褒美があった。とにかく一日疲れても、家族が待っている家に帰ったり、寄り道して赤い顔になることもできるのだ。わたしは愚痴が多い。反省すべきである。

 木山くんは今度はみゆきという女性とデートをしている。辞書を調べると「二股」ということばがある。意味はふたりの恋人と同時に交際すること。人間は、我々より器用にできているのだ。なおかつ高等であるかは分からない。わたしは望遠鏡でその様子をのぞく。もうひとりのターゲットである本命だと思っていたさゆりを印す赤い点が、一本離れた道路を歩いている。このままならその先でばったりと出会ってしまうだろう。

 わたしはありもしない肩のあたりを叩かれ、後ろを振り向く。その瞬間を避けるため何らかの障害物を置け、という指示が出ていた。わたしは上からの指示に弱い。直ぐに実行にとりかかる。

 しかし、わたしはミスをする。常に間違ったことをしてしまう。わたしが咄嗟に巻き起こした風は、別の場所を通過する。目にゴミが入ってしまって立ち止まるひとがいて、スカートがまくれて驚く多感な年代の少女がいる。

 わたしの評価はまた下がるだろう。しかし、永遠という存在ではそう簡単にくびにはならない。失業者が皆無な場所なのだから。油断して自分の心配をしていると、いびつな関係の三人は交差点で呆然としている。木山くんはハンドというサッカーにおいて姑息な反則をとられたような顔をしていた。わたしは無言で観察する。

 ふたりの女性は罵声をあげる。現代の女性である。木山くんは存在を消す。ゴール前で彼がタイミングよくそうしていたように。わたしは音声のボリュームのつまみを左にまわして小さくしてしまう。わたしは罵倒がきらいなのだ。自分がされるのはかまわないが、ひとのを客観的に見るのも聞くのも苦手だった。

 三人はまったくの他人に戻ったように方々に散った。わたしのミスは、それぞれの未来を変えた。

 木山くんはそれから百貨店の屋上にのぼり、晴れわたる空を呆然とながめている。悲しいというより、すがすがしさのようなものが表情のなかに垣間見える。彼は進学した場所で、まったく同じようなことをするのかもしれない。わたしはそのころには担当から外れているだろう。そもそも、わたしはこの別個の女性たちの未来を任されていた。

 みゆきという女性はトイレにしゃがみこんで泣いている。泣くということが女性にとって辛いことの一環かは分からなかった。浄化という作業に至る道筋なのだ。反対にさゆりという女性はひとりでコーヒーを飲んでいる。苦そうな顔をしているが、人間の味覚はなかなか難しいものらしい。東洋人には苦みというものが大人へとなるにつれ、おいしいというカテゴリーに含まれていく。

 わたしはきょうも反省文を書かなければいけない。でも、あそこで会わせないということをこころの奥では認めていなかった。静かなる反逆。ここで昇進することはもう不可能なのだ。地道に毎日こつこつと報告書をあげる。人間という夢見がちで愚かで正直でストイックなサンプルをたくさん集めるために。

 わたしは手馴れたように、報告書を書きだす。進歩も成長もない存在。人間は四十年ぐらいかけて一人前になり、壁にぶち当たって定年になる。女性は数人の母になる。白髪になって、病気が忍び寄る。なだらかな下降が訪れ、あとは灰になる。数年後にはそのひとを知っていたひとも死ぬ。後世まで名をのこすひとも何人かはあらわれるが、比較すれば圧倒的にすくない。アレキサンダー大王とか、カエサルとか、ナポレオン。もちろん、わたしはそういう有名な方々の担当ではない。ただ暇なときに、調査報告書で知ることになった。

 木山くんは家に着いて何事もなかったように夕飯を食べている。ふたりの女性はベッドで寝転んでいる。みゆきという女性は不慣れな化粧のままだった。さゆりは思い出の品々を箱につめている。わたしのとなりの席では殺人という物騒な調査に従事しているものが上司に状況を説明している。わたしたちは、なるべくなら関与しない。表面的に。建前上は。だが、数滴の血液や髪の毛が将来の犯人探しに通じるのだ。上司は髪の毛を抜く命令を出す。逃走用の車の後部座席に一本の毛が落ちた。わたしたちの関与は小さなものだ。だが、結果的に正義がなされることを望んでいる。

 わたしは報告書を書き上げる。数週間の謹慎がある。わたしは個室で人間たちの文明の資料を読むことにする。川があり、穀物が実り、それでも、砂やほこりのしたに埋もれてしまうことも度々だった。厭世的にもならないが、希望とか充実とかもわたしからは程遠かった。



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傾かない天秤(1)

2015年09月17日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(1)


 物語という架空の世界。赤ずきんちゃんは試練に遭い、子豚たちは不器用そうな手でそれぞれの家を建てる。人間は運命という磁石をわざわざ介在させ、波風を立たせながらも、スムーズに読んでもらうことを念頭に置く。

 ぬか床に、キューリを二本だけ放り込む。それは後年、どういう味わいを身につけるのだろう。神も知らない。記述する者もこの時点では把握していない。風船に印字された模様の如く、膨らんでみなければ判然としないのだ。見果てぬ異性の下着のデザインの緻密さとも呼べる。

 複数の女性から愛される男性がいる。同じ時期に。反対にもぐらのように陽光を浴びない男性もいる。あなたの職場の片隅にも。授業を受けている姿が映る高校の教室のあそこにも。わたしは外から窓のなかを眺める。わたしというのは外界に発揮するための喜怒哀楽を有した肉体をもっていない。意識だけの存在だ。運命を傍観して、そのことを研究者の態度のように入念に事細かく筆記する。ぬか床は試験官に変わり、軽やかに左右に振りまわす。あるものは見事な結果を引き出し、別のあるものは間違った分量の絵の具を組み合わせたように真っ黒になる。

 ある男子生徒がいた。彼は主役ではない。ふたりの女性を導くためだけの存在である。しかし、輝いている。スポーツをする際の計算された髪の乱れ。ダビデ像のような肉体。ひとを寄せ付ける笑顔。となりのクラスでは歴史の授業を受けながらひとりの女性がうっとりと彼のことを考えていた。そのひとつ向こうの部屋にも数学の問題を小さなあたまから排除して彼との今後を、美しくなる未来を想像しているひとりの女性がいた。わたしはふたりの女性を交互に見つめる。どちらとなら木山くんは幸せになるのだろう。幸せというものをわたしは多く目にして、不幸せも同程度、見つめてきた。数千年の間。わたしはもっと引っ込み思案であるべきなのだ。来る日も来る日も単調な仕事に追われるひとのように、片付けることだけを最善にすればいいのだ。だが、わたしは好奇心を与えられ過ぎた。報告する必要のある調査は机のうえに山積して滞っている。

 木山くんはあくびをしている。その様子すら爽やかであった。ふたりの女性はその動きを見てはいない。自分のあたまのなかにある木山くんに勝手に語らせていた。ひとりはいっしょに帰るときの会話の断片を。もうひとりはスポーツ後につかうタオルを差し出す場面の情景を通して。

 木山くんはグラウンドでサッカーボールを蹴っている。ゴール・キーパーでもなく守備の要でもない。ゴール前の先頭に立ち、ヘディングでシュートを決める。みんなで固まり、よろこびを分かち合う。

 練習後にみゆきというわたしの調査対象のひとりがタオルを手渡した。彼はほほえむ。しかし、着替えを終えていっしょに帰ったのはさゆりという女性だった。わたしはコンパスと望遠鏡を手にして、ふたりを見守る。

 駅で少しふたりは立ち話をする。だが、直ぐに終わらずにベンチにすわってアイスを食べはじめた。望遠鏡の向きを変えると反対側の改札にはみゆきがいた。友だちと快活に話し合っている。知らないことこそが世界の安心につながるのだ。

 アイスの容器をゴミ箱に捨てて、ふたりは離れた。方向が違うホームのうえで手を振り合っている。人間は青春とこの情景を名付けた。わたしにも数千年の春があったはずだが、同時に数千年の積雪がある。ここまでの報告をまとめる。肉体があれば一息いれるためにコーヒーでも飲むのだろう。手を振り合うこともできるのだろう。わたしは意識である。ことばを操りながらも、誰にも声をかけることができない。

 わたしは緩やかにながれる川を見る。その土手をみゆきが歩いている。そこで川は二手に分かれる。どちらも海に流れ着くのだが、河口では県が異なっている。

 木山くんとさゆりは夕飯後に電話をしている。わたしは信号を受信する。盗聴ではない。甘いささやきがあり、小さな約束が生じている。みゆきの母はきょう使用されたタオルを洗濯かごに入れた。みゆき当人はうつ伏せになって歌謡番組を見ている。母は食事の洗い物をして、風呂場の掃除をはじめた。みゆきの弟はまずそうにご飯を食べているが、何度も母を呼びつけてはおかわりをしていた。

 わたしの報告書は、何度も指摘されながらもきちんとまとまらない。必要ない細部に対して冗長なのだ。これも数千年の欠点だ。仕方がない。主役以外の人間があらわれすぎてしまっている。みゆきは風呂に入っている。わたしはテレビのスイッチを切るようにその画面を終わりにした。

 みゆきの母はタオルを干している。木山くんのさわやかなる汗も消えた。人間は河川を汚染する。しかし、わたしはその作業報告の従事者じゃない。

 調査の対象者はみんな眠った。わたしは、ありもしないメガネを外して、目のすみをこする。流れ星の係りが地球に向けて無雑作に石を放り投げている。わたしたちには死はなかった。突き詰めれば同時に生もない気がする。しかし、現状への疑問や反抗はご法度なのだ。わたしは明日の朝を待っている。月はまわり、地球もまわる。むかしのガリレオさんの言うとおり。


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