爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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当人相応の要求(42)

2007年12月22日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(42)
 
 例えば、こうである。
夜は、千の眼を持つそうである。
だが、一つの声の、確かな声の持ち主になれれば、それで良いではないかと彼は考える。今日も、スピーカーの前で時間を過ごす日々である。
パリの空の下にいる。個人の確立した社会である。人に頼らない生き方を大勢がしているように彼には見える。それでも、なのか、それだからこそなのか、言葉での交流や、ときには対立やいさかいがある。避けられない事実として。また避けられないことに、人生のちょっとした不運や、大きな不幸が時には訪れたりする。個人が確立していても、また、民衆の一人で生きるという覚悟をしたとしても。
それを受け止めてみたり、立ち向かおうと努力するときに、音楽が後押しをしてくれたり、力づけてくれたりもする。
エディット・ピアフという歌手がいた。1915年の12月に、将来に待ち受けていることも知らずに生を受ける。歌手として成功し始め、ボクサーと大恋愛をし、その喪失からだろう、愛の賛歌という信じられない名曲が残り、人々もふと口ずさみ、それで、1963年にいつの間にかなくなってしまったお気に入りの宝石のように簡単にこの世から去る。誰もが歌える曲を、数々残し。
アメリカのニューヨークには、ブルースを歌える歌手がいる。奇妙な果実という唄を真実を込めて歌うステージ上の女性がいる。髪には象徴的なくちなしの花を飾り。
1915年4月、フィラデルフィアに生まれる。誰もが聴いて、あの人の声だと分かる節をつけ、彼女は歌う。歌うこと自体は楽しいことなのか、と彼はスピーカーの前で疑問を持つ。みな、それぞれ、それぞれの方法で自分を解放する必要がある。それが切々と行われ、ときには勇気をもらい、圧倒的なまでの絶望感に同時に涙し、ときにはリアル過ぎて、適度な距離を置く時期があり、それにしても忘れられない唱法だなと戻ってきたりもする。
人生の浮き沈みを経験し、良いときの軽やかな唄があったり、麻薬の影響なのだろうか、冴えない(もちろん主観の相違が含まれる)曲もあり、それでも、個性の確立としては、最大限の成功を収める。しかし、自分の鏡と対峙して人生を送り続けることが不可能なように、普通の日常生活の雑務に追われ、いつの間にか時は過ぎていく。そのようなときは、リアルではない、軽い虚構の音楽が似合ったりもする。その時に、彼女らの音楽は遠ざかって行ってしまうのだろう。
1959年、ジャズという音楽の持つエネルギーがピークの頃に、彼女は世を去る。もう辛酸は、こりごりだという印象をスピーカーの前の彼に残して。
ジャンルで音楽を分ける人もいる。唯一という言葉の定義を求めて音楽に親しむ人もいる。真実と予言の言葉は、女性の声を通してと不確かな根拠を抱いて、スピーカーの前に鎮座する人もいる。
1923年にマリア・カラスという人が生まれている。その時代の偉大な歌手になるべき素材を地球に送り込もうという意図を彼は感じている。そろそろ黒い円盤も生まれるし、マイクというものも発明されるだろうし、小屋というものを人々で満たす必要もある。
その絶頂期の、引力を実感していない子供が転げまわるような歌い方に、彼は軽い当惑を受ける。なんなんだ、という最初の抵抗を浴びて。そして、しばらく経つと、凄いもんだな、と感嘆に変わる。もし、それらの人がいなかったら、多少、人生に対する調律が歪んでしまうような感じを彼は受け始めていた。世の中は、経済活動や、金銭の動向だけではないという、主義とモラルを潜めて。
その証人として、ビリー・ホリディの同時代の人として、レスター・ヤングのサックスの音で、この文章を閉じたいと思っている。あまりにも無防備で、世の中の悪意や逆風から、逃れられない、抵抗できない人として、音が作られていくように、彼には思える。その分だけ、寒い冬空に、マフラーもコートも手袋も暖かい飲み物も与えられず、それでも懸命に生きるだけ、生きてみようという勇気も与えられる。計算高く生きようということすら念頭に浮かばないような音楽。しかし、その無邪気な音楽が、ひっそりとレコード屋の片隅に、手をとって引っ張られ、聴いてくれよという形で待っている。それを見つけられる幸運があるのか、彼には、その幸運があった、というしか答えがない。
明治になり、急速に西洋化され、古いシステムを粗大ゴミに出し、新しい輸入された商品を買い込み、諸外国と張り合う気持ちも芽生えた。しかし、彼の心にワインの滓のように最後に残るのは、レスター・ヤングの音楽だった。その一つの声とトーンの持ち主だった。
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当人相応の要求(41)

2007年12月15日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(41)
 
 例えば、こうである。
風に揺れる襟。ボタンで留めてしまえば、そんな不自由から解放されるのではないか? ある種類のシャツの起源。
ヘンリー・サンズ・ブルックスという人物。その人から流れる系譜。そして、生まれてしまう発想と信念。
あるクオリティの高い製品を作り、そんなに莫大に売れなくたとしても、価値あるものを理解する人は、その値段に合ったものとして、購入してくれるだろう。
人間は、洋服に包まれて暮らす。その服装の判断によって、ステータスや人間性や趣味や思考が分類されていく。
彼が青春期をむかえる1980年代には、デザイナーズ・ブランドというものが流行しだす。セール期間になると、そのような店舗がぎっしり詰まった建物の外周には、大勢の男性たちも列になって並んでいた。彼も、その後方に一人たたずんでいる。
そして、ある袋を持って、ウキウキした感じにもなったり、タンスに長くしまわれ脚光を浴びることもなく服の生涯を終えるものたちもあった。
それから、大人になり、ネクタイのお世話になる。まともな人間の証し。社会に適合している人物だという仮の証明。その時になって、ボタンダウン・シャツというデザインに傾倒していく。あんなに完璧なシャツやフォルムはないのではないだろうか?
もちろん、日本でも買う。買っては着る。着ては洋服ダンスの奥の方に場所は移り、ハンガーに飾られたまま、袖を透す機会も減り、引退間近のピッチャーのようにグラウンドに出ることも少なくなっていく。
彼は、外国に行く。それぞれの国で、それぞれの洋服の着方を教わる。ポロシャツと半ズボンで過ごす人たち。3、40年かけて、自分に合った服をきちんと見つけられた人たち。相変わらず、はじめて服をもらって、身に着けている感じが否めない人たち。なにかしら、学習することがある。
服装で判断することはないが、(本当か? 建前か)彼は、気に入った服を着て、晴れた青空のもと、町中を闊歩する幸福を知っている。というか気づいてしまっている。
それで、外国でもボタンダウンのシャツを探している。彼に話術巧みに勧めようとするラテン気質の店員たち。自分の仕事ぶりや、製品を非常に愛し、声高にではないが自信をもって、気に入ってくれたらお買い上げしてくれればいいですよ、と横柄にならずに、そうしたスタンスで接客する店員たち。
そして、その分、着ない服も増えていく。過去に夢中になってしまった思い出だけが残り、現状の自分につりあったものになる。本当の自分を探して。内面も、また外見も。
きれいな女性がいる。なぜか服装の趣味が、というより自分自身の良さと服装がアンマッチしている人がいる。彼は、なぜか、そうした女性をセクシーに感じたりする。また逆に、そんなに美人というわけでもないが、その服装と放つ魅力に、はっとさせられたりする人もいる。そうした人に、自分の当時の恋人の服装も選んで欲しいな、と彼はちょっとだけ考えたりもする。
それらのことを、服装ではなく車に求める男性もいる。そのエネルギーを室内のインテリアに注入しようとする女性たちもいる。でも、彼の考えは、社会と和合することならば、服と会話と、軽い酒のようなもので彩っていきたいと思っている。
世の中は、どんどん軽薄なものになっていく。一生、突き詰めて研究者のような姿で人生を取り込めなくなっていく。その反対に、世の中はどんどん殺伐となっていき、険悪になっていく。素敵な靴と、コートを着込み、その殺伐とした社会や満員電車に放り込まれる。彼も、いつの間にかそうした大人になっていたのだ。自分でも、気づいてはいなかったが。だが、コートの内面と、自分の周辺だけは、甘い快適なにおいを発したいと思っていた。思っているだけなのかもしれないが。
洋服をデザインする人がいる。その代わりに似合う人に着てもらいたいと思っているのだろうか? 彼は、その代償として、最低限の身体のデザインを維持したいと決めている。マネキンのような完璧なスタイルは望めないとしても、それ相応の年代にあった体型を。今日も、風が吹いている。襟は、風に揺られることもなく、ボタンでしっかり留まっている。
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当人相応の要求(40)

2007年12月09日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(40)
 
 例えば、こうである。
誰が、1位、2位とランク付け出来ない社会。だが、それにしても確実に才能の差異がでてくる分野。
バルザックという傑出した人物。1850年に約半世紀の人生を終えている。50年で、あんなにも多作で、立派な作品を残すことが出来るのだろうか?
ロダンによる彫刻。人間の善悪、いやらしさ、醜さ。また逆に、清潔さ、高貴さをすべて兼ね備えた芸術。この人以上に、本という形式で紙に印刷され、リアルな生な人間を描けた人がいるのだろうか、と日本の彼は思う。そして、圧倒的なまでの質と量に打ちのめされている。
印刷業を自分のものにすれば、制作したものを公表するのに、いくらか楽なものになるのではないかと作家としては、当然の帰結なのだろうか、野望的な考えを実行し、そのためにかえって借金まみれになる。その借金をマイナスするために、またまた大量の紙をペンのインクで埋め尽くす。後代にその文章を読む人たちは、その人物の計り知れないエネルギーの表れと、数々の問題を克服するようなバイタリティに恩恵を受けていることは事実だ。
最終的に借金の清算はかなわないまま、優れた作品とひきかえに人生を終える。東洋の印刷物を愛する少年は、その人物の全集に何度、購買意欲をそそられたことだろう。文章で神の視線のいくらかでも勝ち得ることを、かのうならしめた人物。
長いものを得意とする人もいるし、短いもので、キラリとナイフの尖端のように輝ける作品を残した人もいる。
モーパッサンという人物。ノルマンディーから訪れる。
幸運なことにというか、運命が導いたのか、家族の知人にフローベルという作家がいて、その人に師事する。才能は、伝承できるのか? この場合は可能だった。
数限りない短い、宝石箱の中の光り輝く作品たち。
上流社会に憧れる人物が登場する。社交界という生活が現存する世界。ある舞踏会に呼ばれる。そのパーティーに服装は用意できたが、首元がいくらかさびしい女性。そうだ首飾りという装飾品が足りないのだ、と気づき、それを借りることを考える。
手頃なものが借りられ、その場も楽しく過ごし、けれど、はっと気づいたときに首もとのネックレスがないことに思い至る。探しても見つからない。どうしよう、ということになり似たものを探し、借金までして手に入れ、きちんと返す。身分不相応だったのか? なにかの警告が含まれているのか?
その借金の返済のために泥のような生活をし、約10年かけて完済する。そこで首飾りを貸してくれた女性に偶然であう。疲れ果てた女性と、まだ美しい女性の遭遇。
「あなたに借りた首飾りをあの時に無くしてしまい、同等のものを買って返しました。そのときの借金を返済することがどれほど大変だったかしら」
「そうだったの? そんなことをしなくてもよかったのに。だって、あれ、模造品だったのよ」
という、辛いオチ。でも、人生って、結構こういうことがあるようなものだと認識をしている彼。でも、それを紙の上に印刷されたものを読んだことはなかったが。印象に残る短編を作り続ける名手。だが、1893年にこの世を去る。
それぞれの長さで、それぞれの文体で社会に挑んだ人たち。すべてを読めるわけではないが、その面白さをいくらかでも吸収したい彼だった。
ひとつの国に、それだけでも才能を有する人物がたくさんいる。200いくつかの国と地域があることを思い巡らす。違う言語という、ある種の妨げにもなる、非接触な媒体。だが、クオリティの高いものは、津波のように意識や言語を越える。
今日も本のページをめくる。家の中で。列車内で、カフェで。飛行機の中で。待ち合わせのあいた時間に。自分はなにをしていたのか、何の用件をするはずだったのか、と時折り忘れてしまう彼だが、そのような幸福を感じさせてくれた人物がいたことに感謝するのみだった。
視力との問題。妥協と兼ね合い。小さな文字。ある日、限界が訪れるかもしれない。その時までに、実際の生活以上にリアルで生活感のただよう作品を、発見し探す。
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