爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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リマインドと想起の不一致(44)

2016年06月27日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(44)

 ぼくの良さをあゆみが知っている。いや、彼女が引き出してくれたのだ。ぼくは自分の内面に埋もれていた要素を彼女のスコップによって発掘され、地中から見出されて取り付けられた眩しい鈴の音で気付かされる。

 ぼくの醜さを誰も知らない。あゆみは信じようともしない。ぼくは騙しているのだろうか?

 終わったことをくよくよと考えていた時期も終了する。まっとうなことだ。ぼくは健全なる青年にもどる。恋のよろこびに浸かる。だが、高校の帰り道でひじりを見かけてしまう。ぼくは望んでもいない。不可抗力だった。

 ひじりはぼくに気付いていないようだった。彼女はぼくについてどう思っているのだろう? 今更、心配してもどうにもならない。まさか恨んでいるのだろうか? 気にもしていないのだろうか? 駆け足で追いついて直接、訊くこともできた。だが、ぼくのことをいつもの所であゆみがいまは待っているはずだ。ぼくは、あゆみを裏切るようなことができなくなっていた。再犯は、もっとも悪質だ。

 あゆみは楽しそうに最近のできごとを話す。ぼくはひじりの最近の事情を知らない。知る権利もない。ひとは別れてしまえば関係が絶たれるという事実に納得する。いや、納得などしていない。そういう念に似た気持ちを打ち消さなければならないのだ。

 ぼくは、これでも歓喜という状態を恒常的に保っている。あゆみが、正にかけがえのない者となっている。ジーンズが馴染むように、色合いや風合いが好みにしっくりと変化するようになっている。極論をいえば、ひとは自分の周囲にあるものしか愛せない。会わなければ、関係性など未習熟のあやとりの如く絡まってそれで終わりだった。

 だが、先ほど会うチャンスが不意に訪れた。あゆみが待っていなければ、その無言の誘いに誘導されてしまったのだろうか。ひじりが迷惑がることも考えられる。なつかしいというだけの親密さを拒絶する場所にぼくを追いやっているのかもしれない。名前も、ぼくの声もまさか忘れてはいないだろう。ひとは忘れようと思っている間は、なかなか目標に達せないのだ。意識しなくなってこそ、にらみ合いは中断され、忘却はこちらに歩み寄ってくれる。

 石をめくるとひじりがいる。埋葬という段階に到達しない女性。ぼくの脳の回路に宿っている。これも事実だ。無理に忘却を促すこともない。自然にその過程は適切なプログラム通りに予定のまま疑いもなく行われる。

 忘れていたと言って、あゆみはプレゼントをもったいぶらずに手渡してくれた。
「なにか、記念日だっけ?」とぼくはその日を掘り返す。

「ただ、この色合いが似合いそうだと思って」

 あゆみはぼくのことを考えている。あゆみの深い回路にもぼくが潜んでいる。蜘蛛の巣を張るようにぼくがいる。ぼくを尊敬できるものとして、美しいものとして、決してしっぺ返しをしないものとして。

「うれしいな」素材のやわらかなシャツをくれた。ぼくは広げて胸の前にかざす。
「今度、着てきて」
「いいよ」

 ぼくは未来のなかにいる。あゆみのなかでショートすることも、燃え尽きることもない正しい部品としてのぼくが組み込まれていく。ビンのなかの精密な模型の船のようにぼくは安全にあゆみと共にいる。あれは幻だったのだ。ひじりと似たひとがいただけなのだ。ぼくという船の舳先はあゆみに向かっている。安定した航行をさまたげるものは、なにひとつなくなったのだった。


リマインドと想起の不一致(43)

2016年06月26日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(43)

 蜜月。

 仲良きことは美しきかな。ぼくはこころの推移を外部のことばで探す。疑惑の反論をするように。もし、表現できることばがあればその感情は正しいと証明されるのだ。人類は足りないことばを補うように、補填するように作りつづけてきた。該当するものが足されれば、個人の発明品だとしても人類の共通財産として蓄積される。

 分析することもない。多くの感情は壁に画びょうで留めることもなく忘れ去られていく。刻々と素通りする。そのなかで一部のものだけがふるいを通り抜けられずに脳にとどまってくれる。喜びもあれば、悲しみや失意の残骸もあった。皆無という人間はあり得ない。その箱にあゆみの情報が性能の良い掃除機のように取り込まれていく。陰干しなどいらない。

 子どものころに遊んだおもちゃもそこにある。無造作に放り込まれた過去の記憶。いつか振り返ることもないであろうものも片隅に入っている。ぼくの過去の集積なのだから。いつも真っ先に水面に浮かんでくるような美しいものもあった。ひじりとの思い出は窒息を許されない。だが、さすがに昨年の水着のように自然と褪せていった。

 褪せる。摩耗。劣化。償却期間。そういう負の側のことばもある。だが、最後のときを迎えるまでぼくの財産であることも間違いない。奪えない。保存。耐久。ストック。貯蔵。越冬。ぼくはいつものようにことば遊びをはじめる。

 ぼくはあゆみの妹のバスケットボールの試合を見ていた。あゆみは身長が越されている。横にいると、どちらが姉か分からない。顔立ちは似ている。どこでどう遺伝のバランスがずれたのかぼくには分からない。その試合で妹は大活躍をする。ぼくは姉の彼氏という役目を受ける。試合後、ジュースをおごる。すがすがしい汗をかく年代。冷や汗や寝汗は大人になるにつれて増加する。

 これもぼくの一日だった。過去を振り返ることや、悔いることの少ない一日だった。普通の未来に目を向ける小さな野望をもつ青年のできあがりだ。この変化をひじりは知らない。でも、どこかで新しい自分を知ってもらいたいとも思っていた。するとあゆみの妹は姉のために腹を立てるだろうか?

 あゆみの家に電話をかけると妹がでる。取り次ぐ間に少し話す。取り留めもない、痕跡ののこらない会話。無駄なおしゃべり。世の中は意味あることばかりでは成り立たない。画期的なことも、エポック・メーキングもない。普通の幸せ。普通の時間。ぼくは、胸のあたりが温かくなる。それは特定の誰かの幸福を願い、悲しませるのにつながることをまったくしないと誓うようなものから派生した気持ちだった。いや、誓いという大げさなものではなく日常の小さな一部の積み重ねだった。積み重ねとも違う。平凡な幸せを、車輪のついた台に載せてどこまでもつづく平坦な道へとゆっくりと運ぶようなものだった。

 ぼくは、どこかからどこかまで範囲の区分けされていないところでリレーの番を待つ。駅伝のタスキのようなものでもある。あゆみが担い、妹の笑顔もどこかで加わる。ぼくは電話を切る。安堵の息を吐く。立ち直れたのだ。もう過去の呪縛におびえることもなく、もどる理由もなく、閉じ込められるのも避け、沈み込みたい願望も消えた。永遠という長い時間を追加して考慮すると、この一日の連続とどう違うのか公平な判断ができなくなった。

リマインドと想起の不一致(42)

2016年06月25日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(42)

 加点法と減点法。あゆみに対して意識的に加点法を採用する。彼女は、なかなかよくやっているじゃないか、という自分の立場を度外視した態度で。だが、結局は、ひじりではないという決定的なたった一点だけで減点される。彼女の責任ではない。ぼくが変わらなければならないのだ。ぼくは、過去を掘り起こし、もてあそぶことを止めるよう約束させられた。

 それにしても約束を守るのも、破るのもぼくのこころの自由だった。責任も追及もない領域。失うというのを恐れない態度。ぼくは、かけがえのないものを一度、失ったのだから、あとはその余波としてすべてを無頓着に考えてしまっていた。

 だが、その状態になってみなければ分からないのも事実だった。試すことはできない。その判断はあゆみがするだろう。ぼうは低空飛行のままなんとかやり過ごそうとしている。効果的な風があればうまい具合に気流に乗って上昇することも起こり得た。

 自分ではエンジンを一向に吹かせようとしていない。グライダーのようなものであり、ヨットにも似ていた。ぼくは自分の思い通りにならなかったことであきらめを知り、あとは風にまかせるがまま流れた。そこにあゆみの自然な、かつ大らかな温かさがあった。演歌なら港と評するだろう。

 そこは確かに温かかった。ぼくは充分に幸福だと設定をリセットさせることもできた。だが、解除のボタンは押さなかった。いつもではない。たまにしなかった。

 あゆみといることによって、ひじりとの季節が塗り替えられた。下地に影響されて、どんな色を重ねても映えることはなかなかむずかしかった。ぼくは狂っているのかもしれない。誰しもが二番目のことや三番目に訪れることを受容する。それを普通は経験と呼ぶ。ぼくは経験を素直に受け入れずに頑なに拒んでいる。まるで歯医者の前で泣く子どもであり、注射におびえる幼児だった。その好意自体が流行りの病原菌を予防する役目があるにしろ。痛みを奪ってくれる最良の治療法だとしても。

 ぼくは虫歯そのものすらなつかしんでいるのだろうか。早期に片付けなければならないことは重々、承知していた。取り除かなければ、ぼくを蝕んでいくだけなのだ。身体の奥まで浸潤したら取り返しがつかない。ぼくはあゆみに賭け、頼りにしてもいいのだ。そして、多くの時間をそうするようにもなってきた。

 桜は散り、新緑の季節になり、あじさいのそばにはカタツムリがいる。その間にあゆみといた。海に行く。彼女の水着姿はチャーミングだとわざと旧式な表現を用いてみる。タオルで髪を拭いている。化粧もしていない肌はきれいに水を転がしていく。ぼくにだけ与えられた瞬間。栄誉にも似た歓喜。

 太陽は頂上から傾いていき、日も段々と陰っていく。この日のぼくを知っているのはあゆみだけであり、同時に彼女の一日を網羅しているのはぼくだった。充分、幸福だといえた。否定するものもまったくない。秋にぼくはあゆみとなにをして、冬にはどこに行くのだろう。未来を想像する。大学生になるあゆみ。会社に勤めているあゆみ。ぼくはその同伴者だ。そこに不足はない。ぼくはビーチサンダルの片方を波にさらわれる。まだ、取り戻せる範囲に浮かんでいる。プカプカとただようものを取り戻せなくなるには浅瀬は急でもなく、波も徐々に静まってきたようだった。


リマインドと想起の不一致(41)

2016年06月21日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(41)

「わたしの胸、そんなに大きくないけど、世界一きれいだと思わない?」自信があるような、それでいて照れたような様子を混ぜた表情であゆみは質問なのか分からないことを訊いた。「言い過ぎだね。そこそこ、きれいだと思わない? 日本一、市内一。バーゲン中まっしぐらです」

「見たことないよ、比べられるほど……」
「はい、ダウト」今度は満面に自信があらわれている。「前のひとの残像を追っかけてまあす」甘えたような言い方だ。

「誰のことだろう?」
「約束して、もう引きずるの、止めてくれない?」
「前なんか最近、気にしたこともないよ」
「じゃあ、信じるけど」信じたいけどという希望を暗に含んだのか。

 ぼくは過去の残響からも試練を受ける。もっと正確にいうと、過去のできごとが無言で、まさに瀕死の状態なのに息を吹き返して多方面に命の残骸を響き渡らせていた。

 ぼくは家に帰って英語の辞書を手にする。ダウトとサスピションの差。根拠のあるなし。あゆみはダウトと用語を間違って使った。はっきりと疑惑の対象はあった。漠然というものではない。ぼくは見破られたことにいらつき、同時に安堵した。ぼくのなかにまだひじりはいた。そして、ぼくのなかだけにしか存在しない。現実のひじりを取り戻す術がひとつもないのだから。

 あゆみはぼくの性質を誉め、容姿を愛でた。ぼくも同じことを無意識下で求められている。自分にしてもらいたいこと。あゆみはぼくを救ってくれるのかもしれない、と大げさなことを考える。すると、ぼくはもっと壮絶な落下に耐えなくてはならない。この位置は自力で這い上がれる場所なのだ。まだまだ、最底辺ではない。

 他力が必要ならその役目はひじり当人にしか無理だった。ぼくは論理をすりかえている。あるいは破綻させようと挑んでいる。債権者は誰なのだ? おこぼれをもらうのは一体、どいつなのだ?

「あゆみちゃん、かわいいよな」友人のひとりが言う。
「代々、かわいい」もうひとりが言う。
「大切にしないと」

「してるよ」ぼくは弁解をする。その指摘されたことばにこだわってしまったのだから、大切にしてないともいえた。足りない。ぼくはすべてに対して足りないようだった。不足をなにかでごまかそうとしている。その余地にひじりをまぎれこまそうとしている事実がはっきりとあるのだから。

 ぼくは何遍もいうが後ろ向きだった。十代なんか前進のために設けられているわずかな時期だろう。ぼくは輝ける日々をわざわざ曇らそうとしている。そのくすんだ容器のなかにあゆみを閉じ込める。不幸をラグビーのパスのように連鎖させる。ぼくは振り子のような自分自身の両側への揺れに踏ん張って抵抗していた。しかし、あゆみの幸せだけを追求しようと願った。すると、自分の幸福とはどうやら一致しないようだと不安にもなった。

 ぼくはあゆみのすべてを誉める。

「わざとらしいよ」と言いながらも彼女はうれしそうだった。美点が多分にある十代の女性。今後、もっとその実は花開いていくのだろう。可能性を共有することが恋人の役割だった。ぼくは、そろそろ本気で彼女を好きになってみようと考える。また、意識してすることでもないだろうと客観さを持ち込み、かえって白けるような感覚もたずさえてしまっていた。


リマインドと想起の不一致(40)

2016年06月20日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(40)

 ひじりを思い出す回数が減る。だが、二十回が十九回になった程度だ。微々たる減少。

 あゆみの仕草自体に反応する自分がいる。同性である女性ということで。しかし、それはあゆみなのだ。ぼくは段々と現実の生活を受容し、彼女に対する気持ちを肯定化する。

 その間にもひじりのうわさはたまに届いた。ぼく以上にひじりを愛する男性などいないであろうと決めていた。しかし、うわさはその一方的な仮説を木端微塵に打ち消した。そもそも、もうぼくには証明する手立てがなかった。論理だけの展開しかぼくには与えられていない。若い肉体あるふたりに、あるいは四人に架空の論理など、いったいどんな役に立つのだろう。

 ここに現実の君はいない。会わない日数が一日ずつ増えていく。

 あゆみはぼくの家にも来る。ぼくの母と親しく話していた。もともと愛想が良いのだ。ひととの接点を多目に設定されている。だから、評判も上がる。ぼくは設定を変えない。頑なに後ろ向きである。しかし、あゆみとの日々も刻々と増えていく。新たな思い出がさまざまな町に、そして、ぼくの脳にストックされていく。事実の積み重ねをなかったことにはできない。ぼくは失恋をした。その結果、あゆみが部屋にいる。

 あれを安易に失恋と呼んでもいいのだろうか? もしかしたら、ひじりがその立場のたったひとりの該当者と思っているのかもしれない。いや、もうぼくとの時間を、もしくはその断片を捨て去りつつあることも想像できる。ぼくは、その忘却への流れや決壊を阻止したかった。

 誰も、そんな力も権利もない。ぼくらはぼくの部屋で音楽を聴いていた。あゆみはリズミカルな音楽に合わせて鼻歌をうたう。ぼくはひじりの歌声を知らなかった。知り得るチャンスはもうないのだろう。ぼくは比較ばかりをする。そういう類いのことが自分にふりかかれば必ず苛立つだろうに。ひじりも新しい彼氏のふるまいと、ぼくのそれとを俎上に載せてあれこれと考えるだろうか。長所もあれば、短所もある。だが、素直に新しいものだけを追い駆けて、幸福を寄せ集めていることだろう。

 愛のうたがたくさんあった。状況も無数にあった。恋する気持ちは芽生え、消えて、再燃した。ぼくらは部屋にいることに飽き、外を歩いた。

「母校のそばに行ってみたい」とあゆみは言った。断る理由はひとつもないが、行ってみようと敢えて勧めることもしたくなかった。でも、当然、ぼくらはそちらに足を向ける。

 ここはひじりとの特別な場所だった。聖域という一度も使ったことのない高貴なことばを頭に浮かべる。

「当時、好きな子って、どんな子?」
「いたのかな……」
「いたでしょう? わたしに似てる、違う?」

 ここに君はいない。ぼくの深奥なる思い出に土足で入ってくる権利を有すると勘違いしている女性といる。
「忘れたな、いまが楽しいからかな、きっと」

 未来というのは手放しに歓迎するに値するものなのか。過去に拘束され苦しめられるのを許すのは度胸のないことなのか。ぼくは自分の発する本音ですら疑っている。

「ここに、わたしも通ってみたかったな。いっしょに通学したり、帰り道でこっそりと寄り道したり」

 過去を変えられないことにいまだけは感謝している。矛盾を忘れて。未来にだけあゆみはいる。昨日まではすべてひじりの取り分なのだ。荒らしてはいけない領域だ。常に昨日を増し加えて、頑丈な柵を設けて昨日と未来のすき間に踏み込ませなければだが。


リマインドと想起の不一致(39)

2016年06月19日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(39)

 愛情の示し方が単純に違うんだなという感想を抱いている。サンプルが増える。だが、自分との相性というのが一致する奇跡を、もしかしたらぼくは早過ぎて知ったのかもしれない。獲得というのは教育とか疲労という時間の積み立てののちに訪れるものだけではなく、簡単に向こうから勝手に手のひらに飛び込んでくる場合もあるのだろう。あったのだろう。それにしても新しい方法に自分を馴染ませることもできた。ぼくはささいな抵抗や小さな拒絶をすることにより、いなくなったひじりに忠誠を誓おうとしていた。

 誓いは報いと同等ではない。また報いも誓いとは縁遠い。その事実を数十年後のぼくはあきらめの連続の結果として知っている。優秀でもない大多数の一員のもつべき権利として。多少、道(道義という大げさなものでないにしろ)から外れ、何度か裏切ったり、当然、裏切られたりする。生きるということは経験を身に加えることだ。皆無ということは成立しない。優しさや正義の平均点すら到達がむずかしい。その神経質な撹拌が誓うという行為をふるい落とす。バカげているとあきらめていることはないにしても。

 愛情のバランスが均等ではない。あゆみの量が常に多い。少しだけぼくも付け足す。それを知ると彼女も比例して注ぐ。だから、いつも似通ったような円グラフを作った。誤差の範囲。ぼくの愛情はそういう形態のものだ。そのいびつな円も彼女は愛の布でくるんだ。だから、その関係は外部から守られ、膨張もなく縮みもしなかった。

 外部にはひじりがいた。ぼくは酸素を求める金魚のように直接、口を外気に向けた。ずっとその姿勢でいることはできないこと自体、金魚自身が知っている。水のなかが不本意にせよ生きる唯一の場所なのだ。ぼくは水中から目を向けて水槽のそとを探す。金魚鉢はレンズとなってものごとを歪ませて映すだろう。一部は拡大され、意図しない形に縮小される部分もある。餌が上部から水面に落とされる。その指先はひじりのものかもしれない。

 危険はない檻の中。たっぷりと栄養もある。あゆみが熱心に供給してくれる。ぼくはそのあゆみの家の近くの土手の芝に犬とすわっている。犬はぼくの匂いを数回だけ嗅いで、認証したように目をつぶった。我が主人に不正にアクセスした者ではありませんと。それ以降、ぼくの存在を疑うこともしない。あゆみと同じように善良にできており、信頼を惜しげもなく表し、証拠として隠すという感情もなく、認めた対象にとことん尽くす性質なのだろう。あゆみの美点と同じく。

「あまり馴れないんだけど」とあゆみは犬の背中をいたわるように撫でながら言った。「でも、このぐらいの年代の男性のこと、そんなに知らないか。配達に来るひとぐらいだもんね。吠えて当然か」

「そこには吠えておかないと。犬の仕事だから」

 ぼくは川面を見る。鉄橋がある。となりの町に通じる橋。ぼくはひじりから離れて、あゆみのところに渡った。完全に。犬が証人である。無言の是認でもあった。

 急ににわか雨が降り出す。ぼくらは遮るものを探していっしょに走り出した。動悸が激しくなりふたりの吐く息の音がコンクリートの壁に響いた。あゆみの髪や肩の辺りが濡れている。湿気が混じると違った匂いを発する。ぼくの視線を受け止めてあゆみは犬の紐をにぎっている手の力を緩めた。解き放たれた犬はうれしそうに雨の中を疾走する。まるで飛んでいるようだった。邪魔者もいなくなり、ぼくらは近付いて互いの温度の差を調べた。


リマインドと想起の不一致(38)

2016年06月18日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(38)

 新しい女性との思い出は増えるが、過去が減るわけでもない。記憶というのは意外と強みをもつものだった。恋慕。未練。若い健康な十代の青年にどれもふさわしいことばではない。だが、ぼくの中味を埋め尽くしているのはそれだった。そういう負の思いがガスのように逃げ場もなく充満していた。致死量にはいたらない程度に。

 ひじりに日々、訪れる新しい思い出を作る過程にぼくは参画できない。ずっとぼくの成長とともにいるはずであり、彼女の成長もぼくが見守れたのに、それを失った。喪失感は蚊に吸われた治療もいらない表面の赤味のようなものだと軽く考えていたが、次第に重傷になる。火傷でもあり、血の出ない出血でもあった。外から見えない透明な傷あと。ぼくは彼女の家の電話番号を頭のなかで復唱する。それで何か答えに導かれるわけでもない。副作用や後遺症になやまされる。ぼくは自分の決断を信じられなくなる。そして、こころの底から笑うことを忘れていった。

 だが、新たな女性はぼくといると楽しいと言った。彼女がひじりと違うという一点だけでぼくは無条件で減点をした。その気持ちも本人には通じないようだった。ぼくらはひじりといたときとは別の場所で遊ぶ。ぼくのうわさを耳にしたらひじりはどう感じるのか心配になった。簡単に好きな女性を変えられる男。後悔という感情をもたない冷酷極まる男性。

 ぼくは拘らずに新しい流れに身をまかせれば良かったのかもしれない。結論は簡単なものだ。古いものを断ち切る。それを再接続するのは理にかなっていない。誰とは特定できないひとの集団はみなそうしてきたのだ。ぼくができないわけはないだろう。

 あゆみという名の新しい恋人の家まで送る。ぼくの町ではない。同時にひじりの町でもない。家の前に犬がいる。

「どこの犬?」
「うちの」あゆみは屈んで犬の名前を呼んで頭を撫でた。それが終わると途端に防御本能を発揮したのか、犬は不審者を警戒するようにぼくに向かって吠えた。

「こら、やめな。ずっとこれからうちに送ってくれるんだから、ね」

 永続性を約束させられる。ひじりへの思いがつづかないのであれば、あゆみに対してはもっと容易であろう。もし、ひじりなんかいない世の中で暮らしてきたら、このあゆみの位置はどれぐらいの評価に値するのだろう。そう考えている時点で、ぼくはとにかくひじりを考慮に入れている。

 あゆみは犬に紐をつけて、反対にぼくを送るためにいま来たばかりの道を戻りだした。そのお供がうれしいらしく犬はあゆみの足に絡みついた。ぼくはその様子を可愛いと思う。ひじりへの執着もいずれ、この女性が消してくれるのだろう。ぼくは責任をその女性に転嫁する。もし、忘れられない場合は、あゆみに問題があるのだ。ぼくはどこまでも卑怯である。自分の失敗を都合よく譲り渡した。その重荷にまったく気づかない彼女と犬はにぎわう商店街を歩いている。ぼくも彼女らの世界のまぎれもない出演者である。しかし、エキストラのように主役ほど大きな文字で自分の名前が載ることはないだろうと思っていた。

リマインドと想起の不一致(37)

2016年06月15日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(37)

「疑うことをしながら付き合ってるのが、とてもイヤになった」とひじりは目を伏せたまま言った。でも、言い終わると自分の決定に納得したのか、きっぱりと前を向いた。ぼくは真正面で彼女の姿を見る機会をみすみす最後にしてしまうのだろうか。

「うん。疑われること自体が不本意だけど、その意見も尊重しないとな」
「止めないんだ?」
「止めてほしい?」

「分かんない」突然、逃げるように彼女はその場を去った。ぼくは追い駆けもしない。問題にぶつかることを避け、この気まずさをなかったことにしたかった。

 ぼくはひとりで帰り、数日間を悶々としたまま暮らす。約束の予定がある前日も、その最終確認を互いにすることもなかった。終わりというのが寸断という形に近いのか、それとも、なだらかにすすむものなのかぼくには分からない。きっと、炭酸の泡と同じで、一瞬で受け止められずになだらかというか徐々に自分に辛さの対価を教え込んでいくものなのだろう。覚えの悪い子どもに毅然とした態度でしつけるようにして。

 ぼくは彼女のいない日々と歩調を合わせる。彼女がいてくれないという状態にけん命に馴染もうとする。どこと細部を指摘できないながらもどこかが窮屈でもあり、ある面ではとても大きなシャツでも着ているような違和感がどちらに転がろうとあった。ぼくは謝ることも言い訳も考えていない。いや、無数に空想のなかでだけ思考錯誤した。その最後は彼女がぼくをまた受け入れるという結論になる予想である。しかし、頭のなかでいくら試しても解決には近付かない。日は過ぎ、カレンダーの月も変わる。

 ひじりは別の男性と交際をはじめる。ぼくはもう慌てることも許されないのだ。バトンを落としたリレーの選手である。ぼくには主張を示せるゼッケンもない。ただの趣味で走る選手に落ちぶれた。

 この町に苦痛があった。歓喜から転じた苦痛があった。ぼくのバッグに勝手に詰め込まれた。ぼくは悲しみというものが世界にあったことを知る。これまでのどんな病気も怪我も、ぼくにとっては悲しみですらなかった。その比重は日を追うごとに強まった。ぼくはひじりが別の男性と歩いているのを目にする。あそこにはぼくしか権利を有していないと決めていたのに、あっけなくその座を奪われた。

 ぼくは自分の不真面目さを悔い、その返礼を受け止められずにただ嘆いた。その事実をひとに知られたくない為に平静さを無理に装った。その内圧と、実際の外圧でぼくのこころという弁は壊れてしまう。ぼくは次の女性を探す。愛してもいないひとがひじりの代理になる。

 だが、代わりなどいないことをぼく自身が認識していた。繰り上げ当選したものは、自分の力量を把握しないまま喜んでいる。ぼくも人間だ。若き肉体ある女性が微笑めば嬉しくなり、ぼくにもたれかかれば楽しかった。でも、ひじりが与えてくれたものとはまったく違っていた。雲泥の差と表現してもいい。こうして、ぼくは新たな罪を犯す。罪に罪を重ねる。ひじりが戻ってきてほしいと夢のなかの現実世界の知恵や考えが及ばない領域で、ぼくはいつも切に願っているようだった。たまに叶い、ほとんどが裏切られ、ぼくは洞窟のような場所でひとりひざを抱えて座っている。


リマインドと想起の不一致(36)

2016年06月14日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(36)

 Tシャツの首のうらのタグが急に気になりだして、意識の集中を奪われてしまうことがある。反対なのか、ささいな一点だけに拘泥する。何によらず散漫というのは幸福な状態なのだ。ゆかりが発した一言でぼくらの関係はうとましい段階にステップアップする。自然とそこに注意が向く。だが、ぼくのこころは見事にダウンである。このまま、テンカウントで立ち上がれなければいいと思っていた。

 調査というのは本人の意思を度外視したところで行われるから客観的な意味合いでも効果がある。ひじりはぼく以外のことばを探そうとしていた。ぼくは信頼に値しない。氷が溶けるように、好意も薄まりつつあるのかもしれない。

 しかし、表面的には持ち直している。進行形だけでは理解しえないデータがいまのぼくにはあるので、ひじりが演じようと頑張って努力していることをぼくは知っている。知りつつも、ぼくの青い時代の虚構のために、美しく描こうとしていた。波乱は小さくて済みそうだと。

 結局、慣れ親しんだ関係を壊すというのは案外むずかしいものなのだ。惰性というものが支持という確固なものでもなく、力を及ぼす。といいながらも若さには破壊に対する欲求と怖れのなさもあるのだろう。だから、ぼくはその種をあの日にまき、水を与えはしないが根から伸びでた雑草の勢いある繁殖を根絶させることに手も貸さずに、不可能なのだとあきらめた。その茂みにゆかりが隠れて待っていた。ぼくとひじりは象徴的に足をひっかける。転がって痛みをより多く感じるのは、ひじりの方だった。

 ゆかりがぼくの交際相手を見て可愛さに嫉妬するほどだったという噂がぼくの耳にも巡って到達した。本心かどうかは分からない。種の一種類かもしれない。彼女たちはタイプがまったく異なっている。動物と魚ほどに。花と果実ほどに。海と川ほどに。ぼくはことばをもてあそぶことだけで満足してしまう。

 遺跡を発掘するようにひじりは調査の範囲をひろげる。もしくは砂漠で水脈をみつけるように。しかし、それは彼女を潤さないで、かえって干上がらせてしまう結果を招く。ぼくは辞めるように言うこともできない。もちろん、そういう事柄が発展しつつあることも知らなかった。薄ぼんやりとしている。ぼくは段々と証拠のかけらを手にしつつあるひじりを疑うこともなかった。そして、疑うというものが放つ正当性をぼくがもてるわけもなく、ひじりだけが手にする権利があった。

 愛は終わるから美しいのだ。美しいものは永続性がないのだ。一瞬の輝きだけしかぼくらは抱けないのだ。さまざまなたわ言をぼくはもち札のトランプを裏返すようにして刻みつけた。一枚一枚とひっくり返した時点で、少量の虚飾が見え隠れした。ぼくは失う。得たものを失うということが恐れとなることをぼくは感じていない。先になにが待っているのかにも無知のままだった。だから、若さは恵まれているともいえるし、その愚かな若さをどのタイミングで放棄するのかも、ぼく自身にかかっていた。痛みを代償にして。


リマインドと想起の不一致(35)

2016年06月12日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(35)

 ある日を後悔すること。その日を境に運命が変わってしまう時。

 ぼくとひじりは道ばたでおしゃべりをしていた。ひじりを笑わせ、ひじりのことばや仕草で笑う。無邪気さ。快適さ。そこに分断だけを求めているいたずらの女神が通りかかる。本当はゆかりという名前をもつ実体がある女性だった。ぼくがある日、つい揺れ動いてしまった女性。

「紹介して、彼女なの?」

 ぼくは取り調べを受ける後ろめたい犯罪者のような気持ちになっている。だが、ある程度は、平静さを装い、正直という観点で受け答えしようと思っている。

「ひじりです」ぼくは彼女の胸のあたりを指差す。ひじりは戸惑っているような表情でかすかに頷く。

「最近、付き合ったの?」
「いいえ、もう一年以上になります」

「最近じゃないの」といってしばらくゆかりは無言という断罪を貫き通す。その時の経過の音をぼくは医者の聴診器のようなもので拡大して聞かされているような気がした。「最近じゃないと、時間が合わなくない?」

 ネコがねずみをいたぶって転がすように、飛行機が煙をあげて滑走路をすべるように、逆転ホームランを打たれた好投のピッチャーの愕然さのように言い訳も考えられずに、秘密のほころびを小刻みに破かれていくのだ。

 ひじりはこちらを凝視する。その間に生殺与奪など微塵も有していないようなフリをしたゆかりは「じゃあね、仲良く」と言って歩き去ってしまう。

「どういうこと?」

 ぼくは過去の選択や犯した失敗が唐突に出した答えの打撃を追求という形で身に受けている。

「彼女を紹介してとか、ちょっと前に言ったのかな?」
「どうして?」
「つい、なんとなく」
「それだけ?」
「うん、それだけ」

 ぼくは賄賂の甘い蜜を吸う政治家でもあり、陰で公表できない約束を交わしたドラフト候補でもある。今後、ぼくは彼らを非難できなくなった。良識がぼくにはない。だが、ここでは取り繕うことによって恩恵があるのだから嘘でもなんでもこの場をしのぐことだけに集中する。弁護人は若い過ちの種を内在させるぼくのみだ。

 ぼくらは気まずいまま別れた。最後にキスをする。いつもより情熱的ではない。ぼくに情熱などという高尚なものを希求する資格などない。ぼくは、ゆかりを恨むという態度で帰り道を歩き、不本意な敵を捏造させたことで平衡が保たれた。しかし、その敵にもぼくは魅かれており、決定的に蔑み、憎むこともできなかった。

 何日か時間が立ち、元のさやに納まることだけを望んでいた。亀裂は修復され、関係性もきちんと舗装される。通り過ぎる車はアスファルトのなだらかさによって、あの日の段差に気付かない。ぼくは生まれて初めて、自分がそう大した人物ではなかったことに自分自身で承認のハンコをこころのなかで押させられた。借金の連帯保証人のように。つらいのはぼくであり、そして、ぼくでなく、ひじりだけがつらいという本当の意味合いをつかまされたのだろう。過去は過去だよ、とあっけらかんさを演じたぼくはシャワーを浴びながら、まったく逆の声音でうめくように独り言をつぶやいた。


リマインドと想起の不一致(34)

2016年06月11日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(34)

 不幸になるという要素と幸福になる確率をぼくは天秤にかけている。

 幸福という無形のよろいがすべてを覆ってくれることを期待するなど、さすがに信じつづけられる年代ではなくなりながらも、反対に常に不幸の濁流に飲み込まれるほど自分の力を信じられなくなるぐらいに厭世的な状態も勝利を保たなかった。愚かな側は幸福と希望というやっかいな用語を用いたがり、賢者は不幸にこそ甘美さを求めたがっていた。

 ぼくはまだあの日々を幸福だと思っていた。というか無心に信じてもいた。ひじりがぼくのかたわらにいる有形の世界を。

 ぼくは思い出せる。それこそが希望であり、勝利であった。しかし、思い出せる事柄や映像が事実と異なっているという不安がまれにあった。ぼくが作り上げた虚構にだけ住んでいるのかもしれないひとりの女性。ぼくはまだあの時間を追体験する役目や任務がある。

 本当はない。義務も権利もない。誰かが奪い去ってしまった。いや、ぼくが捨てただけなのかもしれない。だが、あの頃は息が長く、いまだに継続している。

 ぼくは自分の愛情をグラフのようなもので想像する。徐々に上がり、落ち着いたところでなだらかに上下する。もし、ことばという実際的な表現に恵まれた有用なものがなければ、ぼくはイラストでただそのことだけを表示させたかった。しかし、頂点に近いところで具体的な意味を述べる必要があり、下降した部分でも出来事のあらましを書き加える理由が生じるはずだ。例えば、ケンカと仲直りとか。例えば浮気を発見とか。

 ぼくらは互いに騙すことなど意図していなかった。両者は自分の幸福と(やはり使う)相手のそれとを一致させる決意があった、だから下降といっても、底や斜面で表せるものではなく、ただの窪みであり、小さなへこみだった。ぼくは愛情というものを文字で表現するのを拒んだり放棄しているわけではない。当事者ではなくなった自分が、客観的に見えるものをイメージしていた。球は丸いというようなシンプルな姿を通して。複雑な心情をむりやりに。

 物語の継続は作者にかかっていながら、読者の要求もある。ぼくは熱心な読者であろうとしている。結末を知りつつも、それを先延ばしにできる小手先なテクニックを力技に変換させることを望んでいた。ぼくはもう単なる部外者であり、傍観者であった。テストの時間配分を間違えて、途中で次のページに延々と質問があったことに驚いているのだ。解く時間は尽きる。ぼくはうっかりと見落とした。半分の解答で合格点を得られるように苦心している。追試というのは別れのあとには起こらないのだ。ぼくは、別れなど欲していたのだろうか。真実の愛は、映画や本などでは死が介在となって分岐点を迎える。いや、日常に別れは満載されているのだ。どちらも事実であり、どちらの事実もまた不満であった。

 コップに残された半分の水の例え。それすらも透明なケース越しに眺めて手が出せないのであれば、いかなる心理も、楽観さも悲観さも無意味な領域にただよっているだけだった。

リマインドと想起の不一致(33)

2016年06月01日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(33)

 秋の気配がエンジンを停止した飛行機のように、なだらかに下降している。もう当分、上昇することはなく、春まで許されない約束であろう。その月まで羽根を休める気候だった。

 こんな感慨を抱いているのは、ひじりがいとこの結婚式のため、ある都市へ飛行機で向かったからだ。ぼくはまだその大きな物体に乗ったことがない。おそらく恐怖感という拒絶を促すものはないだろう。複数の人間を短時間で移動させる。役割としてはいたってシンプルなものだ。だが、その構造の一部もぼくはまったく知らない。今後もその知識は増えることはないだろう。

 ひじりはその儀式に値する、どういう格好をするのだろう。やはり、制服が妥当なのだろうか。いまの役割を脱ぎ去った彼女はどんなドレスが似合うのか。ぼくは想像をふくらませる。

 誰かと誰かが永遠に結び合わされる。基本的には。どちらかが先に死ぬまで。ぼくは希望が多いタイプでもないが、普通にそう考えていた。それを大っぴらにする機会がある都市で行われていた。ひじりもそこにいる。

 その仮定を信じると、ぼくはひじり以外の異性を好きになれないことになる。例えば、テレビに出ている女性タレントでさえ好みは無節操に変わる。自分というものは一定しない生き物なのだ。その思考やふらふらする思いを限定し、固定化させることはむずかしいだろう。そして実際、ぼくは別の女性を好きになりかけたことがある。

 だが、会えないとなれば恋しくなるのは当然だ。ぼくは都心の町をひとりで歩く。ひじりに似た後ろ姿を見かけると、前に回って正体を確認したくなる。そして、数人に対して、そうした行動を許可もなくとった。それとなく無関心を装って見ても、はっきりと意図的に見ても、対象は急変してひじりになることなどない。彼女は世界でたった一人だけなのだ。

 都会の上空はうすぐもりで、飛行機など一つも見かけられない。車だけが無数に往来している。信号待ちの人間は数えられないほどいる。ここで知人の誰かと遭遇することなど不可能な気がする。ぼくはその確率を度外視させる誰といったい会いたいのだろう。友人か? それとも、未知なるこれからという可能性を埋没させている親友予備軍か。ただ、現在のひじりだけなのか。信じるべき身体をもつ夢想を排除できるひじりだけを。

 ぼくは服を買ってハンバーガーを食べる。東京の十六才。愛想の良い店員は同じ年ぐらいだろうか? ぼくは地元を憎みながらも心底では愛しているようだった。親の家とは別のところで、いつかひじりと暮らすとしたらどこが良いだろう。広い芝生がそばにあり、鳥がさえずる環境。排気ガスも騒音もなく静けさが恩着せがましくなく覆うところ。上品な会話を修得して。

 ぼくはレコード屋に寄る。聴いたこともないものは好きになれるかどうかも分からない。店員は格好良い服装をして、髪型も周囲と異質であることを主張しながら、とても本人に似合っていた。ひじりは、ああいう異分子を好むだろうか。

 ぼくは本屋で一冊の文庫本を買い込み、帰りの地下鉄で最初のページを開いた。一人でできること。二人でする行為。複数の友人が集い楽しむスポーツ。ぼくはシャイであり、図々しかった。欠点があり、長所もどこかに隠れていそうだった。飛行機もいつかの未来に乗り、外国語で誰かと会話をするかもしれない。必要にせまられなくても。車の免許も数年後には手に入れるだろう。可能性は卵料理のように無限だった。未来に取り分が多いぼくは断じて子どもでもなく、かといって大人でもない中途半端で煮え切らない、ただ恋人と会えない男の無言のひとりごとを示した一日であった。