爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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当人相応の要求(7)

2007年01月30日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(7)

 例えば、こうである。
 球を投げて、棒で打ち返すという競技がある。少年時代に、彼はそれに熱中する。
 それから、数年も経ち、彼はその競技を自分ですることはしない。だが、それをテレビで見ることは好きである。たまには、そのスポーツ自体に哲学を感じたり、人生で訪れる成功に酔うことや、失敗にくじけないという生活自身を投影したりもしてみる。
 彼は、知っている。そのアメリカとカナダの一部で行われている大金が動く、声援を受ける競技に、ある日、日本人が活躍する日が来ることを。そのはじめは、ピッチャーであることも知っていた。だが、その選手は無名のうちにアメリカに渡り、マイナー生活を経験し、その後、皆に知れ渡るという過程を経ていくはずだった。彼のこころの中では。
 だから、日本のパリーグのエースがその役割を担うとは思ってもみなかった。
 その選手、ドジャー・ブルーのユニフォームで、トルネードと名付けられた投法。
 1968年生まれ。江戸の終末からおよそ100年。
 ニッポンに文化が訪れる。ベーブ・ルースを通して。
 その大選手。ボストン・レッドソックスでは20数勝もあげる大投手だった。だが、野手として頭角をあらわすもニューヨークに移る。「バンビーノの呪い」
 アメリカの多様な人種を許容する文化は、世界中に広まるように出来ているのだろうか。
 その選手は1934年に日本に来ている。対するのは沢村栄治。
 主人公の彼は、子供の頃、物語を読む。戦争の犠牲者としての沢村。大人になって、一度の軍隊入りではなかったことに驚く。数回、沢村投手は戦地に出向き、役に立たなくなると所属球団は、あっさりと見切りをつける。現在の球団のように。
 14という数字の物語。敗戦の8ヶ月前に、その投手は27で人生を終える。
 そして、敵性の代名詞としてのスタルヒン。外国人投手。ロシアからの亡命で、本来は無国籍の人間だったと彼は、知る。無国籍の人間が、どのようにして敵性になれるのだろう。
 それから、61年後の1995年のロスアンジェルスに表れた勇姿。
 人は、すべて誰かの身代わりである。その前にいたハーシハイザーという優れた外科医のような容貌をもつ投手。彼が抜けた青いチームには、ぴったりの救世主のように思える。
 だが、彼が見た歴史の中で最高のベースボールはハーシハイザーとマダックスの投げ合いだった。彼らこそが、そのスポーツの栄光を一身に受けるべき選手たちだった。ワールドクラスという陳腐になりはじめた名称に真に値する勝負があった。
 日本人に戻る。そのドクターKという人物は黒澤映画の用心棒のように他球団を渡り歩く。誰もが成し遂げて、手に入れたいノーヒッターという勲章を自分のものにする。時差のある地で、彼も熱狂する。自分が、努力して勝ち取った結果のように。まあ、それがフアンというものだろう。
 彼は、西海岸に行く。ドジャー・スタジアムの横を通り抜ける。さらに別の地にも行く。ネオンの洪水のようなギャンブルの町で、長谷川という投手を、スロットマシーンの横の巨大なテレビで、目にする。人工的な遊園地の近い町で、その投手は、どれだけのものに敵対し、どれだけのものを味方につけているのかと考えたら、彼は途方にくれだす。また、人間ひとりの力にも勇気づけられる。結局、意志があれば、人間なんてどこにいたって、自分の思い通りに人生を転がせるのだ、との確信を抱いて。
 日本車が輸出されるように、それからは、守備やバッテイングでも、中南米だけではなく、東洋からも人間が入り込む。それから、数年が経つと、一人の選手の身柄を拘束し、交渉する値段として60億円という破格の金額が動く。バンビーノがいないチームで。だが、驚くには至らない。その国家は、中東で、同じように一人の人間を拘束し、命を操るのに、それ以上の金額と、多くの人数をかけているのだ。だが、彼は思う。武器を広めに行くぐらいなら、(世界を不安に陥れる武器を使わないようにすることが大前提であったはずだが)ベースボールを中東にも普及させた方が、どんなに人間の(一時、野球に熱中したことのある)心には、自然だろうかとも思う。
 彼は、街を歩く。親子でキャッチボールをする姿を、さわやかさの、また幸せの象徴のように感じる。さらに、あの国家のフィールド・オブ・ドリームスという名作を心の中に投射する。

当人相応の要求(6)

2007年01月24日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(6)

 例えば、こうである。
 彼は、物語を書くことに熱中する。たくさんの本を愛おしく読み、その内容を溜め込んできたからなのか。それが、出口を求めて右往左往してきたのだろうか。それとも、ある種の嘘を含んだ中味にこそ、真実を注ぎ込めることを知ったからなのか。
 文章で冒険をすることは可能だろうか。そう考えていくと、登場するのが、「イタロ・カルヴィーノ」という小説家。
 当然のように、本を開いて読み始めるというスタートがあり、起伏があって、ゴールに達するということが物語なら、その興味を奪われてしまう「冬の夜ひとりの旅人が」というこの小説家の手腕。そして、彼も、その途中で挫けてしまいそうになるが、それ以上に冒険的な面白さに圧倒されていく。結末に、読者は達せないのである。
 まだ、すべてを知っている訳ではない。彼の成長の途中で出会えた稀有な才能。彼は、文庫を手にする。「むずかしい愛」という題名の短編集。さまざまな小さな心の人たちの等身大の気持ちのずれ。場所は、イタリア。夕方、食事の前などに広場を散歩するのが習慣になっていた民族。故郷に戻り、眼鏡をかけて歩く主人公。意中の人に会うが、眼鏡姿の彼に気づかない。広場の反対に突き当たって、戻ってくるときは、眼鏡をはずしている。その場合には、視力の所為で、その女性が自分に気づいたかの判断が出来ないでいる。そのちょっとした憂鬱な気持ちを、多少の滑稽さをまじえて筆にする。彼は、その本をいたく気に入り、その当時、好きになりかけた女性にきれいな時計とともにプレゼントする。その結末は、やはり多少の滑稽さを含んでいたりする。
 さらに、人生のまっとうな枠からはみ出しているような「パロマー」という主人公の小説。世界との関係性を感じて生きていきたいような気持ちもありながら、どうしてもしっくりいかない人を、その小説家は書く。20世紀の芸術の悲劇? ネタはすべて出尽くしてしまっているのか?
 同じ頃、彼は旧ソ連のソルジェニーツィンという作家を知る。「仔牛が樫の木に角突いた」という自伝的な物語。どうしたら、こんなふうにガッツあるものが書けるのだろう、と彼は思う。だが、自分は生ぬるい環境で生きていることも知らず。
 この作家の生い立ち。1918年生まれ。ロシア革命の翌年。その時代を、主人公の昭和生まれの彼は考える。レーニン的な考え方に影響されて、子供から大人へと成長していくのだろう。
 1962年、今なお残る「イワン・デニーソヴィチの一日」を世に出す。フルシチョフが失脚すると彼の運命も変わる。
 1970年にはノーベル文学賞を受賞するもロシアから追放。歴史の名残のような名前、レフ・トロツキーという人以来の事件。国民とは認められない事実があるなんて。トロツキー、1879年生まれ、マルクス主義に感化され、レーニンと共に革命の指導者に。だが、レーニンが死んだ後、スターリンの勢いがある時代に彼は追われる。最後には、メキシコにてピッケルで後頭部を打ち抜かれ、そのまま亡くなる。
 彼は、恐ろしくなる。なにかを信じて行動するには、このような犠牲と覚悟とを胸にかかえ生きるのかと。物語を組み立てたいという気持ちが働いたが、その主義とさらにはカルヴィーノのようなテクニックを有していないことに気づき、あきらめるという気持ちが大きくなる。
 イタロ・カルヴィーノ。1923年生まれ。1985年の9月に亡くなっている。彼は、その頃、真剣に本を読み始めたばかり。当然のように、その作家の名前を知らない。だが、いまになると、その偉大さの前で敬服している。
 彼は、主義もなかった。どこかの寂れた陰惨な土地で流刑になったこともなかった。ムッソリーニという人の支配のもとで暮らしたこともなかった。もちろん、スターリン時代も理解できず、どんな営みが普通の人のまわりにあったのか見当すらつかない。
 だが、彼は物語を書きたいと思っていた。思っているだけで書かないことも多かった。彼の周りでは、時代を揺るがすような大事件も起こらなかった。
 そして、彼は寝そべり、本を手にする。大体の大事なことは、本の中味で追体験できるという事実を確信にかえて。緑豊かな公園でも、冬の寒い屋上のベンチでも、真の友情のように文庫を手にする。つづいて、まだ書かれない物語の構想を頭に思い描き。

当人相応の要求(5)

2007年01月22日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(5)

 例えば、こうである。
 彼は、地下鉄に乗る。主に通勤時の乗り物として。まったくの安全な輸送手段だと認め。
 誰もが、そう思っていた。ある事件が起こる前までと限定してよいのかもしれないが。
 歴史。早川徳次という日本人はロンドンで、1910年代に地下鉄を見る。すべての先見性のある人のように、その人物も日本にそのシステムを取り入れようとする。その結果として、27年に浅草から上野に地下鉄が通る。主人公の彼もその路線に乗ってみたりしたこともあった。
さらにさかのぼる。その元となったロンドンは、1860年には工事がはじまり、3年後の63年には開通しているそうだ。かつ、またモスクワではフルシチョフという人物が、モスクワに地下鉄を通し、レーニン勲章というものを貰っている。もちろん、政治でも有名なフルシチョフ。
日本は、近代化を遂げるにあたり、いくつかのモデルを探す。探せば、やはり期待通りの目標は出来るものである。
その乗り物という移動手段を通す道は、ある種の密室にもなるのである。乗り物自体も、トンネルの中という構造自体も。
人は、その中で眠る。時には本を読む。会話もするし、喧嘩もする。ときには誤解もとけ、また時には解決不能なぐらい、関係がこじれる場合もある、その電車の中で。
ただ、普通の営みというバックグランドにはもってこいの日常的な乗り物だということを、説明もいれずに利用しているはずだった。ああした事件が表に表れるまで。
 使われる薬剤。
 彼は、友人とローマの地下鉄に乗っている。A線とB線というシンプルな棲み分け。しかし、その横の地面には、ローマ世界の歴史的な遺産が眠っているのだ、という誇張した表現を借りて。
 その空調のあまり利いていない車内で、突然男女が密着する。それに目を向けていた友人の腰元には、見知らぬ手が延びている。すんでのところで、ファスナーが開くのを抑える。
「なにか盗られていたら、後々おいしい話が出来たのに」
 と、彼は身勝手なことを言う。
 友人は、それでも、当然のようにあせった声を出し、
「やっぱり、盗られない方がいいよ」と、ちょっと落ち着いた吐息まじりの言葉を出した。もちろん、あちらこちら、警察に届けたり、まったく無意味な労力を考えれば当然の結論に帰結する。
 彼は、何度目かに交際した女性と、電車に乗っている。デジカメが身近な時代にはなっていなかった。少しだけ、喧嘩になりそうな予感が二人の間にただよっている。その時、反対側の椅子には、お酒に酔った男性が、不自然な格好で、首だけを座席の上に残し、あとは宙に身体が浮いたまま、無理な姿勢で座っていた。彼は、そのことを誰に言っても信じてもらえず、写真に残しておけばよかったなと、度々思った。それよりも、その喧嘩の予感が、笑いに転換した方が、彼には大きかったのかもしれないが。
 彼は、そのような気持ちで地下鉄に乗っている。トラブルというのは、数分、電車が遅れるという程度の問題だということに留め。
 しかし、彼は、その日自宅に帰り、夕方のニュースを目にする。
 雑踏。救急車。リアルタイムの実況と、あとで知る話。
 解毒する方法。農薬系の中毒をなおす薬が用いられたと彼は、何かで読む。それは、病院内に在庫をたくさん抱えておくようなものではないので、関東近辺から集め寄せ、関係者は総動員で駆けずり回ったことを知る。
 一人の命をもののように扱いたかった人たちと、最善を尽くそうとする人たちのコントラスト。知識を、負の力に持っていってしまう人たち。
 彼は、安全な世の中に、自分は存在しているのかと疑問を持つ。もはや、どこにも、誰もが簡単に手に入れることが出来なくなってしまったのかと、冷たい嫌な汗を感じる。
 しかし、彼は今日も手擦りにつかまる。たまには新聞をひろげ、周りの人に配慮し、音楽を耳に突っ込みながら。もう、誰も日常の忙しさのせいなのか、その日が来て特集のテレビ番組でも放映されない限り、頭の中のトップに持ってくることもない。そして、ロンドンでも。

当人相応の要求(4)

2007年01月18日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(4)

 例えば、こうである。
 地面が揺れる。1995年1月17日。神戸。早朝。
 被害者(実際に命を失ったという意味で)およそ6500人。数字の統計のようになり、一人ひとりの個別の人生を見えにくくする数字の曖昧さ。もちろん個々の涙や喜びをすべて知ることもできない。
 壊れるもの、そして、残るもの。渡辺 節という建築家。商船三井ビルディング。イメージを物体化する人。その海外の視察というものを通した目の記憶の蓄積。
やはり年代に戻る。1868年、神戸港が開港する。玄関が出来たので、外から物資が運ばれる。そこには人間も文化も自然とついてくる。
その土地に生まれること。西洋社会の洗礼。
テレビ番組で映画を紹介することに徹した男性。主人公の彼も、その一徹な愛ある語り口に影響されたりもする。結局、20世紀の文明の紹介は映像を通してなのだろうか。それを多く観ること。人に話せるまでに溜め込むこと。ルキノ・ヴィスコンティの「センソ」を観てもいないのに、彼はその唇から出た言葉のつらなりで、すべてを堪能できた。
もう一人。原智恵子さんというピアニストがいたことを彼は知る。1914年生まれ。サラエボでは別の事件のころ。ルービンシュタインにも会って、教えを受けたということになっている。内陸(モンゴル的な)に住む人には考えられない、軽やかな飛翔。だが、彼は、その本物の音楽は聴いたことがない。
彼の友人もそこに住んでいたが、その土地の印象をきいても、足で歩いた場所しか記憶に残らない、彼の入り組んでいない頭の中には、クリーンにその土地の立体像が浮かばない。
地面が揺れる。大正12年(1923年)、関東大震災。9月1日。昼間。谷崎潤一郎という文豪がいた。それをきっかけにしてか江戸が残る地を去る。選んだ場所は神戸。そして、移住によってであるのか、彼の好きであったその耽美な世界に終止符が打たれてしまったのだろうか。それから、70年という歳月。地震の少ない地であったはずなのに。その文章の力で残した家も、地震の被害に遭ったということになっている。
壊れるもの。その作家の小説で描かれる象徴的な建物。凌雲閣。別名、浅草十二階。ウィリアム・バルトンの設計ということになっている。その時代にしては、高かった塔は地面の揺れにより崩壊。主人公の彼は、ノスタルジックな想いをもって、古い大正期のころの小説を読んだりもする。かび臭い古い書籍のかびの生えたような風景の残像を見つけて。また、西洋的な人種ではない人への排他的ないやがらせ。風聞。
ウィリアム・バルトン。1887年(明治20年)に来日。東京やメインである都市の上下水道を作った人とされているらしい。つまりは生命の産物は水ということか。その人物は31歳で日本に足を踏み入れ、43歳で故国であるスコットランドに戻ることもなく東京で亡くなっている。
そして、残るもの。がんばろうKOBE。復興。そのシンボリックなスポークスマンという役目を果たしたスポーツ界のスーパースター。仕事が終わったかのように、シアトルの左打席のバッターボックスが似合う男に変わる。
その前身チーム。1065もの盗塁をした男。快速。一年間に106もの次のベースへの到達。しかし、さらに上に行く人間もいるものだ。リッキー・ヘンダーソン。年間130盗塁という驚異的な数字を残す。
海に憧れる生き物たち。開放感。こころが前に広がったときにだけ訪れる無限の喜び。マルコ・ポーロ以来の旅立ち。神戸港、入り口と出口。かもめの声。地震の際は、外から物資を入れるという役目ができなかったらしい。
追悼の気持ち。6500本のローソク。
亡くなった人間。それぞれの記憶。また、亡くなった人を思い出すことが出来なくなる記憶の曖昧さ。
地面が揺れる。新潟。そして、世界のあらゆるところで。
人間という個体のあっけない終末。永続しないものへの憧憬。最終回を迎えない夜と早朝。


当人相応の要求(3)

2007年01月13日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(3)

 例えば、こうである。
 揺るぎないジャッジ。一切の移ろいゆかない基準の実証と、それを守ることに身をゆだねる行為。
 昭和20年(1945年)に、コーンパイプとレイバンのサングラスという装備の救世主の出現。そして、アメリカへの深い憧憬。物の文化。簡易な、肉をパンに挟んだ食事と、黒い炭酸飲料。
 彼の成長もそれに引きずられる。映画館を通しての、ハリウッド文化。Tシャツとジーンズ。膝の上に置いてあるポップコーン。世界を覆うのは、目の刺激を通してなのか。
 しかし、もっと揺るがないものに憧れたりもする。1549年のポルトガル経由の人物。信じていることを人に伝えるという難しさ。それを、最初に日本にもってきた人。その人の熱意や喜びや、絶望(あったとして)あきらめ(それも、あったとしての仮定だが)を、彼は知らない。だが、その分厚い、ある人々の教科書を、ページが指で汚れるのもかまわずにめくる。ニューヨークを舞台にしたユダヤ系映画監督の作品の中のセリフ。
「ヨブのように貧乏だよ」
 彼は、それを観ながら、ちょっと困った。一体、何のことを言っているのだろう? ヨブを探す旅。ある短編小説という大まかな括りというかカテゴリーに閉じ込めても、最高の出来であるもの。その主人公の名前であるヨブ。バスター・キートンのコメディー映画に出てくるようなトラブルの数々。保険のない世界。それにも関わらず、主人公の傑出したいさぎよさ、とあきらめない気持ち。450年の深み。でも、その土地に行って、村人の中をさまようより、あっさりとフイルムを通しての方がインパクトがあるのだろうか。
 否定すること。生き方を、簡単な言葉を使えば反省し、ハンドルを切り替える作業。間違った道を進んでいたことに気づき、地図を求める作業。そして、実際に生きているモラルある、またたまには悩む人間の目の前のお手本と真似る行為。
 ルドヴィコ・ガルニエという人物。明治になり、それまでは上方から許されていない、ある一つの信じるとか忠誠であるということが解禁になる。許される前の記念碑。歩くたびに、気をつけてしまうほど、踏むという普通のアクションのうちに行わなければならない、その階段の地面にも彫り込まれたシンボル。天草という外国との交渉の多い地方に、明治25年に現れた清貧な人。
 それとは別に主人公である彼も、悩みを抱える普通の、青春の終わりに差し掛かっている。人生には、分かれ道があるのだろう。シンプルに生きるか。それとも、手垢にまみれても通常の人々の生活。人は、パンだけによらない。
 歴史の記述。1991年1月17日にアメリカは、どこかの湾岸にミサイルを向ける。彼は、その辺りから、アメリカへの憧れと縁を切ろうと思い始めたのだろうか。結局は、世界の小さな国の片隅での信じるという行為は、まったくの無意味であるのか。
 でも、夢中で探す旅。もしかして、地球のどこかに、いや違う、宇宙のどこかに信じるという傍迷惑な気持ちを受け止めてくれる対象があるのかもしれない。彼は、ページをめくる。疲れた人、こころに負担を感じている人、インバイティング。
 彼は、現世での成功をあきらめようとも思ったりもする。しかし、成功する要素や、一部リーグにも入っていないことにも気づかずに。死んでしまう前に、なにかの確信の糸口さへ掴めれば、それで成功の部類だと考えることが出来るなら。
 だが、スニーカーが地面に着いている以上、彼も現世の魅力から離れられないでいる。それも当たり前のことである。信じる扉は、いつでも開かれているのだろうが、それよりも大きな吸引力がある現在の生活。金銭の重み。それを集めることに日々、没頭しなければならない生活。省みられない、陽のあたらない心の中。
 肩を叩くもの。肌に触れるもの。女性の長い髪と爪。それが、かれをこの地上にとどめる。笑顔を見たくて、必死につく嘘。
 結局は、揺るがないものより、年月によって、変わっていく人間の小さな懐にともった異性への愛を、絶やさないように、消え入らないようにする日々。外国で聞く教会の鐘の音。それよりも、長いきれいなハイヒールをはいた足が、石畳の上を歩く快適な音の残響を愛しているのだろう。でも、それを誰が責める権利を有しているのだろう。ただ、彼に小さな幸せが訪れればと願うだけ。

当人相応の要求(2)

2007年01月12日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(2)

 例えば、こうである。
 マーラーの交響曲の第9番目の作品がある。1912年に皆の前で公表されたらしい。もちろん音楽として。それまでは、地上にないもの。発表されるのは、コンサートホールでなのか、どこかのサロンであるかは問題ではない。そこからかなりの年月を経て、日本での初演は、1967年ということになっている。55年の月日。その間に、音楽愛好家は、どういう形をとって、作曲家の残した形跡を楽しもうとしていたのか? レコードでか、その黒い円盤を通して、なにを聴こうとするのだろう。それも片面ずつ、連続したものとして受け取らずに。また、ある人々は楽譜を凝視し、やっと芽が出始めた小さな種の成長を待つように覗き込むかもしれない。だが、その頭の中で、作曲家の意図を汲み取り、音楽を立体的に再構築できる人間など、どれほどいるのだろうか。建築家のデザインに頭を抱える手の作業の多い職人のように、立体化できるのは、それほど、人数が多いとは思えない。
 そして、彼も音楽を熱意をもって吸収しようと、ふんわりとした居心地の良い椅子にすわっている。多少の期待をもって。また、抑えきれない眠気を抱えながら。だが、音楽を浴び、睡眠をとることも快適なことの一つである。
 作曲家は、どれほどの時間を有して、大作と呼べるものを作り上げるのだろう。約一時間のサービスのために、長い期間、楽譜の前に齧り付いているのかもしれない。
 楽器の鳴らし方。西洋の風土にあった音色。また、音楽で表現することの最終的な意味は、なんなのだろう。
 コンサートが始まろうとしている。数十人が、一つの音でチューニングしている。それを聴く耳は、完全に、受け入れる準備はできているのだろうか。音楽とは、結局は心の中に響くなつかしさの共鳴と増幅なのか。
 風土にあった旋律。各民族の民謡とも呼べる伝統的で、伝承的な音楽。その土台と、スポンジの層の積み重ねを通して、最後には一人の芸術家がデコレーションをして、名声を手にするのかもしれない。好奇心と、ある種の民族的な郷愁の解体を持ち込んで。
 彼は、その音を聴いて、最初なのでもちろん新鮮さも感じるが、心の中では、どこかになつかしさも甘酸っぱい息のように、胸の底からこみ上げてくる。涙の予感を含んだ、感動もこみ上げてくる。
 ある一人の、複雑な頭を通した、シンプルな音楽という回廊に足を踏み入れる。やっぱり、心を開けば音楽は、そう遠いものではなく、また難しいものでもなかった。
 彼は、薄暗い静かさが戻ったホールを後にして、外気に触れる。近くのビルに入っているCDショップで、その作曲家のいくつかの作品を学んでみたい気がする。しかし円盤は、円盤である。楽譜というたたまれたテントが、膨らんだようなを楽器の重なりの音色を通して、音波を通して、聴く音楽こそが最高のものだと実感する。
 そして、55年前にもどる。音楽を好きになりたかった人は、回転する円盤のもとに集まり、適当な参考書をもとにして、理解に努めていたのだろうか。その行為は、およそ研究的であり、生活に密着しているものとも思われない。現在の人々は、簡単に古いけど、新鮮にもなりえる音楽を耳にしようとしている。だが、まだ指揮者では世界に通じる人がいたとしても、その作るもとの人は、大威張りで自慢できるほどのクリエーターを持っていないのかもしれない。いや、彼の青春の途中には、イタリア人の映画監督が中国と日本の一部であった土地を舞台にした伝記映画で、かなりの栄光をつかんだ日本人もいた。
 だが、ロシア人のもつ情熱的で永続的で、かつ土着的で、洗練とは離れているかもしれないが、胸を打つ音楽があるということも、また事実である。1866年、チャイコフスキーが残した交響曲第1番「冬の日の幻想」が初演ということになっている。江戸の終わり。ロシアに住む28歳の青年。まだ、外国にカメラを片手に気軽に出掛けることのなかった日本人。
 彼は、感動をして家に帰ってきた。眠る前に、今日の音楽の響きを、頭の中で再現しようと思うが、それは、つかみどころもなく、いつの間にか空気の中に消えていた。日本に住む、当時28歳の青年は、その後、百年も経ってから感動をもたらすものは作ってはいない。