償いの書(88)
仕事から家に帰ると、裕紀はテレビの前で泣いている。テレビのドキュメンタリー番組を見ていて、アジアの少女が安い労働力として駈り出され、働かされている。それに憤慨し、また無力や絶望感をいだき泣いている。ぼくもカバンを置き、ソファの横にすわり、仕事のときと同じスーツ姿で後半を見た。彼女の涙は止まらず、ぼくもそれに同調した。たまたま、日本に生まれ、ぼくらは恵まれた生活を送ってきてこられた。今更ながら、高い教育を与えてくれた両親に感謝し、その途中で会うことができた友人や、素晴らしいひとびとからの愛情を思い返した。彼らの何人かは、ぼくのことを心配したり励ましてくれたりした。いつも、一緒にいてくれた数人にはとくに感謝している。それは、裕紀であり、また雪代でもあった。ぼくも彼女らの思い出があるならば、彼女らのこころのなかにもぼくは居座り続けるのだろう。そういう根本的な喜びをしらないまま、アジアのどこかで安価な労働の代償として、青春を奪われるひとびとがいた。でも、それはどこかテレビの向う側の話になりかねなかった。
「ごめん、ご飯にするね」
「いいよ、散歩がてらどっかで食べようか?」
「そう? なら着替える」
彼女はとなりの部屋に消え、数分後にでてきた。ぼくは、彼女の少女のころをそこに見つけようとした。まだ、誰も愛したことはなく、愛の対象は猫や犬や人形である、というような存在として。しかし、見つけられそうで見つけられなかった。時間は現在という体系に執着した。ぼくも、いまはそこだけにいた。
「どこにする?」彼女は後ろを向き、鍵を閉める体勢できいた。そういっても、ぼくらの町にそう選択肢があるわけでもなかった。数店舗のうちのどれかだった。
「あそこでいいよ。パスタとサラダがあれば」
彼女は手をつないできた。彼女はそういうことにずっと恥じらいを見せなかった。それは、ぼくらに子どもがいないせいだとも思えた。ぼくらは親という状態にならないことで、互いを必要とする関係に留まっているようだった。第三者は介入せず、ぼくらはお互いを見つめ合った。裏切ることはできず、それはたまにはしたが、ぼくらはずっと相手のことを優先させるようにできていた。
裕紀の指は、華奢であった。安価な労働力の餌食になることもなく、自分の語学で仕事を得ていた。ぼくは、いくつかの仕事とは無縁になりつつある資格があったが、どうにか、スポーツで得た体力と人間関係のもとで暮らせていた。ぼくの周りの何人かを浮かべたが、みな、それぞれの個性を生かすことが、そこそこにはできているようだった。
5、6分で店に着いた。ぼくらは座席に案内され、メニューを渡された。
「いまの子、見た?」裕紀はバイトの店員の方を見ながら、訊いた。
「見たよ。似てたね」
「やっぱり、そう思ったんだ」それは、ゆり江という女の子に似ていた。裕紀は彼女を幼いころから知っていて、ぼくは妹と同級生であった彼女に一時的に好意をもった。そのことを裕紀は知らず、ゆり江も決して話さなかった。ふたりの秘密であり、それは死ぬまでつづくのだろう。どちらも裕紀のことを愛しており、それゆえにぼくらはその気持ちであったものを押し殺した。
その似ている子が注文を取りに来て、ぼくは何品かを彼女に伝えた。裕紀は無言で、その子の様子を伺っていた。
「あんまりじろじろ見つめると、女性のことが好きなひとと間違われるよ」ぼくは、優しい口調で注意したが、もしかしたら見たかったのは自分の方かもしれなかった。
「ひろし君も見てたよ」
「それは注文する相手に失礼だからだよ」ぼくらは、似た人を見ただけで、さまざまな感情が芽生えることを知った。ぼくは、彼女との甘い瞬間やささいな喧嘩のことを。裕紀は、幼き日のゆり江のことを。
「結婚して、どうなったかな?」
「そうだね、楽しそうに暮らしているのかな」ぼくは、彼女が台所にいる姿を想像し、それは過去にあった時間でもあった。小さなアパートで、あの子はてきぱきと動いていた。彼女も自分の意思が生かせるところで暮らした。ある時はぼくを選び、ある時はぼくの未熟さをなじった。そして、料理を運んできた店員が、その姿と瓜二つであることに驚いた。
「ひろし君、どうしたの。なにか、あった?」
ぼくの動揺は隠せるようなものではなかったのかもしれない。いずれ、そのことを何十年後かに話してしまうようになるのだろうか。それは罪でもないが、自分のなかに閉じ込めておくのには段々と狭く、また苦しみを伴うようになってしまうのだろうか。裕紀には秘密を作りたくないというぼくの気持ちを正当化させるための言い訳だったのだろうか。ぼくは、茹で上がったばかりのパスタを口に入れ、そう考えていた。
食事も終わり、お会計もその子が担当した。裕紀は、「ごちそうさま」と言い、おつりを貰ったぼくは、「ありがとう」と言った。彼女はサービス券をくれ、「また来てください」と伝えてきた。ぼくは、あの小さなアパートでぼくを送ってくれたゆり江を思い出している。彼女は淋しげで、ぼくが雪代のもとに帰ることを恨みもせず、ただ真っ直ぐであろうとしていた。ぼくは、自分の過去の卑怯さに打ちのめされそうになり、だが、それをすべて知らない裕紀の指に自分の手が絡み付けられながら、また来た道を戻った。夜は、静かだったが、ぼくの頭は少しばかり騒いでいるようだった。
仕事から家に帰ると、裕紀はテレビの前で泣いている。テレビのドキュメンタリー番組を見ていて、アジアの少女が安い労働力として駈り出され、働かされている。それに憤慨し、また無力や絶望感をいだき泣いている。ぼくもカバンを置き、ソファの横にすわり、仕事のときと同じスーツ姿で後半を見た。彼女の涙は止まらず、ぼくもそれに同調した。たまたま、日本に生まれ、ぼくらは恵まれた生活を送ってきてこられた。今更ながら、高い教育を与えてくれた両親に感謝し、その途中で会うことができた友人や、素晴らしいひとびとからの愛情を思い返した。彼らの何人かは、ぼくのことを心配したり励ましてくれたりした。いつも、一緒にいてくれた数人にはとくに感謝している。それは、裕紀であり、また雪代でもあった。ぼくも彼女らの思い出があるならば、彼女らのこころのなかにもぼくは居座り続けるのだろう。そういう根本的な喜びをしらないまま、アジアのどこかで安価な労働の代償として、青春を奪われるひとびとがいた。でも、それはどこかテレビの向う側の話になりかねなかった。
「ごめん、ご飯にするね」
「いいよ、散歩がてらどっかで食べようか?」
「そう? なら着替える」
彼女はとなりの部屋に消え、数分後にでてきた。ぼくは、彼女の少女のころをそこに見つけようとした。まだ、誰も愛したことはなく、愛の対象は猫や犬や人形である、というような存在として。しかし、見つけられそうで見つけられなかった。時間は現在という体系に執着した。ぼくも、いまはそこだけにいた。
「どこにする?」彼女は後ろを向き、鍵を閉める体勢できいた。そういっても、ぼくらの町にそう選択肢があるわけでもなかった。数店舗のうちのどれかだった。
「あそこでいいよ。パスタとサラダがあれば」
彼女は手をつないできた。彼女はそういうことにずっと恥じらいを見せなかった。それは、ぼくらに子どもがいないせいだとも思えた。ぼくらは親という状態にならないことで、互いを必要とする関係に留まっているようだった。第三者は介入せず、ぼくらはお互いを見つめ合った。裏切ることはできず、それはたまにはしたが、ぼくらはずっと相手のことを優先させるようにできていた。
裕紀の指は、華奢であった。安価な労働力の餌食になることもなく、自分の語学で仕事を得ていた。ぼくは、いくつかの仕事とは無縁になりつつある資格があったが、どうにか、スポーツで得た体力と人間関係のもとで暮らせていた。ぼくの周りの何人かを浮かべたが、みな、それぞれの個性を生かすことが、そこそこにはできているようだった。
5、6分で店に着いた。ぼくらは座席に案内され、メニューを渡された。
「いまの子、見た?」裕紀はバイトの店員の方を見ながら、訊いた。
「見たよ。似てたね」
「やっぱり、そう思ったんだ」それは、ゆり江という女の子に似ていた。裕紀は彼女を幼いころから知っていて、ぼくは妹と同級生であった彼女に一時的に好意をもった。そのことを裕紀は知らず、ゆり江も決して話さなかった。ふたりの秘密であり、それは死ぬまでつづくのだろう。どちらも裕紀のことを愛しており、それゆえにぼくらはその気持ちであったものを押し殺した。
その似ている子が注文を取りに来て、ぼくは何品かを彼女に伝えた。裕紀は無言で、その子の様子を伺っていた。
「あんまりじろじろ見つめると、女性のことが好きなひとと間違われるよ」ぼくは、優しい口調で注意したが、もしかしたら見たかったのは自分の方かもしれなかった。
「ひろし君も見てたよ」
「それは注文する相手に失礼だからだよ」ぼくらは、似た人を見ただけで、さまざまな感情が芽生えることを知った。ぼくは、彼女との甘い瞬間やささいな喧嘩のことを。裕紀は、幼き日のゆり江のことを。
「結婚して、どうなったかな?」
「そうだね、楽しそうに暮らしているのかな」ぼくは、彼女が台所にいる姿を想像し、それは過去にあった時間でもあった。小さなアパートで、あの子はてきぱきと動いていた。彼女も自分の意思が生かせるところで暮らした。ある時はぼくを選び、ある時はぼくの未熟さをなじった。そして、料理を運んできた店員が、その姿と瓜二つであることに驚いた。
「ひろし君、どうしたの。なにか、あった?」
ぼくの動揺は隠せるようなものではなかったのかもしれない。いずれ、そのことを何十年後かに話してしまうようになるのだろうか。それは罪でもないが、自分のなかに閉じ込めておくのには段々と狭く、また苦しみを伴うようになってしまうのだろうか。裕紀には秘密を作りたくないというぼくの気持ちを正当化させるための言い訳だったのだろうか。ぼくは、茹で上がったばかりのパスタを口に入れ、そう考えていた。
食事も終わり、お会計もその子が担当した。裕紀は、「ごちそうさま」と言い、おつりを貰ったぼくは、「ありがとう」と言った。彼女はサービス券をくれ、「また来てください」と伝えてきた。ぼくは、あの小さなアパートでぼくを送ってくれたゆり江を思い出している。彼女は淋しげで、ぼくが雪代のもとに帰ることを恨みもせず、ただ真っ直ぐであろうとしていた。ぼくは、自分の過去の卑怯さに打ちのめされそうになり、だが、それをすべて知らない裕紀の指に自分の手が絡み付けられながら、また来た道を戻った。夜は、静かだったが、ぼくの頭は少しばかり騒いでいるようだった。