流求と覚醒の街角(20)タオル
奈美が帰ってくるのに時間がかかった。理由は河口で珍しいカニを見つけたからだと言った。それを描写するのが難しく後で帰りに見に行こうと誘われた。奈美は新しく買った傘をもう差し、借りたほうは閉じていた。どこかの骨が折れているのかその姿はどこかでいびつだった。店員の女性は奈美にタオルを無言で差し出した。それから、「大変だったね」という意味の言葉を地元の表現で発した。
ぼくらは食堂の会計をすませ、身体を寄せ合い雨を避けながら河口を目指して歩いた。もともとその河を越えなければ泊まっている場所にたどり着けなかったので、遠回りという訳でもなかった。
「このあたり」と、奈美は言ってぬかるんだところを指差した。ぼくらはそこに降りたが、生き物らしきものは見当たらなかった。ただ、その名残りの穴がいくつも開いていて、たまにあぶくが下から浮かんできた。
「いるんだろうけどね」とぼくは言う。眠い朝に目覚ましで起こされる不快さをぼくは思い出している。彼らにも安眠を。
「雨のほうが活動的になるのかな?」
「さあ。夜中の寝静まったときに行動するのかも」
「夜型」
「そうかもね。プログラムされてるものは変わらないから」
結局、奈美が見たものは確認できなかった。彼女の見たいくつものものもぼくは共有することができなかった。反対にぼくが経験し、また痛みをともないながら学習したものもきちんと正確な形や大きさで伝達することも不可能に近かった。最初から、形などないものかもしれない。ぼくは傘のしたにいながらそうしたことを考えていた。
雨はなかなか止まず、ぼくらは部屋のなかで過ごすことを余儀なくされる。ぼくはシーツもめくらずにベッドの上に横たわる。眠りは遠い波から段々と足元を浸し、さらに首もとまで押し寄せてくるようだった。うとうとする。現実と、別の世界の中間点にぼくはただよう。
「シャワー浴びてくる。身体がべたべたする」
そう奈美は言って、扉を閉めた。水が流れる音もかすかにしか聞こえない。ぼくはより一層、現実味を失い幻想の世界に迷い込む。
前の女性とも旅行に行った。ぼくらは若かった。だから、はじめてすることが多いという事実につながる。前例はない。これも新鮮。あれも新鮮というシンプルな範疇にいつづける。そう思っていた。その同じ意味合いで大事なものや貴重なものの永続性も無視していた。いや、無視ということは知っていながらもあえて拒否する能動的な意図があるようだった。ただ、つづいていくという漠然とした安心感があったのだ。急カーブもなく、線路が途切れることなども知らない。なので、解決すべき議題もない。
問題がもちあがりながらも、ぼくらには永続性の透明な約束があったのだと思っていた。それは言葉として残す必要もなく、証明する書類もいらなかった。明日も太陽がのぼり、月が顔を出すという運行といっしょで。
いっしょにした経験のいくつかが彼女を失っても当然のこっている。その若い女性もこのようにシャワーを浴びて一瞬消えたはずだ。きつい化粧などする年代でもなかった。前後で印象がかわるということもない。ぼくは高校生の彼女すら知っていたのだ。その成長の過程を日々、刻々と自分の頭は意識もせずに記憶し続けていたのだ。だが、ある日からは知らない。そのスペースは真空のなかのように清浄に保たれている。子ども同士の恋愛のように。
奈美との関係に醜さがある訳でもない。だが、ぼくらは大人になってから知り合った仲なのだ。過程というものを知り尽くすことはできない。彼女は完成されつつある感情をもち、ぼくも何かを変更するとか、そもそも仕事や大学を選択するという立場にもいなかった。遠い未来も計算しようと思えば、計算できた。その生涯での差も、それほど大きくない単位で予測できた。
20数分もすると扉が開く音がした。ぼくは出てくるのがどうしても前の女性であると決め付けていた。彼女の方が好きだったという訳ではないのだろうが、最初の経験であったため原始的な壁画のようにぼくの深いところに刻み付けられてしまっているのだろう。誰が発見することもないのだが。
「眠っちゃってたの?」
「そうでもないけど、やっぱり、昼に飲むビールは効くね」
「夜ご飯、どうしようっか? このまま雨が降りつづけたら」
「このホテルの前に店があったじゃん。あそこは?」
「ひなびたところばっかり行ってる気がする」
「そういう場所なんだから、仕方がないよ」ぼくは前の女性に対して、そうした言葉を吐いていたのか自分を点検した。でも、実際はよく分からない。ただ、雨に見舞われた経験というのを思い出すのがなかなか難しかった。ぼくはのびをして窓辺に近寄り、薄いカーテンをひっぱって窓を開けた。
「きちんと服、着てないんだけど」奈美はそう告げる。大きなタオルにくるまれた格好で。
「外にはなにもないよ。見えるのは曇った空だけ」
すると彼女もそのままの格好で窓辺に近づいた。ぼくは彼女の首を見る。骨の数も多分、同じ。筋肉の呼び名も等しい女性たち。だが、ふたりは確かに違かった。その差異への対応にぼくは戸惑っている。しかし、正確に突き詰めれば、困難さを時には引っ張り出そうとしているのだ。わざわざ藻掻こうとしている。足をわざとつらせてプールに飛び込む。その結果などには無頓着で、いまのぼくは目の前にあるものだけを大事にしようとした。またそれもどこかで手抜かりがあるようだった。
奈美が帰ってくるのに時間がかかった。理由は河口で珍しいカニを見つけたからだと言った。それを描写するのが難しく後で帰りに見に行こうと誘われた。奈美は新しく買った傘をもう差し、借りたほうは閉じていた。どこかの骨が折れているのかその姿はどこかでいびつだった。店員の女性は奈美にタオルを無言で差し出した。それから、「大変だったね」という意味の言葉を地元の表現で発した。
ぼくらは食堂の会計をすませ、身体を寄せ合い雨を避けながら河口を目指して歩いた。もともとその河を越えなければ泊まっている場所にたどり着けなかったので、遠回りという訳でもなかった。
「このあたり」と、奈美は言ってぬかるんだところを指差した。ぼくらはそこに降りたが、生き物らしきものは見当たらなかった。ただ、その名残りの穴がいくつも開いていて、たまにあぶくが下から浮かんできた。
「いるんだろうけどね」とぼくは言う。眠い朝に目覚ましで起こされる不快さをぼくは思い出している。彼らにも安眠を。
「雨のほうが活動的になるのかな?」
「さあ。夜中の寝静まったときに行動するのかも」
「夜型」
「そうかもね。プログラムされてるものは変わらないから」
結局、奈美が見たものは確認できなかった。彼女の見たいくつものものもぼくは共有することができなかった。反対にぼくが経験し、また痛みをともないながら学習したものもきちんと正確な形や大きさで伝達することも不可能に近かった。最初から、形などないものかもしれない。ぼくは傘のしたにいながらそうしたことを考えていた。
雨はなかなか止まず、ぼくらは部屋のなかで過ごすことを余儀なくされる。ぼくはシーツもめくらずにベッドの上に横たわる。眠りは遠い波から段々と足元を浸し、さらに首もとまで押し寄せてくるようだった。うとうとする。現実と、別の世界の中間点にぼくはただよう。
「シャワー浴びてくる。身体がべたべたする」
そう奈美は言って、扉を閉めた。水が流れる音もかすかにしか聞こえない。ぼくはより一層、現実味を失い幻想の世界に迷い込む。
前の女性とも旅行に行った。ぼくらは若かった。だから、はじめてすることが多いという事実につながる。前例はない。これも新鮮。あれも新鮮というシンプルな範疇にいつづける。そう思っていた。その同じ意味合いで大事なものや貴重なものの永続性も無視していた。いや、無視ということは知っていながらもあえて拒否する能動的な意図があるようだった。ただ、つづいていくという漠然とした安心感があったのだ。急カーブもなく、線路が途切れることなども知らない。なので、解決すべき議題もない。
問題がもちあがりながらも、ぼくらには永続性の透明な約束があったのだと思っていた。それは言葉として残す必要もなく、証明する書類もいらなかった。明日も太陽がのぼり、月が顔を出すという運行といっしょで。
いっしょにした経験のいくつかが彼女を失っても当然のこっている。その若い女性もこのようにシャワーを浴びて一瞬消えたはずだ。きつい化粧などする年代でもなかった。前後で印象がかわるということもない。ぼくは高校生の彼女すら知っていたのだ。その成長の過程を日々、刻々と自分の頭は意識もせずに記憶し続けていたのだ。だが、ある日からは知らない。そのスペースは真空のなかのように清浄に保たれている。子ども同士の恋愛のように。
奈美との関係に醜さがある訳でもない。だが、ぼくらは大人になってから知り合った仲なのだ。過程というものを知り尽くすことはできない。彼女は完成されつつある感情をもち、ぼくも何かを変更するとか、そもそも仕事や大学を選択するという立場にもいなかった。遠い未来も計算しようと思えば、計算できた。その生涯での差も、それほど大きくない単位で予測できた。
20数分もすると扉が開く音がした。ぼくは出てくるのがどうしても前の女性であると決め付けていた。彼女の方が好きだったという訳ではないのだろうが、最初の経験であったため原始的な壁画のようにぼくの深いところに刻み付けられてしまっているのだろう。誰が発見することもないのだが。
「眠っちゃってたの?」
「そうでもないけど、やっぱり、昼に飲むビールは効くね」
「夜ご飯、どうしようっか? このまま雨が降りつづけたら」
「このホテルの前に店があったじゃん。あそこは?」
「ひなびたところばっかり行ってる気がする」
「そういう場所なんだから、仕方がないよ」ぼくは前の女性に対して、そうした言葉を吐いていたのか自分を点検した。でも、実際はよく分からない。ただ、雨に見舞われた経験というのを思い出すのがなかなか難しかった。ぼくはのびをして窓辺に近寄り、薄いカーテンをひっぱって窓を開けた。
「きちんと服、着てないんだけど」奈美はそう告げる。大きなタオルにくるまれた格好で。
「外にはなにもないよ。見えるのは曇った空だけ」
すると彼女もそのままの格好で窓辺に近づいた。ぼくは彼女の首を見る。骨の数も多分、同じ。筋肉の呼び名も等しい女性たち。だが、ふたりは確かに違かった。その差異への対応にぼくは戸惑っている。しかし、正確に突き詰めれば、困難さを時には引っ張り出そうとしているのだ。わざわざ藻掻こうとしている。足をわざとつらせてプールに飛び込む。その結果などには無頓着で、いまのぼくは目の前にあるものだけを大事にしようとした。またそれもどこかで手抜かりがあるようだった。