爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(70)

2013年05月30日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(70)

 ひとり以上の存在になりかけている妻は、今日も化粧をして仕事に出かける。九月の朝はまだ暑かった。
「じゃあ、いってらっしゃい。気をつけて」
「ママ、いってらっしゃい」由美はなぜだかもじもじしている。「ママ、赤ちゃんの名前、わたしがつけてもいい?」
「それは意見を出し合って、家族で会議をして、採用を決めるから、由美も考えてくれる?」妻は、もう職場モードに切り替わっていた。
「うん」
「病院の予約をしておくよ。電話で」
「お願い。じゃあ」ぼくは、彼女のかかとのある靴を急に危険なものと感じていた。ある情報を得たことだけで簡単に優しい夫になるものだった。

 娘はランドセルの中身を確認している。宿題が入っている。この夏の成果。娘がそれを背負って玄関を出ると、となりの家の久美子もちょうど通学する時間だった。こんがりと日焼けした彼女。加藤くんは、うかうかしていられないのかもしれない。余計なお世話だが。
「由美ちゃん、また、学校だね。これで、また友だちとも毎日会えるね」
「久美子ちゃん、わたし、もう少し経ったら、弟か妹に会えるの。内緒だよ」
「名前はまだない」父は過去の小説のフレーズをふと口ずさむ。

「ほんと? おめでたいのね。うれしいでしょう?」
「うん。でも、弟ってどっから来るの?」単刀直入な質問。由美だからこそ許される。
「久美子ちゃんは知らないよ。まだね」
「どうして?」子どもの疑問には、きちんと答えなければならない。親としてのけじめ。
「どうしてか分からないけど、まだ大人じゃないからね」ぼくは久美子を見る。赤面が分かるほどの色の白さを彼女の肌は有していなかった。
「由美ちゃんの次に、わたしにも抱っこさせて」久美子はそう言って自分の通学バッグを両手で抱えた。

「いいよ。久美子ちゃんも名前の候補を考えたら、会議に入れてあげる」
「会議?」彼女は笑って、いつものように自転車にまたがり颯爽と消えた。妻の数年前もあのような姿だったのだろう。愛する両親のもとで。意固地な間柄になる夫の存在もしらず。
「途中まで送っていくよ」ぼくは由美の背中からランドセルを奪い、片手にぶら下げて歩いた。「ふたりだけの夏休みも終わり」
「来年は赤ちゃんがいるんだね?」
「いるんだろうね」

 家と学校の中間ぐらいまで歩くと、由美のまわりには数人の同級生がまとわりついた。それを合図にぼくはランドセルを彼女に返した。それからしばらく見送って、また家までの道を歩いた。

 ぼくは、静かな室内でパソコンの電源を入れる。いつもよりモーター音が人気のない空間に響いているようだった。これからは、物語も快適に、順調にすすむ予定だった。昨日までの目論見としては。だが、ぼくはぼんやりとする。パソコンの画面はいつまで経っても動かない。しばらくしてぼくは履歴書のフォーマットをダウンロードして、自分の過去の経歴を入力した。三つほどの公立校に進学して、大学を卒業する。就職して、長くもない期間でその会社を退職する。それが数年前。直近のこの数年間は空白だった。忘れられた人間。

 ぼくは新たな仕事の採用へ到る面接の場面を想像する。この数年間はいったい何をしていたのかと冷徹に問われる。我が大作のことを説明する。ベン・ハーやクレオパトラみたいな豪華絢爛な自分の作品の軌跡。ワイド画面。

 念のため、その未完の経歴をプリント・アウトした。間もなく二児の父になるのだ。生活が大事だ。

 だが、ぼくには市で主催する講座もあった。我がクラス。その生徒たちとの接する時間はぼくにとって貴重なものであり、無碍に投げ出すこともできない。責任の放棄は、世界でいちばん卑しいものだ。そこに埋もれた才能がいるのかもしれない。

 気を取り直して、ぼくは印刷された紙をしまい、病院に電話をした。産婦人科に電話する。症状を訊かれる。検査のことを話す。もちろん、病気でもない。なんとか予約を取り次げるが、きちんと結果がでる山場は数ヶ月もあとのことだった。ぼくの物語と同じだ。

 マーガレットは家のカギを閉めた。それがきちんと成されているかどうか確認するように母も取っ手をひねった。港まで少し距離がある。途中で留守の間、家を管理してくれる現地のひとにカギを渡した。それから、一年間の管理料も手渡した。

「また、来年に来られるのを首を長くして待っています」と、陽気な奥さんは軽やかに言った。背中には数人の子どもたちが人見知りするように母の後ろに隠れていた。

 ふたりはそれから無言で歩く。過去には父がいて、未来には夫がいる道なのだ。マーガレットにとって。母には過去だけが大きくなり、将来は同量ほど待っていてはくれない。レナードが絵を寄贈した酒場がある。早朝の時間にはまだ誰もいないらしかった。もう一度、マーガレットは見たいと思ったが、それは叶わなかった。来年もきっとあそこにあるだろうと期待を膨らますことにした。母は日傘を出した。マーガレットの左手には自分の肖像があった。もし、可能であるならばこの絵の自分にもこの風景を見せたいと思った。

 ふたりは乗船する。誰か見送ってくれるひともいない。だが、マーガレットは振り向いて、陸を見下ろす。なにもないようでありながら、そこにはいままで自分に向けられたすべての視線があるような気もしていた。船は陸から離れる。具合いの悪いおじいさんの咳のような音を出している。母は傘をたたんだ。マーガレットは海に視線を向けた。反対側の陸には自分の決断が招く未来が待っていた。怖いようでありながら、また、真摯な気持ちを呼び込む無限の生真面目さも、待ち受けるあの都市にはあるようだった。

(完)


夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(69)

2013年05月29日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(69)

 夏休みの最後の夕飯。妻の手にはケーキの箱があった。
「どうだった、夏休みは? パパを独占して楽しかったかな?」箱はオリンピックの聖火のように大事そうに娘に手渡される。
「半分以上は仕事をしていたから」
「パパも外で働いていたら、どっかに預けないといけなかったんだよ。友だちはたくさんできたかもしれないけど、それほど、自由ではなかったよ。ここにいるよりは」ぼくは、いつものようにグラスをふたつ用意してビールを注ごうとした。

「わたし、いらないのよ」
「そう。まだ体調悪いの?」
「しばらく飲まないことにしたの」
「何かの願掛け?」
「あなたは、まったくもって困った存在。どれほど鈍感にできているのかしらね」

 マーガレットも避暑地での最後の夕飯のテーブルにいた。やるべきことはなかったが、決めることはあった。その答えを見つけたような気もするが、正解かどうかも分からなかった。ひとりに待ち望んだような返事をして、ひとりには不本意な回答を与える。自分が彼らの要素を天秤にしているような不快な気持ちもマーガレットにはあった。だが、時期が早いか遅いかにせよ、いつかこのような事態に巻き込まれることが起こりえたのだろう。もし、起こらないとしたら、それはそれで女性として不幸のようにも感じた。だから、この決定も相応しい行程を踏み、収まるべきゴールに、なにかの意図によって導かれたものなのだと考えようとした。責任転嫁とも違う、もっと高尚な次元からの解決だと考えていた。

「由美は、この夏休みでお姉さんになった?」
「なったよ。勉強もしたし、泳げるようにもなったし、たっくんとも喧嘩しないで、譲れるようになったしね」
「その現場にいられないのは残念ね。でも、あとでその様子をパパから訊くから」
「筒抜けだね」
「珍しい言葉を知ってるのね」
「だって、お姉さんだもん」

 ぼくは空いたグラスに手酌でビールを注いでいた。泡が必要以上にできて、生き物のように白いものが膨らんだ。だが、グラスの縁からぎりぎりのところでこぼれずに済んだ。

「もし、弟とか妹とかできたら、もっと優しい面倒見のいいお姉ちゃんになれる?」
 ぼくの目の前にあった白い泡は急に遠ざかってしまった。「これは、過程の話ではないみたいだね?」
「なるよ。久美子ちゃんみたいなお姉さんになる。それで、縁日に弟か妹を連れて行って、金魚をあげる」
「突然、そんなに大きくならないのよ。ママのお腹で、もうちょっと由美に会うのに辛抱しなければならないから」
「もう、いるの?」由美はご飯を食べるのをやめた。ご飯がお腹におさまった瞬間、勝手に生き物に変更してしまうような不安感をもったらしい。

「それがね、いるのよ。検査したの」
「ほんとに?」夫というのは、いかに他人の身分のままで生活しているのだろう。
「金曜に簡易のキットで検査して、試しに今日も。ビンゴ。きちんと病院に行かないと分からないけど、まあね」
「そこにいるの?」由美は手にあるお箸で、お腹の部分を指した。「どっから来たの?」
「どこからかしら。賢いパパに訊いて」

「箸で指すのは行儀が悪いよ。そうだ、この喜ばしいニュースは両親にも教えてあげないと」
「実家で、昨日、もう話したよ」
「何だよ、夫がいちばん最後か」
「あなたは鈍感にできているのよ。ヒントは山ほどあったはず。もっと、興味をもってほしいものだわ」
「話の論点がすり替わってる」
「どっから、来るの? いつ、来るの?」由美はその問題に拘泥した。

 マーガレットと母はふたりで静かにご飯を食べていた。しみじみという表現がもっとも似つかわしい状況だった。どちらも話したい言葉がないわけではない。たくさんのものが準備されながらも、紐がからまってしまったかのように、糸口が分からないだけなのだ。皿とスプーンが触れるかすかな音がする。もっと耳を済ませると、夏にはどこに隠れていたのか、秋の虫がそとで次の季節の到来を静かに伝えていた。

「あなたを最初にここに連れてきたとき」母がまず話し出した。「水に足が浸かることも、とても怖がっていた。耳に水が入ったと言っては騒いで、二度と入らないと海を避けようとした」
「憶えていないわ」
「お父さんが、耳に密着する帽子を買ってくれて、それから恐れを取り除くように、いっしょに海に入ったの。あのひとは泳ぐのが得意だったから」
「それは、憶えてる」

「あなたも、自分の子ができたら、きっと、泳ぐことを教えてあげてね。きっとよ」
「うん」これが避暑地での最後の夜の会話だった。マーガレットは汚れた皿を重ね、流しに運んでいった。

 ぼくは呆然としている。きっちりと家族という枠の一員にはめ込まれてしまっていた。我が創作はなかなかすすまないのだが、意外と手は早いらしい。若い女性を贔屓にし過ぎるという非難の言葉も、真実ではなかったらしい。責められる謂われもない。妻を愛する芸術家。妻だけをイコンにしている目指すべきクリエイター。

「じゃあ、本当にお酒もおあずけだ。当分は」
「ママには、ご褒美があるの?」由美は、最後の一口を飲み込み、ケーキを要望した。
「赤ちゃんの元気な泣き声だろう」ぼくは、いつ銃を放ったのだろう? ビリヤードを突いたのだろう。男なんて生き物は謎に過ぎない。これが明日から学校に戻る一年生の少女に起こったことだった。その父親には、またもや二十年がかりの宿題がもちこまれたらしい。迂闊だった。しかし、顔はどうやらにこやかな方向に崩れかけているようだった。鏡がなくても、点検や確認をしなくても、それぐらいは分かる。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(68)

2013年05月28日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(68)

 ふたりと一匹で昼寝をした。我が家の小学生の昼寝に付き添うようになってから、これが習慣化してしまう恐れがあった。怠惰とは、なんと甘い蜜なのだろう。午後になり公園に行く。秋の気配はまったくない。強い日差しから守るため由美は帽子をかぶる。水沼さんが今日もいた。夏休みが終われば、ぼくらがここで会うこともなくなるのだろう。

「由美ちゃん、宿題終わったの?」

 すべり台を登る由美の背中に水沼さんが声をかけた。
「終わったよ。最後の日ぐらい、ゆっくり遊びたいからね」
「また、早起きして学校行かないとね」

「おばちゃん、たっくんが学校でいなくなったら、どうやって時間を過ごすの? 毎日、ここ来るの?」すべり台を楽しんだ由美はぼくと水沼さんの間に挟まるようにすわった。
「どうしようかしらね」
「パパは、いっぱい仕事をするんだよ。それで達成感があって、ご褒美をもらうの」
「いいわね」
「その前に昼寝の癖を直さないといけないけどね」
「それで、顔のほっぺたのところに床の痕みたいなのがついているんですね」

 ぼくは頬を片手で撫でる。それらしき手触りのものもあり、確認のために鏡でも見たかったが、この場ではどうすることもできなかった。
 マーガレットの母のナンシーはうとうとしていた。やがてドアを開ける音がして目が覚める。どこか、印象が変わったマーガレットが室内に入ってきた。それが首からぶら下っているものの所為だということにやっと気がついた。

「彼は旅立ってしまったわ」
「好奇心が旺盛な職業についてしまった結果ね。あなたは、エドワードさんについて、きちんと答えを用意しているんでしょうね?」
「うん。待たせてばっかりでは悪いので」それ以上、問い詰められるのを防ぐようにマーガレットは首飾りをつかんだ。
「それは?」

「彼がくれた」
「ああいう男性もいたのね。この齢になって、思い出を増やしてくれるとは思ってもみなかった」母は満足そうに言った。喪失感はかけらもなく、ただ清々しい表情だった。「毎日、決まりきった作業には向いていないひとたち」
「でも、同じ会社に通っていたお父さんで良かったんでしょう?」
「もう今更、他のひとの思い出にも変えられないし。それが、つまらないひとりの女性の歴史なのよ」

 母にはなつかしむ過去があった。マーガレットには溢れるほどの未来への期待と、ささやかな不安があった。
「ランドセルは何語、とここで質問をした宿題がのこっているんですけど、川島さん?」水沼さんの質問が数週間前の自分にもどす。
「そんな憶えもありますね。意外と執念深い性質ですね」
「女なんて、みんなそうよ。手に入れられないものに、我慢がならない」
「いろいろと満足いく生活でしょう。生活の心配もいらないほどの旦那さんがいるんでしょう。うちは妻の働きで家計が成り立っているようなものだから」
「そんなに卑下して。謙遜でしょう」
「事実は事実。頬や髪の寝癖ぐらい、事実」

 マーガレットは衣類をたたみ、荷物を整理した。見送った側の当人も間もなく、自分の家に帰る。マーガレットはエドワードとケンの両方から交際を申し込まれていた。その事実を忘れるようにレナードの面影を思いだしていた。荷物の端には肖像画が布で覆われていた。それも忘れずに家に持ち帰るのだ。

「お母さん、今年のここは楽しかった?」
「とても。あの画家さんにも会えたし、それにあと何年ここに来るかも分からないし」
「そんなに、心細いことを言わないで」それを強調するかのようにマーガレットはトランクのふたを思いっ切り閉めた。

 公園にいれば由美のスカートは汚れる。靴のなかにも砂が混入する。彼女は靴を脱ぎ、反対に向けて、見えない微小な砂粒を落としていた。
「パパ、疲れて、喉も渇いた。涼しいところで休みたい」
「じゃあ、ファミレスでも行くか」

 たっくんと水沼さんと別れて、ぼくらは木陰のしたを選んで歩く。宿題がある。大人にとっては、簡単に調べれば分かることなのだ。だが、両者に疑問が介在しつづける立場も、それはそれで悪くなかった。気にかかっていることが、相手との連結の証拠でもあるのだ。いったい、なにを考えているのだろう。

 店にはきょうも児玉さんがいる。
「川島先生は若い女性への贔屓がすごい、と母が言ってました」注文を終えると、クラスにいる母からの非難の情報をぼくに投げかける。
「筒抜けだね」
「パパ、筒抜けってなに?」
「壁も、遮断するものもなく、丸ごと相手に伝わっちゃうこと」
「悪いこと?」
「秘密も、隠し事もないと考えれば、そう悪い面ばかりでもないね。由美の素行や成績は先生からの連絡帳で筒抜けだった」
「悪いことみたい」
「秘密も大事だよ」意味もなくぼくはそう言った。
「そこそこにね」と、児玉さんの娘は言った。

 マーガレットは用も済み、家の前の大きな木のしたでぼんやりとしていた。子どものときはここを去るのがとても悲しかった。来年にまた来られるよ、と言われても現在から隔たっている遠い未来が実感できないので、無性にそうなだめる両親にも腹が立った。だが、ここに来る機会も確実に減りつづける母の一言にも、同じように腹が立っていた。しかし、時間を置くと、それは苛立ちでもない。寂寥感というものが正しいのかもしれない。自分にそうした感情が眠っていて、いま目覚めたことにマーガレット自身が驚いていた。それで、少女に戻ったかのようにわざと地面の小石を靴の先で蹴った。その行為で解決することもひとつもなく、ただ、何かの決定を先延ばしにするとしか思えないような時間だった。無駄にないにせよ。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(67)

2013年05月27日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(67)

 加藤姉の転機は、どうやらこれかららしいということで決着がついた。そのことを次回のクラスのときにしたためて持参すると言った。手書きでも良し。ワープロ・ソフトでも可。なんだか、文章というのは非常になまめかしいものだと感じられた。なるべくならばぼくは彼女の筆跡を見たいと願っている。

 毎週、数ページだけでも文字で自分の感情を表現するのには、どのような効用があるのだろう? 起承転結を決めて、ゴールに向かって機関車のように前進する。石炭の役目になるのは、喜びだったり、怒りだったり、悲しみだったりもする。ぼくは、クラスのみなが感じたであろう感情の蓄積を収集する。そして、少し採点する。自分にそんな資格や役割を与えるものは、いったい、誰で、どのようなものなのか。ただ、大きなものに感謝したい気持ちがあった。

 そう考えている朝は、もう八月三十一日だった。夏休みの最終日。明日から由美は学校だった。ぼくはまたひとりで過ごす時間が増える。コツコツと自分の仕事をしよう。宿題を見事に終えた娘は、犬と遊んでいる。ドタバタと部屋を駈けずりまわる音が聞こえて、父親の集中力を容赦なく削いでいた。

「静かにしないと」
「だって、こうしてジョンと午前中に遊ぶこともできなくなるから」
「土日があるよ」
「そういうのって屁理屈だよ」娘は昨夜からその言葉を使いたがっていた。妻の実家から仕入れた言葉。
「もう少しだけ、静かにしないと」
「じゃあ、ジョンにも言って」
「それも屁理屈に思えるけどね」

 マーガレットは港にいた。船のうえにはレナードがいる。これが別れという場面か、と彼女は悲しさを隠すように涙も見せまいと強がっていた。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないのだ。もし、会えたとしても思い出してもらえないのかもしれないという不安さも彼女の体内にあった。レナードは手を振って笑っている。この別れが自分になにももたらさないと彼は思っていた。いつもの、馴染みはじめた土地で親しくなった友人たちとの別れのひとつに過ぎないのだ。そこには靴を脱ぐというぐらいの重荷と負担しかなかった。また、新しい靴を象徴的に履けばいい。靴は世界のあらゆる場所にある。

 船は汽笛をあげ、はしごを取り除いた。ゆっくりと、だが、確実に船は陸地から切り離される。お互い、その姿が確認できないほど小さくなっても手を振りつづけていた。マーガレットは海面を見る。もう船があった痕跡は揺れる波にもなかった。穏やかな水面。そして、いつも通りの日常。マーガレットは雑踏に消える。マーケットに寄って、そこにレナードの残像を見つけたように感じる。いつか、そうしたことすら忘れてしまうのだろう。毎日の積み重ねが大きなできごとも小さなものも等しく圧縮する。その層がひとりの人間だけのものであり、彼女の層のいちばん上にレナードが敷かれ、いちばん古い層には父の面影があった。美化され理想化された男性像として。

 娘はテレビでアニメを見ていた。大人しくしている。ぼくは冷蔵庫から冷たい飲み物をとった。別れの場面をもっと感動的にできないものかと思案していた。もうちょっと、手前からはじめるべきではなかったのか。

 マーガレットは花束を抱えている。それをレナードに差し出した。彼は頑強な腕で不釣合いなものを受取る。

 マーガレットは赤いドレスで小走りに港に向かっていた。船の時間を間違えて、焦っていた。だが、着いたのは遅く、彼も、彼の乗る船の姿もなく、出港してしまったあとだった。遠くに見える船。そういう別れが互いにとっていちばん似つかわしいものにも思えていた。この前の絵が完成した日が、ふたりの最後の邂逅だった。

「違うな」ぼくは、独り言をいいつつ後方から由美のアニメを見ていた。「これ、なかったよね?」
「昨日、おじいちゃんが買ってくれた」
「そう。孫の趣味や好き嫌いも弁えている。侮れないね」
「宿題、頑張ったからだって」
「そう。ご褒美か」
「ご褒美って?」

「きちんと成し遂げたことに対する報い。プレゼント。達成した喜び」
「ジョンも毎日、もらってるね?」
「そうか。パパにはないのかな」
「ママと夜、ビールを飲んでるじゃない」
「ご褒美とは呼べないと思うよ」
「達成することがないからじゃない?」
「まあ、そうかもしれないね。では、別れのつづきを」

 ぼくは部屋に戻る。アニメはエンディングなのかきれいなテーマ曲がデュエットで唄われていた。

 レナードはポケットから首飾りを取り出した。見送りに来てくれたお礼だった。いままで、こういう扱いを受けたことはなかった。ひとりで到着し、ひとりで勝手に去るというのがいつもの決まったルールだった。いや、ルールではない。自然と親しくなりすぎることを避けていたのだ。別れの辛さに対する防衛心から発生したものだった。

「わたしに?」マーガレットは自分の胸元を人差し指で押した。
「昨日、見つけたんだ。その赤いドレスに合うと思うよ。後ろを向いて」

 マーガレットは髪の毛を持ち上げ、首を出した。背中へつづくなだらかな流線型が画家の目に想像された。画家の手は留め具をはずし、またつけた。マーガレットは髪をおろし、ふりかえって右手でその中心の輝くものをつかんだ。
「どう?」
「似合ってる。たまにはつけてもらって、ぼくのことを思い出してほしいね」

「忘れることなどないですよ、ずっと」その思いが本物のようにマーガレットの視線はレナードから微塵も離れなかった。だが、ふたりを切り裂くように船の乗船時間が制服姿の男性から告げられる。レナードは膝元の荷物を屈んで握った。そのなかに絵の具があるのだろうとマーガレットは想像した。さらに、希望や期待。確実な才能。それを失わないようにレナードの腕は強くしっかりと大きなトランクを握っていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(66)

2013年05月26日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(66)

 髪が短くなったケンは、こころも同様に軽くなったようだった。いままで自分のものであったはずのものと切り離される。愛情がなければ、そこに痛みはない。だが、この数週間には痛みとは呼べないまでも、小さなひりひりとした切り傷のようなものがあった。だが、それも数日後には癒されるのだ。別の問題など起こることも知らないケンは飛び跳ねるようにして自室に戻った。それから、上の空を正すようにレポートに戻った。

 ぼくも部屋に帰る。犬が飛び跳ねてきた。金輪際、オレをひとりで残す真似だけはしないでくれと懇願しているようだった。
「まだ、外は暑いから、夕方になったら、ぼくらで散歩に出掛けよう。その前に仕事だよ。きちんとした休日もないので、やはり、自分で律しないとね」

 しかし、期待を膨らますことが容易な性質の自分は、快適にキーボードを叩く指をはずませることができなかった。それでも、物語をひねり出す。外観はできているのだ。ドアを運び、取っ手の感触を試すように撫でる。物語のそういう微細なところを修正することが楽しく思えるように仕向けた。

 ケンは束になった紙を、机のうえでトントンと音を立ててきちんと揃えた。その行為自体が句読点であるようだった。これで、終わり。秋になって本格的な勉強がある。その下準備ができた。そして、自分はどのような職業につけるのか考えていた。一生、研究するのも悪くない。どこかの大きな企業の研究室にもぐり込むことも良さそうだった。売り手や買い手の市場の均衡があることなどには無頓着だった。ただ、若さ特有の未来を信じる気質は隠せそうになかった。

 ぼくは犬との散歩を終え、シャワーを浴びた。妻のオーデ・コロンのふたを開けた。それは、あまりに女性的な匂いが強かった。ぼくはまたきっちりとふたをして、男物のそれがないことを悔やんでいた。それでも、そろそろだなと時計を見て、外に出掛けた。段々と日が短くなっているんだな、と七時前のはじまりかけた夜空に話しかけた。

 ぼくは、ドアを開ける。この店の不思議なベルが同時になる。
「いらっしゃい、ひとり?」加藤姉。本好き。しかし、本をもっていないと、彼女にそのような趣味があることなど想像できない。
「うん。佐久間さんを誘ったけど、明日、面接があるとかで付き合ってくれなかった」
「ご家族は?」
「妻の実家に行ってるんだ」
「この前のビールにします? おいしいと言っていたから」
「そうするね」ひとの存在の理解のスタートは、そのひとの好悪を知ることなのだろうか。

 彼女の作業する背中が見える。もちろん、妻のものとは違う大きさ。首は髪の毛で見えないが、どこか華奢な感じが透けるように見えるようだった。
「どうぞ」彼女はぼくの前にビールを置いた。それから、洗った後のグラスを拭きはじめた。「いっしょに行かないんですか?」
「どこに?」
「奥さんの?」
「あんまり、楽しい環境でもないからね。それに、自由業に冷たい社会だから」
「素晴らしい仕事なのにね」
「娘には、もっとまっとうな所がふさわしいと思っているんだろう」
「わたしなら、喜んで行くのにな。だって、毎日、つづきが読めるんでしょう?」
「物語の魔力」
「そう」言い終わると、彼女はキュッと乾いたグラスの音を出した。きれいになった証拠としてその音色は発信されるのだ。

 ケンは、目の疲労を覚えながら階段を下りて外に出た。夜風が心地よかった。片手で角にあるパブのドアを押した。サッカーのシーズンがはじまる前の今年の予想をラジオが流している。その情報に一喜一憂し、さらにある種の不満や憤慨がビールのつまみになっている。ケンはカウンターでグラスを受け取り、奥の方にすすんでいった。今日は知り合いもいなかったので、窓の外をぼんやりとひとりで眺めていた。耳は、ざわめきとして他のお客さんの会話を聞くともなくだが、耳に自然と半分ぐらい入っていた。しばらくするとYシャツ姿の角張った封筒を小脇に抱えたひとが通るのが見えた。目を凝らすと、銀行員の男性だった。マーガレットの知り合い。彼の回りから疲労のようなものが発せられていた。数年後、自分も同じようなものを身に着けているのかとケンは想像した。だが、彼のこころのなかまではケンも見通せなかった。

 ぼくは、加藤さんのこころのなかが分からない。だが、分からないこと自体が楽しさを奪う訳でもない。ワクワク感など、成分として当初の期待だけでできているのだ。

「そうだ、これを聞くために来たんだ。ぼくのクラス、ぼくのものでもないけど、入るみたいだね」
「そう。あまり、友人との交遊みたいなものをもたないから、弟が心配して。みんな、そこにいるひとたちは楽しいよ、と佐久間さんも言ってくれるので。川島さんもいるし、もちろん、物語もわたしも書いてみたいなって。ひとりででも書けるんでしょうけど、意気込みみたいなものも伝染するといいなと思って」

 ぼくは稀少で、貴重な高山の花でも見つけたような気持ちでいた。わざわざ、世界にもう一冊の本など生み出さなくてもよいのだ。バルザックもいて、ロシアには分厚い本がたくさんある。だが、ここにも次のページをめくることに快感を抱いているひとがいる。その作者になろうとしているひとが。
「次回から、自分の転機となったものと題して、それぞれ書いてもらって、数人には演壇で発表してもらうんだ。それ以外のひとのも貰って、全部、読むけどね。ひとりのおばさんは自伝を書いている。その生々しさに閉口しながらも、ぼくは読むのがやっぱり楽しい。加藤さんの転機は?」
「あ、お客さんだ。いらっしゃい。考えておくから、最初に川島さんの転機を教えて」

 彼女はカウンターの逆のはじに座ったひとの応対に行ってしまった。ぼく専属の店員ではない。だから、ぼくは自分の過去に起こった出来事の箱を開け、転機となりえたものを拾おうとする。

 由美の誕生。犬を由美が飼いたがったこと。はじめて本を最後まで読み終えたこと。レアな本を探してまで読みたくなったこと。いや、妻に結婚を申し込んだこと。初々しい彼女の返事。まさか、二日酔いの不機嫌極まる女性になるとは思わなかった。多少、酒癖も悪い。多少、絡む。自分は人間を題材にしながらも何も見抜いていないのだ。悲しい事実を知る。

「おかわり?」

 そうなのか、グラスを開ければ、彼女はやって来る。偉大な真理。もっと、もっと飲まなければならない。妻と由美は今頃、家族で笑い合っていることだろう。
「会社、辞めることにしました」
 義理の父の顔。呆然とは、どういうことなのか、ぼくはその表情で知る。
「川島さんの転機は?」
「君に会ったこと」と、こころのなかで言う。カウンターの向かいには鏡がある。化粧でもしたのか頬紅を塗ったような自分の顔。ハンサムにはなれないね、同朋とぼくは声に出す。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(65)

2013年05月25日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(65)

 ぼくはまだ鼻歌をつづけていた。

 ケンもまた鼻歌をつづけていた。秋になれば学年がかわる。そのうちにどこかの会社に就職する。自由が減り、責任が増える。納税をして、訳知り顔になる。だが、それはまだ未来の話で、当人にとっては未知なる世界なのだ。ケンは恋をしている。その相手にもう直ぐ会える。話したいこともあり、聞きたいこともそれ以上にたくさんあった。その答えのひとつひとつに感心し、ある返答には動揺する。恋する相手の挙動が自分に影響を与える。ケンはその予感にすら興奮していた。

 歩いていると、ぼくの肩にぶつかるほどの距離ですれ違うひとがいた。ぼくは寸前に避けたが、相手はわざとそうしていたらしい。背中から呼びかけられた。ぼくは当然、振り向く。

「なんだ、狭山君か」
「なんだじゃないでしょう。考え事ですか?」彼はきれいな女性を今日も連れていた。ぼくのクラスの男性。彼は、やはり家にこもって文字で埋め尽くされた世界に埋没することが根本的に性に合っていないのではないかとぼくは判断しかけた。
「この前の娘とは違うんだね? いや、失礼」無意識というのは悪意に満ちた世界なのだろうか。彼だからこそ、ぼくは失礼な言葉をわざと吐いたのだろうか。分析も終了。
「川島さんは、小説家だから、うそが上手なんだよ」

 女性は疑いの視線を向けている。
「そうだよ。それがご飯の種だから」なぜ、自分は彼に加担しているのだろう。そもそも、自分が立てた波風なのに、すべてを自分の意志とは隔絶した分野や領域の所為にしようとしていた。
「ひとりですか?」
「そう。家族は妻の実家に。お父さんは命の洗濯に。それで、映画を」ぼくは映画の題名を言う。ふたりは、きょとんとしている。音大生のウェイトレスは、ぼくの下手なハミングですら分かってくれたのに。「狭山君たちは、どこに行くの?」

「彼女とショッピング」
「じゃあ、青春を謳歌して。夏休みと同じように過ぎ去ってしまったら、もう終わりだから」自分は紛れもなく秋の住人のようだった。冬には足を踏み込んではいない。由美に子どもでもできれば、毛布が必要な年代になった確かな証拠になるのだろう。由美はいつか実家に帰りたがる。分身であるその子どもを連れて。配偶者はぼくとそりが合わない。これも、仕方がないことなのだろうか。

 ケンは鼻歌をつづけている。大学がはじまる前に大掃除をしようと、窓を全開にして、床のカーペットまで剥ぎ、窓からぶら下げて埃をはらった。くしゃみをして、手からあやうく落ちそうになる。それから、また床に敷いた。方向が違うのか、床の変色した部分とカーペットの角は一致しなかった。それでも、無頓着にケンは掃除を終えた。気持ちはもう別のところに行っている。マーガレットと再会したらしたいと希望していることを再度、頭のなかでリストアップした。自分がしたいことと、彼女の好みを両方とも兼ね備えるものを見つけたく思っている。だが、その共通点は直かに話さないと解決しそうにもなかった。ただ、直接、話したいだけなのかもしれない。それでも、ケンが選んだことを彼女はいつも喜んで付き合ってくれた。空想というのはいつも我が側に居るということをケンは忘れ、見誤っていた。その誤解から大きな失敗が生ずる可能性もいまのところなかったのだが。

 ぼくは電話を手に取る。夕飯のお誘いのため。
「妻が実家に帰ってしまって、また、ひとりなんだ」
「ごめんなさい。今日、ぼく、出掛けているんですよ。それに、明日、面接に行かなければならないので」佐久間さんは済まなそうにそう言った。「この前のあそこですか。加藤さんにはまってしまったとか?」

「そういう訳でもないんだけどね。彼女、ぼくのクラスに入る申込書を出したみたいなので、真意みたいなものを知りたくて、それこそ」
「真意もなにも、ただ、文章の書く方法や心構えを習いたいだけでしょう。あそこに居るひと、みんな」佐久間さんは、もしかしたら、ぼくにライバルに対するような感情を抱いているのだろうか。口調の底から、敵愾心みたいなものが読み取れた。
「そうなの。まあ、取り敢えず、仕方ない。面接、頑張って。あるがままの佐久間さんであれば大丈夫だよ」ぼくの一言で彼が途端に勇気付けられることもないことを知っていながら、社交上、こういう以外に電話をしめくくる言葉を有していなかった。

 ケンは、長く伸びた髪の毛が気になってきた。それで、服をさっぱりとしたものに着替えて、街角の散髪屋に行った。そこは社交の場にもなっていて、多くのひとが集まって無駄ばなしをしていた。うわさの巣窟でもあり、さまざまな情報が坂の下のように集まってきていた。

 ぼくも髪の毛に触れる。ショー・ウインドウに映った自分はいくらか、「むさ苦しさ」のサンプルであり、生きた証拠であるみたいだった。そこで、目に入った床屋に入った。夏休みが終わる為なのか、子どもたちが数人いた。待っている時間に手の平にあるゲームをそれぞれがしている。ぼくらの時代はマンガだったな、と郷愁に駆られている。順番を待っている間に手元の棚にあったマンガのページを開いた。文字は副次的な役割しか与えられていないようだった。ときには効果音となり、ときには恋する女性の心拍音にもなった。それは簡単でもあり、かつ複雑でもあった。文字だけの世界に生息することを望んでいた自分にも新鮮であった。だが、本来の動機から離れ、ぼくは本の世界の住人である前に、その本を読んでいる姿の加藤さんを思い浮かべていた。文字だけではなく、姿勢やひかりや仕草や女性の髪の毛が伴っての本だった。結局、ぼくはひとりでビールを飲みに行くことになるのだろうか。もし、加藤姉が休みだったら、そこは、とてもつまらない世界に思えた。すると、徐々に髪の毛を刈られた少年たちは減り、ぼくの番になった。ぼくは由美が髪を切られる姿を見ていないことを知った。それは妻との楽しい共有の時間となっているのだろう。これも、男親の部外の世界なのかもしれない。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(64)

2013年05月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(64)

「パパ、今日、ひとりで何するの?」
 車の助手席の開いた窓から由美は顔と手を出し、ぼくにそう質問した。日曜の朝。妻の運転する車で実家に向かう家族。ぼくを除いて。
「どうしようかな。ひとりでできることを探さないと」

 曖昧な答えをきいて彼らは去った。多少の排気ガスだけが彼女たちの痕跡となった。ぼくは部屋に戻り、なす術もないひとのように新聞をひろげた。今日も相変わらず事件や事故がある。ぼくは、まだ若い頃、自分がひとりで何をしていたのか、もう思い出せなかった。また、子どもがいる環境で楽しめる場所を見つけるようになってしまっていた。必要は、発明の母。それから、映画の欄を眺める。それほど遠くない場所に名画座があった。時計と紙面を交互に見比べて、まだ最初の上映時刻に間に合うことを確認した。

「じゃあ、行ってくるね。お留守番を頼むよ」ぼくは犬にそう告げる。彼は首を傾げるだけで、「気をつけて」とか、「お大事に」などの機転の利く言葉はつかってくれなかった。その代わり、ただ小さな声で吠えただけだった。

 上映されている映画は、「ペーパー・ムーン」だった。これがひとりになったときにしたかったことなのかと疑いながらも座席にすわっている。白黒の画面。まだ、独身のころに見たはずだった。愉快な映画であるのだが、その頃と立場の違う自分には、なんだか身につまされるような味わいも残った。本物の親子かもしれない可能性のある、もちろん、可能性のない擬似の親子が詐欺を繰り返しながら旅をつづけるという内容だった。段々とその技は熟練され、合間には、気の多いお父さんが、高貴でもない女性にだまされつつあることには陰で策略を練って抵抗する。そうしないことには、自分の仮である安住の地(ラジオが楽しみな安ホテルや道中の車内)も役目も奪われてしまう。でも、この辺りで大きなヤマに賭けるべきなのだという具合に話はすすむ。だが、資金が尽きることが、この擬似の親子の別れのきっかけであり最重要な原因にもなってしまうのだ。計画に失敗すればふたりは他人に戻らざるをえない。娘はその亡くなった母の血縁の家族のもとに送られる。しかし、擬似は擬似であるだけに美しく、かつ尊いものだった。

 ぼくは、不覚にも泣いている。夏の午前中のエアコンが心地よい映画館で大笑いをしようという目論見は、まったくの反対の結果になった。ぼくは、玄関で去ってしまった由美のことを考えていた。自分が父親という役目にぴったりとはまってしまったことにも、映画の主人公と同様に驚きだった。

 エドワードも日曜の朝を迎えている。予定もなかったので日頃の疲れを払拭しようと朝寝坊をしていた。だが、正確な時刻に寝起きをしている身体は、いつまでもその甘さをも許してはくれなかった。カーテンを開け、外をぼんやりと眺める。そして、いつものようにヒゲを剃った。幼少時にいっしょに暮らした母親代わりのひとが病院に入院することになってしまった。見舞いではなく、その入院準備のために彼は育った町に向かった。列車を乗り継ぎ、小さく感じるようになってしまった町並みを歩く。やはり、どこかで懐かしく、すがすがしい気持ちを、その周囲の空気だけではなく、体の内部からも感じていた。

 荷物を詰め込んでいると、「あなたは、そろそろ、結婚してもよい年頃じゃないの? 安定した恵まれた職にもついていることだし、容貌だって、誰が見たって平均以上じゃないの」と病人であることを一時的に中断している女性に言われた。
「おばさんだから、採点が甘いんですよ」
「わたしたちの育て方が、家庭に対して猜疑心を与えるようになってしまったの?」

 彼女は、人生の最後の瞬間の許しを得るように、そう心細い口調で言った。

「まったく、そんなことはないですよ。ぼくは、ここで暮らしたことに感謝しているぐらいです。それに、間もなくプロポーズの返事をもらえることになっているんです」
「ほんとなの? きっと嬉しい結果になるわよ。それに、嘘でもこの家族の一員でいたことや、わたしたちのことを誉めてくれてありがとう」
「けっして、嘘なんかじゃないですよ」

 そう告げると、エドワードも自分の過去が楽しさと喜びで溢れていたように印象を刷新させてしまっていることにも気付かずにいた。もうその状態をずっと抱えて生きていたとしか思えなかった。
 空腹のぼくは店を探す。これまた、ひとりで食事をする際の選ぶ基準を忘れてしまっているようだった。がっついて終わりという年代でもない。かといって、高級な店でひとり優雅に時間を過ごすのにも馴染めそうになかった。だが、いつもの店に行くのも冒険心に欠けているようで不満だった。今日の自分はなにをするのにも優柔不断であることを拒めなかった。しかし、こころのどこかでゴールを設定している。ある女性と楽しく小説について語らい、冷えたビールを飲むのだ。このひと夏のお父さん役を頑張ったぼくには多少のご褒美があったとしても、世間も家族も風当たりを急に冷たくすることもないだろう。

 結局、ひとりで居心地のよさそうな店にはいった。なぜか、ナポリタンとアイス・カフェオレを注文することが決まっていたかのようにメニューも開かずに女性店員にすぐさま伝えた。食前か食後にするか聞かれる。ぼんやりとしていた自分は何についての質問か判断に困っていた。食事の順番を決めることもひとりではしなくなってしまったのか。店員はぼくを見つめる。彼女の父はどのような職業でここまで育てたのだろうか? 詐欺師。本を書くこと。普通のサラリーマン。

「食後で」と、ぼくは言ったが、それが最善の答えかどうかも分からない。窓のそとを見る。小さな子が真っ赤な風船のひもを握っている。ぼくは泣きそうになっている。ビールを飲みながら女性心を簡単に手玉にとる人間になりたかった。詐欺でもなんでも方法は問わないので、ひとと接する時間をもちたかった。それで、高揚感を静かに吐き出すように鼻歌をうたう。先ほどの店員は、注文した品をもってきて、その帰りに曲名を言う。

「そうですよね? ちょっと調子っぱずれでしたけど」
「音大出身とか?」

 正解という風に、彼女はうなずいてから厨房方面に向かった。彼女の背中に店内の静かなピアノ曲がふりかかる。由美にも塾や稽古事が必要になるのだろうか。そうでもしないと、役に立たない親子は詐欺でドサ回りでもする境遇に落ちる未来が待っているのかもしれなかった。しかし、それも楽しそうに思えてきていた。まぶしくない白黒の世界で。儲けたときには、たまに風船でも買ってあげて。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(63)

2013年05月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(63)

 ぼくは青い絵の具をもって家に帰った。背中には汗が伝わって流れ落ちる感触があった。妻は誰かと電話で話しているようだった。口調から察すると相手は母親であるらしい。女性たちは立場によって言葉遣いや声色を変える。ある意味では演じている。いや、化けている。先ほどの川崎さんもそうだったのだろうか? まさか。

「はい、買ってきたよ。もう、できちゃったかな」
「二枚はね」早速、由美はチューブ状の絵の具を押してパレットの四角いマスに出した。
「あとは、ママがプールで寝ているところ」

「あのままで?」
「ママに注文をだされた。サングラスをかけて、大きな帽子をかぶって、足も長くて、青いジュースを長いストローで飲んでいるところにしてと」
「また、青か。でも、それは真実に反するね」
「ママに言いくるめられた。だって、あるがままを絵にしなさいって先生に言われたの、ってね」
「言われなくても、それが夏休みの思い出なんだから脚色はまずいよね」

 後方に気配がする。いつから女性が近付くことを恐れるようになってしまったのだろう。
「あなたも、売れるようにデフォルメするんでしょう。自分の文章を」理論武装する妻。それでなくても、ぼくより圧倒的に言葉の数が多いのに。「化粧しない女性ばっかりになったら、あなたも困るでしょう。そういう法律でもつくる?」
「そこまでは、言わないけど、さ、教育上ね」

「建前上ね。あなたは、本当のことしか書いたらダメと今日、教えてきたの?」
「本当のことでも、他人は客観的に嘘が見抜けないとは、まあ、考えたけど」
「だから、由美もそうしなさい。きれいなママの方が、あなたもうらやましがられるでしょう?」妻は腕を組み、絵の仕上がりを見守る。だが、もう鉛筆で下絵ができあがっていた。あとは、そこに彩色するだけなのだ。道は、もう決められてしまっていた。迷子にもなれない。「そうだ、明日、夏休みの最後だからって、おばあちゃんが由美に会いたいって。あなたは行かなくていいんでしょう?」

「そうだね。仕事する」
「夕飯、悪いけど、どうにかして」
「どうにかする」
「ビールでも、飲みに行けば。たまには。わたし、なんだか、飲む気がなくなってしまったから」

 レナードは最後の絵を仕上げると、そのまま港町の酒場に寄った。自分の存在は忘れられても、自分が成し遂げたことは、かすかながらも残ると期待をかけようとしていた。種を蒔くが、成長も見られない。収穫の時期にもいない。それが画家であり、芸術家でもあるのだと思おうとした。なにかをあきらめるのに口実がいるからなのだが。

 レナードは壁を見る。自分の描いた漁船の絵が、もうその場にしっくりと馴染んでいることを喜んでいた。反対に、既に自分の手から離れてしまったことによって、客観的になることができた。上手に育った息子や娘のお陰でしつけに苦慮しなかった事柄がある面では物足りなくも感じ、それでも、やはり安堵以外の何物でもなかったのだと、絵を見ながらふたつの感情の間で揺れた。この壁があの絵を求めたのだ。ここのお客がこの絵がある風景を望んだのだと、結局はそういう判定におさまった。だが、もう見ることもない。

「できた。わたしの夏休みの宿題も終了。来年まで、さらば」
「バカだな、冬の休みにも、宿題はあるんだよ」
「ママ、ほんと?」
「あるけど、ほんのちょっとよ。ちょびっと。絵はどうなの? どれどれ」クッキーの食べくずがついた手を皿の上ではらってから、妻は絵を持ち上げた。「上手じゃない。こういう塾行く? 絵の才能を伸ばせるような」

「そんなとこあるんだ?」
「実家のそばにはあった。わたしも行きたかったけど、あれ以上、習い事を増やす時間もできなくて、あきらめたけどね。あなたは?」
「野原で駆けずり回っていたよ、暇があれば。あまり、お育ちが自慢できないもので」
「由美もそっちの方がいい」
「父の遺伝子を受け継ぐのを拒否できない娘。でも、これで、明日十分遊べるわね。パパもたくさん仕事ができるし」
「パパ、だって、たくさん仕事をしていたよ、この夏。由美がいちばんの証人」
「泣かせるセリフだね。だけど、机の前に座っていただけなのかもしれないよ、長時間。ずっと、へのへのもへじを書くだけしかしてないのかも」

「パソコンの音がしてたから大丈夫、それが証拠」
「じゃあ、完成なの? 我が夫の偉大なる戦争と平和は」
「それほどの大作は誰も読まないよ。でも、周辺だけはね、外観だけは」
「工事現場みたいな話ね。細かな内装はまだと。壁紙を貼って、照明器具をつけて」
「それも脚色。プールに優雅に寝そべる女性みたいにね」
「いやあね」
「ほんと、いやあね」と由美もマネして言った。それから、絵を大事そうに自分の部屋に持っていってしまった。

 レナードはカウンターで二杯目のグラスに口を近づけていた。達成感と喪失感の相反するものに包まれていた。土着できないもの。渡り鳥。自分の存在をそう定義していた。しかし、地球の反対で、その土地に合ったのか珍しい花々が居場所を見つけることもある。あの絵のように、その場所が自分を熱烈に求め、探し出すのかもしれない。自分はあやつり人形のように運命の軽やかな羽根に乗り、そこに導かれるのだ。もがいてはいけない。拘泥してもいけない。ぬかるみに足をとられてもダメだ。ただ、薄氷のうえをすすむようにつま先で颯爽と渡りぬけるだけだ。グラスが空になる。三杯目の酒をすすめられそうになったが、それもこの場所への愛着になると思い、レナードは断ってしまった。もう、次の場所へと気持ちは向かっていた。そして、ここだけで使える硬貨の枚数を減らすためにカウンターに置いたが、親切な店員は餞別だからと言って受取ってはくれなかった。だから、またポケットに無雑作に突っ込み、店を出た。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(62)

2013年05月22日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(62)

 大勢のひとが拍手をする。その拍手の音の渦につつまれるひと。川崎さんはなぜ、このような職業を選びたいと思うのか、そのきっかけになった自分の過去のできごとを話す。ぼくらにはある映像が徐々に思い浮かび、いま朗らかにしている彼女が経験した辛かったできごとが披露され、映像も方向転換せざるをえなくなる。晴れは曇り空に。それを通過した彼女は誰かに、自分の言葉を通してきちんと理解してもらいたい、そのお手伝いをしたいと願うようになった、と言った。多くのひとが、そういう望みがありながらも、親や先生が敷いたレールに乗って運ばれてしまう。もちろん、大多数にとってはその道は幸福につながるはずだろうし、両者の気持ちが一致することもまれではない、と川崎さんはある面では賛同している。もちろん、わたしもそうだった。だが、もし、両者の願いが相容れないときには、多くのひとびとはどちらかに傾いてしまい、夢を閉ざすのか、それともいがみ合いが生じてしまう可能性もあると言った。でも、あきらめるにはもったいないこともあるし、ここで文章を書くことを学んだり、川島先生の孤独な戦いは、評価されなくても、やはりする必要のあることではないのだろうか、と加えた。もし、わたしが望みの職業につき、自分の企画を実行できる立場になったら、川島さんをインタビューしたり取材の記事を書くことを、そのうちのひとつにすると宣言した。

 ぼくは、まだ数冊しか、それも誰も読んでいないようなものしか残していない。きれいな衣装を着てマイクをきゃしゃな指で握る彼女。ぼくは、柔らかそうなソファに座り、彼女を相手に受け答えをしている。テレビの向こうでは、「こいつは、いったい誰なんだ?」と、みな、怪訝な顔をする。そして、チャンネルを替える。彼女の立場は危うくなり、どこか地方の放送局で、誰も知らないひとをインタビューするのが専門の仕事になる。望みは叶うのだ。多少、変形はしながらも。

 いやいや、その前に、列を作るほどの人気者に自分がなればいいだけなのだ。簡単なことなのだ。赤子の手をひねるようなものなのだ。ぼくは、川崎さんが話していた正面のところに着くまで、夢のような時間を過ごせた。映画の賞を取った華々しい俳優のような気持ちに。
「だから、彼女はアナウンサーになりたいんですね。こういうテーマで、次は考えてみましょうか。なぜ、自分はいまの自分になったのか」
「なってしまったのか」佐久間さんが、悲しそうにそう付け加えた。それで、みなが笑った。

「いつもいつも手探りですいません。人生での岐路。秋になれば物思いの時間も増えることだし、そうしましょうか。まったくの創作は書く方も評価する方もむずかしい。やはり、自伝や伝記のほうが入りやすいかもしれないですね。でも、自分のことを書いても他人は嘘を見抜けない」自分で言っておきながらも、そうだろうかと思案するためぼくは黙ってしまった。「もちろん、まったくの創作、作り話を書いてぼくに読んでほしいと思うひとがいれば、ぼくは熱心に読みますよ。それが仕事で、いちばん好きな趣味でもあるんですから」言い訳がましいことを呟きながら、ある本をテキストにしてディスカッションをする後半の時間になった。

 マーガレットは、ここを去る前にしておかなければならないことをリストアップしていた。その実行に取り掛かった。先ずは、きれいにカーテンを洗った。床を掃除した。庭を掃いた。建て付けの悪くなったドアを直しておこうと思い、近くの道具屋さんに行き、釘やねじを見た。その思いがけないお客さんに興味をもった店主は理由をたずね、すると、必要なものの値段だけで手間賃はなく、午後にも直しに来てくれると約束をしてくれた。もともとは、店主の父が建てるときに関係した家だったらしい。彼は幼いマーガレットのことも知っていた。いつか息子や娘でも連れてくるようになったら、あいつに用を頼むといいといって奥を指差した。そこには、まだ、若そうな頬の赤い男性がいて、ある部品をいじっていた。ラジオを直しているらしい。手先の器用さは遺伝するものなのか、とマーガレットは思いながら小さく会釈をした。

 後半の本を媒介にした討論も愉快に終わり、ぼくはクラスを後にした。生徒たちには一体感ができていた。年代も違ければ、目標や家庭環境も同じではない。ただ、誰もが本のなかにある世界を愛しているらしいことが共通点だった。彼らは、食事に行くらしいが、ぼくも誘われたが今日は断った。青い絵の具を早めに届けてあげたい。

 だが、クラスの前で役所の担当者に呼び止められた。

「盛況みたいですね、先生」役所勤めではないような丁稚のような身振りで彼は近付いて来た。「また、新しい生徒が入るみたいですよ。断る理由もないんで、うちの市の住民だから。来月からですね。これ、申込書の写し。住所は黒く消してしまいました。きれいな女性なんで、先生のやる気もまたアップするかもしれませんね」

「どれどれ」ぼくは受け取り、名前を見た。写真がつくような履歴書ではない。ただの申込書。下の半分が隠された直筆の申込書。「加藤さんか、あれ」
「知り合いですか?」
「おそらく」
「先生も隅におけませんね」

 ぼくは、外に出る。青空。直ぐ角には文房具店がある。ぼくは場所が分からず、なかを無闇にうろうろする。あった。青い絵の具。それだけ買うのも何だか間が抜けているように感じ、高級そうなペンを眺めた。キーボードしか必要ない。口からの言葉ではなく、ディスプレイの文字しかぼくには必要ない。だが、ある日、インタビューを受け、サインも求められるのだ。ある日だが。これぐらいのものがあっても悪くないだろう。ぼくはキャップを取り、メモ用紙にさらさらと書き付ける。ハンフリー・ボガード。なぜだか、ひとの名前を勝手に使ってしまったらしい。寡黙さ。クラスでひとと会うことを現在の自分は楽しみにしている。ぼくは部屋で押し黙っていることに向いていないのかもしれない。それは欠点なのか長所なのか。判断のできないままキャップをきっちりと閉め、買うかどうかをまだ悩んでいた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(61)

2013年05月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(61)

 マーガレットは作者がいなくなった自分の分身を眺めている。確かに、レナードがいなければ生み出されなかったものでありながら、自分という存在がなければ、そのきっかけすら彼に与えることがなかったのだと尊大にも思っていた。しかし、その自分も母がいなければこの世に生を享けず、喜びも希望も感じなかったはずだ。また、父がいなければ、自分の幼少期を無邪気に可愛がってくれた記憶も目減りしてしまうだろうとも考えていた。一枚の絵がここまでたどりついた自分のもろもろの忘れかけていた思い出を再浮上させ、数々の闇に消えかける記憶の運命に抵抗する手助けにもなってくれた。現在の自分が描かれたに過ぎないのに。

「あと、宿題は?」妻が娘に訊いていた。
「絵を三枚描くだけ。水色、使いたいな」
「あら、そういう考え方もあるのね。じゃあ、水とか空だね。題材は決まっているの?」
「この夏のことだから」

 ぼくはネクタイを結びながら、耳をそばだてていた。今日は、土曜日。八月の最後の週末で文章のクラスがある。来週の初めにはもう九月になるのだ。断りもなく足早にやって来る。
「まごにも衣装。ねえ、あれって、馬の子のことなの? それとも、子どもの子どもの孫?」妻はぼくの格好を見ながら、そう質問した。
「孫なんて、だいたいはきれいな洋服を買ってもらえるんだろう。由美だって、デパートでおじいちゃんやおばあちゃんに新しい服を買ってもらったばかりじゃないか」
「じゃあ、いやがる馬の子どもに鞍を乗せたりするときのことなのかしらね。きれいな化粧回しみたいな感じで。それで、無理に乗って、無理に走らせて」
「動物愛護のひとに叱られそうな映像だけどね」
「先生は言葉の魔術師だから正解を知っているんでしょう?」

 飽きてきたのか、由美は話をききながら馬の絵を白い紙のうえにいたずら描きしていた。
「それは、夏休みの思い出にはなりそうもないわね」妻はあきれたようにそう言った。「水色を使うんでしょう? いつの水色?」
「ひとつは、マーメイドみたいな久美子ちゃんが泳いでいるシーン。わたしが観客席から応援している。手にはおにぎりがあって。パパもいる。もうひとつはそこの金魚。水色と赤。ひとつはママがプールで具合が悪くなって寝ているところ」
「そんな絵、なんかいやね。パパとママとの対比も酷すぎるし。しかも、この水色のチューブじゃ足りないかもよ。あなた、帰りに文房具屋さんで水色の絵の具だけ買ってきて」
「もっと、いっぱいの色が欲しいよ」
「欲張りはダメ。使い終わったら買うの!」
「ママもいっぱい口紅をもってるじゃん」
「パパはネクタイをそれほどもっていなかった」そう言ってぼくはにぎやかになりかけた家を出た。まだ、空は日差しが強く、目に痛いほどの快晴だった。

 数軒先で打ち水をしている主婦がいた。だが、撒いても直ぐに乾いてしまうことが予感された。このように多くのことは気持ちの問題であり、無駄な抵抗を繰り返しつづけることだった。ぼくは物語のとっかかりをメモをし忘れ、何度も喪失した。それでも浮かんできては、また何事もなかったようにきれいに忘れた。

 マーガレットは執拗に絵に向かっていた。関心を起こすのは、もう自分のことではなかった。この絵はいったん自分の家に行く。もう一枚はレナードが懇意にしていた画廊にすでに運ばれているはずだった。そこから、買い手がつかず埃をかぶりながら壁にかかりつづけるのかもしれず、どこかの倉庫で朽ちるのをただじっと待つのかもしれない。私の方は、どこかに別の運命が待っているのかもしれないと思うと、マーガレットは恥ずかしいような、期待するようなそわそわとした感情がこころのどこかで波立っていた。

 だが、軽食を片付けるためにそこを離れた。まだ絵は乾き切っていないようだった。具体的な時間は把握していないが、完全に乾燥するまであのままにしておきたかった。しかし、マーガレットが自分の家に帰るまで数日しかないので、いつまでもそうして置く訳にもいかない。その前にレナードがここから旅立つ予定で、乗り込む船を見送る約束をさきほどしたばかりだった。手紙をくれると言ったので、マーガレットは自分の家の住所のメモを渡した。それが届いたときは嬉しいのだろうか、それとも、一通も来なくて、やはり、あの夏のことは幻想に過ぎなかったのだろうかと自分のおぼろげな記憶を恨む機会になるのかもしれなかった。すると、あの絵はその証拠として手元に置いておきたいとマーガレットは誓うように目をつぶった。

 ぼくは習慣になった場所に着く。佐久間さんが挨拶をしてくれた。彼は快活になった。もともと、目立たないタイプだがきちんと居場所を見つける役目がこのクラスにあったのだろう。その手助けができることはぼくの幸福でもあった。

「今日は、川崎さんに発表してもらうんでしたよね。楽しみだな。声がきれいなウグイス嬢。アナウンサーになりたいとのことだから、文のことは保障ができないけど。きっと、声同様に内容もすてきなものなんでしょうね」ぼくは皆の前でそう言った。

「川島先生は、いつもいつも贔屓が過ぎる」と、児玉さんが冷然と言い放った。事実は冷や汗をかかせる。

 ぼくはクラスの後方の壁際に立った。まだ、たくさんの蝉の合唱がきこえる。川崎さんは優雅に前に向かった。白い紙をにぎっている。手が汗ばんでいるのか、青いハンカチを持っている。そして、青いスカートの裾がゆれた。暑さを忘れさせる瞬間だった。ぼくは水色の絵の具を買うことを忘れるかもしれない。自分の創作のきっかけすら失念してしまうぐらいだ。それも暑い夏と、鮮やかなどぎつさの一歩手前の青の所為にしてしまえば許されるのだろう。そう思っていると、美しい響きがぼくの鼓膜をやさしく震わす。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(60)

2013年05月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(60)

「さあ、これで完成。もう、身体を動かしてもいいですよ」とレナードは優しくささやいた。マーガレットはその言葉に反応して椅子から立ち上がり、身体を伸ばした。両腕を両方の耳につけ、リラックスした声も漏らした。

 母のナンシーはレナードの後ろに回りこみ、絵の出来具合を確認した。体調はすっかり元に戻っていた。

「きれいに描けているのね。ありがとう」
「いいえ。まだまだ修行の途中です」
「何十年か後にまた描いてもらったら、面白いのに」母は無邪気に言った。「でも、巨匠というものになって相手にしてくれないのかも」
「反対に、パリの片隅で毎日、毎日、見馴れた景色を描くしか能がなく、誰も相手にしてくれないのかもしれない」ひとの将来など、どう転ぶか誰にも分からないのだ。

「ただいま」妻が帰ってきた。ぼくは文章を保存する。できたてのほやほや。おいしくするのには、二晩ほど冷蔵庫で眠らせた方が良いのかもしれない。熟成の過程。
「身体、どうだった?」
「特に、病気という訳でもなし」
「久美子ちゃん、プールで早かった。それから、加藤くんにおにぎりをあげた」由美がそう言っても、妻は直ぐに状況を理解するわけでもなかった。ぼくは一日の時間の運びを補足しながら説明する。そして、加藤くんのお腹におにぎりが入る。
「そういうことなのね。久美子ちゃんは、もう水泳に専念していた時間を勉強やデートに使えるのね」妻は甘酸っぱいものを食べたような顔をして、口をすぼめた。

「パパがにぎったとは言えなかった」
「でも、大きく握れば、大きな手のひとが作ったことになる。証拠はあるのよ」妻は珍しくビールを飲まなかった。
「やっぱり、元に戻っていないんじゃないの?」
「どうしたのかしらね」
「ひとりで飲むのも味気ないもんだな」
「どっかで、きれいな子を前にして飲みたかったりして。証拠はあるのよ」妻がそう言うと、なぜだか由美も笑った。

 マーガレットはエプロンを着け、きれいな洋服を汚さないようにした。そして、テーブルに軽食をのせた。もう、この家に来ることもなくなったひと。ひとは用事を作り、帰属する社会や家庭や職場を作る。彼には、そういう分野がなかった。それで最後ぐらいは楽しんで欲しいとマーガレットは願っていた。

 レナードはサンドイッチを食べた。それから、紅茶を飲んだ。集中はモデルだけではないのだ。製作する側にもとても重要なことなのだ、とあらためてマーガレットは知った。

「満足していますか?」母はレナードに訊く。
「現時点では。もうしばらくすれば、手を加える部分もみつかるかもしれないが、その機会もないし、勢いを削ぐこともない。あとは所有者が気に入るか、疎んじるかのどちらかですから」
「わたしは満足しています」ナンシーはそう決然と言い放った。「あなたは?」
「自分のことを客観的に見ることは上手にできない。でも、思いがけないこの夏の出会いがあって、この時間たちが掛け替えのないものとなってくれた。ありがとう。ここに来たときは、こんなことが起こるとは思ってもいなかったのに」
「たくさんのひとに出会いたい。アンデスの山奥でも、未開のジャングルに潜んでいる動物や植物にも」
「画家ではなく、探検家みたいですね」
「どちらも、同じようなものでしょう」レナードは、そう告げると新しいサンドイッチをつまんだ。

 ぼくは椅子を後ろに引く。手にはお茶碗。
「おかわりしようかな」
「座ってばっかりいて仕事をしているんだから、気をつけないと太るわよ」
「ジョンとの散歩の距離を増やすよ」
「由美も学校にまた通うから、あなたは、それだけ歩かなくなる。仕事の時間は延びるけど」
「限界があるよ」
「わたしも食べる。おかわり」と娘も小さな茶碗を差し出した。
「はいよ。おにぎりにしようか」
「普通に食べる」

 ご飯が終わっても妻は動こうとしなかった。気だるそうにしている。ぼくは皿を食器洗浄機に突っ込んだ。簡単なものだ。窓の外からは秋の虫の音色がする。日も短くなってきた。心細い感じがどことなくする。ぼくは玄関から外に出て星空を眺めた。あそこにスタインベックもトルストイもいるのだろうか。彼らの衝動や熱意はどこに消えてしまったのだろうか。

 立ったままその姿勢でいると、向こうから久美子が自転車に乗ってやってきた。
「お帰り。遅いね。疲れたでしょう、今日は」
「そうですか? まだ、八時前だと思いますけど。上なんか見て星ですか?」
「そう。ロマンチックにも、いなくなってしまった昔の小説家のことなんかを考えていた」
「過去のチャンピオン」
「誰も賞なんかくれないと思うけど」では、なぜ、彼らはそれらのことに時間を費やすことを望んだのだろうか。頭に月桂樹もなく、首にもメダルがぶら下がらないのに。「誰かが読んで、泣いても、笑っても、彼らは知らない」
「彼のお姉さんは、川島さんの本は素敵と褒めていましたけど。作者はともかくとして」
「久美子ちゃんは、真実過ぎるね、いつも」

 そうしつけた彼女の母が玄関の戸を開けた。「すっかり、涼しくなりましたね」と挨拶をした。
「でも、また暑くなりますよ。来月の中旬ぐらいまでは」とぼくは反対の意見を述べる。それから、彼女たちもいなくなった。ぼくは星空をふたたび眺める。何もないようで、すべてがある。遠くで皿が洗い終わったブザーの音がする。風呂に入って洗濯をする。日々、汚れつつある物を洗ったり、きれいにするのが普通のひとの生活なのだろう。ぼくの物語は、誰かの疲れたこころをリフレッシュさせる力をもっているのだろうか。確信があればいいのに、とも思うが、それはやはり居場所を見つけられないようだった。かくれんぼの上手な子どものように。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(59)

2013年05月19日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(59)

 夕日を浴びる水面。いまは泳ぐひともおらず穏やかになっている。おにぎりを食べた加藤くんの背中はもうない、彼の空腹は次にいつ訪れるのだろうか。間もなく。それも直きだろう。いや、愛するひとと喧嘩でもして食事が喉を通らないほど悩んだり、クヨクヨしているのかもしれない。しかし、いつか、あの時の空腹のことなども忘れ、喧嘩の事実すらも記憶から消えてしまう。人間なんて、そんなものだ。
「パパの悩みって?」手をつないで歩く由美が訊いた。

「急にどうしたの?」
「宿題のこと思い出させたから。宿題のない世界って、ないかな」
「大人にでもなれば、もうないよ。でも、もっと大きな責任に囲まれている」そうだろうか? 本当のところふたつの比重は分からない。「悩みか。パパには仕事があるから、それが優れたものになるのが、目標だし、そうならないのが悩みかな。でも、悩みとは違うのかな。願いだよ。健全な願い」

「どうやったらできるの?」
「さあ、どうなんだろう。美しいテーマがあって、それを掘り下げられるほどの文章という技巧があって、魅力的な主人公がいて、恋をしたり、失意を迎えたり、乗り越えたり、ときには打ちひしがれたり」
「分かっていると、きっと、できるんだよね?」ぼくの手は強く握られる。「恋をするのか。久美子ちゃんみたいに」
「はじまったばかり。スタートだけじゃ恋なんて表紙だけができているだけみたいなもんだよ」
「分かってるよ」

 エドワードも待っていた。Yシャツの袖を腕まくりして仕事をしながらも、マーガレットの幻影を浮かべていた。あと数日もすれば再会できる喜びもある。喧嘩して会えなくなっているわけではない。ただ、夏のための避暑。それも終わる。終わるからには、なにかがはじまる。自然とはじまるものもあれば、決意を要するものもある。交際の申し込みというのは自分にとって大きなものだった、とエドワードは考えていた。その答えがどうあれ、結果はきちんと受け止めようと思っていた。しかし、いまのエドワードは悪く考えることもできなかった。それが恋の魔力でもあるのかもしれない。強い意志。と、優しい表現。接し方。

 そのマーガレットの瞳はレナードによって再現されていた。キャンバスに残せるものは自分の筆の力によるものだが、だが、結局は自分のものではない。セザンヌが執拗に描く山も彼のものではない。ただ、そばに居て認めるだけなのだ。レナードは次の場所に行かなければならない。このマーガレットや、彼女の母と接することになる幸運な男性はだれなのだろうか? とエドワードは画布と対象を交互に見比べつつ考えていた。

 家に着いてお米を研いだ。スイッチを入れてジョンを散歩に連れて行く。由美は疲れたのか、目をつぶっているうちに眠ってしまったので、家に置いて来た。

「分かっているならば、きっと、できる」と娘はぼくの仕事に対して希望を投げかけた。そのふたつの繋がりは正確なものだろうか。太いパイプで連携しているのだろうか。ぼくは、どうしても好きと言えなかった少女のことを思い出していた。好きという気持ちがあることは分かっていた。でも、それを可能にする具体的な方法も解決策も知らなかった。これも、間違いだ。解決するには、自分のもやもやした気持ちをこの世界に発すればよかっただけなのだ。ただ、発することをためらい、結果を知ることに脅えたのだ。分かると、できるは、なので同じ列にはいない。隔たりがある。だが、分からなくても、まぐれでできたというのも仕事としてはむなしいものであるのだろう。

「そうだよな、ジョン」犬は自分の生きた証を世界に落とした。ぼくは拾う。この世に、目に見えるところにあってはならないものもあるのだ。
「こんにちは」ぼくの屈んだ姿勢の上から声がする。タイミングとしては良くはない。なんと、ぼくの白髪の目立ちはじめた頭を見下ろしているのは、派手な服の文学少女だった。彼女は、ジョンの頭を優しく撫でた。これは、ぼくにされるべき動作ではなかったのか。「名前は?」
「え?」ぼくの名前を知らないのか?

「このふさふさとしたワンちゃんの名前は? 川島さんも呼ぶんでしょう?」
「ジョンだよ」
「ジョン・スタインベックから取ったとか」
「まあ、遠からずだね」真実から遠ざかっていく一児の父。なぜ、本音で話すことを拒んでしまうのだろうか。「仕事に行く途中?」
「そうです。どこかで本代を稼がないといけないから。だから、意外と割りの良い仕事です。今度、また来てください。お友だちと」やんわりと一対一になることを拒絶したのだろうか。

「弟くんにプールで会ったよ」恋をしない姉だと言っていたのだ。
「あの女の子を見に行ったんだろうね。ああいう風にスポーツができる女性っていいな」
「本を読む女性の方が素敵だよ」

「そうですか。でも、そうならないと本が読まれませんもんね。今日もお仕事を?」
「すると思うよ。大傑作とまではならないけど、そこそこに美しい。恋をして、挫折をして」
「わたしもクラスに入ろうかな。川島さんと毎週、会うことになるんですよね。そうすると」

 ぼくはむせかえりそうになった。「役所に申込用紙があるから、もしよければ」期待を鎮め、押し殺そうとしていた。お米を研ぐだけの男性にもささやかな希望を。そして、彼女は腕時計を見る。文字盤が神秘的に輝いていて、とても彼女に合っていた。魅力に負けていない。
「今度、行くよ」
「来て下さい。また、本の話でもしましょうね」

 ぼくはジョンとまた歩き出す。妻はぼくの本をどう評価しているのだろうか。二束三文。だが、ぼくらには歴史がある。ページも中盤まで進んでしまっている。子どもも生まれ、生活の規則のようなものも三人で築きつつあった。考え事をして、ジョンがどこかで足をあげ、すると間もなく家に着く。戸を開けると、ご飯の炊ける匂いがする。香ばしい。お米は、ご飯になる。水はお湯になり、雪にもなる。子どもはおとなになり、大きないびきをかくようになるのかもしれない。しかし、いまはすやすやと眠っている。ジョンも由美の横に寝そべった。彼女の方がまだ小さい。逆転する日はくるのだろうか。来年、再来年。

 室内には油の絵の具のにおいが充満していた。マーガレットは当然ながら、その匂いとレナードの存在を密接に結び付けていた。当然だろう。いままで、その匂いは自分の生活にはなかったものだ。そのうち入り込んで忘れられないものとなった、とマーガレットは思っていた。それから、またその匂いは生活から消える。終わるものとはじまるもの。

 ぼくは手を洗う。静かなうちに仕事をすすめようと思っていた。だが、ぼくは静かな空間でビールを飲みながらページをゆっくりとめくる加藤姉の幻影を押し退けられないでいた。しばらくすると犬と戯れる娘の笑い声が聞こえてきた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(58)

2013年05月18日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(58)

「パパ、おにぎり食べ切れなくて余っちゃった」
「加藤くんにあげてきなよ」
「加藤くんって、誰のこと?」
「マーメイドの初恋だよ」
「加藤くんか。お腹空いてるかな?」

 由美は危なげな足取りで加藤くんのそばまで歩いていった。背中に声をかけられて彼は振り向いた。二言、三言ふたりは話し合っている。彼は笑い、手を差し出した。交渉の成立。由美は自分の手からおにぎりを受け渡す。彼は、少しだけ腰をあげ、こちらに向かって会釈した。それから由美の頭を優しく撫でた。ぼくも同じように首を少しだけ傾けて、礼をしてもらうほどのことではない、という素振りをとった。用を果たした由美は両手をぶらぶらとさせ、また階段を器用に座席を避けながら歩いて来た。

「どうだった?」
「ちょうど、お腹が空いていたところだって。嬉しそうにしていた」娘はもう一度、彼の方を見た。「由美ちゃんたちも見に来たのかとちょっと驚いていた」
「あの年代は、常にお腹が空くようになっているんだよ」それからこころのなかだけで「それに、君だけのマーメイドでもない」とささやいた。
「パパは、減らないの?」
「減るけど、昔ほどには渇望という極限の状態にまでは届かない」

「ママは直ぐに不機嫌になるけど」
「むかしからだよね」
「でもね」秘密の共有という風に由美は小声になった。「パパが作ったおにぎりだとは言わなかった」
「別にばい菌が含まれているわけでもなし」ぼくは自分の両手を見る。
「でも、気持ちの問題だから」と訳知り顔になって由美は返答した。

 マーガレットはレナードが来る最終日だからといって、いつもより、絵を描き終わったときに食べてもらう軽食の量を増やした。それにいくらか豪華にもしていた。ある一定の期間を通じて作品が作られた。自分の肖像ができあがるのだ。最初はどれも思い付きに過ぎないのかもしれない。だが、毎日の勤勉さを積み上げ、後世に残るものとなる。もしかしたら、わたしがいなくなってもあの絵だけが残るのかもしれないと考えたら、マーガレットは無性にさびしくなっていた。

 自分は将来にわたって何かを残すよう努力をしてきただろうかと、マーガレットは皿を並べながら考えていた。でも、多くのひとが毎日の生活を送ることがやっとで、そのようなことに頭をつかうこともないのかもしれなかった。春になれば種を蒔き、秋になればその実りを収穫する。その繰り返しを毎年、きちんと行う。誰かの口に入り、明日への活力になる。そう考えればその営みも決して無駄でも無価値でもなく、反対に神々しいまでに貴いものだった。誰が作ったのか、誰の手によって種が蒔かれたのかも問題外だった。いくつかの種が雨に流され、鳥に食べられ、不良のものもあって無駄になる。だが、レナードだってすべての思い付きを結実させるまでにはいかないのだろう。そうならば、わたしが、後世になにかを、貴重な一片すら残せなくても無理もない。しかし、こころには淡い思い出ができ、それを奪われる心配もない。そこにアクセスできるのは自分だけだった。そして、誰かの思い出のなかにわたしも加わることができる。誰かの笑顔と友情や愛情を結んだ過去が花となって残るのだと思うと、マーガレットはいくらか安堵した。すると、玄関のベルが鳴った。その鳴らし方はレナード特有のものだった。数週間でその音の刻み方を覚えてしまった。

 まだプールの上では競技が行われていた。しかし、ぼくも由美も集中力を欠いてきていた。日差しを避け、由美の手にはアイスクリームがあった。ぼくは場所柄、控えたがこんな場所で若者の水着姿を見ながら飲むビールはさぞおいしいだろうなと不謹慎にも思っていた。

 しばらくすると着替えが終わり、でも、まだ髪が完全には乾いていない久美子が上の方まで歩いてきてくれた。
「早かったね」と、娘は感嘆の視線と声で彼女に伝えた。
「このために、毎日、練習してきたから」
「目標があって、努力があって、報われる瞬間を迎えた。報われる過去の日々」
「どうかしたんですか?」日差しだけでもなく若い少女はまぶしそうな目をした。
「いやね、こういう風に結果が直ぐにあらわれる世界は、やはり魅力的だなと思って」
「努力もしたんですよ。毎日、毎日」
「それは分かってるよ」ぼくは、毎日、キーボードに向かっていたが、相手をしているのは世間だか、遠い世界だか、自分自身であるのかも分からなくなっていた。

 レナードは道具を拡げる。使い慣れた絵の具たち。それを板のうえで混ぜていた。もうそれだけで絵になっているような気がマーガレットにはしていた。
「あとは、どこを?」
「目のなかに、黒い瞳に光が反射する。いや、それはその瞳から生まれたもののように純粋でなければならない」

 マーガレットは意味が分からないまま正面を見ていた。自分の目が誰かや何かを見る器官ではなく、見つめられる器官であることに戸惑っていた。わたしの首や四肢も動くことを喜びとするはずなのに、いまは止まることを強いられていること自体に快感があった。目だけを描くならば、この静止している状態も無意味なのだ。もっとわたしに近付き、すべてを記憶してほしいものだとマーガレットは切に願っていた。

「久美子ちゃんの泳いでいる姿、ずっと、忘れないよ。目に灼きついた」と由美が言った。
「ありがとう。ロッカーから荷物をもってきます。由美ちゃん、明日から遊ぼうね。大会も終わりになるから」
「いいよ」
「宿題の追い込みがあるんだよ」ぼくは冷静な観察者。喜びを遠ざける番人でもあるのだ。

 久美子が消えると、加藤くんがこちらにやって来た。
「ご馳走になりました。おいしかったです」両親のしつけがよかったのだろう、彼はきちんと礼を言った。彼の姉はどうなのだろう? 「姉と会ったみたいですね」
「本を愛する貴重な存在。絶滅危惧種。誰かが保護しないと」
「でも、あいつ、ボーイフレンドもいないし、気持ち悪いぐらい本ばっかり読んでいる」と、彼は姉を評した。ぼくにはチャンスがあるのだ、と不覚にも思ってしまった。いや、もっともっと優れたものをあの女性に読んでもらうのだ。そして、由美と同じように優しく頭を撫でてもらうのだ。
「パパ、気付かなかったけど、ここで見ると、白髪が多くなったんだね」愛する娘が指摘する。生きることは興醒めの連続であり、この場面もその一環だった。
「黒く染めて、ビールでも飲みに行くか」と、ぼくは独り言のように呟いた。すると、最後のレースの勝者が決まったところだった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(57)

2013年05月12日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(57)

「パパ、おにぎり作って。それぐらいは、パパもできるよね?」父の能力に不信感をもつ娘。
「作れるよ。ご飯があって、多少の塩があって、中味になる具材があって、海苔でもあれば」ぼくは、ジャーのふたを開ける。白いものはある。「でも、なんでまた、おにぎりなの?」
「やだな。マーメイドの水泳の大会を見に行くって約束したじゃない。カレンダーにも書いてあるよ」

 ぼくは壁に吊るされた紙を見に行く。ヨーロッパのきれいな街並みの下に数字がある。その余白に文字もある。確かに。でも、カレンダーは誰が発明したんだろう。この素晴らしいもの。
「何時から?」
「久美子ちゃんの出番は午後からだから、そこでおにぎりも食べたい」
「なるほど」なるほど。計画性のある娘。おにぎりを作って、それを持ってバスに乗る。飲み物もあればさらに良しと。

 ぼくらは着替えてバス停に立っている。向こうから狭い道を器用に運転されたバスが来る。目的の体育館は終点だった。

 マーガレットは日課になっているマーケットへの買い物に出掛けた。母の食欲がないことから、喉に通りやすいものを考えていた。カラフルな食材が今日も斜めになった台にきれいに並んでいる。顔見知りになった店員は値段の交渉をしようとしていた。利益は確保しながらも、お客さんの顔色をうかがう。マーガレットは会うこともなくなってしまうレナードのことをまた思い出している。彼が自作のものを価格交渉している場面を思い浮かべようとしたが、不可能だった。値段があるようでありながら、それは相対的なものだった。多くのひとが欲しがれば価値と価格があがり、誰も触手をのばさなければ二束三文と判定される。リアルでシビアな世界。またゆとりがないと成り立たない世界でもあるようだった。

 マーガレットは愛用のカゴに食材を入れ、重くなったものをぶら下げながら遠回りの海沿いの道を歩いた。今日も現地の子たちが無邪気に泳いでいる。そう高くない崖から飛び込む子もいる。それを心配しながらも見守る。空にはカモメがいる。父にここに連れられてきたときのことを思い出していた。マーガレットは自分も崖のうえから飛び降りると言って駄々をこねた。しかし、父は絶対に許してくれなかった。いまになってみれば怖くて足がすくみそうだった。新しいことにチャレンジすることも何だか怖く、怖気づく自分がいた。すると、目尻から涙がこぼれた。不思議と感傷的になっている。思い出の比重が増え、そこから逃げ出すことが難しくなっているとマーガレットは感じていた。

 ぼくと由美はバスから降りる。プールの匂いがする。ぼくらは座席を決め、おにぎりを取り出す。館内のアナウンスで次の種目と終わった競技の順位が流されていた。もうしばらくすれば隣家のマーメイドの登場だ。ぼくはいま泳いでいる若者たちの背中を見ていた。彼らがなぜああもスムーズに泳げるのかが不思議だった。人類の成り立ちとして陸上で生きることを主たる目的としてきたのではないのだろうか。彼らはそのことに抵抗している。人類にはたくさんの無防備な穴という器官がある。由美も耳に水が入って不愉快がった先日のできごとがあった。

「パパ、久美子ちゃん、来たよ」
 何人かの両生類に適した女性たちが歩いてきた。そして、スタート台に立つ。ぼくの胸の動悸は早くなった。ドキドキ・ハラハラという職業的に使わないであろう単純な言葉を自分は引っ張り出していた。彼らはスタートの合図とともに飛び込む。思ったより水しぶきはあがらない。すると、数メートル先で顔が浮かぶ。両手は機敏に回転し、足も同様に水を叩いていた。ぼくは、競技にふさわしくない気持ちになっていた。久美子を応援しながらも、もう誰が勝ったとしても、この若さの発露に満ちた現場を祝いたかった。これがワクワクという気持ちなのか。結果として、久美子は断トツに早かった。彼女はガッツ・ポーズをする。ぼくは彼女の幼少期を思い出していた。あの子にこんな才能が隠されていたなんて。となりの我が娘である由美には何が埋もれているのだろう。その発掘こそが親の役目なのであろうか。

 そのとなりにいる娘は飛び跳ねて絶叫している。そして、懸命に手を振った。プールのなかの彼女は気付かないようだった。由美と違った先に向けて手を振っていた。ぼくは、そこに誰がいるのかを見ようとした。由美も同じことをしていた。

「あ、久美子ちゃんの初恋がいた」ぼくは、なぜだか自分の胸がときめいていることに驚いていた。これは、何なのだ? 恋とは、遠くに行ってしまった恋というのはこうした感情だったのだろうか。

 ある若者の背中は、由美の声を聞き取り、こちらに振り返った。そして、彼は手をこちらに向けて忙しく振った。加藤弟。本好きの姉を有する。ぼくは姉を探すが、もちろん居ない。家で、本でも読んでいるのだろう。なぜだか、ぼくはそれが自分の本であって欲しいと熱烈に願っていた。これも、恋なのだろうか。報われない一方通行の思いこそが唯一に近く正しいことなのだ。

 ケンはカレンダーを見つめている。それから、今日の日付の上に×印をつけた。あと数日すれば、マーガレットに会える。多分、いくらか日焼けをして健康的な容貌になっているのだろうと想像して。昨年もそうだった。来年や再来年の彼女のことも確認したいと願っていた。それは友情というものではなかった。もっと、強烈な胸の奥底から自然に浮かび上がる衝動だった。誰も止められない。誰も手助けも着火もしてくれない事柄だった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(56)

2013年05月11日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(56)

 マーガレットの母のナンシーは珍しくなかなか起きてこなかった。マーガレットは両者を隔てる扉を軽くノックした。
「どうかしたの、お母さん?」
「何だか、身体が重くって。でも、もう大丈夫だから」その声は弱々しいものだった。
 テーブルに座っても頬杖をつき、なかなか食事の量もすすまなかった。
「もう、片付けてしまうけど」マーガレットは心細そうに訊ねた。
「いいのよ」そう言って、紅茶が入ったカップだけを両手で握った。

 由美はテーブルで宿題をしている。ジョンはその足元で寝そべっている。ぼくは冷蔵庫に向かう。物語の進捗を考え、考えても解決しないままただ喉だけが渇いている。干上がってしまう才能のように。
「由美も飲む?」夏の麦茶。インスピレーションの補給。
「うん」鉛筆を握り、下のノートに何やら書き込んでいる姿勢をくずさずにそう答えた。「ママ、大丈夫なのかな?」
「大丈夫だよ。もし、何かあっても、パパが、ひとりでずっと育ててあげるよ」

「やだよ。ふたりがいい。三人がいい」
「帰ってきたら、元気になってるよ。大人って、けっこうタフにしっかりと作られているんだよ。簡単にこわれちゃう機械やおもちゃとは訳がちがう」
「乱暴に扱うから。パパもママをもっと大事にしないと」
「これ以上?」
「これ以上」女性同士の絆は強かった。ぼくはかすかに同性がいる家族を思い浮かべる。徒党を組める仲間。そう考えながら冷たい麦茶をキーボードの横に置いた。

 マーガレットは皿を洗っている。流水を冷たく感じていた。山から運ばれている水なのだから、もとの源流の方はもっと冷たくなっているのかもしれない。秋や冬に季節が移行することと、母の体力の衰えをマーガレットは密接に結び付けていた。そろそろ避暑も終わり、荷物も片付けなければならない。来年のことをマーガレットは思い巡らしていた。こちらで病気にでもなったら懇意にしていただいているお医者様もいないので心配がかさむだろうとも考えていた。ぼんやりとしながらも手だけはきちんと動いていて洗う皿も、すすぐコップもなくなっていた。マーガレットはタオルで手を拭う。その乾いた感触が適度にざらつき気持ちが良かった。

 マーガレットは表にでて、洗濯物を干した。夏の日差しといくらか肌に感じる海風をここちよく思う。数ヶ月もすれば湿ったグレーの世界の住人なのだ。太陽は世界に対して公平ではないと思う。また文明も社会の仕組みも公平ではないのかもしれない。その垣根を簡単に渡り切ることができるレナードと、彼のもつ好奇心や芸術的な天分をうらやましく思った。どちらが先なのだろう。そうした才能をもったひとは世界の隅々まで見渡したくなるのか。見たものを残したいので、芸術的な技が発達するのだろうか。マーガレットには答えがない。こうして濡れた衣類を干している毎日の繰り返しをしている事実のことも忘れていた。すると、室内でグラスが割れる音がした。

 ぼくはリビングでグラスが割れる音を聞く。
「どうしたの? 由美」
「ジョンが急に飛び掛ってきたから」その犬は濡れ衣を着せられる事実に抵抗をする眼差しを向けた。ぼくの同性はこの犬だったのか。無口な彼と徒党を組めるのか。
「ジョンは、大人しい立派な犬だよ」そう言いながらぼくは割れたグラスのかけらをひろった。犬の足裏を確認し、なにもないことを知った。
「宿題、終わった。あとは絵が一枚のこっているだけ」話題をそらすように由美が言った。「パパ、得意? 絵の才能って遺伝すると思うよ」

「ママは、だってデザインもするんだよ」
「じゃあ、今度の最後の休みにでも手伝ってもらう」
「そうか。夏休みの土日も、もう最後か。クラスでなにをするんだっけ・・・」
「ビール屋さんの文学少女」娘は、ただそう言った。
「どこで、聞いていたんだよ。でも、彼女はいないの。読むのと書くのには雲泥の差がある。しかし、日記ぐらいは書いているのかもね」ぼくは空想の世界の住人に戻りかけている。
「雲泥の差って?」

「月とすっぽん」その響きが愉快なのか、すっぽんと何度も娘は叫んでいた。多分、忘れなければ外でも言うだろう。嫌な予感がする。悪い予感の方は、引き寄せてしまうのか、大体が当たる。手繰り寄せられる悪の神秘。マイナス思考。嗜好と志向。音にすればどれも同じものなのだ。感情と表情をともなってこそ文字だった。ぼくは、あの店で本の話でもしながら単純にゆっくりとビールが飲みたかった。その夕暮れの渦中の住人であることを望んだ。今度のクラスの帰りにでも叶うかな。夏なのに色白な文学少女。化粧や爪は派手なのに。それに比べてとなりの家の健康的なマーメイド。やはり、妻をもっと大事にするべきなのだろうか。

 マーガレットは玄関を開ける。母がかがんでグラスを拾っている。
「どうしたの、お母さん?」
「ちょっと、手がすべって」
「少し横になっていたら。もう直ぐでここも去るんだし。そのときに具合が悪いと困るでしょう」
「でも、きょうは絵描きさんが来るんでしょう」

「来たって、お母さんが描かれるわけじゃないでしょう」
「だけど、若い男性と女性がふたりっきりでいるのは、やっぱり良くないよ」
「となりの部屋にお母さんがいるじゃない」
「それでも、やっぱりね」と言いながらも、母は寝室に向かった。マーガレットは母を支える。今日の予定を中止にすることもなかった。それにふたりとも、もうここでの時間は残されていなかった。出来上がった絵を、彼は今日は持ち帰らないのだ。そのままわたしが貰う。避暑が終わったら、いっしょに持って帰る。この年のわたし。ひと夏のわたしの記録、とマーガレットは母の毛布をかけながらそう考えていた。