爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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仮の包装(10)

2017年01月31日 | 仮の包装
仮の包装(10)

 試しに実家に電話をかけてみると、ぼくの荷物が運送業者によって運ばれてきたらしい。良枝はしびれを切らして実家に帰った。処分も考えたそうだが、結局、何度か行ったことのあるぼくの実家に荷物を送った。その費用を母は良枝の実家に為替かなにかで送ったそうだ。ぼくはこうして帰るところがなくなった。望んでいたことだし、覚悟もできていたのだが、なんだか淋しいものだった。淋しさなんてものも、自分勝手にできている。

 ぼくは給料をもらってから隣の大きな町に靴を選びに来ている。横にはももこがいた。彼女と映画を見る予定もあった。

「信頼しているからな」とその前に漁師に言われた。そう宣言されてしまえば裏切ることもなかなかむずかしい。自分の身体が魚くさい気もする。杞憂に過ぎないのだが、世の中のものは、すべてそのような範疇にあるものでもあった。

 ぼくは種類の違うものを何足か履き、気に入ったもののサイズが違うものにもいくつか足を通した。結局、ひとつの荷物ができる。それをぶらぶら持ち、飲食店を探した。選択というものも限られている。ぼくはピラフを食べて、ももこはグラタンを選んだ。ぼくはグラスの赤いワインを飲み干す。自由という概念の顕在化という気むずかしいことを考えている。それでいて気持ちは、満点の自由だった。

「お父さんになにか言われた?」
「時間通りに帰してくれだって」
「そんなこと。子どもじゃあるまいし」と言ってすこしふくれる。

 ぼくは、自分の立場を思い返す。時間通りに帰ることもなく、ここで根なし草のように働いている。だが、よくよく考えればこれも根のひとつだった。根を張り、幹が太くなって大木となる。まだまだ水を注いでいるような状況だが。

 映画館で料金を払う。ひとは暗いなかで他人の人生の一端にまぎれ込む。それはぼくが主人公で、ももこがヒロインのようでもあった。ぼくは良枝という存在を忘れていない。だが、鮮明という観点がほどけ、どことなくぼやけていく。さきほどのワインの酔いなのか、最後は眠気と戦うことになる。

 外に出ると少しだけ排気ガスのにおいがした。海のにおいではないという事実だけで歓迎だった。会話が次第に先細っていく。

「門限とか、あるの?」
「あるとは思うけど、きょうは親も安心しているから、遅れてもそんなに怒られないよ」

 ぼくは、女性とそういう関係になったのは随分とむかしのようだった。かといって用件を遂行できるような場所も探せずにいた。


仮の包装(9)

2017年01月07日 | 仮の包装
仮の包装(9)

 風呂の湯加減を確認して、タオルの感触や、歯ブラシの在庫の数を調べた。かといってここは帝国ホテルでもなければ、チャップリンが来日時に宿泊するような由緒正しき施設でもない。もっと気楽な場所。庶民が一日だけ羽目を外す竜宮城。足りないものはなく、しかし、サービスという観点からすればすべてが足りないようにも感じられた。

 夜も終わる。宿泊客が食べ終えた皿を洗って、アンコールの幕を下ろすように最後に布巾を干した。自分も風呂に入って掃除を済ます。ぼくは布団のなかで学び舎で学んだことを、遠い、あるいは近い未来のここで復習しようとした。分母は、いったいなにを表していたのだろう? 謎の多くは謎のままだ。すると朝になっている。

 そんなこんなで早目に漁師のところに出向いて、魚のさばき方を教えてもらえることになった。商品として流通する資格に満たない可憐なものがぼくの実験台となる。経験というのは絶対的な数のうえでの正義の主張だ。習うよりなれろともいう。ぼくは身を任せるようにして横たわっている魚に包丁を入れる。ぶつ切りのうまそうな身となって、生前抱いた美への執着を捨て去る。

「最初は、そんなもんだよ誰だって」漁師の妻は包容力のある声で言う。

 数にも限度がある。あと数匹で猫やかもめの上等な餌も潰える。すると、ももこが学校から帰ってきた。
「訓練中だね」
「初心というのは、なんにせよ美しいものだよ」経験数とファースト・タッチの甘美な差。

「ちょっと、やらせて」
「できるの?」
「いいから見てて」

 ももこはぼくの手から包丁をうばい、ささっと切る位置を決める。完全なる名人芸。年下の実力をあなどっていた。年長者というのは何事にも優れていて、訓戒を恩着せがましく雄弁に語るものだったはずなのに。師曰く。師、歯噛み。

「アメージング」
「どう?」ももこは返事を聞く間もなく、手を洗って奥に消えた。
「あと二尾」スパルタという定義を知らない漁師の妻。名人の母。
「さすがに、あれを見たら、もうやる気が」
「じゃあ、これは今晩の夕飯にするから」漁師の妻も見事な腕前で魚を薄っぺらくした。皿に並べると、魚の本望のように立体的な形となって飾られた。装束。再構築。

「また、明日」ぼくは背中に声をきく。よくみると手には鱗がついている。きらきらする。いつかの中華屋で見かけた猫がうしろに付いて歩いている。彼か、彼女も不器用そうだった。しかし、高い壁に登って一瞬で消える。ある面では優秀だった。自分も誇れそうな部分を探す。それでも、誇るという見えない行為自体が下品で、わずらわしいものだった。ぼくは靴を脱いで、自分の部屋にもどる。なにもできない自分。長所が皆無の最初の人類。

「お客さん、帰って来たよ」女主人の声がする。ぼくは鏡に向かって接客用の顔をつくるも、ひげを剃り忘れていたことを知る。無頓着という部分が、ぼくのプライドなのだ、と勝手な論理を生み出して、部屋を飛び出した。