爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(45)

2012年10月30日 | Untrue Love
Untrue Love(45)

「順平は、誰かと寝ているんだろう? 彼女がいないと言ったって」

 そのように早間がぼくに訊ねた。純粋な好奇心というより会話の糸口を求めたかのような問いかけだった。また、その質問に答えるようぼくに促しているようでもなかった。ただ、咲子とそういう関係になったということを暗にほのめかしているようでもあった。それで、ぼくにも同じ状態になるよう立場を設定したかったのかもしれない。同様の問題に悩み、喜びに浸る友人として。また、もしかしたら、彼にしては珍しく咲子に拒まれ、手間取ったということを伝えたかったのかもしれない。しかし、ぼくはどちらにも興味がなかった。それも違う。興味を自らかきたてないように努力をしていたのだ。

「いないこともない」
「でも、きちんと付き合ったりしないんだ」
「絶対にそう思っているわけでもない。ただ、そういう次の段階に行くことが恐いのかもしれないね」
 このようにぼくは、ぼくの問題を語っている方が安心できた。結果として、自分のことを語ることによって、彼の口を閉じられてもいたのだ。

「恐いって、いったい、どういうことだよ? 女なんか恐くないだろう?」
「そうだろうね、早間から見たら。そろそろ、バイトに行かなければ・・・」ぼくは、腕時計を確認してからそう言いのこして大学の構内を出た。そこを出ればぼくは自由になり、自分自身が規定する尺度の領域の住人だった。女性をたぶらかすこともなければ、征服者として自分を君臨させることもない。

 しかし、頭は拘束されていた。先ほどの会話が脳の底に残留し、ぼくの頭のなかで主張をする気でいた。封じ込める決心をしていたが、なかなか手強い相手でもあった。だから、ぼくは努めて別のことを考えようとした。

 ユミは先日、またぼくの家に来てぼくの髪の毛を切った。それにかかる費用を捻出しなくなったので心配は減ったが、まったくの無料という訳にもいかない。彼女にプレゼントを買い、食事もおごった。結局は同程度のお金はかかったが、自分の資質を、美容院という限られた時間しか共にしないひと以上にぼくを知っているということで、おざなりという感じからは隔てられていた。
「専属のひとがいるって、いいことじゃない?」

 それはぼくとユミとの関係そのものも含まれているような意見だった。だからといって、ぼくは素直に同意しなかった。それをするとぼくはすべてを失ってしまうという仮説に脅えていたのだ。また、それをすべて継続させることも、やはり等しく失うことにつながるのだということは知らなかった。
「むかしの男性のことって、思い出したりする?」ぼくは髪をいじられながらユミに訊く。
「なに、それ? もしかして嫉妬してほしいと思っているの? 違うね、嫉妬しはじめてるの?」
「そうじゃないよ。まじめな疑問」

「なんだ、違うんだ」彼女は首を傾げる。その質問を考えているのか、ぼくの髪型をどうハサミで処理すれば様になるのかを検討してもいるようだった。「思い出したりするよ。風とか日射しとか、ひんやりとした空気とかで、思い出って結び付いているものでしょう?」
「なんだ、詩的なことも言えるんだ」

「バカにした。俗物みたいな扱いをした」彼女のふくれた表情が鏡にうつった。それが若い女性の放つ儚い輝きであることをぼくは知らない。「そうだ、この前、咲子ちゃんが急にここに来たとき、あとで何か言われた?」
「とくには。いや、まったく。興味もないし、照れた様子もなし」
「そうなんだ。クールね」彼女は沈黙してぼくの頭を点検した。「はい、できあがり」
「うまいね。それとも、ぼくが才能を引き出しているのかな」

「いいよ。そう、シャワーでも浴びちゃいなよ。そうだ、わたしもいっしょに入っていい。汗、かいた」
 彼女は切った髪の黒い束をゴミ箱に捨てに行った。一瞬だけ姿が消えた。それから、服を全部脱ぎ、またそこにあらわれた。ぼくは早間の問いかけをいまごろになって思い出した。「誰かと寝ているんだろう?」と彼は訊いたのだ。
「むかしの男性とも、こうやって入った?」
「バカみたい」彼女はそう言い、ぼくの肩の辺りを強くこぶしで殴った。ぼくはちっとも痛くなかった。だが、ユミはその行為を詫びるように同じ箇所に唇を近づけた。「バカみたい」

 ぼくは軽くなった頭をシャンプーの泡で満たした。その白い泡を、片手を高く揚げ、シャワーヘッドを掴んだユミがお湯で流した。その勢いのある流水があらゆるものを流そうとしたが、脳の内部に執拗にこびりついている様々な記憶の断片や、自分の犯したミスや、傷ついた過去の端くれや、早間の質問などが下に落ちることはなかった。その断片の集合体だけが自分のような気もした。太い幹ではなく、ささいな小枝だけで出来上がっている自分。組み立てられたものはあまりにも薄っぺらなもののようだった。

 すると、目の前にユミの背中の産毛が水を弾こうとしているのが目に映った。彼女の芯にある躍動感だけではなく、いまのユミもその数本の細い毛だけで構成されているようにも思えて来た。
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Untrue Love(44)

2012年10月29日 | Untrue Love
Untrue Love(44)

「咲子ちゃんを、デートに誘ってもいいかな?」と、ぼくがぼんやりとしているときに、突然、早間が言った。ぼくは、なぜかそのふたりを直ぐに結び付けられないでいた。彼はいったい何を質問しているのだろうと戸惑いも覚えた。だが、ぼくは当然、返事をする。少し、遅れたにしても。

「オレの許可なんかいる?」彼に連想させるいくつかのことも思い出したが自分で納得させる材料があった。「紗枝ちゃんは? そうか、別れたんだ」
「やっぱり、いらないよな。ただ、前以って伝えておこうと思ってね」
「許可ね・・・」彼らは並列な場所にいたのか。
「だけど、ほんとうはもう誘ってるんだ。既に」
「それでオーケーなんだ?」
「うん。断られなかった」

 ぼくは彼ぐらい女性に対して不誠実な人間もいない気がしていた。しかし、それを自分に置き換えるならば、ぼくぐらいだらしのない人間もいそうになかった。そういう否定的な思いもあった反面、これでぼくは咲子と付き合う時間が減るという安堵に似た、肩の荷が下りたのだという気持ちも膨らんだ。これは、肯定的に。違う。妥協的に。それにぼくといるより、早間と時間を過ごした方が、実際のところ楽しそうでもあった。

「なら、ぼくが関与することもまったくない。取り敢えず、悲しませないでくれよな」と、ぼくはどうでもいいお願いをした。お互いが好きになったり、好きになる前提として遊びにいったりすることはまったく問題がなかった。それで、気に入らなければ関係をつづけなければいいのだ。だが、早間がひとつの関係を成長させ、暖めていくという過程に向いているかといえば、そのことには単純に賛成できなかった。だが、ぼくらの年代でそういう永続性ばかりを追い求めることなど実際のところ不可能でもあるのだろう。その不可能に責任を追及することも無駄だった。それに、責任などという重い言葉を使うことにも抵抗のある年頃だった。

「するわけないよ」
「うん」ぼくはなぜだか頷く。「何かすること決まっているの?」
「別に、普通にドライブして、飯を食べて」
「そう。咲子は遠慮しそうだな」ぼくは彼女が何に関心があり、何を好んで食べるのか具体的なところでは把握していなかった。それを知らないまま、ぼくらの時間は減少していく。両親が執拗にぼくに持ちかけた提案もほとんど終わりに近づいたのだ。あとは、自分で切り開いた道をすすめばいい。男性だって、女性だって。
「どこら辺に行きたがるかな」

「さあ、車で行けるところだから、海とか、ちょっと離れた山の方とか」ぼくは遊園地で彼女が快活にしている様子を想像できないでいた。行けば行ったで若い子だから普通に楽しむだろう。ぼくは、最近のことだがユミに誘われていることを思い出した。彼女が、ああした場所ではしゃぎまわっていることをイメージするのは簡単だった。ぼくは、その予定を考える。ぼくには、ぼくだけの人生があったのだ。「あとは、ふたりで相談してよ」

 ぼくは、それを聞いた日にバイトを終え、久々にいつみさんの店に足を向けた。
「お、めずらしい。近頃、寄り付かないと思っていたら」と、いつみさんが笑顔で迎える。
「順平くん、もっと来いよ。いつみが淋しそうにしているぞ」と、キヨシさんも付け加えた。それを聞いたお客さんがぼくの方をちらっと見た。ぼくは顔を隠すようにカウンターの端にすわった。

「あいつ、いつもからかってばかり。でも、もっと来れば?」いつみさんが、ぼくの顔の位置と同じになるようにいくらか屈んだ。「なんか、元気ないね。うかない顔をしている・・・」心配そうに彼女の眉間にしわが寄る。その表情をはじめて見つけた。
「そんなことないですよ」ぼくは、そこで一旦、言葉を止めた。「いや、あるかな。女性に積極的というか、心配させることを苦にしない男性みたいなひとがいますよね? 一般論として。友人にそういうヤツがいて、男同士で付き合う分には楽しいんだけど、そいつの振る舞いがちょっとなんというか・・・」

「迷惑を被っているの?」
「いや、ぜんぜん。いや、まだっていう感じかな。迷惑の予感」
「それに心配しているんだ。予感だけなのに」
「そう、心配性の老人みたいに」ぼくは、自分がいつか、そういう立場になるかもしれないということを理解できずにいた。ぼくの若さは無限であり、半永久的に青年であるとも思っていた。とくにこうして、いつみさんの店で彼女の前に座っている限りにおいて。

「順平くんの問題じゃないのに?」
「ぼくの問題じゃない。縄とか、張り巡らされたロープの向こうの問題で、手出しもできない」
「手出しをしたいんだ?」
「したくもない」
「なんだ。なら、いいじゃない。でも、地雷が埋まっていても、そこが遊び場なら、子どもたちはそこで駆けずり回りたくなるもんだよ」

 ぼくはその言葉を映像化させる。いつみさんが前に旅していたどこか遠い街の情景の一部のように。ぼくは、そのいつみさんの思い出のなかに足を踏み込むことができない。彼女に危険がせまっていても、ぼくは何の助けにもならない。ぼくは彼女の存在すら、そのときは知らなかったのだ。手を差し伸べたいと思ったのは、彼女と知り合ってから以降のことだった。つまりは、今日や明日になってからかもしれない。咲子のことも同じように考えられるのだろうか。ここにいるいつみさんより、彼女は世間を知らないでいた。だからといって、繭にくるまれて擁護され生活することも絶対的に不可能な事実でもあった。
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Untrue Love(43)

2012年10月28日 | Untrue Love
Untrue Love(43)

 大学の食堂で昼飯を食べていると、紗枝がそばに寄ってきた。
「結局、あいつと別れることになったんだ」と彼女が告げた。舞い込んで来たその新たな状況に順応をしていないようでもあった。「ここで、いっしょに食べてもいい?」

「いいよ」彼女はいつも早間といっしょだった。これからは違う。そう思いながらぼくはテーブルの向かいを指差す。ぼくは、ほとんどひとりで過ごしていたことをあらためて知る。廻りでは、この馴染みがないふたりがいっしょにいることに関心をもっているようだった。だからといって、ぼくはあまり気にもならなかった。ぼくの世界はここではないという不思議な気持ちに貫かれていたからだ。「もう、会っていないんだ?」
「会ってないよ。別れたから」
「納得していないみたいにも聞こえる。新しい相手が、もうあいつにはいるのかな?」そういうことを口にする自分は無神経の塊のようでもあった。

「さあ、知らない。別れたから」
「友人関係をつづけるひとも、世の中にはいるみたいだけど」
「いるんでしょうね、どこかに」それは自分ではないときっぱりと決めている口調だった。ぼくは誰とも約束をしていない。だから、所有ということも拘束されるという事実のどちらもなかった。気楽な反面、それはとてつもなく淋しいことのように思えた。
「いるんだろうね」しかし、ぼくも高校時代の交際相手とそのような中間的な環境に自分を置くことを望んでもいなかった。もう今後、二度と会うこともないと思っていた。どこかでばったりと会ったら、彼女がどういう態度をとるのかも分からない。親しくされたら親しくして、無視されたら自分も気付かないフリをしていようと思った。また、そういう瞬間が訪れないこともおぼろげながら感付いていた。

「紗枝ちゃんには、新しいひとは? 何人かはひとりになることを待っていたかもしれないし・・・」
「そういう情報をもってるの?」彼女は少し嬉しそうだった。
「残念ながら、もっていない」
「そう、残念だね」
「自分から気になるひとがいれば、声をかければいいじゃない」
「いままで、したこともないから。順平くんは、ここに好きな子はできないの? いつも、ご飯もひとりで食べてて」
「気楽だからね。それに、別れてから会ったりするのも嫌かなと思って」

「なんだか、ズシンと来る言葉」
「さっきから無神経すぎるかな?」
「そうかも。でも、好きなひとなんて、意図しなくてもできるものでしょう?」
「それは、たくさん」
「例えば?」

 ぼくは空想をしたフリをして、その場を誤魔化す。彼女に伝える必要もない。厄介な問題をわざわざ作る必要もない。だが、ぼくは咲子にはその存在を教えていた。なぜ、どちらかを信頼して、どちらかを疑っているのだろうか。これ以上、関わるなとぼくのこころの奥のシグナルは、なぜ警告を発しているのだろう。
「例えばもないよ。バイトをして、勉強をして、大体が、忙しいからね」

「じゃあ、できたら教えて。あいつが誰かと付き合うようになったら、それも、こっそりと教えて」と、紗枝は最後に言い、口を拭って、そこを去った。紙袋を通路の脇にあるゴミ箱に入れる後ろ姿をぼくは目で追った。彼女は何かを捨てるのだ、とぼくは独り言を言う。それは、誰にも聞かれない。誰かと誰かの関係が終わる。いままでの継続していた何かが潰え、あとの情報を手に入れられなくなる。そもそも、知りたいという願望もなくなるのかもしれない。だが、紗枝はまだ知りたいと思っていた。その思いが彼女の内部にある限り、火種はまだくすぶっているのだろう。ぼくは、またひとりになり文庫を取り出した。また、木下さんの家から読み終わった一冊を借りてきたものだ。どこからか、彼女の匂いがするような感じがしていた。彼女が化粧をとった目の周り。もし、彼女がぼくと同じような年で、いっしょにここに居られるとしたら、いまのようなひとになっていたのだろうか。誰かを愛してそれから失恋して、まだ未練のようなものが断ち切れないとしたら、それをどう拭い去ろうとするのだろう。ぼくは紗枝の残した言葉を頼りに、知っているひとの面影に切り替えていった。だから、紗枝のことも直ぐに忘れてしまった。自分のいくつかの放った無神経な言葉さえも。

 昼飯も終え、ぼくもゴミを捨て、教室に戻った。紗枝がはじに座っている様子が、ぼくの場所から斜めに見えた。横には早間がいない。今後、ずっと居なくなるのだろう。そのことがまだ新鮮だった。いつか、その状況が褪せてきて、思い出さなくなる日も来るのだろう。もっと大人になり、彼女たちの両方を忘れてしまう日も来るのかもしれない。ぼくにはいったい何が残り、何を、どのようなものを継続させ、放さないでいるのだろうかと考えていた。答えは出ない。答え自体ないのかもしれない。それは意志でもあり、まったく意志の力も及ばない領域の問題かもしれない。ぼくは眠気が襲ってくる予感にさらされる。失恋も経験できない自分にいちばん密着しているのは、その眠気のようなものだけだったのかもしれなかった。
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Untrue Love(42)

2012年10月27日 | Untrue Love
Untrue Love(42)

 ぼくは木下久代さんと話すきっかけを探していただけなのだろうか。そのために咲子に靴を買わせようと仕向けた。いや、彼女自身がそれを言い出したのだ。だが、ふたりはそれぞれを知ることになった。ぼくは、こうしてぼくだけの生活だと思っていたことに、咲子を踏み込ませるのをためらわなかった。それは、ぼくの異性に対する愛を、ひとつだけではない好意を暴くことでもあった。それを非難される恐れもあったし、軽蔑されることも可能性としてあった。だが、そのことを望んでいたのかもしれない。気をつけないと、東京の男性は、自分の欲求しか見ていないのだと。それを教える。だが、ぼくはもちろんそれほどのエキスパートでもない。

 だから、目の前に木下さんがいれば、それだけでデレデレとした。
「ああいう子がそばにいたんだね、順平くんのそばに」嫉妬を装った口調で木下さんが訊く。「可愛い子だった、とても」
「説明しますね。小さいときに田舎に帰って会ったことしか覚えていないんですよ。4月からこっちの大学に入って、ぼくの両親の家のそばに住みはじめた。なかなか、友だちを作らないから心配して、ぼくがいろいろ連れまわすよう親に言われている。その実践のひとつなんだ」

「それで、わざわざあのデパートに来た」
「女性の靴なんか、どこで買ったらいいか分からないですから。久代さんならきっと確かなものを選んでくれると思ったので」
「でも、突然だからね」
「突然、ふたりとも暇になったから・・・」それは言い訳だった。だが、ほんとうのことを言う必要もなかった。
「いとことか、そういうの?」
「さあ、多分ちがうと思いますよ。だけど、どうやってつながっているのかも、ほんとうのところは知らないんです」
「そう。随分と大ざっぱなのね」

 ぼくは咲子のあらましを説明することに費やすのに悠長な時間などもちたくなかった。だが、それぞれが関係性のうえに生きている以上、ある程度は仕方がなかった。だが、木下さんの新たな面も知りたいと渇望していた。
「久代さんのことを話しましょうよ」
「そうね。でも、靴がけっこう汚れてるのね。自分のは買わないの?」
「ただ、仕事で汚れるだけですからね。そろそろ、新しいのを買うタイミングかな」

 彼女は優しそうな態度で頷いた。ぼくは彼女にしか見出せないものを、彼女のなかで見出そうとしている。ユミのような喜びを表現する躍動感もなければ、いつみさんのような決意を秘めた意志のようなものもなかった。それは別個の存在なのだから仕方がない。久代さんには、水晶のなかに閉じ込められているような頑なな美があった。それは、どうあがいても届かないのだというあきらめを抱かせるような拒絶感があった。しかし、実際の彼女は優しいひとでもあった。その微妙なずれに魅力があったのだ。そのずれが生ずれば生ずるほど、生命感は希薄になり、ある種の汚れを内在させている都会とか、生きるという事実に似合っていないのだという心配もおこさせた。だが、それを拭い去ったり、何らかの実行に移せるほど、ぼくは大人でもなかった。だから、きちんとした大人の男性が彼女を優しく包み守ることが大切なのだと、最終的には認識していたのかもしれない。水晶を美しく見せる土台のように。ぼくが、そういう大人の一面をもてる時期まで彼女は待ってくれるのだろうかという疑問もあった。当然のこと、彼女が待つ必要もない。ぼくは、一時的に通過する、流れ星のようなものでもあるのだ。彼女にとって。いや、星などと表現するほどきれいなものでもない。もっと黒くくすぶっている隕石。どこに落ちるのかも分からない隕石ぐらいだろう。自分の価値としては。ぼくは、ここでいったいぐずぐずと何を考えていたのか。

 最後には久代さんの部屋にいた。ぼくはテーブルに座り、彼女がシャワーを浴びている音を聞いている。排水口に水が流れ、それが下水管を通っている状況を思い浮かべていた。それは汚れとも思えないほど清々しいものにも思えた。ぼくは腕時計の針を確認する。もう、次の日に間もなく変わろうとしていた。咲子も一日だけのバイトを終え、買ったばかりの靴を自分のアパートに持ち帰ったのだろう。キヨシさんはどのような真夜中の時間を過ごしているのだろう。新しいメニューを考えているのかもしれない。帳簿をつけているのかもしれない。たくさんの領収書の束を脇に押しやり、うんざりしているのかもしれない。休みだったいつみさんはどのような時間を過ごしているのだろう。寛いでいるのか、それとも、数秒でもぼくのことを考えていてくれたのだろうか。それとも、むかしの交際相手の記憶の糸を手繰り寄せているのだろうか。彼女がそのような過去に未練を残していることなど考えられなかったが、ぼくがそれほど女性のこころが分かっていると納得させるには材料も経験も不足していた。

「化粧がおちた顔を見せるのは、順平くんだけだよ」と、シャワーを終えた木下さんがぼそっと言った。それが、ぼくという存在を認めたがゆえのセリフなのか、それとも、自暴自棄に似た表現なのか、それすらも分からなかった。ただ、それにしてもその姿もあどけなく可愛いということは理解した。水晶だと思ったものは、プラスティックでできた宝石の模造のようなものかもしれなかった。だからといって価値が目減りするものでも決してなかった。
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Untrue Love(41)

2012年10月26日 | Untrue Love
Untrue Love(41)

 咲子は靴が欲しいと言っていた。ぼくは靴という物体に対して愛情を抱いているひとを身近なところで知っていた。それは木下さんだ。ぼくは一足のスニーカーを履き潰して、その代わりにまた一足を買うという方法をとっていた。同時に何足もあるということなど考えてもいなかった。しかし、お洒落に時間もお金もかけるひとは違うのだろう。いくつもある時計からその日の気分にあったものをチョイスして腕にはめ、足元ではその日のコーディネートに合う靴を選ぶのだ。それは物だけに対しての考えではないのかもしれない。ぼくは高校時代にひとりの異性に夢中になった。それは結果としては実らなかったという部類に入れてもいいのかもしれない。交際はしたが、彼女はぼくを捨てた。新しい男性に飽きた彼女は戻ってこようとしたが、ぼくが今度は拒絶した。恨みも憎しみもまったくのこともっていない。彼女なりの考えがあり、愛情の示し方があったのだろう。ただ、ぼくとは相容れないだけなのだ。

 しかし、ぼくは数人の女性をいまになって迷いつつ、ひとりに決めかねないまま、そのなかを泳いでいる。居心地も良くなければ、自分自身でも正当化させることができない。ただ、こころの奥のどこかで、あの苦い気持ちを味わいたくない恐れを嗅覚が感じ、逃げられるよう方法を模索しているのかもしれなかった。そのこと自体が既に言い訳で、ただ、多情なだけなのかもしれない。

 そのようなことを考えて待ち合わせ場所に立っていた。咲子はバイトの日で、その仕事の前にデパートで靴を買いたいと言った。ぼくは、そのための予算を父から貰いネコババするほどの度胸もなかった。だから、言い成りになったように彼女の姿を待った。そして、咲子はあらわれた。

「ごめんね、いろいろ忙しいのに、いつも、わたしの用事に付き合ってもらって」と咲子はあやまった。ぼくは、その境遇からはやく抜け出たかったが、なかなかすすまなかった。そして、その状態も悪くないと思いはじめていたのかもしれない。

「いいよ、ぼくもバイトの前の時間を潰すだけだから・・・」と言って、デパートに入る。女性ものの化粧品があり、服がある。ぼくはそこに似合わない格好をしていることを理解する。ひとは、このような場所になにを求めているのだろう。ひとは美を羨望し、自分を飾ることに熱意を傾け、得られれば満足する。その満足感を提供するためにこの場があった。ぼくは、横を向いて咲子のことを見る。幼い頃の彼女のことをまだ覚えている。浴衣を着て、夜の祭りにいた。だが、いまはたくさんの明かりの下にいた。

「順平くんか、今日はお客さんなの?」木下さんが目敏く、ぼくの存在に気がついた。
「付き添いなんですよ」
「彼女、できたの? それをわざわざ、ここまで見せに来たの? いやな子ね」と、彼女はふざけた調子で言った。
「まったく、そんなんじゃないですよ。親類なんですよ。靴を買いたいっていったから、せっかくならば、似合う靴を探してくれそうなひとにお願いした方がいいかなって」

「そう」木下さんは目を細める。それで、咲子に見合ったものが占えるような表情だった。「ここに、座っててね」
「咲子です」
「咲子ちゃん、待っててくださる?」

 ぼくは、そのように客というスタンスに立って木下さんの姿を見たことはない。彼女はひとつの靴を探し、サイズも考え、足元に置いた。
「今日は、空いているんですね」と、独り言をぼくは放った。
「そうなのよ。どういうのを要望しているのか分からないけど、これなんか、普段、履いてもいいし、学校に通うのにも合っていると思わない?」

 咲子は、いま履いている靴を脱ぎ、新しいものを履いた。足にしっくりと馴染んだ様子があった。ぼくは値段が心配だった。
「高そうですね?」
「順平くんのプレゼント?」
「違うけど、親にお金は貰ってある」
「そうなの?」咲子はいささか恐縮した。
「質に比べて、そんなに高くないのよ」

 咲子は満足した表情を浮かべた。だが、あと、いくつか選びたいようでもあった。それで、木下さんはいくつか靴を並べる。ぼくは彼女の労働を無駄にしているようでこころが痛んだ。だが、そもそもそういう考え方が間違っているのかもしれない。
「最初のがいいな」と咲子には珍しく自分の主張を通すようだった。ぼくにも異存はない。それで意中のものが袋に入れられ、レジでぼくはお金を払った。

「順平くん、あとできちんと説明してね」と木下さんが言った。きびしい顔を作ろうとしていたが、そこには自然な彼女の優しさが奥に隠れていることがしれた顔でもあった。「じゃないと、今後ずっと無視するからね」
「それは、困ります」

「ここに居辛くなるのよ」しかし、彼女がそのような力や権力を有しているはずもない。ただの遊戯の延長だった。ぼくは、その遊戯をこころよいものだと判断していた。
「今日も、これから働きます。無視されると困ります」
「じゃあ、終わったら待っててね」ぼくはお釣りを受け取る。これで、咲子にも父にも約束を果たした。それから、デパートを出る。ぼくは裏口にまわり、咲子はいつみさんの店に行く。今日は、いつみさんは居ない。彼女はいまごろなにをしているのだろう。ぼくが問い詰める権利をもっていないことは承知していた。だが、考えてはいけない理由もまったくなかったのだ。
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Untrue Love(40)

2012年10月25日 | Untrue Love
Untrue Love(40)

 ユミが休みのある一日だった。ぼくらは、ぼくの部屋で過ごしていた。どちらも、このひとでなければダメだという要素を持っていたわけではないのかもしれない。しかし、ひとりでいるのにも飽きる時間がある。愛情がまったくないわけでもない。かといって、愛情に埋もれるほど互いを認めていたわけでもない。それは敢えて冷静さのうちにいようというアピールだったのか、格好をつけたいという見栄のあらわれで、ある種の責任逃れを打ち出すことへの憧れだったのか、区別もつかない。だが、いっしょにいるときはあらゆる種類の葛藤や後悔も感じていなかった。また、その幼稚さも禁じていなかった。

 ぼくは早間と紗枝の関係の亀裂を、愛情の不足として考えていた。けれども、それを非難する自分はもっと愛を下等なものとして扱っていた。彼らは、彼らなりに喧嘩を繰り返したりして、修復を試みたり、正面からぶつかり合ったりして一生懸命でもあったのだ。ぼくの方こそ、そういう作業を抜きにして、満足だけを手に入れようと努力した。いや、努力さえ軽視して放棄した。

 だが、そののどかな空気がくずれる。ぼくらは抱き合ったあとの気だるさを部屋に充満させている。それ自体が意志をもっているようだった。ユミが持って来た音楽が壁際の一角に増える。それを流しながら、何にも捉われない休日の午後を過ごしていた。

 家のチャイムが鳴る。ぼくは出るのをためらう。新聞の勧誘を断るという行為を休んでいる午後にするのも面倒だった。多分、そういう目的のためにチャイムは押されたのだろう。誰かの人差し指で。だが、もう一回なったので、ぼくは簡単に衣類を着て、玄関に向かった。

「はい、なんですか?」ぼくは戸を勢いよく開ける。手がなぜかぬるぬるしてドアのノブを握るのに手間取っていた。
「あ、順平くん。これ、返しに」そこには咲子がいた。彼女が来るのを拒む理由などなかった。普通のときならば。だが、いまは日常のひとこまではなかった。

「あ、そうか、そうだよね。ちょっと、待って」ぼくは、いったんドアを閉じ、ユミの方に振り返った。どちらに対してもやましいことなどしていない。だが、どこかに気まずさがあったのも事実だ。

「誰だったの?」ユミが訊いた。
「咲子が突然、来たんだよ」ぼくが答えると、逆にユミは堂々として笑った。
「困っているみたいね? きちんとした格好をするから待ってて」彼女はその場で立ち上がる。「彼女の髪を切った美容師さんの髪型が乱れているのもなんだしね」ユミは洗面所の鏡に向かった。「これで、大丈夫かな?」
「まあ、そんなもんだね」ぼくが作り笑いをすると、彼女も笑った。とても、自然な感じに。

「ごめん、開けるね」そう言って咲子の顔を見ながら告げたぼくは、ドアをとっくに開けていた。彼女は本を手に持っている。それを受け取って直ぐに別れてしまえば物事はもっと簡単だった。だが、ぼくはその品物を見てサンダルを履き外に出た。彼女以外に誰かいないのかを不思議と無意識に確認しながら、辺りを見回した。「お客さんが来てるんだけど、どうぞ」

「可愛い靴」咲子は、そこに脱がれている靴を見た時点で誰がいるかを理解していたのだろう。それで、ぼくの部屋に入っても驚いた様子はなかった。驚きもしなければ、困った様子もなかった。ただ、事実を受け止めることに馴れたひとの応対だった。「こんにちは、ユミさん」
「咲子ちゃんか、驚いたな、偶然で」と、ユミが言った。どこについての偶然か、その言葉を発する理由が分からないままぼくも耳にする。

 ぼくは、この関係を正直に捨てがたいものだと思っていた。だが、咲子に知られることも不本意だった。それは、両親に告げられるということより、何かの拍子にいつみさんに知れ渡ってしまうという恐れが勝っていたからだ。もし、仮りにここにいつみさんがいたならば、逆に安堵していたかもしれない。こういう立場にならなければ、ぼくは自分の正直な気持ちも深いところで確かめられなかったのだろう。

「たまに、こうやって突然に来るの?」非難の口調が混じらないように丁寧にユミが訊いた。大体が作為などない彼女だが、自然に口にできるほど肝が据わっている訳でもない。
「今日で、2回目。前は風邪をひいてたから、順平くんが」
「仲がいいんだね」
「そうでもないよ」ぼくは、どちらに味方をするべきか決めかねるような態度を終わらせないでいた。
「そう。あのときはお母さんに頼まれてもいたから。今日はこの本を期限までに返す必要があったから」
「ぼくのお母さんね。病気の息子に美味しいものを食べさせて、栄養を回復させる責任があったから」
「でも、ユミさんがいれば、心配することもないんだね」と、咲子が言った。彼女は必ず、そのことをいつみさんかキヨシさんに報告しそうでもあった。だが、心配は無用で、余計なことを言いそうにもない雰囲気も同時にあった。
「別に、わたしたち重要な間柄でもないんだよ」と、ユミが言う。

「そうかな?」と、ぼくが言うと、ここで必死にごまかしてあげたのに、それに逆らう気なのか、というユミの咎める視線がぼくに刺さった。それで、「外に出て、なんか食べようか、腹も減ったし」というセリフでこの難解な状況を忘れようとした。ほんとうは、難解でも気にしすぎる状況でもなかったのだ。

「そうだね」と、ユミは同意した。彼女の大切な休みが不可解な場面に流れてしまったことをぼくは悔いた。だからといって、それを取り繕うのももう面倒だった。ぼくは、ただこの部屋にカギを閉め、すべてを葬りたかった。だが、閉められたものが中で勝手に終わりを告げる訳でもない。すべては明日につながるようにできているのだ。そして、明日の体力につながるものをぼくは食べた。ユミと咲子も古くからの友人のように、楽しそうにぼくの前で会話をしていた。
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Untrue Love(39)

2012年10月24日 | Untrue Love
Untrue Love(39)

 その日は、ぼくは実家から五分ほどの距離にある咲子のアパートまでおくり、そのまま駅までひとりで歩いた。その途中で勉強のことも話し、彼女が必要としている本がぼくの大学の図書館にあったことを思い出し、それを自分も利用したことがあったのを教えた。教えただけでは仕方がないので、いったんぼくが借り、それを彼女に又貸しすることを検討した。彼女はその大学のそばまで来て、必要ならばそのまま借りて、不必要ならば返却すると言った。そうすれば、それほど手間にならないと考えていた。

 何日か経って、ぼくは図書館の外で待っている咲子に本を渡した。彼女はページをめくる。適度に頷きながら、満足そうに微笑んだ。ぼくは、横に友人の早間が通りかかったので声をかけた。早間と交際相手の紗枝がぼくを無視した。無視する理由があったようだ。ふたりは喧嘩の最中のようである。それで、ぼくは名残惜しそうに彼らの背中を目で追いながらも、頭のなかから消そうとした。

「それでよさそう?」
「うん、ありがとう」彼女は大切そうにバッグにしまった。

 ぼくらは用も済んだので大学をあとにする。途中でひとりたたずんでいる紗枝を目撃した。もう一度ぼくは声をかけた。
「喧嘩でもしてたの?」

「そう、今回はほんとうに終わりかも」そう言いながらも彼らは継続させることを前提にして関係が成り立っているようにも思えた。紗枝は気分が散漫としているのか、自分のこと以上に周囲の景色に直ぐに反応できないようであったが、やっと咲子のことも気付いた。それで、「誰なの?」と、問いかけた。それを説明することをぼくは忘れがちだった。なぜなら、もうある程度の人数には教えていたので、どこまでがまだなのか理解しづらかったからだ。

「ああ、咲子と言うんだ。何というか、親類みたいなもの・・・」
「そう。よろしく。いつもは、わたし、もっと元気なんだ」と自分のことを評した。だが、彼女はそこに居つづけるようにしていたので、ぼくらだけ駅に向かった。
「仲がいいんだ?」
「そうでもないよ。ただ、友人と付き合っているだけだから」だが、ぼくと早間にはこれといって密接な部分は少なかった。それでも、付かず離れずの関係が定着しているようでもあった。

「あのひと、悲しそうだったね」ぼくは、それが日常的であることを伝えようとしたが、面倒なのでやめた。喧嘩を通してしか愛情を確認できないようなふたりだった。それが、そもそも不幸であるのか、幸福であるのかも分からない。ただ、自分ではそういう状態と無縁でいたかったと思っているだけだ。仲が悪ければ、離れればいい。簡単だ。
「いろいろなヤツがいるんだよ。そうだ、駅ビルで、お茶でも飲んでいこうか?」ぼくは、そう訊ねながら同時に腕時計を見た。財布には、親父からもらったお金がまだ入っている。早く、咲子のために使わなければ無くなってしまう可能性もあったのだが。「バイトまで、少し時間があるから」

「うん、いいよ」彼女は同意した。ぼくは、好かれようとも嫌われようとも思っていない。親に対するのと同じような態度を彼女に示している。だから、どこにも力が入っていないとも感じていた。
 彼女は座席で待っていた。ぼくはふたつの飲み物をトレイに並べ、そこまで持っていった。すると、今度は早間がいた。彼は特別に悲しんでもいないようだった。さっぱりとした表情をしている。

「なんだ、順平か」早間もぼくらの存在に気付いたようだ。
「ここにいたのか、さっき、紗枝ちゃんが悲しんでいたように思えたけど」
「そうか。でも、あいつが悪いからな。ところで、誰なの? そこのひと」
「前にも言ったと思うけど、田舎からでてきた子だよ」
「順平の実家のそばに住みはじめた子か?」
「そう」ぼくは、両者を交互にながめる。「こっちが早間で、さっきの悲しんでいる紗枝の彼氏。こっちが咲子。ぼくより一才だけ若い」
「よろしく」と言って、早間は彼女を見つめた。
「女のひとにはだらしないから気をつけてね」ぼくは余計なことを告げる。でも、彼を立体化させるには重要な情報でも、もちろんある。

「お前こそ、遊んでばかりいるくせに・・・」
「そんなこともないですよ」ぼくが言おうとしたことを咲子が言った。ぼくのことを、どれほど知っているのかは分からないが。「これ、図書館で借りてもらった」
「良くないんじゃないの、そういう不法行為は」
「あそこにあったって、誰も読まないし、手にも取らない。早間も読んだことないだろう?」
「ないよ。あれば買うし」

「我々は、そんなに裕福な部類じゃないからね」ぼくはまた貰った服を着ている。「仲直りするんだろう?」ぼくは話をかえた。「ふたりともなかなか折れないけど」
「さあね。1年も付き合ったからね」

 その一年が長いのを承知でか、短い意味でつかったのか分からなかった。ただ、ぼくは自分が過ごした一年間をとても短く感じている。あと、数年で社会にでる。そのときに、いまのことを思い出すかどうかを考えた。まだ、友人との関係もつづいているのか、誰に髪を切ってもらっているのか、いつみさんの家へつながる道を歩いているのかなどを頭に巡らしていた。それを失うのはあまりにも惜しかった。それに、咲子はどこで就職するのだろう。

「そろそろ、バイトだ」ぼくは腕時計を見て、壁の時計も見た。早間も自分の腕時計に目を凝らした。それはぼくのより高価なことが直ぐに分かる代物だった。「咲子は、どうする?」
「わたしも、お母さんと用があるので」
「お母さん?」と、早間が不可解に思ったのか口を開いて訊いた。
「違います。順平くんのお母さんです」ぼくも咲子の顔を見る。まるで、ぼくは家族と縁を切ってしまったみたいじゃないか。でも、ぼくは自分の好きになりつつある場所で今日もバイトをするのだ。その場所はぼくが大人になっても永遠に覚えているような気がした。忘れることになるには難しいぐらいに、そこには生きた証人がたくさんい過ぎた。その痕跡や爪あとも多くなりつつあった。ただ、早間だけが置いていかれるのを嫌がるようにさびしそうな表情をしていた。
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Untrue Love(38)

2012年10月23日 | Untrue Love
Untrue Love(38)

 ぼくはひさびさに実家に帰った。そこは、ぼくがこれまで大半の時間を過ごした場所だった。大げさに言えば、ぼくにも所有権に似たものがあったはずだ。だが、そこに咲子が先にいたことにより、ぼくの中の感覚がいくらか狂っていくようにも感じた。

「元気だった?」と、母が訊いた。いままでも四人で暮らしてきたかのように、両親と咲子と共にテーブルに向かった。
「相変わらずだよ・・・」
「さっちゃんから噂は聞くんだけどね。それにしても、自分の子どものことを噂でしかしらないなんて」
「いいじゃないか。お前も飲むんだろう?」父は話の方向をかえ、ビールをすすめた。ぼくはグラスを差し出す。
「そうやって、咲子ちゃんのバイト先でも飲んでるの?」
「居るときは、いかないよ」

「だって、きれいなひとがお店の休みなんでしょう?」母は、それらのことを訊いているらしい。「わたしも見てこようかしら」
「よせよ、みっともない」父は息子の領域に足を踏み入れることを嫌っているようだった。ここだけは大人として扱ってくれている。
「ほんとには、行かないわよ」母は拗ねたふりをする。「でも、女の子がバイトをしても大丈夫なお店なの? 訊こうと思っていたんだけど」

「ふたりとも、お店のひとは優しいですから」咲子が口を開く。「それに、順平くんもそばで働いているから」と付け加えた。
「咲子の髪もそばで切ったんだろう?」父も話に加わった。ぼくは彼女の髪型を見る。言ってはいないが、ぼくの髪もユミが切ったのだ。あのぼくの小さな部屋で。

「あんたはいったい誰に似たんだろう? 大学生なのに、女のひとばっかり追いかけて」
「誰にも似てないよ、でも、父親かもね」誰も同意せず、否定もしなかった。
「面白くて、素敵なひとだった。可愛らしい洋服も着て」咲子はユミのことをそのように観察していた。ぼくは、自分の家も、自分の人間関係も彼女に侵食されていくような恐れを感じた。だが、そのきっかけを与えているのも、まぎれもなく自分だったようだ。

「いいだろうよ。社会人にでもなれば、忙しくなって次第に自粛していくよ」
「その前に、問題を起こさなければいいんだけど」
「バイト代が入ったら、どうするの?」ぼくは話題をすりかえようと自然さを装いながら黙っている咲子に話しかけた。
「洋服や、可愛らしい靴も買いたい。バックとかも。順平くんの働いているところにもあるんでしょう?」
「高いからやめときなよ」ぼくは、これ以上、自分の領土が侵されるのに抵抗したかった。表立ってはしないが。
「あんたが、いくらか足してプレゼントすればいいじゃない。若い女性は全身は無理でも、ひとつぐらい高いものを身につけないと格好がつかないよ」

「小遣いなんか、いくらあっても足りないよ。参考書や勉強の資料も買わないといけないんだから」
「ほんとに買ってるの?」
「買ってるし、夜は勉強もしているよ」
「夜に電話をしてもいないときがあるから、咲子ちゃんに監視しに行ってもらわないと、突然」
「そんなこと言ったら、もう突然じゃないよ」ぼくは箸をやすめてビールを飲んだ。さらに注ごうとすると瓶は空だった。だから、新しいビールをもってこなければならなかった。ぼくは立ち上がり、冷蔵庫に向かう。扉を開けると、日常的につかう調味料や細々としたものが内側にたくさんあって目を奪われた。先日、いつみさんの家で、「簡単なものしか作れない」と言いながらも手際よく彼女は料理を作ってくれた。普段、店ではキヨシさんが作っているので、その動作自体が新鮮だった。ぼくは、冷蔵庫を閉じながらその映像を思い出していた。

「あの店、なれた?」ぼくは、いつみさんのあらたな情報を知りたかったのかもしれない。そして、栓を開ける。
「うん。困りそうなことは、すべていつみさんがノートに書き残してくれていた。そこに、質問すると、また答えが書いてある」
「いやなお客さんはいないの?」と母も訊く。
「ずっと来てるひとばっかりだから・・・」

 それで、どうなったのかは分からない。だが、困難なことはないという回答なのだろう。発注がある訳でもない。テーブルを拭き、お客を迎え、飲み物をだし、料理を並べる。面倒なお客には、キヨシさんの太い腕が無言の圧力になる。彼女はそれが東京の生活と思うかもしれない。そこから、この近くまで帰ってくるのだから、ぼくも実家を離れたこと自体、我が儘なことだったのだろう。

「息苦しくなったりしない、東京の生活?」
「随分と変わったんだよう、あっちも」
「あんたは、もう何十年も帰ってないでしょう?」
「帰るってところでもないから」
「ここにも、来ないんだからね」

 ぼくは満腹になって背もたれに身体をあずけた。咲子がここにいるということは、いつみさんがあそこにいる。木下さんもデパートにいる。ぼくは世の中から追い出されたような気持ちをもった。しかし、それも直ぐに忘れた。ここも自分の場所だった。徐々に咲子もいることを忘れた。だが、流しで母といっしょに洗い物をしながら会話する声がこちらまできこえてきた。父は財布を出す。そこから札を何枚か抜き取り、「これで、咲子と買い物にでも行け」と、小声で言った。ぼくは、またこうしてずるずると親の言いなりになっていた。でも、それに逆らうほど大人になり切れてもいなかったのだ。
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Untrue Love(37)

2012年10月22日 | Untrue Love
Untrue Love(37)

 駅の改札を抜ける。いままでは縁のなかった街だが、いつみさんが住んでいたことによって、ぼくはその街の輪郭を覚える。最終電車で降りたひとはそれほどいなかった。暗い静かな場所をふたりはゆっくりと歩く。

「冷蔵庫になにもなさそうなんだ。コンビニに寄ってもいい?」いつみさんが訊く。
「そうですね。近くにありますもんね」ぼくは何軒かの店が頭に入っていた。
「お腹空いてる?」
「それほどには」
「いつも、暗い中で順平くんを見てる気がする。もっと、太陽の下で生活したいもんだな」
「じゃあ、仕事を変えないといけませんね」
「大丈夫だよ。一日、余計に休めるようになったから」
「じゃあ、会ってくれるんですか、その日に?」

「用があったら、会ってもいいよ。代わりに咲子ちゃんが働いてくれるもんでね。ここだ」いつみさんは、コンビニに入った。カゴを取り、飲み物やポテト・チップスなどをテキパキと入れる。雑誌をパラパラとめくり、それに飽きたかのようにレジにカゴを持っていった。ぼくは雑誌をめくりながら、ガラスの向こうを見ていた。ぼくと同じような年代の男性が同じような年代の女性と話していた。ぼくは自分が少しだけ大人のようにも感じ、同じ意味で少し背伸びをしている感じもした。「行こう」と言って、いつみさんはぼくの腕を引っ張る。片手にはレジ袋があった。

「ここ、夜はちょっと静か過ぎて危なくないですか?」店の明かりが道をすすめるうちに届かなくなってきた。
「そんな心配もしてくれるんだ」
「しますよ」
「でも、外国では、もっと危ないところもあったから」
 その期間の彼女のことをもっと知りたいと思う。だが、自分から話してくれるのを待っているのかもしれない。それはぼくに気持ちを許したという証拠にもなっただろう。もし、話してくれたとしたら。また、早いうちにすべてのことなど知りたくないとも願っていた。その不均衡なバランスの上を楽しみたいとも思っている。

「未体験ですけど、恐そうですね・・・」
「そんなこともないよ。どこに行っても優しいひともいれば、親身になって考えてくれるひともいるから」
「ぼくは、会ったなかで、キヨシさんが優しいと思いますね」
「なんだ、わたしじゃないんだ?」
「もう少し、プラスさせるためには・・・」
「そう。ここに猫がいるんだ」いつみさんは、帰り道にある公園に足を踏み入れた。外灯がぽつんとひとつだけともり、どこからかトイレの匂いがするようなうらぶれた公園だった。「あ、いた」

 猫が億劫そうにこちらに近寄ってきた。「なんだ、もうひとりいるのか」という様子を、ぼくを確認することによってしたような気がした。いつみさんはしゃがみ、その猫の頭を撫でた。低いうなるような声で、その猫は応対した。
「いつも、いるんですか?」
「たまにだよ。雨が降ってるときには必ずいないから。どっかに家でもあるんだろうね。ただの夜のパトロール」
「何を監視するんでしょうね」

「わたしみたいな女性がひとりで帰るときに変なのに、引っ掛からないかじゃない」
「じゃあ、オスですかね?」
「うん」いつみさんは撫でる手を止めた。
「でも、今日は引っ掛かっているのに、気にしないみたいだね」

 その言葉が、その猫がぼく以外の男性をみた証でもあるようだった。この公園でいつみさんが撫でる様子を誰かが後ろで待っている。
「多分、変じゃないと思っているんでしょう」
「そうかもね」

「荷物、持ちますよ。気付かなかった」ぼくはレジ袋をいつみさんから受け取る。不思議とぼくは自分の家のなかのことを思い出していた。まだ、住んで一年とちょっとしか経過していない。ひとりで勉強をして、そこでユミを抱いた。彼女以外の誰かがいることは想像できない。かといって、いつみさんより愛情を持っているとも思えなかった。自分は、その事実を猫に見破られるように恐れたが、その後は終始無言であった。

「またね」と言って、いつみさんはその公園を去った。ぼくもつづいてそこを出た。猫はぼんやりと足で頬をかいている。ユミも寝起きに頬をかいた。ぼくらはふたりとも大人になるきっかけを作るようにいっしょにいたのだろう。いつみさんは、ぼくを引っ張り上げてくれる感じがあった。それ以外にも、木下さんの存在もあった。だが、最近、時間を多く作っているのは咲子との時間だった。彼女も働き、ボーイ・フレンドもそのうちにできるのだろう。ぼくはしぼんでいく関係だと、咲子のことを考えていた。しぼまないことには、ぼくは別の時間を見出すことはできないのだ。

 いつみさんは歩いている。一日、働いて疲れたという印象は、その歩調にはあらわれていなかった。間もなく、彼女の家がみえる。家の前の自動販売機が目印になっていた。ぼくは、その家で先日、彼女の前の男性の服をもらった。今日はそれを着ていない。もしかしたら、そのひとも先ほどの猫を見たかもしれない。どちらもぼくにとっては名前がない。猫もその男性も。だが、名称をつけなくても、どこかにいた。ぼくのこころにある嫉妬というものは、物体としての存在はないかもしれないが、どこかで熱を帯び、自動販売機と同じように暗い中で発光しているようにも感じられていた。
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Untrue Love(36)

2012年10月20日 | Untrue Love
Untrue Love(36)

 いつみさんは週に一度ある店の定休日以外にもう一日休みたいと思っていたらしい。結局、その穴に埋まるように咲子が一日だけ働くことになった。その話し合いをぼくは知らなかった。ぼくに知らせる必要もほんとうのところはないので、事後報告だった。

「それで、その日にはなにをするんですか?」ぼくは、いつみさんに向かってカウンターから訊いている。
「いろいろ、勉強することがいっぱいあるのよ」
「いつみは友だちが結婚して焦ることになったんだよ。帰ってから、いろいろ考えたみたいで」奥からキヨシさんがそう報告した。
「ほんとですか?」
「あいつ、ああいうところが、ほんと、バカなんだよ」しかし、その言葉には悪意がなかった。愛情すら感じられるような響きだった。「前々から、こういうことは考えていたんだよ。キヨシさえきちんとしていれば、表に立つひとは誰でも大丈夫だって。たまたま、わたしがここに居るだけだから」

「そんなこともないでしょう? 咲子がいたら、ぼくは、ここに来ないと思いますよ」
「それは知り合いだから。お酒を飲むなんてときには身近なひとがいない方が普通なんだよ。付かず離れずの関係ぐらいのね」
 社会に出たらそうなのかもしれない。会社からも離れ、家族とも別の居場所。まったくの漂流でもないが、深い関係でもない。ぼくは海に漂う流木のことや、廃線間近の鉄道のレールの下の枕木のことを考えていた。その映像はさびしいものだった。だからといって、いつみさんがどこかの家族の一員として納まっている姿は想像したくもなかった。

「友だちにも赤ちゃんができるんだ。そういうの好き? 順平くんは」
「考えたこともないですね。兄弟もいなかったし、身近なところで小さな子がいなかったから」
「じゃあ、抱っことかもしていないの、いままで?」
「全然」ぼくはその姿の自分をイメージすらできない。それは、どこかの母親か保母さんの役目だった。そして、そのどこかにいるであろう女性のことも一人として具体化させて想像することも不可能だった。「いつみさんは?」
「さあ。でも、女性って、どっかで母性本能を隠し持ってるんだと思うよ。それに、誰かと、夫とか子どもとかといっしょにいる時間を、ずっと永続させる望みみたいなものもあると思うね。わたしの話でもなく、一般論として」

「一般論ね」ぼくはいままでの生活でもっとも多く接した女性であろう母のことを考えた。母が母性本能というものをもっていたのか分からない。ぼくに早く大人になることを望んでいたのかもしれない。弟や妹など、彼女がぼく以外の子どもを可愛がり、また欲しがった気持ちなども見られなかった。それが、一般論というものの範疇の限界かもしれなかった。

 キヨシさんの手も空いたのか、表にでてきた。奥にいる分には分からないが、そばによると身体の厚みが威圧感をあたえた。その肉体的な圧迫と、彼の精神がもたらす優しさの反比例が不思議な魅力を作り上げている。
「あの子、可愛いよな」キヨシさんは素朴な口調で咲子を評した。「順くんは興味ないの?」
「ないですね。キヨシさんもないですよね?」
「当然。だから、うちで働いてもその点では安心」彼はなにもないが自分の腕をこすった。「年下の子とかもダメか?」
「さあ、ダメじゃないと思うけど、また、変わりますよ」
「ふうん」

 ぼくは彼の日常生活がどういうものなのかまったく知らない。知っているのは、ここにいるだけの間。それにいつみさんの弟であるということのみ。それ以上のことは関心を深められなかった。咲子もともに働くようになれば、あらたな情報をくれるのかもしれない。それほど、彼女に観察力が備わっているのか、情報を収集する能力があるのかも分からない。ただ、興味があるということは好きとか関心があることの、きちんとした証拠なのだろう。

「そろそろ、帰ろうか」と、いつみさんが言った。いつもより排他的な感じもしなければ、どこかに滲み出ていた強引さもなかった。「まずいな、順平くんと帰ることが日課のひとつになって来ている」
「まずいことなんか一切ないですよ」
「そうだよ。いつみは、これでも、ちっちゃいときは恐がりだったんだから・・・」キヨシさんが片付けの手を休めて言った。告げ口をすることだけを楽しみにしている弟のように。
「ほんとですか?」
「恐がりっていうんじゃないよ。想像力が豊かなひとの副産物」

 ぼくは外に出ていつみさんを待つ。この瞬間がぼくにとって最も貴い時間だった。最近のぼくにとって。
「ごめんね、順平くん。つまらない話に付き合わせて。つまらない兄弟げんかの仲裁をさせて」重荷を払い除けたようなひとりの普通な女性のようにいつみさんが話しかける。
「全然。ふたりとも好きですから」
「そうなんだ」

 ぼくらは同じ電車に乗る。この場面もぼくは好きだった。ドラマにもならない普通の瞬間。この積み重ねが、かといってドラマにならない訳でもなかった。
「うちに寄って、飲むのに付き合うのには賛成する?」
「行ってもいいんですか?」
「二回も言わすなよ。恥ずかしいな」いつみさんは、照れたように服の裾を引っ張る。ぼくは彼女に確固とした家庭を作ることなど許さないだろうとそのときは思っている。だが、これから自分がどのような存在になるのかも、自分も、ましては周りも結論を下してはいないだろう。ただ、ぼくは自分のアパートがあるひとつ前の駅で降り、いつみさんの存在を横に感じている。それだけでぼくには充分な恩恵があった。完璧な世界が、ここにあるのだと、ぼくは簡単に納得するぐらい無邪気な子どもだった。
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Untrue Love(35)

2012年10月19日 | Untrue Love
Untrue Love(35)

 咲子はいつみさんの店で働くことを嫌がりもせず、また喜ばないまま納得した。渋々とした様子も見せずに、かといって嬉しいという気持ちもぼくには伝わってこなかった。命令されたり指示されたりすることに抵抗がないのか、反抗したりする気持ちもまったくないのか、ぼくには見当がつかなかった。そのことをキヨシさんといつみさんに言うと、取り敢えずは一日だけいっしょに働いてみて任せられそうなら合格ということだった。

「ここだよ」ぼくは店の前まで連れて来る。「そんなに大きな店でもないから安心して」咲子は頷く。
「この子か。いつみです、よろしく」いつみさんが店の前まで出て来て、咲子に握手を求めた。まるで、外国の一都市にいるかのように。「わたしができるぐらいだから、大変じゃないよ、そんなに。な?」今度はいつみさんがぼくに向かって言った。
「でも、咲子はこっちでバイトをしたことがないから」その前に質問してみると、彼女は高校時代に接客をしたことがあるようだった。もちろん、アルコールを出すような店ではないが、それでも、要領ぐらいは分かっているのだろう。

「分かったよ。いいよ。じゃあ、保護者は退散」いつみさんは手でぼくを払い除けるような仕種をした。
「冷たいですね」いつみさんはもうぼくの方を見てもいなかった。「じゃあ、帰りに迎えに来るよ」とぼくは今度は咲子に言った。彼女はいつものように頷くだけだった。

 ぼくはぼくの領域で働いていた。もう大して頭も使わない。手を抜けることも秘かに覚えた。他のひとから見れば、それは秘かどころではないのかもしれない。大っぴらになっているのかもしれない。だが、精密さが求められている仕事でもなかった。寸分の狂いが大問題になる訳でもない。ただ、予定されたことを予定されたルートで、予定内に終わらせれば済むことだった。

 その頃は贈り物のシーズンのため、終わるのが遅かった。ぼくは手や顔を洗い、知人たちに挨拶をして、そこを去った。それから、いつみさんの店の前まで行く。直ぐにドアを開けることはなく、室内の雰囲気をさぐった。すると、いつみさんの顔が見えた。横には咲子がいた。茶色い地味な感じのエプロンを腰に巻きつけていた。

「いらっしゃい。お、順平くんか。どうぞ」いつみさんが端の椅子を指差す。「暇なときに順平くんの幼いときの話もきいたよ。咲子ちゃんに・・・」彼女がすすんで何かの話題を提供することなど考えられなかったが、いつみさんが嘘を吐くことも同じぐらいに考えられなかった。
「そうなんだ。いい話だと気が楽だけど」
 咲子は帰るお客さんの勘定を受け取り、おつりを確認して、わざわざ、いつみさんにその差額をチェックしてもらって、待っているお客さんに返した。

「いつみさん、新しい子を雇ったの?」と、常連とおぼしきひとが声をかけた。「また、近いうちに来るようにしなきゃ」
「わたしが、来週休むから、その期間だけ」
「そうか、残念だな」いつみさんがいなくなるのが残念なのか、その期間しか咲子がいないことが残念なのかが口調からでは分からなかった。
「気に入られたみたいね」いつみさんは、だがそう判断した。「順平くん、合格だよ」
「そう、良かった」
「紹介料で1杯、おごってあげる」

「オレからも、なんか作って出すよ」奥でキヨシさんも言った。「悪い虫がつかないように、順くん迎えにくるんだろう?」
「さあ、キヨシさんの腕の太さを見たら、安全だと思いますよ」
「わたしには、そういう心配しないの?」と、いつみさんがつづけて言う。
「少しぐらいは、ついた方がいいんじゃないか。ナフタリン臭いおばさんになる前に」
「あいつ、ひどくない?」誰に言ったのか分からないが、いつみさんがつぶやく。それにつられて咲子も笑った。
 それから、少し経ってぼくと咲子は店を出る。いつみさんといっしょに帰る訳にはいかなかった。
「どう、できそう?」と、ぼくは歩きながら訊く。

「うん。思ったより、居心地が良かった」だが、彼女はどこにいても、自分の場所を探しえないひとのようにも見えた。「順平くんは、とても仲がいいんだね、あのふたりと?」
「なぜか、しらないけど、よくしてくれる」
「好きなんでしょう?」
 ぼくはその問いかけが、店全体を指しているのか、いつみさんのことを対象にしているのか、キヨシさんのことを告げているのか、その両者のことなのか決めかねていた。だが、答えは決まっていた。
「好きだよ」その答えに咲子は微笑んだ。
「いろいろありがとう。髪も切ったし、お小遣いももらえるようになった。自分で稼いで」

 ホームで別れ際に彼女は言った。もう、友人が増えたので、会う機会も減ると、付け加えて言って欲しかったのかもしれない。同時に、それもさびしいとも思っていた。だが、言葉はそこで途切れた。彼女はその小遣いでなにを買うのかと、ぼくは帰りの電車のなかで考えていた。しかし、なにも思い浮かばない。自分も親に、父や母になにかを買ってもいいのだ、ということには気付いた。「好きなんでしょう?」と、先ほど咲子は問いかけてきた。ぼくが好きなものを今度は考える。そこには先頭にいつみさんがいた。彼女がいつもと違う格好をして友人の披露宴でそばに立っている姿を思い浮かべる。それを見られないことを残念に思っていた。もう一度、咲子の声で、「好きなんでしょう?」と問われたかのように感じた。ぼくは答えはしないが、揺れる吊り革につかまる車内で、当然のこと、答えは決まっていることを知っていた。
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Untrue Love(34)

2012年10月18日 | Untrue Love
Untrue Love(34)

 ぼくはバイト終わりにいつみさんの店にいる。いつものように帰る際に呼び止められた。それで、なかに入り無駄口をきいている。料理も注文された品がほとんど出たのかキヨシさんが裏方の役目を中断していた。それで、ぼくの横に座った。

「この前、順くんがいっしょに歩いてたのは誰だよ? 可愛かった」
「誰ですかね?」
「ねえ、誰? 考えなきゃ思い出せないほどいっぱいいるの?」いつみさんはその話題に興味をもった。いや、もってくれた。
「いませんよ」ぼくは皿の上のオリーブをつまむ。
「夕方、オレがその日の食材を運んでたら、歩いていたよ。同じ、年ぐらいの子と」
「彼女ができた?」いつみさんがカウンターから首を伸ばした。

「あれは、親の知り合いなんですよ。どういう関係か、ぼくも分からない。今年から大学に入って友達ができるまで連れ回してあげてと頼まれているんだけど、引っ込み思案なのか、いつまでも、そのままでいる」
「そう、今度、つれてくれば?」いつみさんは自分の目で品定めをしたい様子だった。
「お酒も飲まないし。あんまり、しゃべらないし・・・」そうして断る理由を見つけるのは、ぼくの時間が彼女の世話で費やされるのが億劫だったというのが本音だろう。

「その子は、バイトとかしてるの?」キヨシさんはまだ横に座っている。
「いえ、全然」
「ちゃんとした子なんだろう? 順くんが認めるぐらいの。お墨付きというか・・・」
「まあ。チャラチャラはしていないですよ」
「2、3日店の中に立つってことはできそうかな?」
「また、何でですか? え、それはここで?」

「そう、いつみがいないので。店を閉めるのもなんだか気が引けてね。まあ、どうしようもなかったら順平くんがするか。重い荷物を運ぶのよりいいだろう。でも、やっぱり、若い女の子がいいよ」彼はひとりで納得したような顔をしていた。
「いつみさんは、休むんですか?」
「そうなのよ。知り合いの結婚式にでなきゃいけなくなってね。どうしても、行かなければならないから。東京じゃないので、そのついでに羽根を伸ばそうと」
「いつですか?」
「来月のはじめ」
「じゃあ、聞いとくだけはしてみますよ。期待しないでください。それに、客商売なんか一切、したこともないと思いますんで、彼女は」

「いいよ。オレが全部、そのときは仕切るから。それに常連さんたちもそれぞれ店のなかを知り尽くしているんでね、無理も言わない。それに目先が変わるって大事なことだよ」
「わたしの顔にもみんな飽きているから」いつみさんは、なぜだか気だるそうに言った。
「まさか? そんなことはありえないでしょう」
「いつみに、そういう優しい態度をしてくれるのは、順平くんだけだよ。じゃ、お願い」そう言って、キヨシさんは注文を取りにテーブル席に向かった。それを紙に書き記し厨房に消える。フライパンで何かを炒めるような音がはじまった。それを合図にガーリックのにおいがこちらまで漂ってきた。

「それじゃあ、いつみさん居なくなるんですね。残念だな」
「何日間かだけだよ。それに毎日も来ないじゃない、順平くん」
「それは、学生ですから。毎日、遊んでばかりもいられない。だけど、代わりを頼んで了承してくれたら、なにかご褒美くれますか?」
「キヨシがするよ。それに、わたしはその子にお礼をする」
「意地悪ですね?」

「どっちがだよ。あ、お客さん帰る」彼女はお金の計算をして紙を渡し、その数字分のお金を受け取った。だが、直ぐに戻ってきた。奥から手も伸びる。姉と弟が小声で言葉を交わす。「余計に作ったみたいなんで、食べてだって」
「ありがとうございます。そうだ。その結婚するってひととは、どんな関係なんですか? 男性、それとも女性?」
「わたしが可愛い学生のときからの友人。女性。ずっと仲良かったけど、仕事でそっちで働いてから少し疎遠になった。そこで、旦那さんも見つけることになったんでしょう」

「いつみさんが学生か。どんな髪型でした? もてたでしょう?」
「生憎と、女子高。愛らしいタイプでもなかったのでまったくだよ・・・」
「ラブレターとかはもらったでしょう?」
「いつの時代だよ手紙を渡すって。たった数年前の話だよ。わたしをおばさん扱いしていない?」
「まったく、反対です。ぼくなら手紙を書きますけどね」
「書いたことあるの?」
「ないです」
「ほら」
「だって、いつみさんみたいなひとに会ったこともないし、すれ違ったこともないから」
「もういいよ。閉店するからね。途中までならいっしょに帰ってあげるよ」

 いつみさんは片付けに加わった。ぼくは、ただ座席にすわって待っている。咲子はここで働くことなどできるのだろうか。でも、ほんの2、3日だ。小遣いを自分で稼ぐのも悪いことではないだろう。それにふたりはとても良いひとたちだった。ぼくはそれにいつみさんを手助けしたいと思っていた。彼女がどこかでゆっくり休み、心配することもなく過ごせるような日々を与えられることを望んでいた。ただ、そのために咲子を利用するようにも思えたが、彼女だってぼくの役に立ってもよいだろう。それぐらい、ぼくも時間を割いたのだ。

 ぼくは店を出る。数分後にいつみさんも出てきた。彼女は歩きながらぼくの腕にからんできた。直きにユミの店の前を通る。高校時代よりぼくはもっと広大な場所に出たのだ、と思っていたが相変わらず小さな世界の住人のようでもあった。
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Untrue Love(33)

2012年10月17日 | Untrue Love
Untrue Love(33)

「この前、髪を切りたいって言ってたよね?」ぼくは咲子に電話をしている。ユミとどちらのことをより比重を置いて話しているのだろう。だが、電話の向こうは静寂が覆っているようだ。

「言ったよ」
「うん? それでね、切ってくれそうなひとがいるんだ。まあ、誰でも切ってもらえると思うけど、なかなか腕のあるひとがね。ちなみにぼくの髪も切ってくれた。ベテランという訳にもいかないけど。それにしては器用で上手。どう、試しに?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、決まり。日にちはまた後で知らせる」

 ぼくは、ふたりを繋ぎ合わせることには興味がなかったが、結果としてはそうなった。これで、自分の髪をタダで切ってもらったお礼ができるという安堵の感情の方が多かった。それで、両者が互いを気にいれば一石二鳥で、縁がなかったとしても、それはもうぼくの問題ではない。簡単だが、そう考えていた。

 ユミの店が休みの前日に閉店になってから行くよう約束を取り付けた。それが完成するころにぼくのバイトも終わるので三人でそれからご飯でも食べようとユミが提案した。ぼくは断る理由がない。それで、いくらか疲れた身体でユミの店の前に向かった。彼女たちはビルの一階で親しそうに話していた。ぼくは先ずユミを見て、咲子を見た。そして、彼女の髪型を見た。印象が変わっている。頭のどこかで垢抜けたという陳腐な表現が浮かんだ。そして、ユミの技術にただひたすら感銘を得たのだ。

「ごめん、待たせて」
「大丈夫だよ。顧客がひとり増えたんで」ユミは快活にそう言った。
「満足?」ぼくは咲子に話しかける。質問をしなければいつまでも自分の意見を言いそうになかった。
「うん」と言って軽く頷いただけだった。
「お腹空いたでしょう、順平くんも? わたしもだけど」もう自分の仕事が済んだという安心感がユミの表情にのぼった。彼女は彼女なりに自分の仕事にあらためて情熱を注いでいることが分かった。当然のことかもしれないが。

 ぼくらはこじんまりとした店に入る。ぼくとユミはお酒を頼んだ。咲子は、ジュースを注文した。
「まだ、お酒を飲んじゃいけない年齢なんだ?」
「はい、未成年です」
「順平くんはお構いなしだったよね」
「あまり言うと、両親に告げ口されるから・・・」
「恐くもないくせに」ユミがにこやかに笑う。その場を楽しい雰囲気にさせる能力が彼女にはあった。それで、滅多にこころを開かないように感じていた咲子も、それ相応に愉快になっているようだった。

「でも、やっぱり上手いんだね」ぼくは咲子の髪型を見ながら言った。
「信じてなかったの?」
「信じてたよ。でも、半信半疑だったのかも」
「咲子さんの特徴もあったしね。これで、いろいろな男性が振り向くかもしれない。嬉しい?」
「はい。また伸びたら、切ってもらいます」
「そう、ありがとう」満面の笑みを浮かべるユミ。
「毎日、切ってもらうわけにもいかないね、髪って」

「当然じゃない。でも、そうなるとわたしも儲かるかも」だが、彼女が金銭を目的にして生きていることはまったく想像できなかった。もっと世界は、彼女に対して自由を要求しているようだった。それを拒んだときに彼女は幸福でいられなくなるのかもしれない。すると、自分はどうだろう。なにもかもが不明だ。ここにいる咲子という女性はどうだろう。彼女は未来をどのように作ろうとしているのか。そもそも、いったい将来にはどういう人間に成りたがっているのだろう。この四年間をどう過ごすのかも分からない。しかし、これも自分が加わる問題でもないのだろう。ただ、彼女がここを居心地の良い場所だというきっかけを作ることがぼくの望みであるだけだった。少し経てば友人も恋人もできる。そうなると以前の知り合いという役目になり、ぼくの存在も色褪せて、自由な時間が得られる。だが、なぜぼくはそこまで義理立てる必要があったのか。やはり、幼少時に田舎で可愛がってもらったお礼というのをどこかで仕損なっていたという記憶の蓄積のためだろう。

 ぼくとユミは軽く酔い、咲子は変わらない様子で駅に向かった。三人ともばらばらの路線だった。だが、明日が休みのユミはうちに来たいと言った。ぼくらは咲子を送り、それから混雑している階段をのぼって、ぼくの家に近付く路線にむかった。ホームは蒸し暑く、空気自体もいつものように澱んでいた。ぼくは幼き日に咲子と会った場所を思い出していた。きれいな小川が流れ、新鮮な、森から放つ匂いが鼻の奥側をくすぐった。咲子はこの空気をどのように感じ、また嫌悪し、馴染もうとしているのかを考えた。その小川に泳いでいた魚。色が鈍く一色だけだった。横のユミを見る。南国の海にでもいそうな魚のような色彩を持っていた。それがぼくの過ぎ去った年代のようでもあった。あの色彩のない川の魚。ぼくは色だけではなく才気あふれる女性が横にもいるのだ。だが、それはどこかで誤りが含まれている行動のようにも思えていた。その誤りを見つけられるように彼女がぼくの部屋に来る。結果として正解を見つけるのかもしれない。間違いが際立つのかもしれない。なにも、ぼくのこころには変化が起こらないのかもしれない。電車が到着する。降りるひとが大勢いて、押されないようにぼくはユミの身体をつかんで守った。彼女はぼくの服にしがみつく。いつみさんの元の交際相手の服かもしれない。
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Untrue Love(32)

2012年10月16日 | Untrue Love
Untrue Love(32)

 しかし、咲子という若い女性は自分からすすんで交友範囲を拡げるようなタイプでもなかった。そのことにも不満を感じていないらしかった。ぼくは大学とバイトの間の時間に何度か時間を割いて会った。話もなかなか弾まず、その限りのあるわずかな時間さえ遅々として思い通りにすすまなかった。だが、彼女の外見はきれいでもあった。いっしょに居れば何人かが興味をもって振り返るぐらいには。だが、華やかさというものではなく、その素朴さから生まれるような類いのものだ。周りからみればそのような状態のぼくは幸福であると見られるかもしれないが、その当事者である自分はあまりこころも揺るがせないままだった。

 それは、ぼくが見つけた関係ではないことが引っかかっているのかもしれない。どこかで親類というもやもやとした印象が残っていた。それに保護者のような身分も与えられた。いまの年齢の自分にはその境遇があまりにも不釣合いだった。もしくは、はっきりいえば迷惑だったのかもしれない。それで、彼女が同じ年頃の女性とふざけあっていることを期待した。だが、その期待も簡単には報われそうになかった。

「じゃあ、そろそろバイトに行かないと」
「頑張ってください。そうだ、今度その町に行ってみたいんですけど・・・」
「そうだね、どっかで服を買ったり、化粧品を探したりしないといけないよね」彼女は自分の頬を触った。ぼくは皮肉を言ったわけでもないが、いくらか後悔もしていた。こうして、自分の発言のひとつひとつを考えたり、ためらったりすることも重いこころに拍車をかけた。

 ぼくは手を振り、ファースト・フードの店を出る。出れば出たで彼女のことも心配でもあった。あんな感じでこの世の中を歩んでいけるのだろうかという心配が主だった。だが、ぼくはあまりにもこころが傾きすぎていたのか肩に電柱にぶつかった。そろそろ自分の考えや小さな野心も取り返さないわけにはいかなかった。

 ぼくは、バイト先まで歩いていると、やはり途中でユミに会った。ぼくらの関係はどういうものなのだろう。確固としたものはなかったが、それでも、当然のこと他人のわけでもなかった。

「今度、また遊びに行くよ、うち」と彼女は言った。
「うん、いいよ。前以って連絡くれれば」
「他人行儀だね。じゃあ、突然、行くよ」彼女は笑う。ぼくは女性と軽口を叩けたことで安堵する。あの咲子が相手だと、そうはいかなかった。返事の量はユミの十パーセントにも満たないようだった。

 その翌日にアパートのチャイムが鳴った。ぼくの頭には何人かが浮かんだ。選択肢は増え、それを使う人数が数日で変わったことを知る。
「やっぱり、来たよ」ユミがそこにいた。「誰もいないといいんだけど」
「居るはずないじゃん。どうぞ」ぼくは玄関を広く開ける。ユミの手には飲み物か食べ物か、もしくはその両方がぶら下っているようだった。彼女は休み。ぼくも大学から戻り、バイトのない日だった。

「飲み物、冷やすね。冷蔵庫、開けちゃうよ」彼女は返事の前にもうしまっていた。「冷蔵庫のなか、きれいになっていない?」
「この前、掃除したんだよ」なぜ、ぼくは必要もない嘘をついてしまったのだろう。ありのままを説明することも確かにできたのだ。だが、その経緯が面倒で簡単な言い訳を考えつく。「きれいになったでしょう?」
「そうだね。きれい。整理整頓されている」
「直ぐに汚くなるよ」ぼくは居心地が悪くなり立ち上がってそれを手伝った。
「はさみ、もってきてあげたよ。してほしかったら髪の毛も切ってあげる」

 ぼくは髪を触る。いささか伸びていると感じたが、それはいつもとも言えた。日常的に無頓着な自分の頭。
「うん、切ってよ」
「じゃあ、裸になりな。風呂場がいいか」
「もう?」
「うん」ぼくは言われたまま風呂場で背中を向けている。彼女の話す言葉がその中で反響する。「女性の髪の毛も切りたいとお願いしてるつもりなんだけど、要望に適う子とか、見つけてくれたかな」
「あ、そうだ」
「いるの?」
「この前、そんなこと言ってた」
「誰?」

「4月から、もう少し前か、こっちの大学にぼくの両親の知り合いで通いはじめた女性がいる。田舎から上京して。もうそろそろ髪の毛を切りたいと言ってたんだけど、どこに入ったらいいか分からないと困ってた。そうか、それなら」
「可愛い?」
「普通。で、無口」
「やりがいがありそうね」
「今度、じゃあ、お願いしたいな」
「じゃあ、お店のほうに連れて来てよ。さすがにお風呂場で裸になってもらっても変だしね」ユミは笑って、ハサミを置いた手で、ぼくの肩のあたりをはらった。「ちょっと掃除する。それが終わったら、そのままシャワーを浴びちゃえば」
「いいね。全部、お手頃で」

「鏡は絶対に見ちゃダメだよ」それから、後ろ手にユミは浴槽のドアを閉めた。ぼくは蛇口をひねってお湯を出し、頭を洗いはじめた。爽快感があった。それも簡単に済ませ、洋服を着た。いつみさんの元彼氏の服。それに無料で切ってもらった髪の毛。ユミは冷蔵庫からビールを出してくれていた。ぼくは数週間前に二十才になった。その前からビールぐらいは飲んでいたが、この地味なアパートで、ユミみたいな居るだけでそこが華やかな雰囲気にすることができる女性と、この夕方のひとときを過ごしていると、大人への経過がより一層、楽しいものとなりカラフルに彩られていくようだった。

「ありがとう、いろいろ」
「なかなかだよ、その頭」
「中身もなかなかだよ」ぼくは頭を左右に振り、その証拠の音でもしないかと無意識に確かめた。
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Untrue Love(31)

2012年10月15日 | Untrue Love
Untrue Love(31)

 四月の終わりか、五月のはじめの頃だった。ぼくは突然、風邪を引いた。誰も予定して風邪にかかるわけでもないので、真っ当なできごとでもあった。何度か直りそうになったが、また体調が悪くなった。食生活が一年で変わったことの結果がいまごろになってあらわれたのかもしれない。そろそろ二度目の山も終えそうになったころに玄関のチャイムが鳴った。何かの集金か配達にしか使われない、いつもながらの安っぽい音。ぼくはそこまで歩きながら自分の体調が戻りかけていることも感じていた。

 玄関を開けると、ぼくは見知らぬ顔を見る。同年代の女性。近所のひととも印象が違うし、なにかを配達するような制服を着てもいない。だが、彼女はぼくのことを知っているような様子も一瞬だがした。当然のこと、誰だろうとぼくは謎を解くように考える。

「これ、頼まれたので持って来ました。お母さんから」彼女は右手に袋をぶら提げている。だが、それを直ぐに渡してくれそうになかった。だから、ぼくは手を伸ばせずにいた。「あ、わたし、咲子です」
「ああ、君か」ぼくは十年ぐらいの時間の距離を縮める必要があった。「そうだ、ここ、直ぐに分かった?」
「地図を書いてもらいました。あとは、どの電車に乗ったらいいかも」
「ごめん、ありがとう」それ以上、言葉がつづいて出てこなかった。しばらくしてから、「そうだよね、受け取って終わりという訳にもいかないよね。どうぞ」とぼくは付け加えた。

 彼女は靴を脱ぎ、玄関に散らばっているぼくの靴も丁寧にそろえて並べた。

 それから、部屋に入り、袋からタッパーを取り出して冷蔵庫にしまった。冷蔵庫のなかも散らかり放題だった。彼女は並べ替え、必要もなさそうなものを見つけ、袋に入れた。ぼくはその許可を与えたつもりもないが、断る必然性もまったく感じていなかった。それは何度も誘われたが家に寄りつくことを断り、彼女と対面する機会を先延ばしにした懺悔のような気持ちがあったからだろう。彼女は、膝まずいて黙々と作業をしていた。

「まだ、きちんと完治していなかったら、寝ててもいいですよ」
「もう、ほとんど治っているんだよ。完治といっても自然に治るたぐいのものだから」ぼくはベッドの端に座ったまま彼女の動きを眺めていた。でも、ぼくと彼女の関係性はどういうものなのだろう? と、不思議にも思っていた。田舎のおじさんの妻の親類。それは赤の他人とも呼べた。だが、都会にいるからそう考えているだけで、もし、そこに住んでいればもっと密接な関係の糸が見えてくるのだろうか。すると、彼女は買ったばかりのりんごのジュースをコップに入れた。

「これで、きれいなコップも最後。流しのもの、洗ってもいいですか?」
「うん。してもらえると助かる」ぼくは、彼女になぜだかさからうことができなかった。
「汗もいっぱいかいたでしょう?」
「うん。特効薬みたいなものもないからね」
 彼女は歩き、洗濯機のなかに無雑作に放られているものを発見する。そこにはここ数日でたまった衣類やタオルが清潔にされることを待ち望んでいた。その使者の到来を待ち兼ねているみたいだった。

「これも、洗います」彼女は洗剤の箱を見つけ、スイッチを入れて、適量を落とした。「ベランダに干せるんですよね?」
「小さいけど、そこ」ぼくは窓側を指差す。
「それが済んだら帰ります」そう言い終えて彼女はスポンジを取り、食器を洗った。最後に流しの周りの水滴も拭いた。

 それで、いまぼくは窓を少し開け、風に揺れている洗濯物を見ていた。咲子はもう帰っていた。彼女が不慣れな路線にふたたび乗り、ぼくの実家のそばまで帰る様子に思いを馳せた。それで、ぼくは彼女が帰る前に母に電話をかけておこうと思いついた。
「洗い物もしてもらって、汚れた衣類も洗濯してもらった」
「お殿様みたい。ね、いい子でしょう?」
「そうだね、少なくとも悪い子じゃない」
「我が子ながら、嫌な言い方。それで、あなたには借りがあるんだから、相談に乗ったり、どっかに行くのに付き合ってあげて。こっちに友だちができるまでの間だから」
「そういう作戦だったの? 今日、来たのも」
「そんな冷たい子に育てた覚えはないのに」母なりの悲哀の演技をした。

「分かったよ。たまには、そうするよ」
「作戦成功」急におどけた声をする。
「やっぱり、下心があったんじゃないか?」
「田舎に帰ったときに世話になったんだから、そのお返し。咲子ちゃんの電話番号も教えるから、今日のお礼もきちんと言ってね。しないと、わたしの面子がつぶれると覚悟して」

「分かったよ」ぼくは仕方なくその告げられた数字をメモする。それをクリップで壁にとめた。それから、冷蔵庫からさっきのタッパーを出して皿に盛った。母の味がする。その伝承を多分、ぼくはすることがないのだろう。もしかしたら、母は自分の家のキッチンで咲子といっしょに料理をしているのかもしれない。若い女性は古いが新たな料理のレパートリーを増やし、活用する日々も来るのかもしれない。春の陽気は衣類を乾かすのに大して手間取らない。ぼくの風邪も退散する時期を見つけたようだった。最後にわざとらしく空咳をした。だが、それですべて終わりだった。
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