償いの書(98)
笠原さんが新婚旅行から帰ってきた。そして、もう笠原さんではなく高井さんだった。でも、なぜか、ぼくは急に呼び方を変えることができず、笠原さんと言い続けた。彼女もそのままの呼び方で抵抗がないようだった。
ぼくは、仕事が終わり、彼女と待ち合わせをする。年下の女性の友人という存在にぼくは次第に慣れていった。そして、掛け替えのないものとなった。
「これ、お土産」
何が入っているか分からない四角い包みを手渡してもらった。重みを感じても、中身までは想像が到達しなかった。
「そんなに気を使わなくてもいいのに。でも、ありがとう。どうだった、旅行?」
「楽しかったけど、喧嘩もした」ぼくは、その情景を思い浮かべる。彼女はふてくされ、彼がなだめている。いや、逆に彼が表情を冷たくして、彼女が取り繕うとしている。
「そんなもんだよ。でも、いまは?」
「元に戻った。仲直りもできた。近藤さんもした?」
「したと思うけど、ぼくの嫁は優しい人間につくられているから」
「わたしが、優しくないみたいじゃないですか」彼女は、不服な顔をする。
「普通は、喧嘩ぐらいするよ。心配しなくていいよ」
「近藤さんは、裕紀さんに引け目を感じている。いや、負い目って言うの?」
「いつから、精神分析もできるようになったの?」
「あれじゃ、ちょっと淋しがるようなことがあるんじゃないですか?」
「そう? 分からないな」
「過去に別れたって、自分のことがいちばん好きだとはっきり言ってもらえれば、それだけで、幸せに、もっと、幸せになれると思うけど。言えない、なにかのひっかかりがある?」
「誰かが言ってた?」
「上田さんや智美さん」ぼくは、そのように振る舞い、そのように自分を定義されていることに唖然とした。「わたしは、詳しいことは知らない」
「どうやったらいいかは?」
「もっと手荒く扱う。壊れ物をそっと手の平に乗せているような印象があった」
「実際に、ぼくは慎重にしているし」ぼくは、自分のこれまでの人生を償いという部分に当てはめ、閉じ込めてきてしまったことを彼女から知らされた。それには、どうも限界があるようだった。ある部分では自然ではなく、ある部分ではこころのなかの思い出でさえ隠すように訓練していたのかもしれない。
「慎重すぎる」
「じゃあ、笠原さんたちが夫婦愛を成長させていくように、ぼくらもお互いの関係をもっと深く強いものにさせるように働きかけていくよ」彼女は、旅行中の自分の喧嘩を忘れていくようだった。思い出は忘れるものであり、ぼくは何人かの女性との思い出を、こころのなかでは成長させてしまっていた。それは、自分の性分のようでもあり、他の目から見れば、ぼくと裕紀の狭間につまっているような印象を与えていた。ぼくは、裕紀を捨て、雪代を選んだ。その自分の行動のため、必要以上に裕紀のことをいたわるように大切にした。それが過保護な関係を作ってしまったらしい。
「そう、しましょう」
「笠原さんは、ぼくに、いろいろなことを教えてくれるんだね」
「そうですよ。大好きですから」
「結婚した人は、そういう言葉を軽々しく使うもんじゃないよ」
「いいじゃないですか、近藤さんが大好きです。照れます?」
「まあ、それは。何かおかわりしようか?」ぼくは、話をそらす。いままでの話題をあたまのなかで再検討するが、それは、どれも周りの目から見たぼくと裕紀との関係だった。裕紀自身の言葉ではなかった。それを確かめるには本人に訊けば、いちばん良いとも思うが、それが正確なものか、もしかしたら他人の目のほうがきちんと情報を正確に処理しているのかもしれないとも思った。
ぼくは、家に帰り裕紀に訊く。
「笠原さんからお土産をもらった」
「そう? 何かしらね、中身」
「ぼくは、裕紀に素っ気なかったかね」
「どうしたの、急に」
「彼女たちは、新婚旅行で喧嘩をした」
「緊張したのや張り詰めていたここまでの数ヶ月のたまったものが解けて、小さな爆発をしたんでしょう」
「裕紀も過去にそう思った?」
「わたしは、正直言うと、ひろし君はまたいつか別の女性を好きになってしまうという心配があった」
「ごめん」
「謝ることないよ。これは、わたしの問題。越えるべき問題。結婚しても最初のうちは不安だった」
「でも、言わなかった?」
「言ってしまえば、そうする可能性を誰かが嗅ぎ取ってしまうという恐れがあった」
「誰が?」
「誰か、それは分からない。何か、神秘的な意味で。でも、いままでは、こころを持っていかれてしまうようなことはなかったように思う。そうなんでしょう?」
「そうだよ」
「なら、いい。忘れて」
「ぼくが素っ気なかったという質問は?」
「そんなことないよ。充分もらった」
「なにを?」
「愛情みたいなもの」愛情みたいなもの? それは、愛情なのか、それとも、もっと違うものなのか。ぼくは、笠原さんのお土産を開ける裕紀の手元を見ながら、もしかしたら、その箱のなかにその答えが隠されているような期待をもった。
笠原さんが新婚旅行から帰ってきた。そして、もう笠原さんではなく高井さんだった。でも、なぜか、ぼくは急に呼び方を変えることができず、笠原さんと言い続けた。彼女もそのままの呼び方で抵抗がないようだった。
ぼくは、仕事が終わり、彼女と待ち合わせをする。年下の女性の友人という存在にぼくは次第に慣れていった。そして、掛け替えのないものとなった。
「これ、お土産」
何が入っているか分からない四角い包みを手渡してもらった。重みを感じても、中身までは想像が到達しなかった。
「そんなに気を使わなくてもいいのに。でも、ありがとう。どうだった、旅行?」
「楽しかったけど、喧嘩もした」ぼくは、その情景を思い浮かべる。彼女はふてくされ、彼がなだめている。いや、逆に彼が表情を冷たくして、彼女が取り繕うとしている。
「そんなもんだよ。でも、いまは?」
「元に戻った。仲直りもできた。近藤さんもした?」
「したと思うけど、ぼくの嫁は優しい人間につくられているから」
「わたしが、優しくないみたいじゃないですか」彼女は、不服な顔をする。
「普通は、喧嘩ぐらいするよ。心配しなくていいよ」
「近藤さんは、裕紀さんに引け目を感じている。いや、負い目って言うの?」
「いつから、精神分析もできるようになったの?」
「あれじゃ、ちょっと淋しがるようなことがあるんじゃないですか?」
「そう? 分からないな」
「過去に別れたって、自分のことがいちばん好きだとはっきり言ってもらえれば、それだけで、幸せに、もっと、幸せになれると思うけど。言えない、なにかのひっかかりがある?」
「誰かが言ってた?」
「上田さんや智美さん」ぼくは、そのように振る舞い、そのように自分を定義されていることに唖然とした。「わたしは、詳しいことは知らない」
「どうやったらいいかは?」
「もっと手荒く扱う。壊れ物をそっと手の平に乗せているような印象があった」
「実際に、ぼくは慎重にしているし」ぼくは、自分のこれまでの人生を償いという部分に当てはめ、閉じ込めてきてしまったことを彼女から知らされた。それには、どうも限界があるようだった。ある部分では自然ではなく、ある部分ではこころのなかの思い出でさえ隠すように訓練していたのかもしれない。
「慎重すぎる」
「じゃあ、笠原さんたちが夫婦愛を成長させていくように、ぼくらもお互いの関係をもっと深く強いものにさせるように働きかけていくよ」彼女は、旅行中の自分の喧嘩を忘れていくようだった。思い出は忘れるものであり、ぼくは何人かの女性との思い出を、こころのなかでは成長させてしまっていた。それは、自分の性分のようでもあり、他の目から見れば、ぼくと裕紀の狭間につまっているような印象を与えていた。ぼくは、裕紀を捨て、雪代を選んだ。その自分の行動のため、必要以上に裕紀のことをいたわるように大切にした。それが過保護な関係を作ってしまったらしい。
「そう、しましょう」
「笠原さんは、ぼくに、いろいろなことを教えてくれるんだね」
「そうですよ。大好きですから」
「結婚した人は、そういう言葉を軽々しく使うもんじゃないよ」
「いいじゃないですか、近藤さんが大好きです。照れます?」
「まあ、それは。何かおかわりしようか?」ぼくは、話をそらす。いままでの話題をあたまのなかで再検討するが、それは、どれも周りの目から見たぼくと裕紀との関係だった。裕紀自身の言葉ではなかった。それを確かめるには本人に訊けば、いちばん良いとも思うが、それが正確なものか、もしかしたら他人の目のほうがきちんと情報を正確に処理しているのかもしれないとも思った。
ぼくは、家に帰り裕紀に訊く。
「笠原さんからお土産をもらった」
「そう? 何かしらね、中身」
「ぼくは、裕紀に素っ気なかったかね」
「どうしたの、急に」
「彼女たちは、新婚旅行で喧嘩をした」
「緊張したのや張り詰めていたここまでの数ヶ月のたまったものが解けて、小さな爆発をしたんでしょう」
「裕紀も過去にそう思った?」
「わたしは、正直言うと、ひろし君はまたいつか別の女性を好きになってしまうという心配があった」
「ごめん」
「謝ることないよ。これは、わたしの問題。越えるべき問題。結婚しても最初のうちは不安だった」
「でも、言わなかった?」
「言ってしまえば、そうする可能性を誰かが嗅ぎ取ってしまうという恐れがあった」
「誰が?」
「誰か、それは分からない。何か、神秘的な意味で。でも、いままでは、こころを持っていかれてしまうようなことはなかったように思う。そうなんでしょう?」
「そうだよ」
「なら、いい。忘れて」
「ぼくが素っ気なかったという質問は?」
「そんなことないよ。充分もらった」
「なにを?」
「愛情みたいなもの」愛情みたいなもの? それは、愛情なのか、それとも、もっと違うものなのか。ぼくは、笠原さんのお土産を開ける裕紀の手元を見ながら、もしかしたら、その箱のなかにその答えが隠されているような期待をもった。