壊れゆくブレイン(50)
高校に入っても、広美はバスケットを続けていた。休日には、重そうなバックを抱え練習に出かけ、帰りにはその重さに耐えられなさそうな様子で戻ってきた。
しかし、その日は練習が休みだと告げていたが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「広美は?」ぼくは、よれよれの寝巻き代わりのTシャツの姿のままでリビングに行った。雪代はテーブルに座り雑誌のようなものを読んでいた。
「デートをするとか言ってたけど」いくらか投げやりな口調で彼女は言った。
「え、どこ?」
「デートだって」視線を雑誌からそらせてこちらを見た。「そのTシャツ、もう終わりにするべきじゃない?」
「え、早くない?」ぼくは自分の姿を、そう言ってから眺めた。
「時間が? それとも、Tシャツを捨てるのに?」
「違うよ。デートの時期だよ。まだ高校に入ったばかりだよ」
雪代は、怪訝な顔とうんざりしたのをミックスしたような表情を見せた。それは珍しいというより、ぼくにとっては初めてだった。
「ほんとに? ひろし君、古臭くなったのね、考え方が。わたしたちが会ったのもその頃が最初だよ。わたしは、16歳の泥だらけの男の子を見つけた。学校のグラウンドで。覚えてない?」
「覚えてるけど・・・」
「泥だらけで、輝いていた。いや、違うな。泥だらけだけど、隠されたものを秘めているような輝きがあった」
「あの頃は」
「座って」雪代は椅子を指差した。「わたしはあの日の夕暮れから、ひとりの男の子のことを考えるようになってしまった。つまりは束縛なのね、誰にも求められていなかったけど。幸運にもわたしのことを好きになってくれて、いっしょの大学でちょっとだけ過ごし、また、同じ部屋で暮らした」
「そうだね」
「それから、彼は東京へ。わたしは結婚した。むかしの優しかった魅力的だった男性の幻を思い出すように。しかし、彼は別人のようになっていた。一度の挫折で道が変わってしまったから。スポーツの優等生の陥る魔の領域なのかも。それで、ひろし君も東京で結婚した。わたしには広美ができ、それだけでこの結婚は成功だったと思っている」
「彼女はデートしてる」
「こっちに戻ってきたひろし君も別人のようになっていた。でも、このひとは挫折を乗り越えるだろうと知っていた。またね、そうなってほしかった。どこかにあの16歳の泥だらけの男の子がまだ見えた。わたしのこころを奪ってしまったあの子がね」
「むかしのことも考えるけど、ほぼ、立ち直った」
「広美にもそういう時期がきてるのよ。ひろし君を見つけたわたしと同じような時期が」
「なかなかいないよ」
「ふふ。いるでしょう」雪代は雑誌を閉じた。「何か食べる? 何か飲む?」
「コーヒー。とても濃厚なコーヒー」
ぼくは窓の外を見た。梅雨に似合わないような快晴の上空。若い男性と女性が恥らいながらお互いを知ろうとしている。些細なきっかけと共通点を見つけ、互いを運命が導き得た相手だと思う。それが一時的な錯覚にすぎないにしろ。
でも、ぼくの場合は錯覚ではなかった。雪代はさっきまじめな告白をした。だが、あの時に見初めたのはぼくの方であったのだ。だが、自分に見合わない相手だと当初は決め付けていた。いくらか年上でもあるし、憧れのラグビーの先輩の恋人でもあったのだ。ぼくは、それで自分に似合っているという裕紀を見つける。だが、ぼくのこころはふたつに分かれていた。
「はい、入れたよ」テーブルにカップを置く。
「ありがとう」
「あの頃の、初々しい気持ちになれるといいんだけど」
「なれるでしょう」
「これが、最初だという経験ってある? いまになっても。このひとは、こういうタイプのひとだから、この点に気をつけようとか最初からイメージを作り上げて自分の模倣を通して生きている、いつも」
「そうだね。でも、ぼくは知らなかった雪代の表情をさっきはじめて見た」
「どんな?」
「15、6歳の女性がデートに早過ぎるって言ったとき」
「そう。あの子は、わたしといっしょに暮らしてきたから成長の度合いも知ってるし、手を離してもいい時期が来て欲しいとも思っている。自転車に乗れたときと同じようなことがずっと続いていくのよ」
「そうなんだろうね。ぼくは大人になるのを留めることを期待してるのかな。幼少期を知らないからこそ」
「また、自転車が乗れたときの繰り返しとか言った。だから、あのときのことと同じようだったというイメージの集積で大人は生きてるんだと言いたかったの」
「じゃあ、はじめてのことをしよう、今日は」
「何かあるの?」少し淋しげな表情を雪代はしたが、そこには期待感もいくらかだけあった。臆病な子どもが壁の陰に隠れているように。
「さあ、これから決める」
「着替えるなら、そのTシャツをもう洗濯機に放り込まないで。捨てるから」
「そんなに酷いかな?」ぼくは裾を指先でひっぱり点検する仕草をした。
「そんなに酷い。16歳の少年には似合ってても、大人には不釣合いなものってあるのよ」
「そう。じゃあ、お別れ」ぼくはそれを脱ぐため腕で引っ張りあげ、首を抜いた。襟はのび、いくらかよれていた。それでも、新品にはない手触りの良さがあり、自分のために働いてきた期間の名残りのようなものがあった。それは雪代との生活と同じようなものだ。ぼくらに初々しさがなくなっていくとしても、その代わりにしっくりとしたものを見つけていくのだろう。それは決して手放して良いものでもなかった。
高校に入っても、広美はバスケットを続けていた。休日には、重そうなバックを抱え練習に出かけ、帰りにはその重さに耐えられなさそうな様子で戻ってきた。
しかし、その日は練習が休みだと告げていたが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「広美は?」ぼくは、よれよれの寝巻き代わりのTシャツの姿のままでリビングに行った。雪代はテーブルに座り雑誌のようなものを読んでいた。
「デートをするとか言ってたけど」いくらか投げやりな口調で彼女は言った。
「え、どこ?」
「デートだって」視線を雑誌からそらせてこちらを見た。「そのTシャツ、もう終わりにするべきじゃない?」
「え、早くない?」ぼくは自分の姿を、そう言ってから眺めた。
「時間が? それとも、Tシャツを捨てるのに?」
「違うよ。デートの時期だよ。まだ高校に入ったばかりだよ」
雪代は、怪訝な顔とうんざりしたのをミックスしたような表情を見せた。それは珍しいというより、ぼくにとっては初めてだった。
「ほんとに? ひろし君、古臭くなったのね、考え方が。わたしたちが会ったのもその頃が最初だよ。わたしは、16歳の泥だらけの男の子を見つけた。学校のグラウンドで。覚えてない?」
「覚えてるけど・・・」
「泥だらけで、輝いていた。いや、違うな。泥だらけだけど、隠されたものを秘めているような輝きがあった」
「あの頃は」
「座って」雪代は椅子を指差した。「わたしはあの日の夕暮れから、ひとりの男の子のことを考えるようになってしまった。つまりは束縛なのね、誰にも求められていなかったけど。幸運にもわたしのことを好きになってくれて、いっしょの大学でちょっとだけ過ごし、また、同じ部屋で暮らした」
「そうだね」
「それから、彼は東京へ。わたしは結婚した。むかしの優しかった魅力的だった男性の幻を思い出すように。しかし、彼は別人のようになっていた。一度の挫折で道が変わってしまったから。スポーツの優等生の陥る魔の領域なのかも。それで、ひろし君も東京で結婚した。わたしには広美ができ、それだけでこの結婚は成功だったと思っている」
「彼女はデートしてる」
「こっちに戻ってきたひろし君も別人のようになっていた。でも、このひとは挫折を乗り越えるだろうと知っていた。またね、そうなってほしかった。どこかにあの16歳の泥だらけの男の子がまだ見えた。わたしのこころを奪ってしまったあの子がね」
「むかしのことも考えるけど、ほぼ、立ち直った」
「広美にもそういう時期がきてるのよ。ひろし君を見つけたわたしと同じような時期が」
「なかなかいないよ」
「ふふ。いるでしょう」雪代は雑誌を閉じた。「何か食べる? 何か飲む?」
「コーヒー。とても濃厚なコーヒー」
ぼくは窓の外を見た。梅雨に似合わないような快晴の上空。若い男性と女性が恥らいながらお互いを知ろうとしている。些細なきっかけと共通点を見つけ、互いを運命が導き得た相手だと思う。それが一時的な錯覚にすぎないにしろ。
でも、ぼくの場合は錯覚ではなかった。雪代はさっきまじめな告白をした。だが、あの時に見初めたのはぼくの方であったのだ。だが、自分に見合わない相手だと当初は決め付けていた。いくらか年上でもあるし、憧れのラグビーの先輩の恋人でもあったのだ。ぼくは、それで自分に似合っているという裕紀を見つける。だが、ぼくのこころはふたつに分かれていた。
「はい、入れたよ」テーブルにカップを置く。
「ありがとう」
「あの頃の、初々しい気持ちになれるといいんだけど」
「なれるでしょう」
「これが、最初だという経験ってある? いまになっても。このひとは、こういうタイプのひとだから、この点に気をつけようとか最初からイメージを作り上げて自分の模倣を通して生きている、いつも」
「そうだね。でも、ぼくは知らなかった雪代の表情をさっきはじめて見た」
「どんな?」
「15、6歳の女性がデートに早過ぎるって言ったとき」
「そう。あの子は、わたしといっしょに暮らしてきたから成長の度合いも知ってるし、手を離してもいい時期が来て欲しいとも思っている。自転車に乗れたときと同じようなことがずっと続いていくのよ」
「そうなんだろうね。ぼくは大人になるのを留めることを期待してるのかな。幼少期を知らないからこそ」
「また、自転車が乗れたときの繰り返しとか言った。だから、あのときのことと同じようだったというイメージの集積で大人は生きてるんだと言いたかったの」
「じゃあ、はじめてのことをしよう、今日は」
「何かあるの?」少し淋しげな表情を雪代はしたが、そこには期待感もいくらかだけあった。臆病な子どもが壁の陰に隠れているように。
「さあ、これから決める」
「着替えるなら、そのTシャツをもう洗濯機に放り込まないで。捨てるから」
「そんなに酷いかな?」ぼくは裾を指先でひっぱり点検する仕草をした。
「そんなに酷い。16歳の少年には似合ってても、大人には不釣合いなものってあるのよ」
「そう。じゃあ、お別れ」ぼくはそれを脱ぐため腕で引っ張りあげ、首を抜いた。襟はのび、いくらかよれていた。それでも、新品にはない手触りの良さがあり、自分のために働いてきた期間の名残りのようなものがあった。それは雪代との生活と同じようなものだ。ぼくらに初々しさがなくなっていくとしても、その代わりにしっくりとしたものを見つけていくのだろう。それは決して手放して良いものでもなかった。