爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(50)

2012年03月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(50)

 高校に入っても、広美はバスケットを続けていた。休日には、重そうなバックを抱え練習に出かけ、帰りにはその重さに耐えられなさそうな様子で戻ってきた。

 しかし、その日は練習が休みだと告げていたが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「広美は?」ぼくは、よれよれの寝巻き代わりのTシャツの姿のままでリビングに行った。雪代はテーブルに座り雑誌のようなものを読んでいた。
「デートをするとか言ってたけど」いくらか投げやりな口調で彼女は言った。
「え、どこ?」
「デートだって」視線を雑誌からそらせてこちらを見た。「そのTシャツ、もう終わりにするべきじゃない?」
「え、早くない?」ぼくは自分の姿を、そう言ってから眺めた。
「時間が? それとも、Tシャツを捨てるのに?」
「違うよ。デートの時期だよ。まだ高校に入ったばかりだよ」

 雪代は、怪訝な顔とうんざりしたのをミックスしたような表情を見せた。それは珍しいというより、ぼくにとっては初めてだった。

「ほんとに? ひろし君、古臭くなったのね、考え方が。わたしたちが会ったのもその頃が最初だよ。わたしは、16歳の泥だらけの男の子を見つけた。学校のグラウンドで。覚えてない?」
「覚えてるけど・・・」
「泥だらけで、輝いていた。いや、違うな。泥だらけだけど、隠されたものを秘めているような輝きがあった」
「あの頃は」
「座って」雪代は椅子を指差した。「わたしはあの日の夕暮れから、ひとりの男の子のことを考えるようになってしまった。つまりは束縛なのね、誰にも求められていなかったけど。幸運にもわたしのことを好きになってくれて、いっしょの大学でちょっとだけ過ごし、また、同じ部屋で暮らした」
「そうだね」

「それから、彼は東京へ。わたしは結婚した。むかしの優しかった魅力的だった男性の幻を思い出すように。しかし、彼は別人のようになっていた。一度の挫折で道が変わってしまったから。スポーツの優等生の陥る魔の領域なのかも。それで、ひろし君も東京で結婚した。わたしには広美ができ、それだけでこの結婚は成功だったと思っている」
「彼女はデートしてる」
「こっちに戻ってきたひろし君も別人のようになっていた。でも、このひとは挫折を乗り越えるだろうと知っていた。またね、そうなってほしかった。どこかにあの16歳の泥だらけの男の子がまだ見えた。わたしのこころを奪ってしまったあの子がね」
「むかしのことも考えるけど、ほぼ、立ち直った」
「広美にもそういう時期がきてるのよ。ひろし君を見つけたわたしと同じような時期が」
「なかなかいないよ」

「ふふ。いるでしょう」雪代は雑誌を閉じた。「何か食べる? 何か飲む?」
「コーヒー。とても濃厚なコーヒー」
 ぼくは窓の外を見た。梅雨に似合わないような快晴の上空。若い男性と女性が恥らいながらお互いを知ろうとしている。些細なきっかけと共通点を見つけ、互いを運命が導き得た相手だと思う。それが一時的な錯覚にすぎないにしろ。

 でも、ぼくの場合は錯覚ではなかった。雪代はさっきまじめな告白をした。だが、あの時に見初めたのはぼくの方であったのだ。だが、自分に見合わない相手だと当初は決め付けていた。いくらか年上でもあるし、憧れのラグビーの先輩の恋人でもあったのだ。ぼくは、それで自分に似合っているという裕紀を見つける。だが、ぼくのこころはふたつに分かれていた。
「はい、入れたよ」テーブルにカップを置く。

「ありがとう」
「あの頃の、初々しい気持ちになれるといいんだけど」
「なれるでしょう」
「これが、最初だという経験ってある? いまになっても。このひとは、こういうタイプのひとだから、この点に気をつけようとか最初からイメージを作り上げて自分の模倣を通して生きている、いつも」
「そうだね。でも、ぼくは知らなかった雪代の表情をさっきはじめて見た」
「どんな?」
「15、6歳の女性がデートに早過ぎるって言ったとき」

「そう。あの子は、わたしといっしょに暮らしてきたから成長の度合いも知ってるし、手を離してもいい時期が来て欲しいとも思っている。自転車に乗れたときと同じようなことがずっと続いていくのよ」
「そうなんだろうね。ぼくは大人になるのを留めることを期待してるのかな。幼少期を知らないからこそ」
「また、自転車が乗れたときの繰り返しとか言った。だから、あのときのことと同じようだったというイメージの集積で大人は生きてるんだと言いたかったの」
「じゃあ、はじめてのことをしよう、今日は」
「何かあるの?」少し淋しげな表情を雪代はしたが、そこには期待感もいくらかだけあった。臆病な子どもが壁の陰に隠れているように。
「さあ、これから決める」
「着替えるなら、そのTシャツをもう洗濯機に放り込まないで。捨てるから」
「そんなに酷いかな?」ぼくは裾を指先でひっぱり点検する仕草をした。
「そんなに酷い。16歳の少年には似合ってても、大人には不釣合いなものってあるのよ」

「そう。じゃあ、お別れ」ぼくはそれを脱ぐため腕で引っ張りあげ、首を抜いた。襟はのび、いくらかよれていた。それでも、新品にはない手触りの良さがあり、自分のために働いてきた期間の名残りのようなものがあった。それは雪代との生活と同じようなものだ。ぼくらに初々しさがなくなっていくとしても、その代わりにしっくりとしたものを見つけていくのだろう。それは決して手放して良いものでもなかった。

壊れゆくブレイン(49)

2012年03月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(49)

 ぼくは自分の甥が、自分の身体のサイズを追い抜かそうとする時期が来るなど思ってもいなかった。だが、彼の父親はもともとが大きな人間であったし、母であるぼくの妹も決して小柄な方ではないので、結果としてはありえる事実をそう驚くほどのものではなかったのかもしれない。

 そして、よく食べた。ぼくらはテーブルに向かい合って座り、目の前に運ばれた料理を眺めている。それは次第に減っていき、いずれ皿のうえは空になってしまうのだろう。それが、明日の体力となる時期なのだ。

「どうだった、中学生活は?」
「楽しかったよ」と、かずやは口を動かす合間に言った。
「好きな子とかいるのか?」
「まあね」
「別れて生活する羽目になる」
「まあね」
「高校に行けば、高校に行ったで目先が変わる。父親がそこにいるのは気まずいけど」
「ぼくもラグビーを選んでいたら死んでたよ。家でも学校でも父親の支配下で」
「そうだろうな」自立心が芽生える頃に絶えず親の圧迫を受ければ、その未来はいくらかゆがんだものになるだろう。「でも、ひととの出会いって、とても大切なものだぞ」

「知ってるよ」
「知らないよ。多分、人生を左右するような出会いが貴重じゃないもののように不図あらわれてくる」
「そうなんだ」
「そうだよ。ぼくは高校に入って、雪代と出会って、その関係がいまでも、こうして続いているんだから」
「裕紀おばさんにもあった」彼らは頑なにぼくに彼女のことを忘れないようにと要求するようだった。
「彼女にも会った。それも、ぼくの人生を根本的に大きく変えてしまった出会いだった」
「良かった?」

「それは、良かったよ」ぼくは彼女といっしょに行ったもうひとつの彼女の家の内部を思い出している。彼女の初々しさやすがすがしさが、きれいなままの状態でぼくの頭の中に宿っていた。
「どこが?」
「どこがって、懸命に自分を好きになってくれる別のひとの目を通して、自分が見えてくるし。それに見合った、恥ずかしくない自分にもなりたいとか」ぼくは、いろいろ思案する。そう言葉にしたが実際に守ろうとしたか点検も兼ねていた。「そのひとが居るだけで、世間は楽しくなるもんだよ」
「そういうもんか」

 ぼくは、裕紀の名前が出た以上、彼女のことを思い出さない訳にはいかない。ぼくは16歳で彼女に会った。もちろんのことその当時は知らないわけであるが、彼女はそれから20年というちっぽけな歳月しか生きない。ぼくは、それを最初から知っているならば、当然のこと、彼女と別れることなど考えなかったかもしれない。しかし、ぼくには雪代もいた。彼女の放つ魅力もあった。それが、恥ずかしくない生き方だったのか、ぼくには正解が出せないでいた。そして、お詫びのようにぼくは、「君の一瞬、一瞬を今後、見逃さないように、目を寸時も離さないようにしているからね」とこころの中で過去の裕紀に語りかけた。無論、言葉は届かない。しかし、いまはそれでも良かった。何年間かのブランクが作られてしまったとしても。

「そういえば、うちの広美は人気があった?」ぼくは突然、思い出したように言う。現在の生活もぼくには流れている。偶然にも自分の甥と義理の娘は同学年で同じ学校に通っていた。彼らが学校でどう接するのか知りようもない。自分のおじさんと、彼の結婚相手の娘。何の関係もないふたりが、ぼくを媒体にして感情を意識する。

「うん、あったよ。なかなか可愛いとか思われていた」
「そうだよな、彼女の母はきれいだったから」

 あれから、四半世紀も過ぎ、ぼくは自分の過去を甥の生活に当てはめ考えていた。そして、彼はどうしようもない後悔や失敗をするかもしれない。それを躊躇することなく転げてほしいとも思っていた。癒える傷もあれば、どうしようもない後遺症をのこす可能性も人生にはあるのだ。それが生きていく過程でもあり、ぼくは、そうして裕紀を失った。掛け替えのないものを失くしながら、ひたすら生き延びるのだ。風邪にかかれば治したいと思うし、病原菌を退治できた爽快さもある。だが、結果としてはぼくらは昨日と違う。

 食事もすっかり済み、テーブルは片付け始められた。ぼくはささやかな小さな箱を彼に渡した。
「何、これ?」
「プレゼントだよ。15年、きっちりと生きてくれた」それは雪代が用意したものだった。ぼくも実際のところ中味を知らないため、そのような言い淀んだ言葉になった。
「ありがとう、それに、ごちそうさま」
「いいよ、また。ひとりで帰れる?」
 彼は怪訝な顔をする。ぼくは、広美の勉強後、まゆみを送った刹那な時間を懐かしく感じている。
「自転車で来たから、またそれにまたがるだけ」

「そう、気をつけて」ぼくはひとりでそこに留まり、残ったワインを飲み干した。彼には限りない未来があり、ぼくには過去の出会いの思い出があった。それがぼくの人生を左右して、いまのぼくを作り上げた。ラグビー部の先輩に甘えた時間があって、いつか恋人ができた。その子と別れ、再会して結婚した。そして、淡い湯気のような瞬間しかぼくらは生活を共にできなかった。それでも、貴重であり、その短い痕跡のゆえなおいっそう美化されてもいった。微量のダイヤモンドですら高価なものと認識されていくように。

 ぼくは財布を出し会計を終えた。夜空を見上げ、冬の名残をみつけようとした。甥のたくましくなった身体を思い出し、裕紀の痩せていく腕やあごのあたりも同時に思い浮かべていた。

壊れゆくブレイン(48)

2012年03月22日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(48)

 時間は、前後しているのかもしれない。だが、いまというはっきりと定義しえない時間が過去に移り行けば、物事はだいたいのところそうなっていく傾向にあった。

 3月のとある日。広美はこれから通う高校を既に決め、束の間の期間だがのんびりと暮らしている。過去は閉じられつつあり、未来は開かれるのを待ち望んでいる。その頃、ぼくらの家には珍しく赤ん坊がいて、その子の放つ甘い匂いが部屋中に充満していた。

 それを放っているのは、まゆみの子どもだった。結局のところ彼女は、お腹が膨らんでいくのが目立つまであのまま大学に通い、必要な単位を取り、今日、そこを卒業するために地元に戻ってきていた。いまは若々しい服装をして、そこにいることだろう。母という立場を忘れて。それでその間、ぼくらはその小さな存在を預かっていた。

 床に雪代は座り、その子を抱いていた。となりで広美はその子の頬を指の先で軽く突いていた。ぼくは用を終え、家に戻るとそのような姿を目にした。
「なんだ、とても様になっているじゃない」
「これでも、ひとり育てたんだから。とても、可愛かった。いまは、たまに反抗するようになったけど、ね」となりで、広美は鼻をちいさく鳴らすようにふくれた。
「反抗じゃなくて、自分の考えが芽生えたというんだよ」
「そうなの。ひろし君も抱く?」
「やだよ」
「いつも、恐がってる。あんなに産めと言いつづけたのに・・・」
「それとこれとは、話は別」
「いいから、あげる。はい」と言って雪代はその子の身体をぼくに渡そうとする。「誰にも渡さないようにラグビーボールを大切に握っていたくせに。はい」

 ぼくは壊れてしまうものをいくつか考える。グラス。茶碗。皿。瀬戸物。しかし、どれもいまのこの子の存在より重要なものはなかった。
「なんか、温かいな」
「そうでしょう、頑張って、生きてるんだもん。そうだ、このぐらいの時か、もっと先だけど仕事で地元に戻ってきたひろし君に広美も一度だけ抱かれたことあるんだよ」
「知ってる」広美はまじめな顔のままそう言った。
「え? 知ってるはずないじゃん。身体も首もぐにゃぐにゃしてた頃だよ。その感覚がある」ぼくは、いま懐にいる子にどんな言葉をかけていいものやら思案をしながら言った。
「だから、覚えてるって」
「言わなかったじゃない? わたしも、いままでこの話しなかったし」雪代も怪訝そうな顔をした。
「だって、訊かれなかったもん」
「広美は、そういう能力があるの?」
「何にもないよ。だけど、違う匂いのひとに抱かれた記憶がずっとあった」
「ぼくが東京にいた頃、会社の横に未来を予見することができる女性がいた」

「だから、そういうのじゃないよ。気持ち悪いな。恐い話を嫌いなのを知ってるくせに・・・」広美は先程とは違う部類のふて腐れ方をした。「この希美代ちゃんの未来だって、誰にも分からないよ」
「そういうひとがいたの?」逆に雪代がその話題に関心をもった。
「いままで、すっかり忘れていたけど、いたんだよ、実際に」
「何か、言われた?」雪代はぼくの顔をしげしげと見る。

「そうだ、東京にいるのに疲れてこちらに戻ってくるときに、小さな女の子と遊んでいる様子があるとか言ってたな。ぼくは、それを幼いまゆみと過ごしていた時期と重ね合わせていた。それしか自分には印象がないからね。子どもと地元を結びつけるようなものは。だけど、いま考えると、あれは広美のことだね。ぼくとはじめて会ったときの広美のことだったのかも。5、6年前かな」

「なんか、そういう話こわいな」広美は耳をふさぐような真似をした。
「いまにも、ぴったりと合っている」雪代は遠目で、ぼくと小さな女の子を見つけ、そう言った。「わたしを見たら、何か言うのかな?」
「そういう生活に疲れて辞めてしまいたいと言ってた。いろいろ気苦労があるんだろう。ひとと違うって」
「まゆみちゃんも、ちょっとひとと違う生活を迫られた」それを迫ったのはぼくだということが雪代の言葉の奥に隠れているようだった。

「この子の誕生は、広美の勉強が結実した確かな証拠でもある」ぼくは、またその存在を雪代にもどした。だが、直ぐにその温かみはこころの面も含めて消えなかった。「もう、まゆみ先生は必要ない?」ぼくは広美に訊く。
「勉強のコツみたいなものが分かったから、もう大丈夫」
「いつか、この子が大きくなったら、広美が勉強を教えてあげて」雪代は小さな耳に口元を近づけるように、その意図をそこから注ぎ込むようにして語った。
「いいよ。何でも教えてあげる。わたしの持っているものすべて」

 そこで電話が鳴った。手の空いているぼくが近くに寄り受話器を取った。それは甥からだった。彼も中学時代を終える。ぼくは娘がいなかったら、もっと彼と時間を取っていたという不確かな気持ちをずっと持っていた。相談相手になり、遊び相手になり、親からの避難場所にもなっていたのかもしれない。だが、大人になるにつれ、こちらの思いとは別に要求は短絡的なものになった。

「誰から?」
「高校に行く記念に飯をおごれって」
「かずや君?」雪代がはじめてぼくを見たのもその年代のころだったのだ。そのことを改めて思い知る。
「あいつ、学校でもすごい食べた」
「あんたも食べるじゃない?」雪代は希美代にも、そうなってほしい口調だった。
「それは、家ででしょう」若い女性の自己を正当化させる論理にぼくは納得がいかなかった。

壊れゆくブレイン(47)

2012年03月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(47)

 ぼくは自分の勝手な美意識と求めるべき生き様のために、ひとの選ぶ生き方を簡単に間違いだと結論を下しスポイルしようとした。だが、ぼくは裕紀を失ったのだ。それが、結果としてぼくの運転の基準のようなものになっていた。道は平坦ではないけど、ここなら安全なのだという選択を常に追い求めて。

 予測をしていたけど、その所為でいまでも店長と呼んでいたまゆみの父親に呼び出される。ぼくは自分の20歳前後の期間を彼の店であるスポーツ店で働いていた。お互いに20年ほど年を取り、彼の頭には白いものが目立つようになっていた。顔もいくらかしわがあったが、それを手に入れた結果として、より一層そのひとのもつ優しさや人柄がかえってにじみ出るようにもなっていた。

「知ってるんだよな?」店長の発する質問の意味は充分に理解できた。
「ええ。あそこの海に行かせてしまった原因を作ったのは、もとはといえば、ぼくにあります。すみません」
「それは、いいんだよ。若いときは何でも経験だから」彼はしばらくためらった後、「でも、それでも産んだほうがいいと言う」
「ええ。もちろん。理由は、まゆみちゃんにも言いました」
「自分を特殊だと思い過ぎていないか? まゆみにとって、そんな決断はただ重みになるとか考えないのか?」
「店長は?」どのような気持ちを持っているのか訊こうとしたが、それ以上の言葉はでてこなかった。
「オレは、ただ自分の不運を誰かに当たりたいだけなのかも。つまりはお前とかに」
「奥さんは?」
「何だか泣いてばかりいる。ああいう弱い女じゃないんだけど、いつもは」
「まゆみちゃんは?」

「いつもより断然、無口になった。殻にいる卵みたいに。いや、卵は殻か」自分の間違いを正そうとするのか、そのことを思案する表情をして首を傾げた。「オレは、本音を言えば、孫がいてもいい年頃になったなと思ってるんだ。友人にも、そういうヤツがいるし。でも、物事には順番がある。ひろしも分かるだろう? 仕入れをして、値段を決め、店頭に並べるとか」
「もちろん。ビルを建て、家賃を決め、入居者を募集する」
「そう、同じこと。いきなり倉庫からものを盗まれてもな。言い方は悪いけど」
「でも、ぼくは何事があっても阻止したいですね」
「お前のそういう頑固さが恐く、また憧れるべき美点でもあるんだよな。それで、優秀な選手はラグビーをやめ、オレたちの前途にあった淡い希望や期待を打ち消した。そういう淡さって何だか楽しいものなんだぞ」
「すいません」

「いや、謝るべきことじゃないよ。何だか、論点が変わってしまったけど。ちょっと、飲みに付き合うか?」
「そうですね。ゆっくり、話しましょう」
「オレたちが話し合っても、別に、自分の身体は痛まない」
「その代わりに心労があります」
「そんなの何でもないよ」だが、店長の様子は疲れたひとの表情と似ていた。

 ぼくらはある店で瓶ビールを開ける。お互いにお酌をして、結論とその中心から逃げるようにとりとめもない話を続けた。最終的には、ぼくらのお腹の問題ではないのだといういくらか無責任に通じるものがあったのかもしれない。男性は、ただ面子や世間の目を気にして生きているだけなのかもしれないとも思った。それが、ただ微量に少ないか多いのかという違いによって。

 彼は酔う度ごとに声が大きくなった。その音量の設定をきょうは特に気にしてもいないようだった。だが、話している内容は慎重に取り扱うのを要するものでもあった。

「お前は、誰かの成長にずっと関わるようなことをしてこなかっただろう?」
「ええ、そういう機会には恵まれてきませんでした」ぼくはビールをひとくち飲む。「だけど、ラグビー部の後輩の成長を心配し、部下の失敗を取り繕い、成功を陰で喜んだ事実はあります」いくらかムキになってそう言った。
「娘の話だよ。こっちがしているのは」彼は、ぼくの見えない写真や映像があるかのように目をつむった。「ひざを擦りむいて帰ってきたとか、運動会で一等賞をとったとか、その後にいっしょに風呂に入ったとか」
「そうですね。残念ながら」
「そいつが、そいつが、またそういう子どもを産む。そして、オレと同じことを経験する」
「そういうことになりますね」
「あれをさせてあげても悪くないと思っている。でも、順番があるからな。だから、それが許せない。広美ちゃんでもそういう気持ちを抱くだろう?」
「ええ、まあ、当然ですけど。店長の気持ちは」

 そこから、またお互いの若いときの話や、彼が野球を辞めざるを得なかった怪我のことや、ぼくのラグビーの活躍に話は転がっていった。

 そうしながらも、店長は張り詰めていた緊張の糸が急に切れたひとのようにテーブルに突っ伏し、眠ってしまった。20分ぐらいもそうしていただろうか、ぼくは店のひとを相手に少し会話を交わし、ひとりで飲んだ。また彼が我にかえったときに、声をかけた。

「そろそろ、家に戻りましょう。奥さんもまゆみちゃんも心配してますよ」
「心配なんかしてないよ、まゆみの野郎は。誰か見知らぬ男の心配でもしてるんだよ」
「そんなに冷たい子じゃないじゃないですか。ぼくらは知ってますよ」
「ありがとうな、ひろし。今日のお前はただのサンドバッグだ。打たれるのが役目だから。そして、立ち上がれ」

 ぼくは、ある砂ぼこりが舞い立つグラウンドにいる自分を思い出している。そこには、観客も味方も敵もいない。ただ、島本さんと、彼のタックルに足元をすくわれて転がった自分がいるだけだった。そこは前途という輝かしいものと壁というものの両方がきちんとある世界でもあった。ぼくは立ち上がる。島本さんの蔑視を掻い潜りながら。まゆみの夫になるべきひとも、そういう世界にいま居るのだろう。まゆみの子どもの父親になるひと。ぼくは、もうそういう目でまだ未知の男性を理解しようとしていた。

壊れゆくブレイン(46)

2012年03月17日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(46)

 今日も広美の勉強を教え終えたまゆみを送るために夜道を歩いている。街灯はまばらに点在し、その間隔によって表情が読み取れたり、また薄暗い中を言葉だけを頼りにしてお互いが歩いていたりした。

「今日は、あんまり、元気がないんだね」ぼくは普段より口数の少ないまゆみを心配しながら話しかける。
「ええ、ちょっと、どこかに寄ってお話してもいいですか?」
「心配事? 広美の勉強のことかな?」
「ええ。他にもいろいろと」それから、まゆみは殻に閉じこもるように無言になった。
 ぼくらはある店に着き、コーヒーを2つ頼んだ。
「もう、なにを話されても驚かない大人だから、思いのたけを存分にどうぞ」ぼくは、快活を装って言う。
「そう促されても、逆に言い辛くなる」
「どうしたの?」お茶らけた態度をあらためるようにぼくはいくらか自分の口調にシリアスさを帯びさせる。
「わたしの身体が変化してしまった」
「太った? それとも、痩せた? 見た目には分からないけど」
「もっと内面のこと。わたし、できたみたいなんです」
「え、もしかして」
「そう、もしかして」

 ぼくは、コーヒー自体がその身体に有益なのかを先ず考えてしまった。それを恐れる心配のない自分のためと急に訪れた喉の渇きのためにカップを手に取り少し飲んだ。
「お父さんは、分かってる? いや、お父さんになるひとだけど・・・」
「わたし、そんなにふしだらじゃないですよ。それにお父さんになるかは決まっていないし」
「いや。自分に当てはめて言っただけ。男って、そう自分の都合の良い方に考え勝ちだから」
「結論をいつか出さなきゃいけない。産んだほうがいい? それとも、いなくするほうがいいかな」

 ぼくは、意味もなく自分の手の平を見つめる。それが、もっと、もっと小さな手の平をもつ存在をも見出そうとする。

「自分のことしか話せないけど、聞いて。ぼくは、ある日、大切なひとを失ってしまった」それは、まゆみに向かって言っているのか、ただ、自分に言い聞かせるため何度も頭の中で反芻させたものを口に出していただけなのかもしれない。「ぼくは、若いとき勝手な都合でそのひとと別れた。別れてしまっても、楽しい思い出が存在していた以上、未練もあった。だから、いくらぼくを憎もうが、どこかで存在して楽しく生活していて欲しいと思った。その後、思いがけなく再会して、彼女はああいう恵まれた性格だったから、これっぽっちも憎んでいなかったことにぼくは安堵した。それから、まゆみちゃんも知っての通り、ぼくらは結婚した。そして、2度目の本当のお別れが来た。ぼくは、いまでも、彼女がどこかにいて、ぼくを憎みながらでも生きていてほしいと思っている。あの最初のときのように。命の可能性を誰かが、例え病気でも奪うべきじゃないという信念みたいなものが、彼女の死を通して芽生えてしまった。それを、まゆみちゃんがするべきじゃないよ」

「でも、本当の親になったことはないでしょう? 責任をすべてかぶる」
「痛いところを突くね」
「ごめんなさい」
「例えば、例えばだけど、アフリカかどっかで、貧しい少女が鉛筆やノートをもらって勉強したいというテレビを見れば、きみは差し上げたいと思わない?」
「思うよ」

「だから、どんな小さなものだって、可能性を絶っちゃ駄目だよ」
「頭では、分かっている。それならわたしの可能性もある。手垢のついていない可能性」
「ぼくは、子どもは、自分の子どもはいないけど、広美もまゆみちゃんも娘のように大切にしてきた。いや、まゆみちゃんは妹ぐらいかな。子ども産みなよ。おじいちゃんのような役目が必要なら、ぼくがなってあげるから」
「大学もあるし、会社にも入らなければならない」
「そうだよね、もうちょっと冷静になるまで、先送りにしようっか、決断を。それで、相手は?」
「夏、海で働いていたときに」
「そうか。恋をした?」
「まあ」彼女は照れたような様子をした。
「もう、このこと話した?」
「まだ」
「ぼくが会って説明してもいいよ」
「いいよ。でも、ありがとう。本気で心配してくれて」
「もう、大丈夫?」
「少しは」

「出る?」うんというように彼女は頭を下げた。ぼくは立ち上がりながらも、いまだに身体はそこにいて、裕紀がぼくに「赤ちゃんができた」という報告をしているような錯覚をしていた。それは、あっても良かった未来だったが、無論、訪れない過去のある一日の出来事の象徴だった。
 ぼくは喜び、裕紀の手を握る。小さな赤ん坊の衣類をぼくらふたりは楽しく選び、ベビーカーを押す。しかし、可能性は可能性のままで終わってしまった。その反対に裕紀は自分の体内に宿った病気のために病院のベッドで寝ている。
「なに、考えているんですか?」
「いやね、ぼくがある女性から、子どもができたって告げられたときに、どう反応していただろうかというつまらない予測を案じていた」
「裕紀さん?」
「そう」

「まだ、遅くないじゃないですか」
「ぼくは、もう40を過ぎている。広美の子どもを抱くのを待つほうが近くなっているよ」
「さっきは、失礼なことを言いましたね」
「まゆみちゃんは、小さなときから、ぼくに失礼だったよ。これだけは、覚えていたほうがいいよ」

 ぼくは、笑う。彼女も笑う。小さなものは意志もなくいるのか? やはり、世の中に出て来る意志は秘めているのだろうか? それとは逆に、ある病気は、裕紀の存在する動機や意志を消し去るほど強いものを持っていたのだろうか。ぼくは、あらゆることを考えていながら、ただ、その存在がないということにしか意識は集中しなかった。

壊れゆくブレイン(45)

2012年03月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(45)

「あれね、和代が描いたママの絵、地域の賞に入選したんだって」雪代がお風呂でいない時間に広美はぼそっと言った。
「そうなんだ。大した実力なんだね」
「ママも見に行きたいって言ってた」
「どっかに飾られてるの?」
 彼女は場所を告げて、「わたしたちは、もう見てきたけど。それを聞いてママも見たいって」と言った。
「散々、家で見たじゃないか」

 広美は、信じられないという表情をした。最近はたまに大人と寸分変わらない顔付きをした。
「ああいうのは、ああいうきちんと場所に置かれているから、意味があるんじゃない」
「そうか、そうだよな。じゃあ、行ってみるか」すると、雪代が部屋に戻ってきた。
「なに、話してたの?」
「和代ちゃんの絵が飾られているから見に行こうって」
「そうみたいね。付き合う?」
「いいよ。自信過剰にならなければ」
「ああいうのって、そのひとの思い入れがたっぷり入っているから、本人とは別人になるんだよ。あこがれの最大公約数的な大人の女性」

「でも、あれは、まさしくママだったよ。みんなもそう言ってた」
「じゃあ、間違いがないか確認してくる」
 そして順番に広美は奥に消えた。
「広美にとって、きれいなママである雪代は自慢なのかね」
「わたしたち、長く2人で過ごしてきたから。共同体みたいな気持ちがほかの子より多いんでしょう」雪代は鏡の前に座っていたが、振り返ってそう口にした。

 何日か経って仕事がない日が重なった休日、ぼくらは近くの市民センターに出掛けた。各学年ごとに優秀な作品が10点ずつほど選出されており、小学生、中学生、高校生、成人とその上達の度合いが増していって並べられていた。ぼくらは、小さな子どもが描いた絵から順番通り見ていった。そこには稚拙さがあるが何かを表現したいという衝動もあるようだった。両親の絵があり、架空の宇宙のような場所があった。子どもたちが好きな乗り物の絵もあり、将来住むべき町並みを想像して描いた内容のものもあった。どれかは実現されるかもしれず、どれかは空想のまま終わるのかもしれない。

「ひろし君も学生のときは、家の設計図みたいなものよく描いていたね」
「まあ、そういう勉強をしていたからね」
「それを仕事にしたひともいるんでしょう?」
「いるよ」
「なりたかった?」
「さあ。実力も伴なっていなかったし、もっと、ひとと関わりたかったのかもしれないし。いまでは分からないね」
 ぼくらは段々とすすみ、中学生のジャンルに入った。筆力みたいなものも見るからに一段と磨かれていくようだった。
「これじゃ大人が描いたのと変わらないね?」
「そうだね、あ、あった」

 ぼくは、前方を指差す。そこには澄ました女性が座っている。険しさや悩みはまったくなく、いくらか憂いを帯びた表情だったが、そこには自然な健康さも宿っていた。
「やっぱり、家で見ていたのと違う」雪代は率直な感想を言う。
「どう?」
「ある場所に置かれることで、そのものが完成されるというような」
「そうかな? うん、そうだろうね」

「わたし、写真をたくさん撮られて、そのいくつかしか雑誌に載らなかった。でも、紙にきちんときれいに印刷されたものを見ると、やはり、なんか、無造作に選ばれる前のものとは違うと感じたことを思い出した」
「あの子、こんな才能があるんだね。指をバスケットで突き指でもしたら、もったいないね」
「ほんとよね。次のも、見ましょう」

 ぼくらは歩き、最後にまた先程の絵に戻り、ちょっとだけ多く立ち止まり、その絵を堪能した。それから、外に出た。いくつかの絵は直ぐに忘れられてしまう運命にあった。当然のこと、ぼくらはそう多くのものを記憶に留めておかない。だが、ある日の雪代は、こうしてひとりの少女の才能のお陰で刻み付けられていくのだ。

 それから、何ヶ月かしてその絵は作者のもとに戻ってきた。彼女は大きな袋に包み、またそれを我が家に持って来た。
「どっかに飾ってください」と、和代は正当な要求のように、はっきりと言った。
「やだな、自分の絵なんかみて生活するの恥ずかしい」
「じゃあ、ひろしさんの部屋にどうですか?」
「いいよ。飾るよ」ぼくは、それを受け取る。
「いやに、素直なのね?」雪代は不自然な表情で訊く。
「出来栄えも悪くないし、このようにいつもきれいにしていてほしいし」
「絵がライバル?」

「でも、ぼくが貰ってもいいの? 手元に置いておかなくていいの?」
「もっと、もっと上達する予定なんです。そうしたら、またモデルになってもらいます」
「やだ。首も凝るし、あれより老けていくんだもん」

 その言葉は和代にとっては理解できないようだった。彼女らの年の持分はまだ多く、下降気味になるエネルギーなど知らないようだった。
「でも、頼んでみるといいよ」ぼくはひとごとのようにそう言った。
 その夜、ぼくはネタをばらす。母の家に裕紀の絵が飾っており、それを見て和代は少女の純粋さで、ぼくの部屋に雪代のものを飾らせる必要を感じたのだと。
「良かったじゃない。それがエネルギーとなって彼女の才能を刺激したんだから。むかし、アマデウスという映画をいっしょに見たね。ずっと、分からなかったけど、芸術家って、そういう刺激を必要とするひとびとなのかもね」ぼくは、その言葉を飲むように受け入れ、体内でどう反応するか待ったが、それは答えを与えてくれなかった。

壊れゆくブレイン(44)

2012年03月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(44)

「昨日、おばあちゃん家に行った」広美がお菓子を食べながら言った。
「雪代の? それとも、島本さんの?」彼女は怪訝な顔をする。
「ひろし君のお母さん。島本のお祖母ちゃんは、もういないし」ぼくのことを名前で呼ぶが、その母はお祖母ちゃんであるらしい。彼女にとっては。

「それで、なにか用があった?」
「友だちと近くまで行ったから、寄っただけ。でも、お姉ちゃんの部屋に絵が飾ってあった」彼女にとって、お姉ちゃんというのは、ぼくの妹であるらしい。「殺風景だし、閉まっておくのももったいないので出して飾ったんだって」妹も実家に住んでいない。もともと、ぼくと妹が使っていた部屋は、そのままの部分と使わないものを一時的に保管している部分が共存していた。どこにでもあるように。
「どんな絵があるんだろう」ぼくは母の趣味にはない行動だったので、その意図が分からなかった。「絵なんかあったっけ・・・」

「裕紀さんというひとの横顔の絵」
「ああ、あれか」ぼくは思い出す。東京にいたときのその部屋の空気感も思い出している。「でも、あれ、彼女の絵じゃないんだよ。よく似てるけど、たまたま、貰った肖像画だから。思い出を壊して悪いけど」
「わたしの思い出でもない。でも、そうなの?」
「あの絵は、ぼくの会社が貸していたビルの画廊にあった。なにかのご褒美にぼくがもらった。結論としては似てたからだけど」
「和代も一緒にいて、彼女、絵がうまいから、あれを見て、とても誉めてた。でもね、お祖母ちゃんが、ひろし君の前の奥さんの横顔といったもんだから、少し憤慨して、わたしがママの絵を描いて上げると言ってた」
「ふうん、それで、広美は厭な気持ちになった?」
「だって、絵だよ。それに、似てるだけだって、いま、聞いたから」

 何日か経って、リビングで雪代は座らされている。表向きは和代という子の宿題の提出のためということになっていた。彼女はその前に何度も断り続けたが、娘の友だちの宿題という理由では折れないわけにはいかなかった。それで、かしこまって座っている。

「なんだ、うちの奥さんはモデルか」
「だって、おばさん若い時には、いっぱい写真に撮られたって」和代という子は絵筆を動かすのを休めて、そう口にした。
「むかし、むかし。大昔。20年も前」彼女は照れたように言う。
「ぼくも美容室のショーウインドウにあったポスターに見入ったっけね」
「それより、きれいに描きます」
「随分と自信があるんだね。でも、真実をうつさないと」広美は絵の採点をするように和代の後方にまわった。感想をいうのかと思っていたが、彼女は無言で感嘆したような表情をしていた。

 ぼくは着替えて、缶ビールを取り出した。
「もう、仕上がりそう?」
「今日は、ここまで。あと2日ぐらいで」
「え、そんなに?」雪代は肩をまわした。その様子はじっとしていることに不慣れな人間の仕草だった。「ご飯、作るね。和代ちゃんも食べて行きなさい。料金は払えないけど」

「完璧なものを目指さないと。それには2日では少なすぎると思うけど」
「完璧じゃなくてもいいのよ。なにかの展覧会にでも出すんじゃないんでしょう?」
「一応、出展はしますけど、選ばれるかは分からない」
「そう。なら、きれいに描いて」彼女は満更でもないようだった。

 料理ができあがり、テーブルにいくつかの皿が並べられた。ぼくと雪代は横に座り、向かい側に広美と和代が並んで座った。
「でも、どうしたの? 急に意気込んで」雪代は会話の隙間にはいってそう訊いた。
「この前、素敵な絵を見たんです。とても、立派だった。わたしも、ああいう絵を記念に描いてみたいと思って」
「そう、どこで?」
「それは、内緒なんです」
「そうなの。いわくありげね」
「でもないんですけどね。この絵、いつか戻ってきたら、どこかに飾ってください」
「自信過剰な女性に思われない? 自分の絵なんか飾っていたら」
「やめときなよ」広美もその状態を思い浮かべたのか、吹き出して、そう軽い口調で言った。
「じゃあ、良くできたら。飾ってください。ひろしさんの部屋にでも」
「ぼくのに? そうするよ」
「ひろし君の部屋に、わたしの?」雪代の言葉に反応して、和代は深く頷いた。

 夜も更け、和代は帰り、広美も自分の部屋に消えた。ぼくと雪代はテーブルに残ったままでとりとめもない話をしている。ぼくはあの絵に隠された意図のネタをばらしてしまおうかと考えていたが、なぜだか躊躇した。いずれ話すだろうけど、いまは、何人かの珍騒動をそのまま傍観していたかった。
「むかしを思い出す? 写真に撮られていたころの」
「あれは、瞬間のことだからね。いまは、首も痛いし、じっとしているのも大変」
「宿題だからね」

「リンカーンやワシントンにしてほしい。歴代大統領とかいって」彼女は笑った。あの裕紀に似た絵は決して笑わなかった。そして、本当の彼女も笑うことはない。笑うということは、未来があり、未来を作れる願望もあるということらしかった。明日の朝も彼女は笑い、ときには怒り、その感情のひとつひとつが生命の結晶でもあるようだった。ぼくは何日か経ったら、実家に帰ってあの絵を再び目にしようと思う。姪でも、自分の娘でもなく、他人の和代という少女のなかにある内面のなにかを突き動かすだけの影響力がそこに含まれているのだろう。それが何かを見極めたいとも思うし、動かされた感情にぼくは些細な嫉妬をしていたのかもしれない。

壊れゆくブレイン(43)

2012年03月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(43)

 うちの社長が入院した。見舞いに行くとベッドに静かに横たわっていた。エネルギッシュなひとなので、その様子が似つかわしくなかったが、思っていたより顔色は良く、心配はいくらか軽減された。だが、ぼくは過去に安心しすぎて失敗もしていたのだ。

「悪いな、近藤」
「いや。全然。それより、顔色も良くって」ぼくは、思ったままを発した。「でも、病院に来るのが、ほんとは好きじゃないんです。正直に言いますと」
「誰でもそうだけどな、特に、お前はそうだろう・・・」自分のことより、彼はいろいろなところに気を遣った。「彼女を亡くしたからか?」
「その通りです」言葉に出したつもりだったが、もしかしたらそうなってはいない心配のため、自分は深くうなずいた。
「いやだろうな、オレでも。思い出したくない」
「ぼくは、逆なんです。いろいろなことを思い出し過ぎます。あと、彼女にしてあげられなかったことが山積されているような不安も起こりますから」

「それは、みんなそういうもんだよ。オレだって、家内にどれほどのことをしてこれたか。それは、持ち回りみたいなもので、できなかった分は、ほかに廻せばいい。娘とか、いまの奥さんとかに」
「頭では、分かっているんですけどね」
「もう随分と経ったよな」
「ええ、かなり」
「向こうの家族は、まだ許してくれない?」
「許すもなにも、接点すらないですから」
「お前に、新しい家族ができたことで、喜んで、敢えて、蒸し返したくないのかも」
「どうなんでしょう。裕紀が喜んでいるなら、話は別ですけど。すいません、自分の話ばっかりして。食事は?」
「あまり、うまくもない。健康で、そとで暴飲暴食の時代が懐かしいよ」

「いつか、また出来ますよ」
「うちの息子より、お前の方が優しくできてるのかな。見舞いにも来ない。付き合った月日も越えただろう?」社長は指折り数える仕草をした。
「同じ会社にいるんですもん。そうなりますよ。彼だって照れ臭いんでしょう」ぼくは腕時計を見る。「そろそろ、仕事に戻ります。社長の入院費ぐらいの売り上げを作らないと」

「保険というものが世の中にはあるんだよ。奥さんにもよろしく。そこにある花、彼女からみたいだから」

 ぼくは、ベッドサイドにあるテーブルを見た。その花の匂いを嗅ぎ、雪代のことを思い出した。ぼくと彼女の若いときの交際はひとから認められなかった。それは、ぼくが裕紀を捨て、彼女とくっ付いたことからの余波だったが、いまでは、ぼくらぐらいぴったりとした関係を築いているひとはいないと誰もが思ってくれていた。

「言っときます」ぼくは自分のカバンを持った。「じゃあ、ゆっくりと休んでくださいね」
「復活するよ。まあ、それほどの大病でもないんだけどな」

 彼は枕に頭を埋めた。ぼくは、もう一度だけ時計を見た。病室のそとの廊下を歩いていると、やはり、また裕紀のことを思い出してしまう。あそこのベッドに寝ているのは彼女なのだ。彼女の叔母が付き添い、心配を解消させるようにたくさん話をしている。ぼくは、彼女が死んでから失った生活と覇気みたいなものを最初から知っていたのだったら、その分を彼女のために前以って作ってあげても良かったのだ。しかし、それはどうやっても取り戻せなかった。そして、その彼女のために雪代は花を贈ったのだとも考えようとした。ぼくの最愛のふたりは、当然のところ、親しくなることもなく、友人になるということも論外だった。だが、ぼくの中では共存していた。裕紀はぼくの幸せのために誰かと生活することを望んでくれただろうか。多分、望んでいたのだろうが、それは彼女が親しかったゆり江という子の名を真っ先に上げるだろう。とにかくは、ひとりで亡くなった自分のことを後ろ向きに考えてばかりいる男性など予想していないはずだ。それならば、雪代と暮らしていることも妥当だろう。父親という役目をさずけられなかった自分を裕紀は悔いていた。ぼくは、いつの間にかある少女の父にもなっていた。責任感からいえば兄ぐらいの役目だったが。それでも変わりはない。

 反対に雪代は、ぼくの前の妻をどう考えているのだろう。ぼくらは、それぞれ別の人間と結婚していた。ふたりとも不意にアクシデントや病気で配偶者を亡くしていた。自分の辛さや楽しかった生活に匹敵するものをぼくが持っていたと過程するならば、それを与えてくれた裕紀のことも嫌いになれるはずがなかった。それは、ぼくがいまごろになって雪代の前の夫である島本さんに抱く感情でもあった。それに広美の持ついくつもの素晴らしい感情やこころの一部も島本さんが負っているという証拠によっても認めていた。

 ぼくは、廊下を歩きながら、さまざまな状況を思い浮かべ、過去と現実を行ったり来たりした。手放せないものや、手放すタイミングが来ているものも考えていた。ぼくは、廊下で立ち止まり、歩いてきた奥の方を振り返り眺めた。そこに裕紀が元気な姿で立っているようなイメージを持つ。

「良かったじゃない。あんなに元気で可愛い子のお父さんになれて」と、彼女は言うような気がする。
「こんな役割、君から見て似合っているかな?」と、その裕紀の幻に、ぼくは問いかけてみたかった。

壊れゆくブレイン(42)

2012年03月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(42)

 ぼくと雪代は体育館にいる。座席は固く、すわり心地の良いものではなかった。だが、それを気にしていたのもはじめのうちだけだった。

 広美のバスケット・ボールの練習試合があるということで、日曜の昼下がり、ぼくらはここにいた。秋の真ん中であり、暑くもなく寒すぎることもなく、大人になった我々にとっては、快適すぎる陽気でもあった。その期間の短い時期を毎年大切にしようと願うも、きちんとその季節は足早に去っていった。

 ぼくは、こうして動く誰かを若いときから見てきた。もちろん、ある一時期は向う側にいて、それを誰かに見てもらっていた。となりにいる雪代は頼もしい応援者だった。ぼくは彼女の前で誇らしい気持ちを抱いたこともあった。また、同時に不甲斐ない場面を見られたこともあった。しかし、それは副産物で、やっている当人は第三者の視線を忘れた境地に入ることが多々あった。それぐらいでないと決して自分自身に満足できず、合格点を与えられるようなこともできていなかった。

 広美はこちらを見なかった。ベンチにいる補欠らしい子は、きょろきょろしていた。こちらにぼくらがいることを広美に教えているようだったが、それでも、彼女は見なかった。その補欠の子は、広美のところによく遊びに来ていた。気が利く才気のあるような子で、雪代とも対等に大人同士並みの会話をしていた。何かの商売をしている家の娘だったと思う。世間に出るというのは、そういう自分に役立ちそうな能力を見極めることなのだろうか。

「あの子、選手というより、みんなをまとめる役に向いているような気がするね」
「和代ちゃん? 試合より、そんなところ見ているのね。広美も活躍しているのに」
「そっちも見てるよ」広美が活躍する姿を目の当たりにする度、ぼくは島本さんという彼女の本当の父親を思い出さないわけにはいかなかった。その遺伝子は確実に引き継がれ、ぼくはラグビー場で憧れをもって眺めていた島本さんの残像を思い出し、自分が無力であったころを強くこころの奥で感じた。そして、自分が境界のそとにいることも意識させられるような気もしていた。

 試合は終わり、多くの子たちは裏に消えた。試合に出ることのなかった和代という女の子は、いまだにきょろきょろと好奇心が溢れた視線をあちらこちらに送っていた。ぼくらも、外に出ようとするときに彼女の横を通りかかった。

「残念ね、和代ちゃん。また、練習頑張れば、うまくなって出られると思うよ」
 雪代は彼女の肩を優しく叩きながら、そう言った。
「ありがとうございます。それにしても、おばさん、今日も素敵な格好」
「ありがとう。似合っているかしら?」
「とっても」
 そして、彼女は手を振り、ぼくらを見送った。
「あの子、いつも大人みたいだよね。挨拶もきちんとしているし」
「そうよね、時に広美が子どもっぽく見えることがある。あの子といると」
「いまは、それでいいよ」
「お腹すかせてあの子が帰ってくる前にちょっと休みましょう。せっかくの日曜なんだから」
 ぼくらはいつもの喫茶店に向かう。そこは気持ちの良い音量で音楽が流れている。そこに座って小さな声でたわいもない会話をしているときが最近の幸せになっていた。

 ぼくは名前も知らないピアニストの音楽を耳にする。それは無名性であるべきなのだとも考えている。誰かの活躍によってチームは勝利するというスポーツを今日、見たからかもしれなかった。声援や喝采も受けないある音楽スタジオで譜面を前にピアニストは楽器を弾いている。そこには孤独の陰があり、名声への渇望というものがいくらか薄いような気もした。実際はどうか分からないが、いまはコーヒーを飲みながらそんな気分でいる。

「広美が活躍しているのを見ると、ひろし君はなぜか戸惑ったような顔をしているよ」ふと、雪代はそういう言葉を口にした。
「正直に言うと、島本さんを思い出すから」
「やっぱりね。わたしもそう思う。わたしの能力じゃないもんね、あれ。それで、嫌いになる?」
「何を?」
「いろいろなこと。わたしとか、島本君とか」
「ならないよ。もう彼は憧れの境地に舞い戻っている。10代の終わりで、なにもかも輝いていた魔法をもっていたひと」
「わたしのことは?」
「ならないよ。ずっと、そばにいるべきひとだからね」
「そう。広美もいつか大きくなって、家を離れる。東京に行っちゃうかもしれない」
「ふたりだけで暮らせばいいよ。まだ、先になるだろうけど」
「そうね。でも、お腹空いたと言って帰ってくるんだろうな。買い物行こうか?」

「そうだね」ぼくらは店主に別れを告げ、店をあとにする。ぼくのラグビーの活躍を目にして、グラウンドの外で待ってくれていた雪代と会ったのも、このような夕暮れ時であった。ぼくは流した汗が冷えるのを感じながらも、こころのなかの高まった気持ちはなかなか消えなかったことを思い出している。それはスポーツの喜びや興奮であったのか、意中の女性に頑張りを認めてもらえたという充足感であったのか、それだけは思い出しようもない。

 何年も経ったが、横にそのときの女性がいた。それは悪くない事実だった。広美も誰かに認められ、また誰かを探し出しているのか考えようとした。だが、和代というこの健気さが邪魔をしてその思いは別のものになった。