爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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リマインドと想起の不一致(24)

2016年03月30日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(24)

 学校の行事でバスに乗って筑波に向かっている。クラスは八割方が男性だった。のこり二割がスカートを履いている。ぼくは何らかの対象として彼女らを見ていない。おそらく自分も対象としても見られていない。自由というものは淋しいものだった。

 休憩のサービス・エリアで空腹を満たす。数ヵ月前にこの同じ場所に向かったが、中学生が途中で小遣いを使うことなど許されなかった。自由というのは、この場では素晴らしいものであり、無限の乗車券のようでもあった。つまりは土台として、満腹という状態に永続性がなく、一瞬も保てない年頃だったのだ。

 広い部屋に数十人で寝る。その前に無数の会話が繰り広げられる。主に女性たちについてのことだった。年金の心配もなく、原油の値段もぼくらには無関係なのだ。恋せよ、青年たちよ!

 征服という限定的な対象として女性を考えているものもいた。数が多いということが、その星取り表では正義だった。まだゼロというものも、もちろん多くいたはずだが検証はできない。ぼくも彼らに訊かれる。好奇心なのか、やっかみなのか判断できないが。

「まだだよ」
「彼女は?」
「いることはいるけど…」
「お願いしてみれば?」友人は、見返りとしての駄賃をもらうという感じで言った。
「まあ、時間があえば」ぼくの返事はあいまいだ。このままにしていれば、一回目の結果報告をたずねられる危険性もあった。だが、その時はどうにかなるだろう。歴史をつぶさに検証する年代でもないのだ。

 電話もせず、お互いの用事で前より会う時間が確実に減る。散歩を待ちわびる犬のような気持ちになる。「次、いつ外に連れ出してくれるのだろう?」そんな感じでぼくは見知らぬ土地のなじめない布団に入っていた。はっきりとした違和感もこだわりもなかったのか、間もなく寝てしまう。そして、空腹をかかえて朝を迎える。

 ぼくは親密になることを拒む傾向があることを知る。同時に無条件に受け入れられたいという気持ちも芯にあった。ロボットでもない普通の青年の感情だ。自分は今まで周囲の環境に恵まれていたことに、この朝、納豆を掻きまわしながら気付いた。恵まれ過ぎていたのだ。

 帰りのバスの中で窓の外を見ている。夜はネオンの時間だ。費やされるエネルギーが町を分け隔てなく照らす。ぼくはウトウトする。目が覚めて、ひじりの電話番号を頭に浮かべる。その七つを足したり引いたりして導き出す数字を神聖な暗示のように考える。

 家に着き、汚れた衣服を洗濯機に放り込んだ。まだ一度も自分で洗濯したこともない。雨が急に降って、取り込んだ時は数回あった。

 世界中で洗濯物が干されている。黄色いハンカチもあるだろう。ぼくはひじりに電話をしようとしたが、いつの間にか眠ってしまう。急を要するという範疇に、もう電話はいなかった。


リマインドと想起の不一致(23)

2016年03月27日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(23)

 ぼくはネクタイの締め方を学ぶ。家に帰ってから緩めるがそちらは特別に学ぶ必要はない。方法もノウハウもいらない。

 ぼくはブラジャーの外し方を知らない。経験がない。かといって付け方も半永久的に習得しないだろう。男性はほぼ外すという行為にしかたずさわらない。その後は、自由である。あとは風まかせだ。野となれ、山となれ。

 だが最初という機会が何事にもおとずれる。ぼくはひじりの家にいた。彼女の両親は旅行に出掛けて留守だ。サイは投げられた。

 事態がこう急展開するとは想像してもみなかった。ぼくの目の前には女性の背中がある。肌というのは無言でもたくさんのことを主張して訴えかけてきた。早朝のスキー場のように清らかで、山奥の清流のようにしっとりとしていた。ぼくの指先は外科医のように慎重に、それでいて心拍数はハード・ロックのバスドラムのように強く鼓動していた。

 男性が外したり脱がせたりする主導権を担う。ぼくはただ横たわって、そうされるのを待っているわけにはいかない。(高貴な、気品のある文章をつむぎ出すつもりなのに、その才能が付与されていないことに、途中ながら困惑している)ぼくはひじりの胸のふくらみを目にする。この表現では不本意という感じを与えてしまうだろうか。しかし、地球にとっても貴き一歩であった。小人が胸の隆起に沿ってケーブル・カーで頂上に向かって登っている。頂に固い旗が立つ。ぼくは幻覚を見ている。

 彼女はすっと立ち、親の避妊具の隠し場所から掘り当てたものを持ってくる。ぼくという宇宙探検家は防具を装着する。いくらか滑稽に思えるほど、逆立ちのような形状をしている。ぼく以上に、ぼくの意志を勝手に表明する物体。それはぼくかもしれず、ぼく自身と一切、無関係のようにも映る。

 だが、ぼくの感覚は、その一点だけのようでもあった。

 熱を発する物体は大気圏を突破する。ヒューストンの管制官たちも安堵する。

 そして、その感覚は地グモのように袋に納まる。ぼくはゴミ箱に捨てる。ぼくがいなくなっても、部屋の中に居すわることができる。

 夕方になって外に出た。ひじりもいっしょにだ。彼女の歩き方はどこかいつもと違う。その様子を見たら両親は不可解に思い、何かしらに気付くかもしれない。だが、ぼくは次の機会を自己中心的に考えて、さらには願っていた。まさか、一度で終わりではないだろう。これからが、楽しみの見出し方を学び、正念場にも耐え得るのだ。

 ぼくらは沈黙がちになる。誰もが大人になる途中ですることをぼくらもした。端的にはぼくは棒であり、彼女は落とし穴だった。ぼくは指であり、ひじりはピアノの鍵盤だった。音色が奏でられる。ぼくはブランコの背中を押すひとだった。向こうに行き、やがて返ってくる。ふたたび背中を受け止める。

 ぼくは家に着く。着換えの際にパンツをずり降ろす。仕事をした物体。しょんぼりとした小雨のなかの帰還。

 ぼくはひじりの背中を思い出す。横たわる一本の線。小さな文字でサイズが書かれている。ぼくは銀行の暗証番号をその数字にしたら忘れないだろうと無意味なことを考えている。しかし、その数字はひじりにとって不変なものではない。

 ぼくは風呂に入る。彼女も入っていることだろう。ぼくは洗い流される。タンスに向かって下着をはく。ネクタイがぶら下がっている。ぼくは締め方をもう忘れられない。忘れられないというのは、つまりは再現できるということのようだった。


リマインドと想起の不一致(22)

2016年03月26日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(22)

 ぼくは不必要になった教科書やノートを束ねてゴミに出した。過去の知識は断続的にゴミになった。反対にアルバムを購入して過去の写真を整理した。過去も体系化すれば未来に引っ張り出せた。これから起こる未来というのは常に正しかった。真っさらという事実だけで正しい境界に居のこれた。

 すると過去はどうなのだろう。過去もひじりという存在を生み出しただけで、さらに引き合わせてくれたために正しいものとなる。だから、ぼくの過去は永久的に正しくなってしまう。反論もなし、疑うこともできない。ぼくは古い教科書がなくなったスペースを見つめる。そこには一体どんな新しいものが入るのだろう。未来は常に正しく、多少の不安もまた同様に正しいものだった。

 しかし、正しいという規律のない不安定さも、正しくないという断言も本来は証明できないものだった。最終的な清算を待たない限りは、銀行ですら倒産さえしなければ、経営力の逆転もあり得る。なぜ、ぼくはただの恋を正邪で計らなければならないのだろう。

 春休みの朝、清掃車がぼくの過去を運び去ってしまう。もう取り戻せない。総じて過去というものは処分に甘んじ、覆す体力のないかのように全般にそういう運命にある。

 ぼくが例えばひじりを好きになっても打ち明けなければ、あるいは別の誰かを好きになってしまっていたとしたら。ぼくは、ただ頭の働きのためだけに、無意味な悩みを呼び込んでいた。

「電話だよ、いつもの子」

 母が言う。認識してもひじりの名を口にしたがらなかった。年の離れた同性にどのような感情をもつのか、ぼくの年代では異性であることも加わって分からなかった。仲良くなる要素があるのか、わずかながらでも嫉妬という見えない微生物が入り交じるのか。だが、どれもぼくの問題ではない。副作用として片付けてよいぐらいの小さな悪か、または小さな善だろう。

 自分は電話で話しながらも、観念的なことがらを好むという傾向をメモ帳に落書きするようにもてあそんでいた。哲学とも神学とも比べられない低俗でささいな頭脳労働。しかし、現実も愛している。だから、「これから会おう」という誘いに簡単に乗れるのだ。

 中学の裏門のところで待ち合わせた。後輩たちがさまざまなスポーツの練習に励んでいる。いまはその内の何人かの名前を知っている。時間が経てば、当然のことにひとりひとりと名は減っていく。どこに原因があるのだろう。ぼくは原因というのを悪い事態の修復に至る地点と考えていた。ならば良いことに変化する原因という使い方はあるのだろうか。きっかけという軽いことばで代用するのが相応しそうだった。

「なつかしい?」ひじりがやって来た。
「まだまだ、数日しか経ってないもん」
「早く来るはずだったのに、犬が逃げて追っかけていた」とひじりが説明する。ぼくは追われる側なのか、それとも、追う側なのか、意味もなく当てはめようとしていた。

リマインドと想起の不一致(21)

2016年03月19日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(21)

「もてるんだね」卒業式にぼくのボタンは人手に渡った。「制服の胸のボタンを下級生にねだられ」と、ひじりは節をつけて唄う。
「なくなっても、うれしくもないけど」
「うそ、ついて」彼女は頬をふくらませる。「でも、わたしという存在がいることをみんな無視できるのかな」ひじりの所有権の主張は当然だ。権利証書のような確かなものがなくても。
「別にそういうつもりでもないんだろう。ただのイベントの一環で」

 ぼくは前を開けただらしない格好で通りを歩いている。すみずみまで知っている道。もういっしょに歩けない道。いや、少なくなっていく道。

「オレにも、何か思い出になるもの、くれよ」
「え、なにがいいの?」
「何でもいいよ」

 ひじりは自分の制服やバッグを一通り見渡す。しかし、ぼくの要求に応じなかった。恥かしいということが最大で唯一の理由だった。よく考えれば、もらったからといって自分も家のどこに保管すればよいのか分からないので追求を止めた。

 少し話してから別れた。彼女は友人たちと、そのひとりの家で集まり、ぼくも同性の友人たちと外食することになっていた。最後になってバッグに付けていたアクセサリーを忘れていた約束のようにぼくに差し出して、渡してくれた。

「これぐらいしか思いつかないから」
「ありがとう」ぼくは無雑作に制服のポケットに入れた。

 ぼくは今日で中学生ではなくなった。過ごした三年間の思い出を歩きながら振り返っていた。身長が伸び、筋肉は大人に成長していた。勉強の知識は増えたかもしれないが、役立て方が分からなかった。英語の単語もある程度には覚えたが、対面で外国人と話す機会もなかった。何人かとケンカもしたはずだが、仲直りしてしまえばきっかけとなった原因はすっかり忘れていた。そして、恋をした。最初で最後のだと、この時点では無邪気に思っていた。

 友人たちと待ち合わせた場所に着く。

「硬派に、ひじりちゃんだけに上げればいいのに。その他大勢は無視して」
 胸のはだけたぼくの制服姿を見て友人がとがめるように言った。
「気付きもしなかったな。だけど、これもサービスの一種なんで」

 ぼくは高校の制服のサイズを計った日を思い出す。もう着ない服。終わってしまう関係。これからも維持させるもの。ターニング・ポイントという正確な意味が分からないことばを、不明瞭ながら頭に浮かべた。


リマインドと想起の不一致(20)

2016年03月14日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(20)

 突然の暴風雨の影響で家に帰れなくなった。あるいは、電車の脱線で公共の交通機関は麻痺した。ぼくは帰宅が不可能になる都合の良い言い訳を探すが、どれも、現実になるはずもない。ぼくらは期待した宝くじに外れたひとのように帰りの電車に乗っている。不本意なのか判断しようもないが、あの小さな町に戻らなければいけない。

 まだまだ親の保護下にある。ぼくはひじりを大切に思っているが、彼女の親以上の気持ちがあるのか比較の仕様もない。冷静に考えればおそらく負けるであろう。過ごした年月が違う。ぼくは彼女の七五三の晴れ姿も知らない。だから、時間までに帰れるように電車に乗っていた。

 冷静になる必要も本来はないのかもしれない。そして、ぼくは冷静になどなれそうになかった。この一日でぼくの愛は高まった。

 その割に黙って電車の座席にすわっていた。つかれたのでもない。保証のことばを何か口に出してみたいが、世なれていない少年の発想など乏しいものだった。

 ひじりはぼくの煩悶など意中にないように居ねむりをはじめた。普段と違った甘い匂いがする。ぼくは電車のレールの音でリズムを取る。それに同調するかのようにひじりの息遣いも静かに吸ったり吐いたりを繰り返していた。無言の呼応という実際にあるか分からないことばを浮かべた。

 途中で私鉄に乗り換える。もう海は遠い記憶となってしまう。日常だけがのこされる。だが、ぼくらの日常は、あとは卒業式などのイベントだけで、それは、はっきりと非日常の部類に属していた。

 駅のトイレで顔や手を洗う。潮水のせいなのか身体がべとついた。家に帰り、今夜もいつものように風呂に入って寝るだろう。ぼくらは大人に近付けない。別荘もなければ、いかがわしい光を放つホテルに入ることもできない。身体という物体は密着を避け、衣服が阻む数ミリの厚さより他人であることを正直に要求していた。

 ぼくらは改札を抜ける。一日はぼくらにとって二十四時間をきっちりと与えてくれなかった。その半分にも達しないわずかな時間しかくれない。それも間もなく終わる。

「また、明日」と別れ際にひじりが言った。
「うん、また、明日」とぼくも言う。

 ひとりになると無性にあくびが出た。どこかで気を張っていたのだろう。すると空腹感も追い打ちをかけた。ぼくは小走りになって家まで向かう。帰りたくないと思っていたのに、結局は、そこにしか夜の居場所がないことが明確になる。

 玄関を開ける。ぼくとひじりだけで作り上げた時間があっけなく終わってしまう。船や虹や釣り人がさっきまであったはずだ。家の中は「いつもの」という空気が無言で支配している。それを消すことも、拒絶することもできない。使い古した布団のように簡単に自分を覆ってしまった。

「日焼けしたみたいね、夏でもないのに」

 その母の言葉が唯一のこの日の証拠でもあった。ぼくは風呂に入り鏡でその肌にあらわれた色合いを点検するが、それほど、明らかとなってくれていなかった。

リマインドと想起の不一致(19)

2016年03月13日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(19)

 満腹になったぼくらは遊覧船に乗った。遊覧船といってもサービスの方法を知らない廃船直前の風体で、リタイア前の最後の勇姿のようでもあった。エンジンがエンジンであることをのどかな音で主張していた。それでも、ぼくらは楽しかった。陸からいくらかでも離れたことにより、ぼくとひじりの関係も現実の世界から隔絶されて美しく映った。

 海水には塩がある。全部、集めたらどれほどの体積になるのか無駄な計算をしてみる。

 地上に足が着いていない不安定さの中に居心地の良さを感じている。ぼくらの立場も同じだ。中学生の日々は間もなく終わる。高校生と名乗るにはちょっとだけ早い。自分を知っている周囲の人々から離れ、自分を知らない人々の群れに加わる。そこが最善の場所になる可能性もあった。反対に排除される危険性も認めたくないが拭えなかった。簡単なことばでいえば期待と不安ということで表現できるだろう。

 船は出発地に戻るために方向を変えた。その際にすこし揺れる。両足を踏ん張る。ぼくの腕にひじりがすがりついた。ぼくらは目と目を合わせた。

 船はまた陸に着いた。降りてもまだ身体が小刻みに動いているような錯覚があった。太陽が真上にある。南から西へと役目を終えて帰る太陽。ぼくらの一日も、半分は過ぎてしまったのだ。

 親子連れが釣りをしている。バケツに小さな魚影があった。海という広大な場所からちっぽけなバケツに移された。ぼくらは反対だ。小さな町から別の高校がある場所に通う。そこにも自分の痕跡がのこる。思い出が増えれば、なつかしさも自然と生じるはずだ。なれ親しむから愛着、愛募となる。ぼくらは過去になど縛られない年代だ。そう思っているだけなのかもしれないが。

 歩きつかれて防波堤にすわる。たくさんの生命がこの海に存在するのだろうが、いまは見つけられない。しかし、小さなカニが岩のすき間から顔をのぞかせる。これらは不便に歩いた。決められた方式にのっとることしかできないのだ。将棋の桂馬と方法論は同じだ。ぼくらは次の三年間を経なければ大人になれない。大人になるとは一体、どういうもので、具体的になにを示してくれるのかも分からなかった。

「今日は、ありがとう」突然、ひじりが言いだした。
「なんだよ、急に」
「一日、いっしょに居てくれたから」
「いつでも、これぐらいならできるよ」

 会社員が、休日に子どもたちとできない約束をするように、ぼくも確約のないことを軽はずみに口にする。言葉はときには希望の表明でもある。ぼくらは同意したように肩と肩を寄せ合う。

 春だと思っていたが、まだこの時期は古い衣服を引っ張り出すようにして、もとの状態に名残惜しく帰りたがったのか冷たい風が吹き出した。


リマインドと想起の不一致(18)

2016年03月09日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(18)

「夏以外に海に行ったことがないんだけど、春の海って、どういう感じなのかな?」
 と、ひじりが言った。
「そうだよな、漁師町で暮らしてきたわけでもないから」

 そのような会話がある日にあってからの休みに、ぼくらはわざわざ早起きをして都会と逆方面の電車に乗った。

 都会の町並みがどこまでもつづくと思われた風景だったが、いつの間にか窓の外はのどかな景色に変わっていった。三月の春めいた日差し。ひじりの血色のよい顔。春に芽吹く花や草木の予兆。ぼくは一生、忘れることができない時間を生み出そうとしていた。

 目的地で切符を駅員に渡して、駅前で小さな地図をもらった。ひじりの母が遠いむかしに臨海学校に来た地だ。ぼくらは流行など意識したこともなさそうな店に入り、ジュースを買った。

 近くで波の音がする。夏以外にも、もちろん海はあった。上空には無数の鳥が飛んでいる。心配ごとも一切、ないようにして。成績もポイントも打率も職場の首切りも気にしないものたち。おそらく、この日のぼくも似たようなものだった。

 砂浜のところまで達すると、ひじりが屈んで砂をさわる。それはさらさらとしていて、砂時計をさかさまにしたように手の平から順にこぼれ落ちた。彼女は同じ行為を二、三度くり返した。それから、手の平をこすり合わせて見えない微細な砂粒をはらい落とした。

「気持ちいいよ」

 彼女に心地良さを与えるものに自分もなりたかった。ぼくの存在が彼女に影響を及ぼして、この日の空気のように暖かさをもたらすのだ。

 ぼくらは計画も予定もないまま歩いていた。空の鳥と同じだ。犬や猫とも同じともいえた。何匹か飼われているのか野良犬なのか判断できない犬も海辺にいた。狂暴さはまったくない。これらも思いがけなく、ただ海を見たくなって遠出をしてしまったという無計画な顔をしていた。

 前方に雨が降ったわけではないのに、小さな虹がかかっていた。色彩をぼくらは同時に認める。ぼくらは立ち停まって、しばらくその弧をぼんやりとながめていた。どれぐらいそうしていたのか分からないが、そこにあった痕跡は直ぐになくなっていた。しかし、次の色を見つける。漁をする船がもどってくる様子が海のうえにあった。旗が風に揺れている。同じような旗を店頭に並べている店舗もあるようだ。鼻は自然と魚のにおいを感じる。ここが海だとあらためて主張する風に反応するために。

 ぼくらは空腹感が耐えられない年代だった。だが、魚の目利きができる年頃でもない。うんちくよりも量で勝負だ。ぼくらは示し合わせたように魚のフライの定食を選ぶ。あつあつに揚がったフライが皿を覆い尽くしている。外ではカモメが鳴いている。ぼくも彼女も十五年しか生きていない。この魚たちは何年、海で泳いでいたのだろうか。虹が容認され、意識される時間はもっと短い。それでも、虹というのは水蒸気があった古代から、さらに、これからもずっと細かに分類されずに存続していくのだろう。

リマインドと想起の不一致(17)

2016年03月03日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(17)

 ぼくは、ぼく自身である受験票の数字を手にして、一致する番号を掲示板に見つける。将来の運命を預けるのはここになった。

 ぼくは多少の歓喜を感じている。ドイツの作曲家のよろこびの歌ほどではないが。なれない道筋を駅まで歩く。またもや切符を買ったが、今後ははじめての定期を購入することになるのだろう。学生割引という中間のものだが。

 途中で電話で家に報告した。その足で学校に戻った。ひじりも自分の学校に結果を見に行っているはずだ。合格というメダルを手に入れられたのだろうか。

 友人たちにも合否を訊かれる。彼らの半分と三年前に出会った。もっと長い期間を共にした友人もいる。どちらにしろ親しくなっていった。永続性を確かに感じながらも、新たな友人をこれから離れた場で見つけてしまうのだろう。幸福か不幸か判断も入り込ませずに。同年齢の、同じことをするものたちが、共通項の多さという単純な理由のため仲良くなるのだ。

 家に帰ると、ひじりから連絡があった。彼女も受かっていた。彼女にとってもぼくにとってもそれはうれしい事柄に違いないが、決定的に会う時間が減るという事実も意図せずに連れてきてしまうのだ。

「何か、記念になることをしないと」と彼女は言う。
「例えば?」
「そうだね」ひじりは思案をしている様子だ。「でも、何か考えて」と風向きを変えた。

 ぼくは電話を切り、風呂に入りながら記念になることという真っ当なプランを考えていた。

 ふたりで祝えるもの。記憶にのこるもの。あの日を当事者としてなつかしむことができるもの。ぼくは下半身が勝手に意志をもつことを知っていた。異性の身体はひじりでなくても、代用ですら興奮するきっかけになってしまうのだ。これはどういう風にプログラミングされている所為なのだろう。

 だが布団にくるまれて目のうら側に浮かんでくるのはひじりの姿だけだった。ぼくは試験から解放されたが、ひじりには捉われていた。彼女がよろこぶもの。そのことをテーマにして一日を作ってみたいと思う。

 滅多にないことだが、この日はなかなか寝付かれなかった。未来にすんなりと入るのは、子どものころに遊んだ空き地の土管をくぐり抜けるようなものかもしれなかった。身体を小さくして屈んで通過する。その際に荷物が多ければ通れないだろう。どうしても後に置いて来てしまわなければならないものも生まれる。なるべくなら捨てるものも少なくしたいのが人情だ。

 ぼくはその架空の映像を暗い中に投射させる。友人たちは数人だけしかのこらない。ひじりは絶対に必要だ。ぼくらはもう一段階、先きに進まなくてはならないだろう。関係を決定的にさせるもの。すると、またもやうずく。美しい恋の話として完結するつもりだったのに、生身というのは天上だけに住むことを認められないし、居場所をもっと汚すことも放棄できなかった。


リマインドと想起の不一致(16)

2016年03月02日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(16)

 ひじりの耳たぶに光るものがぶら下がっている。髪にもアクセサリーがついていた。それらは彼女に接することにより、より一層の輝きをもたらしているようだった。飾り物が彼女を丹念に縁取る。切られた髪は彼女と一体ではないが、その輝く付随物は疑問もなく彼女だった。彼女自身だった。

 ぼくはまだネクタイの一本も有していない。ひととの差異は、スニーカーなどの一部の色柄の主張だけだった。自分自身の個性がどのあたりにあるのか分からない年代だ。大げさにいえば死ぬ間際になっても本質は分からないのかもしれない。

 中学生時代の休日ものこりわずかだ。ぼくらはバイトについて話し合う。自分の労働の対価が、自分のお小遣いとして加えられる。その場で出会う年代も多少、変わるだろう。自分が何に向いており、不得手なものがどういう類いのものか経験則によって覚えていくのだろう。

 ぼくらは混雑した道を歩く。ぼくは近くにある遠いむかしのオリンピックのために作られた体育館でとある大会を見学したことがあった。その開催日が平日なので担任にはうそでごまかそうとしたが、部活の顧問が間に入ってくれて、大っぴらに休むことができた。

 ひじりはその町で洋服を見たり、小物を手にして感想を言った。好みというのはどこから生じるのだろう。するとある店から当時の最新のヒット曲が流れてくる。ぼくらはどちらもその曲が唄えた。覚えられない学校の問題もありながらも、勝手に耳から簡単に情報を収集できてしまう事柄もあった。

 歩行者天国を歩く。無数の人々。無名の人たち。自分は将来、何によって知られるのだろう。ナポレオンにも歴史的な僧侶にもならない。医者や大学の学長にもならないだろう。銀行の頭取にもならない。スポーツで名を馳せるチャンスは極くわずか、限定的にも入らない程度だが、もしかしたらあるのかもしれない。

 どこかで誰かに見られている。ひじりの目というものより、もっと大きな何かに見られているという意識がどこかにあった。

 ひじりこそ、一体なにになるのだろう。安っぽい言い回しだが、なるべくならこのままのひじりであってほしい。耳に輝くものをつけ、笑ったりする拍子や、首を振ったりすると、自然に揺れるアクセサリーたちに囲まれて。

 彼女は変わっていく。ぼくも変わっていく。その交差する場所を維持するのは、いびつな希望と好意にならないだろうか。

 落ち着いた所まで歩き、ぼくらは段になっている路面にすわった。新鮮というストックも、在庫もないのがぼくらだった。経験もなければ、前例もない。あるのは、この休日の数時間だけがすべてであった。欲張りという感覚もなく、固い段で一息をつく。