爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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当人相応の要求(42)

2007年12月22日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(42)
 
 例えば、こうである。
夜は、千の眼を持つそうである。
だが、一つの声の、確かな声の持ち主になれれば、それで良いではないかと彼は考える。今日も、スピーカーの前で時間を過ごす日々である。
パリの空の下にいる。個人の確立した社会である。人に頼らない生き方を大勢がしているように彼には見える。それでも、なのか、それだからこそなのか、言葉での交流や、ときには対立やいさかいがある。避けられない事実として。また避けられないことに、人生のちょっとした不運や、大きな不幸が時には訪れたりする。個人が確立していても、また、民衆の一人で生きるという覚悟をしたとしても。
それを受け止めてみたり、立ち向かおうと努力するときに、音楽が後押しをしてくれたり、力づけてくれたりもする。
エディット・ピアフという歌手がいた。1915年の12月に、将来に待ち受けていることも知らずに生を受ける。歌手として成功し始め、ボクサーと大恋愛をし、その喪失からだろう、愛の賛歌という信じられない名曲が残り、人々もふと口ずさみ、それで、1963年にいつの間にかなくなってしまったお気に入りの宝石のように簡単にこの世から去る。誰もが歌える曲を、数々残し。
アメリカのニューヨークには、ブルースを歌える歌手がいる。奇妙な果実という唄を真実を込めて歌うステージ上の女性がいる。髪には象徴的なくちなしの花を飾り。
1915年4月、フィラデルフィアに生まれる。誰もが聴いて、あの人の声だと分かる節をつけ、彼女は歌う。歌うこと自体は楽しいことなのか、と彼はスピーカーの前で疑問を持つ。みな、それぞれ、それぞれの方法で自分を解放する必要がある。それが切々と行われ、ときには勇気をもらい、圧倒的なまでの絶望感に同時に涙し、ときにはリアル過ぎて、適度な距離を置く時期があり、それにしても忘れられない唱法だなと戻ってきたりもする。
人生の浮き沈みを経験し、良いときの軽やかな唄があったり、麻薬の影響なのだろうか、冴えない(もちろん主観の相違が含まれる)曲もあり、それでも、個性の確立としては、最大限の成功を収める。しかし、自分の鏡と対峙して人生を送り続けることが不可能なように、普通の日常生活の雑務に追われ、いつの間にか時は過ぎていく。そのようなときは、リアルではない、軽い虚構の音楽が似合ったりもする。その時に、彼女らの音楽は遠ざかって行ってしまうのだろう。
1959年、ジャズという音楽の持つエネルギーがピークの頃に、彼女は世を去る。もう辛酸は、こりごりだという印象をスピーカーの前の彼に残して。
ジャンルで音楽を分ける人もいる。唯一という言葉の定義を求めて音楽に親しむ人もいる。真実と予言の言葉は、女性の声を通してと不確かな根拠を抱いて、スピーカーの前に鎮座する人もいる。
1923年にマリア・カラスという人が生まれている。その時代の偉大な歌手になるべき素材を地球に送り込もうという意図を彼は感じている。そろそろ黒い円盤も生まれるし、マイクというものも発明されるだろうし、小屋というものを人々で満たす必要もある。
その絶頂期の、引力を実感していない子供が転げまわるような歌い方に、彼は軽い当惑を受ける。なんなんだ、という最初の抵抗を浴びて。そして、しばらく経つと、凄いもんだな、と感嘆に変わる。もし、それらの人がいなかったら、多少、人生に対する調律が歪んでしまうような感じを彼は受け始めていた。世の中は、経済活動や、金銭の動向だけではないという、主義とモラルを潜めて。
その証人として、ビリー・ホリディの同時代の人として、レスター・ヤングのサックスの音で、この文章を閉じたいと思っている。あまりにも無防備で、世の中の悪意や逆風から、逃れられない、抵抗できない人として、音が作られていくように、彼には思える。その分だけ、寒い冬空に、マフラーもコートも手袋も暖かい飲み物も与えられず、それでも懸命に生きるだけ、生きてみようという勇気も与えられる。計算高く生きようということすら念頭に浮かばないような音楽。しかし、その無邪気な音楽が、ひっそりとレコード屋の片隅に、手をとって引っ張られ、聴いてくれよという形で待っている。それを見つけられる幸運があるのか、彼には、その幸運があった、というしか答えがない。
明治になり、急速に西洋化され、古いシステムを粗大ゴミに出し、新しい輸入された商品を買い込み、諸外国と張り合う気持ちも芽生えた。しかし、彼の心にワインの滓のように最後に残るのは、レスター・ヤングの音楽だった。その一つの声とトーンの持ち主だった。
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当人相応の要求(41)

2007年12月15日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(41)
 
 例えば、こうである。
風に揺れる襟。ボタンで留めてしまえば、そんな不自由から解放されるのではないか? ある種類のシャツの起源。
ヘンリー・サンズ・ブルックスという人物。その人から流れる系譜。そして、生まれてしまう発想と信念。
あるクオリティの高い製品を作り、そんなに莫大に売れなくたとしても、価値あるものを理解する人は、その値段に合ったものとして、購入してくれるだろう。
人間は、洋服に包まれて暮らす。その服装の判断によって、ステータスや人間性や趣味や思考が分類されていく。
彼が青春期をむかえる1980年代には、デザイナーズ・ブランドというものが流行しだす。セール期間になると、そのような店舗がぎっしり詰まった建物の外周には、大勢の男性たちも列になって並んでいた。彼も、その後方に一人たたずんでいる。
そして、ある袋を持って、ウキウキした感じにもなったり、タンスに長くしまわれ脚光を浴びることもなく服の生涯を終えるものたちもあった。
それから、大人になり、ネクタイのお世話になる。まともな人間の証し。社会に適合している人物だという仮の証明。その時になって、ボタンダウン・シャツというデザインに傾倒していく。あんなに完璧なシャツやフォルムはないのではないだろうか?
もちろん、日本でも買う。買っては着る。着ては洋服ダンスの奥の方に場所は移り、ハンガーに飾られたまま、袖を透す機会も減り、引退間近のピッチャーのようにグラウンドに出ることも少なくなっていく。
彼は、外国に行く。それぞれの国で、それぞれの洋服の着方を教わる。ポロシャツと半ズボンで過ごす人たち。3、40年かけて、自分に合った服をきちんと見つけられた人たち。相変わらず、はじめて服をもらって、身に着けている感じが否めない人たち。なにかしら、学習することがある。
服装で判断することはないが、(本当か? 建前か)彼は、気に入った服を着て、晴れた青空のもと、町中を闊歩する幸福を知っている。というか気づいてしまっている。
それで、外国でもボタンダウンのシャツを探している。彼に話術巧みに勧めようとするラテン気質の店員たち。自分の仕事ぶりや、製品を非常に愛し、声高にではないが自信をもって、気に入ってくれたらお買い上げしてくれればいいですよ、と横柄にならずに、そうしたスタンスで接客する店員たち。
そして、その分、着ない服も増えていく。過去に夢中になってしまった思い出だけが残り、現状の自分につりあったものになる。本当の自分を探して。内面も、また外見も。
きれいな女性がいる。なぜか服装の趣味が、というより自分自身の良さと服装がアンマッチしている人がいる。彼は、なぜか、そうした女性をセクシーに感じたりする。また逆に、そんなに美人というわけでもないが、その服装と放つ魅力に、はっとさせられたりする人もいる。そうした人に、自分の当時の恋人の服装も選んで欲しいな、と彼はちょっとだけ考えたりもする。
それらのことを、服装ではなく車に求める男性もいる。そのエネルギーを室内のインテリアに注入しようとする女性たちもいる。でも、彼の考えは、社会と和合することならば、服と会話と、軽い酒のようなもので彩っていきたいと思っている。
世の中は、どんどん軽薄なものになっていく。一生、突き詰めて研究者のような姿で人生を取り込めなくなっていく。その反対に、世の中はどんどん殺伐となっていき、険悪になっていく。素敵な靴と、コートを着込み、その殺伐とした社会や満員電車に放り込まれる。彼も、いつの間にかそうした大人になっていたのだ。自分でも、気づいてはいなかったが。だが、コートの内面と、自分の周辺だけは、甘い快適なにおいを発したいと思っていた。思っているだけなのかもしれないが。
洋服をデザインする人がいる。その代わりに似合う人に着てもらいたいと思っているのだろうか? 彼は、その代償として、最低限の身体のデザインを維持したいと決めている。マネキンのような完璧なスタイルは望めないとしても、それ相応の年代にあった体型を。今日も、風が吹いている。襟は、風に揺られることもなく、ボタンでしっかり留まっている。
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当人相応の要求(40)

2007年12月09日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(40)
 
 例えば、こうである。
誰が、1位、2位とランク付け出来ない社会。だが、それにしても確実に才能の差異がでてくる分野。
バルザックという傑出した人物。1850年に約半世紀の人生を終えている。50年で、あんなにも多作で、立派な作品を残すことが出来るのだろうか?
ロダンによる彫刻。人間の善悪、いやらしさ、醜さ。また逆に、清潔さ、高貴さをすべて兼ね備えた芸術。この人以上に、本という形式で紙に印刷され、リアルな生な人間を描けた人がいるのだろうか、と日本の彼は思う。そして、圧倒的なまでの質と量に打ちのめされている。
印刷業を自分のものにすれば、制作したものを公表するのに、いくらか楽なものになるのではないかと作家としては、当然の帰結なのだろうか、野望的な考えを実行し、そのためにかえって借金まみれになる。その借金をマイナスするために、またまた大量の紙をペンのインクで埋め尽くす。後代にその文章を読む人たちは、その人物の計り知れないエネルギーの表れと、数々の問題を克服するようなバイタリティに恩恵を受けていることは事実だ。
最終的に借金の清算はかなわないまま、優れた作品とひきかえに人生を終える。東洋の印刷物を愛する少年は、その人物の全集に何度、購買意欲をそそられたことだろう。文章で神の視線のいくらかでも勝ち得ることを、かのうならしめた人物。
長いものを得意とする人もいるし、短いもので、キラリとナイフの尖端のように輝ける作品を残した人もいる。
モーパッサンという人物。ノルマンディーから訪れる。
幸運なことにというか、運命が導いたのか、家族の知人にフローベルという作家がいて、その人に師事する。才能は、伝承できるのか? この場合は可能だった。
数限りない短い、宝石箱の中の光り輝く作品たち。
上流社会に憧れる人物が登場する。社交界という生活が現存する世界。ある舞踏会に呼ばれる。そのパーティーに服装は用意できたが、首元がいくらかさびしい女性。そうだ首飾りという装飾品が足りないのだ、と気づき、それを借りることを考える。
手頃なものが借りられ、その場も楽しく過ごし、けれど、はっと気づいたときに首もとのネックレスがないことに思い至る。探しても見つからない。どうしよう、ということになり似たものを探し、借金までして手に入れ、きちんと返す。身分不相応だったのか? なにかの警告が含まれているのか?
その借金の返済のために泥のような生活をし、約10年かけて完済する。そこで首飾りを貸してくれた女性に偶然であう。疲れ果てた女性と、まだ美しい女性の遭遇。
「あなたに借りた首飾りをあの時に無くしてしまい、同等のものを買って返しました。そのときの借金を返済することがどれほど大変だったかしら」
「そうだったの? そんなことをしなくてもよかったのに。だって、あれ、模造品だったのよ」
という、辛いオチ。でも、人生って、結構こういうことがあるようなものだと認識をしている彼。でも、それを紙の上に印刷されたものを読んだことはなかったが。印象に残る短編を作り続ける名手。だが、1893年にこの世を去る。
それぞれの長さで、それぞれの文体で社会に挑んだ人たち。すべてを読めるわけではないが、その面白さをいくらかでも吸収したい彼だった。
ひとつの国に、それだけでも才能を有する人物がたくさんいる。200いくつかの国と地域があることを思い巡らす。違う言語という、ある種の妨げにもなる、非接触な媒体。だが、クオリティの高いものは、津波のように意識や言語を越える。
今日も本のページをめくる。家の中で。列車内で、カフェで。飛行機の中で。待ち合わせのあいた時間に。自分はなにをしていたのか、何の用件をするはずだったのか、と時折り忘れてしまう彼だが、そのような幸福を感じさせてくれた人物がいたことに感謝するのみだった。
視力との問題。妥協と兼ね合い。小さな文字。ある日、限界が訪れるかもしれない。その時までに、実際の生活以上にリアルで生活感のただよう作品を、発見し探す。
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当人相応の要求(39)

2007年11月24日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(39)
 
 例えば、こうである。
 親愛なるヨナタン、あなたの愛は、女の愛よりも麗しいものであった。
 友情の話。短い人生のなかで、ひとときの安息の話。
 ときには、葛藤というものがあったり、適度な香辛料のようないさかいがまぶさったり、それが最後には解消される過程。ひとりでは生きることができない、小さな人間。また、大きな人間。
 岸田 劉生(きしだ りゅうせい)という迫力ある絵画を自分のものにした洋画家がいる。
1891年6月23日に生を受け、その生は1929年12月20日に幕を閉じる。油絵という、どこか絵画という西洋からの輸入品を、適度に模倣し、解体し、再構築し、立派な形に作り上げることが出来た人物。なんだ、日本人にも、これぐらいガッツある芸術を生み出す才能が潜在されているんだ、と若い彼は、驚愕する。そして、その作品を探すためにあちこちの建物に入る。数点、数点とこころの中に集めながら。
その自分の子供をモデルにしながら、(お父さんが子供を可愛く残したいという意図はないように思われるが)自分の変遷の過程が記録されていく。鬼気迫る歴史の重み。一人の人間の解体作業。
それとは、別に武者小路 実篤という人物がいる。おもに小説を書いている。茫洋とした絵画も残している。上手い下手はまったく抜きにして、その人物の素朴さと頑固さがしっかり刻まれている作品たちだ。
その作品を数十年後に読む彼は、理想を夢見る。結局のところ、究極はユートピアの存在と確立に励む、ということだ。そのお手本としての武者小路という人の一徹までの理想主義。それを、ある日、実行していることも知る。そんなことが可能なのだろうか。
1885年5月12日に生まれ、1976年4月9日にユートピアの叶わないこの世を去る。
1918年と1939年に宮崎と埼玉で「理想主義の嵩じた村」を設立し、そこに住まう。
彼も、そんなことが出来たらと、こころの中で簡単に願うが、育ちや家柄のバックボーンがあまりにも、違うことに気づく。
たまたま、別々に知っていることが、ある日ふとしたきっかけに合致してしまうことがある。それらの才能ある二人が交遊をもっていたことを知る。どんな会話がなされたのだろう、励ましあったのだろう、切磋琢磨をしたのだろう? と彼は想像する。実際の知識より、想像が勝るかもしれないので、事実は確認しないのだが。彼にも年代により、友人が訪れる。一緒に悪さをし合うことが友情だと思っている時期もあり、どんどん坂道を転げ落ちるように悪いこともした。持っていない知識やスタイルを得たくて、友人のようなものに自分を仕立て上げたりもした。そのような無理は、長く続かないらしく、いつの間にか終止符を打つ。
それで、今は、友情など、どういうものか見当がつかないでいる。まず、未来永劫という価値が自分にないせいなのかもしれない。しかし、誰もそんなことを真面目に考えていないのかもしれないのだが。
ひとりは長生きをし、ひとりは短い生を閉じるが、その途中でささやかだが、濃密な邂逅をもてたことに、ひとは確かな喜びと手ごたえを感じるのかもしれない。その後、残った方は喪失感を、軽くない程度に味わうときが待っているかもしれない。しかし、その感情が現存するにせよ、一時の喜びのほうが勝るだろう。
マックス・ローチというアメリカのジャズ・ドラマーがいた。居たということは、もういないわけで2007年の8月に、数々の戦いのあった人生をやめる。バンドにはメンバーが必要なわけで、その太鼓を叩く名人にとっての理想的なトランペッターを1956年に失う。自動車のいくつかが事故で廃車になり、その結果としてかけがえのない人物は、途中で夢多き生涯を中断せざるをえなくなる。
その人物の喪失感は、いかほどのものだろうと想像する。最終的には、もうそれ以上のメンバーが表れないことを、薄々だが、それを内包しながらも確実に登場しないことを知っている。失ったものの再登場だけが、その人物の憂鬱を消す。
だが、何度も重複するが、一時的にせよ、そうした仲が熱い抱擁と堅い握手のように、人間のこころの中にしっかり残り、時には、思い出せるような事実に、人の心は優しくとろけていくのだろう。
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当人相応の要求(38)

2007年11月18日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(38)
 
 例えば、こうである。
 人々の熱狂を浴びること。スポット・ライト。そうした事柄の最初は、一体いつからなのだろう。
 彼の記憶の中では、フランク・シナトラという歌手のステージで女性たちが群がり、絶叫しているイメージにつながる。独占とは、程遠いものだが、彼女たちはそれに対しては、特別思い入れがないようにも思われる。男性と女性の違いか?
 人々の注目に値する声を持つこと。そのイタリア系アメリカ人は、節回しによりもう20代という若さで、人気の絶頂に達する。唄がうまいということと感動と、芸術との隔たり。
 1915年に生まれた歌手は、この世の宝を持っていくこともなく、1998年の5月14日にステージから退場。永遠ではない甘い声。
 その後、1935年にアメリカの南部にスターの資質を持った男性が産声をあげる。腰を揺らしていたかは知らない。それから、メンフィスで唄のうまいトラック運転手になる。その地域のラジオから流れる黒人のリズムの取り方を習得し、そのロックン・ロールの申し子は、独自のスタイルを作っていく。
 流行の先端を敏感に感じる女性たち。荒々しい振りと、逆に官能的なまでの甘い歌声で人気を博していく。30年も経った日本の土地で、彼もその歌声に聴き入る。しかし、上手いとは思うが(もちろん、絶対的に重要なこと)思想的な面で(音楽に必要か? 一時的な若者の迷いの隙に忍び込むもの)何やら、物足りなさを感じてしまう。
 42歳という若さで、メンフィスで歩みをとめた男性。疲れた夜中、思想などが必要ない瞬間には、(そう物事を複雑に考えこめない時)その歌声がすんなりとこころに飛び込んでくる。帰りを忠実に待っていた犬のぬくもりのように。
 音楽は、流れていく。ラジオに乗る電波は国境を越える。レコードという物資もリヴァプールという港町に流れ着く。
 音楽に、思想を持ち込む男。ビートルズ時代を経て、丸い眼鏡が似合う男性。イマジンという究極的なまでの理想主義の賛歌。そこまで、若い人間の熱狂を受け止める思想の持ち主は、当然のようにそれらの一人に撃ちぬかれるという結末が待っているのではないだろうか?
 40歳の男性が、ニューヨークに倒れている。それでも、銃になんら規制をしない国家。20世紀の宝は、いとも簡単に失われていく。
 アメリカはベトナムに行く。その行為自体にBGMが必要になってくる。この時点で、ロックスターというものに陰りと失笑が入ってくるのではないだろうか。
 その列にジム・モリソンという男性が並ぶ。その隊列に通じるドアを開けるように。その容貌と熱唱が、この一員になることに許可されていたようだ。数々の歌声と、美しい詞をひっさげ登場する。時代が、このような存在を必要としていたように。ポップソングとしては長い曲もあるが、それを聴くアジアの片隅の彼は、(生まれていた頃は、自分と同系色の人間が狙われていたにも関わらず)飽きることなく、感動に震えている。登場があれば、退場もあるように、あらしの中を過ぎ行くバイク乗りのように、27歳という若さで、あっという間に消える。もっと、やる気の失せた時代に入っていくのだ。
 1980年代に入り、アイルランドから世界へと拠点を変えていくバンド。彼は、自分の人生のBGMとして、「ヨシュア・トゥリー」というアルバムを手に入れる。世の中は、レコードからCDに代わっていた。
 20歳のときに、なぜか一枚のチケットが郵送され、東京ドームでのライブを観ることが出来た。自分と同じように、その音楽に熱狂する、他の人々と時間を共有することが不思議に思われていく。そこのヴォーカルの人は、徐々に政治的な活動を深めていき、音楽という範疇から消えていくようにも思われていき、その分だけ、彼のこころの中からも消滅していく。
 言葉による共有。自国語の音楽。1985年8月12日。飛行機が墜落する。そこにいる搭乗者。もちろん、命の価値に優劣はないのだろうが、彼にとって、そのロックというスピリットを唯一もっていた男性が消えていく。象徴的に聴こえる「見上げてごらん、夜の星を」という歌声。
 いくつかの、心の上を行過ぎる登場と退場。女性たちの熱狂と、かすかな男性の支持。それは一体、どちらが重要なのだろう。
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当人相応の要求(37)

2007年11月10日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(37)

例えば、こうである。
 それぞれの見本。展示会。親の職業により受け継ぐ、それぞれの考え方の差異。商売人の家には、広告代というある種の損害を受け入れる器量が出来上がるのだろうか。
 世界的な商売の展示とアプローチ。万国博覧会。
 第一回は、1851年のロンドンで開催とされている。クリスタル・パレスという建物。 
 さらに、そのイベントは続き、1867年のパリに至る。明治になる前の日本の藩主たちも、威信をかけて、見本を持ち込む。その中には、浮世絵がある。誤解されるイメージ。卑猥なものとして、いまだに一部の人は考えているのだろうか。
 しかし、パリには絵描きがいる。印象派、という一種、奥行きを無視していくような技法。その、考え方にインパクトを与える、日本の浮世絵。絵画は、やはり平面に戻ってもよいのではないか?
 二次元的なものと、三次元的なもののぶつかり合い。もちろんのように、優劣は関係なく、それでも、新しいものを求める人には陳腐化していき、立体的に対象を捉える人たちも出てくるし、物や人間自体の形状を破壊して、それでも美術に仕立て上げる才能を有する人たちも登場する。直ぐに、世の中に受け入れられなかったとしても。
 やっと、今になって「見返り美人」てきなものと、印象派のパラソルを持って絵画に閉じ込められたモデルを並列に置くことが出来るようになった彼であった。
 1900年には、世紀が変わる象徴のようにパリには、エッフェル塔が存在している。日本のブームの熱は冷めていく。もっと、退廃的なデザインが受け入れられていく。
 急に、時代は飛び、1970年の大阪。そびえたつ、一つの塔。その人の言葉。芸術家の狂気。
「わたしは、自分の父親でもあり、自分の子供でもあるのだ」ものを、創造する人の野心ある言葉。そのぐらいの考えがないと、創作などに打ち込むことは出来ないのだろうか。
 彼は、大阪という町を知らない。そこには、リアルな人生がありそうだし、排他的な考え方もあるかもしれないが、数年暮らしてみたら、人生に対して、違った価値観を学べそうな気もするが、それは、実行できるのだろうか。仮りの体験として、『水曜の朝、午前三時』という美しい小説で、その一部を味わえるような気もする。
 つくばという学園都市。リアルさの希薄な街並み。1985年。日本の経済的なピークの外面への漏れ。彼も、二度、学校の行事の一環として、そこを訪れる。科学技術の結晶。もしかして、科学の力で、この世の中は良くなる、改善されていくのではないか、というまったくの幻想。日本のその頃に育った人間の、機械や小さなメカへの憧れ。新製品の数々。
 彼は、「松下館」という所に設置されていた似顔絵を描くロボットに、自分の肖像を描いてもらいたかった。一体、ロボットにどこまで出来るのかという、具体的な証拠としても。しかし、抽選にあたったのは、彼のクラスメートで、その描かれた紙を、彼は羨望の眼差しで見ることになる。そして、「良く描けているな」という感動も持つことになる。
 それぞれの会社の方針。ある企業は、そこに駐在しているコンパニオンを自社の社員に勤めてもらった、という記録も残っている。会社という、日本てきな仮初の家族の在り方。
 それぞれの、電器関係の企業は、そのようなアピールをしなくても、世界的に広まっていくのは、時間の問題だったような感じを受ける。ジョギングをしながら、耳に音楽を詰め込む人たち。テレビという自分の実人生より、加担してしまう等身大の他人を写す受像機。世界のどこにでも表れる、それらの会社のロゴ。広告と、実際的な商品の性能。
 2005年の愛知。地球への賛歌。壊れゆくもの。その土地を土台にして、優秀な車を世界に運び続ける企業。
 会社員であること。商売人であること。表現者であること。それぞれの受け分と、能力と、惑わされるこころがある。しかしいくつかのことは、誇大になっても、自分をアピールしなければ負けだよ、という社会の風潮。人に知られず、山奥の片隅で、陶芸を作っているという浅はかなイメージ。
 世界は、一つになりつつあるという一種の希望と幻想。短期間のアピールの場。一人ひとりの人間にも突然に訪れる、短時間のアピールの場。それを、力ある人は、掴んでいくのだろう。
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当人相応の要求(36)

2007年10月29日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(36)

例えば、こうである。
 戦略としての聖火。ベルリンという名前の都市。一人の人間の権力への執着。
 彼は、知る。そして、知るという作業と行程には、いつも痛みがともなうことと。
 ベルリン・オリンピックというものが、一人の人間の野望というもので語られてしまうこともある。聖火リレーというのが平和の象徴として語られる。それぞれの民族に、結果として橋をかけなければと。しかし、その聖火がたどった道を、今度は、それを完璧な地図の複製として、武器と銃弾が流れ込む。ドイツの周辺には、恐るべきことが起こる。あんな風に、かんたんに土地を通らせることはなかった、と悔恨の情は残るのだろうか。
 その人間の野望、極限までにはりつめたある種のむなしい美。苦痛がともなうスポーツ選手の最後のもがき。
 そのスポーツの祭典を圧倒的なまでの美しさを含んだ芸術作品として残した女性があらわれる。本人は、ただ自分の美意識を映したまでだが、歴史に足をすくわれる人は、必ず出てくるもので、そのレニ・リーフェンシュタールというひともナチスとの関わりをとがめられ、ある面でこの小さな世界から追放される。人間の形の美を追求しただけであって、その思想を良いかどうかをどう判断していたかまでは分からない。ましてや、未来の人間は、なお一層分からない。しかし、その資金の出所が問題なのだろうか。
 その資金のもとの、ひげを生やした男性。自分の民族が勝れていると考えている。ここでも、マイノリティーの憂鬱。
 その民族の優越性をかけた戦いで、本当の勝利者の数人。ジェシー・オーエンスという黒い肌の男性は、100メートルと200メートル走のメダルを手に入れている。
 日本人としては、棒高跳びと3段跳びで、もう一つ下のランクのメダルを手にしている。しかし、世の中は、まだ侵略したり奪い取ったりする風潮がはびこっていたので、金メダルをとったマラソン選手も、その時は日本人として、メダルを手にした。もちろん、今では、そんなことを誰も考えていない。1988年のソウル、ある一人の男性が聖火を手にし、スタジアムを走っている。歓喜とか自由は、ああいう形でしか表現できないのかと思えるほどの、見事な喜びようだった。彼も、それをテレビで目にして、胸の中に凄まじい感情が流れた。そして、どんなことがあっても、人の優劣を足場のしっかりしない民族で考えることだけは、やめようと誓う。
 そのベルリンが平和と和合の象徴として、一緒になる。ソウル・オリンピックの次の年には、両民族は解放される。ヴィム・ヴェンダースの映画の主人公の天使は、そのことを望んでいたのだろうか。白黒の映画の中で、うつろな視線でその町をながめる主人公。決壊した壁をあとにする国もある。しかし、アジアの国は、まだ二つに分かれている。
 オリンピックを映像に残すという作業。東京でのオリンピックを市川昆という監督が残している。失われゆく、前次代の美しい東京。小さな身体の、今後電気製品などで経済発展を遂げる国。
「白い恋人たち」という冬季のオリンピックを撮影した映画もある。信じられないほど可憐なフランシス・レイの音楽をバックにして、スキーは軽やかにすべる。
 そして、最後は旗。そして国家戦略としての聖火。中国という国と台湾という場所のいがみあい。もう、そんなことは目にしたくないと思っている、彼だった。
 モスクワで行われたオリンピックに足を踏み込めなかったチャンスある人たち。仕返しとして、ロサンジェルスに行かなかった東側の人たち。
 いつか、それらの記憶が彼の頭の中で居場所を失えば良いと思う。
 ひとりの女性が、映像も撮れる女性が40代前半で終戦を迎える。その後、60年も生き、数々の変貌を遂げるが、いつも過去の悪癖をとがめられるようにレッテルを貼られる。作品を、作品自体として、受け止められなくなってしまう、彼女の人生。ある時代と、深く密接に結びついてしまう不快さと、やりきれなさ。そして、正当に判断する材料を見失ってしまう民衆たち。
 彼は、来年もテレビでオリンピックを見ているのだろう。目頭を熱くする瞬間もあるかもしれない。ある人たちは、幸運をいつのまにか失っていたことに、あとで気付いて驚愕することもあるだろう。しかし、そのようなことも含めた人生を愛おしく感じようとも、考えている。
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当人相応の要求(35)

2007年10月23日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(35)

例えば、こうである。
 女性たちの書き記した文章が残っている。その中で、優れているのは、一体誰が書いたものだろう。文章というのは無名性なものだろうか、それとも個性が確立できるものだろうか。
 ジェーン・オースティンという人物がイギリスにいる。40年とちょっとの人生。1775年12月16日から 1817年7月18日までの限られた足跡。その中でも、6作ほどの小説を、それも立派な小説を残している。
 しかし、描かれているのは、田舎の中での限られた生活。アクション映画に洗脳された思考によれば、それは事件というものが、あまりにも起こらなさ過ぎるかもしれない。また、その人々の感情の揺れも表面だっては、表れにくいかもしれない。しかし、彼は、その手の作品を、大切にしているハンカチのように労わりながら読んでいる。
 もしかしたら、いや、確実に最高の文章を書く人の一人だろう。
 イギリスから、大陸に渡る。フランスに入ると、フランソワーズ・サガンという作家に出会う。場所も変われば時代も変わる。その中に現れる女性の態度も一変する。歴史の変化のポイントは、受動的なことを止めることなのだろうか。その人が18歳にして残した傑作がある。写真などを見ると、こつこつ机に向かって、文章を刻む作業になど不向きな人間のように見える。しかし、彼は似たような年齢で、その小説を読み、1954年のフランスと、そこにいる可憐でありながら、とても残酷に見えるような女性に惹かれていく。
 軽いおしゃれな恋愛をし、チープに見えながらも高性能なスポーツカーに乗り、繰り広げられる日常生活。そして、日本も迎える泡状な世の中。
 さらに場所を移動する。新大陸へ。ハリウッドに潜む成功。
 1924年に生まれた「ルック」と呼ばれた女性。眼差し、とか視線とかに訳せばよいのだろうか。ローレン・バコールという女優の自伝がある。彼は、ふとしたことで、それを手にする。都会に生まれた女性が、女優という職業に魅せられ、共演者であるハンフリー・ボガートと真剣な恋におち、やがて結婚し、そして辛い死というものが挟む辛い別れを経験する。それが、リアルに等身大で、さらにガッツある文章で書かれている。実際の作家ではなく、自分の生き様をスクリーンに映すと同じように完璧なまでの、本質を感じられる姿がそこにある。これも、彼に与えた女性への畏怖と尊敬への一歩だったのかもしれない。
 彼の生活にある、身近な女性の文章。
 男ばかりの子供に囲まれた母親がいる。彼の母もそうである。子供たちは、家事を手伝うこともしなければ、暖かい言葉をかけるわけでもなく、もちろん、そのことをわざわざ手紙に書き記すようなことも、誰一人としてしなかった。それを、当然のように考えていた生活。
 ある日、彼の隣の家の女性が、車の免許を取ることになり、彼の父親はその方面に顔がきくこともあり、さまざまな時間のやりくりや融通などを働かせてあげたみたいだった。そして、念願の免許をその女性は取ることになり、感謝の気持ちとして、彼の母親を通して、手紙をくれた。そうしたことをしてもらったことのない母親は、そのことだけでいたく感動し、また自分には男の子供しかいないことに、軽く不満をもらした。
 もう一つは、彼の交際していた女性からの手紙。ある日、食事を一緒にして、数日後によく気のきくその女性は、多分、「この前は、ご馳走になって、ありがとうございます」という文面だったのだろうと彼は、想像する。その時も、彼の母は、その女性の心配りと、(ある日、入院した母に、彼には内緒で花まで贈った。当然のように、彼は、そんなことまでしなくていいよ、と冷たく言った)きれいな文字と、文面の素晴らしい内容に胸を打たれた様子だった。それを、タンスの中にしまっていたようだが、その後のことを彼は知らない。
 ワープロというものが発明され、日に何通もメールがやりとりされ、会話の糸口はたくさんでき、コミュニケーションのツールは発達したような錯覚におちるが、一体、その中でどれほどの数の文章が、貴重なものとして残り、また人生を変えてしまうような感動を与えてくれるのだろう。
 彼は、今日もまやかしのような文章を編み出そうとしている。それは、他人への伝達ということでは、まったくないのかもしれないが、しかし、些細なつながりを夢見て、思いを綴る。
 
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当人相応の要求(34)

2007年10月22日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(34)

例えば、こうである。
途中で折られる枝。与えられた命の閉じ方。
誰しもが通過する俗にいう「青の時代」。当惑や葛藤の入り混じった自分の生命の 存在意義。半ばはもてあまし気味に、なかばは不確かな自信を有して。いのちに対して無頓着になる時期。それからは、たえられないぬかるみに足を踏み入れるような死への魅力。誘惑と戦慄。
短編の名手がいる。人間の顔の一部である鼻だけを題材に、大傑作を残す男。神経症的な主人公。もちろん、滑稽さもだいぶ有しているが。
いまは前ほどには贔屓にされないのかもしれないが、日本語の魅力にあふれている。それは、若い女性が身にまとうこともなくなった自然体としての着物のようなものかもしれない。
その人の残した最後の言葉。「人生のぼんやりとした不安。」
現代人が抱えている胸の奥を、このような見事な言葉で言い尽くせるだろうか。将来的に、圧倒的な繁栄は、一時に崩れ去ることを知っていた、彼が10代後半のころ。特別に分析にすぐれている人間でもなかった。しかし、もくもくと自然発生的に太陽を覆いつくす将来の不安な雲。もしかして、人間の生きる価値というものはあるのか。それは、どういったものだろう、と頭を悩ます。
心中や自殺をくりかえした作家がいた。人間失格や斜陽という、信じられないほどの繊細さを兼ね備え、また完成度の高い作品がある。彼は、人に会うのが辛くなっているころ、それを読んだ。そして、当然の帰結として、より一層、自分の内部の探求に走っていく。もちろん、薄い人生経験で深みなど、まったくない時期でもあったのだが。
その一方で、ハリウッド映画の影響として、自分の身体を鍛えようとする彼。内面は憂鬱な人格を住まわせていたが、外なる肉体は、筋肉で固めようと矛盾した考えをもっていた。
ある日、河原で皮膚を日に焼きながら、太宰という人の活動の中盤の、いたく愉快な小説を読んでいる。彼は、文章で、こんなに笑わせてくれるものを読んだことがなかった。そして、一人の人間を簡単にジャンル分けする恐怖も感じる。
「自己優越を感じている人だけが、真の道化になれる」
 という言葉を知り、彼は、自分も滑稽さを身につけようと努力する。もちろん、生まれつき面白い人間でもないが、それは努力のし甲斐があるようにも思える。
 それからは、内面に不安を抱えようが、ユーモアというものですべてを包みだす。しかし、長い間それを続けていると、悩みの共有という青年特有の愛撫から遠ざかってしまい、そのユーモアがかえって、自分と廻りの人間を遠ざけていることを知った彼だった。
 彼は、いつの日か美術館の内部に居場所を見つける。アルルで鮮烈な色彩を見つけた男を発見する。社会と自分の接点を、見つけられない男。金色に輝く麦畑。そこでの最後の銃声。
 弟に頼りきりになっていた、ある種の社会不適合者。
 その人の日記が残っている。恐い動物に片手をそっと伸ばすように、社会と和合を求める人間がそこにいる。しかし、あまりにも生真面目すぎ、真摯すぎ、自分の人生を、ひとつの成功者というイメージに近づけようとする努力のむなしさ。リハーサルを何度もして、有能なる画家と共同生活を求める人間。あまりにも、きちんと生きようとすればするほど、破綻していく人生。
 人生の閉じ方。彼も、自分が若い時に、この世に別れを告げるはずだった。だが、ある日、床屋で髪の毛を切っているとき、髪の両側にパウダーを塗られ、それが白髪のようにうつり、自分の数十年後を垣間見たような気がした。それを見た瞬間に、長生きしても良いかな、と考えるようになった。
 彼は、思う。繊細さも、若い社会と妥協しない真剣さも、いつのまにかポケットから無くした鍵のようなものだったと。それでも、良いとも思っている。
 この厭な、ときには不快な、眠れないようなストレスがあったとしても、理想とは格段に離れている人生だったとしても、それでも、人生は生きるに値すると思っている。
 根底から、なにも変えられない力のない存在だと理解しても、多少のご馳走と、スポーツ選手の活躍と、少数の燃え尽きた芸術家の力の発露を感じられるこころが、自分の体内に残っているとしたら、残っていなくても構わないが、年をとっていくのも、そんなに悪くないものだと彼は知る。
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当人相応の要求(33)

2007年10月17日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(33)

 例えば、こうである。
 彼は、東京の街を歩いている。実際に歩くことによって、脚の筋力が増すように、東京という街並みのひょろひょろとした肉体が、ある瞬間、見事に青年に達したような筋肉を持っていることに気付きだす。建物とそのデザインによって。
 彼は、ある冬の重いコートを脱いだように一気に桜が咲き出した町を歩いている。江戸の名残のような王子にある飛鳥山公園。江戸の庶民たちの憩いの場であったことを知っているかは分からないが、歴史が流れても桜の下で憂さを晴らしたい人々。
 その奥にひっそりと建っている建物。
 青淵文庫という名前。渋沢栄一という有力者のために贈られたもの。田辺淳吉のデザイン。浮かれ騒いでいるときに、こっそりその場を離れ、このような建物に遭遇すると、自分の酔った頭が捏造したものであるかのような錯覚に陥る。しかし、確かにある。そのわけは、やはり有力者には、後世になにかを残す余力がある。
 正義感のある人間が、革命の根を抱え込むようにその人物も、現況の政府をよく思っていない。しかし、ふとしたことで最後の江戸の権力者側に立場を定め、その影響と、またフランスに渡る要人のお供をし、資本主義社会と経済人の考え方に平手打ちされる。その後、日本に戻ってきて、数々の会社を起業し、またホテルの建設にも携わり、さらには現在の有名な学校のもとまで作り上げる。株式というシステムを輸入した人。
 彼は、湯島を歩く。岩崎邸という三菱財閥の館がある。設計者はコンドルという人物。奇抜でありながら、どんな場所にも不思議としっくりくる建物を作り上げる。鹿鳴館という歴史の塵のしたに埋まっているものも作ったが、彼は、その言葉しか知らない。しかし、現存しているその人の作品を網羅することを夢見る。また、その旧時代の財閥という響きに恐れをなす。自分が、ジーンズをはいてアメリカ南部の綿花畑で働いているようなちっぽけな人間という感情をもつ。そっちの側に席がない自分を痛感しているのかもしれない。
 彼は、三田という町を歩いている。そこに急に表れた三井倶楽部という建物。その厳かな雰囲気が宿っている場所。スーパーマーケットで食材を買う平均的な暮し。ふらっと入ることも出来ない会員制という名前の敷居。しかし、その美しいデザインをショーウィンドウの向こうにあるトランペットをのぞきこむ黒人の子供のように憧れをもって眺める彼。
 調べていくと、ここもコンドルという人物が手を貸した。明治という時代。即席な西洋化。しかし、野球やサッカーの助っ人外国人が、どういう心境で(遊び半分もいたのか?)働いていたかは知らないが、それぞれの心に忘れられない印象を残し、また活躍自体を置き忘れるようにこころの中に留めてくれるが、社会的にそういう人々に頼らざるを得ない状況だった。
 彼は、さらに渋谷から電車に乗り、駒場東大前という駅で降りる。前田侯爵という方の屋敷。大名という立場から侯爵という肩書きへのスライド。いまも残っている洋館。その美しさは、彼の目を圧倒する。
 彼は、その中に足を踏み入れるも、なんとなく落ち着かない気持ちがある。最終的には、もし仮に住む機会があるならば、一番小さな部屋で充分だと思ってしまう。しかし、経済的に裕福であろうとなかろうと、戦局という大きな事件に遭遇すれば、もろもろ蒙る影響は大差がなくなるだろう。
 その素敵な洗練された住まいは、アメリカの軍事力の前にひれ伏す。昭和20年の9月には戦勝国のものとなり、第5空軍司令官ホワイトヘッドが仮に住み、それから26年4月からは、極東総司令官リッジウェイの住まいとして利用されることになる。
 彼は、そうした事実を覚えておこうとも思うし、なにより、すべてが更新されアップグレード? される東京にあって、残っている期間が骨折した人のギブスのような短さでなくなっていく、この町のはかなさを、記憶に残していきたいと渇望している。
 さらには、そうした物を建てられた財力を、自分は一生持つこともないことも予感している。ロシアのサンクトペテルブルグには何があるのだろう? エカテリーナという女王の財力か、それとも一時レニングラードと呼ばれた人の思想なのだろうか? この地上を永久に愛せるのだろうか?
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当人相応の要求(32)

2007年10月11日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(32)

 例えば、こうである。
 映像に音をつける作業。それに、従事する人たち。卵が先なのか?
 彼は、暗い中で、椅子に座りながら映像を追い求めることを、そのくつろいだ時間に、人生のわりかし多くの時間を割いてきた。目線の先にあるもの。それは、ハリウッド製のモノクロの映画かもしれない。男女が出会って、危機を迎え、ときには解決したり、よりが戻ったり、永久に離れ離れになったりするときもある。
 また、別の機会には、フランスの都市を舞台にした華麗なる逆転劇が描かれているときもある。その、途中や最後の盛り上がる場面に印象的に挟まれる音楽があることについて知識を増やしていく。
 そういうことに長けている人たちがいることも知っていくようになる。例えば・・・
 「太陽がいっぱい」というフランスの美しい顔をもつ男性が主人公の映画。完全に別の人間になりきるチャンスがある。その犯罪が、これまた美しく完成される寸前で、すべての愚考が暴かれていく。その後ろに哀切に鳴る音楽。これを、一体、誰が作曲したのだろう?
 その同じ人は、大作と呼ぶに相応しい、アメリカのイタリア系のマフィアの歴史劇のテーマソングも書いている。
 だが、本人の弁では、映画の音楽を作ることは、本職ではなく、実際はクラシックの作曲家だと自分で語る。しかし、かれは、その本職の技を知らない。すべては仮初めだと思っている音楽に、胸を焦がしていく。ニーノ・ロータというイタリアの人。
 ロシアのひまわり畑。そこで記憶をなくした男性が、家庭を作っている。もしかして、過去に一度、結婚したことがあるのだろうか? そして、以前の妻は、生きているその男性を探す旅に出る。そして、やっと本物を見つけるが、その時に流れる音楽。ヘンリー・マンシーニという多作な人。その口ずさめる情緒的な音楽。彼は、もっとその作曲家のメロディーを知りたくなり、数枚組みのCDを買い集める。
 それで、その人は1994年に、この世での歩みを止める。70年で、おそらく多くの耳とそこから入る記憶により、称えられる人。
 しかし、彼が誰より好きな映画音楽家は、フランシス・レイだ。甘酸っぱい、永久に手に入らないものを追い求めるような、柔らかい羽毛のような音楽。いつか大人になって、可憐さを失う少女の一瞬の輝きを写真に納めたような音楽。
 あるレーサーがいる。命の危機にさらされ、それが元で妻を失う。自分には、可愛い一人の男の子が残っている。休みには、寄宿舎にいるその子と遊び、日曜が終わると、その子に別れを告げ、次の一週間を待つ。同じように、一人の女の子を持つ母親と知り合うようになる。彼らは、それぞれ痛手を負っているが、それを忘れるかのように恋に陥る。しかし、昔に負った傷が深くこころに入り込んでいるため、ある瞬間に、それ以上すすむのを躊躇しそうになる。だが、それで本当によいのだろうか?
 その時に流れる音楽。クロード・ルルーシュという映画監督の画期的な作品。男と女。まだまだ、そのチームは、たくさんの鮮烈な映像と、哀愁ある音楽を組み合わせて名作を連発する。
 まだまだいる。全編のセリフを歌にした、ミシェル・ルグランという人。
 それらの人の考え出した音楽が、完全なる映像をより一層、豊かなものにしていく。さらに、サスペンスを盛り上げたバーナード・ハーマンというひとの先鋭的なサイコの音楽。
 彼は、街中を歩いている。ふとした時に店やアーケードから音楽が流れてくる。そういえば、この音楽を聴いたときには、あんなことをしていたっけ? と自分のささやかなる半生のバックに流れていた音楽たちと邂逅する。
 例えば、シンディー・ローパーという80年代的な音楽家がいる。その人のハスキーな高い声を聴くと、彼は、自分が10代であった時に、簡単に戻れることを知っている。
 大人になれば、そういう鮮烈な印象深い事件と決裂してしまうのだろうか、あまり思い出せなくなる。その為に、もっといろいろ思い出を増やしておけばよかったと思うと同時に、いや、いままで確保してきた思い出で、その小さな集合体でもう充分なのではないかと相反する気持ちの中を揺れる。
 
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当人相応の要求(31)

2007年10月08日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(31)

例えば、こうである。
 地面のなかにひっそりと潜り、その存在を消して、誰かが通過するのを気長に待つもの。攻撃的な武器の範疇のなかでは、まぎれもなく受身である。でも、その意義や威力は、立派過ぎるほど効力がある。
 地雷という名前がついている。負荷がかかる重さによって、人間や戦車などに細かく対応も出来るようだ。いま、現在も、地上のどこかで、誰かの到来を待つ。夢や希望に捉われた、はかない人間の自信のないこころのように。
 1984年のサラエボ。自由な競技者の象徴としてのオリンピック。一先ずは、五体満足の身体と集中力でアピールするもの。もちろん、その裏表のように、ハンディを持つ人の大会もある。
 何人かに一人は、メダルを手にする。何人かは、こちらの方が多いが、練習の甲斐もむなしく、敗北感に覆われる。勝利者の割合はどれくらいのものだろう? いたって少ないはずだ。
 その自由の理想ある町が、戦場となる。オリンピックの2回ほど開催される期間の後に、そこはきれいな街並みだったらしいが、廃墟と銃声の絶えない町になる。誰かが、望んだのだろうか。ある人の命は無くなり、ある人たちは生き延びる。その割合は? 勝利者がいるのか? もし仮にいたとしたら、勝利者の手にするものは?
 現実はつづく。ほころびたジーンズの膝や裾の部分のように。
 いまだに、ひっそりと地中に眠るもの。割合は、人口の6人に一人の割り当てで、まだ残っているそうだ。急に訪れる不安と現実化される、役割を全うする武器。いつか、お前を追いつめてやるぞ、という決意。
 もちろん、それらの武器が残るなら、廃絶や撤廃を考える人たちがいる。実際に行動を起こす人も少なからずいる。その表舞台に立つ人。
 プリンセス・オブ・ウエールズ。選ばれしもの。ボスニアが戦場となっている頃に、別居する。庶民という立場を揺るぎない足場として育った日本人の彼は、テレビのインタビューで、自分の半生を語った彼女の声を聞く。しかし、その伏し目勝ちな表情は強く印象に残るが、肉声のイメージがなく、すぐにその声を忘れてしまう。
 ひっそりと、誰かの不幸をぴったりと背中に張り付き、そのチャンスが到来する時期を待つもの。ある日、大切な誰かの存在がなくなる。ボスニアの町で、地雷を踏んだためか、もしくは、1997年、8月の末にパリの道路の車の中でか。
 理解するきっかけが必要である。彼は言葉による具体的な答えが欲しくなるような心がある。ある瞬間、それを求めてもいないときに、不意に分かるときもある。
ヘレン・フィールディングという人の書いた「ブリジッド・ジョーンズの日記」という書物のなかで、イギリス人があまりにも彼女のことをいじめたものだから、神様が取り上げてしまった。ということが書かれていて、その本を読んだ彼は追悼の言葉としては、最高のものと考えた。だが、実際に、本物の弟は、葬儀の中で、
「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」と弔辞を残す。
 アンゴラを歩く彼女。世界的な名声を、良い意味で利用する活動。まだまだ、カンボジアにも、誰かの命を消極的な形で狙っているものが見つけられずにいる。
 誰しも、急に世界の中でささやかながらも自分の居場所を失うときがある。ある人は、友人を失ったり、働く場所をうしなったり、家や貯えをなくすことも当然のようにある。そのことに積極的にか、間接的にか関わってもよいのだろうか?
 36歳で、美しさの陰りもない最中で、その小さな足場を取り外されてしまった人。彼は、いつの日か、自分の年齢が彼女のストップした年齢を上回っていることを知る。
 しかし、誰かの存在、その存在が象徴的であればあるほど、無くなった瞬間には、こころの中で理解する時間が必要になる。結局は、その理解したい気持ちも、知っていて負け戦をしているようなことかもしれない。国が分かれる。サッカーを見ながら、新しい国家の名前を必然的に覚えさせられる憂鬱感。その逆に、妖精というニックネームを与えられた存在を、彼は日本の地で知る。
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当人相応の要求(30)

2007年09月23日 | 当人相応の要求
 例えば、こうである。
 弟というものが、この世に生まれる話。兄弟関係の成立があり、兄という存在が確立される物語。また、その様々な余波と影響。当然のように、お茶碗と箸が増え、布団が一枚、多く敷かれる話。
 彼は、そのことにいつ気がついたのだろう。いつの間にか、自分に似た存在が増えていた。その子は可愛かったので、無条件に彼も愛した。なにかを奪ったりすることもなく、分けられるものは、ならべく分けてあげた。
 だが、段々と成長していくと、具体的な結果として、変化が日常的に見られていく。八年間も末っ子として育ってきた彼は、両親の視線を充分に注がれていることを知っていた。それでも、ある日、家族の写真を見返すと、中心には、可愛げな弟が座っていたりする。一家団欒でかまってもらうのも弟になっていく。
 衝撃というものではない変化だが、彼の成長過程で大きくクローズアップされるのは、そのことかもしれない。人格形成後、ふとした時に、ある人たちの愛情の流れや移行に敏感になっていく。
 その後の応対や、表れる態度には、「そんなのなくても平気だもんね」という心の動揺を表面上に出したくない軽い強がりや、また逆に「愛情の永続的契約書」みたいなものを、こころの一部で必要としたりもしてきた。手に入るか、入らないかは別としても。
 それで、男だけの兄弟というものに話をかえる。
 アメリカに、サーフィンとそれに乗っかる人たちの音楽を作った人がいる。その軽快でいて、ときには切なすぎるバラードの名曲がたくさん残っていて、当人は、舞台(車の上には、ボードがあり、日焼けした髪を持つ子との恋などなど)を借りてきただけらしいが、圧倒的なまでに美しい音楽の群れたちだ。
 弟と友人や従兄弟たちとバンドを作り、本人はどれほどの自信や名声への憧れがあったのか知れない。しかし、ある立場に自分の場所を据え、そこを安住の地と定めると、ライバルたちへの強迫観念も生まれてくる。この地位は、いつか奪い去られてしまうのではないのだろうか?
 その頃、大西洋を渡り、リヴァプールから世界のアイドル(陳腐すぎる表現)になった音楽家たちがいる。そのドラマーは、
「ヴェートーベンの音楽は好きですか?」とのインタビューを受け、
「好きだよ、とくに彼の詞がね」という愉快な受け答えをする。
 彼らより、音楽的に優れ、またいかに大衆的に受けるのかを両立する必要に迫られる。
 また、おなじアメリカの地には、スタジオに潜り込み、その性能を最大限に知っていて、数十人のスタジオ・ミュージシャンを自分の手足のように使える人物がいる。風変わりな成功を導いた「音の壁」
 プレッシャーがあるなら、それが間違いなく前途に横たわる壁ならば、負けてしまうのも人生だろう。十代の子たちの憧れのイメージ「願えばなんとかなる」という、そういう薄い決断が入り込まない時間。
 その、ミュージシャンもライブ活動をさけ、必死にスタジオで強迫観念を払拭する作業をする。そして、あるときに壊れる。父親への愛と反抗を描いた自伝があり、それは、彼の心を強く打つ。
 といっても、兄弟関係の被害者でこの話を終えることも恐く、才能ある兄弟を、いとも簡単かのように生み出す女性たちがいる。
 ネヴィル・ブラザーズというニューオリンズを拠点にして立ち上がり、そのメンバーの4人の子供を生みながら、喝采も受けずに、金メダルのようなご褒美も勝ち得ず、それでいながらとても立派な母親がいる。彼は、青春期に感動的な「イエロームーン」というアルバムを聴いたので、そのことに、とても感謝している。
 ジャズには、その偉業を成し遂げた人たちの中に、ハンク・ジョーンズという人がいる。もう90歳近い年齢だが、はじめてピアノに触れた少女のように初々しい音が、そこからする。トランペットの名手の弟がいて、人の倍ほども、手数の多いドラマーの弟がいた。兄は、そのことに触れ「彼には、直ぐに亡くなった双子の弟がいて、その子の分まで叩いていたんじゃないかな」と話す。もちろん、その母親は、カーネギーホールで表彰されることもなく、どこかの地面に埋まっている。
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当人相応の要求(29)

2007年08月29日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(29)

例えば、こうである。
 弟の物語。
 誰かの弟であることの物語。2番目。
 そこには、前例があり、具体的な形として、洋服やおもちゃや、自転車などもある。
 2番目には、見本がある。追いかける対象が出来ている。その反面、比較の恐怖もあるのかもしれない。兄は、ああだったのに・・・。
 彼にも兄がいた。多少、いや結構な悪いことを外で行っていても、彼の兄の素行が酷かったので、親や周りから見ても、その行為は軽減される。追い越せない目標。
 しかし、そこはいくらか自立した他人で、女性への視点も大幅に違う。彼の兄は、自分が住んでいた地域の卒業アルバムをすべて一揃え持っていて、どのように手中にしたのかは疑問だが、そこからピックアップした女性に電話をかけていた。そのため、彼の家には、無数の地域限定だが、かなりの美女が訪れることになる。アクションを仕掛けること。
 それを目にする彼。反動なのか、もって生まれた性分なのか、純粋にも、自分にあっている女性は、世界中にひとりしかいないのでは? という確信的な疑問がもたげ、それが勝手に成長していく。しかし、そんな簡単におとぎ話が訪れるわけでもなく、確信を、崩れゆく砂のように、意図的にか、それとも自然にか崩していく。
 もう一人は、彼の同級生の話。
 野球をすることに秀でた兄。その才能は、全国的な大会に出場するほど。それは、とても素晴らしいことだと思うし、普通の気持ちで応援しもした彼。だが、問題は、あらゆる角度から眺めないといけない。その優秀な兄を持つ弟から聞いた話によると、比較される辛さを、その同級生は、そのことで惨めな気持ちを持ったということだった。その人は、かなり若く(そんな年齢で? というぐらい)家を出て、ひとりでアパートに住んでいた。感情移入がすきな彼(好きでなかったら、本など求道みたいな形で読んでいないだろう)は、問題を大きくしているのかもしれない。そんなに酷いことはなかったのかもしれないが、なんとなく、そういう大事業を遂げた人のそばにいる憂鬱を感じてしまう。
 
 大統領の兄がいる。革新という言葉がぴったりの姿と口調。ベトナムの問題も取り上げる。公民権運動にも関わる。アメリカがそういう時代だった。
 かなりな時代が過ぎても、もしかしたら数々のことを生き続けていたとしたら、その人は成し遂げたのではないだろうか、と希望を持つ。それを断ち切るアメリカの現実。
 弟がいる。1917年5月29日生まれの兄。その八年半後に生まれた弟。
 アイドル性のある兄より、もっと実務に向いていそうな容貌を持つ。弟が38歳と2日目の日、その男性の兄は銃で撃たれる。大切なものを失くすこと。家族内のヒーローの欠乏。
 その弟が、どういう気持ちを持ったかまでは分からない。しかし、兄が成し遂げたことは、多少の努力で、自分も近づくチャンスがあると思ったのだろうか。その地位への執念。選ばれし家族。
 選挙のため、あらゆるところを廻る。温室内とは、違う実際の日のあたらない人たち。そういうものに影響されたのだろうか?
 感情移入の好きな彼は、考える。もう一つの安易なストーリーを考え付き、それに溺れる。
 最初は、自分の権威やプライドが一人歩きしていたようなものだが、アメリカの国内中を廻り、未来を信じられない人々。もう直ぐ、ベトナムに行く人。クラスが違うように同じ架空の教室に入れない2流の人種の人々。
 そのような出来事や事実を目の当たりにして、普通の柔らかい心を持った人は、良い意味で動揺しないものだろうか? それとも、頑なに自分の育ってきた環境の意識を持ち続けるのだろうか?
 その人は、階段を登り始める。期待と、肩にかかる重荷。しかし、実務者は、実際的な方法を見つけ、解決していくのだろう。
 だが、歴史は悲劇的に流れを求め、1968年、その弟は6月5日に撃たれ、その翌日の6日に息をひきとる。明治から100年。暴力てきな回答。兄に追いつけない? いや模範どおりの弟。
 
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当人相応の要求(28)

2007年08月18日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(28)

例えば、こうである。
 誰かが、箱というものを発明している。中に物を封じ込めるものとして。その中にあるものは、自分のものだという確約として。
 子供の頃、大切にしていた宝箱。誰もが一時、持っていたものかもしれない。その人にしか分からない大切なもの。彼にも、そのような箱があった。壊れかけのプロモデルや、なにかの一部、正体不明なネジやボルトなどもあった。
 ある日、学校から帰ると、いとこのお兄さんがいて、その中の破片をつなぎ合わせ、ロボットを作り上げていた。その奇跡のような作業に驚いたとともに、所有権の問題がからみ、その完成品がどうなったかまでは覚えていないが、いくらか不愉快に感じたことを、彼は幼いこころながらも覚えている。つまりは、誰かの所有権。
 その箱が建物になり、中味も豪華なものに変貌していく。
 上野にある東京国立博物館。その裏側にある碑。初代館長の思い。
 町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。19歳で江戸に出て学び、慶応元年 (1865)に渡英、大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志し、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。文化財調査や保護を提唱 し、自らの財産を投げうって書・古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。明治15年に退職、仏門に入り、明治30年9月15日上野で 没しました。

 彼は、思う。自分は人の顔を覚えるのは得意だが、その逆に名前が覚えられない。もしかして、造形を印象付ける何かの方が、脳の中に多く組み込まれているのだろうか。
 博物館や美術館でなにかを見る。作品と対峙する。形や印象は、こころに残っているのだが、その作品名が記憶にないため後で困った状態になる。
 しかし、その所有の仕方。日本も一時、お金が膨らんでいく時代があった。不動産の無謀な価格の急上昇もあった。そんな時代に彼も成長した。そのお金を政策として地方にばらまき、箱を作り、中味をどこからか買ってきた。しかし、あまりにもそれは、収穫の少ない、実りの小さいものではないのか。
 大英博物館。巨大化していた大英帝国。その子供や孫のような植民地を世界のあらゆるところに抱え、そこから、根こそぎ所有権を訴え、持ってきている。その収穫の多さ。利回りの素晴らしさ。ある時代の国家の繁栄の仕方と、許されてきたものの違いと、傍若無人とが入り混じったもののように考える。そうした方法でしか、手に入れられない有数のもの。
 彼は、夢想する。その箱にまとめて、集約された形で所有されているものを出来るだけ見ること。こころは、ウイーンに飛んでいる。
 ハプスブルク家という王様の意地とプライドの400年間の記録として、まれにみる美術コレクションを保存している美術館がある。1891年、一般公開され、王様(もちろん女王がいれば含む)以外の庶民の好奇心ある目にも解放される。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している、ということになっている、そのなかでもブリューゲルの名作の数々、『雪中の狩人』『農民の踊り』『子どもの遊戯』など(彼は形はあれね、ということで記憶にはあるのだが、資料で調べてみないと全く名前はわからないのだが)、美術全集でおなじみの傑作が一室に納められている部屋があるらしく、彼はそこに足を踏み入れられる日がくることを、自分の人生に期待している。
 その名前は、端的にも美術史美術館。
 民衆の土臭い繁栄の土台(底辺として)のような生活に、郷愁と愛着と誇りをもっている彼。もし、格差というものが如実に、なくならないものとして世界に存在し続けるならば、その下側に居場所を見つけたいと思っている彼だが、ある多くの人々の手の技による世界の遺産に触れる機会を作ってくれるのは、植民地を有した国家や、ヨーロッパの繁栄の頂点としての王様や、一億円のばら撒きの結果としてであることを知る。その、アンバランスな世の中に、所有権の有無を計る。
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