爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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当人相応の要求(39)

2007年11月24日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(39)
 
 例えば、こうである。
 親愛なるヨナタン、あなたの愛は、女の愛よりも麗しいものであった。
 友情の話。短い人生のなかで、ひとときの安息の話。
 ときには、葛藤というものがあったり、適度な香辛料のようないさかいがまぶさったり、それが最後には解消される過程。ひとりでは生きることができない、小さな人間。また、大きな人間。
 岸田 劉生(きしだ りゅうせい)という迫力ある絵画を自分のものにした洋画家がいる。
1891年6月23日に生を受け、その生は1929年12月20日に幕を閉じる。油絵という、どこか絵画という西洋からの輸入品を、適度に模倣し、解体し、再構築し、立派な形に作り上げることが出来た人物。なんだ、日本人にも、これぐらいガッツある芸術を生み出す才能が潜在されているんだ、と若い彼は、驚愕する。そして、その作品を探すためにあちこちの建物に入る。数点、数点とこころの中に集めながら。
その自分の子供をモデルにしながら、(お父さんが子供を可愛く残したいという意図はないように思われるが)自分の変遷の過程が記録されていく。鬼気迫る歴史の重み。一人の人間の解体作業。
それとは、別に武者小路 実篤という人物がいる。おもに小説を書いている。茫洋とした絵画も残している。上手い下手はまったく抜きにして、その人物の素朴さと頑固さがしっかり刻まれている作品たちだ。
その作品を数十年後に読む彼は、理想を夢見る。結局のところ、究極はユートピアの存在と確立に励む、ということだ。そのお手本としての武者小路という人の一徹までの理想主義。それを、ある日、実行していることも知る。そんなことが可能なのだろうか。
1885年5月12日に生まれ、1976年4月9日にユートピアの叶わないこの世を去る。
1918年と1939年に宮崎と埼玉で「理想主義の嵩じた村」を設立し、そこに住まう。
彼も、そんなことが出来たらと、こころの中で簡単に願うが、育ちや家柄のバックボーンがあまりにも、違うことに気づく。
たまたま、別々に知っていることが、ある日ふとしたきっかけに合致してしまうことがある。それらの才能ある二人が交遊をもっていたことを知る。どんな会話がなされたのだろう、励ましあったのだろう、切磋琢磨をしたのだろう? と彼は想像する。実際の知識より、想像が勝るかもしれないので、事実は確認しないのだが。彼にも年代により、友人が訪れる。一緒に悪さをし合うことが友情だと思っている時期もあり、どんどん坂道を転げ落ちるように悪いこともした。持っていない知識やスタイルを得たくて、友人のようなものに自分を仕立て上げたりもした。そのような無理は、長く続かないらしく、いつの間にか終止符を打つ。
それで、今は、友情など、どういうものか見当がつかないでいる。まず、未来永劫という価値が自分にないせいなのかもしれない。しかし、誰もそんなことを真面目に考えていないのかもしれないのだが。
ひとりは長生きをし、ひとりは短い生を閉じるが、その途中でささやかだが、濃密な邂逅をもてたことに、ひとは確かな喜びと手ごたえを感じるのかもしれない。その後、残った方は喪失感を、軽くない程度に味わうときが待っているかもしれない。しかし、その感情が現存するにせよ、一時の喜びのほうが勝るだろう。
マックス・ローチというアメリカのジャズ・ドラマーがいた。居たということは、もういないわけで2007年の8月に、数々の戦いのあった人生をやめる。バンドにはメンバーが必要なわけで、その太鼓を叩く名人にとっての理想的なトランペッターを1956年に失う。自動車のいくつかが事故で廃車になり、その結果としてかけがえのない人物は、途中で夢多き生涯を中断せざるをえなくなる。
その人物の喪失感は、いかほどのものだろうと想像する。最終的には、もうそれ以上のメンバーが表れないことを、薄々だが、それを内包しながらも確実に登場しないことを知っている。失ったものの再登場だけが、その人物の憂鬱を消す。
だが、何度も重複するが、一時的にせよ、そうした仲が熱い抱擁と堅い握手のように、人間のこころの中にしっかり残り、時には、思い出せるような事実に、人の心は優しくとろけていくのだろう。
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当人相応の要求(38)

2007年11月18日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(38)
 
 例えば、こうである。
 人々の熱狂を浴びること。スポット・ライト。そうした事柄の最初は、一体いつからなのだろう。
 彼の記憶の中では、フランク・シナトラという歌手のステージで女性たちが群がり、絶叫しているイメージにつながる。独占とは、程遠いものだが、彼女たちはそれに対しては、特別思い入れがないようにも思われる。男性と女性の違いか?
 人々の注目に値する声を持つこと。そのイタリア系アメリカ人は、節回しによりもう20代という若さで、人気の絶頂に達する。唄がうまいということと感動と、芸術との隔たり。
 1915年に生まれた歌手は、この世の宝を持っていくこともなく、1998年の5月14日にステージから退場。永遠ではない甘い声。
 その後、1935年にアメリカの南部にスターの資質を持った男性が産声をあげる。腰を揺らしていたかは知らない。それから、メンフィスで唄のうまいトラック運転手になる。その地域のラジオから流れる黒人のリズムの取り方を習得し、そのロックン・ロールの申し子は、独自のスタイルを作っていく。
 流行の先端を敏感に感じる女性たち。荒々しい振りと、逆に官能的なまでの甘い歌声で人気を博していく。30年も経った日本の土地で、彼もその歌声に聴き入る。しかし、上手いとは思うが(もちろん、絶対的に重要なこと)思想的な面で(音楽に必要か? 一時的な若者の迷いの隙に忍び込むもの)何やら、物足りなさを感じてしまう。
 42歳という若さで、メンフィスで歩みをとめた男性。疲れた夜中、思想などが必要ない瞬間には、(そう物事を複雑に考えこめない時)その歌声がすんなりとこころに飛び込んでくる。帰りを忠実に待っていた犬のぬくもりのように。
 音楽は、流れていく。ラジオに乗る電波は国境を越える。レコードという物資もリヴァプールという港町に流れ着く。
 音楽に、思想を持ち込む男。ビートルズ時代を経て、丸い眼鏡が似合う男性。イマジンという究極的なまでの理想主義の賛歌。そこまで、若い人間の熱狂を受け止める思想の持ち主は、当然のようにそれらの一人に撃ちぬかれるという結末が待っているのではないだろうか?
 40歳の男性が、ニューヨークに倒れている。それでも、銃になんら規制をしない国家。20世紀の宝は、いとも簡単に失われていく。
 アメリカはベトナムに行く。その行為自体にBGMが必要になってくる。この時点で、ロックスターというものに陰りと失笑が入ってくるのではないだろうか。
 その列にジム・モリソンという男性が並ぶ。その隊列に通じるドアを開けるように。その容貌と熱唱が、この一員になることに許可されていたようだ。数々の歌声と、美しい詞をひっさげ登場する。時代が、このような存在を必要としていたように。ポップソングとしては長い曲もあるが、それを聴くアジアの片隅の彼は、(生まれていた頃は、自分と同系色の人間が狙われていたにも関わらず)飽きることなく、感動に震えている。登場があれば、退場もあるように、あらしの中を過ぎ行くバイク乗りのように、27歳という若さで、あっという間に消える。もっと、やる気の失せた時代に入っていくのだ。
 1980年代に入り、アイルランドから世界へと拠点を変えていくバンド。彼は、自分の人生のBGMとして、「ヨシュア・トゥリー」というアルバムを手に入れる。世の中は、レコードからCDに代わっていた。
 20歳のときに、なぜか一枚のチケットが郵送され、東京ドームでのライブを観ることが出来た。自分と同じように、その音楽に熱狂する、他の人々と時間を共有することが不思議に思われていく。そこのヴォーカルの人は、徐々に政治的な活動を深めていき、音楽という範疇から消えていくようにも思われていき、その分だけ、彼のこころの中からも消滅していく。
 言葉による共有。自国語の音楽。1985年8月12日。飛行機が墜落する。そこにいる搭乗者。もちろん、命の価値に優劣はないのだろうが、彼にとって、そのロックというスピリットを唯一もっていた男性が消えていく。象徴的に聴こえる「見上げてごらん、夜の星を」という歌声。
 いくつかの、心の上を行過ぎる登場と退場。女性たちの熱狂と、かすかな男性の支持。それは一体、どちらが重要なのだろう。
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当人相応の要求(37)

2007年11月10日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(37)

例えば、こうである。
 それぞれの見本。展示会。親の職業により受け継ぐ、それぞれの考え方の差異。商売人の家には、広告代というある種の損害を受け入れる器量が出来上がるのだろうか。
 世界的な商売の展示とアプローチ。万国博覧会。
 第一回は、1851年のロンドンで開催とされている。クリスタル・パレスという建物。 
 さらに、そのイベントは続き、1867年のパリに至る。明治になる前の日本の藩主たちも、威信をかけて、見本を持ち込む。その中には、浮世絵がある。誤解されるイメージ。卑猥なものとして、いまだに一部の人は考えているのだろうか。
 しかし、パリには絵描きがいる。印象派、という一種、奥行きを無視していくような技法。その、考え方にインパクトを与える、日本の浮世絵。絵画は、やはり平面に戻ってもよいのではないか?
 二次元的なものと、三次元的なもののぶつかり合い。もちろんのように、優劣は関係なく、それでも、新しいものを求める人には陳腐化していき、立体的に対象を捉える人たちも出てくるし、物や人間自体の形状を破壊して、それでも美術に仕立て上げる才能を有する人たちも登場する。直ぐに、世の中に受け入れられなかったとしても。
 やっと、今になって「見返り美人」てきなものと、印象派のパラソルを持って絵画に閉じ込められたモデルを並列に置くことが出来るようになった彼であった。
 1900年には、世紀が変わる象徴のようにパリには、エッフェル塔が存在している。日本のブームの熱は冷めていく。もっと、退廃的なデザインが受け入れられていく。
 急に、時代は飛び、1970年の大阪。そびえたつ、一つの塔。その人の言葉。芸術家の狂気。
「わたしは、自分の父親でもあり、自分の子供でもあるのだ」ものを、創造する人の野心ある言葉。そのぐらいの考えがないと、創作などに打ち込むことは出来ないのだろうか。
 彼は、大阪という町を知らない。そこには、リアルな人生がありそうだし、排他的な考え方もあるかもしれないが、数年暮らしてみたら、人生に対して、違った価値観を学べそうな気もするが、それは、実行できるのだろうか。仮りの体験として、『水曜の朝、午前三時』という美しい小説で、その一部を味わえるような気もする。
 つくばという学園都市。リアルさの希薄な街並み。1985年。日本の経済的なピークの外面への漏れ。彼も、二度、学校の行事の一環として、そこを訪れる。科学技術の結晶。もしかして、科学の力で、この世の中は良くなる、改善されていくのではないか、というまったくの幻想。日本のその頃に育った人間の、機械や小さなメカへの憧れ。新製品の数々。
 彼は、「松下館」という所に設置されていた似顔絵を描くロボットに、自分の肖像を描いてもらいたかった。一体、ロボットにどこまで出来るのかという、具体的な証拠としても。しかし、抽選にあたったのは、彼のクラスメートで、その描かれた紙を、彼は羨望の眼差しで見ることになる。そして、「良く描けているな」という感動も持つことになる。
 それぞれの会社の方針。ある企業は、そこに駐在しているコンパニオンを自社の社員に勤めてもらった、という記録も残っている。会社という、日本てきな仮初の家族の在り方。
 それぞれの、電器関係の企業は、そのようなアピールをしなくても、世界的に広まっていくのは、時間の問題だったような感じを受ける。ジョギングをしながら、耳に音楽を詰め込む人たち。テレビという自分の実人生より、加担してしまう等身大の他人を写す受像機。世界のどこにでも表れる、それらの会社のロゴ。広告と、実際的な商品の性能。
 2005年の愛知。地球への賛歌。壊れゆくもの。その土地を土台にして、優秀な車を世界に運び続ける企業。
 会社員であること。商売人であること。表現者であること。それぞれの受け分と、能力と、惑わされるこころがある。しかしいくつかのことは、誇大になっても、自分をアピールしなければ負けだよ、という社会の風潮。人に知られず、山奥の片隅で、陶芸を作っているという浅はかなイメージ。
 世界は、一つになりつつあるという一種の希望と幻想。短期間のアピールの場。一人ひとりの人間にも突然に訪れる、短時間のアピールの場。それを、力ある人は、掴んでいくのだろう。
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