爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

とっくりとチョッキ(6)

2017年04月29日 | とっくりとチョッキ
とっくりとチョッキ(6)

 絵についての勉強を一切してこなかったような自称画家が描いたような武骨な雲が、雨の翌日の空にぽっかりと浮いていた。下手でも稚拙でも空にあるのは事実であり、上手で器用な産物であろうと、偽ものもあった。両者は混在としている。ある経過による日数が、そのバランスの危うさを正してくれる。正してほしいと望むひともわずかなのに、期待にこたえるのが、人生に求められる。

 可愛さに資格や訓練もなかった。ある夜の父と母(ある昼の母とビトウィーン・マンの愉悦)の奇妙なバランス(コーヒーの好みの砂糖とミルクの分量に似た)の上に成り立つのだ。

「いままで会った、一番、可愛い子を教えて? な?」

 とマリアは質問する。ぼくは何拍か考える。
「やっぱり、マリアだな」
「やっぱり……」
「ささいなことばに意味なんかないよ」

 あるアイドルは十六という年齢を流動的な経過の一断面ではなく限定的に、断定的にうたった。歌詞の一部として封じ込めた。まだ十六だから。もう五十数才だから。立派な五十数才だから。これでは、詩人の才がうたがわれる。素人詩人という定義も、それも悲しいものだった。プロの詩人たる資格も分からない。年収一千万を越えた詩人のみがプロなのか?

「その年齢のころなら、みんな可愛いよ」
「みんな?」
「なんか絡むね。闘牛みたいだよ」

 マリアはその真似をする。道化師。クラウン。女性の生存確認欲求。愛のことばを耳の奥に達することを望み、その結果としての形も求めた。指輪。アクセサリー。ときにはマンション。ぼくと類似した容貌のひとりは原始人からわずかに知恵を有しはじめる者となり、妻たるいつもいっしょにいるものと子どもたちのために丸太を組み合わせて家を作る。建てるという状況までは届かない。緻密な計算もないころである。しかし、その資質が近隣からほめられ、他のものたちのためにその役目に専従することになる。

 自分の家を見栄え良く作り直し(これはショールームと同等なのだ)商売としての屋号らしき看板を打ちつける。のれん代。浴衣代。しばし、脱線。代価として肉の塊が運ばれる。誰かがケチャップやマヨネーズを発明する。味が数段、向上する。彼も商売をはじめる。あるものは指導に長け、王様となる。王様の子どもも王様になり、ぼくの子どもは彼のお世話をすることになる。

 その末裔にぼくがいて、どこかの家族の下流にマリアが訪れる。奇妙なバランスを勝ち得た愛らしい表情を有する者として。川にモーセが流される。ぼくらは川で拾う。鬼退治をする大人になってほしいと思うが、なんだかいじめられっ子に育ってしまう。ある日、癇癪を起して奇蹟に似たものを実現する。まだ十六なのに。もう大分おとなになったのに。

 ターナーが描くような黒い雲が近付いてくる。



(律儀なペースを厳守する、いち読書家、一介の愛書家に戻ろう)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とっくりとチョッキ(5)

2017年04月22日 | とっくりとチョッキ
とっくりとチョッキ(5)

 ぼくはマリアに、「大きくなったら何になりたかった?」と質問する。それは大人になっているということをお互いの認識以上に前提にして、きちんと認めているから成り立つような問いかけだった。

「大人かどうかは分からないけど、ルーズ・ソックスを履いて、お尻がぎりぎり見えそうなミニスカートを履きたかった」となつかしそうに答える。ぎりぎり見える? ぎりぎり見えないが妥当か。大人は意に反して訂正が好きだった。なるべくなら、正そうとする。癖ひとつ直せないのに。

「ソック・タッチをつけて?」
「なに、それ?」

 ぼくにとってそれらの恰好をしている子たちは恋愛対象の範疇の外にいた。ファールのエリア。余りにも年下過ぎた。しかし、その子らに憧れをいだいていたひとりの子を愛と呼べる状況に無条件に置いていた。愛に条件など、なかろうが。

 ぼくは彼女にとって未知なものを説明する。年長者の覚悟をもって。靴下がずり落ちないように微量な接着剤で足にくっつける。それにしても、もう売っていないのだろうか? 戦後、女性とストッキングは強くなりましてね、と架空の独り言をもごもごと言う。落語家のような口調を想像して。

「顔の黒い子たちもいたよね」

 流行というのを誰かが、どこかで作り出しているのだろう。そのうちのいくつかがベーシックなものとして格上げされる。画期的な新製品が定番と化す。ぼくは仕組みなど知らない茫洋とした時期に無限の郷愁を感じている。裏取引のない世界。剥がれ落ちる世界。白い脛がまる見えとなる幻想。

「かぶれないの?」
「かぶれたかもね。でも、なんで、ずり下がっちゃいけなかったのだろう」
「美しいからじゃない」

 美の観念もひとそれぞれだった。

「じゃあ、我慢を強いられている?」ぼくは、若い、より経験に乏しいものに質問を重ねている。寒い夜に毛布を身体に優しく載せるようにして。
「我慢ってことでもないんじゃない。ただ、そうあった方がきれいだから」
「きれいの反対って?」
「汚い。不作法」
「無粋」
「ブス?」

「違うよ、粋ではないってこと」蕎麦の先を、こうちょっとだけ汁につけてね、とぼくは落語家の口調をまねる。ぼくはひとりだけの試行錯誤で完全となる世界に住みたかったのだろうか? 「それで、なったの、ソックスとミニスカートに?」
「なるわけないじゃん。時代が変わったから」

「美意識も変わると」カレーうどんに哲学もない。オスカー・ピーターソンにも哲学がない。大衆食堂といっしょだ。刺身やさんま定食もあれば、焼きそばもある。グレン・グールドには哲学が一音ごとにある。ドにもレにも。優劣をつけるつもりもない。間口は広い方が良いのだ。ウナギの寝床にしても。

 マリアはその食堂の店主が奏でるピアノに合わせて鼻歌を歌っている。毎日、ウニでもキャビアでも困るだろう。マイ・フェア・レディー。ぼくはついうとうとする。長い靴下のマリアが次第に貴婦人となる。ぼくは執事となって彼女の無理な要求に応じている。幸せって、理屈っぽく考えなければ、そういうものなのかも。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする