当人相応の要求(25)
例えば、こうである。
何気ない日常の一瞬。誰もが、忙しさにかまけて忘れてしまうような一コマ。眠っている間に行われている、地球の裏側の、ある人の微笑や嫉妬の表情。ネガティブとポジティブ。
その貴重な瞬間を、四隅をつけて、半永久的に残す人たち。四角い、黒いものを持つ手。真ん中にはレンズの光。
写真を通して、言葉での説明が省けることがある。逆に、もっと、多くの言葉が、その四角い写真を通じて、脳裏を駆け巡ることもある。カメラがあって、生まれた世代。現在は、ビデオやもっと高性能のものが普及しているのかもしれないが、人生にとってカメラぐらいが妥当ではないのだろうか?
もし、落ち込んだときに、古い写真を見返すことが画になったとしても、自分の幼いときの映像を見返すというような行為があったとしたら、それは、いくらか病的にみえる。
その日常のさり気ない場面をのこすことの名手に、彼は触れる。名手たちの手には、当然のように武器が。
1913年、ライカの前身をオスカー・バルナックという人が作り上げる。当然のように、改良と技術の革新と、工学的な発明とがあいまって、良く出来た装置が作り上げられる。
その使い手。アンリ・カルティエ=ブレッソン。この物語に顔を出す彼は、さまざまな芸術のとりこになっていく。ある日のこと、勤勉に働いて疲れた夕方、雑誌をめくっていると、近くで写真展が行われていることを知る。その紹介されている小さなモノクロの写真が彼を捉える。そして、こう考える。「行ってみよう」
その飾られている部屋に入ると、沈黙が彼を襲う。世界をこういう形で捕らえることもできるのだ。こうした愛情ある優しい目で眺めることも可能なのだと。そして、さらに貴重な一瞬を、自分で記憶することだけではなく、写真という形式に納めて、人を慰めたり、活発なこころの原動力になることもあるのだと。
知識が知識を呼ぶ。さらに、もっと、吸引力を呼び寄せる。
1913年、ブタペストに生まれたフリードマンという男の子。スペイン内戦で、「崩れ落ちる兵士」という写真で颯爽と、名前が知れ渡っていく。デビューという名の響き。ロバート・キャパという名前になっているその写真家は、ノルマンディー上陸作戦でも、さらに一層名をあげる。でも、あれは名写真なのだろうか? 彼は、疑う気持ちが出る。あまりにもポスター的なきれいさに、慣れきってしまった目。しかし、見続けると分かってくるものもある。
写真を撮ることか? それとも自分の人生をクリエイトさせる方が人間として、相応しいのだろうか? 1954年、インドシナ戦争を取材するために現地に向かうカメラマン。そして、40年という若さでこの世から去る。自分の劇的な作品が追いかけてくるように、その写真家も不吉な予言から離れられないように最後を迎える。
そして、ベトナムにいる日本人。懸命な、生きる意欲と動機をむしりとられてしまうような人たちを撮った沢田教一という写真家。29歳で、ベトナムの町をうろつきまわる。どういう心境なのか、彼には分からない。その大国の腕力の誇示のような戦争の中で、一体誰と誰が犠牲者なのだろう? しかし、あの混沌としたカオスがなければロック・ミュージックの成熟などなかったのだろうか? 彼にとっては、それも困るような一面をもっていた。
あまりにも、リアル過ぎる写真たち。束の間でも良いので、幸せになってほしい、というささやかな希望。彼は、その撮影した側の人物像をテレビで知る。もちろん、その時には、この日本にも、また世界のどこにもいなくなってしまっている人。1970年。カンボジア・プノンペンで殺害される。世界の中の一人の男性の死。その記録。ベトナムでの、苦しむ人の記録。その反対に、記憶にも、誰かの口にのぼることもない無数の人々の無意味な死。それと、無意味ではないロック・ミュージック。
彼もある日、カメラを手にしている。多くの日本人の一人のように。決定的な瞬間も、おぼれる人の命がけの救出も、世界の大事件の目撃者として名をあげることもないだろう。だが、大切な人の笑顔だけでも、切に残したいとは思っている。
例えば、こうである。
何気ない日常の一瞬。誰もが、忙しさにかまけて忘れてしまうような一コマ。眠っている間に行われている、地球の裏側の、ある人の微笑や嫉妬の表情。ネガティブとポジティブ。
その貴重な瞬間を、四隅をつけて、半永久的に残す人たち。四角い、黒いものを持つ手。真ん中にはレンズの光。
写真を通して、言葉での説明が省けることがある。逆に、もっと、多くの言葉が、その四角い写真を通じて、脳裏を駆け巡ることもある。カメラがあって、生まれた世代。現在は、ビデオやもっと高性能のものが普及しているのかもしれないが、人生にとってカメラぐらいが妥当ではないのだろうか?
もし、落ち込んだときに、古い写真を見返すことが画になったとしても、自分の幼いときの映像を見返すというような行為があったとしたら、それは、いくらか病的にみえる。
その日常のさり気ない場面をのこすことの名手に、彼は触れる。名手たちの手には、当然のように武器が。
1913年、ライカの前身をオスカー・バルナックという人が作り上げる。当然のように、改良と技術の革新と、工学的な発明とがあいまって、良く出来た装置が作り上げられる。
その使い手。アンリ・カルティエ=ブレッソン。この物語に顔を出す彼は、さまざまな芸術のとりこになっていく。ある日のこと、勤勉に働いて疲れた夕方、雑誌をめくっていると、近くで写真展が行われていることを知る。その紹介されている小さなモノクロの写真が彼を捉える。そして、こう考える。「行ってみよう」
その飾られている部屋に入ると、沈黙が彼を襲う。世界をこういう形で捕らえることもできるのだ。こうした愛情ある優しい目で眺めることも可能なのだと。そして、さらに貴重な一瞬を、自分で記憶することだけではなく、写真という形式に納めて、人を慰めたり、活発なこころの原動力になることもあるのだと。
知識が知識を呼ぶ。さらに、もっと、吸引力を呼び寄せる。
1913年、ブタペストに生まれたフリードマンという男の子。スペイン内戦で、「崩れ落ちる兵士」という写真で颯爽と、名前が知れ渡っていく。デビューという名の響き。ロバート・キャパという名前になっているその写真家は、ノルマンディー上陸作戦でも、さらに一層名をあげる。でも、あれは名写真なのだろうか? 彼は、疑う気持ちが出る。あまりにもポスター的なきれいさに、慣れきってしまった目。しかし、見続けると分かってくるものもある。
写真を撮ることか? それとも自分の人生をクリエイトさせる方が人間として、相応しいのだろうか? 1954年、インドシナ戦争を取材するために現地に向かうカメラマン。そして、40年という若さでこの世から去る。自分の劇的な作品が追いかけてくるように、その写真家も不吉な予言から離れられないように最後を迎える。
そして、ベトナムにいる日本人。懸命な、生きる意欲と動機をむしりとられてしまうような人たちを撮った沢田教一という写真家。29歳で、ベトナムの町をうろつきまわる。どういう心境なのか、彼には分からない。その大国の腕力の誇示のような戦争の中で、一体誰と誰が犠牲者なのだろう? しかし、あの混沌としたカオスがなければロック・ミュージックの成熟などなかったのだろうか? 彼にとっては、それも困るような一面をもっていた。
あまりにも、リアル過ぎる写真たち。束の間でも良いので、幸せになってほしい、というささやかな希望。彼は、その撮影した側の人物像をテレビで知る。もちろん、その時には、この日本にも、また世界のどこにもいなくなってしまっている人。1970年。カンボジア・プノンペンで殺害される。世界の中の一人の男性の死。その記録。ベトナムでの、苦しむ人の記録。その反対に、記憶にも、誰かの口にのぼることもない無数の人々の無意味な死。それと、無意味ではないロック・ミュージック。
彼もある日、カメラを手にしている。多くの日本人の一人のように。決定的な瞬間も、おぼれる人の命がけの救出も、世界の大事件の目撃者として名をあげることもないだろう。だが、大切な人の笑顔だけでも、切に残したいとは思っている。