爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(7)

2011年12月31日 | Untrue Love
Untrue Love(7)

 木下という女性が今日も丁寧に靴を並べていた。そこは、彼女のステージのようだ。ぼくは、隣で食材や飲み物の瓶を運んでいた。与えられた脇役の仕事。でも、脇役のいない主役もない。この仕事で、腕はかなり鍛えられ、何らかの持ち方や担ぎ方のコツを覚える。ここで春から働いたのでやっと半年ぐらいが過ぎたことになる。ぼくは、一度その彼女と食事をした。それ以降、何の進展もなく、それゆえに同じ理由で後退もなかった。

「話しかけてこないね」
 ぼくが横を通り過ぎるとき、彼女は視線の方向を変えずに、口だけを動かした。
「ぼくに?」ぼくは、腹話術におどろく子どものような気持ちでいた。
「そう、誰かほかにいる?」しかし、誰かいたのだ。
「久代」と、別の従業員が彼女に話しかけた。「あれ、どこにあったっけ?」何か探し物をしている女性が彼女の後方にいた。ぼくは、また元の作業に戻る。彼女はテキパキと動き、何かを手渡し、同僚からふたたび離れた。

「話しかけてこないね」木下久代さんは、もう一度、同じ言葉を発した。目の方角はすこし違っていたが。
「用がなかったから」
「何か用ぐらい作れるでしょう?」
「例えば?」
「それは、自分で考えてよ」
「あの階段の上の意味、どういうことですか?」彼女は駅の階段でぼくの頬に唇で触れた。それは咄嗟のことで、ぼくは避けることもできず、かといって、その瞬間を楽しむこともできなかった。

「じゃあ、あとで、ゆっくり説明してあげる。終わったら、待ってて」
「はい」ぼくは、一日の業務のすべてを片付け手を洗った。ついでに、顔にも冷たい水をかけた。それは、10代の終わりの時期で自分というものがかたまりはじまる頃でもあった。漠然といままで出会った人間の数と、これから出会う人間の数を比較して、スタートに立つ自分には何もはじまっていない事実を知る。それから、木下さんという女性が、ぼくのこころに入った何人目かの女性だった。高校のときに付き合った女性はいた。彼女はいつかほかの男性になびいたが、直ぐにその関係は終わったらしく、ぼくのところに戻ってこようとした。だが、自分は確かにいまだに好きでもあり、未練があったが後戻りはしなかった。何となく、彼女を許せないまま卒業した。彼女は最後に手紙をくれたが、ぼくは制服のポケットに入れ、読む前にそれはどこかに落ち、ぼくは読むこともできなかった。それでも、無意識にそれを読みたくない気持ちの表れだと思っていた。読んでもいないものに返事もできず、ぼくは大学に通いはじめ、別のところに住んだ。

 それで、ぼくは突然、自分の頬にキスをする女性の気持ちなどまったくもって分からなかった。経験というものに乏しかった自分は、あれこれ模索することしかできず、解決も回答もない。ただ、疑問にもっていても、ふざけただけであり、それを蒸し返すことは恐かった。逆に恐いからこそ、面白そうでもあった。

 彼女は制服を脱ぎ、自然な状態にもどった。自分に似あうものを知っているらしい。とても魅力的で通用口からでてきても、そこだけ華やかなものに思えた。
 ぼくらは、ある店で向かい合って座る。彼女は指を組み、細い指輪をいじった。
「あれね」ふと、思いついたように話し出す。「猫同士がじゃれあうようなものよ。山本君、学生時代、そうだ、いまでも、学生だけど、もてた?」
「さあ、一度、逃げられたことはあるけど。それは、もてた人間の発言じゃないですよね? 久代さんは?」
「どう思う」
「きれいだから、たくさん声をかけられるでしょう」
「でも、勉強ばっかりした。もったいないぐらいに」
「そうなんですか。でも陰でたくさんのひとが見てたんじゃないですかね、分からないけど」
「ずっと、優等生でいたかった。みんながそう望んでいるもんだと思っていたから」
「みんなって?」

「みんなって、学生のときは、親とか先生だよ。小さな世界」
「でも、いまは、たくさんのひとに靴を売ってる」
「靴が好きなんだ。ただ、足を冷たさとか道路とかから守ればいいだけなのかもしれないけど、きれいでしょう? 形も」
「そこまで、考えたこともない」
「じゃあ、次は、女の子がどんな靴を履いているか、見て、誉めてあげて」
 ぼくは、視線をずらし久代さんの靴を見た。華奢でありながら、受け止める力を持っているような不思議な靴だった。
「考えます」
「考えてばかりいないで、実行してね。そうだ、今度、休みがあったら、映画でも見ない?」
「ぼくと?」

「ぼくと。平日しか休めないと、誰か誘いづらくて」
「いいですよ。休みは外に出て、太陽を浴びないと」
「映画館も室内だけど、その前後は外だからね。じゃあ、電話する。それで、して」
 ぼくは、何桁かの数字をもらう。高校のときの彼女は、家の電話に親がでた。それを乗り越えるもどかしさがあったが、いまは自由の感覚が増えた。ぼくは、それを落とさないように財布にしまった。無意識に落としてしまった手紙をその後、誰かが拾い読んだのだろうか。それとも、どこか人目につかないところで、その気持ちは眠り続けているのだろうかと夢想した。ぼくらは、店を出て、また彼女は階段の上でぼくの頬に触れた。それが、疑問として残るのか、ただ一過性の記憶で落ち着くのか、ぼくには、もう分からなかった。
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Untrue Love(6)

2011年12月26日 | Untrue Love
Untrue Love(6)

 バイトが終わり、2週間に一度ぐらいは帰りに近くのお店に寄るようになった。ぼくは椅子を片付け、一度、見返りにおごってもらった。その後も、何度か誘われるがずっと無視するのも現金すぎるので、一度、寄った。それが繰り返される恐れもあったが、ついつい通う羽目になった。

「それで、ふたりは、どういう関係なんですか?」ぼくは矢口さんという女性に訊く。彼女は細身な女性だが、料理を担当しているのは大柄な男性だった。急に酔ったひとが暴れても簡単に抑え込むことができるような腕の太さを持っていた。そのふたりだけで店を切り盛りしていた。

「どういう風に見える?」
「普通だったら、夫婦とか恋人がはじめた店のようにも見えるけど。でも、つまり、その、彼は・・・」
「男性の方が好き」
「若気の至りで、衝動的に店を始めるようなふたりでもない」
「店なんか、結構、入念に計画するものだよ」彼女は、カウンターの前に陣取り、ぼくの目を真っ直ぐに見ていた。その視線は、ぼくの奥まで筒抜けるような力があった。
「うん、分からない。降参」
「兄弟だよ」

「誰が?」ぼくは、疑問をそのまま出すのではなく、その意見にささやかな抵抗をする。
「わたしたち。姉と弟」
「体型がそんなに違うのに?」
「彼は、後天的に鍛えたから。身体も料理の腕前も。つまりは、努力のひと」
「いつみさんは?」
「思いつきの人間。衝動的、咄嗟的。右脳の人間」
「でも、店をやるために計画を練った」
「それも、衝動的。家を飛び出し、ぶらぶらしているところ、母が急逝。急にいなくなった。私たちには父の印象があまりなく、彼女の働きだけで育てられた。それで、店も宙ぶらりんになるところだったけど、兄弟で、ここぐらいは守ろうかと。それで、いま居る」

「波乱万丈。残された砦」
「そうでもないよ。弟は、どっちにしろ、店のなかで働くような仕事を希望していたし、よその店でも経験があった。わたしは、なんとなく、それに乗った。衝動的に」
「で、良かった? 衝動の結果は」
「ひとから避けるようなことを、若い頃、たくさんしたけど、ひとと触れ合うことが根源的に性に合ってるんだね。正解だった。わたしにとってはまぐれだけど」
「そう見えます。性に合ってる」

「じゃあ、はい、おかわりを勧める」彼女は、にっこりと笑う。その母という人も、このような笑顔ができる人間のようにも思えた。「勉強、わたし、苦手だった。苦痛のかたまり。順平くんは?」

「人並みに好きじゃないけど、しておけば、いろいろな選択の機会がひろがるから」
「銀行員にもなれるし、医者にもなれる。頭がよければ」彼女のその短絡さを可愛く思う。

「うまい料理を、毎日、同じ程度に作れる方が、ほんとは、偉いんだよ。はい」と言って太い腕がぼくの前に差し出された。彼女の弟。「食べてみなよ」ぼくは不思議とこの兄弟から気に入られた。後で知るが、この店を訪れるひとは彼らの母の時代からの常連たちが多く、新たに顧客を開拓する努力がいらなかったための反比例に思えた。そのため、いまでは徐々に店のなかの平均年齢はあがっていき、そして、大勢の人数をつめこめるほどそれほど店内も広くはなかった。

 弟の視線は、ぼくの食べる様子をしっかりと眺めている。自信と不安の共存がその目のなかにあった。でも、実際にどれもおいしくバイトが終わったあとの疲れた身体には、体力を回復させるエネルギーがそこにあった。
「おいしいです。単純においしいです」

「順平くんは、とっても、素直なんだよ。可愛いね」いつみさんは、ぼくのことも弟のように見つめている。そして、こんな発言をした。「また来るといいよ。常連さんは、いつも、同じ味を食べたくなる。何か創るひとは、もっと新しいものを望んでしまう。その試食もいる」
「おいしいものを食べるモルモット」ぼくも笑顔で答える。
「いつか、順平くんの名前をモチーフにした料理を作るよ」彼は奥に戻り、代わりに皿を洗う音がした。店のなかも閑散とし始め、ぼくも家に帰る支度をする。いつみさんも洗い終わったグラスや皿を拭き出した。丁寧にこすり、キュッと乾いた金属的な音が両手のどこかからした。
「終わって、家で食事するんですか?」
「別々の場所に住んでる。彼が、このあと、どこに行くか知らない。明日の昼過ぎまで、まったくの自由。わたしも、たまにひとりで飲む。今度、付き合う?」
「いいですね」

「約束したよ。今度ね。おやすみ」ぼくはその言葉を投げかけられ、店の外に出た。外は都会の特有のにおいがする。汚れて、かつエネルギッシュだった。その粒子が肌にぶつかるようだった。それも、いまは寝静まろうとしている。最終電車はそれでも熱気があり、酔ったひとのにおいと疲労が車内に充満しているようだった。ぼくも、そのひとりで、ぼくの存在を認めてくれるひとがこの夜の町にいることが嬉しく、高揚した気分のまま空いた座席にすわった。そのまま眠ってしまうような感じがして、起きているのに少なからず努力がいった。
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壊れゆくブレイン(7)

2011年12月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(7)

 ぼくは、およそ20年ぐらい前にある女性に出会ってしまい、自分のこころが縛られてしまった事実を思い出している。まだ、世界は未知なものであり、女性も自分自身に対しても同じような状態であった。

 いま、仕事をしながら机の前で空想している。あれを、もう一度自分はしなければならないのだろうか。その相手は39になっていて、ひとりの女の子の母でもあった。それでいながら、ぼくのこころにはもうひとりの女性が眠っていた。永久に年をとらない彼女。36歳で自分をストップさせてしまった裕紀。ぼくは、片付けられないタンスの奥の衣類のように、ずっとそれを探しも隠しもしないのだろう。ただ、それはずっとそこにあるはずなのだ。ぼくの何らかの記念碑のように。

 ぼくは、電話を待つ。そして、たまに電話をする。誰かのちょっとした揺れ動く機嫌を心配し、それが直ぐ横にいないために、反応を心配したり、些細な誤解の言葉を弁明したい気持ちになったりもした。それは、まるで10代の恋のはじめのようだった。

「ママは、最近、うきうきしている」道端で会った広美は、そんな言葉をぼくに投げつけた。何によって、こころが軽やかになっているのか、ぼくは事実を知りたいと思うし、また、知りたくもなかった。自分の存在の影響によるものなのか、また、別の何らかの要素があるのか、判断に困った。広美は友人、数人と駆けるようにそのまま消えた。その前にこちらを振り返り、小さな声で友人に何か言い、それで笑った。

 ぼくは、裕紀に対して申し訳ないようにも思っている、ぼくは、いつも自分の都合で彼女を排除するように思えたからだ。ぼくのルートにはいくつかの逃げ道があり、裕紀はそれを塞ぐように立ちはだかっていたのだろうか。ぼくは、そのような立場にいる彼女と夢で会い、不思議なくらい動揺して、みにくい言い訳を述べていた。彼女はかげろうのように消え、責めも叱責もしなかった。彼女は、ただ現れては消える蜃気楼のようなものなのだろう。ぼくは、それを掴み切れなかった。そして、寝汗をかいて目を覚ます。

「近藤、お前、なんか、さっぱりしてきたな」社長にある日、そう言われる。「離別した男性の陰のようなものが見当たらなくなった」
 ぼくは無言で彼を見返す。そして、その陰を探すように、自分のシャツの袖をみた。そんなことをしても何も解明にはならなかったが。

「そうですかね。自分ではなにも分からないですけど」
「分かってもらっても困るよ、自分の雰囲気なんか。でも、良かったよ」彼の視線には自分の息子の成長をいたわるような優しさがあった。ぼくは、それを立ち直る合図のように捉えていた。

 ぼくは、それから深酒をあまりしなくなるようになっていった。昏睡するような形で酔いつぶれるようなこともなくなり、部屋を清潔にして、前向きに人生にトライするような気分にもなっていった。

 ぼくは、ある日曜、以前、バイトをしていた店に向かった。その扉を開ける。誰かが入って来た音が鳴り、奥から店長が表れた。その前に、ぼくは野球のグローブが放つ革のにおいを嗅ぎ、さまざまなスパイクやユニフォームのにおいも感じた。それは、まさにぼくの青春のにおいのようだった。
「お、近藤か」
「お久し振りです」
「この前、まゆみに付き合ってもらったみたいで。どうだ? 迷惑かけなかったか?」店長の髪には白いものが混じり出していた。だが、その少年のような好奇心と兄貴ぶりは消えないまま残っているようだった。
「いえ、こちらこそ、かなり落ち込んでいる時期だったので、助かりました」
「大変だったよな」

「まあ」
「誰かに、親しい人間には多少の迷惑はかけるもんだよ。それが、友人だし、知り合いだし」
「まゆみちゃんからも同じような雰囲気がでてましたね。さすが。親子」
「あいつは、そう言われるのを嫌う。思春期だから」と、言って彼は背後を振り返った。奥からまゆみがでてきたのだ。
「やっぱり、ひろし君の声だ。最初に会ったとき、わたしに気付かなかったんだよ。ひどくない」
「かなり年数が経っているから、仕方がないよ」その父は、ぼくの代わりに弁明してくれた。
「で、どうしたの?」
「酒にのまれる休日をずっと過ごしていたら、ほかの楽しみが分からなくなってしまった。妻もいないしね」ぼくは、自嘲的に答える。およそ、一年、そればかりをしてきたのだ。ぼくはふと時計を見る。その長かった歳月がその秒針に記録されてでもいるかのように。

「じゃあ、わたし、付き合ってあげる」
「いいのか?」店長は、ぼくに弱々しく訊ねる。
「いいですよ。気付いてあげられなかった反省もあるし」
 彼女は小さなバックを肩からぶら提げ、ぼくといっしょに店をでた。かといって、なにもすることがなかった。ただ町をぶらぶらし、しらふの状態を楽しんでいた。ぼくは誰かとしゃべる必要を感じ、そして、まゆみちゃんの放つ陽気さがぼくに伝染した。

「わたし、バイトをしたいんですけどね・・・」
「店を手伝えばいいじゃん」彼女は無知な人間を見るかのようにこっちを振り向いた。
「普通、お金をもらうのもそうだけど、バイトって知らない環境で自分を磨くことも含まれているんだよ。ひろし君もそうだったでしょう?」ぼくは、自分の過去を思い返す。彼女の言うとおりだった。そして、その結晶として、ぼくは何十年後かにこのように大きくなった女性と歩いているのだ。
「そうだね、で、勉強はできるの?」
「え? どうして」ぼくはまたさっきの同じような視線を向けられた。
「優秀な子には、なにかと紹介しやすいかなと思って」
「できるよ。優秀。じゃあ、考えてくれる?」
「まあ、何とか」かといって、ぼくには何のプランもコネもなかった。ただ、彼女のもつ性質が伸びるようなことだけを考えてあげたかった。
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壊れゆくブレイン(6)

2011年12月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(6)

 ぼくは、ある晴れた日に走る少女を見ている。まだ10歳ぐらい。彼女の父は、ぼくらの憧れのラグビー選手だった。その能力を受け継いでいるのだろう、見事な走り方だった。その子の母をぼくは一時期、愛していた。でも、ほんとうのところ、出会ってしまった瞬間から、一日も忘れたことはなかったのかもしれない。そのために交際していた相手を捨て、彼女のもとに飛び込んだ。だが、別れてしまいぼくは東京で再会した裕紀と結婚することになった。また、裕紀のことも、ずっと好きでいつづけていた。ぼくのこころは、2人の女性が独占した。矛盾した言葉だが、事実は、どうやっても隠せないぐらい事実だった。

「早いんだね」
「むかし風に言えば、活発、おてんば」
「でも、素直なんでしょう」ぼくは、雪代に訊ねる。
「あの頃の年代って、揺れ動くものよ」

 ぼくは、グラウンドの日陰が作られない場所に立って、順番に走る子たちを見ている。雪代もそうしている。帽子を目深にかぶって。過去のぼくに自分がそういう立場にいることを教えてあげたい。また、裕紀にもこういう立場を与えてあげたかったとも同時に思っている。

 走り終わった雪代の娘はぼくらの方に寄ってきた。
「こんにちは」少女はぼくの方を見上げて、可愛く挨拶する。彼女の頭の中で、ぼくの存在がどう映っているのか理解の仕様もなかった。
「こんにちは、早いんだね」
「練習したから。じゃあ、また」小さな少女は、ぼくが出会う前の雪代を想像させた。ぼくが、知っているのは10代の終わりが迫ったころだった。
「ぼくのこと知ってるの? 人見知りしなかった」

「知ってるんじゃない」それ以上、雪代は説明しなかった。ぼくは、それから甥の走る姿も見た。彼の父もラグビー選手だった。ぼくの後輩。それを見ながら、自分の年齢があがってきてしまった事実を確認した。黙認とも呼べるようなものだった。ぼくと裕紀は、このような場所にいることはなく、自分たちの年齢や役割を曖昧な状態に置くことができていた。それは幸福でもあり、ある種の不幸でもあった。未熟でいることを許可され、未成熟であることの淋しさがあった。段階を踏まえなかった淋しさ。
 すべてが終わり、雪代の娘である広美がまた近付いてきた。

「どうだった、今日、ひろし君?」広美は訊く。
「ぼくのこと、名前も知ってるんだ」
「だって、いっぱい、うちに写真があるもん。それで顔も知ってた」ぼくは、どのような写真を雪代が残し、それを結婚生活の間も保管していたのか知りたかった。

「そうなんだ。じゃあ、初対面でもない気分だね」
「ママが話してくれた。男の子を好きになるって、どんな気持ちになるのかって。それで、写真もあった。わたし、パパもよく知らないから」そう言って、自分の言葉が恥ずかしかったのか、ぼくらから少しはなれて走った。一日、運動しても元気がありあまるようだった。

「そうなんだ? 自分の知らない未来がどこかで作られていた」
「彼女は、彼女なりに父親像を作り上げたかったの。それで、ママの好きなひとの話をきかせてと言われたので、それなりに話していたら、不思議な人間が作られた。ほんとの父親でもあり、ひろし君の面影も散りばめられていった。写真もあったから」
「で、会えなかった父親の一部を担っている存在がいる」
「そんなに重く考えないで」

 広美は立ち止まって振り返った。ぼくらが来るのを、つまらなそうな、また楽しそうな不思議な表情で待っていた。そこに着くと、「アイス、食べたい」と言った。それで、ぼくらは小さな喫茶店に入った。彼女は、アイスかアイスクリームが浮かんだソーダにするか迷っていた。そして、結局、ソーダを頼んだ。

「ママは優しい?」ぼくは、会話を埋めるため、そのような話題を持ち出した。
「いつもは優しい。でも、ときどき・・・」また、ソーダを飲んだ。ぼくも暇な時間にアルコールを飲まない健全なこの時間を楽しんでいた。

「自分が悪いことするからだよ、ね」雪代は優しく言った。そこには信頼関係があった。父親不在の共同体のようなものらしかった。ぼくは、今更ながら配偶者を失って立ち直れる可能性があることも感じていた。ここに、現に証人がいるではないか。それから、数十分ぼくらは無駄話をした。ぼくは部外者として嫌悪されるのも覚悟をしていたが、実際はそうはならなかった。小さなこころはぼくの存在を自然と受け入れ、母とぼくがふたりで親密に話していても嫌がらなかった。

 それから、店を出た。ぼくらはそこで別れることになる。彼女は小さな手でバイバイとして振った。ぼくも同じように手を動かした。

「また、ひろし君」と広美は名残惜しそうに言った。それで、ぼくも、「さよなら、広美ちゃん」と返事をした。
「今日は、ありがとう、ひろし君。付き合ってくれて」と、今度は母が言った。「こちらこそ」と言いたかったが、なぜかぼくは口に出せなかった。しかし、野放図に酔っ払い、頬を打たれた自分を次の環境に移してくれた雪代に感謝していた。そして、家までの帰り道、暖かい気持ちで歩いていた。悪くない一日じゃないか、という気分でぼくは夕暮れのなかを歩いている。
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壊れゆくブレイン(5)

2011年12月17日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(5)

 いつかは会いたいと思いながら、その反対に会いたくもないとも思っている女性がいた。ぼくらは、いまでは同じ町に住んでいる。同じ空気を吸い、同じような温度を感じている。距離としての差はない。

 だが、その再会は、ぼくにとって準備されたものではなかった。しかし、物事なんてだいたいは準備されていないのだ。

 仕事が終わり、ある店で酒を飲んで酔っていた。それも、かなり深く酔っていた。そこへ、戸が開き、友人か仕事仲間とともに雪代がその店に入って来た。彼女もどうやらぼくの慌てた様子に気付いたようで、驚きのような光が目の端にあった。

 ぼくは、それからも2杯ぐらい飲んだはずだが、実際の数は把握もしていなかった。おおよそという酒がくれる大雑把な目分量の世界で。

「十年前にぼくを突っぱねた雪代」と、酔ったぼくは不意に口に出し、止められなくなってしまったように何度も連呼した。自分が発する音の大きささえ分からなくなっている。姿が見えない場所にいた雪代はいたたまれなくなってぼくの前に出て来た。そして、横の椅子を引き、そこに座った。
「ちょっと、酔いすぎている。うわさは聞いていたけど」
「10年前にぼくを捨てた雪代」

「それは、違うでしょう。でも、戻ってきたら、きちんと連絡をくれて、挨拶ぐらいしてくれても良かったんじゃない?」
 ぼくは、こちらに戻って来てから3ヶ月ぐらい経っていた。会いたくもあるし、会いたくもないという理由があった。その正直な気持ちを頑なに守った。
「そうだね、冷たかった。だが、冷たさは君以下だけどね」
「悪い酔い方」
「雪代もなんか飲む?」ぼくは、ひとりになるのが恐かった。自分を相手にしない、この孤独を無視する世界に馴れていなかった。彼女は店主に目配せし、グラスを受け取った。

 ぼくは、それからも自分がただの被害者のように雪代に辛くあたった。ぼくらには、それこそ数え切れないぐらいのたくさんの美しい思い出があったのだが、それを徹底的に排除して、彼女がぼくと別れた事実の一点張りを主張しつづけた。
「そんな風に、思われているんなら淋しいな」
「ぼくを捨てた雪代」

 その言葉を出したあとに、ぼくは頬に痛みを感じる。それでも、何が起こったのか分からなかった。ただ、横を見たときに無防備に投げ出された腕がかすかにじっとこらえられずに震えているのを見て、彼女がぼくの頬を打ったのだと気づいた。
「わたしが捨てたとかを悔いているんじゃない。あの子が死んだことが辛いんでしょう。それに気付いて」

「知ってるよ」
「もっと、しっかりしてよ。むかしのひろし君は、もっと格好良かった」
「ごめん、情けない今で」
「あの子に悪いじゃない。わたしは、あの子とひとりの男性を奪い合ってしまったから、永久に仲良くなれなかったけど、それでも、あの子が惜しむぐらいに素敵な男性のままでいて、お願い」
「そうするよ、ごめん」

「打ってしまって、ごめん。つい、腹が立って、手が出てしまった。でもね、夫や妻を亡くしたのは世界で自分だけで、それで、自分だけが世間に甘えてもいいという顔をみたら、どうしても、許せなかった」
 ぼくは、黙った。自分の気持ちを落ち着けるように酒のグラスを手にして、ちょっとだけ口につけた。それは、もう酔いを与えてくれないことを知っていた。ただの習慣のようなものだった。息継ぎ。
「そうだね、雪代も夫を亡くしていたんだっけ。ごめん、無神経だった」

「いいのよ、そんなこと。素面のとき、また会いましょう。そうだ、娘の運動会があるの。ひろし君の甥っ子も同級生なんだよ。知ってた? 見に行くんでしょう?」
「あ、そうか。行くよ。カレンダーに丸がついている」
「お弁当、作ってあげる。健全な生活。じゃあ、そのときに、わたし、席に戻るね。頬、痛くない?」
「ラグビー部のときの当たりを、思い出してくれよ」

「そうだね」彼女は席を立って、また、見えない場所に隠れてしまった。笑い声が聞こえ、暖かな雰囲気が伝わってきた。
「お水、くれる?」ぼくは店主に言う。それを受け取りながら、「女性に打たれたことの証人。裁判のときは証言してもらうから」と、いまの事実を冗談にしようとした。

「負けにつながるようにしますけど、近藤さんの」店主は笑った。ぼくも、同じように笑った。それから、水を飲み干してお会計を済ませ、外にでた。運動会で子どもの走る姿を見て、雪代とお弁当を食べている自分をイメージした。ぼくの頬はいくらか熱を持ち、外気との接点を探しているようだった。裕紀のいない世界で生きている虚しさと、また訪れてしまうであろう喜びを天秤にかけ、ぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼女は思い出を増やすことはできない。このいまのぼくに失望すらできないのだ。

 歩きながら、生きるとは誰かに叱責され、頬を殴られることなど思おうとした。完全には酒が作った酔いが抜けきれずにいて、ぼくはいろいろなことを思い巡らした。準備した再会とは呼べないが、この今日に起こってしまったことも、それなりに悪くなかったのだと考えている。過去のぼくを知っている人間がいて、自分との今との差を指摘してくれた。それが、とても貴いもののように思えた。
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Untrue Love(5)

2011年12月16日 | Untrue Love
Untrue Love(5)

 そして、3人目。

 美容室のチラシを配っている女性として目の前に表われる。何回かそれを受け取り、店の名前を記憶する。直ぐそばのビルの上階、多分、5階か6階の見晴らしの良さそうな場所にある美容院。彼女は、いつも変わった服装をしている。

「いつも通るけど、バイト?」ぼくは何枚かそれまでにもらった紙を無駄にしていた。噛み終わったガムを包んだりもしていた。
「そこのデパートで」ぼくは、そっちの方向を指差す。顔も変わった化粧方法をしているが、それを取り除けば、美少女が隠れている印象をもった。

「髪、切ったほうがいいよ。ボサボサだよ」
「そうかな」ぼくは、自分の髪について、そこにあることを改めて発見したように触った。確かに、そう言われればそういう気もした。しかし、その触った手で「また」というような合図をして、そこから離れた。でも、彼女はもう、別のひとにチラシを手渡していて、ぼくの素振りを見ていなかった。だから、ぼくは自分の右手を不自然に引っ込めるしかなかった。

「髪、切ったほうがいいよ、ほんとに。この前、いつ、切った?」夕方になるとお客さんが少なくなるのか、彼女は路上にいる。ゴダールの映画の新聞売りの少女のように。あれは、ヘラルド・トリビューン?

「さあ、2、3か月ぐらい前」彼女は誰かと気持ちを交感することを喜びとするようなタイプに見えた。
「だったら、切るべきだよ。髪を切らせてくれる人を探しているんだ。店が終わったあとに」
「ただで?」
「ただで。成功は保証しないけど、まあ、今よりはましになるよ」彼女はチラシにボールペンで自分の名前(ユミ)を書き、切りたくなったら、連絡をくれと言って、さらに紙を1枚無駄にする。

「髪、伸びてきてますかね?」ぼくは、バイトの先輩に訊いてみた。
「そろそろ、床屋に行って来いという時期から早くも2、3週間は経ってるよ。また、急になんで?」
「さっき、そう言われたもんで」
「バイト代でも入ったら、切ってこいよ」
「そうします」

 ぼくのバイトが終わるころに窓を見上げると、いつもより照明が薄暗くなってはいたが、美容院がある上階はほんのりと灯っていた。もしかしたら、まだ練習とか後片付けを彼女(ユミ)は、しているのだろうか。

「明日、わたし休むからその前に来れば、切ってあげるよ」彼女は、路上でそう言う。カラフルな洋服。誰が、このような格好をして似合ってしまうのだろう。自分の一部のように。

「いいけど、そうポップにされると困るよ」
「ポップ? ガ・ハ・ハ」とユミは豪快に笑う。「いいよ、クラシックにしてあげる」ぼくの頭の中には、七・三分けにした頭や、整髪料できっちりとオールバックにした髪型が想像された。
「古臭くなりすぎるのも、もっと困るよ」
「わたしに任せなさい。これでも、器用なんだから」
 それで、結局、バイトが終わった後、店のドアを開けた。
「こっちに座んなよ。頭、洗ってあげる。でも、なんて呼んだらいい?」

「山本順平」
「じゃあ、順ちゃん、こっちに」ぼくは座り、後ろに倒される。お湯がかかり、頭が泡立った。彼女は、喋るという行為と切っても切り離せないらしく、あらゆることを話した。まだ、いまは見習いでお客さんの髪は切っていないとか、それでも、徐々に成長しているとか、実家の話とか、別れてしまったボーイ・フレンドとか。「はい、今度は鏡の前」

 ぼくは移動して、髪をタオルで拭かれる。そのあと、ハサミを取った彼女が、ぼくの髪を切っていった。
「どんな感じに?」ぼくは、少し心配になっている。

「任せておきなって。でも、女の子の知り合いいない? 長い髪も切りたい」
「新米に?」
「そう、新米に。じゃあ、さ、今日、出来栄えが気にいったら紹介して」
「終わってから、決める」

 それから、数十分経って髪は短くなり、また洗い流して、ドライヤーをかけられ終わった。ぼくは服の上の布をはずされ立ち上がる。

「ちょっと、一周まわって」ぼくは言われた通り、そこで回転する。「悪くないと思わない?」
「そうだね。大した実力」
「見直した?」
「うん、これだったら、ずっと切ってもらいたい」
「してあげるよ。やっと、終わった。で、お腹すいた。ご飯、付き合わない?」
「いいよ」

 ぼくらは20分後ぐらいに向き合って座っている。どこか、親密感があった。
「あの美容院の限られた中だけじゃなく、自分が切ったヘアースタイルを、いろいろな場所で、いろいろな角度で見てみたい。だって、髪型って、そういうものでしょう。あの枠の中だけではなく・・・」

 彼女の言う意味は良く分かった。それで、あのように街中でチラシを配っている姿だけで、とても立体的に生きていると見えてしまうのだろう。それはここで肘をついてストローを吸っていても、頬杖をついて思案しても、とても魅力的に映った。
「さっきの約束は? 女性の髪も切りたいんだけど」
「実力は知った。でも、女友だちがそういない」
「ほんと? わたしも同性の友だちそんな居ないんだ」そういって無邪気に笑った。それで、寂しいとかの感情があるようでもなかった。
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Untrue Love(4)

2011年12月14日 | Untrue Love
Untrue Love(4)

 デパートで働いてから知り合った2人目の女性は、裏の出入り口のそばにあるカウンターのあるバーにいる店員だった。その店がその女性のものであるのか、それとも、ただ雇われているだけなのか分からなかった。ぼくらは決められた休憩所に行くよりも外気の吸えるその近辺で、たむろして無駄話をするのが好きだった。たまに怪訝な目で見られることもあったが、ささやかな自由がその場所にはあった。

 ぼくはバイトが始まる前にそこを通る。店の開店準備をする彼女としばしば目が合い、ぼくは目礼ぐらいするようになる。まったくの他人というほどでもなく、完全なる知り合いとは言えなかった。ただ、同じ時間帯にしばられるひとたち。彼女は店を開けて、お客を迎えなければならず、ぼくはそのビルの中で数時間だけ肉体を酷使しなければならない。

「ちょっと、ねえ、君、これ、手伝ってくれる?」ある日、店の前にビニールがかぶさっている椅子が数脚、置かれていた。「ちょっと、重くて」彼女がぼくに最初に話しかけた言葉。
「これを、中に運ぶんですか?」

「予定より早く届いてしまったみたい。ごめんね」

「簡単だからいいですよ。さ、どいて」ぼくは、いつも行っている作業を30分ほど前にはじめただけだった。身体を何往復かさせれば、店の前の道路はいつもと同じ状態にもどった。

「ありがとう。帰りにでも寄って。1杯ぐらい、もうちょっと、おごってあげる。そうだ、もう、飲んでもいい年齢?」
「少し早いけど」
「じゃ、少しだったらね」

 ぼくは、その約束の言葉を胸にして、いつものデパートの裏口に向かった。それから、普通通りに働き、いつもより10分ほど遅れて外に出た。おごってもらう積もりもなかったが、(対価をもらうとしては、自分にとってあまりにも安易な作業だった)店の前を通るとなかから賑やかな声がきこえてきた。そこを素通りして、いつものように地下鉄の駅に向かった。

 何日か経って、ぼくは手伝ったことも忘れたころだった。
「ねえ、来ないの? 貸しが宙ぶらりんになっているんだけど」彼女は、店の前の照明の電球を取り換えているようだった。「素直な男の子って、笑って、ありがとうと言って、感謝の気持ちを受け取るべきだよ」
「じゃあ、今日、行きます」
「端の席、予約してキープしておくよ」
「まさか」
「ひとりぶんの売り上げの責任があるんだからね」
「払えるかな?」

「おごりだから大丈夫、じゃあ、後で、ね、名前は?」ぼくは名乗り、そこを後にする。普段通りに働き、汗をかく。だが、その日は水分を摂るのを少しだけ控えていた。あとで、ビールぐらい出るのだろう。泡のジョッキを数杯だけ飲んで、足りなかったらいくらか残して帰るつもりだった。それで、貸し借りはなし。
「こんばんは」その女性(あとで矢口いつみと言った)が、忙しそうに働いていたので、ぼくは店先から鼻先だけ出し、声をかける。
「席、こっちだよ。さあ」
 ぼくは、男性の後ろ姿やタバコの煙や、女性の髪や香水を掻き分け、奥のカウンターのはじに座った。「ビールでいいでしょう?」

 ぼくは頷き、出されたグラスを片手に持った。のど越しもおいしく、一日の疲れの印象が除かれたような鮮明になったような不思議な感じをいだいた。彼女のほかに奥に男性がいて調理を任されているようだった。手が見え、声を発して、皿が突き出される。それを矢口さんがカウンターと2つだけあるテーブルに持って廻っている。

「これ、食べて。思案中のメニュー」皿の中を見ると魚と野菜にドレッシングがかけられていた。「あとで、相手してあげるね。おかわり?」

 ぼくは、またビールを飲んだ。彼女が相手をしてくれる前に酔いつぶれてしまうような予感がしたが、そのうち店も空いてきて、ぼくの前に彼女は立っていた。

「やっと、来てくれた」
「ほんとに、なにもしてないですよ。こんな歓待されるほど」
「いいのよ。お客さんも結構、年齢いってるでしょう、今日は」
「そうですね、きちんと稼いでいる感じ」
「それを巻き上げたから、もっと飲みなさい。カクテル、作ってあげる」
「いいんですか?」
「いいのよ、わたしも一杯飲む」

 彼女は2つのグラスに同分量の液体を入れた。
「この前は、助けてもらったみたいで」手だけが見えていた男性が仕事もひと段落ついたみたいで、カウンター内まで出てきた。彼の方が荷物を担ぐのにふさわしい身体をしていた。Tシャツから出る腕は、レスラーのような太さでもあり、胸板は、鍛えたのに費やした月日を想像させるものだった。

「そんなでもないです。え、でも、あの繊細な料理を作ってくれたひと?」ぼくは、確かめたく矢口さんに向けて質問する。
「ひとは見かけによらないものよ。山本君」
「おいしかったですか?」
「とても。見知らぬ味でした」
「まだ食えそうだな。なんか、作るよ」と、言って彼はまた奥に消えた。そして、「ひとまず時間稼ぎ」と言って、ピクルスやオリーブやチーズの切れ端がでてきた。

「いいひとでしょう? 優しい男性。でも、女性に興味がないのよ、あれで」矢口さんは秘密の共有というものが嬉しいらしく、少し上を向いて笑った。その笑顔で年齢が上下する。澄ましていると20代後半。笑うと、10代後半になるようなとびきりの笑顔だった。

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壊れゆくブレイン(4)

2011年12月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(4)

 ぼくには、36年の思い出の蓄積があり、喜びもあれば、悲嘆もあった。最後のほうは悲しみが強く、前半は喜びのほうが多かった。それは、思い出というものの不思議なところで、日が経てば、不純物はろ過され、良いことのほうに傾いていくのだろう。
 それで、後半のことを忘れて、前半のことを回想したかったが、結局は、身近な裕紀の死ということが絶えず先頭にきた。順番待ちの上手な悲しみの固まり。それを忘れるために、また仕事が終わると酒を飲んだ。

 家には暖かみがなく、会話も料理もなかった。ただ、不在の象徴のような埋まらない空気がただよっていた。ぼくは、それを抱えてこれからひとりで生きるという決意もできず、また、誰かを好きになれるのかどうかという心配もあった。つまりは宙ぶらりんで、その状態からどちらにも揺れなかった。ひとりで悶々として、酒でその状態を忘れようとした。

 10年間の不在でこちらには親密になれる友人もいなかった。しかし、もし、居てもこのずるずるとした立場にいる自分を知ってもらいたくもなかったのだろう。精神の冬眠時期。だが、義理の弟である山下は休日に家に呼んでくれたりした。姪がひざのうえに乗り、そこでご飯を食べた。東京を去る際、ある女性は、自分に子どものようなものが見えると言った。それは、この姿であるともぼくは思った。悪くない感触。自分を思う存分受け入れてくれる存在。だが、裕紀がいない淋しさが、それで払拭されるわけでもなかった。

 姪は、ぼくの似顔絵を描き、ぼくも彼らの表情を描いた。
「上手なんだね」
「お家の設計図を描く勉強をしたからね。ちょっと、時間くれる? 描いてみるね」
 彼らが知っている町の小学校の絵を描く。それは、彼らに不思議な印象を残す。ものごとは、再現できるのだということ。器用な手先があれば。

「忘れると困るから、ゆうきお姉ちゃんの絵を描いて」
 ひざの上に乗ったまま、姪は振り返ってぼくにそう言う。「忘れると、困る?」
「困るよ、思い出せなくなるもん」だが、ぼくはその存在を逆に忘れようとしていた。どうにかして、ぼくの記憶から抜け出してほしかった。しかし、その考え自体が間違っていたのかもしれない。忘れようとすればするほど、思い出は更新され、新鮮さと新たな情報が加わった。

 それから、彼らは自分の発言したことなどなかったかのように、それぞれの布団にくるまった。夢でどのような内容を見るのか、それとも、一切のことを忘れ安眠するのだろうかと、ぼくはその寝顔を見ながら考えている。

「ラグビー部の部員たちは、どう? 練習に耐えている?」
「さあ、最近の子は難しいですよ。ぼくらは、先輩や監督の言うことは絶対だった」山下は、少し疲れたような表情を見せた。「それより、もう少し、身体をいたわったほうがいいですよ、美紀も言ってる」
「そうだよ、お兄ちゃん」

 誰もぼくの喪失感など知らないのだ。ぼくの悲しみの深さなど気づいてもいないのだ。ぼくは、それらの意見が出ると自分の廻りに塀をめぐらし、すべての意見の矛先を拒絶した。
「そうするよ。じゃあ、あいつたちも寝たからそろそろ帰るよ」
「送って行きましょうか? な、美紀」

「いいよ、頭を冷やしながら帰るよ。丁度いいくらいの距離だから」
 ぼくは背中越しに見送る声をきき、玄関から外に出た。家の中には温かさと楽しさが満ち溢れ、家の外側は孤独と焦燥があるようだった。ぼくは中では部外者であり、外では市民権をもっていた。真っ直ぐに帰るつもりだったが、飲み屋の明かりがまだあったので戸を開けた。

「来ないのかと思ってました。あまり時間もないけど」
「いいですよ。妹の家に寄ってきた帰りだから。そこでも、相変わらずぼくへのお小言があったし。彼らの子どもみたいに生活環境をしかられる」
「心配しているんでしょう。明日から、また1週間もはじまるし」
「そうですね。軽く引き上げます」だが、家に着いたのは日が替わった1時ごろだった。ぼくは、裕紀のことを意味もなく話して、また誰かと会話が永続することだけを望んで、その時間を引き伸ばした。

「居ないだけに、愛が勝手に成長して、美しくするんでしょうね」
「元の旦那さんのこともそう思う?」ぼくは、なぜだか同意を求めていた。
「ぜんぜん」と言って、店の女性は大口を開けて、笑った。

 家のカギを開け、カーテンから漏れる月のあかりを見つめた。姪は深い眠りのなかにいるのだろう。ぼくは、思い出の中を泳いでいる。蜃気楼のような思い出。だが、裕紀が作り上げた思い出の数々はいったい、どこに行ってしまったのだろう。月や星になり、ぼくはこの両目で見るのだろうか。それとも、それは一切の空で、なにもないのか。ゴミが燃えてしまうように、かすかな灰と煙になって煙突から飛び去るように消えて行ってしまうのだろうか。気付くと、目覚まし時計が鳴っていた。窓の向こうにもう月などなく、暑くなりそうな太陽の予感だけが、ぼくのベッドの端まで届きそうな時間になっていた。
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壊れゆくブレイン(3)

2011年12月10日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(3)

 ぼくは、待ち合わせ場所に立つ。春のうららかな日。のどかな日曜。
 すると、向こうから女性が小走りでやって来る。生きているという確たる証拠を伴って。揺れる髪。健康のすがすがしい発露。

「待ちました?」
「ぜんぜん。あれ、化粧してるんだ?」
「この前もしてましたよ。やだな。そうだ、ひろし君かなり酔っていたから」
「そんなに、酔ってないよ」
「酔ってましたよ。わたしが誰だか分からないぐらいに。それと、まだ7歳みたいに扱うのやめてもらえます?」
「まゆみちゃんの成長に追いついていけないよ」
「追いついてくださいよ」
「まゆみちゃんには彼氏もいないし、反抗期も迎えない」
「好きなひともできたし、親とも喧嘩しました。そのときは、理不尽に当り散らしました」
「手におえないな」
「でも、勉強もして、大学に行くようにまでなった」
「おじさんに映画をおごらせるようにもなった」
「お兄さんに」

「お世辞も言えるようになった」まゆみは、にこっとする。彼女を好きになった同級生たちは、そう少ない数でもないことを証明するような笑顔だった。ぼくらは同じような身長になり、ぼくが、あの小さな女の子の手を握り、いっしょに歩いたことは遠い昔になった。だが、それでも同じ人間である以上、彼女がときおり見せる表情に以前の面影がのこっていた。「お茶でも、飲もうっか? まだ、時間がありそうだし」

「離れた期間の時間を取り戻すため、ね」
 喫茶店のドアを開ける。ぼくは、以前、雪代とその店によく通った。店長は同じひとだが、髪の色に年代が経ったことが表れていた。相変わらず、静かなピアノの曲が流れていた。

「お久し振りですね」カウンターの中で笑顔が作られた。
「こんにちは、元気で?」ぼくは、彼の視線を受け止める。ずっと、居続けたい場所。
「まあ、こんな感じです」そして、横の女性に視線を向け、会ったことがあるだろうかと思案している顔になったが、結局は、答えは見つけられないようだった。
「知り合いなの?」まゆみは、疑問を隠しきれない少女の本性を出す。
「前によく来た。ずっと、むかし」
「ここ、通ったけど、入ったことなかった」
「また、来るといいよ。音楽もいつもセンスがいいし。大人って静かな音楽に耳を傾けられるようになったひとのことを言うんだよ」

「じゃあ、わたし、子どもだ」
 2つの紅茶が運ばれる。彼女は無邪気な顔から、少し真剣な顔つきになった。言いたいことを隠すような、そのタイミングを計るような顔。その場合、大体はぼくに訊くことは決まっていた。いなくなった女性。不在の理由。なぐさめるかどうか。
「ゆうきは、癌だよ。まゆみちゃんも若くっても、検診とかしたほうが良いかもしれない」
「どうしたの、急に?」
「訊かれる前に、話そうと思って」
「デリケートな話なのに」
「問われたりすることに慣れようと思って。この問題をさらっと扱えるようにもなりたい。ひざが擦りむけたとか、指にささくれができたとかいうように」
「もっと、傷ついているんでしょう」
「大人って、傷つくことだよ」
「説教くさいよ、ひろし君、さっきから。黙っててもいいよ。わたしが楽しませてあげる」
「自信あるんだ?」

「ある。そんなに、ない」ぼくらは、飲み物を空にして、店をあとにする。まゆみは先にでて、外で日射しを楽しんでいるようだった。置き去りにしてしまった若さを、ぼくはその情景から感じ取る。
「あの女性、まだ来ます。女の子も大きくなりまして」
「そうなんだ。また、よろしくと」
「会わないんですか? 実際に会っておっしゃればいいのに・・・」ぼくは、頬だけで返事をするような表情を取った。
「ごちそうさま。パパがきょうは愛想よくしておけって」

「ネタをばらさなくていいよ」ぼくらは映画館に向かい、暗い中で映画を観た。あまり裕福でもない大学生がバイトで知り合った退役軍人と都会にでる。そして、自分の悩みを打ち明け、最後には死を思いとどまった盲目の軍人が学校に乗り込み、トラブルだった事件を解決してくれる。まゆみは泣き、ぼくは、いつかそのようなストーリーを話した裕紀のことを思い出している。「今日、見た映画ね・・・」という風に。
「面白かったね」
「泣いてた」
「だって、立派じゃない。でも、お腹、へった。ぺこぺこ」
「食べたいのは?」

「大きいお肉」ぼくは、横を見る。生き返ること。この新しい状況を受け入れ、慣れること。残された自分。裕紀への未練。
 まゆみは注文した品を美味しそうに食べ、デザートもきれいに食べた。ぼくは、ワインを少し飲み、魚を食べた。ソースが魚の鮮度を落とすことなく、かえって生なものより新鮮さがあった。
 そこを出て、ぼくはまゆみの家まで送ることに決めた。

「たまには、会ってもらってもいいですか? 映画も見たいし」
「彼氏ができるまでの限定で」
 彼女は返事をせずに、すこし笑った。ぼくは、ふと、雪代の子どものことを考え出す。その子は、ぼくが知っていた幼いまゆみちゃんと同じぐらいなのだろうか? 利発で、ひとを恐れないこころをもっているのだろうか?

「おやすみなさい。あまり、飲まないでくださいね」
「飲まないよ。きょうは、すこし前のことを忘れてしまった」
「罪でもないですよ」
 まゆみは、ドアの向こうに消えた。いつか、もっと大人の女性になり、洗練されていくのだろう。それは、裕紀のように、また、雪代のように。
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Untrue Love(3)

2011年12月09日 | Untrue Love
Untrue Love(3)

 ぼくがデートをする相手のひとりは、デパートで靴を売っていた。細い足をもち、繊細な指をもっていた。汚れたスニーカーを履く自分とは不釣り合いかもしれないが、ぼくが荷物を運ぶうちに話すようになった。きれいな言葉づかいをして、いつも優しくねぎらってくれた。メジャーを指に絡ませ、その指先のきゃしゃな感じが痛々しいぐらい美しかった。24才。

「いつも、ありがとう。さっき、貰ったの。よかったら、これ、飲んで」彼女は缶コーヒーを手渡してくれる。「大学生?」
「そうです」
「また、よろしくね。お疲れさま」

 彼女は背中を向け、季節が変わるため、商品の靴の陳列を並び替えている。閉店したあとの店内は静かで、小さな彼女の声も不思議なエコーが加わり、よく響いた。ぼくは、それをもらい、手に握られた缶から季節感のない自分の足元に目を移し、スニーカーを見下ろしている。見なくても気づいていたが、それは少し汚れ、いくらかくたびれている。彼女が丁寧に並べている優雅な靴たちとは大違いだ。そして、店内で雑用をするだけの物体であったかもしれない自分(まるで、汚れたスニーカーのよう)に、こころを宿した人間として扱ってくれる彼女の優しさに思いを寄せる。ただの偶然の邂逅と、彼女の優しさ。ぼくは、外に出て、さっきの缶コーヒーを飲み干した。

 秋に履く靴を並べていたが外は、まだまぎれもなく夏だった。それでも、夏の峠は越え、いくぶん涼しくなりはじめている。しかしながら、虫の声などない都会の雑踏の中だった。

「ピザでも食べる?」それから、数日経った暑さがもどった夜だった。靴を並べていた女性に不意に誘われる。
「ピザ?」
「そう、わたしも同じぐらいの弟がいて、いつもお腹を空かしている。山本くんも、そうでしょう?」
「ぼくの名前を知っているんですか・・・」
「話しかけるときに、名前がなかったら、どうするの?」
「そういう意味でもなかったんですけど」
「食べる?」

「食べます」ぼくは、彼女が木下という苗字を持っていることは知っていた。誰かが、そう呼んでいたからだ。それに振り返ってこたえる彼女は、木下さんに間違いがなかった。「木下さんは、ピザの美味しい店を知っているんですよね」

「この前、教えてもらって、食べた。また、行きたいなと思っていたんだ。たまにピザが食べたい気持ちにならない?」
「ぼく、店で食べたことがあるかな。友人たちと配達されたものを食べたことはあるけど」
「それは、残念ね。いつか、女性と行けるかもしれない」
「今日、行きますけど」

 ぼくらは、デパートが終わった時間の照明が少なくなり始めている町をいっしょに歩く。彼女が履いている靴のかかとの音が、ここちよく鳴り響いている。ぼくは、急に財布の中身が心配になった。ここで、財布を開くわけにもいかない。頭のなかで、あれこれと数字を転ばす。あれに使って、これに使った。まあ、大丈夫か、どうにかなるか。

 しかし、その不安も消えないうちに店の前に着いてしまった。ぼくは扉を押し、賑やかなお客さんの声をきく。店に入った木下さんは指を示し、座席を決めた。

「仕事、なれた?」
「なれるも何も、右のものを左に持って行き、左のものを右に持って行くだけですから。それで、サインもらって」
「それでも、どこに何があるか、分からないこともあったでしょう?」
「そう言われると、そうですね」

 彼女は注文を取りに来た店員に微笑みかけ、数品を頼む。それが届く前に、すでに隣の座席のテーブル上に置いてあるピザが香ばしいにおいを発していて、ぼくらの鼻にまで到達した。
「おいしそうなにおいでしょう?」
「途端にお腹が空きました」
「いつも、夜ご飯どうしているの?」
「作ったり、買ったり」
「ひとり暮らしなの? 両親は遠いの?」
「横浜の先」
「じゃあ、通えるんだ」
「通えますね」
「脛かじり」
「そう、脛かじり」

 ピザが運ばれ、彼女は一切れつかむ。ぼくも隣の一切れをつかむ。木下さんは別の皿の違った種類のピザをつかむ。そして、ぼくもその横の一切れをつかむ。ピザって、こんなにおいしいものなのか。
「おいしいでしょう?」
「はい。爪きれいですね」
「あ、うれしい。なにか、おかわりする?」ぼくのジュースのグラスは空になっていた。彼女は目敏く見つけ、また注文してくれた。

「靴って、一日何足ぐらい売れるものなんですか?」ぼくは、間が抜けていると思いながらも、そのような質問を口に出した。しかし、きれいな女性に質問をする内容でもない。だが、何も会話がない状態も同時に避けたかった。
「雨が降れば、それなりの靴が売れるし、冬になれば、ブーツや暖かそうな靴が売れる。統計かなんか取っているの?」
「いや、自分でも間が抜けた質問だなとか思いながらも話してしまった」
「別に気にしなくてもいいのよ。付き合ってくれてありがとう。他に何が好き?」

 ぼくは、いろいろなものを思い浮かべたが、即答はできなかった。ただ、同級生たちより数歳上だけの彼女が、とても大人に見えたのだけは事実だった。

 店を出る。地下鉄の駅まで一緒に歩く。その階段の上で、彼女はそっとぼくの頬にキスをした。ぼくは、そこから自分の意志のようなものが抜けたような気持ちになった。それで、階段を下りる彼女を見下ろすような形になりながら、穴でも開いていないか確かめるため頬に手の平をくっつけた。

「いっしょの方角でしょう」階段の上で立ち竦むぼくを彼女は下から見上げる。
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壊れゆくブレイン(2)

2011年12月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(2)

 お酒を飲まなければ裕紀の存在は消えず、逆にお酒を飲んでもむかしの裕紀が蘇ってきた。どちらにしろ、ぼくはその存在をより一層リアルに感じている。現実に出会う人間よりも、より深く。

 ある場所で、あまり良い酔い方もできないまま、店を追い出される。もうそこで2時間以上も飲んでいた。それでも、まだ夜は終わることもなく、商店街はまだまだ閑散とする時間にならなかった。惣菜でも買って、このまま家で飲み直そうと考えていた。陳列ケースの前で指をさしながら、品物を注文した。足取りはもたつき、口から出る言葉もすらすらとはいかなかった。そのときに後方から自分の名前を呼ぶ声がする。

「ひろし君ですよね?」
 ぼくは、当然、振り返る。だが、その顔に見覚えがない。いや、その年代に知り合いなどいないということで気持ちを遮断したのだろう。
「誰? こんな若い子に知り合いなどいないけど・・・」
「わあ、ひどい」
「ひどくっても知らないよ」
「お酒くさい。まゆみですよ。思い出してください」
「まゆみちゃん? こんな大人になったの?」

「わあ、思い出せた。まだ、なんか買うんですか? お茶でも飲みますか?」
「もう買っちゃった。これから、家でお酒を飲むんだ」
「まだ?」その様子にむかしの少女のころが思い出せた。ぼくが大学時代にバイトをしたスポーツ・ショップの店長の可愛いひとり娘。その子がぼくの酒への耽溺に説教をする。「そうか、奥さんを忘れるため?」
「そういえば、一回、うちに来てくれたね」
「憶えてます?」

「憶えてるよ。ぼくは、自分のベッドから追い出された」
「残念でしたね。わたしもあんなに優しくしてもらったのはじめてだった」
「まゆみちゃんにも良い思い出があって良かった。ありがとう」ぼくは今更ながら彼女に対しての目線が対等であることに驚いていた。「でも、大きくなったね」
「バスケットをやっていたんです」
「ああ、どっかで聞いた」
「また、うちに遊びに来ます?」
「いつかね。店長とも会いたいな」
「もう、ずっとこっちなんですよね?」
「そうだよ」

「そうだ。今度、映画でも付き合ってくれません?」
「だって、若い子がいるんだろう。好きになってくれるひとが」
「最近、別れました」
「あのまゆみちゃんに彼氏ができて、それが別れた」
「そういう言い方おじさんみたいです。もっとさっぱりとして、楽しみましょう」
「何の映画?」
「目の見えない元軍人が都会に行くんですって。友だちが前に見て面白かったって。学校の行事のために見ておかなければならないけど、ひとりじゃ恥ずかしいし」
「彼氏もいないし?」
「おじさんを若返らせなくちゃいけないし」
「いいよ。電話するよ。ぼくなら親も安心だろう」

「分かりました。あまり飲まないでくださいね」そして、彼女は悲しそうな顔をした。少女のころは同情などという表情を知らなかったはずだ。だが、彼女も大人になり憐れみや慰めという言葉や感情を身につけていくのだろう。

 しかし、ぼくの華やいだこころは一瞬にして消え、家に帰ってまた飲んだ。前後不覚になって、そのままベッドに転がり込んだ。こうしたことを東京の生活から離れても相変わらず続けていた。ある女性の面影が、突然に失われたからこそ、ぼく自身に刻み付けられ、消せない肌の模様のように、このままぼくにくっついていくのだろうか?

 翌日も、翌々日も同じような生活をした。きちんと働き、それが終われば気分転換させてくれるものはなく、ただお酒に溺れた。誰も裕紀の代わりになってくれず、ぼくのこころの穴を埋めてくれるものはなかった。いくつかの約束を忘れ、いくつかの予定をキャンセルした。計画をつくることを無視し、未来というものをまったく信じていなかった。だが、不思議とまゆみちゃんの件は忘れることができなかった。ぼくは彼女を小さなころから知っていて、彼女が悲しむことを世間から守るような立場にいなければいけないとも思っていた。あまりにも幼稚で陳腐な紳士のような気持ちで。

 ある時、電話がかかってくる。
「あの、映画を見るって約束したと思ってるんですけど・・・」
「忘れてないよ」
「いつまでも上映していると思ってれば、困りもんですよ」
「いつまで?」彼女は日付を言った。
「もう直ぐじゃん」
「だから、電話した。女性から電話させるような態度って、よくないよ」
「分かった。ぼくからきちんと電話する。また、あとで」
 スケジュール帳をみて、日付を決める。ぼくにほとんど用らしき用はなかった。裕紀はいなく、ただ時間があればお酒を飲んでいるような状態だったのだ。甥や姪のイベントごともなく、ぼくは誰かと会話をする週末をもたないこともあったのだ。
「まゆみちゃん? この日はどう? 楽しそうな映画を見つけてね、できれば一緒に見に行かないか?」
「そんなにまで言うなら、行って上げてもいい。ご飯もおごって」

 ぼくは電話を切る。そして、こころのなかで裕紀に話しかける。ぼくが、むかし君と最初に会ったような年代の子と映画を観に行くことになった。応援してくれるかな? 嫉妬するのかな。もちろん、返事はない。
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壊れゆくブレイン(1)

2011年12月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(1)

 そして、何もかも失ってしまったような自分だけがきっちりと残った。36年間の自分の人生は見事な失敗に終わり、すべてが灰となった。愛すべきひとも同じように灰になり、ぼくは薄れつつある記憶だけを手掛かりに、彼女を再生させる。

 ぼくは、会社が所有する部屋に入る。職場まで歩いても15分程度で、実家とも同じような距離だった。ぼくは引越しの荷物を開封する。洋服があり、食器があった。またもや、カラフルさが消えるタンスの中味。ぼくは、若い頃に家を出て、女性と住んだ。彼女はモデルをしていて、洋服も多かった。扉を開けると色鮮やかなものたちが目に飛び込んできた。その女性と別れ、2年間ほど、またひとりで住んだ。気楽といえば気楽だったし、その状態に不慣れといえば不慣れでもあった。また意図しなかったが、そのような状態に戻った。

 女性のブラシもなければ、自分以外の歯ブラシもなかった。自分は家で見たいテレビを見て、聴きたい音楽を流した。だが、それは満足とも充足ともなってよかったのだが、そうはならなかった。ぼくは、裕紀が聴いていた未知のクラシックの曲も望んでいた。それは、自分で探すのには厄介だったし、その手間を考えるのも面倒だった。

 休みには実家に帰り、甥や姪と遊ぶ。彼らは、ぼくに自分たちの好奇心からいろいろな質問をしたが、ひとつのことだけは口にしないという誓いをしたようだった。ぼくの結婚相手。優しくしてくれたあの女性は、どこに消えてしまったのだろう? そういう疑問も強いはずだが、なぜだか口に出さなかった。その分だけ、ぼくらの間には隙間ができた。彼らは子どもだから仕方がないが、大人はそんなさり気なさは有していないようだった。ぼくは、その他人との隙間を敬遠するため、ひとりで仕事帰りに酒を飲み続けた。みなはデリケートさがないから酔わないのだと勝手な言い訳をつけて。自分に甘く、すべてのことを許して。

 しかし、朝になれば仕事から受ける忙しさによって、いくつかのことは対岸と呼べそうなところに置き去りにして忘れる。廻りの人間は、ぼくが東京に行っていた10年間で変わり、そして、増えていた。自分の能力をアピールする必要もあったし、そこそこの位置に自分はいた。東京での成果へのご褒美。その代わりに、ぼくは妻を失った。

 仕事が終わるとゆっくりとした速度の船で対岸から過去の思い出たちがやって来た。ぼくは、自然とそれを迎える。絶対に拒否しない。そのものたちは帰るべき場所が必要であり、それはぼくの胸のうちが最適なのであった。

 ぼくは、こうして未来を築くということを忘れつつあった。仕事では新しいことを学び、習練しながらも、仕事が終われば過去の居心地の良い日々を再現しようと思っていた。だが、それは裕紀がいない以上、決してできず、その不可能な状態を埋めるべく、また酔った。その噂は、いくつかの場所に広がり、ぼくは東京の埋没性にも憧れていた。やはり、ここはそう広い場所でもない。ぼくの行動は目立ち、あそこの誰ということが知れ渡っていた。

 そして、両親にも軽く叱責される。そうすると甥を誘い、外に出て戯れた。彼は妹がいなくなったためか、その秘密の共有というべきものなのか、疑問である死ということを訊いた。彼らも静かに横たわり青ざめた裕紀を見るという経験を通過する必要があったのかもしれない。ぼくも、それが必要だったのかもしれないが、裕紀の兄たちに敬遠され、それもできなかった。

「もう、お姉ちゃんに会えないんだよね?」という素朴な質問が彼の口からでる。もしかしたら、その疑問はぼくの口からでるべきだったのかもしれない。
「どうなんだろう? 良い子にしてたら、ママはプレゼントをくれる?」
「たまに、くれるけど、いまは妹にだけ」
「そう。良い子にしてても、もう会えない。むかしに会ったときの思い出だけ」
「じゃあ、思い出を大事にする」と言って彼は口を固く結んだ。開けてしまえば、思い出も逃げ去ってしまうとでもいうように。

 ぼくらは商店街でサンドイッチを食べ、ジュースとビールを飲んだ。そこには東京の必要以上な華やかさがないと感じたが、これが人間の住むべき実際の場所という安心感もあった。甥はおいしそうに食べ、父親似の大柄な男性になる予感をさせた。それが終わると、妹の家に彼を連れて行き、またひとりの自分に戻った。ぼくはある場所に戻り、カウンターでお酒を飲む。ぼくは、むかし知っていた女性と話す。

「近藤君にサッカーを教えてもらった息子も店を出した」
「どんな?」
「これからは、スポーツ・バーだって。そうかしらね?」
 それから、その子のここ数年の話を教えてもらった。学生時代はサッカーに励んだが、その後は調理を学んだ。
「やっぱり、お母さんに似たんだ。自分に向いた仕事につけるっていいもんだよ」
「近藤君は、仕事合ってない?」
「ただ誰のために働いているのか分からなくなった」
「そうよね。ごめん。でも、そんな飲み方、身体こわすよ」と、ちょっと彼女は顔をしかめた。以前にないような表情だった。でも、この身体を誰も心配しないんだと、ぼくは思っている。そうさ。

 ぼくは店を出て、よろよろと新しい家に帰る。カギをポケットから探し、不器用な手付きでドアを開ける。
「裕紀、いるんだろう?」とぼくは、どうしても言いたい。だが、さっきの甥のようにぼくは口を固く閉ざす。思い出を逃がさないため。
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