Untrue Love(7)
木下という女性が今日も丁寧に靴を並べていた。そこは、彼女のステージのようだ。ぼくは、隣で食材や飲み物の瓶を運んでいた。与えられた脇役の仕事。でも、脇役のいない主役もない。この仕事で、腕はかなり鍛えられ、何らかの持ち方や担ぎ方のコツを覚える。ここで春から働いたのでやっと半年ぐらいが過ぎたことになる。ぼくは、一度その彼女と食事をした。それ以降、何の進展もなく、それゆえに同じ理由で後退もなかった。
「話しかけてこないね」
ぼくが横を通り過ぎるとき、彼女は視線の方向を変えずに、口だけを動かした。
「ぼくに?」ぼくは、腹話術におどろく子どものような気持ちでいた。
「そう、誰かほかにいる?」しかし、誰かいたのだ。
「久代」と、別の従業員が彼女に話しかけた。「あれ、どこにあったっけ?」何か探し物をしている女性が彼女の後方にいた。ぼくは、また元の作業に戻る。彼女はテキパキと動き、何かを手渡し、同僚からふたたび離れた。
「話しかけてこないね」木下久代さんは、もう一度、同じ言葉を発した。目の方角はすこし違っていたが。
「用がなかったから」
「何か用ぐらい作れるでしょう?」
「例えば?」
「それは、自分で考えてよ」
「あの階段の上の意味、どういうことですか?」彼女は駅の階段でぼくの頬に唇で触れた。それは咄嗟のことで、ぼくは避けることもできず、かといって、その瞬間を楽しむこともできなかった。
「じゃあ、あとで、ゆっくり説明してあげる。終わったら、待ってて」
「はい」ぼくは、一日の業務のすべてを片付け手を洗った。ついでに、顔にも冷たい水をかけた。それは、10代の終わりの時期で自分というものがかたまりはじまる頃でもあった。漠然といままで出会った人間の数と、これから出会う人間の数を比較して、スタートに立つ自分には何もはじまっていない事実を知る。それから、木下さんという女性が、ぼくのこころに入った何人目かの女性だった。高校のときに付き合った女性はいた。彼女はいつかほかの男性になびいたが、直ぐにその関係は終わったらしく、ぼくのところに戻ってこようとした。だが、自分は確かにいまだに好きでもあり、未練があったが後戻りはしなかった。何となく、彼女を許せないまま卒業した。彼女は最後に手紙をくれたが、ぼくは制服のポケットに入れ、読む前にそれはどこかに落ち、ぼくは読むこともできなかった。それでも、無意識にそれを読みたくない気持ちの表れだと思っていた。読んでもいないものに返事もできず、ぼくは大学に通いはじめ、別のところに住んだ。
それで、ぼくは突然、自分の頬にキスをする女性の気持ちなどまったくもって分からなかった。経験というものに乏しかった自分は、あれこれ模索することしかできず、解決も回答もない。ただ、疑問にもっていても、ふざけただけであり、それを蒸し返すことは恐かった。逆に恐いからこそ、面白そうでもあった。
彼女は制服を脱ぎ、自然な状態にもどった。自分に似あうものを知っているらしい。とても魅力的で通用口からでてきても、そこだけ華やかなものに思えた。
ぼくらは、ある店で向かい合って座る。彼女は指を組み、細い指輪をいじった。
「あれね」ふと、思いついたように話し出す。「猫同士がじゃれあうようなものよ。山本君、学生時代、そうだ、いまでも、学生だけど、もてた?」
「さあ、一度、逃げられたことはあるけど。それは、もてた人間の発言じゃないですよね? 久代さんは?」
「どう思う」
「きれいだから、たくさん声をかけられるでしょう」
「でも、勉強ばっかりした。もったいないぐらいに」
「そうなんですか。でも陰でたくさんのひとが見てたんじゃないですかね、分からないけど」
「ずっと、優等生でいたかった。みんながそう望んでいるもんだと思っていたから」
「みんなって?」
「みんなって、学生のときは、親とか先生だよ。小さな世界」
「でも、いまは、たくさんのひとに靴を売ってる」
「靴が好きなんだ。ただ、足を冷たさとか道路とかから守ればいいだけなのかもしれないけど、きれいでしょう? 形も」
「そこまで、考えたこともない」
「じゃあ、次は、女の子がどんな靴を履いているか、見て、誉めてあげて」
ぼくは、視線をずらし久代さんの靴を見た。華奢でありながら、受け止める力を持っているような不思議な靴だった。
「考えます」
「考えてばかりいないで、実行してね。そうだ、今度、休みがあったら、映画でも見ない?」
「ぼくと?」
「ぼくと。平日しか休めないと、誰か誘いづらくて」
「いいですよ。休みは外に出て、太陽を浴びないと」
「映画館も室内だけど、その前後は外だからね。じゃあ、電話する。それで、して」
ぼくは、何桁かの数字をもらう。高校のときの彼女は、家の電話に親がでた。それを乗り越えるもどかしさがあったが、いまは自由の感覚が増えた。ぼくは、それを落とさないように財布にしまった。無意識に落としてしまった手紙をその後、誰かが拾い読んだのだろうか。それとも、どこか人目につかないところで、その気持ちは眠り続けているのだろうかと夢想した。ぼくらは、店を出て、また彼女は階段の上でぼくの頬に触れた。それが、疑問として残るのか、ただ一過性の記憶で落ち着くのか、ぼくには、もう分からなかった。
木下という女性が今日も丁寧に靴を並べていた。そこは、彼女のステージのようだ。ぼくは、隣で食材や飲み物の瓶を運んでいた。与えられた脇役の仕事。でも、脇役のいない主役もない。この仕事で、腕はかなり鍛えられ、何らかの持ち方や担ぎ方のコツを覚える。ここで春から働いたのでやっと半年ぐらいが過ぎたことになる。ぼくは、一度その彼女と食事をした。それ以降、何の進展もなく、それゆえに同じ理由で後退もなかった。
「話しかけてこないね」
ぼくが横を通り過ぎるとき、彼女は視線の方向を変えずに、口だけを動かした。
「ぼくに?」ぼくは、腹話術におどろく子どものような気持ちでいた。
「そう、誰かほかにいる?」しかし、誰かいたのだ。
「久代」と、別の従業員が彼女に話しかけた。「あれ、どこにあったっけ?」何か探し物をしている女性が彼女の後方にいた。ぼくは、また元の作業に戻る。彼女はテキパキと動き、何かを手渡し、同僚からふたたび離れた。
「話しかけてこないね」木下久代さんは、もう一度、同じ言葉を発した。目の方角はすこし違っていたが。
「用がなかったから」
「何か用ぐらい作れるでしょう?」
「例えば?」
「それは、自分で考えてよ」
「あの階段の上の意味、どういうことですか?」彼女は駅の階段でぼくの頬に唇で触れた。それは咄嗟のことで、ぼくは避けることもできず、かといって、その瞬間を楽しむこともできなかった。
「じゃあ、あとで、ゆっくり説明してあげる。終わったら、待ってて」
「はい」ぼくは、一日の業務のすべてを片付け手を洗った。ついでに、顔にも冷たい水をかけた。それは、10代の終わりの時期で自分というものがかたまりはじまる頃でもあった。漠然といままで出会った人間の数と、これから出会う人間の数を比較して、スタートに立つ自分には何もはじまっていない事実を知る。それから、木下さんという女性が、ぼくのこころに入った何人目かの女性だった。高校のときに付き合った女性はいた。彼女はいつかほかの男性になびいたが、直ぐにその関係は終わったらしく、ぼくのところに戻ってこようとした。だが、自分は確かにいまだに好きでもあり、未練があったが後戻りはしなかった。何となく、彼女を許せないまま卒業した。彼女は最後に手紙をくれたが、ぼくは制服のポケットに入れ、読む前にそれはどこかに落ち、ぼくは読むこともできなかった。それでも、無意識にそれを読みたくない気持ちの表れだと思っていた。読んでもいないものに返事もできず、ぼくは大学に通いはじめ、別のところに住んだ。
それで、ぼくは突然、自分の頬にキスをする女性の気持ちなどまったくもって分からなかった。経験というものに乏しかった自分は、あれこれ模索することしかできず、解決も回答もない。ただ、疑問にもっていても、ふざけただけであり、それを蒸し返すことは恐かった。逆に恐いからこそ、面白そうでもあった。
彼女は制服を脱ぎ、自然な状態にもどった。自分に似あうものを知っているらしい。とても魅力的で通用口からでてきても、そこだけ華やかなものに思えた。
ぼくらは、ある店で向かい合って座る。彼女は指を組み、細い指輪をいじった。
「あれね」ふと、思いついたように話し出す。「猫同士がじゃれあうようなものよ。山本君、学生時代、そうだ、いまでも、学生だけど、もてた?」
「さあ、一度、逃げられたことはあるけど。それは、もてた人間の発言じゃないですよね? 久代さんは?」
「どう思う」
「きれいだから、たくさん声をかけられるでしょう」
「でも、勉強ばっかりした。もったいないぐらいに」
「そうなんですか。でも陰でたくさんのひとが見てたんじゃないですかね、分からないけど」
「ずっと、優等生でいたかった。みんながそう望んでいるもんだと思っていたから」
「みんなって?」
「みんなって、学生のときは、親とか先生だよ。小さな世界」
「でも、いまは、たくさんのひとに靴を売ってる」
「靴が好きなんだ。ただ、足を冷たさとか道路とかから守ればいいだけなのかもしれないけど、きれいでしょう? 形も」
「そこまで、考えたこともない」
「じゃあ、次は、女の子がどんな靴を履いているか、見て、誉めてあげて」
ぼくは、視線をずらし久代さんの靴を見た。華奢でありながら、受け止める力を持っているような不思議な靴だった。
「考えます」
「考えてばかりいないで、実行してね。そうだ、今度、休みがあったら、映画でも見ない?」
「ぼくと?」
「ぼくと。平日しか休めないと、誰か誘いづらくて」
「いいですよ。休みは外に出て、太陽を浴びないと」
「映画館も室内だけど、その前後は外だからね。じゃあ、電話する。それで、して」
ぼくは、何桁かの数字をもらう。高校のときの彼女は、家の電話に親がでた。それを乗り越えるもどかしさがあったが、いまは自由の感覚が増えた。ぼくは、それを落とさないように財布にしまった。無意識に落としてしまった手紙をその後、誰かが拾い読んだのだろうか。それとも、どこか人目につかないところで、その気持ちは眠り続けているのだろうかと夢想した。ぼくらは、店を出て、また彼女は階段の上でぼくの頬に触れた。それが、疑問として残るのか、ただ一過性の記憶で落ち着くのか、ぼくには、もう分からなかった。