爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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拒絶の歴史(30)

2009年12月31日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(30)

 妹が高校受験に受かり、これからの未来が決まった。彼女が選んだところは結局のところ、裕紀と同じ女子高だった。そのことを裕紀は、ぼく以上によろこび、彼女らは親しげにその報告を共有していた。

 ぼくは裕紀のアドバイスを受け、無難なセーターを妹に送った。それをどう評価したのかは分からないが、こっそりと試着をしているようだった。両親もともに喜んでおり、ぼくら二人がとりあえず高校生になったということで安堵しているようだった。彼らの役目のいくつかは、そこで終わっていたのだろう。

 上田先輩もぼくらの意に反して美術系の大学に進み、ぼくらは彼の引越し荷物をトラックに積み込み、代わりに一食分を手に入れた。彼の父は淋しいらしく、会社で見せる顔とは違い、終始泣きそうな表情をしていた。その愛情深さにぼくや手伝っている仲間は圧倒されている。

「試合があるときは戻ってくるからな」と期待をこめた言葉を残し、彼も去っていった。彼は、ぼくの幼馴染と交際しており、たびたびこちらに戻ることは予想できたが、たくさんの視線や熱意をぼくはラグビーを通して感じていた。彼らが成し遂げられないことは自分にも出来ないかもしれないが、また逆に可能性は無限のようにも思えた。その合間に勉強も手を抜かず、そこそこの成績を維持していた。一流の大学にはいけないかもしれないが、希望の大学は受け入れてくれそうな予感があった。それぐらいでよしとして、それ以上の情熱は一先ずはスポーツにとっておいた。

 裕紀との関係でも、将来のことがさまざまな形をとって口にのぼりはじめる。成長が次の段階や別れを示唆するならば、それは仕方がないことだとぼくは少し考え始めている。もちろん、そんなことがあれば辛いだろうが、壊れないコップがないように、自然の風向きというものをいたく感じた。口では彼女は淋しいといっては否定するが、海外の大学にいくことも彼女の未来のひとつの選択肢にはあるようだった。ぼくは、話が複雑になると、あとはなるようになるだろう、と責任を回避した。

 ぼくの頭の一方に眠り続ける河口という女性は忘れた頃にぼくの目の前に表れた。実際に表れないとしても、美容室のまえでにっこりと笑う表情で、髪型がいくらか変わるタイミングでそこにいた。ぼくは、こころの中でそれを期待していたのだろう。その前を通るときはゆっくりと歩いた。年齢の差というものは依然としてあったが、前ほどには考えなくもなっていた。ぼくはチームを引っ張ることで自然とちょっとずつだが大人に変化していったのだろう。

 だが、頭の中にそうして潜み続けさせることによって、後で手に負えないほど巨大化していってしまうことは簡単に予想ができたが、もう種はとっくの昔に蒔かれてしまっていたのだろう。それは、とても危険なことだった。だが、その種を掘り返すことも、もっと成長した何かを伐採することもできなかったし、自分はしなかった。

 その頃の彼女はぼくのことをどう考えていたのだろう。最後まで聞くことは出来なかったが、島本さんが占めている愛情の数パーセントでも、ぼくは奪いたいと考えていたのかもしれない。それは、難しいことだったのだろうか。それとも容易なことだったのだろうか。誰に分かるわけでもないが、誰かに聞きたかったし、その誰かを当然のこと見つけることも出来なかった。

 その頃には、ぼくにも世間の目というものが出来つつあった。ぼくは、スポーツに秀でて、ラグビー部を引っ張り、ひとりの女性を大切に守っているという形のない偶像がひとり歩きしていた。だが、実際は自己中心的であり、手に入れられない女性に憧れており、いくらか隠された野心ももっていた。その危険を何人かは知っており、誰かが監視していたかもしれない。後輩の山下は、ぼくが河口さんに対して示す愛情の萌芽を察知していた。おそらく、危険な沼にぼくが足を踏み入れているかもしれないと考えていたのだろう。図体のおおきな身体をしながら、繊細な一面も彼は兼ね備えていた。そのことで、彼を避けまたそのことでぼくは彼を手なずけようとしていたのかもしれない。自分のことをいささか悪く考えすぎているのだろうが、ぼくの内面にはそのような部分もあった。ラグビーで汗をかき発散させているときは忘れたが、ひとりになると自分自身を見つめすぎた。しかし、そうしながらもぼくは裕紀の身体も求めていたのだろう。彼女は、いつも従順であった。恐すぎるぐらいに従順であった。

拒絶の歴史(29)

2009年12月30日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(29)

 裕紀は空港に戻ってきている。彼女は、たくさんの楽しい経験ができたらしく、帰りの電車のなかでそのいくつかを話してくれた。知らない町並みの美しさを話し、また泊まった家の家族の話もした。その家には小さな男の子と女の子がいて、彼女を姉のように慕ってきたらしい。一緒に買い物に出掛け、一緒に料理をしたそうだ。最後には、辛い別れがあって、裕紀も泣いてしまったらしかった。

「現像したら、写真を見せてあげるね」と彼女は言った。

 その時に、ぼくに暖かそうなマフラーと、向こうで見つけた建物の写真集をくれた。ぼくは、もうその時に、彼女に対してそのような趣向を話していたか忘れていたが、察しの良い彼女は見当をつけていたのだろう。

「ありがとう」と言って、ぼくはその二つの手触りを楽しんでいた。

 そして、また学校が始まった。ぼくらの練習には、もう3年生はいなかった。指導する監督も停年で学校をやめることになっていたので大まかな指図をして、あとはキャプテンであるぼくに任せてしまった。ぼくは、自分自身を成長させることだけを考えているわけにもいかないという段階に入ってしまった。ぼくは、秋の大会で優勝し全国大会に行くことを望んでいた。そのためには、今の同級生と下級生とこれから入る新入生全体の力を必要としていた。彼らの成長がぼくの望みを果たすためには絶対的にいるものだった。

 後輩には潜在的な能力のある山下という男がいた。彼は、今後このスポーツで名前を残すだけの才能を持っていたが、自分の気分に対して命令がきかないところがあり、ときにはムラがあった。もっと賢い男をぼくはそばに寄せ、その木村という後輩に作戦を徹底的に教え込んだ。彼は目立たなく、とても地味だった。スポーツで大成することもないだろうが、協力的なチームを運営するには不可欠の潤滑油てきな機能を果たしてくれていた。ぼくは、なにかあると彼を叱り、また彼に相談し彼の提案を受け入れるか却下するかの権限を楽しんでいた。そこには友情のようなものもあったが、反発や反抗心を彼は内在させていたかもしれない。ぼくは、チームで働くことに足を踏み入れていなければ、もっとさっぱりとした人間を好きになっていたかもしれない。しかし、チームでどうしても全国大会にいって最後を飾りたかったので、後輩の指導は彼に任せきりになった。やはり、ぼくは個人的な成長に傾くきらいがあったのだろう。それは、性格のことなので仕方がないかもしれないが、いくらかは反省するところもあった。

 このように新しい体制になり今後練習していく土台はできあがりつつあった。その希望はぼくを興奮させ、まだまだ挫折など道路のすみの小石のように感じていた自分は、この点で強気でもあった。練習を与えられた時間できちんと組み立てられるならば、優勝もそう遠くはないだろうという気にもなった。

 その合間にぼくはいつものように温水プールで泳ぎ、総合的な身体を手に入れようと努力していた。そして、その時間は個人的な事柄を頭のなかで働かせるぼくの時間にもなっていた。泳いでいる間、ラグビーの練習のことを考え、裕紀の存在を再認識し、これからの自分の可能性を探る時間でもあった。だが、まだまだ可能性はぼくの中でぐっすりと眠り続け、開花させる予兆すらなかった。だが、それでも良かったのだろう。高校2年生なんて、所詮そのぐらいだと自分に甘い猶予の時間を与えていた。

 この前、電話で話した裕紀は、大学はこの前に行ったところでか、それとも別の海外の学校にも入ってみたい、と考えているらしかった。ぼくは、彼女を離したくないと同時に、ひとりの人間の可能性のことも考え、また、若い頃の数年間の距離がいかにつかの間のことだろうとか、その時間がすべてを台無しにするきっかけにもなるだろうと泳ぎながら空想していた。考えても解決しないことがらながら、ぼくに自分の運命の決定権があるだろうと思い上がった気持ちもあったし、訪れてしまったことには刃向かえないという弱さもあった。

 こうして、充分に考え、酸素がすみずみまで筋肉に到達したという心地よい泳ぎを終えた後でタオルで身体を拭いていた。スポーツドリンクでのどを潤し、外にでるとグラウンドの周りを島本さんが一人で走っている孤独な姿が目に入った。彼は、まだ東京に戻っていないのだろう。怪我から回復しないという噂を聞いていたが、その懸命なリハビリの姿は、彼の絶頂期を思い起こさせ、それ以上に彼が進歩するかを測っているようだった。それはぼくには分からないことだし、ぼくにはぼくの進歩の形があった。

拒絶の歴史(28)

2009年12月27日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(28)

 試験も終わり、裕紀を空港まで送りに行った。彼女の手にはパスポートがあり、ぼくらは交際をはじめてからはじめて離れ離れになる。

 そこには、車で彼女の荷物を一緒にもってきた彼女の父親も遠くに座っていた。ぼくらは、会話をすることも目を合わすこともなく、ただ遠く空間だけを共有していた。彼がぼくのことを意識しているのは肌で感じたが、こちらから軽く会釈する程度でその場を去った。ぼくは、また電車に乗り自分の家に向かった。

 制服はクリーニングに出され、ぼくは練習がない間は、上田先輩の家の仕事を手伝った。そのバイトで材木を運び、その金銭は今回はぼくのラグビーのスパイクに化ける予定だった。家では熱心に受験勉強の最終段階に入っている妹がいた。彼女が志望校に入れたら、なにかプレゼントを買ってあげようと予算をたてたが、あまり大した金額は余りそうにもなかった。

 しかし、澄んだ空気のなかで労働をしている単純な喜びも同時に得られた。この2年間で鍛えられた身体は、自分の思い通りに動くことが出来たが、それでも家に帰ると違う筋肉が痛んでいた。やはりラグビーとは別の箇所を使っているのだろう。そのことを風呂の中で感じ、適度に揉みほぐした。

 上田先輩は、ぼくらの県とちょうど東京の真ん中あたりの場所にある大学を受けることになっていた。彼は、自分の家の仕事を嫌い、少しでも離れたところに行きたかったらしいが、息子を溺愛する父が許さず、そんなに遠くまで行くならお金を出さない、という一言で彼の行動範囲は限られていった。ぼくらは、そこまで自由ではないのだ。しかし、そこに受かったら彼は免許を取り、かなり高級な車を買い与えられることが予定されていた。ぼくらが欲しいと望んでいるものを、簡単に手に入れられることを妬みもするが、彼にはほかの人が持っていない愛嬌があったので、ぼくらは彼だけにはそうした感情を持続させることが不可能だった。

 知っている人々が、このようにつかの間だが離れていく実感を抱いている時期になっていた。将来、もっと知り合いが増えれば増えるほど、このような気持ちが多くなるはずだったが、それは厳しいこころを持つ過程として必要なものだとも感じていた。

 バイト代を何回かに分けてもらったが、最初のときにいつまでもスポーツショップに保管してもらっているのも悪いので、スパイクを受け取りに行った。そこでさらに試し履きをして、その履き心地のよさと、良質の革の手触りを感じていた。店長は、言ったとおりそれを大幅に値引きしてくれ、ぼくは思ったより安くそれを買った。

「そのかわり、もっとスリリングな試合を見せてくれよな」と言って、ぼくの肩を叩いた。彼は、高校時代に野球をしており、ぼくらの地元で語り継がれるほどのピッチャーだったが、一流選手になることもなく親の代から続いているスポーツショップの店長になっていた。そのためか、若く能力のあるスポーツ選手をこよなく愛し、経理上の問題を抜きにして、スポーツ用品を安く提供した。ぼくらは、それで頻繁にそこに通うことになり、他の店より繁盛している錯覚を与えていた。それでも、彼は金銭よりみなが集う店で満足しているようだった。

 そこに、ぼくは見覚えのある顔が現れたことに気付く。河口という女性と、島本というぼくが憧れてもいた他校のラグビーの先輩が入って来た。彼は、ぼくに近付き、

「近藤、なんか良い選手になったみたいだな」と言って、横にいる河口さんの顔を見た。ぼくは、ただ、
「ありがとうございます」と言ったのみだった。

「良いスパイクを履いて、それに見合う選手になってくれよな」と、ぼくの手元を見て言った。そこの店は他校の選手はあまり来なかったが、それでも評判というのは封じ込めないらしく、よそからもやって来た。

 ぼくは足早に店を出て、年末になって島本さんは東京の大学から帰郷しているんだなと理解した。彼は、以前ほどスポーツ選手としてぼくの憧れから消えていることを知った。しかし、それ以上に河口さんと交際しているラッキーな人だという点で、べつの憧れをもった。そして、かすかな嫉妬心を感じている自分の体内の感情を、別の制御できない生き物のように考えていた。考えても仕方がないことだったが、ぼくは目にしたものからいかに自分の自由が利かなくなってしまったことを理解し、ある面では裕紀のために反省した。

 またお金を払うときに、店長の顔にはっきりと、この前言っていたぼくらの学校のきれいな卒業生は、河口さんであるということが書いてあったことを、またもや思い出していた。

拒絶の歴史(27)

2009年12月26日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(27)

 根源的なところでは、自分は負けた試合でしか、そう失敗した事柄を通してしか学ぶことが出来なかった。あの痛みを二度と経験したくないという思いが、自分の原動力となって働いてくれた。

 しかし、当面の試合がないということは、いくらか自分を腑抜けにさせた。パスの回し方、タックルの仕方などを練習していると、そこに美しさがあるときに成功するということを見出せるようになる。無骨さもある面では正しいのだろうが、自分はどこに向かっていても美しさに傾きがちだった。

 そのような気持ちを抱いて、テレビで全国の予選を見ていた。自分もそこに出られるのではないかという期待と、実際の現実の差が自分をゆううつにさせた。誰に当たってみても解決しない問題なので、自分の腹の中に納めてはいたが、それでもその気持ちは消えることはなかった。自分は、ただ目立ちたかっただけなのだろうか。

 それでも、秋の終わりは美しい季節であった。ぼくは、練習が終わった休日などには裕紀に誘われるまま、県立の美術館に行ったりもした。最初は、ぼくと絵との関係はまったくないも同然だったが、少しずつ眺めていると彼らの方から、こころを開いてくれている気がする。帰りに売店に寄ると、たくさんの知らない作品が世界中に散らばっていることを知る。それを見届けるには程遠い年月がかかると思ったが、そのころの自分には無限の時間が残っているような気がしていた。そして、自分のこころを解放した分だけ、世界も受け入れてくれるという安直な事実を知った。だから、自分はシャイな部分も残しながらも、いくらかは自分を出すことを目指した。それは、キャプテンとなったラグビーのチームメートもぼくに求めていることだった。

 彼女は幼い頃から、そうした生活を送っているので、そこに留まっているときにより一層輝いて見えた。ラグビーのスタンドでぼくを応援している姿も美しく可憐に感じたが、やはり場違いの場所に足を踏み入れている感じはあったかもしれない。自分には自分の持分があるのだろう。そこにいると、そのような感情も学べた。だから、自分は彼女の領域に入ることを躊躇することはなかったのだろう。誰かが、日曜に美術館でデートをしているとからかったとしても、ぼくは気にもせず止めることもなかった。ひとのうわさを気にする町では、誰かの理想を演じることが多くなるのかもしれない。

「今度の冬休みにシアトルに短いけどホームスティすることになった」と喫茶室で紅茶を飲んでいる彼女は言った。彼女の両親は、彼女をもっと立派な人間に仕立てるべく計画を練っていた。外国語の習得もそのひとつで、違う文化のことを学べる機会を有効に使うことを考えているようだった。そこに、ぼくがいることをあまり楽しいことだと彼らは考えていないのかもしれなかった。ラグビーで勝つことしか考えていない人間だとも思っているのかと疑ってみたくもなったが、それはぼくのやっかみかもしれなかった。

「良かったじゃない。楽しんできなよ」と言ったが、彼女はうれしそうにもしなかった。もっと、ぼくが淋しがると期待しているような表情をしていた。ぼくは求められている気持ちを察したのかもしれない。「もし行ったら、ぼくは悲しいけど」と付け加えた。

 このように進むべき道は徐々に雲が晴れるように、ぼくらの目の前に表れて来た。その後、ぼくらはケーキを食べ、飲み物もなくなりそこを出た。もっと町になかに繰り出し、彼女が今後、必要になる用品を買いに行った。彼女は小さなバックからリストを取り出し、それを点検してある店に入っていった。長くかかりそうだったので、ぼくもスポーツ洋品店でスパイクを見て、本屋に寄ろうとしたが、スポーツショップの店長と長く話しこんでしまった。彼も、ぼくと同じ高校を卒業しており、仕事柄、彼はいろいろな試合を観戦していて、その高校の生徒はこの店を頼りにしていた。

「この前の試合、もう少しで勝てたのにな。残念だよ」
 と、ぼくに向かって話しかけた。「近藤君なら、スパイクも安くするからね」と、商売を度外視したこと言った。ぼくは年末にまたバイトをして、新しいものを購入する予定があることを話した。なら、取っておくから試着してみなよ、といくつかの箱を開けたり閉じたりした。そのひとつは足にフィットし、ぼくの頭の中では理想の走り方をしている自分が描けた。

「お金はあとでいいから持っていきなよ」と店長は言ったが、それは自分としても気が引けたので、店の奥に取って置いてもらうことで妥協した。そのやりとりをしているところに、ぼくが遅くて心配したらしい裕紀が入って来た。店長は、その気配に気付き振り返った。「ああ、あなたが彼女」と自分自身で納得した。「近藤君の学校の卒業生にもきれいな人いたよね」と言って、ぼくらを気まずい思いにさせた。彼が誰のことを言ったのかは知らないが、ぼくと裕紀の頭の中には同じ人物がいたのかもしれない。

拒絶の歴史(26)

2009年12月20日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(26)

 試合は順調に勝ち進んでいった。危ない試合もあったが、なんとか決勝まで勝ち残り、いつものチームとの対決が待っていた。3年生のキャプテンが試合前に喝をいれ、ぼくらのアドレナリンも最大限まで沸騰していた。

 試合が始まり一進一退を繰り返し、半分まで終わった。ぼくらが点を多く取り、優勢な立場を守り続けた。そのハーフタイムに相手チームになにが起こったか分からなかったが、ずるずるとぼくらの進路は削られ、あとは防戦にまわるのみだった。優位だった点は、いつの間にか同点になり、あっという間に逆転された。ぼくらは、それを再逆転もしたが、形勢は元には戻らなかった。足も身体も自分のものではないように止まり、それを活性化させるための力は、もうぼくらには残っていなかった。

 試合は終わり健闘もしたはずだったが、案の定、ぼくらはいつもの2位のチームに安住していた。試合後、監督とキャプテンの話を聞いて、ぼくらは泣いた。彼らの最後の試合のためにも、どうしても勝ちたかったが、それはもう元には戻らない歴史だった。

 最後に3年生が、ひとりずつチームを去るときの言葉を語った。彼らの幾人かは、自分がどれだけ頑張ったかは言わず、もう少しあの時力を出していたらという後悔の言葉を述べた。もしかしたら、そのような部分が自分の中に内在していたかも知れず、自分のことのようにぼくも反省した。

 その後、新しいキャプテンが発表されることになり、それは意に反してぼくだった。ぼくに、そのようなリーダー・シップがあるか分からなかったが、自分の身体の一部のようにチームを愛していたので、それを当然のごとく受け入れた。
 ロッカーを出ると相手チームの監督とすれ違った。彼は、ぼくのことを我が子のように心配してくれ、今日の戦術やいろいろなことを誉めてくれた。自分のチームに損になるようなことも言ってくれ、指導者のあるべき模範を体験的にぼくにも教えてくれた。

「来年は手強いチームにしてくれよな」とぼくの肩を抱き、彼は去って行った。
 競技場を出た瞬間に河口さんは手を振り、ぼくの視線の中に入ってきた。そうしなくても、ぼくは彼女の姿を見つけていたことだろう。そして、ぼくに近づいてきて生まれたてのような手触りのタオルを与えてくれた。

「今回も練習だと思って、来年勝つために力を貯めておきなさい」と言ってくれた。彼女のそばにいると、自分は一段賢くなったような錯覚をいつも覚えた。冷たいジュースをぼくに渡し、「今日のことは早くねむって忘れてしまいなさい」とも言ったが、この悔しさをそう簡単に忘れることなど出来ないことはお互いが知っていた。知っていても、言うべきタイミングで語られるべき言葉があることをぼくは知ったのだろう。

 彼女は、駐車場のほうに歩き、去っていった。ぼくは、試合後いつも裕紀とまちあわせる場所に向かった。負けても勝ってもその季節の空気はさわやかで、暮れていく光のなかを通り過ぎる風が、ぼくのほてった身体を冷ましてくれた。その風は頭の中にも入り込み、ぼくの悔しさをいくらか軽減してくれてもいた。

 裕紀は心配そうにぼくを待っていた。彼女は、ぼくに語りかける言葉を失っていた。それぐらい、ぼくは今回の試合に関して自信があったのだろう。そして、そのことを彼女に伝えてきたのだろう。彼女はその言葉を信じ、自分と一体化させていたのかもしれない。彼女の頬には涙のあとのようなものがあった。ぼくは、自分はそう落胆していない姿を演じる必要を感じた。そして、そのように振舞った。

「もうちょっとだったのにな。今回も負けちゃったよ」
「でも、頑張ったことが大事なんだから。わたし、とても感動したよ」
 そう言って、もう一度泣きそうな姿を見せた。
「来年、ぜったい勝つよ。オレがキャプテンになったんだ」と気楽そうな口調で言った。
「そう、おめでとう。また前以上に応援するね」と彼女の多少は笑顔が戻った表情で嬉しそうに言った。

 ぼくらは、競技場に隣接されている大きな公園を歩いていた。背が伸びたポプラの木が、ぼくらの存在をより一層小さく見せていた。世界にはぼくら二人しか残っていないのだ、という勘違いな考えを自分はもてあそび楽しんでいた。

「腹へった。どこかでご飯でも食べよう」ぼくは集中が途切れ、その瞬間に空腹感が強盗のように襲ってきた。そうしながらも、今後一年間の計画と実行をぼんやりとしながらも組み立てている自分も発見していた。

拒絶の歴史(25)

2009年12月19日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(25)

 妹が高校受験のための勉強を続けている。この時期に学んだことを自分は将来、思い出せるのであろうか。しかし、このあたりで自分の運命が決められていく。良い選択をしなければならない。

 ぼくとの関係とは別に妹は裕紀とこっそり連絡を取り合い、勉強の分からない箇所を教えてもらっていた。人にものを伝えるのがうまいか下手かの二通りに分けてしまうなら、明らかに裕紀は前者だった。

 その関係を自分は、当初はあまり知らなかった。しかし、知ってしまえば、
「教えてもらうんだから、きちんとお礼をしないと」と妹にきつく言った。
 しかし、お金に不自由しないであろう裕紀は、そのことに対して無頓着だった。ただ、暖かい関係性と伝える喜びがあれば、それで満足のようだった。それで、ぼくもその関係を成り行き任せにしていた。

 妹も将来を決めるならば、自分たちの前にも暗雲のように将来の選択が留まっていた。そこに希望があるのか分からないが、それでもその澱みを消さなければならなかった。

 こころの中に浮かんでくる感情のなかで、自分は建築というものに気持ちが傾いていることを知る。まだ、そのことを誰かに表明したことはないが、教師の中で信頼の置けそうな先生に相談してみるのも価値あることだと考えるようになっている。

 そのような状況も考えることの一部であるに過ぎない。たくさんの頭の内部で通り過ぎてしまう考えを振り払って、グラウンドで泥だらけになって動き回っていることがその頃は一番楽しいことだった。その合間に水泳をして身体を鍛えた。
 たまに、その場で河口さんと会うこともあった。身体にぴったりとした水着が、彼女の容姿をより一層際立たせていた。彼女はたまにぼくに親しげに話しかけ、ときにはぼくの存在を無視するかのように集中して泳いでいた。彼女は必ず、最後には「わたしと同じ大学に来なさい」と言葉を継ぎ足した。

 その大学には建築科があったので充分に考えられる選択だった。そして、プールを出て横にある喫茶ルームでいくつかの言葉を交わした。あの頃の彼女の輝きが、自分の大切な思い出の一部になっている。自分は、異性にまだそこまでは解放過ぎる性格を有していなかったが、緊張と同時に(子供に見られたくなかったのだろうか?)ナチュラルで自然になれる自分自身を発見していた。

 その合間に、妹は裕紀に勉強を教えてもらっていたのだろう。ぼくは、河口さんが「これを読みなさい」と手渡してくれた本を、スポーツクラブの帰りの電車の中で読んでいる。窓外は、夏の勢いがなくなり、徐々に空気も澄んできていた。そこに沈み往く太陽がぼくの視線をさえぎっていた。

 ぼくの家族もこのようにして裕紀のことを好きになり、その現状を受け入れていた。自分に劇的な違う段階がもし訪れないならば、周りのひとと同じようにこの状態を愛しつづけたことだろう。だが、暗雲は暗雲として存在する意義があり、そこを通過するまでは将来のことは分からなかった。

 そして、そろそろ秋の大会がはじまるころになった。ぼくは引き続きレギュラーを勝ち取り、右や左に走った。3年生の最後の大会になるので、彼らの3年間のためにも勝利を続けたかった。ときには小さな衝突もあったが、ぼくの2年間の多くは彼らの影響下にあったのだ。グループとして考え方や話の言葉のチョイスなど共有してもいた。そうして、いくつかの生涯を乗り越え、チームはまとまり、ぼくらの予感として今回は県で一位になれるのではないかとの希望が、みんなの周りに漂っていた。

 ぼくらの試合は強くなるたびにだんだんと観客席を埋めて行き、家族や友人たちも毎試合見ることになっていった。妹も自分の同級生を集め、ぼくらの試合に一喜一憂するようになった。そうされるのは照れくさい部分もあったが、彼女らの何人かはぼくに対して好意的な印象をもっているようだったが、妹は裕紀という存在を熱心に彼女らに伝えた。妹は、裕紀という人物に憧れを持つようになっていたのだろう。彼女といると、その空気を感じ影響されるようにもなる。もちろん、ぼくもその一員だったが、その価値をきちんと評価していたかは、また別なものかもしれない。そして、正確に誰かを判断することなど神でもない自分らにとっては、所詮無理なことなのだろう。

 ユニフォームが汗で濡れ、タオルで身体の汗を拭いとり乾かす度にぼくらは大人になっていった。その先輩たちの姿も見ることがなくなってしまうのだろう。ユニークな性格の上田先輩は誰よりもチームの雰囲気を和ましてくれた。今後、同じタイプのメンバーは現れないかもしれなかった。それだけで、彼はぼくにとってもかけがえのない人物なのだろう。そして、彼とぼくの幼馴染である智美との交際は続いていた。ぼくらの地元の多くの人は、最初に交際したひととそのまま結婚することがまれなことではなかった。もしかしたら、学校を離れても上田先輩とは友人として引き続き関係を継続させるであろうことは予感できた。

 このように大会を前にして、ぼくの頭の中ではいろいろな考えが浮かんでいた。それでも、その考えをだれかに説明したり、納得させることを怠ってしまうのも若さかもしれなかった。

拒絶の歴史(24)

2009年12月13日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(24)

 九月になって、また学校が再開する。ぼくは、その間にも練習で学校のグラウンドには入っていたが、実際に教室で授業を受けることに対しては、また新鮮な気持ちに戻れた。だが、ひとつの机の持ち主がそこには居なかった。小さな世界なので、その子の情報や噂はまたたくまに広まっていった。どうやら、妊娠したということが真相のようだった。その相手も同じ学校にいた。サッカー部に入っていて、ぼくとも仲良くしていたが、彼は段々とそのうわさに押しつぶされていき、ある日を境に彼も学校を去っていった。

 飛んでいってしまった風船を一時は泣いたとしても子供がすぐに忘れてしまうように、学校の誰もが彼らの存在をいつの間にか抹殺していった。しかし、自分は、もしかしたらぼくと裕紀がそうなってしまう可能性もあったんだ、という事実を消し去ることが出来なかった。ぼくがそういう立場になったら一体どういう対応をしたのだろうか、と当然のように疑問が浮かぶ。しかし、それは疑問の立場のままこちらに進まず、考えることを自分は放棄してしまった。

 しかし、大切な問題なので、こんな事件があったんだ、と裕紀に話すことになった。ぼくらは、小さな町に住んでおり、ぼくが言う前から、彼女もその話を知っていた。彼女の家族は、ぼくにとっては巨大なものだった。そして、ぼくのことも歴史の一瞬に現れる通行人のようなものだと考えているらしいことは、電話の応対などでも分かった。だが、まっすぐな気持ちの彼女は、自分は子供が好きだ、という観念だけで生きようと考えていた。

 そのような話題があがっても、ぼくらは肉体的な衝動を抑えることも忘れることもしなかった。ただ、ぼくらは不運から守られるのだ、という思い上がった気持ちを有していたのだろう。今考えれば、あの去った二人が不運かどうかも分からない。ただ、後ろめたい気持ちと偏狭な世界から逃げ出さざるを得なかったのだろう。その偏狭な世界のぼくも一員だった。入りたくなくても、それが事実だった。

 学校では、県だか市だかの担当者が来て、まじめな顔で性教育のはなしをしていった。聞いているぼくらは、いたって不まじめだった。その年代なら仕様がないのだろう。そのような冷ややかな経験をたくさん積んでいる担当者は、ただ自分の義務を済ましました、という表情を浮かべ帰っていった。あとは、守ろうが忘れようが、わたしの問題ではありません、という顔と態度だった。

 勉強も再開したが、ぼくらは秋の大会に向けて、より一層練習に励んでいた。メンバーも固定され、自分のポジションに精通するように、ぼくらは促されていった。練習試合があると、そのスタンドの中にたまに河口さんの姿があった。それが毎回見つからないとぼくは不安に感じるようにもなっていた。あの視線を待つことにぼくは慣れて行ってしまったのだろうか? その期待がだんだんと膨らんでいくことを防御することは、ぼくには出来なかった。

 そして、数語を交わす機会ももてたが、彼女のぼくに対する評価はいつも甘く、ぼくはその甘さをそのままにせず、次回はそこまでのランクに到達できるよう躍起になっていた。ぼくらのスポーツの当面のライバルであった島本という男性を追い越そうと自分は考えていただけかもしれない。そこには、かすかな嫉妬のにおいも混じっていたのだろう。そのことを、自分は不快にも感じていた。

 目立つその女性は、誰の視線も自分に向けてしまうことに気付いていたのだろうか? いつのように、ぼくと彼女がふたりでいると、上田先輩はからかう対象にし、後輩の山下は、ぼくが間違った選択をしているというにがい顔をした。多分、間違っていたのかもしれないが、その憧れの気持ちを大切にしている自分もいた。その貴重なものに水を与える機会をわざわざ作り、成長させているのはまぎれもなく自分だったのだろう。そして、振り返ってもそのような反応をした自分を責められずにいる。

 ある日、その練習試合のスタンドに学校を去った二人もいた。目立たない場所に座りながらもぼくは彼らの存在に気付いていた。試合後、タオルを首にかけ、ぼくはそっと彼らに近づいていった。どこかに、冷たい世界の一員である自分を恥じていたのだろう。

「よっ、元気?」と、ぼくは言葉をかけた。彼らもそうされるのを待っていたような気配があった。

「なにも言わずに悪かったな」と、その友人は言った。「お前の今日のトライ、良かったよ。あのチームに負けないよう今後も応援するから頑張ってくれよな。お前なら、やってくれると思うし」と言った。

 ぼくは、その言葉をきき、自分の主体とは別のところで、いろいろな人のために頑張るという世界に足を踏み入れてしまったことを知った。彼らと、そのいつか生まれる子供のために練習を続け、河口さんのためにガッツポーズをするのだろう。そして、最後になってしまったが裕紀が微笑むために、ぼくは自分の存在を律した。それが秋の始まりのことだった。

拒絶の歴史(23)

2009年12月12日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(23)

 夏休みの最後には、上田先輩の父親の会社の仕事を手伝うことになる。この会社の営業成績は徐々に伸びていっている。そっと社内をのぞいただけでも、備品が豪華になっているような気もした。

 ぼくらは、今回は後輩の山下を一緒に誘ったのだが、山に入ることになっている。そこで切られた木材を大型車に載せ、運搬してもらう。身体を鍛えるのにも効率的だったし、高校生の自分らにとって、良いバイト代にもなってくれた。そして、大きなことだが自分と違う年代のひととも触れ合うことにより、いくらか社会の空気を吸えることも自分には勉強になった。

 今回は実際の建築現場の手伝いもすることになっていた。職人さんの指図どおりしか動けなかったが、なにもない場所に自分の身体が動いた分だけ、その空白になにかが出来つつあるというものは気持ちの良いものでもあった。自分の将来を考えることも少し増えてきたが、スポーツでトップに立つ人間など限られていることだし、ぼくらの地方でラグビーで有名だった島本さんが希望の光のようだったが、それも力が発揮できず抑えられていることを踏まえても、なにか自分の技術と呼べるようなものを作らなければならないと感じていた。

 実際には、身体を動かしているときは何も頭には浮かんでいなかったのかもしれないが、一日を終え山下と帰り道を歩いているとそんな気分にもなった。

「なにか、食べていきましょうよ?」
 山下の呑気そうな発言で、自分は未来の考えもない普通の高校生に戻れるのだった。普段スポーツに明け暮れバイトをする時間もなかったぼくらはまとまったお金の使い道を計画することは難しかったのかもしれない。ぼくは、週末に自分のジーンズを買った。もうこれ以上身長は伸びそうになかったが筋肉だけはしっかりと身体のあちらこちらに貼り付いた。

 ぼくらは社長の息子の友人ということで、建築現場でも大切に扱われていたような気もする。本来の師弟関係ではもっと厳しいのだろうが、ぼくらには失敗も多少のミスも許されていた。そのような許容範囲でしかもちろん働けないことは分かっていたが、自分が失敗することをぼくは悔しく思った。チームプレーで誰かが失敗するなら、それはぼくではありたくなかった。ぼくは出来るなら他人の失敗を許し慰めてあげるほうにまわりたかった。自分に対する厳しさがあったが、それをなぜか他人に気取られることも恐れていた。

 夏休みの終わり近くになって、裕紀と最後に会った。彼女は高校のボランティアで小さな子供たちの体験旅行のようなキャンプを引率する役目を引き受けていた。湖や山でたくさん遊んだらしく、きれいに日焼けしていた。ぼくらは、太陽を浴びた肌をまだ美化していた時代に住んでいたのだ。それが、将来どうなるかなど考えてもいなかったのだ。そして、その彼女の生まれ変わった様子をぼくは美しく感じていた。

 ぼくは自分の経験を話し、彼女は楽しかった子供たちとの体験を話した。ぼくは山下が昼食をたべた量が職人さんたちを驚かせたことを聞かせ、彼女はひとりで寝るのが怖くなった子供を寝かしつけるために添い寝をしてあげた夜のことを話した。この二人が一緒にいないときの経験すらぼくらは一体化していた。そして、周りの友人や環境がいかに自分を左右するかを、ぼくは学び始めていた。

 その夏は県代表にもなったことで、家に遊びにくる妹の友人たちがぼくに話しかける機会も多くなっていく。彼女らは有名になりつつある過程の人が好きなのだ。ぼくは、その小さな町でそのような一員になろうとしていた。しかし、自分はそんなことで自惚れてしまうことも出来なかった。なにも自分は作り上げていなかったし、結果も残していなかった。ぼくらのチームは最終的には、いつも負けることになっていた。まだ自分の存在もまっさらで、ページにはなにも書かれていない状態だった。だが、河口という女性に自分の存在は知られ、応援される事実があるのも紛れもないことだった。そのことは確かに自分を動かす原動力にもなってくれていた。そのことは自分の腕に巻かれている時計が証明してくれていた。

 ぼくは愛想の良い兄という役柄を演じていた。それに疲れると自分の部屋に戻り、勉強に励むことになる。ぼくはスポーツでは大成しないであろうと考えていたし、それならば頭脳で勝負するしかないのだろう。せっせと問題を解き、歴史の出来事を覚えていった。それにも疲れると、上田先輩の父から貰った世界の建築物の写真集を眺めた。気がつくとベッドで眠ってしまうこともままあった。夕飯時には、妹が部屋に起こしにきた。

 食卓に座ると、妹の友人もひとり残っていた。きれいな顔立ちの子だった。その割りにおしゃべりが好きでもあった。

「お兄さんの彼女って、裕紀さんなんでしょう? わたし、子どもの頃同じ習い事をしていて待ち時間によく遊んでもらっていました」
 つい先日きいた裕紀の話が、ここでつながっていくのかと思っていた。

拒絶の歴史(22)

2009年12月06日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(22)

 新入生も4ヶ月ほど経ち、身体も頑丈に作られていった。スポーツに応じた筋肉も形成され、ある数人はすでに自分のポジションを確実化し、ある人々は未完のままだった。それが花開くか、未完のままで終わってしまうのかは、指導者の力によるものもあった。

 若いときに簡単にこじんまりとケースの中に埋まるような人間も、それなりの大人になってしまうのかもしれなかった。そこが難しいところだ。

 ぼくは、県代表のチームを指導した監督の方法を取り入れるようになる。自分の監督を愛していないわけでもないが、それぞれに得手不得手というものがあるものだ。もっと、大人になってから、このことは深く理解できるようになるが、まだまだ指図されるのを待っている子供だったのだ。

 最近は、とくに後輩の山下の伸びが目に留まった。彼なら、それだけで今後生活できるような感じも抱かせた。途中でその人生が転ばないよう、ぼくはこの2年間先輩として気をつけるつもりだった。

 しかし、その日は彼はいささか練習に対する態度が荒れていた。荒れていてもそれなりに打ち込んでいたようだし、タックルされるぼくらも簡単に倒されてしまった。エネルギーの発散方法が間違っていたとしても、彼はぼくらとレベルが違かったのだろう。だが、その態度は目に余るものだった。それで、練習後、その内面に隠されているものを探る必要があった。

 ぼくは、冷たい缶コーヒーを2本買い、山下に片方を手渡した。
「なんか、あったのか?」
「なんでですか」
「練習に対する態度が、どうも引っかかったよ」

 彼は、下を向いていた。何か、言いにくい言葉がのどに刺さっている小骨のように彼を無口にさせているようだった。しかし、しばらく待つと彼は自分から話すようになる。そもそも、無言に堪えられるようには出来ていないのだ。

「近藤さん、ゆうきさんが可哀想じゃないですか?」

 理由を訊くと、彼はぼくがこの前、河口という女性と会っているところをたまたま目にしてしまったようだ。心配を自分のことのように感じ、それを自分の中だけで閉じ込めてしまえば済む話だと考えてもいた。彼の風貌とは違い、そうした優しさも彼の魅力に今後なっていくのだろうとぼくは考えていた。

「あの人は、なんでもないよ。ぼくのラグビーを応援してくれているだけだよ。それに裕紀のことはひと時も忘れたことがないし、ぼくと彼女の問題だから、お前が悩むことないよ」と言ったものの、誰の問題かは誰にも分からないのかもしれなかった。

「それなら、いいんですけど・・・」彼は、手に持っている小振りの缶を飲み干し、そして簡単に握りつぶした。

「お前、俺んちで飯でも食べてけよ」と、彼を誘った。その誘いに彼は乗り、すぐにぼくと裕紀の問題を忘れてしまったようだった。

 妹と山下は不思議と気があった。妹はテレビの中のタレントたちも好きであるとは言ってはいるものの、実際は外見などまったく気にしないような人間であることを、最近になって自分は知った。

 ぼくの家族も山下という存在を好意的に受け止めている。彼が食卓に現れると、その場が急に華やぐことになる。食欲も旺盛で、たくさんのおもしろいエピソードも話してくれた。彼の内面にぼくの心配を宿してしまったことを、自分は不憫に感じていた。食事も終わり、電話が鳴るとそれは裕紀だった。ぼくは、わざとらしく立ち上がり、テーブルを離れ電話口に歩いていった。そこで、2、30分話したのだろう。楽しい瞬間でもあったが、山下のいるテーブルは、もっと楽しそうに一瞬も笑いが耐えない状況のようだった。

 ぼくが戻ると、彼は家に帰るといって、ぼくの母や父に料理の感謝を言っていた。

「また来てね。たくさん作ってあげるから」と、母は笑顔で彼に語りかけた。
 ぼくは、座ったまま「じゃあ、気をつけて」と言ってその場を立つ気もなかったが、その代わりに妹が玄関を出たところまで見送っていた。妹にしては珍しいことだった。

 ぼくは、その後風呂に入り、湯船に浸かったまま、山下の言葉を考える時間がやっともてたと思っていた。ぼくは、裕紀を悲しませるような状況を自分自身で作ってしまうのだろうか? その未来は誰にも分からないことだったし、また未来を空想するにも経験自体が不足していた。

拒絶の歴史(21)

2009年12月05日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(21)

 夏休みの練習中に駅からの通学路をいつものように歩いていると、おしゃれな美容院の前にある女性がにこやかに微笑み、流れるような一本ずつ意思をもったような髪の毛がきれいに整えられた表情で写っている写真がこちらを向いて飾られていた。

 ぼくは、数回通っても分からなかったが、ある日、それは河口という女性であることが理解できた。そして、道路を横切り、その店の前に不自然にならないように近づいていった。おかしな話だし、手に入らないものを憧れるように、ぼくはその写真を眺めた。それは、理想の女性でもあり、つまらない表現を借りるならば前世の因縁のようでもあった。手からこぼれ往くラグビーボールのようにぼくはそれを失い続けたのかもしれなかった。

 しかし、ある日練習を終え、近道である裏口から校舎をでると、見かけたことのある車が停まっていた。その前に、青い薄手のワンピースを着た河口さんが立っていた。

「近藤君、もう練習が終わったんでしょう?」
 ぼくは、意味もなく後ろを振り向いた。自分と同じ名前の人物がいるかもしれないと疑うように。

「たまには、一緒にご飯でも食べましょう」と彼女は、もう決められていたかのように話した。自分は、急に自分の制服姿が田舎くさく洗練されておらず嫌になった。

 ぼくらは、車に乗り込み彼女は運転した。ぼくは、話の糸口として、あの写真のことに触れてみた。

「あれ、頼まれたから仕方なくやったのよ」と、既にもう忘れられた記憶のように彼女は語った。ぼくは、「きれいでした」と誉め言葉を言ったが、彼女は「過去形ね」と独り言のようにいって微笑んだ。その横顔をぼくは、ずっと覚えることになる。

 小さな感じの良いレストランに彼女は連れて行った。急にスポットライトを浴びた野良犬のように自分を感じていたが、彼女はそのことに頓着しないようであった。

 彼女は、ぼくがこの前行った県代表チームのことを話し始め、ぼくの頑張りを誉めてくれた。それは、誰かの口から発せられ、ぼくの耳に届く必要があったのかもしれない。もしかしたら、裕紀の口から出るのを待っていたのかもしれないが、まじめな彼女は、ぼくのなるべき理想を追い求めたのかもしれない。それゆえに、ぼくはその言葉を待ち望み、聞いたとたんに嬉しくなって、これまた優しさに不慣れな野良犬のように、少しずつ尻尾をふった。

 そのご褒美として、「これ、上げる」と言い彼女は小さな四角いものを出した。「袋、破ってもいいわよ」と、彼女はすこしあごを上にあげた。彼女がそういう表情をすると、より一層魅力的に思えた。多分、妹がしたら行儀やしつけがなっていないと、自分は考えたかもしれないと、ふと頭に浮かんでいた。

 ぼくは、それをデザートのケーキの皿をよけ、開けてみた。中には、ぼくが1,2年後なら似合うような時計が入っていた。ぼくらの小遣いでは到底、手が届かないような金額であることもすぐに理解できた。

「貰ってもいいんですか?」
「プレゼントをされたら、にっこり微笑んで受け取ればいいのよ」と、そこに哲学が含まれているように河口さんは言った。ぼくは、それをやはり今でも哲学のように、宇宙の運行のルールのようにきちんと守っている。

 ぼくは、訊かれたことにはきちんと答えたが、自分が一番知りたいこと、島本さんとの交際はその後どうなっているのかは訊けなかった。彼は、都会の大学でラグビーをしているはずだった。噂では嘱望されて入った大学だったが、きびしい現実にぶつかっているとも聞いていた。もし、それが終わっていたとしても、彼女とぼくとは当然のことながら、住んでいる階自体が違うようにも感じるし、裕紀という大切な存在も自分にはあった。それを、一生手放さないつもりかと質問されたり、自分にその問いを投げかけると、普段なら即座に返事ができるが、河口さんを目の前にすると、自分の気持ちは、しけの海に浮かぶ船のように大揺れになった。

 ぼくは、「ありがとうございます。着けてもいいですか」と言ってから、自分の左腕にはめた。自分のランクがいくつか上がったように感じた瞬間でもあった。
「とっても、似合うよ」と、彼女は最後のコーヒーを飲み終え、それに合わせ唇の色を確認するように指を口元に近づけて言った。その後、勘定を彼女がしている間にぼくは左手を揺すったり、上に持ち上げたりして眺めてみた。

「家まで送ってあげるね」と、バックの口から車の鍵を出して、横目でぼくに語りかけた。その時に、彼女に似合うような男性に自分はいつかなれるのか、それとも、永久に後を追い続けるような人生がまっているのかの両方の道を想像していた。

 家にはすぐ着き、この一日が終わってしまうことをぼくは、こころの奥で悲しんでいた。

「いろいろ、ありがとうございました」
「また、今度、グラウンドで頑張って、私を感動させてね。望んでいるのは、それだけだよ」との言葉を残し、彼女と車は去っていった。ぼくは、まだそこに彼女の存在を探すように立ちすくんでいた。

拒絶の歴史(20)

2009年12月02日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(20)

 夏休みに入った。

 ぼくは、17歳であり、高校の2年生であった。急に海外からラグビーをしている高校生の遠征先にぼくらの県も選ばれ、即席の代表チームを作ることになった。当初、予定されたチームとの練習試合は、問題が起こってしまったのか、行われないことになっていた。そのために別の試合の予定がぼくらの県で組まれた。

 誰が選んだのかは知らないが、ぼくもそのチームの一員に選ばれていた。周りにいる人物はそれぞれその県で名前が知られている人物だったが、ぼくは自分がなぜ選ばれたのか分からないような気持ちで最初の練習に参加した。が、ぼくのことを意外なことに誰もが知っていた。その事実と、自分の気持ちを調和させることは難しかったが、その年代の隔たりのなさと、同じグラウンドで汗を流している一体感が、ぼくらの壁をいくつもいくつも壊していった。

 その経験は、小さな町に住んでいる自分にとっても、自分の偏狭な考え方を美しく失うことに一役買った。ぼくらは、ライバルのチームを魅力のない人物の集合体として、憎むことを教えられていたが、実際に接する彼らは、多少の個性の違いはあるにせよ、みな気持ちのさっぱりとした人たちの集まりだった。それぞれ、自分をチームの一員として役立たせようと考えていたし、それで自分の名誉がいくらか失うことがあったとしても、そのことを過大に考えることをしない人々だった。それは、ぼくがスポーツに求めていることでもあったし、原動力ともなっていたものだった。

 忙しくしていたので、裕紀に連絡をとることも減った。しかし、ぼくが今どのような状況に置かれているかは、賢い彼女のことだから直ぐに理解してくれた。たまに、ぼくの妹とも連絡をとり、ぼくの日常を伝え合っているらしかった。そのことはなぜかぼくのこころを暖めてくれる一因になっていた。

 練習自体も新しい経験の積み重ねだったし、そのチームを監督しているのは、ぼくらがいつも負けている強豪校の監督であった。その練習の方法や、指導の仕方を学ぶことによっても、ぼくのなにかが一段と目覚めていく経験にもなった。

 そして、練習試合の当日になった。新しいユニフォームに身を包んだ自分は、その県を代表するという意識にすこし舞い上がっていたかもしれない。それでも、思うように走ることも出来たし、それなりに自分の役目を果たすことができた。寄せ集めであったとしても、意思を通いあわすことに長けているぼくらは、そこそこのトライを決め、相手をいらだたせ、結果は勝負に勝つこともできた。

 相手は悔しがったが、ぼくは彼らの頑強な肉体とぶつかり合うことによって、耐えられる何かを学習し、また一方では、自分の限界も痛感した。ぼくらは、今日ただチームワークが良かっただけなのだ。あと19回戦ったら、ぼくらは1勝19敗であったかもしれない。それが、地力の違いかもしれなかった。

 しかし、その現場にいる自分は、自分の人生の輝ける瞬間であったかもしれないし、この経験を自分の高校のチームに早く伝えたくて仕方がないぐらい急いていた。

 試合後、ユニフォームから着替え、そのユニフォームを大切な宝物のようにたたみ、外に出た。ぼくは、裕紀が自分のことをどのように確認し判断するかを待っていた。それは、甘い言葉の連続であるはずだったかもしれないが、その日は、ぼくが他人の目を意識し過ぎているような雰囲気を出していたと冷たく彼女は言った。もしかしたら、その通りだったかもしれない。しかし、彼女の冷静な判断による言葉は、ぼくの浮かれた気持ちを一瞬にして冷やしてくれた。そのことを冷静に考えようとする自分もいたが、もちろんのこと甘い言葉も望んでいたのだろう。その後の、彼女の笑顔と甘いキスですべては償われていくのだった。

 そのメンバーの何人かとは電話をするようにもなったし、顔を合わせれば挨拶をするようにもなったが、ぼくらは、その小さな県で一番になり、全国大会にでることを夢見ていたので、当面のライバルであることは間違いのない事実だった。しかし、自分のなにかを好意的に見てくれる人がいて、強豪校の監督はぼくのことを良く思っていてくれたらしく、その後の試合ごとにぼくに対して暖かい言葉をかけてくれることになった。このように17歳の短い夏は始まり、いま振り返ってもその輝きは自分の中に残っている。