爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(62)

2011年05月29日 | 償いの書
償いの書(62)

 それぞれの都合をきき、ぼくと裕紀と笠原さんと高井君はあった。彼らがどのような気持ちを持っているのか分からなかった。ぼくは、誰かを紹介してもらうという立場に自分を置かなかったからだ。それは勝手に訪れ、勝手にぼくのこころをもっていった。そこには必然があり、運命であるということをわざわざ感じようとした。ぼくは操られるべき人間で、その渦に自分自身を投げ込むのだという風に、ある意味、自棄てきな気分もあった。

 そして、ここまで歩んできた。それは、正しかったという認識ももっている。もし、正しくなかったとしても、自分ではなにも変えられなかった。

「こんな服でいいのかな?」
「別に、裕紀のアピールの場でもないじゃん」
「そういうところが、ひろし君は何も分かっていない」と、彼女はすこしふくれる。多分、なにもわかっていないのだろう。ぼくも普段着よりかいくらかましな服装で戸外にでた。快適な青空とすがすがしい空気の入り混じった、そろそろ秋の終わりを予感させるような日だった。裕紀は珍しくサングラスをしている。彼女の視力はとてもよく、普段もメガネはしなかった。

「なんか、太陽の力を過敏に感じてしまうようになった」と、最近、強い日差しのときはかけていると言った。
「そう、なんか変わったのかね」と意味らしきない言葉を発し、それでも、ぼくは裕紀の隠れた視線を探そうとしている。ぼくらはその後、早めに着き、コーヒーを飲んでいる。すると、笠原さんがやってきた。歩いているという感じではなく移動しているような不思議な歩き方をしていた。彼女は照れたように、

「なんか、白々しいような感じにしないでください」と、素っ気無く言った。素っ気無いのとは裏腹に、そこには愛情の発露のような気分があった。やがて、高井君もやってくる。彼は、いまなにか用事をすませたついでに通りがかったというような自然な感じで歩いてきた。ぼくらを見つけると手を振り、それを止めるタイミングが分からないように、直ぐそばまで歩いてきた。

 何分か経ち、最初の気まずい空気が消えた後は、それぞれの個性が出てくるようになった。自分らしく振舞うことがいちばん楽であることを知っているようなふたりでもあったのだ。

「近藤さん、やっぱり、嘘をつかないひとなんですね。可愛いと言ったら、ほんとに可愛い」笠原さんがいなくなった瞬間、彼はぼそっと言った。
「ぼくじゃないよ。裕紀だよ。ぼくは、ただ約束をして、それを忘れてしまうようなことができなかっただけ」
「ほんとですか?」高井君は裕紀に訊く。それをどっちの意味か考えている裕紀の表情があった。
「ひろし君が守らない約束は、いままでにない」結局、質問をそちら側に受け取った裕紀は答えた。

 ぼくらは、店を変え、アルコールを飲ます場所に向かった。最初のうちはみなでワイワイと騒いでいたが、時間が経って、意図的にぼくは裕紀とだけ話すようにした。たまたま、隣合ったふたりと相席でもしたような感じで。裕紀も普段、話さないようなことをそのときには話した。日常、ひとりで家にいて、夜しか話すことが少ない生活では、物足りなさを感じていたのかもしれない。そうしていると、遅くなり、

「同じ方面なので、彼女を送ってきますね」と、高井君が声をかけてきた。「今日は、ありがとうございました」ぼくは、そこにまだ高校生のラグビー少年を発見したようだった。
「帰ったね? どうなるのかな」
「さあ、もうぼくの問題じゃない」

「冷たいよ」最善の人間を紹介したかもしれないという自分の満足感で、ぼくは、あとのことは無関心でいようと決めた。種は撒かれたのであり、それを生かすもどうするかも、ぼくの荷ではなかった。ぼくは、自分の荷物を充分に抱えていた。やるべき仕事もたくさんあり、愛すべき妻のこころを楽しませる必要もあった。
 それから、何日か経ち、上田さんから電話があった。
「あいつ、最近、なんだかウキウキしているよ」
「そうですか、じゃあ」

「うまくいったんだろう。ありがとうな」
「上田さんに言ってもらうことじゃないですよ」
「不満顔の女性が我がチームにいることを考えると」ぼくは、そのことを自分に照らし合わせて考えてみた。まあその予測はつき、上田さんの気持ちも分かった。「島本さんの後輩がね。つくづく、お前はあのひとに縁があるんだな」
「そんな言い方、しないでくださいよ」だが、それは自分でも感じていた。そして、はっきりと厭な気持ちがしていた。だが、これさえも自分の運命であり、逃れられない糸に絡められているような気持ちももった。
「いつか恩は返すよ」
「必要ないですよ」
「まあ、こっちの気分だし。智美もオレもたまには裕紀ちゃんの顔が見たい」
「そうですね。では」

 ぼくらには見えない絆があるのかもしれない。その範囲に誰を入れるのかをぼくは考えている。職場の怠惰な空気が流れた一瞬、ぼくはその思いに捉われる。それを空白の紙にメモをしていった。そこには上田さんも智美もいて、向う側には雪代がいた。島本さんもそこに入りたそうな気配がした。だが、ぼくは断固としてその名前を紙に書き付けることはしなかった。だが、書いていなかったとしても、彼のいくつかの表情をぼくは知り、またそれを雪代も知っているのだろうということを実感としてもっていた。
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償いの書(61)

2011年05月28日 | 償いの書
償いの書(61)

 ぼくは、家やマンションを売り、土地を誰かに貸し、生計を立てていた。枠があれば、そのなかには細かいデティールで美しく表現する部分もある。マンションの一室をきれいにするために家具があり、インテリアを職業とするひともいる。ぼくらは自分の身体の一部のように、それらのひとびとを必要とし、仕事上で関わった。

「今度、展示会があるので来てくださいよ」と、家具屋さんが招待状をくれた。

 日曜の午後、ぼくはそれを手にして裕紀と歩いている。ぼくらはふたりで世界を構成するのに慣れ過ぎてしまったようだ。別の生物がぼくらの生活にいることが考えられなくなってしまっている。裕紀はそれに対して不服でもあるようだったが。

 たくさんの家具が陳列されている中を歩く。ときには素材を眺め、手に触れ、引き出しを開けたりした。その前で屈み、ソファに座ったりもした。ぼくらの家は会社が家具も揃えてくれていたので、大きなものは買えなかったが、手頃な小さなものを置くことは、生活をする上で段々と必要になってきた。ものは増え、行き場所を望んでいた。そうした行動にこころを奪われていたときのことだ。

「近藤さんですよね? 高井です」と声をかけられた。しっかりとした顔立ちのぼくよりいくらか若いであろうことが、きびきびとした身体の動きからも分かった。「あ、覚えていない? ひどいな」とつづけた。
「仕事で会いましたっけ?」

「いや、ぼくもあの県でラグビーをしていました。山下と同期です。彼、辞めちゃいましたね」
「そうすると、あっちの学校?」

「そうです。島本さんの後輩です。あの、女たらしの」と、悪意もない表情で微笑みながら彼は言った。「これ。よろしくお願いします」と言って彼は名刺を渡した。ぼくは、それを受け取る。
「ぼく、持ってないけど」

「あとで、会社のものに訊きます。なんか、いいのございました?」と、彼は会社員の顔に戻って言った。「暇があったら、早く終わるのでどこかで食事でも」

「どう?」ぼくは、裕紀に訊く。
「別に、大丈夫だよ」と、彼女は答えた。ぼくは、ラグビーを同時代にしていたというだけで彼に好印象をもつ。ぼくは過去を振り返り、自分とライバルチームの間で、どう競争が行われ、どうシビアな考えが浸透していったのか知りたく思った。
 ぼくらは家具を見るのにも疲れ、都会の中の公園のなかを歩いたり、ベンチに座って小鳥たちの振る舞いを見たりした。
「女たらし、って久々にきいた」と、裕紀は鳥を見ながら笑って言った。ぼくは、素直には笑えなかった。その妻になったひとのことを考えざるをえなかった。
「そういう一面もあったんだろう」
「かばいたい?」

「10代の運動選手のヒーローであった彼を、あまり、悪く考えたくもない。誰だってちやほやされたら、ああなる可能性をみんな持ってるんだろう」
「ひろし君も?」
「ぼくは、そんなにちやほやされなかったし、一途になる面もあった」
「そう?」
「主観の問題だからね」

 待ち合わせの時間が迫り、ぼくらはそこを出た。はしゃぐ子どもや、帰りたくないと言って泣き叫ぶ子どももいた。「じゃあ、ずっとここに居なさい」と母に突き放されると途端に泣き止んだ。現金なものだ。

「遅れまして」と、好青年が足早にやって来た。そのフットワークの軽さから、ぼくの過去の記憶が取り戻される。あの走りと、彼がどこのポジションであったかが思い出された。

 ぼくらは、ある店に入り、そのことをぼくは告げる。
「本当ですか? なんか都合がいいような」と、メニューから目をあげ、彼は言った。
「ぼくは、裕紀さんを覚えています」彼は、横を振り向き店員を呼んだ。「これと、これで、いいですかね」とぼくらに確認し、それを店員にも言った。メニューは取り上げられ、その代わりに飲み物が運ばれてきた。皆、飲み物を口にして、高井君の次の言葉を待った。だが、なかなか口にしなかった。

「裕紀を覚えている?」
「ぼくらは裕紀さんを覚えています。近藤さんを応援している素敵な女性がいることを、ぼくらは噂をしていました。多感なころですから。自分にも、そうした存在を必要としていたのかもしれません。なかなか、練習が厳しくて、余裕のないころでもありましたしね」

「それで?」裕紀は次の言葉が待ちきれないようで、促した。
「ある日、いなくなってました。裕紀さんは。ぼくらは噂をしたけど、いつの間にか忘れてしまった。だが、今日、近藤さんと一緒にいる所を見て、自分の記憶が間違っていたのか不安になってしまった」

「留学してたのよ」
「急に?」
「急に、ね」と、裕紀はぼくの方を見つめた。それは非難ではなく許しの目であった。ぼくは話の転換をはかる。
「で、高井君にもそういう存在はできた?」
「できたり、いなくなったり。そして、いまもいないです」
「あの子を紹介すれば」裕紀は、そこで口を挟んだ。ぼくにもその検討はついた。
「誰ですか?」

「ああ、あのね。ぼくの先輩に上田さんがいて、彼もラグビーをしていたんだけど、そこの会社の若い女性と知り合いになって、誰かを紹介することを約束させられたんだ。別れたばかりだからデリケートな部分もあるかもしれないし、ぼくの知り合いの範疇にも、これっていう人間が見当たらないので、約束が延び延びになっている」
「どんな人です?」

「可愛いけど、しっかりしているような素敵な子」と、裕紀がその後も容姿の特徴なども語った。ぼくは、それを聞きながら笠原さんのイメージを立体化していった。
「ぼくのことをよく知らないのに?」

「ひろし君は地元でラグビーをしていた子に甘い点数をつけるからね」と、裕紀は言った。ぼくは、そのまま頷いた。料理が運ばれてきて、湯気がたった皿を見ながら、ぼくはあるふたりの人生の運命をあやつる立場にいることを象徴的に感じていた。
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償いの書(60)

2011年05月23日 | 償いの書
償いの書(60)

「ゆり江ちゃんの結婚式の写真ができた。見る?」
 仕事から帰ると、裕紀は袋から写真とネガらしきものを出した。ぼくは、それを洋服を着替えた後、見た。
「きれいだね」

「そうでしょう」裕紀は自分のことのように喜んでいた。「もし、わたしが先に死んじゃうようなことがあれば、ゆり江ちゃんみたいな子と再婚して」ぼくは、真面目な顔でその発言した方へ向く。「もう、無理だけどね」
「冗談でも、そういうこと言うなよ」
「冗談だから、冗談らしくきいてよ」彼女は、笑う。ぼくは、どちらに怒ったのだろう。ゆり江ちゃんと以前に関係をもったためか。それを知られることを恐れるためか。それとも、裕紀が先に死ぬ、ということを考えたくもなかったのか。自分でも分からない。だが、不機嫌の予兆のようなものは残った。

「裕紀のは?」彼女が着飾った格好で写っている写真も見ておきたかった。
「何枚か後ろのほうにあるよ。ゆり江ちゃんみたいな輝ける日は終わったけど」彼女は、なぜかその日は珍しく辛らつな発言をした。

「別に、終わってないじゃん」
「そう、思う?」
「そう、思ってるよ。今でも」後ろに数枚だけあった。誰かにカメラを渡して撮ってもらったのだろう。それは、まさしくぼくの妻であり、またその笑顔はいつも見せる表情より華やいでいる気がした。「きれいに撮れてる」
「10年ぐらい前のゆり江ちゃんのこと、知ってるんだよね?」
「妹の友だちでもあって、バイトをしてたのが、ぼくの家に近かったから」ぼくは、当たり障りのないことを情報として与えようとしている。

「わたしが、よく知っているのは20年ぐらい前。とっても、可愛かった」
「10年前も可愛かったよ」
「ああいう子、好きにならない?」
「どうだろう。たくさんの男の子はそう思うだろうね」ぼくは、一般論で終わらせようとしている。
「ひろし君は、思わなかった?」
「まあ、タイミングが、ものをいうこともあるしね」

「しつこいけど、わたし以外と再婚するなら、ゆり江ちゃんみたいな子がいい。ひろし君に合ってる」彼女はあくまでもそのことに拘った。ゆり江ちゃんなら許すが、そこは暗に別の女性では駄目だということを示したがっているらしい。それは、雪代のことを永遠に許さない、という決意にも響いた。ある面から見れば、そう取れた。そして、自分のよく知っている女性と、知りたくもない女性を区別させ、ぼくの世界を作り、かつ操ろうとしていた。

「なんか、今日、しつこいよ。誰とも結婚なんかできないよ」ぼくは、もうその話題を避けたかった。「上田さんの会社の後輩の女の子とあってね、誰か紹介してと言われたんだ」ぼくは意図的に別の話題を選んだ。自分を中心としない話の内容へとだ。その切り替えはうまく行くのだろうか?

「そう、可愛い? あ、あの子?」ぼくが名前を言うと、彼女が撮ってくれた写真を裕紀は見た。「誰か、いなかったの? 決まったひとが」
「別れたばっかりらしいよ。長い話を聞かされた」
「退屈だった?」
「逆だけど。まあ、歴史の証人になった気分だよ」
「誰かの耳に届けたいのよ。わたしもそうした」
「誰のこと」裕紀は、信じられないという表情をした。まさしく、その理由を作った当人と話している最中ではないか、という顔だった。どうも、切り替えは難しいようだった。
「ごめん、そうだよね。忘れてる訳じゃないけど」

「責めてないよ。ただ、そんな気分の日があって、誰かに伝えて忘れたり、そのことで浄化されたような気持ちになるものよ、わたしなんかも」ぼくは、裕紀が誰かに伝えた自分の別れ話が、世界を巡って、笠原さんの口を通して語られるストーリーに責任を取らされたようなイメージを頭の中で作った。ぼくは、そうする運命でもあったと誰かが要求していた。
「誰か、いるの?」

「会社の何人かが思い浮かんでいるけど、タイプが合わなかったり、別れたりしたら、両方に対して悪いような気もしている」
「それは、自分たちで考えるでしょう」
 ぼくは手持ち無沙汰になり、さっきの写真をまた手にした。
「結婚相手は、どうだった?」

「背が高くて、素敵なひとだった。ちょっと、ぼんやりしているようにも見えたけど」
「男性って、ああいう日は、緊張するものなんだよ。それで、そう見えたんだろう」
「ゆり江ちゃんもお母さんになるのかな」と、彼女は遠くを見つめるようにしていった。「彼女のお母さんもずっと優しいひとだった。誰もが憧れるようなきれいなお母さんで。この前も変わってなくて、きれいだった。ああいうお母さんを悲しませるようなことを誰もゆり江ちゃんにしちゃ駄目だよね」

 ぼくは、以前にそのゆり江ちゃんを悲しませたかもしれないことを考えていた。世界は自分の思い通りにいかないものだと、やっと、思い始めた若い自分の先駆けとして、その映像が自分の頭の中にあった。
「どうかした?」

「あの愛らしい子が、また、愛らしい子を産むのかなと思ったら、時間はもの凄く早いスピードで過ぎ去ってしまうものだと思った」
「つかまえないと、わたしも逃げちゃうよ」
「つかまえないと、しっかりと、つかまえないと」と、ぼくは独り言のような言葉を口から漏らした。
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償いの書(59)

2011年05月22日 | 償いの書
償いの書(59)

「直美ちゃん、しばらく」
「こんばんは。お久し振りです」店に入ると笠原さんは店員と、そうやり取りをした。それで、どれほどの頻度で彼女がそこに行くのか、また行かない期間が想像できた。
「新しい彼氏?」

「違います。仕事の先輩のお友だちです」それを確認するかのように横にいるぼくに振り向いた。
「それは、微妙なスタンスだね」店員は、それでもからかうのを止めないようだった。
 ぼくらはカウンターに座り、それぞれの飲み物を注文する。店員は、それを作り運んできてカウンターの向う側から差し出した。ぼくは、両方の手でひとつずつ受け取った。左手には円筒形のグラス。右手には、足の長いグラスがあった。
「よく来るんだ?」
「以前は。最近は足が遠退いている」
「なんで?」
「一緒に来るひとがいなくなった」

「そうか、ごめんね」彼女は、そこから長い物語を始める。大学に入りたてで不安を感じている頃に出会ったサークルの先輩に恋をしていることに気付いた。5月になり、6月になりそれを隠そうとしながらも、周囲の人間は、その不可解な様子を感じる。彼女は髪型を変え、化粧も洗練していこうと考える。何かの際に彼のタイプを知ったからだ。その理想像と自分の狭間を埋めるために努力する。努力の甲斐もあってか、彼は交際を求めてきた。彼女は考える振りをしながらも同意した。

 いくつものデートがあり、いくつかの喧嘩があった。些細な理由は、それすらも未来の思い出にするようだった。彼女はふくれ、彼は謝った。謝り疲れて、逆に怒った。彼女は彼をなだめ、些細な理由なのでいつかは解決した。解決をするために、仲直りをするためにわざわざ喧嘩の要因を作るような場合もあった。見た映画は増え、行ったレストランは記憶され、遊園地の夜は、彼女がもっとも輝く日だった。

 彼は、働くようになり、彼女を子ども扱いにする。子ども扱いされないために、居ないときに彼の部屋で料理をする。待つことが楽しみの一部となっていく。そして、彼女も働くようになり、これで対等な立場で会えると思っていたが、そう考えたのが浅はかなぐらいにふたりは会えなくなった。時間は合わず、休日も別々だった。彼は別の女性を作り、考え直すよう迫ったが、その行為は実らなかった。
「なんか、惨めでしょう?」
「そんな風には思わないよ」
「そう、なんで?」
「そういういくつものことが、君を大人にしてくれた。右も左も分からない10代の女の子から」
 笠原さんは、その道のりを頭の中で浮かべるためか、目をつぶった。空いたグラスが彼女の前にあり、ぼくも、また自分の分を飲み干した。

「なにか、作ります? 直美ちゃん、素敵でしょう」店員は、彼女の側にいるようだった。
「近藤さんって言うんですけど。もう、結婚しています。きれいな奥さんがいるんです」
 店員は、これこそが驚くというような表情を作った。ぼくは、それを見て笑った。バーのカウンターのなかにいなくても、別の職業でもやっていけそうな感じだった。大道芸人。

「じゃあ、誰か紹介してもらうといいよ。妻帯者の目から判断してもらって」
 笠原さんは振り向く。何かを期待するように。ぼくは、誰かに自分以外を売り込むようなことは、してこなかったことを気付いた。それで、ぼくの若さがこの瞬間に消えていくような感じをもった。
「誰かいますよね?」別のグラスをもってきた彼はテーブルにそっと置いた。
「誰かいますかね?」笠原さんも言った。

「うん、誰かいるでしょう」ぼくは、何人かを頭に浮かべる。だが、笠原さんがなにを期待し、なにに対して無頓着なのか分かる訳もなかった。もうしばらくは、情報を得る時間を必要とするようだったが、若い女性がそうのんびりしているとも思えなかった。「考えておくよ」
「やった」と、小さく言い、喜びの表情に変わった。先程まで自分の物語に過剰なまでにうっとりし、またしんみりとした彼女はいなくなった。ぼくは、その憂いを帯びた彼女も好きだったが、この快活さも彼女の一面であることを知った。「じゃあ、電話くださいね。約束ですよ」

 ぼくは生半可な返事をする。ぼくと別れた数人の女性は、笠原さんのようにぼくのことを物語として覚えてくれているのだろうかと考えた。出会いがあり、思い出は作られ、そして、別れる。しかし、誰もが立ち直るように出来ていた。彼女の微笑みを見ながら、嬉しい反面、悲しいような気持ちも持った。

 店内には静かにピアノが流れていた。「マイ・ロマンス」だろう。雪代が誰だったか覚えていないがその演奏を好んでいた。あれもいらない、これもいらない、というような曲であったはずだ。笠原さんは、何がいらないのだろう? また、何を必要としているのだろう。そして、紹介というような場面から燃え上がるような炎は成立するのかとも考えた。考えても仕方がないことだった。

 夜は暮れ、そろそろ帰らないわけには行かない時間になった。店を出て駅前で別れた。笠原さんは地上の電車へ。ぼくは地下にもぐった。電話が鳴り、裕紀がそばにいることを知り、ぼくは待った。彼女の頬は紅潮し、もたれてきたときの匂いにアルコールが混ざっていることが認識できた。

「ごめんね。今日、何をしていたの?」
 ぼくは、それを説明することを困難に感じている。「野球を見たよ。久し振りだった」
「わたしは、いつまで経ってもルールを覚えられない」と、自嘲気味に裕紀は言った。
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償いの書(58)

2011年05月21日 | 償いの書
償いの書(58)

「上田さんって、会社ではどんなひと?」
 ぼくらは共通の会話を探す。その糸口は、共通の知人の話題だ。
「あのままのひとです。非常におもしろい」笠原さんは、おいしそうにご飯を食べていた。「これ、おいしいですね。お腹空いてたからなのかな」と、自分の腹部を見た。それは、まっ平らなものだった。
「そうなんだ」

「近藤さんは、ラグビー部の後輩だった?」
「そうだよ。練習が終われば、とてもきつい練習だけど、彼はその辛さをぼくらに忘れさせてしまうほど、おもしろい話をしてくれた」
「自分も辛いのにね」
「そうだね。そういう観点からは見たことがなかったけど」
「東京には来たくなかった、と近藤さんのことを上田さんは言ってました」
「そうだよ。大切なものは全部、あっちにあった」
「女性とかも?」
「うん。女性とかも。すべてだけど」
「この前の奥さん?」

「違う」そのときに、ぼくは別の人間のことを考えている。「その前のひと」
「ふうん」彼女は、視線をテーブルの料理に向けている。「これ、どうやって作るんでしょうかね」
 ぼくもそれを見る。しかし、答えは分からない。
「どうだろうね。あとで訊く?」
「いいえ。その前のひとと大恋愛した。上田さんがいつか言ってました」
「そんなことまで言うんだ」
「開けっ広げのひとですから。私にもそんな熱意をもってくれるひとができるでしょうかね?」
「できるでしょう。きれいだもん」
「別れたばっかりなのに?」
「ぼくのその前のひとも、別れたばっかりなのに突然、前の男性と縒りを戻した」
「ずるいと思っている?」
「さあ。少しは思ってるんだろうね」

「自分もそうなのに?」彼女はアルコールで、少し酔いはじめたようだった。それで境界線というか初対面の垣根が消えていくようだった。
「そういう観点で見たことはなかった」
「そればっかり。自分のことを知らなすぎるみたい」彼女の目は、いくらか潤いを帯びている。裕紀はそういう表情をすることはなかった。考えれば、雪代もだった。ぼくは、それで新鮮なこととして笠原さんを見つめた。「奥さんは誰の結婚式に行ったんですか?」

「幼い頃からの友だち」
「近藤さんも知ってる?」その質問は不意で、ぼくにはなぜか痛いものとして突き刺さった。「知ってる? どう?」
「知ってるよ。ぼくの妹の友だちでもある」
「じゃあ、妹さんの友だちも家に遊びに来た?」
「普通に来るよね」
「可愛い子もいました? なかには?」
「どうだろう。やっぱり、妹の友だちだよって感じ」
「上田さんの奥さんも友人なんですよね」
「ぼくのが先に知ってた。幼馴染みだから」
「しかし、上田さんと結婚した」

「彼で良かったよ。ぼくらの愛する先輩だからね」ぼくは、そのことを考えている。自分の世界が広いようで狭いこととして認識もしている。ぼくの妹と結婚したのも愛すべき後輩だった。それらのひとを見つけるため、ぼくは学生時代に運動に励んだのだろうか? それは、謎だった。誰が分かるだろう。
「だけど、近藤さんは東京に出て来た」彼女は話を戻した。ぼくは東京に出て来た。「大切なものを置いて来てしまった」
「大切なものだと思っていたけど、それは、もう分からない。こっちにも大切なものが増えてしまったから」
「いまの奥さんも?」

「そうだろうね。彼女がいなければ東京の価値も減ったかもしれない」
「かっこういい」そう言って、彼女はトイレに立った。バックからきれいなブルーのハンカチを取り出した。歩く後ろ姿を見ると、すこしよろめいた。そして、すれ違う男性とすこしぶつかった。ぼくは、そろそろ帰ることを考える。その合間に携帯電話を見ると、裕紀の着信があり、電話をすると楽しいので帰りが遅れる、ということを伝えてきた。笠原さんは、まっすぐになった身体で戻ってきた。酔いをトイレに流してきてしまったようだった。「奥さんに?」
「帰りが遅くなるって、なんだか、とても楽しそうだった」

「心配?」
「とくには」ぼくは、本当に心配などしていなかった。そのような感情が入り込む余地などぼくにはなかった。なぜだろう? そう思っていると、彼女は別の店に行きたがった。ぼくも、一人で家に居る気分ではなかったので付き合うことにした。会計を済ませ、夜になった町にでた。電気が作るイルミネーションは、ぼくを結婚前のような気持ちにさせた。いつか、ゆり江ちゃんもそういう気持ちになるのか考えた。また、ふとぼくのことを考えてくれるような瞬間が訪れるのか想像した。笠原さんが言ったように、ぼくは本能的に利己的な人間なのか。

「わたしの知ってる店があるんです。そこでいいですか?」
「いいよ」ぼくの頭からゆり江ちゃんが消え、裕紀の姿も遠退いた。ぼくは、まだ若いころの自分がそこに居るような気がした。自分が放つ魅力の半分も認識していない女性(それが、若いということなのだろうか?)が隣にいて、そのハイヒールの音が闇のなかで響いた。ぼくはその微妙に揺らいでいく音が、自分の耳に到着する前に予想する自分のこころの音と重ねた。
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償いの書(57)

2011年05月15日 | 償いの書
償いの書(57)

「花嫁を嫉妬させちゃ駄目だよ」
 あれから、何ヶ月が経って、裕紀は仕度をしている。ぼくも途中までついて行き、見送った。彼女は笑顔で振り向き、そして、遠ざかっていった。今日は、ゆり江という子の結婚式だった。

 ぼくは、それから暇を持て余し、そのまま、何の考えもなく電車に乗った。野球でも観ようと思い、なんの計画もなく球場がある駅に向かった。その日に、そこで試合が行われるかも知らなかった。ただ、なければそこで別のプランを考えれば良いだけだと、適当に自分を泳がせた。

 駅の前から球場までの道に売店があったので、その日にデーゲームがあることが分かった。ぼくは、チケットを買い、空いている座席に潜り込む。どちらを応援したいわけでもなかった。ただ、自分をある空間に置き、身を沈めていたかっただけなのだ。

 後悔のしたくない人生を送りたかったが、当然のことながら、ひとりの人間の思考など最適なものをいつも選べるわけでもなく、いくつかの失敗や過ちをした。いくつかではない。いくつものだ。ぼくは、10代の後半に裕紀といったん別れ、雪代という女性に向かった。彼女もまた幸福の、ぼくの幸福の源だった。甘い瞬間がいくつもあり、辛いこともあっただろうが、それはもう忘れてしまった。それすらも楽しい事柄として変換されたのだろう。その後、別れはしたが、ぼくの前に不意に裕紀が戻ってきた。ふたり以外にぼくの関与する人間が訪れるはずもないと思っていたが、ぼくはここ数日、不安でいた。ゆり江という子が、もしかしたら、ぼくにたくさんの幸福を運んで来てくれたかもしれないという可能性の喪失に脅えていたのだ。それは、受身の立場でいて、自分から主体をもって能動的に、幸福を捧げるというものではなかった。ぼくは、常に受身でいる人間のような気がした。

 ビールを飲み、考え事をしているうちに歓声も遠のいていった。ぼくは、座席で自分のこれまでを振り返っている。しかし、そこにも限りがあり試合は終わった。球場を最後のほうの順番で後にし、外に出た。試合に勝ったチームを応援していたファンたちは元気づき、もうひとつのチームの方々は、いままでのことを忘れようとしているようだった。未来の野球選手を目指す少年たちは目を輝かせ、メガホンをバット代わりに振り回していた。それが、誰かに当たってしまったようで、父親らしきひとが頭を下げて謝っていた。ついでに子どもも帽子を取られ、父に頭を抑えられ謝った。しかし、そこには怒りが入り込む要素などはまったくなく、ただの幸福の一場面でもあるようだった。

 ぼくは、電話の着信履歴を見た。もしかしたら、裕紀からの電話があったかもしれないと考えたからだが、そこには電話では見慣れない二つの名前があった。ひとつは、笠原さんで、ひとつは筒井という女性だった。ぼくは、それを見ながら、どう今日一日が転ぶのか考えた。

 先に筒井という女性に電話をかけた。ぼくが結婚してから唯一、浮気をしてしまった女性だ。それを自分が許してしまったことをぼくは悔いていた。電話にでた彼女は、特別な用件があるわけでもなく、世間話をして、ぼくがそれ以上にのってこないことに愛想を尽かし、電話を切った。ぼくは、今日の思いの中で、3人の女性で気持ちは充分だった。これ以外に入り込ます余地などなかった。そして、幾分冷たい気持ちであしらってしまった。そのお詫びを、いつの日かするであろうことが予感できたが、それは未来のいつかが来るまで放り投げた。

 つづいて、笠原という女性に電話をかけた。ぼくは、連絡先を教えたか、もう覚えていなかった。だが、彼女が知っているので、それに電話に登録もされていたようなので、教えたのは間違いのないことなのだろう。彼女は上田さんの会社のひとだった。彼女が撮った裕紀の写真をぼくらは部屋に飾っていた。

「どうかしました?」
「いえ、上田さんに頼まれたチケットをお渡ししようと思ったんですが、手渡しできれば簡単ですけど、郵送のほうが良かったですか?」
 用件は、そういうことだったらしい。ぼくは誰かと一緒に夕飯でも食べたい気分だった。彼女は、休日も働くことがあり、これから退社するので、それを渡せるタイミングがあると言った。彼女がいるところは、ここからそう遠くないところだった。

 ぼくは待ち合わせまで時間を潰し、その時間になると足を速め、駅のそばの目印のあるところまで向かった。
「ひとりで出掛けることもあるんですね?」
「今日、妻は旧友の結婚式に誘われて、ぼくは暇にしてました」と、野球のことやその日に見た少年の謝罪シーンなどを話した。
 ぼくらは適当な店を探し、共通の話題を探りながら話した。ぼくの情報を彼女は上田さんから得ているらしく、それらのことを含ませながらぼくに訊いた。ぼくはラグビーの優秀な選手であり、それを投げ出し、大切な女性もまた簡単に投げ出すような人間だと、想像されていたらしい。

 逆にぼくは彼女のほとんどのことを知らない。だが、最初に知ったのは、最近、交際相手と別れたばかりらしく、誰かの結婚式の話など聞きたくもないらしかった。それで、ぼくは会話の初めからつまずいた。だが、それも見知らぬ相手なので、仕方のないことだった。
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償いの書(56)

2011年05月14日 | 償いの書
償いの書(56)

「ゆり江ちゃんが結婚するみたいだよ」ポストから郵便物をもってきた裕紀は、ある招待状を手にしている。ぼくは、ソファに座りながら動揺を隠そうとしている。のどかな空気だった日曜の朝が、少しだけ変わる。
「そうなんだ? 相手は誰だろう?」
「何年間か付き合ってたひとでしょう。あら、私だけだ」

「そうだろう。ぼくは、そんなに親しくないもん」それは、明らかに嘘だった。だが、こうした形で事実を知るのは、あまり気持ちの良いものではなかった。ぼくの前には、いつからか裕紀や雪代が表れた。もし、彼女たちがぼくの前にいなければ明らかに、ぼくはゆり江という子が好きだった。しかし、それは失礼に当たることだし、口に出せることでもない。3番目に好きだった、ということが一体、どういうことなのだろうとほかの郵便物を読みながらぼくは考えている。
「彼女、きれいでしょうね」裕紀は、もうその姿が目の前にあるように、うっとりとして言った。
「写真、撮って来てよ」
「見たい?」

「まあ、それは」彼女は20代の終わりであるはずだ。今後、その彼女を独り占めにするのは、どういう男なのだろうとぼくは妄想する。ある期間、ぼくの前で笑ったり、怒ったり、泣いたりした彼女の顔があった。ぼくは、それをいまでも記憶に留めているはずだが、その鮮烈さは当然のことながら薄れている。そして、彼女はまだ若過ぎる年齢だった。成熟するゆり江ちゃんは、どのように変貌を遂げ、どのようにきれいになって行くのだろう?

 ぼくは、それを想像でしか手に入れることができず、しかし、実際にその変化を見守れる立場の人間がいることも真実だった。
「どんな格好で行こう」裕紀は自分のクローゼットを開ける。そこに気に入ったものはないようで、「午後に、デパートでも行かない? わたしのお給料も入ったことだし」と振り返って言った。

「そうしようっか」ぼくは、屋上で飲むビールのことを考えていた。彼女は、ものを探したり選択したりするのに時間がかかり、ぼくは秘かにその行動の合間に時間を潰すことを楽しみにしていた。さまざまな子どもたちは、身体をうごかしたりはしゃいだりしていた。

 ぼくらはそれぞれ着替え、電車に乗る。彼女は仕事に必要な文房具を先ず買った。その後、女性の洋服がずらっと並んだ場所に入る。ぼくも、ちょっとだけ付き合い、
「時間、潰しててもいいよ。長くかかりそうだから」という裕紀の言葉をきっかけに、さらにエスカレーターで何階かのぼり、屋上への扉を開いた。

 そこには、青空があった。のどかな日曜の午後の歓声があった。揺るぎない幸福の予兆に満ち溢れていた。ぼくも、その一員になり、ビールのグラスを手にする。時計を確認し、お腹の空腹になる時間を計算した。裕紀の選ぶ服の色を考えたが、思いはゆり江ちゃんのことの方に動いていった。

 ぼくは、あのとき酔っていた。まだ、大学生だった。帰りがけにコンビニエンス・ストアに寄った。
「近藤さんのお兄さん、酔ってますね?」と、レジにいる女の子に声をかけられた。そう言うぐらいだから妹の友だちであろうことが想像された。彼女は、ぼくが裕紀をふったことを恨んでいた。幼いころの習い事で裕紀から優しくされた思いを大切にしていたらしい。ぼくは、彼女と一日だけ付き合ってあげ、デートの真似事のようなことをした。

 そのことを雪代に告げ口した。裕紀への思いがそうさせたらしい。雪代は、幼すぎる彼女の行動を軽んじて、なにも気にしなかった。ゆり江は自分の行動に反省したのか、謝りに来た。ぼくは、ただ若い彼女を可愛く感じただけだった。

 屋上の陽にあたったビールはぬるみ、ぼくは飲み干しておかわりをした。買い物中の裕紀はまだ来なかった。

 その後、弟がぼくがサッカーを教えていたチームにいたことでゆり江は見に来たこともあった。なにかの大会を集団でテレビ観戦をしたときにも彼女と再会した。ぼくには雪代がいたが、もし、そこに雪代がいなければ、ぼくはゆり江を選んでいたはずだろう。そうした未来が訪れる可能性があったことも、ぼくは考える。

 彼女は大人になり、ぼくは働きはじめの彼女のアパートを探す。その女性らしい部屋にぼくは通うことになった。彼女の身体は甘く、ぼくはそこにおぼれていく。

 ゆり江は、その関係を自分自身に許していたが、ときには耐えられず、泣いたり、また怒ったりした。その関係もいつしか終わり、知っていたかもしれない雪代は、なにも言わなかった。だが、ぼくと雪代が別れたあとに雪代はそのことを言った。

「浮気ばっかりする男の子がいて、その子がわたしは好きだった」と、雪代はぼくのことをそう表現した。
 そう思い巡らしている最中に袋を手にした裕紀が、こちらに向かってきた。青い服が、空の青さより、もっと水色に近いことを、ぼくの脳は判断している。しかし、その顔をぼくは一瞬だけ、ゆり江ちゃんのような気がしていた。そのような現実も起こりえたかもしれないことを予期するように。

「何杯目?」
「2杯目だよ。気に入ったのあった?」彼女は、嬉しそうに笑い、値段をいった。その数字と三人目に好きだったというその数字を、ぼくは無意味だが比べていた。
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償いの書(55)

2011年05月08日 | 償いの書
償いの書(55)

 妹のおなかのなかに二人目のこどもが宿る。母と電話をしているときに、そのことを聞かされた。実家に近いところにいれば、両親も安心だし、山下の両親の世話にもなりやすいだろう。そのことを考え、それ以外のことは思い至らなかった。
「裕紀ちゃんは、どうしたのかね?」と、母は素朴な疑問を口にする。
「なにが?」

「子どもができてもいいかなと、そろそろ」少しだけ、言い辛そうにしていた。
「そうだね。でも、裕紀には言わないで」

 ぼくは、電話を終え、その日の仕事も済ませ、家に帰る。
「美紀が、また妊娠したみたいだよ」ぼくは、妹について即物的な言い方をわざとした。
「そう、おめでとう。今度はどっちかね」
「うん、まだ、分からないんだろう」彼女は、自分のことのように自然と腹部をさすった。
「病院で見てもらった方がいいかな?」
「何を?」
「わたしの身体を」
「どうして?」

「だって、ひろし君も子どもが好きでしょう」
「それは、別の問題だよ」ぼくは、病気になったひとが病院に行くものだと考えていた。もしかしたら、多少の病気でも行かなくても治るという考え方すらしていたかもしれない。ぼくらはラグビーに熱中し、強靭な身体を手に入れた。それ以来、多少の怪我や病気を口にしなかった。ライバルの手前、ぼくらの弱みは相手の優位に立つとでも思っていたのだろう。それを、引き摺っていた。予防という観点で病院という視野は入れなかった。しかし、「うん、心配なら」とだけ言った。
「うん、考える」

 ぼくは職場で定期健診を受けていた。仕事を辞めた裕紀がそういう機会を作っていたのか、正直いうとぼくは無関心だった。多分、自分で見つけて受けているだろうぐらいに思っていた。ぼくらはまだ若さを内蔵しており、完全なる病気などというものは程遠い位置に置いていた。もちろん、誰も責めることのないことだった。

 妹は、その後、美紀と連絡を取り合って、ぼくが知らない情報も入手した。

 手帳があり、たくさんの予防注射を子どもは打ったりするようだ。前の甥っ子の記録として生かされてもいるらしい。自分が経験しないことは、やはり、本当の自分の知識になることはなく、ぼくはそれを直ぐに忘れた。だが、その新しい子どもが誕生する日は、自然と忘れなかった。自分の遠いところで、自分と関係ある生命が生まれるということに不思議な感慨をもつ。そして、たくさんの可能性と、どうあがいてもできないことがあるという相反した人間に、ぼくは愛着を持とうと思っている。皆が、同じようなことを同じようにできれば、そこには個性はなく、さまざまな競技の価値も失われた。髪を切るのに長けた人間がいて、物を売り込むのに上達する人間がいた。だが、新しい子は、なにが出来ようが、なにが出来なかろうが、ぼくは愛してしまうのだろうと思っている。裕紀も同じような決意でいることなのだろう。

「普通、親って、自分の孫がどれほど可愛いのかね?」
 ぼくは昼休みに、なんの策略もなく、ぼそっと発言する。何人かは、このひと、どうしたんだろう? という表情を浮かべた。それで、「いや、妹にまた子どもができるらしいんだけど、ぼくは、まだ、いないだろう?」と、言い訳がましいことを言った。
 女性たちは、同情したらしく、何かのアドバイスのことをそれぞれ発言する。もし、仮に裕紀の両親がまだ居れば、彼らはどのような見方をしたのだろうと考えた。だが、もし居たら、ぼくのことを金輪際、許さなかっただろうとも思った。そして、ふたりは結婚もしなかったかもしれない。それが、良かったのか自分はその判断すらできなくなっていた。

 たまには、裕紀になにか買って帰ろうと思い立って、仕事が終わり、デパートに寄った。だが、若い女性がたくさんいる場所は足が向きにくく、男性用の階を見て、一段ずつ下に降りて行こうと決める。その途中には子ども用の衣類やおもちゃなどが展示されていた。ぼくは、そのような場所を念入りに見たこともないことに気付き、この際だから、丹念に見てまわろうと歩行の速度を緩めた。

 山下もあのような大きな身体で、こうした場所を歩いているのだろうかと想像した。あの大きな手は、ちいさな子どもに対して、きちんと役割を果たしているのかも想像する。そうすると、自然と笑みがでた。

「どのくらいなんですか?」まだ、若い入社したばかりの年頃の店員が声をかけてきた。ぼくは、その意味が分からなかった。どのくらい?
「ああ、年齢? まだ、生まれてない」

「ご予定は?」ぼくは、唯一覚えている日付を言った。彼女はそれを算出し、奥に消え、何かを探しているようだった。ぼくは勧められるままに小さな服と靴を買い、それを手にする。

 その後、また下の階に向かった。閉店間際でもひとは消えなかった。ぼくは、次のシーズンを先取りしている場所を見ながら、裕紀のタンスのなかにありそうな服の色を思い出していた。その同系色で似合いそうなものがあるか別の店員に探してもらった。

 ぼくは、裕紀のものと小さな子どものための二つのものをひとつにまとめて貰い、注意が足りない人間のような気もしていた。
裕紀は、どういう気持ちでいるのだろう。ぼくは、そのデパートの階で、彼女を遠くに感じてしまっていた。ぼくは彼女の気持ちの何を知り、また何をしらないのだろうという区別のつかないまま、明るい店内からつづく裏の灯のさびしい駅までの道を歩いていた。
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償いの書(54)

2011年05月07日 | 償いの書
償いの書(54)

 ぼくは、仕事を終えて家に帰る。ほとんどの時間を地道に家の中で翻訳をしたりしている裕紀には、そうドラマティックなことは起こらないのだろうと考えている自分がいた。でも、それは人生の取り組み方の問題で、実際はどこにいてもさまざまなことが起こり得た。

「今日ね、美紀ちゃんと電話で話した」裕紀は、ぼくの妹の名を告げ、何かを伝えたい意思のようなものに溢れていた。「山下クンのね、学校にバスケット・ボールのうまい女の子がいるんだって。誰だか分かる?」山下は教鞭を取りながら、ラグビーを教えはじめていた。

「え、分かるわけないじゃん」ぼくに、その年代の知り合いなどいるはずもなかった。
「それが、ひろし君も知ってるよ。まゆみちゃんだって」
「え、もう高校生」彼女は、ぼくが大学生の時代にバイトをしていたスポーツ・ショップの店長のひとり娘だった。何年か前にうちに一度、泊まったことがある。「そう。あのころから利発で、活発な子だったもんな」
「山下クンも生徒に声をかけられ、普通に応対してたらしいけど、ひろし君のことにやたらと詳しいので訊いてみたら、あの子だったんだって」

「ええ、嬉しいな」
 ぼくらは、食事をしながらもそのことを話し続けた。そして、時間の流れと、やはり、人間に対してきちんと接すると報いのようなものが、いつか、表れるのだということを知った。だが、ぼくのこころのなかには、あの小さな女の子の姿も居座り続けた。バイトが終わり、よく食事の時間も一緒に過ごした。彼女はよく喋り、よく笑った。困ったことがあると拗ね、口を利かない時間もあった。

「彼女がスポーツしている姿も見てみたいね」と、裕紀は言う。それを与えられるのは、短い時間であり、それが可能かどうかも考えている。

「そうすると、もう、ぼくが裕紀と会った年頃と同じなんだ」
「そうだね」そう言いながらも、それを不思議なことのように折り合いのつかないような表情を裕紀はした。「じゃあ、ひろし君のようなひとにも巡り合うかもしれない」

「彼女に似合うような子は、一体、どんなひとなんだろう」その成長の一部を山下は知っているということを、ぼくは羨望の気持ちをいだいていた。そして、間違った成長をしていない彼女自身を応援したくなる。もちろん、店長や奥さんに対してもだ。そのような機会が裕紀にも与えられるべきだと思うが、ぼくらにはその運命が寄り付かなかった。そして、関連のあることとないことの境目がつかなくなる。まゆみちゃんは、ぼくの甥っ子の成長を、ぼくがまゆみちゃんに対して感じたように暖かく見守ってくれるだろうかと思い、人間の縁の不可思議さも感じた。

 ぼくらは食事を済ませ、ソファに座りテレビを見ている。ニュースで少しだけ流れる高校生や大学生のスポーツの話題が身近になっていることに気付いた。いままでは、ラグビーやサッカー以外の話題を注意しなかったけれども、いまは、青春を謳歌するすべての若者に愛着をもった。そこには、夢と挫折があったとしても、すべて貴いものなのだ。

「まゆみちゃん、また、東京に遊びに来れるかな? もう一人で何でもしていい年代だよね」裕紀はそのような希望を語り、裕紀が自分に与えられていた範囲のことをぼくは想像する。彼女の家族は厳しいしつけをしていた。それが自由というものを知り始める年代にとって、いささか不便なものだろうとぼくは思う。だが、彼女はその不自由さを実感してもいないようだった。それゆえに、ぼくは彼女を大切に思っていたのだが、結果としてはぼくの自由を追い求める気持ちが彼女の何年かを奪った形になった。まゆみちゃんには、ぼくみたいな理不尽な振る舞いをした人間が現れなければ良いと想像する。傷ついて大人になるというものも本当だろうが、それを越えられるだけの芯の強さがその年代にあるとも思えない。裕紀は、いまでも奇跡的にぼくを恨んでいない。それは、ぼくにとって必要以上の幸福だった。ぼくは恨みを恐れ、何年かを過ごした。しかし、その恨みに対しての報いの果実も大きなものであったことは、事実だった。

「わたしも、あの年代に戻ったら、何をするだろう」想像する生き物である人間は、さまざまなことを考える。「ひろし君は?」
「また、同じようにラグビーをする。そして、上田さんのような先輩に会い、友人を作り、山下のような後輩の成長を見守る」
「じゃあ、満足いった人生なんだ」

「もちろんだよ。裕紀は?」ぼくは、いくつかの答えをイメージするが、それが嬉しい答えなのかは聞くまで分からない。
「どっかに留学をしたと思う。遅かれ、早かれ。運動する能力は残念ながらないと思うけど」

 ぼくと彼女は最初の男女のように永続するお互いの関係を続けられたかもしれない。だが、ぼくの前には、ひとりの女性がいた。そのひとの人生の一部になったことも、ぼくの人生での喜びの瞬間の数々になったのは間違いのないことだった。ぼくらは話し足りない気持ちもあったが夜の入り口はそれを許さず、明日への活力のためにベッドに入った。
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償いの書(53)

2011年05月06日 | 償いの書
償いの書(53)

 斉藤さんという女性の友人が大学時代にいた。彼女がチームとしてだが設計した建物が世の中にいくつか存在するようになる。ぼくは、休日の散歩コースにそれを含め、感嘆しながら眺めている。

「ぼくの友人だったんだ」と、隣の裕紀に自慢するように言う。
「大学時代のひろし君を詳しく、知っているんだね」彼女は、いつもそれにこだわった。ぼくは、少なからず胸が痛む。彼女は、ぼくの数年間を知らない。男性が男性として機能する前の少年を脱皮するときの頃だ。
「知ってるよ。お互い、社会で働いたことはなかったけど、彼女が優れた才能を持っていることは直ぐに分かった」
「そうなんだ。大切な友人だね」

「ラグビーを辞めたことや理由をいろいろなひとに訊かれたけど、彼女にだけは真剣に答えたような気もする」
「どんなふうに?」

「過去に成し遂げようとしたことに対して、若者を縛るな、という青い意見だけどね」
 それでいながら、自分はなにも成し遂げることはできなかった。高校時代に頑張ったラグビーを将来の仕事にしたのは後輩の山下であり、建築学科というものを卒業したことを誇りに思っているのは、斉藤さんだった。ぼくは、ただ彼らの仕事を見惚れ、認めるしかなかった。それを屈辱だとも思わずに、ただただ感心した。それぞれが、もっているものを生かしているという感心なのだろう。

 ぼくらは歩きつかれ、お茶を飲む。

「裕紀は、結局のところ、何になりたかった?」他意もないただの質問だ。

「若いお母さんか、優しいお祖母ちゃん」それを、笑顔で彼女は言う。そして、理由を付け足した。「わたしの母は、いろんな用事で忙しく、いつも出歩いていた。それは仕方がないことだけど、兄たちにはもっと優しかったかもしれないと、考えてしまう。それを補うようにお祖母ちゃんがいた。わたしもああいう無限の愛情を与えられるようなひとになりたかった」

「多分、なれるし、もう、なってるよ。優しさは」しかし、それには確固たる愛情を注ぐ対象が必要なのかもしれない。そう考えていると、ロイ・オービソンが歌った映画の主題曲が店内に流れた。彼女は、それを一緒に口ずさみ、
「留学中に何回か、友人とこの映画をみた。あの娘、どうしてるかな?」と思い出をたどるように彼女は言った。ぼくの青年時代を彼女が知らなければ、ぼくも、同様に彼女のその時期を知らなかった。ぼくは、その映画を雪代と見たのを思い出している。彼女のそのときの服装や、口紅の色すらまざまざと思い出せるようだった。「どうかした?」

「いや、外国で映画を見るって、どんな感じなのかなと考えていた」それは、本当に考えていたことだが、思いのほとんどは別のところに行っていた。

 それから、店を出て、裕紀の知り合いに誘われた小さなコンサートに行った。お客さんが100人も入れば満員になるような小さなホールだった。だが、狭いという印象はなく、手頃な広さだった。それぞれの顔が分かるほどで昔のサロンというのは、このような雰囲気なのだろうかと感じさせる大きさだった。

 ぼくらは座り静かに耳を澄ます。フルートの音は流麗にぼくの耳に響き、ぼくを昔の時代に連れ戻した。それも、音楽の効用かもしれない。

 ぼくは、大学生だ。斉藤さんと食堂で向き合っている。いま、学んだことを振り返りながらも、話は往々にして逸れた。それを呼び戻すほど、ぼくらは勉強だけに集中している訳ではなかった。たくさんの寄り道をする会話が、友人としての証のようだった。

 ぼくは、一年だけ雪代と一緒に大学に通った。ぼくが2年になれば、彼女は社会に出なければならない。進む道は決まっており、ぼくらの漠然とした希望とはそれは違うものだった。

 ぼくらが、話しているところに講義を終えた雪代が入ってくる。ぼくは目の端で彼女を認め、「本当にこのひとは、ぼくを選んだのだろうか?」という気持ちをそのときも持った。

「こんにちは、斉藤さん」と雪代は言って、隣にすわった。斉藤さんは、雪代のようなきれいな存在にいつまでも馴れないらしく、その後、用を思いついて席を外した。雪代はパスタのようなものを頼んだと思う。若かった彼女の食欲は、それをまたたくまに平らげる。その後、東京で撮影のバイトが入ったというようなことを言った。ぼくは、周りの目を意識しながら、(3年先輩のきれいな女性がぼくの彼女なのだ)丁寧に相槌をして、また食事とノートへの視線に戻った。

 いつの間にか曲は変わり、別のイメージにつながる。

 山下が相手の豪快なタックルを浴び、脳震盪を起こしている。ぼくは、倒れている彼の上から名前を呼び、目を開いた彼の幼さの残る顔を見つめている。審判も心配そうにいっしょにのぞいている。だが、山下は立ち上がり、そのようなことが一切なかったように、猛進した。ぼくらは勝ち、ぼくはスタンドにいるであろう裕紀の存在を感じている。ぼくは、彼女の白い肌と黒い目のコントラストを探す。それは秋になりかけたまだまだ暑い陽光のなかでかげろうのようになってぼくに映る。

 すべての曲が終わり、ぼくの頭のなかのイメージだけは執拗に残っていた。ぼくは、裕紀の黒い目が幻想ではないようにしっかりと見つめる。彼女が曲の間にどのようなことを考えていたかは分からない。だが、ぼくは時空を越え、やりたかったことや、また、やれなかったことの修復を考えているような時間をさすらっていた。
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償いの書(52)

2011年05月05日 | 償いの書
償いの書(52)

 春の裕紀、夏の裕紀。それを思い出そうと必死に努めている。

 ぼくは、大切なものをどこかに置いてきて忘れ、それを必死に探すように、彼女のことを思い出そうとしている。洋服が変わり、髪型が変わる。彼女はそれでも、髪の毛の色を変えるようなことはしなかった。理由を訊いたことはないが、留学中にたくさんの個性のある人物を見て、ひとそれぞれの美しさを認識した、というようなことを以前、言っていた。多分、そういうことなのだろう。

 それを表そうと意図しなくてもにじみ出てしまうものが個性なのだろう。彼女は優しく、ひとの良い面を見た。ぼくが仕事に疲れ、言いたくもない悪口を言うと、彼女は口に指を持っていき、もう言わせないようにした。彼女は両親に辛くあたった時期の自分を恥じていた。やり場のない思春期でもあるので、責めるに値しないし、問題はないと思うのだが、もうそういう場面に遭遇できない以上、取り返しや弁解ができないものとして考えていた。それで、ぼくも反省した。ぼくらの関係が永続性のあるものと考えるが、彼女は両親との関係が絶たれたいま、どこかに関係というものは途絶えるものだということを感じているようだった。

 ぼくは当然ながらそれを恐れた。だが、本質的なことを言えば、彼女は悲観的すぎるとも考えていたかもしれない。それゆえに、彼女は未来への希望として子どもを必要としていたのかもしれないし、たくさんの約束や計画を望んだ。

 ぼくらは、ことあるごとに写真を撮った。家の中にも写真を飾っていたが、その中のお気に入りのものは、この前、上田さんと会ったときに笠原さんという女性に撮ってもらった一枚だ。ぼくらは結婚して3年ほど経ち、30代を越え、裕紀は自分の外見と内面の貴重な接点を見つけたように、美しさが花開いていた。笠原さんも学生時代に写真部に所属していたようで、その技量を生かしていた。

 ぼくは、上田さん経由から大きく引き伸ばした写真をもらい、それに合う額を買い、彼女にプレゼントした。それは、あまりにもきれいに撮れ過ぎていて、彼女は自分ではないようだと言ったが、そこにいるのはまさしく裕紀だった。そして、ぼくが追い求めていた女性の理想像だった。ぼくは、こういうひとに会うために生まれたのだ、という気持ちがその写真を見るたびに起こった。その瞬間が残っていて、目の前にあるということは素敵なことだった。時間は失われていき、大切なものも消滅する世の中にとって。

 ある日、家に帰ると手紙があった。山下からの手紙で、まだ、封は閉じられていた。ぼくはその楽しみを先延ばしにするように、普通に食事を摂り、風呂にはいった。

「まだ、開けないの?」と、裕紀はそのことに耐えられないように言葉を出した。

「そうだね」と言って、ぼくは、それを開ける。そこには2枚の写真がある。彼の家族の写真と、彼の新しい教え子たちに囲まれた写真だ。裕紀は甥っ子の成長に見惚れ、ぼくは後輩たちの威勢の良い写真を目にする。その中にはいっても山下の身体は一回り大きかった。彼は、尊敬のまなざしで迎えられ、それゆえにコーチをするのも簡単であろうと思った。何者かも分からないものから教えられるより、生きた伝説と身近な場所で育った人間から教えられるほうが、受け入れやすくなるのだろう。

 手紙には、そのような内容と責任の重さについて書かれていた。間違った指導や、怠惰な一面を見せれば、若いこころは直ぐに道を誤るらしかった。ぼくは、そのことを自分の人生に当て嵌めようとしたが、実際には分からなかった。そのような責任ある立場に自分はいなかった。

 裕紀も読み終え、それを丁寧に封筒に戻し、どこかの引き出しにしまった。新しい生活のスタートが順調に切れたことをぼくらは素直に喜んだ。彼を単純に受け入れない偏った気持ちの生徒がいてもおかしくなかったかもしれない。ぼくは、裕紀の善意ある見方をそのときは信じていたのだ。

 ぼくらは横になり言葉を交わす。

「15歳の山下くんを思い出す。ひろし君を尊敬して、なんでも、ハイ、ハイ、ときいていた」
「それが、たくさんの生徒から慕われるようになっている」ぼくらは、その時間の推移に思いを馳せる。「だけど、裕紀と別れたことを、あいつは、人一倍、許さなかった」ぼくは、表情を読み取られない暗さのなかで、言い出しかねた言葉を呟く。

「知ってる。でも、全部、いい思い出」ぼくは、返事をしなかった。それで、空白の時間が生まれる。「だけど、私たちは、あそこで会った。それを美しい物語として考えている」彼女は、ぼくの左手を掴んだ。その暖かみを、神秘なものとして考える。「そう思わない?」

「常に、そう考えてるよ」ぼくは、見えない彼女のポートレートを間近に感じる。彼女は眠り、ぼくの左手は徐々に解放される。それを、ぼくは淋しいものとして考えている。
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償いの書(51)

2011年05月04日 | 償いの書
償いの書(51)

 ぼくの若いときを知っている友人たちは、東京には少なくなってきてしまった。裕紀は、ぼくの10代のことを知っているが、ある期間は空白だった。ぼくは懐かしさをこめ、上田さんや妻になった智美と会った。彼らも東京での暮らしの土台ができてしまい、もうあちらには帰りそうもなかった。ある面では、ぼくらと似ていたが、ぼくはいつかまた連れ戻される予感もあった。
 だが、センチメンタルだけではぼくらの関係性は永続しないだろう。ぼくらは、それぞれの生活で仕入れた情報を取り込み、それがぼくらの一部となって構成されていく。

 上田さんも仕事上でそれなりの役割を担っていた。彼はそもそもリーダーシップを取る才覚をもっていた。グイグイと引っ張るような性分でもないが、後輩たちの感情を汲み取ることに長けていた。ぼくも、ラグビー部時代にその恩恵にあずかった。

 彼らにも子どもはいなかった。その存在を望んでいたのかは分からないが、少なくとも裕紀は望んでいた。ぼくは、それに気付かない振りをしたままだった。

 休日に4人で会えば、寛いだ雰囲気のなか、直ぐに昔に戻った。
「山下、辞めちゃったな」と感慨深げに上田さんは言った。「あいつが入ってくるような学校になったことに驚いたけど」
「そうですね。ぼくらは、そんなに恵まれたメンバーを集められなかった」
「そういえば、ちょっと前に島本さんに会ったよね」と、裕紀は、突然、その話題を挟み込んだ。
「そう、変わってなかった?」と、智美も関心を示した。
「やっぱり、変わってた。でも、きれいなひとが隣にいて、ひろし君のお客さんになった」
「あれ、そこまで言ってたっけ?」自分の記憶の曖昧さと、ぼくは瞬時にたたかう。
「言ってたよ。新しい画廊を見つけるって」

「彼はきれいな女性にもてるんだな」と、上田さんが率直に言う。ぼくも、同感だった。それで、その言葉をつぶやく。そこで、どこかに不自然な空気がただよう。それを誰も静めもしないし、荒げもしなかった。ただ、それは海面上の油のように留まっているだけだった。

「でも、山下君が母校で教えているところ、ふたりとも見たいでしょう?」
「それは、もちろん。全国大会にでも出れば、テレビでも見られる」と、安易なことをぼくは言う。その難しさを知っているのは自分であり、また上田さんだった。だが、期待をもつことは誰も止められなかった。そして、話の方向が変わったことに安堵している。

「病気が出ていない?」と、あの日、雪代は単刀直入に言った。その通りだった。その後、トイレに行ったついでに、上田さんも同様のことを言った。
「島本さんと会ったんだ?」彼は髪の毛をいじりながら鏡の中を覗いている。
「ええ。あのひとと、どっかでつながっているんですかね。ずっと、縁を切りたいと思い続けてるんですけど」
「そうだろうな。裕紀ちゃんを悲しませたら駄目だよ。まあ、しないだろうとは思うけど」

「いろいろと、懲りてます」しかし、懲りてはいなかった。本当の意味で永続性のなんたるかを知らなかった。その努力の継続を、ある面では自分は無視し、それゆえに大切さも忘れることはできないのだが。

 お会計を済ませ、女性ふたりは洋服を見に行くと言った。ぼくらにとってそれは都合が良く、ぼくらは上田さんの会社が主催している写真展に行った。彼は受付で挨拶を済ませ、ぼくもそこを素通りした。ぼくが知っている写真はビルをきれいに写し、部屋の内部を広々と見せる工夫をした写真だった。だが、そこには別の意味での洗練された写真があった。

「ラグビー時代の後輩」と、ぼくのことをある女性に紹介した。彼女は、上田さんの会社のひとだった。普段、会えば名刺の交換でもするのだろうが、ぼくは、それをただ一方的に受け取った。「妻がいるけど、女性に手が早い」

「冗談です」ぼくは、自分の評判を自分で訂正しなければならなかった。そして、彼女は不意を突かれた表情のあと、直ぐに笑った。それで、その上田さんの言葉は冗談になった。上田さんはそこを出てから、智美に電話をすると、彼女らはまだ買い物に熱中しているらしく、電話に出なかった。それで、ぼくらはその後輩を交えて、三人でお茶の時間にすることにした。彼女は休みを返上して、そこに常駐しているらしく、上田さんはそれを気遣っているらしい。

 成り行き上、「どんな仕事を?」と、ぼくに訊いた。笠原と名刺に書かれていたその女性の声は、適度に粘着的であり、その声が耳にのこった。

「ビルの建築や、不動産なんかを扱ってます。もし、ご要望があれば、上田さんに言ってください」
「近藤は、ラグビーボールを掴んだら、そのまま離さないで駆け込んでいく。人間に対しても、そうなんだ」
 彼女は、また笑う。
「評判を落とすようなこと、やめてくださいよ」ぼくも、笑いながら言った。
「でも、本当だろう?」

「でも、本当です」粘りのある声で笠原さんと上田さんは仕事の話をつづけた。ぼくは、窓の外を見る。ぼくにそういう気軽な言葉を言う人間が減ってきてしまった淋しさを、そこで感じていた。
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償いの書(50)

2011年05月03日 | 償いの書
償いの書(50)

 ついに、その日が訪れた。後輩の山下、いまはラグビー選手であり、なおかつ妹の夫である彼から電話があり、会いたいので時間が欲しいと言われた。もう、ぼくは、そこで話される内容の大体の予測が付いていたのかもしれない。
 待ち合わせ場所に彼はひとりでいた。大柄の彼が少し小さく見えた。久し振りの男同士なので、ふたりでぼくの馴染みになっていた居酒屋に入った。

「すいません、時間をとってもらって」
「なに、言ってんだよ。お前とオレの仲だし」
 ぼくらは、ビールを飲み、食事を進める。酔いが仲立ちとなって、昔の間柄に戻る。もしかしたら、酔いが手伝わなかったら、昔の関係に戻れなかったのかもしれないという事実にも驚いている。ぼくらは、なにもないところから、たくさんの余分の関係性でなにかを防御してしまっていたのだろうか。
「オレ、そろそろ辞めようと思いまして」
「相談、それとも、結果報告?」
「え? ああ、まあ、結果報告です」

「アマチュアでキャプテンだったとしても、プロの山下に何も言うことできる訳ないじゃん。他のひとは、どうだったかしらないけど」

「しかし、今後の生活で美紀にも心配かけるし」
「それを覚悟で結婚したんだろう。それで、なんか見通しは?」
「高校のラグビーのコーチの打診がありまして」
「どこの?」
「母校のです」

 ぼくは、そのことを頭の中でイメージし、その映像を作り上げる。彼は、ぼくと会ったのが15歳ぐらいだ。ぼくの1年後輩の優秀な選手がぼくらの学校に来たのに驚いている。普通の選択ならば、もうひとつの強いチームに入るのが妥当なものだった。だが、ぼくらの頑張りもあり、そして彼の揺るぎない才能があって、その地の少年の未来の地図が変わった。ぼくらの学校は勉学にも重きを置いていたが、最終的にはラグビーをするなら、ぼくらの学校に入るという図式ができあがった。それも、山下の頑張りに多くを負っていた。

「恵まれているような気がするな。それで、向こうに戻るの?」彼は大学に在学中に教員の免許を取っていた。それで、科目を教えながらも、放課後はラグビーの伝達に励むのだろう。
「ええ、オレも近藤さんがラグビーを辞めるのを止められませんでした」
「もう、何年も前の話だし、かえって、幸せな人生も送れたよ」
「なら、いいんですけど、オレも、そうなりますかね?」
「なるだろう。そうすればいいよ」

「じゃあ、見守ってください」と言って、彼は笑った。彼が指導者として、どのような能力を発揮するのか、ぼくは、今後、そのような愉快な状態も得られるのだと思うと、心底、嬉しかった。
 その日は、その店を出てそれぞれの方向に帰った。ぼくは、家で裕紀にそのことを訊かれる。
「どうだった? 何の話だったの?」
「ラグビーを辞めるって」

「残念ね。それで、そのまま会社員として残るの?」
「ラグビーを忘れられないんだろう。母校の先生になって、教えるって」
「じゃあ、あの街に戻るんだ」
「そうみたいだよ」

 何週間が経って、それは一層の現実味を帯びてくる。彼は社会人だったので会社を辞め、どういう経緯なのかしらないが何らかの手続きを踏み、自分の育った土地に戻ることになった。ぼくは、家を引き払う彼のために裕紀と出掛けた。

 ぼくは、感慨を抱いている。自分はおよそ5年ぐらい前に、東京にやってきた。ひとりでの生活だと思っていたが、思いがけなく裕紀がそこにいた。その彼女といっしょに別の人間を見送ることになるだろうとは、あの当時は思っても見なかった。そこにいる小さな甥っ子は、ただ今の状況が嬉しいらしく、はしゃいでいた。

「もう、なかなか会えなくなってしまうね」と、その子に寄り添うようにして裕紀は言っている。
「あっちに来ればいいじゃん」
「そうするね」と、裕紀は言った。そして、彼の手をきつく握り締めていた。

 ぼくはトラックに荷物を積み込み、その戸は閉じられた。最後に近くで食事をすることになる。妹がそばにいれば両親も安心するだろうと思っている。自分は、東京での生活を仮初めのものとしていたが、こちらでの生活が本格的なものになってしまった。仕事の土台もこちらならば、裕紀との生活もここを主体に考えている。
「近藤さんも、仕事ではたまに戻ってくるんですよね?」
「本当に重要な会議とか、あるときにはね」
「そのときには学校に寄ってくださいよ」

「過去の英雄として、駆けつけるよ」ぼくは、それも悪くないイメージとして持つ。となりで裕紀はぼくらがほんの少年のころを思い出しているようだった。山下は裕紀をいつも賛嘆し、ぼくが雪代と付き合ったことを嫌った。妹も最初はそうだった。だが、ぼくの世界から追放された裕紀は、いつのまにかぼくの掛け替えのないものになり、裕紀の世界にぼくは足を踏み込んでいたのだ。

 彼の家の前に戻り、先にトラックが道路に出た。続いて、山下の乗る乗用車が引っ張られるように、ウィンカーを動かす。甥っ子は手を振り、裕紀もそれに同調するように大きく手を振った。
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償いの書(49)

2011年05月01日 | 償いの書
償いの書(49)

 仕事に戻る。ぼくの位も次第に上がり、ぼくの指示で動く後輩たちも増えていく。そもそもが、まだ若い会社なのだ。社長が、いまのような業種に手を広げてからのものなので、先例を蓄えているひともいなかった。手探りでやってきたのもが、ようやく軌道に乗り始め、安定した航路を進み始めている。それが、30代の前半のぼくの位置だった。

 それでも、自分が子どものときに考えている大人とは随分と印象が違かった。いろいろなものについていまでも葛藤し、相変わらず悩み、進歩が遅いことをなげき、幾人かの女性の亡霊と戦っていた。それを好んでいたのかもしれなかったが、もうそういう場所からは足を洗いたいと思っていたのも本音なのだ。

 裕紀は家で文字を凝視している。他の言語を使える日本語にしている。化粧をしていない肌は、もうぼくが知っている高校生の彼女ではなかった。ぼくはそれを追い求めてもいないがその変化を感じ、自分も同様なのだろうと考える。その変化を嫌うこともなかった。逆にそのひとつひとつがぼくとの生活の長さを感じさせた。それをずっとぼくは知ることになるのだろうと思う。ぼくは、カーテンの日射しを眺め、移ろい往く一日の変化すら愛おしく感じた。

「ごめんね。締め切りが近いもので。気分転換にどっか寄ってきたら」

「そうしようっか」ぼくは、カーテンを閉め、スニーカーを履き、家の近くを散歩した。本屋に立ち寄り、雑誌を手にする。自分の好奇心がすこし減っていくのをそこで確認する。映画やそこに出ているひとたちの一挙手一投足を知る必要もなく、もちろん、ゴシップも必要なかった。最終的には料理の本を手に取り、裕紀の作るものと比べた。それをなぜだかレジまで持って行き、袋にしまわれるのを見詰めた。

 次にサッカーをしているグラウンドを眺めた。趣味で大人たちが身体を躍動させていたが、若さの最盛期を過ぎている彼らのもどかしさを自分のように感じていた。彼らの試合が終わり、自動販売機でジュースを買い、戻ってくると、少年たちの試合に変わっていた。それは、もどかしさもない代わりに、チームとしてのバランスに欠けていた。みな、バラバラと自分の思いだけで動いている気がした。そして、穴がいくつもでき、ピンチをたくさん作ってしまう。もう少し、統率が取れたゲームをしなければならない、とぼくは考えている。統率と言った以前のラグビー部の口調をぼくはこころの中で真似ていた。

 そうしていると電話がかかってきた。個人でも電話を持ち歩く時代になったのだ。それは、自宅からの電話だった。
「どこに居るの?」
「サッカーを見てた。いい天気だし」
「わたしも行ってもいい? 疲れた」
「うん、待ってるよ」
 ぼくの思考は統率の取れていないサッカーのチームから裕紀の存在に変わった。彼女は、さっきどのようなスカートを履いていたのかを思い出そうとしている。どのような靴を履き、その歩数やここに到達するまでの時間を考えた。それより少し遅れて彼女はやってきた。手には袋がぶら下がっていた。

「お腹、すいちゃって」彼女は、袋からサンドイッチを取り出した。ひとつを自分に、もうひとつをぼくに呉れた。それは、色鮮やかな野菜が挟まれ、食欲を誘った。

「自分でも、やってみたい?」前方を見ながら、彼女は言った。口を動かす音がきこえる。
「まあ、多少はね」だが、ぼくはこのスタンスにいることを望んでいる。傍観者。仕事以外は疲れるようなことをしたくないという若さが消え往く身体を思った。

「なんか買ったの? 雑誌?」ぼくの横に置いてある袋に目を留め、裕紀は質問する。
「参考になるかなと思って」ぼくは、袋からそれを取り出した。「自分は、もう自分だけの趣味を追及することができなくなったみたいだよ。悪い意味じゃなくて。本屋に入っても裕紀のことを考えていた」

 彼女は、それをどのようなことかと考えているようだった。だが、もっと正確な言葉を付け足されないことには理解しないという頑固な表情もそこにはあった。
「悲しい?」
「いや、ラグビーの雑誌を見ても、山下はもう話題にされていない。それはある面ではぼくが消えることだった」
「辛かったの?」
「どうなんだろう。熱中できるものをまた探さないといけないのかな」
「仕事を頑張りすぎたのかもね」

 ぼくは、そのこころの空白ができたことを、そのグラウンドが見える座席で見つけたのだ。彼女はそっと、自分の両手で、ぼくの左手を握った。そうすれば、その空白が埋まると彼女は考えたのだろうか。
 試合が終わり、子供たちは疲れた身体を引き摺りながらも友人たちとじゃれ合っていた。何人かは自分の両親のもとに寄って、タオルや飲み物を受け取っていた。その無私の信頼関係をぼくは見詰める。ぼくの左手にもそれはあり、彼女も同様の気持ちでいてくれたらいいと考えていた。

「わたし、妊娠したって、いつか言ってみたかった」
「まだ、分からないじゃない?」
「うん、なんでだろうね」彼女は当惑した様子を見せる。
 ぼくは、子どもたちが運動をするのを眺めるのが好きだった。だが、それを裕紀は別の意味で感じているなら、それを避けようとも思った。ぼくに、何の意図ももちろん悪意もなかった。だが、彼女の感じやすいこころは、自分への責めとして、その様子を見ていたのかもしれない。

「気にすることないよ。裕紀に似ている子なら、とっても可愛いだろうな」と安心させるようなことを言った。実際にその映像が一瞬だけぼくにも見えるような気がした。だが、それは一瞬だけで直ぐに、別の子どもの顔に入れ替わった。それは、甥っ子だったり、雪代の小さなころの子どもだったりした。
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