爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

Untrue Love(130)

2013年03月18日 | Untrue Love
Untrue Love(130)

 あれからもまた時間が経った。何回もの熱帯夜を過ごし、秋の落ち葉を足のうらで踏みしめる。また今年。ことしもまた。咲子がいなくなって十年以上も過ぎていた。

 ぼくはビルのなかにいる。空調がきちんと自分の仕事を果たしても、そとの灼熱と呼べる日差しを見ると、「暑い」という言葉が自然と口からこぼれた。さらに例年より室内の温度設定は高めのようだ。冷え過ぎとの女性たちからの苦情もあった。それも、あと、数週間で夏休みになる。避暑という言葉を頭のなかでカキ氷のシロップのようなものとして想像する。だが、当分は暑さのなかにいる。冬はほんとうに涼しさや寒さを迎えてくれるのだろうかといらぬ心配をして。

「山本さん、いろいろ誘ったら結構みんなビールを欲しているみたいで、人数が多くなっちゃいました。だから、店予約しましたから。外出とか、これから、なかったでしたっけ?」
「ないよ。この暑いのに外を出歩かせないでくれよ。そうか、妻に電話しておこうかな」

 ぼくは、そう言いながら部屋を出た。手には電話があって、その前にビルの一階の機械で現金を引き出した。何人ぐらい来るのか分からない。だが、たまには仲間の近況を聞くのも悪くない。外を見る。夕方になっても太陽は衰えそうになかった。夕立でも降らないかなと期待して空を見上げるも、その予感すらまったくない。まさに彼の時代なのだ。ぼくらを干上がらせ、冷たいビールを報酬として与えてくれる。

 ロビーでいつみに電話をかけた。彼女の珍しい気だるそうな声が耳に入った。
「きょうは、用事がなかったからソファに横になっていたら、いつの間にかウトウトしちゃって。用事?」
「いや、飲み会ができて、ちょっと遅くなりそうだとね、伝えておこうと」
「あまり、飲み過ぎないでね」

 ぼくは、若い頃、彼女がカウンターの向こうにいて、その彼女が用意してくれたグラスで飲みものを口にしたときのことを思い出していた。ぼくは家ではなぜだかその情景を忘れていた。
「ほどほどにするよ。何か急に必要なものある?」
「ないよ」そう言いながらもどこかでためらっていた。「いまね、むかしの夢を見ていた」
「どういうの?」

「仕事、大丈夫?」それは話が長くなることの前触れなのか。でも、ぼくの返事も待たなかった。「そこにね、咲子ちゃんが出てきた」
「咲子が? 彼女、何か言ってた?」
「わたしのこと忘れないでねって。でも、いまさっきまでわたしすっかり忘れていた。申し訳ないなと思って」
「みんな、忙しいんだもん。忘れるよ」だが、ぼくもこの日に彼女の幻影を取り戻していたのだ。
「写真、どっかにあったかな?」
「あるよ。彼女がバイトを辞める前に、キヨシさんといつみといっしょのが」
「そうか。分からないから、帰ったら、今度、探して」
「うん」でも、ぼく自身がその保管場所を思い出せなかった。ただ、それを飾っていた若き自分が過ごしてきたアパートの一室にあった日に灼けたカーテンの褪せた柄の色彩のことだけが鮮明に浮かんでいた。その部屋に置かれてあった写真。

 連絡をすませたぼくはエレベーターに載り、部屋に戻った。
「奥さん、許してくれました?」
「うん。飲みすぎないでねって」
「一途なんですね」
「誰が?」
「山本さんに決まっているじゃないですか。ここでふたりで会話をしているのに」
「ぼくが一途ね・・・」
「反対意見でも。最近、気になって仕方がないひとがどこかにいるとか?」
「いないよ。まったくいない」
「じゃあ、一途決定ですね」

 ぼくはその解釈に不本意だった。いや、過剰に評価されていることがむず痒かった。ぼくは、あの日、木下さんとユミのことも捨て切れずにいた。咲子の死をきっかけに継続することを怠るようになった。あれがなかったら、自分は誰かひとりだけに専心して愛することなどできなかったのだ。一途にさせたのも咲子であり、ぼくの青春の日々をすぱっと終わらせたのも彼女が遠くない原因であった。

 仕事も終わり、十二人もの会社の人間が奥の座敷に陣取っていた。一番、年長がぼくであり、いつの間にかぼくに与えられる役目も変わっていった。若い彼らは男女間の友情という議題で意見を交わしていた。成立するという側と、そもそもそんな感情は下心の有無で膨らんだり、しぼんだりする風船のようなものでしかないと主張する側がいた。ぼくは、静かにビールを空けるペースを守りながら、聞くでもなく、聞かぬでもなくという感じでそこにいた。

「順平先輩の意見はどうですか? やっぱり、ないですよね。好きか嫌いかだけですよね。男女間なんか」彼は少し酔っていた。その為に来ているのだからとがめる必要などまったくない。ただ、となりの座敷にまで響きそうな声のボリュームを少しだけ抑えてほしかった。

「やっぱり、あるだろう。あのひとと恋愛感情などいっさい抜きで、もう一度会って、無駄話をして大笑いしたいなとか」
「一途な山本さんにもいるんですか?」
「そりゃ、いるよ」ぼくの念頭にあるのはユミだった。彼女との肉体的な接触など間に挟まずに、ただ、昔話に花を咲かせたかった。だが、世間の目はそうは見ないだろう。恋の再燃という言葉でぼくの行動を定義するかもしれない。さらにいえば、ぼくは早間と友情関係を持っていると思って大学の時期を過ごしてきた。だが、あれは友情などではなかったのだ。どういう風に規定すれば良いのだろう。その場で、相応しい言葉は直ぐに出てこなかった。

 ぼくが黙っていると彼らの話題は突然、変わっていた。飲みながら酔ったひとの話題が急速に変更しないことなど起こりえない。次から次へと焼畑農業のように場所を探す。それで、頭を占めている暑さの拘束から逃れられるなら目出度いことだった。

 数時間経って、飲み会もお開きになる。途中まで同僚たちといっしょだったが、乗換駅になると徐々に減った。するとひとつ開いた座席にすわれた。ぼくは目をつぶる。この電車がいつみの元に戻してくれる。可能であれば、二十年も前に過ごした夏休みに戻してくれることも願っていた。ぼくは土手を歩いている。遠くから咲子が歩いてくる。ぼくはすれ違う際に、会釈以上の声をかけるべきなのだ。「君は東京にくるべきじゃなかった。地元にも大学はあるはずだ。車でぼくを、アパートにたどり着けなくなったぼくを決して迎えにくるべきではない」だが、どれもその当人には届かない。あれは、ぼくが作った夏の少女という題材のモデルだったのだ。それでも、いつみも同じく今日、夢のなかに咲子を見つける。いた人間がいなくなり、いなくなった人間がまた現れる。ぼくは一途であり、どうしようもない浮気性であった。また何度も何年も灼熱の日々を越えれば、見方も変わってくるのだろう。美化という調味料をほんのちょっとずつだが加えながら。

(終)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(129)

2013年03月17日 | Untrue Love
Untrue Love(129)

 あれから四年が経った。ぼくは二十七才になったばかりだった。あれ以来、誰かと緊密な関係を作ったり、維持したりすることを自然と避けるようになってしまった。喪失の予感に脅え、それならば最初から失う原因を作らなければいいと実際に覚悟したわけでもないが、安易にそう思っていた。当然、女性ともそうだった。

 だが、あの濃縮され、かつ凝縮された三人との関係をこれまでの不在の時間で均してみれば、そう悪い状況でもなかった。彼女たちとの思い出は、ぼくにとってはカギがきちんと閉められて保管されている宝のようなものだった。稀にしか取り出さないが、防腐剤もいらず、あらゆるものからの劣化や腐食や錆からも遠去けられている。だから、宝とも呼べたのだ。しかし、扉は開かれるようにできている。予期もしていない日に。

 ぼくの会社の製品がトラブルを起こし、毎日、行いつづけることが求められている仕事に穴を開ける原因となってしまった。未然に防ぐことができず、最小の事態で収まったが、結果は信用を失い、ぎくしゃくとした関係を作った。会社同士での大きな部分での謝罪は済み、あとは担当者間での小さなわだかまりを取り除く作業が待っていた。その担当の矢面に立っているのがぼくだった。ぼくはその会社の本社まで出向くことになっていた。

 午後からの約束だが、早めに着いた。駅から左側の小高い丘陵のなかに会社があるのだが、反対には海岸もあった。ぼくはこれからの重い任務を考え少しばかり憂鬱になり、気晴らしに食事がてら海岸線で昼の時間を過ごそうとしていた。手にはサンドイッチとペットボトルの紅茶があった。

 ウインドサーフィンを楽しむひとがいた。三十メートル先ぐらいには、女性のような人影があった。ぼくは石の上に腰を下ろし、パンの袋を開けた。謝罪のことも忘れ、ぼくのこころはいくらか高揚していた。世界はのどかであり、ぼくはその側の一員なのだと思おうとした。それは難しいことではなかった。カモメが空を飛び、小さな飛行機が雲に印しをつけていた。

 食べ終わって、詫びの言葉を考えながらもぼんやりとしていると後方から声をかけられた。

「それ、おいしかった?」
「はい?」ぼくはアマチュアの現実逃避者としてその座にあぐらをかいたり、その場しのぎのぼんやりとのどかな世界の住人であることに満足していたが、ある方向からの不意打ちのひと声により、その仮場のバランスを急に打ち破られて戸惑ってしまった。
「おいしそうに食べていたから、おいしいか、訊いたんだよ」

 ぼくはその声に早く気付くべきだったのだ。声の主に。いや、もっと前だ。あの人影は、土手にすわるあのひとに似ていると勘付くべきだったのだ。
「おどろいた、いつみさん。あ、これ、おいしい」彼女は笑った。「こんな所で何してるんですか?」
「それは、こっちのセリフだよ。こんなところで、海を見ながら、何で、パン食べてんだよ」

 ぼくは経緯を説明する。「うちの会社の機械が・・・」
「その割りに食欲はあるんだな。普通なら、喉も通らないという感じだけど」最後まで内容を聞くと、心配した表情になりながらも、にこやかにそう言った。
「そうでもないですよ。やはり、逃げ出したいぐらいです」
「大丈夫だよ、それぐらい。あとはナボナでも持っていけば」
「はい?」
「お見舞いや手土産はナボナと相場がきまってる」

「そうなんだ」ぼくも、彼女につられて笑う。「でも、いつみさんはなんでここに?」
「あそこに住んでんだよ」彼女は海の反対の道路の向こうを指差した。「あそこ」
「ここからだと、店に通うの遠くありません?」
「知らないんだ。もう行っていないよ。店もないし」
「え、ないんですか?」
「権利とかも売ったら結構なお金になった。それをキヨシと半分こにしたら、そこそこになったしね」
「キヨシさんは?」
「下北沢で店をやってるよ。同じようなのを、もうちょっと若者向けかな。教えるから、今度、行ってあげなよ。私よりわかくて可愛い店員さんもいるから」

「それで、ここに」
「結婚したんだよ。その報告の直ぐ後で申し訳ないんだけど、離婚もしたんだよ。それであのおうちを貰って、お金も分けてもらって」彼女は照れたような、はにかんだような表情になった。「なんだ、言ってから気付いたけど、私、誰かと別れるたびにお金を半分もらうんだね」
「旦那さんだったひとは?」
「さあ、知らない。少なくとも、あのうちにはいない」
「もう着なくなったおしゃれな服がのこってたり?」

 ぼくらには共通の思い出があった。ぼくがまだ学生のころ、彼女のむかしの彼氏の洋服をもらったことがある。彼女はそのことを覚えているのだろうか。
「え? ああ、あるよ。わたしが何かの記念に買ったネクタイが、けっこう高かったのにな、趣味が合わないとか言って包みも開いただけできれいなままのがある。順平くんなら、きっと合うよ」
「今度、取りに行ってもいいですか?」
「いいよ。今日じゃなく今度。今日はナボナをもって謝りにいかなければいけないんだもんな」

 ぼくは名刺に自分の連絡先も付け加え、彼女に渡した。いつみさんははじめて文字を見るひとのように不思議な様子で凝視していた。

「そこにかけるのがいやだったら、連絡先、おしえてください」ぼくは彼女が述べる番号をメモする。
「順平くんも、名刺なんかもつようになったんだと思ったら、びっくりしてさ」
「働きはじめて、店に行ったときに渡したと思いますよ。肩書きも大して変わらないし」
「そうだったっけ。どっかにあるのかな」彼女は海の方に目を向けた。まだ、波と風に乗っているひとがいた。ぼくもあのようにするするとどこかに逃げてしまいたい気持ちと、この再会を永久につかみたいとも同時に思っていた。
「よく、ここに、きてるんですか?」

「そう、たまに。天気もいいからね」彼女の腕は太陽を浴びているひとの肌だった。「そろそろ、お昼も終わるよ。もし、必要なら駅前に和菓子屋がある。大福がうまいんだけど、会社のひと、甘いの好きなのかな」
「ちょっと、寄ってみます。ありがとう。あとは誠意と大福ですかね」彼女は頷く。書類にはんこを押すようにただ無言で頷いた。「いつみさんは、まだここに? 帰らないんですか?」

「もうちょっとここに座ってる。それで、むかし、好きになった男の子のことを考えてみるよ。あいつ、ネクタイ似合うかな、とか、きちんとお詫びもできる人間になったかなとか」

「なっているといいですね」
 と、ぼくは言い、付いてもいないゴミや砂をはらうようにズボンのお尻の部分を手の平で軽く叩いた。いつみさんは海を見ている。風に揺れて彼女の耳があらわになる。ぼくは歩き出す。振り返ると彼女の背中が小さくなっていた。ウインドサーフィンの帆が波の反射に遭っている。扉がしまらないように、かんぬきがかからないように、ぼくはストッパーの役目となるようなものを探す。だが、もう大丈夫だろう。ぼくらはお互いをどれほど必要としていたか気付いていたのだ。飛行機雲がたとえ消えてしまっても。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(128)

2013年03月16日 | Untrue Love
Untrue Love(128)

 ぼくは大事なシャツに誤って食べ物のソースのしみが付いてしまったかのように、その日の一日の流れを何度も細切れにして振り返った。どうやってもしみが取れないのは、もう知っていたのだが。

 先輩と仕事で少しはなれたところまで新たな顧客に会うために出掛けた。仕事は順調だったが、交通がダメな日だった。帰りの電車で、どこかの遠い駅での事故の影響により、波紋が広がるように外縁でぼくらは待たされつづけた。乗換駅まで来ると、今度は電気系統の問題があるとのことだった。先輩は電話をかけ、妻との約束を破ることを詫びた。結婚記念日が近いということで、この金曜にレストランを予約していたらしい。八時からということだったが、彼の身体がその時間にそこに行くことは不可能になっていた。

「こうした小さな積み重ねをしくじることが、後々、大きな問題になるんだよ。お前も、いつかの日のために覚えておくといいぞ」と、先輩は自嘲的に言った。そして、笑った。彼が小さなころ、野球でもしているときに三振した場面で監督や仲間たちに、チャンスを台無しにした自分を受け入れてもらえるようにこういう笑顔を見せたのだろうということが想像できる表情だった。それは、力の及ばないことにも直面しなければならないという戸惑いとの折衷だったかもしれない。

 ぼくも公衆電話の列に並び、実家に電話をかけた。神奈川の大きなターミナル駅まではたどり着けそうだったが、東京のアパートまでは行けそうにない。ぼくは意に反して二週もつづけて親の厄介になりそうだった。

「それなら、いま、咲子が家にいるから、彼女にね、迎えに行ってもらうようにするよ。車で」と母は行った。ぼくは親に詫びた。だが、こうした貸し借りは後々の大きな問題にはなり得ないだろう。すると、先輩と妻との関係は、やはり他人の延長のようにも思えた。それを非難できる資格もぼくはもっていない。いつか、十年後にでも、ぼくはやはり後輩とこのような立場に置かれたとしたら、そのときにはじめてきちんと理解できるのだろう。その日まで判断は棚上げだぞと、こころの奥の見えない何かに誓った。

 駅までいっしょに来て、そこで先輩と別れた。彼は乗り換えてあと数駅で家に着く。彼らの今夜が楽しいものになるよう、せめて最悪な時間にならないようぼくは祈った。彼は、とにかく憎めない人間なのだ。この日もぼくは一日、楽しい時間が過ごせた。ただ、交通だけがぼくらの気持ちをさまたげたのだ。

 雑踏するなかから逃れるように改札を抜け、少し離れたベンチにぼくは座った。道路も混んでいるように思えた。同じように迎えにくるひとも増えたのだろう。タクシー乗り場にも長蛇の列があった。

 ぼくは電話をした時間と、いままでの経過したものと、この混雑をミックスさせ、大体の咲子の到着時間を予想した。はっきりといえば、他にすることもなかった。別れたばかりの女性を慰めるという身分に自分は向いているのかどうかも考えた。そのような状況に日々、置かれることはない。誰も失恋ばかりして生活している訳ではないからだ。たまにしか起こらない。たまに来る災害のために両親は、倉庫の片隅に非常食などを備蓄したことがあったことを思い出した。父の仕事先から配給されたものだったろうか。賞味期限が来る前に食べたが、まずくて直ぐにやめてしまった。珍しいことというのは、それぐらい手に負えないものなのだろう。

 その当時のぼくは携帯電話も持っていない。ただ約束の場所に、約束の時間を信じながら居続けるしか方法がないのだ。ぼくは、タバコでも吸えたらいいなとか、雑誌でもカバンに入っていないかな、とかどうでもよいことを頭に浮かべた。タクシー待ちの列も減り、期待して来たタクシーの運転手は、お小遣いをなくした少年のように心細い顔をした。ぼくは限界を越えた。財布を見て、家までのタクシー代がもつかどうかを考え、結局はその侘しそうな運転手が行き過ぎる前に、手を上げて停めた。

「きょうは、散々な日でしたね」運転手は早速、そう声をかけてきた。彼がこの道路を何往復かしていつもより多い収入を得たであろうことが感じられた。たまにはこういう恵みがあっても罰があたらないだろうという感じだった。ぼくは返事をしながらも、なぜ咲子は来なかったのか心中でずっと考えていた。

 もし、来たらいっしょにファミリーレストランにでも寄って、夕飯をおごってもよいとも考えていた。しかし、ぼくの実家にいたからにはすでに済ませてしまったのかもしれない。それなら、少し高級なデザートを。彼女の恋は終わったのだから、甘いものをとって太らせてしまうのもぼくの責任にはならない。そんなことばかり想像していたら、空腹の合図が鳴った。運転手はそれを聞きとがめ笑った。それから、うまいラーメン屋の話をしてくれた。

 すれちがう車のなかに実家のものがないか無駄な視力をぼくはつかった。すべてを見られるわけではない。直きに家に着いた。料金を払うと、それほど残ってはいなかった。

 カギを開け家に入ると電気はついているがひとの気配がない。テーブルの上も、なにかをやりかけていたままの状況だった。ただ、テーブルに書き殴った父の字があった。癖があるな、とぼくは最後のしみのひとつであろうことを消せないでいた。

 咲子は車の事故に遭い、病院に搬送されたので、そこにお前も来い、という内容だった。ぼくはまたタクシーを拾い(国道に出るタイミングを失っていたさっきの運転手だった)、ぼくの様子が一変していることと行き先の名称で察しがついたのだろう一転して物静かな口調になった。

 咲子は寝ている。車は大破したと父が平衡を取るように物体のことを話した。せめて、この瞬間だけでも生身のことを忘れたいという願望の声だった。ぼくは、自分の若さがそこで同時に死んだことを知った。彼女が大学に入って東京での楽しみを伝えることを拒んだ自分は、あまりにも狭量だったと自分を憎んだ。さらに、この場面でぼくのずるい三重生活のための身代わりとして彼女は横たわっているのだと認識させられた。ぼくは終わらす努力をしなかったが、彼女がそれを引き換えに果たしたのだ。女性は大事にするものだと無言でプラカードを胸にのせ。

 ぼくから見れば、これは自殺でもあり、ぼくのための犠牲の捧げ物だった。早間から見れば、事故以外の何物でもないだろう。当然、遺書もない。ぼくが駅まで迎えに来てもらうようにしていた途中での事故だったぐらいだから。最後まで、彼は姿を見せなかった。彼女を送る儀式にも彼はどこにもいなかった。彼女はあの小川が見えるきれいな場所で生息することだけに向いている小鳥のようなものだったのだろうか。ぼくは、いつまでも早間を探し、探しつかれて、そう結論に到った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(127)

2013年03月15日 | Untrue Love
Untrue Love(127)

 水曜の夜に電話があった。電話の声は早間のものだった。彼がこの番号を忘れていなかったことに、ささやかながら驚いていた。それに、彼がかけてきた目的が分かるような気がしたが、あえて促すようにも仕向けなかった。ぼくは、まだ知らない立場を取っているのだ。

「最近どうだ? 仕事、なれた」
「まあまあだよ。でも、どれだけなれたかどうかも日によって変わってくる」と、ぼくはその日の気持ちをそのまま言った。
「そうだよな。分かったと思ったら、また、知らないことが待っているだもんな」
「早間でもそうなんだ」成績もよく、何事にも戸惑ったりしなかった彼も同じだった。「そうだ、この前、紗枝に会ったよ」
「紗枝か、なつかしいな。どう、あいつ、元気だった?」

 彼にとっては、もう彼女は過去に所属する人間らしい。その範疇に咲子の存在も含まれて呑み込まれてしまうのも間近のようだった。
「うん、大人になっていた。どこと言っても困るけど、全体から放つ雰囲気がね」
「オレのこと、なんか言ってた?」
「とくには。新しい彼氏がいるとは言ってたけど」
「恋多きね・・・」
「早間もだろ」
「そうでもないよ。お前は?」

「きちんとした関係を築きたいと思っているけど、相手がどうかも、同じ風なのかも分からない」ぼくは、早間に対しても正直であろうと思っていた。しかし、正直になっていない部分も彼に対してだけでもなく、いろいろな場所と場面に多くあった。
「そうか、口にすれば済む話だと思うけどな。言って、うまくいくといいな」
「勇気がないんだろう、オレって」ぼくは、自分をそう把握していた。
「度胸とか、覚悟はオレ以上にあると思うけど」
「誰が?」
「順平がだよ」

 だが、ぼくは新たなきちんとした道を整備する覚悟もなければ、古い線路をそのまま放ったらかしにしていた。そのうちに廃線になり、駅も廃れる。ひとがいてこその町であり、人間関係でもあった。

 それから彼は自分の仕事の話をした。ぼくは友人たちが飛び込んだ社会がどういうものか比較するのにも材料が乏しく返答も窮した。ただ楽しい世界がありそうだと思いながらも、仕事なんかどっこいどっこいだともあきらめていた。ぼくはぼくの世界をただ美しくすればよいのだ。そのうちにその世界に、ひとりのきちんとした女性を呼び込む。そのひとりを多分、ぼくはすでに見つけているのだ。新たな道がないと感じながらも、やはり地道に舗装を整えようとしていた。いびつにならなければいい。限りなく平坦であればいい。早間や紗枝は、新たな土地を取得する勢いがあった。ぼくは土地だけはもう手に入れているのかもしれない。だが、三つの森に、それぞれ三つの稀にみる貴重な生き物がいた。誰かがブルドーザーで、そのうちの二つを破壊する準備をしている。エンジンはかかっているがドライバーはいない。黄色いヘルメットが座席にあり、それはぼくの頭のサイズにぴったりと合うようだった。だが、ぼくはそこに近付きもしない。咳き込むように大きく揺れる車体を止めるためにエンジンを切る働きかけもしない。そのまま、永遠に手を下さない限りガス欠になってくれそうもなかった。

「今度、じゃあ、オレの会社にも資料をもってきてみろよ」

 ぼくが自分の仕事を話すと、彼はそう言った。もう自分に何らかの決定権があるような口調だった。彼らしいといえばそう言えたし、いずれ、そう遠くないうちにそうなる予感も含んでいるのだろう。ぼくは、その小さな縁さえも切らないように決意をしていた。咲子のことはこころよく思っていなくても、やはり、ぼくは会社員でもいなければならない。成功は甘いとも思っていなかったが、苦さをすすんで甘受するほど希望を捨てるには、まだまだ早過ぎた。

「そうだ、言い忘れてたけど、咲子と別れたんだ。聞いてたか?」
「ううん、いま、はじめて」ぼくは平然とうそをつく。見破られる心配もないだろう。また、互いが隠し通す問題でもないのだ。「あいつ、なんか、お前に失礼なことをしたとか、傷つけるようなことをしたのか?」ぼくは、咲子が絶対にそんなことはしないだろうと知りながら、意地悪くそう問いたずねた。
「そんなことまったくないよ。オレが全部、悪いんだよ」

 ぼくは、こころのなかだけで、「そうだよ、お前がすべての責任をつくって、そこから、いつも軽い気持ちで逃げるんだよ」と怒鳴っていた。いや、違う、小さな重い声で叱責を加えていたのだ。「そんなことは、ないだろう。両者がいなければ、挨拶もできないし、恋もはじまらないし、別れも来ないんだから。一方的なものなんて、なにもないよ。中学生の美しい片思いだけで満足できる年頃でも身体でもないんだから」実際に電話を通じて話した言葉はそういうものだった。

「そうはいっても、こういう場合は男が悪いと決まっている」
「次はいるの?」

「まさか、いないよ」だが、きっともう明日にはデートの予定でもあるのだ。ぼくは彼を責めたいと思っている。だが、自分も似たような境遇にいるのだ。数人の女性の美しい部分だけを、ピンセットでつまむように採取しているだけなのだ。相手のすべてを受け入れることを望むほどの覚悟もせず、自分のすべてを押し付けて満足できるほど、愛を知ってもいなかった。その面では、早間も紗枝も正直という面から見れば、どう転んでも勝っていた。

「見つかるといいな、早間にも」
「あの子、傷ついていたらご免な。あんまり話さないと思うけど、なにかあったら慰めてあげておいてくれよ。オレは忘れないから、そうした恩を」と彼は最後に言った。ぼくは、時計を見て、それほど多くもないが家事をする時間があるかどうかを考えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(126)

2013年03月14日 | Untrue Love
Untrue Love(126)

 昨夜は遅くまで紗枝と店にいた。寝不足を解消しようという意図もなかったが、目を覚ますと、もう日曜の半分は終わろうとしている。外は予想通り雨だったので惜しいという感覚もなかった。冷蔵庫のなかにある帰宅途中に買ったスポーツドリンクで眠気と渇きを振り払おうとしたが、なかなか難しかった。瞬時には物事は変わらないようだ。椅子のうえには脱ぎっぱなしの服が散らかっていた。ぼくは靴下を取り上げ、洗濯機のなかに入れようと放り投げたが、壁との狭い隙間に落ちてしまった。ぶつくさ言いながら拾い上げようとしたが、声自体がうまく出ず、のどの奥がからまっていた。それで、また飲み物をのどに流し込んだ。

 紗枝は多少、大人になり、早間の恋は終わった。ぼくに報告する義務もないが、知らないことに対してどこかに腹立たしさを感じていた。だが、知っていたとしても、どう変化するものでもない。別れるのを引き止める努力もしないだろうし、別れて正解だとも思っていなかった。ただ、紗枝が先に知っており、その情報を彼女の口からもたらされて驚いた自分に少しだけ抵抗があったのだろう。ある種の関係に無頓着になっているまぎれもない証明として。

 紗枝は誰を通して知りえたのかは教えてはくれなかった。無口な咲子がぼくに相談するわけもない。もしかしたら、髪を切りながらでもユミにだけは話しているかもしれない。だが、あさるような真似をぼくはしたくなかった。そして、この日曜の気だるい午後の真っ只中にいる自分は、それ以外のことも一切したくなかった。食指が動かないとはこのような状態を指すのかと、まだぼんやりと寝転びながら思っていた。

 テレビをつけて再放送の番組を見た。もし、自分にもこのように同じことをもう一度することができるとしたら、楽しいままの状態が保てるのか、それとも、直ぐに飽きてチャンネルを変えてしまうのか考えてみたが、答えはない。自分はしなかったことを恥じ、してしまって後悔を抱え込んでいるものもあった。いつみさんと土手でキャッチ・ボールをしたときの場面を是非とも再現したかった。それは不可能ではない。だが、降るのを忘れない雨がその考えを押さえ込ませた。

 木下さんと映画を見て、ささやかな幸せに浸かることも考える。物語は重要ではない。かえって映画はつまらなければつまらない程いいのだ。ふたりであきれ、その監督の才能のなさを笑い転げながら話す。いったい、何を訴えかけようとしていたのか? それでも、見所だったものを見つけあう。「あのポストの形、可愛かったね」と彼女が言い、ぼくは空に舞っている凧揚げの情景と自分の思い出を彼女に伝える。重力を意に介さず空中に飛ぶまで、誰かが後方でいっしょに走りながら持っていてくれる。支えるという、あれは美しい形なのだ。ぼくは、木下さんがそれを無心にしてくれる様子を想像する。

 ユミと洋服屋が並んでいる細い小道を歩くことも楽しそうだ。彼女は突飛なものと突飛なものを重ねて自然さに到る。それが彼女だった。彼女といつか南国のどこかのきれいな海のなかで不可思議な色の小魚を見ることを想像する。グレーとか沈んだ色はこの世界にはない。真っ赤なハイビスカスが外にあって、その横をぼんやりと歩く。その未来も望むもののひとつだった。

 ぼくには過ぎ去ったいくつもの美しい出来事があり、まだ見ぬ未来の甘い予感があった。咲子は、どのような過去を早間と作ったのだろう。それは、思い出すに値するものだろうか。もう、反対側の未来はきれいに費えた。物語は終わるようにできており、ガソリンのない車のようにいつか止まる。ドアを開け、その車を置き去りにする。運転席に誰もいない車を別の誰かが必要とするかもしれず、自分も道路に立ってヒッチハイクでもして目的地に向かわなければならない。

 気付くと、ベッドの上でもう一度、眠ってしまっていたようだ。テレビは夕方のゴルフに変わっていた。外の雨もまだ止んでいない。さすがに空腹をおぼえ、ぼくはストックしてあったレトルトの食品を棚のなかで見比べた。

 テーブルの上で頬杖をつき、食べ終わった食器を片付けないままテレビを見つづけていた。明日からまた働けばいまのぼくを占有しているこの考えも閉め出されてしまうだろう。紗枝と会った週末のことも遠くに感じ、早間と咲子の終わった恋のことをもう思い出さないかもしれない。ぼくは、また夏の旅行のことも考えた。ユミと、やはり南の方に行って、美しい景色や海中のなかさえも見ることがプランとしては最上のことに思えた。来週あたり、気が変わらないうちに電話でもしようと計画を立てる。彼女は喜ぶだろうか。それとも、他に予定があるので断る結果になるのだろうか。休みは簡単に取れないと言って計画が頓挫してしまうだろうか。それでも、この日曜に起こった唯一の前向きな考えをぼくは無駄にはしたくなかった。それを遮るものも、ぼくから奪い取ってしまうものも、この日曜の空気のどこにもなかったのでぼくは安心して、想像をふくらませた。

 一日、電話もならなかった。たずねてくるひともいなかった。会話らしい会話をぼくはしないまま一日を終えようとしていた。すると、自分の声というものがどういう類いのものであったのか忘れかけた。それで、試しにユミに電話をかけた。しかし、電子的なコール音を繰り返すばかりで、ぼくは自分の声を認めることができなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(125)

2013年03月13日 | Untrue Love
Untrue Love(125)

「雨に濡れなかった?」と待ち合わせの店の奥にすわって待っていた紗枝が訊いた。ぼくは即答はせずに壁の時計を見た。待ち合わせの時間から一分ほどが過ぎていた。その時計が正確に調整されているならば。

「大丈夫かな。早く来てたの?」と言うぼくの眉には雨粒の感触があった。
「着いたばかりだよ。どうぞ」彼女は左手で座席をすすめる。

 彼女の考えとしては男性は必ず前にいて、女性を迎えるべきだと決めていた。もうこの時点で落第だ。だが、ぼくは彼女に良いところをアピールする立場にいない。いままでも今後も、まったく。
「遅れて悪いね」それでも、気持ちの入らない侘びだけは述べた。彼女は、それについてのコメントもない。
「仕事、もうなれた?」
「そこそこね」
「いつも、会社にへばりついているの?」
「そうでもないよ。いろいろ外回りもしている。紗枝は?」
「会社にずっといる、ガラスの窓から外をみるぐらい。でも、爽快。高い建物だから。やっぱり、身体を動かしてる方が楽?」
「そうだね。戻れば、否応なく頭もつかうから」
「お客さんの前でもでしょう。それでも、大人の顔になったよ。わたしは、どう?」

「社会人の顔。OL」
「彼女、できた?」
「さあ」
「いるといえば、いるし、いないといえば、いない」
「そういうところだね。紗枝はつづいているの?」彼女は大学の最後の年に新たな恋をはじめていた。
「ああ、あのひとはダメだった。いまは、別のひとがいる」
「そう、うらやましいね」
「でも、本心ではうらやましそうとも思っていないのが、表情から分かるよ」

「そうでもないよ」そう言って、ぼくは旅行の雑誌を立ち読みしたことを伝えた。どこかに、永遠の思い出となるような場所があるかもしれないと感じていた。恋が終わろうが、永久に関係がつづこうが、その場所を思い浮かべる度に、自分の輝けるあの日がよみがえってくるような場所。ぼくは、そこに誰かと行きたいと説明していた。紗枝は、黙って聞いている。
「お客さん、ご予算は?」と最後にまぜっかえして笑った。

 ぼくらはお小遣いではなく自分で稼いだお金でお酒を飲んだ。少なくとも紗枝はそうだった。ぼくはバイトをきちんと休まずしていたが、紗枝はそうでもない。継続して働くことに時間を費やす必要もない環境だった。だから、いまの彼女が新鮮にうつった。

「暇な土日なんだ?」
「そうかもね。昨日、アパートまで帰るのが面倒くさくなって実家に泊まったんだ。それで、今朝、部屋に戻って洗濯してたら、電話がかかってきた。今日も明日も実際のところ暇だったから助かったよ。紗枝は?」
「いつも忙しくしてる。でも、ふと順平の顔を見てもいいかなと思ったから」
「虫のしらせ」
「そういうの気味悪いよ」
「1月か、2月に働いてから会うって約束したような覚えもある」
「約束ってほど重いものじゃないけど、覚えてる。何か大事な用があったんだっけ?」
「思い出せない」

「わたしも思い出せないな」彼女は首を傾げた。そうすると、以前の幼稚っぽい彼女が戻ってくるようだった。いつみさんもユミも木下さんもそのようなことはしないとぼくは互いの仕草を照らし合わせていた。ひとによって、より好ましい表情があり、突き詰めれば癖とも呼べるような素振りだった。「あれから、誰かと会った?」
「特にはいないね。時間もなくなってしまったし」
「言い訳がましいセリフを口に出してばっかりいると、つまらないおじさんになるよ」
「怖いね」ぼくは奥から聞こえる歓声の方に顔を向けた。学生らしきひとたちが騒いでいるのだろう。ぼくはあちらにもう戻れない。かといって、ゴールも分からないし、つまらないおじさんにもなりたくはなかった。「紗枝だって、身繕いを忘れたら、急になるよ」

「何に?」
「男性の視線を自分に向けることができない女性に」
「ならないよ」
「なるよ」
「なる前に、格好良くてお金持ちを探しておくよ」
「そうしな。ぼくは両方、もってないけど」
「卑下したけど、そんなの嘘だと自分で思っている」
「思ってないよ。そうだ、紗枝は誰かと会ってる?」
「何人かの友だちと会って、ご飯を食べたり、買い物に行ったり」それから、複数の名前をあげた。その何人かの顔がなつかしく浮かび、何人かは思い出せなかった。そのうちの何人かは、はじめから知らないのだろう。「紹介して欲しくもない? きれいな子もいるのにね。ねえ、誰か、本気に好きなひとがいるんでしょう? どうして、言わないの」

 そのどうしてという意味が、自分になぜ言わないのかと対象を指すのか、どうして、その当人に言わないのかと理由を含んでいるのかの、どちらに重きが置かれた言葉か判断しかねた。しかし、追求する気もさせる気もなかった。どちらもしないのかもしれず、いつか、両方を一辺にするのかもしれない。
「紗枝に匹敵するほど可愛い子なら言いやすいけど」
「土日の休みぐらい、会ってもらったらいいじゃない」
「今度、そうするよ」
「そのときが来たら、わたしも呼んでね。先生が採点してあげる」

「うん」また歓声が聞こえた。酔いつぶれるまで飲まされたあの日々。木下さんと大人の雰囲気をもつ店にはじめて行った日。いつみさんと店以外ではじめていっしょに飲んだ日。それらの記憶がぼくの前に一直線上にあらわれた。数十年に一度の天体の奇跡のように、真っ直ぐと。しかし、紗枝のささやきにも似た声で我に戻る。
「あいつ、そういえば、順平の知り合いの子と別れたらしいよ」
「そうなんだ」紗枝があいつと言うのは早間のことだけだった。あまりにも密接な関係をおくった所為で、他人のときの名前を用いることができなくなってしまったのだろう。ぼくには、そういうひとがいるのか頭のなかで探した。「咲子、大丈夫かな。すると、よりを戻すことも可能になったわけだね。そうしたい?」
「バカみたい」と彼女は言ったが、本心かも分からないし、誰がバカと称されているのかも決め付けることができなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(124)

2013年03月12日 | Untrue Love
Untrue Love(124)

 身支度をすませ、実家を出た。太陽がまぶしかった。アパートがある駅まで電車に乗るとなかは閑散としていた。楽な姿勢でもどれたが、身体はなぜか重かった。目にうつる土曜の午前中の商店街はのどかだった。ぼくは場違いなスーツ姿のままそこを歩いている。のんびりと犬を散歩させる老人がいて、店の前を掃いたり、水を撒いたりして準備をしている店員もいた。土曜のランチのお客をあてにしての行動だろう。だが、ぼくは今日も明日も予定がなかった。

 部屋にもどって洗濯機をまわした。待っている間に窓をあけて、ベランダとの境目に腰掛け、ビールを開けた。ただ、空は青かった。ぼくはそこでぼんやりとしながら実家にあった祖父の遺影を思い出している。最近になってもまだ見る彼の唯一の写真だ。本人はそれにしてくれと頼んだ憶えもない。家族が最終的に選んだものだろう。照れくさそうにしているまじめな顔。それは老人に近いということが相応しいものなのだ。少年や少女であってはいけない。だから、ぼくはそれを準備する必要も、選別される予定もない。誰も決して準備などしないものかもしれない。大慌てで決められるものだ。

 缶が空いて、洗濯機の終わりを告げるブザーが鳴った。その機械の行程は終わっても、こちらの作業はこれからはじまる。ぼくはベランダに自分の分身を干した。風と太陽にさらされ直きに乾くだろう。そうしながらも、ぼくはきょうの予定を考えあぐねていた。

 干し終えると電話が鳴った。不思議なことだが、鳴るまではぼくはそこにあることも忘れていた。急いだからか躓きそうになり受話器をとると、紗枝の声がした。

「休みのお昼にいるんだ? 夜までずっといるとか?」

 ぼくはありのままを告げる。見栄も虚勢もいらない知人がいることを思い出して嬉しかった。それで、夜に会う約束を取り付けた。だが、それまでの時間も長かった。ぼくは玄関にすわり、扉をあけて風を感じながら靴を拭いた。それは木下さんがくれたものだった。数ヶ月だけでその物体は新品であることを止め、ぼくの足の形を模倣した。さらに靴のかかとはぼくがいくらか傾いて歩いていることを告げていた。これも遺影になりえるものかと考えている。ぼくのある種の肖像。その用事もすぐに済む。それから、また部屋に戻って机の上に飾られたぼくといつみさんとキヨシさんと咲子の写真を眺めた。それはいなくなったひとたちの写真ではない。ある日の通過を記念してのスナップだ。髪型が変わり、服装が違っても、そのときの彼らはそこに存在しつづける。ぼくの過去もまたそこにいた。数ヶ月前の過去がだんだんと延びていく。ぼくはあの写真がなければ祖父の印象を薄めさせてしまうのかもしれない。だが、彼らにはその心配も杞憂だろうと思っていた。

 時間にはまだだいぶ早かったがぼくは家を出た。洗濯物はもう乾いていてすでに取り込んでたたんでおいた。その代わりに空は梅雨らしいものになってしまった。明日の日曜は雨なのだろう。きっと、一日家にいて過ごしてしまうことが予想された。冷蔵庫の食料を思い浮かべ、今日の帰りになにかを買い足しておこうと決めた。忘れなければだけど。紗枝と会って、ぼくは楽しい気持ちを抱くだろう。数ヶ月ぶりにあって、どう印象は変わったのだろうか。世間の波を浴びることによって、彼女に大きな変化を及ぼすとも思えなかったが、それなりに大人になっていくのだろう。その回答も間近だった。

 待ち合わせの場所に着くと、雨がぽつぽつと降ってきた。ぼくは傘を広げた。半数ぐらいのひとは持っていなく、ビルに駆け込むひとや、駅の屋根のある入り口に向かうひともいた。ぼくはまだ時間があったので本屋で強まりだした雨を避けることにした。入り口付近の足元の目立つ台には夏の旅行をすすめる雑誌が多く並んでいた。ぼくは行き当たりばったりに一冊を手にする。そこの土地で楽しむ二、三日のプランや大体の予算を見た。払えない額ではない。二倍にしてもそうだった。しかし、予定を合わせることからはじめなければならない。それよりもっと重要なことはぼくはいったい誰を選ぶのであろうかという自分の意思だった。そのひとに断られたら、次はあのひとにしようという問題でもなかった。ぼくは、誰かに訊ね、了承か却下のどちらかを受け止めるべきなのだ。それで、断られたら終わり。そういう簡単な結論を求める時期だった。だが、その選択がいちばん難しかった。先延ばしにすればするほど、ぼくには不可能の分量が増していく気がした。

 自分が誘うだけではない。もし、誘われたとしたらどうだろう。きっぱりと断るのだろうか。もう、学生ではないのだとぼくはその本屋で発見する。遅いかもしれないが、それが事実だった。均等ではない複数の柱をつかってぼくは家を建てようとしているようだった。小さくても、短くても、ひとつの柱を選んで家をきちんと建てようと願うべきだった。そう思いながらぼくは雑誌をもとの場所に戻した。また手にとって、ページをめくればその場所で楽しんでいるぼくと意中の誰かの写真があってほしかった。それがぼくの答えであるべきなのだ。他人任せのなにものでもないが。ふと、壁を見ると時計の時刻は待ち合わせの時間の直前になっていた。彼女はひとりで待つことを嫌った。それをさせないためにぼくは急いで店を出て、傘を差すことも忘れて、走って目的地まで人波を掻き分けて向かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(123)

2013年03月10日 | Untrue Love
Untrue Love(123)

 普通に暮らしていれば、当然のことずっと会えると思っているのだった。だが、仕事をするという環境に放り込まれただけで、その意図もなかなか実現しにくいひとが多くなった。怠慢であるといえばそうでもあったし、自然の成り行きだから仕方がないと結論付ければ、その通りでもあった。

 金曜の夜に飲み会があり、アパートまで帰るより実家のほうが近かったので、そこに泊まることにした。事前に電話をかけ、了承を取った。

「あんた、なんだか、よそよそしくなったのね」と、母が感想を漏らした。事前に約束を取り付け、その日取りを忘れないようにスケジュール帳に書き込み、再確認も怠らない。自分は、誰に会うのも仕事のように考えてしまっていたのだろうか。恋する女性は、直ぐ会いたいとか言うものなのだろうか。ぼくにそういう風に言ってくれるひとはいなかった。だが、ずっと会わないでいられるとも思っていないようだった。だから、ぼくらはそれぞれの峰を登るように歩きながら、お互いの頂上で会うことができた。別のルートをしっかりと歩く。いっしょに登るという感覚も喜びもそこにはないようだった。しかし、そうした方法論が定まってしまえば、ほかの考えは入り込みにくかった。さらに、別の方法論を持ってくるような相手を探すこともできず、そもそも自分のこころが別の誰かに奪われることも、もうなさそうだった。

 それで、夜の十一時過ぎに、リビングにいた。ふたりはまだ起きていた。毎日のニュースを告げる顔がそこにあった。ぼくはきょう一日に起こった出来事とそれからスポーツ選手の活躍を見た。自分と同世代の人間が華々しいフラッシュを浴びていた。彼らは自分の特技を見つけ、その技能を伸ばした。運が良かったのだと言うひともいるし、親の教育の成果と説明するひともいた。どれだけの分量の逆境があり、どれぐらいの追い風があったのかとぼくは一週間の疲れと、飲み会のあとの気だるい気持ちで想像した。もちろん、そのような状態で解決などしない。また、きちんとした解決など求めてもいない。それは飲み会の前にどこかのロッカーに預けてしまった。それを取り戻すのは月曜の朝でいいのだ。だから、ぼくはここでぬくぬくと過ごし、喉の渇きをまたビールで補充しようとした。

「よく飲みに誘われるのか?」父は、会社員の宿命のようにそのことを考えているらしいことが口調から伺えた。だが、彼はある日を境にそういう立場を切り抜けたらしい。職場内の環境がかわったからなのか、それほど優位な立場にいなくなったからなのか、ぼくには分からなかった。

「たまにね」と、そのときは答えをとどめることにした。
「身体に気をつけなさいよ」と、母は母らしい役目の言葉を発した。そして、明日の午前に食べたいものはないかと訊ねた。満腹と眠気を覚えている自分は、具体的な回答をせず、それで、ぼくが以前に好きだったものを彼女の口はリストアップした。ぼくは、「それでいいよ」と答えた。そして、土曜の午前のスーパーの情報を付け加えたので面倒になり、ぼくはシャワーを浴びに席を立った。

 風呂からあがると両親はもうそこにいなかった。押入れを開けるような音がとなりの部屋からした。テレビの音も消えると、そこはさびしさが充満しているようだった。彼らの歴史はゆるやかな下り坂に入ってしまったのだろうか。喧嘩もせず、相手の欠点も目に入らないようにしているようだった。それは気にならないという段階になったのか、本当に意識もしないで生活しているのかもしれない。ぼくは、階段を登りながら、冷蔵庫から冷たい飲み物を取って来ようと思い直し、また降りた。それから、電気を消してまた階段を登った。

 以前の自分が多くの時間を過ごした場所。この前は、両親が旅行に行くと言ったので留守番がてらに泊まったとき以来だ。掃除はたまにされているのだろう湿気やほこりっぽさもなかった。ぼくは、古びたラジカセのスイッチをいじり、ラジオをかけた。

 そして、頭を枕につけとりとめもないことを考えた。飲み会で数人の同僚の特徴をひとりずつ分析した先輩。ひとの印象と自分の主観的なものの見方の差異がどうしても入り込む世の中を不可思議に思っていた。早間がそこにいたら、彼はどのような分析をされたのだろう。前向きで、元気で好印象を与える人間。

「彼女とかいたためしがないでしょう?」と、ある女性にもそこで言われた。
「まあ、そうですね。紹介してくださいよ」と、ぼくはその解釈をごまかした。肯定することも無駄で、否定するのも労力がいった。ぼくは、否定をする際に状況を納得させるために証拠を提示しなければならない。それを持ち出すのは神聖さに関わるような気もした。彼女たちを飲み会の澱んだ空気内にもちこみたくなかった。

 すると、いつの間にか眠っていた。起きて先ず考えたことは相変わらず早間の印象はどういうものだろうということだった。それに、咲子と彼の関係はどうなったのだろうという問題につながった。答えをぼくは知らない。両親に問うような話題でもなさそうだった。

 ぼくは髪もぼさぼさのまま階下に降りた。まだ、高校生のころに戻ったようだった。懐かしいようでもあったが、そこには、いつみさんもユミも木下さんの居場所もない。空の箱にぼくは三人のラベルをきれいに貼り、思い出をためこんでいた。それを開けるのも、さらに品物を入れるのも、すべて自分の自由だった。高校生のときの彼女の箱はどこにいってしまったのだろう? 空港で自分の荷物が流れるのを待ちわびるひとのようにぼくはそこにいた。最後のひとりになってもその荷物は結局はこない。ぼくは取り戻す方法を模索しながらも、最終的に立ち去ることを判断した。あれはあれで行きたいところでもあったのだろうとかすかな寂しさをにじませながらも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(122)

2013年03月09日 | Untrue Love
Untrue Love(122)

 四月から着はじめたスーツも、むし暑さにより袖を通すのも億劫になる時期になっていった。疲れがたまっていたのか、暖かい陽気のせいなのか、電車のなかでうとうとすることが多かった。見馴れぬ場所の駅で降り、お客さんのところへ回った。古い機械をメンテナンスして、新しい製品を紹介した。興味を示すひともいれば、なす術もない相手もいた。それは、ぼくが友人や女性に対してすることと同じであった。

 インパクトを与えるような印象も残せず、地道に通って知ってもらえるよう努力をしようとした。決意をしなくてもできることもあり、やはり、意を決してかからないと物事が進まないこともある。重い資料が入ったカバンを持ちながら、またもとの駅までの道を歩く。きれいな川があり、ぼくは橋の途中で立ち止まり欄干の上で頬杖を突いた。小さな子が網で川をさらっている。ザリガニか何かいるのだろう。それはぼくの過去の姿のようでもあり、咲子が向こうからあらわれて来そうでもあった。あの少年もいつか働くようになり、その前に永遠にのこりつづけるであろう思い出をたくさん作らなければならない。それらを収集する網でもあればいいのに、とぼくはそこで考えていた。それから腕時計を意識もなしに見て駅までまた歩いた。

 時刻表をみると、次の電車まで時間があった。ぼくはホームでぼんやりと座り、あくびをした。自動販売機で缶のコーヒーを買ってふたを開けた。反対側のホームに電車が来て、何人かが降り、何人かが乗った。平日ののんびりとした時間だ。ぼくはまた腕時計を見た。間もなく会社に戻るために電車に乗る。もし、その必要がなかったら、きょうのぼくはいったい何をするのだろう。先ほどの小川に足を突っ込み、初夏の快適な季節を感じるのも良いだろう。腹が減ったら、素朴な味のラーメンを食べるのだ。銭湯に行って、どこかでビールを飲む。そこで話し相手が必要になりそうだった。だが、話すだけが目的ではない。沈黙を共有するという素晴らしい体験が重要なのだ。話しても、話さなくてもいい。答えても答えなくてもいい。強要される間柄ではない。ぼくは、数人のそれらの相手となりえるひとを思い浮かべていた。そして、紗枝と会うという約束をしたのを思い出している。それは遠い昔のことのようにも思えた。あのザリガニをつかまえた時期と大して違いはないようだった。

 電車が来たので、缶を捨て、車内のひとになった。窓からビルだけではなく、緑が混じった景色も目に入った。向かいのシートでは高校生のふたりが楽しそうに話している。いつみさんはある日の土手で、好きな相手を言い合ったと話した。彼女たちもそのようなことを話題にするのだろうか。そして、言ったとしてもそれは「いまの」という脚注がどこかに説明されるべきなのだ。いつみさんは、もうそのひとのことを好きではない。ただ、甘酸っぱい思い出はあるのかもしれない。ぼくも、もうその当時の好きな子のことを考えもしない。自分はいつか結婚をするのだろう。それは将来を築くという段階で、過去に目を向けるものでもない。しかし、その当人の過去のひとつひとつの経験は気になるはずだ。ザリガニは取ったのだろうか。お気に入りのスカートは、どういうものでどんな柄だったか? はじめて化粧をしたのは。マニュキアはいつから塗るのだろう。はじめて失恋して泣いたのは。ぼくは、それを誰のものとして聞きたいのだろう。

 いつの間にか電車は混んでいた。そして、ぼくの空想の時間も止み、仕事のことを考え出さなければならない。これも決意がいる作業だった。ぼくは、まだ数ヶ月しかこの生活を送っていない。いつか、考えもなしに行動できるようになるのだろう。自転車に注意もせずに乗れるように。車の仕組みをしらなくても、両手と両足は器用に動いてくれるように。ユミの指や手先がお客さんの髪を切るように。もちろん、木下さんが靴のサイズをすすめるときみたいに。

 ぼくは、その段階まで行っていない。でも、現状の分析はできる。足りないものも理解できている。先輩から学び、成功者から方法を盗む。だが、何に対して成功したいのだろう。自分の子どもがいつかあの先程のようなきれいな小川で小さな魚を取ることか。ささやかな自然にとびこみたわむれることなのか。

 ぼくは改札を抜け、いつもの会社の道を歩いている。そこで先輩とすれ違ったので挨拶をした。この場所で知り合いに会う。ここがぼくの居場所なのだ。あのバイトの地の町が段々と遠くなる。咲子は田舎をそういう目で見るのだろうか。それとも、大切な特別な感情をもって、どこか特定の場所に潜ませているのだろうか。ぼくは、過去の思い出の部屋を広くする。それは、どうあっても変化させることができないものたちなのだ。時刻表や川の流れみたいには移ろっていかない。どちらも美しいものであり、どちらも選択したものとその選択の結果なのだった。

「どうだった? うまく説明できたか」職場の先輩がコーヒーのカップを握ったまま訊いた。
「どうでしょう、顔ぐらいは覚えてくれた程度ですけどね」
「そして、また一枚、名刺が減ると。コーヒーでも飲んで、ちょっと休めよ」

 ぼくは、いつかバイト先で木下さんから缶コーヒーをもらった。彼女のそのときの頬の色。コーヒーはもうないが、その時の情景のいくつかはまだある。それは思い出になってしまったジャンルで、ぼくはきょうの彼女は知らない。明日も多分、知らないだろう。あさってはどうであろうか。縁というのが濃くなるのも薄くなるのも自分次第なのだと、コーヒーをミルクで薄めながら、ぼくはそう考えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(121)

2013年03月03日 | Untrue Love
Untrue Love(121)

 本棚や勉強机のうえを占領していたものが段々と入れ替わっていった。部屋はそれほど広くもない。荷物は一定量に保たれ、新しいものが来れば、古いものはどこか隅のほうに押し遣られるか、処分されるしか解決策はなかった。ぼくのこころや、頭も同じようなものだろう。一日のうちで気にかけることができる限度は、二つや、三つぐらいのものだ。五個もあれば、すでに多過ぎる。それは結論を求めないことと同意義のようでもあった。いつか堆積となり、不要な土砂がきれいな水底をダメにする。

 だが、すべてを一掃するという問題でもない。それができるのは留学とか、引越しとかであろう。別天地。ぼくには、どちらも訪れそうになかった。それに具体的に選びそうにもなかった。

 だから、ごみを集め、いつからごみとなってしまうのだろうとも考え、書籍を束ね、廃品回収のトラックの後ろに入った荷物をぼんやりと見送った。

 その部屋にユミが遊びに来た。
「なんだか、印象がかわったね」と部屋の様子を見て感想を述べた。
「古くて、いらなくなったものを処分したからね」
「あっさりとしてるね。何でも簡単に捨てられるひと?」
「考えたこともないけど、実行してるから、そうなんでしょう。ユミは?」ぼくは、彼女の部屋の雰囲気を思い出していたので、答えも想像できた。

「わたしは無理。だから、どんどんたまっていっちゃう。だって、あとで必要だと思って、なかったら後悔するだけでしょう」
「あとで、買い足せばいいんだよ」具体的な方法で答えを出せば、すべてが思い通りになるとでも思っていた年代なのだろう。唯一の方法。それ以外を排除してしまう思考。「だけど、ユミもなんだか印象がかわったように思える」
「そう?」と言って彼女はぼくのアパートの室内にある鏡に向かってポーズを作った。「天気がいいんで、ちょっと外、歩く?」と立ったまま、彼女は言った。ぼくは返事をする代わりにシャツを羽織った。これは、もう数年着ていたものだった。

「咲子はまだ店に来るの?」
「この前も来てくれたよ。どうして?」
「あそこでバイトを辞めたから、もうあっちは行かなくなったのかなって。そう近くもないし」
「なかなか捨て切れないタイプなんじゃない。わたしと同じで。順平くんは、もうあそこ辺りは来ない?」
「仕事を受け持ったのも全然、反対の地域だから」
「そう。残念だね。でも、変わることもあるんでしょう?」
「さあ。まだ、分からないことも多いよ」

 ぼくのアパートの周りはそれほど変わらない。だが、いくつかの古い建物がなくなり、そのなかにはもう過去の面影を思い出せないものもあった。小学校や消防署の場所は変わらない。中にいる子どもや働くひとが変わっても、それは存在しつづける。それでも、自分の視線だけではなく、季節の光線もかわり、ユミの話しかけてくる言葉の作用で違ったものになる。自分の意見や、凝り固まった考えなどはちっぽけなものなのだと思えてくる。そして、彼女の手がぼくの手を握る。そのことについてユミはなにも言わない。ぼくは感触がありながらも、そのことに触れない。そこにあると知っていながらも、それはないに等しい。いや、実際にあるのだ。それはぼくに影響を与えつづけるものなのだ。

「日曜の夜って、好きだった?」
「どうしたの、何で?」
「明日から学校もはじまって、また、いやだなとか思う友だちがいたから。わたしは違うけど」学校の校門の前を通りかかっているときユミが訊いた。
「ひとりで家にいるより、友だちと会って遊びたいなとか単純に思っていたんじゃないの。あの頃は」
「友だち、いっぱいいた?」
「普通だと思うよ。人数で比較したこともないし。多くてうらやましいとも思わないし、少なくて逆になげくこともない」

「女の子から人気があった?」
「分かんない。あんまり、そういうのを女の子って見せないんじゃないの。いまと違って。ユミは人気があった?」
「わたしは、友だちをいじめた子たちと喧嘩をしたり、仲介をしたりしてたから、いやがられたんじゃないのかな。でも、あれ、嫌いだからいじめてたわけじゃないんだよね。だから、仲を取り持つ役目なんか、本当はいらなかったんだよね。ひとりで正義を振りかざして損した。もっと、にこにこしていればよかった」
「でも、やった?」
「やった。やらないわけにはいかなかった。当時はね。いつか、順平くんにもすると思う」
「誰も、いじめないよ」
「そうだろうけど」

 ぼくはその姿を想像してみる。小さな姿のユミ。いまと同じように派手な色彩のスカートを履いている。ぼくは、誰かをいじめる。女なんてすぐ泣く生き物だと、意地の悪い気持ちをもって。だが、実際に目の前で泣き出されれば、かなりの確立で動揺するくせに。それを見咎めた同級生であるユミが廊下の向こうからやってくる。精一杯、威嚇しようと覚悟を決めたように肩を怒らせて。ぼくは、その姿が近づいてくるのをじっと待つ。段々と、この怒れるユミを呼び出すために、どうでもよい女の子をいじめていたような気もする。直線で向き合えないために、屈折するなにかを必要としている。ぼくは謝りもしないし、仲直りのきっかけも作らない。その小さな子が大人になり、いままさに手をつないでいるのだと想像しようとした。それはとても簡単なことだった。学校の裏口の門の横を通り、暖かな手の平を実感しているならば。

「通ってた学校、ここじゃないよね?」と、ユミは訊いた。
「だって、ここ、大学に通いはじめるために借りたアパートだよ」
「そうだよね。なんだか不思議な気になって」

 ぼくも、ぼく自身の過去や今を行ったり来たりした。未来もその範疇に加えたかった。そのために、ぼくは自分のために新たな空間を見つけなければならない。そのスペースにはどのようなものが入り、どれを捨ててしまうのだろう。捨ててしまったものを思い出すことはあるのだろうか。捨てるというのはそもそもどういうことなのか? 思い出があるということは物体がなくても、生きつづけるものであるとしたなら、ぼくは何一つ処分できないのだ。手放すことすらできない。どこか遠くの雑草が生えている敷地に許可もなく放り投げるだけなのだ。その土地の権利をもっているひとなど誰もいない。ただ、一匹の野良犬がそれらが役立つかどうか匂いを嗅いで点検している。飼い主も分からない。その一連の情景が、まさしく過去の堆積であるようだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(120)

2013年03月02日 | Untrue Love
Untrue Love(120)

 疲れがしらずしらずのうちにたまり、土日の休みを待ちわびている自分がいることに気付く。肉体の疲れということではなさそうだ。精神的なものがもたらす比重が多いことも知る。頭のなかをからっぽにして、リフレッシュしたい気持ちになっている。だが、何もしないでぼんやりとしていると頭は何かのことで支配されたがっているようにも思えた。積極的にスポーツなどをして身体を動かしたほうが、結果としては頭は支配から逃れられた。

 反射神経だけを使っている。ぼくはバッティング・センターでボールを打っていた。その日は、咲子がバイトを辞め、これまでの慰安をかねていつみさんとキヨシさんと会うことになり、それでゲーム・センターに行った。キヨシさんは小さなときに野球に親しんだだけあって、いまでも見事なスイングをした。ぼくは、そこそこだった。料理の腕前で劣り、野球でも負けていた。だが、それだけで計りきれない大人に、もう既になっていたのだ。個性は個性であり、欠点は欠点だったが、その尺度がすべてではなかった。尺度はきれいに整備された都市の縦横に走る道路のように無限にあるべきだった。そのひとつの通りは、ぼくに向いていないだけなのだ。

 四人で小さな盤上のサッカー・ゲームをした。ぼくは、いつみさんと組み、咲子はキヨシさんと反対側にいた。彼の太い腕は細かな作業にも適応していた。もともと料理の味でそのことは立証されていたが、そのときまでぼくは忘れている。いつみさんは負けると腹を立て、勝利者の側にまわると抱き合って世界の大戦争が終わったかのようにこのうえなく喜んだ。武器は、もういらない、とぼくはこころのなかで誰にも聞かれず叫んでいた。

 芝生のある広い場所でぼくらはそれから座った。もともとは関係のなかったひとたちがひとつになり、ぼくに影響を与える。いつみさんとキヨシさんが仕事場を離れてわざわざ会う機会はないそうである。ぼくは、そのそばでバイトをしたことにより、彼らと偶然に会った。そして、いつみさんに好意をもつ。その気持ちはもう偶然というものでは考えられないほど巨大になり、根っこを張っていた。移植も利かない。そして、当然のことながら彼女がもしぼくのことを嫌いになったとしても、その気持ちはぼくからも奪えないのだ。すると、対象がありながらも、それはぼくひとりで盛り上がり、かつ解決する問題にも思えた。だが、こうして穏やかに複数で会話を繰り広げていると、緊迫したものはまったくなく、穏やかな状態でいられた。

「咲子は、それでお店の役にたったんですか?」ぼくは、彼女がいるときには数回しか足を運ばなかった。自分が紹介をしていながらも。
「何事もアクセントが必要だからね。いつみという直球に飽き、咲子ちゃんみたいな変化球で店の印象もかわったから」
「正捕手のキヨシさんがいつも店を守って」ぼくは、そう返した。

「直ぐにマスクを外したがるキャッチャーだけど」と、今度はいつみさんが言った。まぜっかえすという言葉のもつ響きをぼくは脳裏に浮かべる。咲子は自分のことが話題になっているのにも関わらず黙っていた。ただ、それに物足りないようにスカートだけがゆらゆらと風に揺れていた。
「反対に、咲子ちゃんには役にたったの?」と、いつみさんは優しい口調で訊いた。
「とても」いくつかの過去の情景を思い出している表情になった。「いろいろなひとに会えましたから。みな、優しくて、親切なひとたちで」

「誰が?」キヨシさんは特定のひとに絞りたがっていた。それで、咲子は名前を挙げたが、ぼくには聞きなれない名前だった。それから、三人でそのひとの噂話をした。彼の子どもの幼稚園でのエピソードを知り、妻の様子まで分かった。そういうこころ安らぐ家庭があったとしても、いつみさんの店に行く用事を作るのだ。ぼくも、恒久的にこころ安らぐ場所を理想郷でも探すように求めた。

 考え出すと、そこには静かに寛いで読書をしている木下さんの姿があった。彼女は遠い日にメガネをかけはじめている。ページをめくる音がかすかにする。小さな声で音読している。バッハかなにかかあればもっといい。ぼくがいることすら忘れている。その将来。

 幼稚園に送り迎えをするユミの姿にもなった。彼女によく似た子どもの小さな手が彼女の手につながれている。一日に起こった新鮮なできごとをふたりは話し合っている。会社からもどった自分はそのいくつかのエピソードを入手する。そして、シャワーを浴び、その子の寝顔を見る。土日にはこのような芝生の上で遊ぶ。ユミによく似た子。手先の器用な子ども。その子を含めた将来。

 だが、いつみさんを締め出してはならない。ぼくのこころに根っこを張っていると考えたばかりなのだ。移植もできないのだ。別の場所では環境に合わず、枯れてしまう。だとすると、この場所の環境に咲子は適合したのだろうか? それも、分からなかった。ぼくは芝生の上で寝転ぶ。いくらか雲が多くなった空。そのもっと上空にぼくが求めるべき理想郷があるのに、肉眼では見ることが叶わないため、ぼくは強く目をつぶって見ようとした。ほかの顔の筋肉が引きつられるまで強く目を閉じた。しかし、幸せはそんな遠くにあるのでもなく、この場を支配しているようにも感じられていた。そこにぼくはいた。テントのなかにいるように、この支配下にずっとくるまれていたいとも思っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(119)

2013年03月01日 | Untrue Love
Untrue Love(119)

 新しい環境に飛び込んでいくらか落ち着いてくると、若い男性ならば異性に目が向くと言われた。自然の成り行きとして。友人と話していてそういう話題になった。ぼくにはそういった気も起きないし、起きる気配すらなかった。もちろん、予兆や、事前に判別できる兆しがあるようなものでもない。蛇行する台風の不自然な進路での急な到来により意図せずに巻き込まれるように、それは不意に起こるのだ。だが、ぼくには四年前に一度にどっと押し寄せて、その風の威力の範囲内にまだいるらしい。このまま新しい台風がぼくを呑み込むほどには吹かないようだった。その数年前の余波が一生、つづきそうな漠然とした予感だけがあった。

 だから、話し相手としてぼくは相応しくないのだ。だが、恋する人間など当人はきっと浮かれ、相槌や合いの手などにも無関心なのだろう。ぼくは悪気もなく会話の最中でさえ、ぼく自身の深い思いのなかに潜んでいるものを探そうとした。

 日照りもない代わりに、台風が頭上を通過するのを待つこともない。大雨もなく、代わりに適度の湿りを与えてくれた。そこが、台風の目のなかにいる一時的な穏やかさなのか、恒久的な静けさなのか判断のしようもなかった。友人との予測もない会話を通じ、ぼく自身の立場も分かるようになる。彼はこれからはじまることに期待をしていた。自分が起こしたアクションにより、近付くことになるのか、疎遠のはじめになるのか計ろうとしていた。ぼくは、どう足掻いてもはじめることはできない。選択できるのは継続か終息でしかない。窓や扉に板を打ち付けることもできず、風が通り過ぎるのを待つわけでもない。風はある程度、止んでおり、もし吹きすさぶことがあるとすれば、次回は別れのようでもあった。その風雨の影響をぼくはしばらく接していない。また、別れる場面になるほど、そもそもぼくは誰かと濃密な関係を築けていたのだろうか。あまりにも流説を鵜呑みにして、一時しのぎの手っ取り早い対策を施してきただけなのか。

「話はかわるけど、この前、姉貴がこっちに来てね、子ども、女の子がいるんだけど、4才ぐらいになると、あることないこと混ぜてたくさん話すんだね」と彼は突然、言いだしので、ぼくは我に返った。「順平、兄弟は?」
「いない。孤独な王様のように一人っ子」
「この前、いっしょに帰省するとか言ってたのは、あれ、どういうひと?」
「親戚のようなものだよ」ぼくは、話の流れがどこに向かっているのか分からなかった。「どうしたの、急に?」

「いやね、ああいう子と一日、遊んでいたら、女性なんかを悲しませることは、ものすごく罰あたりなことなんだと思ったんだよ。いつか、巡りめぐって、自分の背中にその悪さが迫ってくるんじゃないかと思ってね」
「だから?」
「そう、だから、楽しみたいとも思っても程度があるし、きちんと好きな子に向かい合うのが正しいことなんだろうと、ちょっと決意したんだよ」
「そんなこと、思いつづけたら、誰とも交際できなくなるよ」
「だから、程度だよ。その親戚みたいな子でも、悲しむのは厭だろう?」
「そりゃあね。まあね」

 だが、彼の話はまた戻って、新しい環境で知り合った女性の具体的な姿の描写に変わった。ぼくは、その未知なる女性と、彼が話頭にあげた姪である小さな子と、咲子の混合体を頭のなかでイメージしていた。その子が悲しんだり、喜んだりする姿にいつか化ける。喜ばす原因をつくり、その笑顔を見るのも自分であり、悲しませて、泣き顔を目の当たりにして困惑するのも自分であった。ハンカチを象徴的にプレゼントするのが自分ならば、それで涙を拭わすのも自分の仕業の結果であった。そのことを彼は背中に自分の悪が迫ると例えたのだろう。ひたひたと忍び足で。

 しかし、悲しませることが前提にあるわけでは決してない。自分はあるひとと一心でありたいと願い、一体であろうとした。そのためにぼくは自分の気持ちを打ち明け、彼女のこころを奪おうとした。こころがそっぽを向いているのかも分からない。身体もこころも別たれたものではない。笑うのはこころであろうか。その笑顔が溢れた表情そのものが、そのひとのすべてであろうか。

「ふたりっきりじゃ気まずくなったら、今度、いっかい付き合ってくれよ」と、友人は言った。ぼくは、別の女性に会ってみることに急に興味が湧いた。彼女らはいつみさんとどう違うのだろう。ユミのように人生を楽しむ様子を見せてくれるだろうか。木下さんのように静かな安定感をこの世界に持ち込んでいるのだろうか。

「いいよ。もし、彼女がオレのことを気に入ってしまったら、そのときは許してくれよ」
「自信があるんだな」
「自信のない若者なんて無価値だよ」

 だが、ぼくのこころはもう別方向に手を拡げることはないのだ。そんな気など起こらないのだ。蝉は夏には鳴かないのだ。ぼくは夏を楽しむ前に秋に足を踏み入れてしまったような気がしていた。だが、ぼくの前には浮き輪が三つ浮かんでいる。ぼくは沖から安定した岸に戻るために、どれかひとつにくぐって輪の中に入らなければならない。いったい、どれが自分の重さや軽さに向いているのだろう。岸で泣く少女の幻影があった。その姪のような子は、ぼくの悪が混じった誠実さを見出してくれるだろうかと考えた。考えたというより、溺れないように必死に願っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(118)

2013年02月24日 | Untrue Love
Untrue Love(118)

 その年は梅雨がはじまる前なのに雨が多く降った。ぼくは靴が傷むのを恐れたのか、単純に木下さんに会いたいためなのか分からないまま閉店間際のデパートに入った。彼女がいるかどうかも確かめずに。だが、ぼくの視線は彼女を認め、彼女もぼくのことを見た。ここにいるべきではないひとを思いがけなく見つけたように。

「山本さん、靴を買いに?」
「雨ばっかりで、靴も乾く暇がないから」ぼくは彼女の他人行儀の対応に戸惑っていた。
「似合うの、ありますよ」彼女は靴をとる。そして、かがんでぼくの前に差し出す。「多分、サイズはこれぐらいでしょう」

「みんなのを覚えているんですか?」
「大体はね。これも企業努力だから」彼女は以前のように微笑む。一、二ヶ月前の以前にしか過ぎないのだが。「わたしの趣味でもあるし」

 ぼくは、取り出された靴に足を入れる。最初は窮屈だと思っていたが、足首をまわし中にいる足を確認すると、悲鳴をあげることもなく快適であるということは、こういうことなのだと理解させてくれる何かがあった。
「ぴったりですね」ぼくは感想を述べる。彼女は手で船のような形をつくった。それがぼくの足の形状を指していることに気付くのには多少の時間が必要だった。それから、もう一度、彼女は笑った。

「ぴったり。買ってくれるのを待っていたぐらいにぴったり」
 そして、ぼくの財布は開かれる。ぼくは、お金を払いながら、彼女の今後の予定を訊く。

 店を出ると、雨はやんでいた。傘を面倒そうにもっている会社員がいた。家庭や会社に縛られ、さらに傘にもという表情だった。それらが充足をあたえてくれることはなく、彼には不満の種がひとつ増すだけだったのだ。おそらくは。

 ぼくは、待ち合わせの場所に立っている。路面はまだ濡れている。電飾の光線がその小さな水溜りに反射している。ぼくの両手には傘があり、いつものカバンがあり、そして、新たな靴の箱が納まる袋があった。ぼくはあそこで汚れてもかまわない格好でバイトをしていた。重い荷物を運び、社会の成り立ちの一員になることを知った。物事には裏側があり、それは美しくもないが、当然、誰かがやらなければならないものなので、わずかながら貴いものに変化させる義務もあった。労働は賃金にかわり、ぼくはそれで女性と会った。しかし、若さこそがいちばん重要だったのだ。躊躇をしないまま決断をして、少しは悩み、少しは解決策を練り、結局はどうにかなった。このように雨も際限なく降りつづけるわけでもない。

「今日は、なんだか気合の入った服をしてこなかった。朝は随分と雨が降ってたし」

 その待ち合わせの場所に来た久代さんは言い訳めいたことを口にした。もう四年近くにもなる前は、彼女はぼくに比べて大人すぎて映ったが、いまは対等な立場にいるようだった。この変化の原因がどこにあるのかも分からない。ただ、いくらか自分に主導権が与えられつつあるということでもあるようだった。主体的になにかをするわけでもないが、はじめる権利も終わらせる権利もぼくは握ることができるのだという過大な自信のせいであろうか。しかし、はじまってもいないし、無論、終わらす勇気も覚悟もない。主導権も傘立てにある傘と同じぐらいに置き忘れてしまいそうだった。雨がやんでしまえば。

「お腹空いたでしょう? 順平くん」
「なんだ、名前忘れたのかと思ってました」
「まさか。仕事なれた?」
「まだまだ、全然ですよ」
「順平くんなら、できないことはないでしょう」
「そこまで言ってくれるんですか・・・」
「うん。紹介文でも書いてあげようか?」彼女が年をとらないのか、ぼくが急激に大人になってしまったのか分からないが、この変化は好ましいものだった。
「成長しても、もう靴のサイズは変わらない」
「でも、いずれ履かなくなるよ。下駄箱でほこりをかぶって、忘れちゃうんだよ。むかしのものというひとつのくくりのなかで」

 ぼくはそういうラベルの貼った大きな袋状のようなものを想像してみる。カンガルーの子どもが下界に興味がある目付きで外を見ている。子どもがもう戻らなくなったら、そこには何があるのだろう。ぼくは、自分の袋にはまだなにも入っていないと確信していた。しかし、思い出してみればあんなにも仲が良かった友だちの名前を一部か、全部か忘れてしまっている。タケシかタカシかも思い出せない子もいた。すると、その袋は段々と膨張する未来だけが待っているようだった。そこにあらゆるものを放り込む。労わる機会がくるのか、懐かしむ時間を待ち望むのか考えもせずに、無節操に。

 ぼくらはゆっくりとご飯を食べ、お酒をちょっとだけ飲んだ。窓の外は久しぶりの星空を楽しんでいるようだった。だが、遠い空には既に雨雲の前兆のようなものがあった。
「やっぱり、明日も雨なんですかね?」
「新しい靴を履きだすタイミングとしては不似合いだね」
「もう一日か、二日だけ我慢します」

 ぼくはその言葉を信じ込ませるように靴の入っている紙袋を撫でた。

 時間の余裕もそれほどにはなく、早い時間で切り上げた。お会計を済ませて外に出ると、ぼくはやはり傘を店内に立てかけたまま忘れていた。久代さんが二本の傘を持ってきてくれた。

「やっぱり、忘れてるね。もう、明日も降るんだから忘れちゃダメだよ」と彼女は渡す際にそう言葉を付け加えた。ぼくは、彼女自身を忘れないでね、という言葉として受け取った。傘や靴など代用の利くものではないので、また形あるものとしてではなくなるので、ぼくは忘れる心配など無用のことだと思っている。しかし、形がなくなると思いはじめていた自分にも驚いていた。形あるものとないもののどちらにより記憶は残りつづけるのだろう。ぼくは地下鉄で手すりにかけずにひとときも傘を離さないでいた。これが久代さんとのつながりのすべてでもあるように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(117)

2013年02月23日 | Untrue Love
Untrue Love(117)

 期間があまりにも開き過ぎてしまったので、仕事帰りにユミと会うことになった。何も変わっていないと思っていたが、待ち合わせの場所に小走りにやってくるユミの自然な姿を見て、ぼくの姿や格好は、社会に組み込まれた人間のように映った。制服をまとった自分は、個人というより企業の利益が優先されるのだ。

 ぼくらは店に入って夕飯を食べる。

「給料、もらったんだ。それに、髪も切ったんだ」彼女は逃げ出してしまったペットを見るような目付きで、ぼくの頭部を眺めた。「でも、いいよ。一度、離れて、また、あのひとが良かったなと思えば、戻ればいいんだから」
「何か、重大な真理についてのことを知ってる口調だね」
「だって、そうじゃない?」
「そうだよ」ぼくは自分のことは棚に置き、世の中はそうは簡単に行かないものだとも思っていた。咲子と早間はいずれ別れるのだろう。この瞬間にもその岐路は訪れているのかもしれない。また、免れて先延ばしにされたかもしれなかった。しかし、戻りたければ戻ればいいという段階が、悠然と待ってくれているとは考えにくい。機会を逃したものは、ただ、歯噛みをしながら後悔をひとしれずするべきなのだった。

「理由を言うとね」と、ぼくは髪の問題に話を移した。それは、こうだ。外回りに先輩に連れて行かれる前日、ぼくの伸び過ぎた髪を彼は不快に感じ、「金がないなら、立て替えてやるよ」と言って札入れを出す仕草まで先輩はした。それで、会社のそばにある店に飛び込みで入って、ひとが不快にならない程度に切ってもらった。そういう経緯があったのだ。
「なんだ、それなら、やっぱりわたしの腕の確かさに戻ってくる余地がたくさんあるんじゃない」と、誇らしげに彼女は言った。「でもね、こうして会う関係だけでも、もちろん、満足してるよ」とも、付け加えた。返事や同意を要求する顔もしたが、ぼくは、自分の髪型を彼女はどのぐらいに採点しているのかが気になった。

 ぼくらは春の夜の町を歩く。仕事というものが普段の自分の脳を占有する度合いをまったく知らなかった自分が帰って来る。ぼくは陽気な彼女に伝染される。だが、それもわざと演じているような自分自身への偽りの気持ちもあった。すべてに対してしっくりこなかったものが、彼女の一部を遠ざける結果にもなった。

「わたし、明日休みなんだ。前みたいに家に行ってもいい?」
「いいけど、ぼく、明日早いよ」
「朝、いっしょに出るよ」

 ビールとつまみを途中の店で買って、家に着いた。ぼくはスーツをハンガーにかけ、シャワーを浴びた。そこから出てタオルで身体を拭いていると、案の定、彼女は机のうえの写真立てを発見していた。
「このひとたちは?」
「咲子がバイトしてたところ」正直に言ったが、すべての情報を開示したわけでもない。「辞めるから、ぼくも行ったんだろう」
「お店のひとなのかな、服が違うよ」それは別の日であるという意味だ。「まだ、ここ、あるの? 咲子ちゃんが辞めたけど・・・」
「あるよ。その大柄な男性が、女性に興味のないひと」
「今度、いっしょに行かない?」
「そうだね」彼女たちの軌道は違っているので、ぶつかる可能性は皆無なのだとぼくは単純に信じていた。「シャワーでも浴びたら、疲れただろう?」
「そうする」

 彼女が居ない間に写真を隠してもわざとらしいので、ぼくは一度手に取り、またそれを元の場所に戻した。でも、やましいところもないし、疑われる情報もそこからだけでは汲み取れなかった。だが、ぼくは状況を客観的に判断できる才能もない。しらみつぶしに見れば、微小な証拠の品の採取ができ、犯人に仕立て上げるのも簡単だろう。

 ビールを飲みはじめる。ユミはぼくの服を着た。ぼくと会わない間に、彼女は誰かと会ったりしなかったのだろうか? 疑問があれば訊ねればいい。独占したければ、宣言すればよかっただけだ。だが、そうはしない。ぼくらはビールの軽い酔いの力によって、ボーダーラインを消していく。この状態はベストではないが、悪い要素は決して含まれていない。底に澱みはもしかしたらあるのかもしれないが、強く、より強引に掻き回さなければ濁りは表面に浮かんでこない。こうしたためらいなのか不誠実なのか分からないが耐えられないほどに思うほどには、澱みもないのかもしれない。

 ぼくらは、すべてを忘れる力があることを信じてお互いに強く抱き合った。言葉にしないものの代わりに身体を用いた。ぼくは企業の利益など心中になく、ただ自分の利益だけを優先させる存在だった。その結果のユミの顔も見ることができた。輝けるひととき。春の夜。そして、夜中。

 翌朝、ぼくらは駅に向かっている。彼女の今日の一日はどうなるのだろう。前なら、一日を無駄にしたとも思わずにいっしょに過ごした。時間という計量の目盛りは変わっていないが、体内のものは手抜きの利かない会社での生活に乗っ取られ、水没してしまっているようだ。その分、増量時の川の水位のように橋げたを埋め尽くそうとしていた。駅で、反対側の電車に乗り込むため、ぼくらは改札を通過したところで別れた。ぼくの顔は備え付けの鏡に一瞬だけ写った。それは、どこか険しい顔をしていた。振り返っても、ユミはもういない。彼女といる間も、この表情をもし浮かべていたとしたら、それは可哀想なことをしたなといささかの後悔を感じた。それも、もっともっと短い一瞬のことだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(116)

2013年02月22日 | Untrue Love
Untrue Love(116)

 バイト先で咲子の忘れ物が残っているというので、いつみさんに手渡された。もう出向かない場所にも自分がいた痕跡があるのだ。風化する前の段階では、本人に戻る。博物館に陳列されているものたちには引き取る相手がいない。ガラクタでもないので、それらは第三者の目を奪う価値がたとえあったとしても。

 ぼくはいつみさんと会う約束があったので、咲子に連絡をとる手間を省き、ぼくに手っ取り早く頼む方法を彼女は選んだ。
「それで、何ですか?」
「お皿でも洗うときに外したのかな、華奢な指輪。あそこで指輪を外してお皿を洗うのは、わたしか、咲子ちゃんだけ。それに、このようにわたしはあまりしないから」

 いつみさんは指を空中に捧げた。爪も短く、指輪もなし。飾り気を除外しても、それは女性以外の何物でもないような繊細な指だった。
「そのうち、大きなものをはめますよ」
「ひとを殴るときにつかえるように」彼女は大口を開けて笑った。

 ぼくはポケットにティッシュでくるんだ指輪を放り込んだ。しかし、もしそれが大事なものであれば、そう簡単に忘れてしまうようなものなのだろうか。そこには意思や決意があるようにも思えた。敢えて、どこかに置いて来ようとしたのか。それとも、無意識の領域で、その物体を自分とは遠くに置きたがったのだろうか。ぼくは、多分、考えすぎているのだろう。咲子に手渡せば、ただ受け取り、「あそこに忘れてたんだ」と、ほっとした安堵の表情を浮かべる。そして、また指にはめる。それで完結する問題なのだ。

 ぼくは、いつみさんと話しながらもポケットのなかを意識している。自分で買ったものなのだろうか。それとも、誰かから貰ったものだろうか。くれるのは、早間からで、何かの記念にプレゼントされたのだろうか。だが、ぼくはそのもの自体が高価なのか、安っぽいものであるのかも分からない。ポケットに無雑作に入れるのをいつみさんが止めなかったので、それなりの値段なのだろう。しかし、彼女も普段から身近なものとして扱ってこないのであれば、価値を把握するのも難しいのだろう。ぼくはポケットの無機質なものが感情をもっているかのようにこころなしか恐れていた。

 そして、もう一度、ポケットから取り出し、中味を確認した。光線にあたり、かすかに輝いている。

「これって、どれぐらいの値段なんですかね?」と、つい口走った。
「質屋にでも売るつもり?」
「まさか。途中で失くしたら弁償できるぐらいの値段かどうか知りたかっただけ」
「じゃあ、帰りまで持っててやるよ。値段というか、思い出が含まれた値段もあるしね」
「プレゼントだと思う?」ぼくは、いつみさんに戻した。彼女はバッグにしまった。

「プレゼントって、定義だけどね」彼女はコーヒーを飲みながら、少し難しいことを考えているような表情をした。「こっそり買って、あっと驚かすように差し出すのもプレゼントだし、いっしょに買いに行って、ああでもない、こうでもないと言いながら店頭で選んで、男性が最終的にお金を払うのもプレゼントでしょう?」と言った。そのためにぼくは求めていた答えを導けなかった。
「いつみさんは、どっちが好き?」
「どっちだろう? 敬語、やめてくれたんだ。ありがとう」と、また本題からずれた。
「やめてないですよ」
「やめてたよ、さっきから、ずっと」
「そうですかね、先輩はずっと敬うようにしてたのに」

 いつみさんは、笑いながらも難しい顔はくずさずにいた。眉間には細いしわが寄っていた。それは日中に会っている証拠だとぼくには感じられただけだった。外は五月の陽気で、ここちよい光が窓のそとに見えている。
「いつか、わたしにも買ってくれるひとができるかな?」
「できますよ。ぼくも、買いますよ」
「また、敬語口調にわざと戻してるよ、順平くん」
「買ってやるよ。これで、いいですか?」
「それで、いい。ばっちり」と言いながらいつみさんは大きく頷いた。

 ぼくらはそれから外を歩いた。中古のカメラ屋のショー・ウインドウがあって、となりには時計の同じものを扱う店もあった。
「こういう誰が使ったものか分からないものに抵抗があるひとっているけど、順平くんはどっち?」
「大丈夫ですね。気にもならない。どうですか?」
「わたし、少しダメなんだ」
「新品じゃないとダメ?」

「それほどまで、潔癖じゃないけど、そうだよ、きれい汚いの話じゃなくて、大げさに言えば怨念みたいなものがありそうで」
「オカルトですね」
「違うよ。誰かが大事にしてきたものって、何だか、やっぱり気持ちが入って、詰まってそうじゃない」
「物にも記憶がある?」
「そう。年輪みたいなものがね」

 ぼくも十年前なら、このようにあごにひげなど生えなかった。いつみさんの顔も、もちろん十年前とは違うだろう。眉間にしわなどもなく、無傷のままの指先の持ち主だったはずだ。仕事がらか生活の一部としてか、その指に包丁やナイフが傷をのこす。揚げ物のやけど痕がつく。少し経てば消えるものもあり、永久に居場所を見つけることもあるのだ。それを確認しつづけることが男女の健全な営みのように思えた。ぼくはいつみさんに指輪を買うという仮の約束をした。その代償として、二年後や三年後の彼女のささいな変化をも見つけ、正当に知るチャンスができる。幸運なら、もっと長期に渡る期間に移行するかもしれない。ぼくの大事にしようと思う気持ちは、彼女にいくらかの刻みや切り込みをつけるのだろうか? 表層的な花の開花のように直かにあらわれるのではなく、もっと深い部分にも根を張りめぐらすことは可能なのだろうか。もし、そうだとしたら、ぼくはそれを選びたいとも思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする