爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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拒絶の歴史(120)

2010年10月31日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(120)

 そのようにして他の友人たちの活躍を目にして、自分も頑張ろうと思うのだが、普段の仕事の成果というものはそう簡単に計れないものである。数字として目に見えるものもあれば、いまはまだ準備期間なのだから、大した成果を上げていないように見えるものも、あとでどう化けるものなのか分からなかった。

 日常は、もうそう大幅に変化することもなかった。日々の積み重ねがあるだけだった。ぼくは、さまざまなひとと会い商談をし、雪代とテーブルに向かい合ってご飯を食べ、暇な時間がとれなくても短い時間を活用して勉強した。

 知り合いのひとの顔は増え、何人かとは没交渉になり、深い関係になれそうな友人たちと会えそうなチャンスはめっきり減った。それでも、何人かからは電話がかかってきて会うことになる。友人たちは地元から去ったひともいれば、まだまだ残っている人も多かった。

 ぼくは友人の松田に誘われ、彼のサッカーのコーチ振りを久し振りに見に行った。彼はその役割を充分に楽しんでおり、誰かに与えられたということではなく、生まれついてそれに向いているような感じがした。

 小さな子どもたちは彼を慕っており、ぼくが知らない子どもたちも当然のことながら増え、その子たちの注目を集めていた。彼の子どもは、まだチームには入っていなかったが、隅の方でひとりでボールを蹴っていた。となりには彼の奥さんがいた。ぼくは手持ち無沙汰になり彼らのそばに寄った。

「ひろし君」と彼らは言った。
「こんにちは、那美ちゃん」とぼくは奥さんの名前を呼び、男の子の頭を撫でた。そして、彼からボールを奪い取り、足をつかって戯れた。ぼくにもまだその年代なら、ボールを器用にあつかってあしらうことはできたのだった。
 20分ぐらいそうしていただろうか、松田は休憩を取り、こちらに近寄ってきた。
「なんだ、練習に参加してくれると思っていたのに」と笑顔で言った。
「もう無理かもしれないね」

 自分はブランクが空いてしまった時間を恐れていた。いつも最上級の自分をもってこないことには、相手に負けてしまうという考えがあって、中途半端な自分が嫌いだった。ただ単にスポーツを楽しめることができればそれに越したことはないが、いまは考えが違った。また未来のある日には、普通に楽しめるようになるのかもしれない。

 松田は、意図しない子どもができて学校を辞めており、そのときの楽しい機会を取り戻すかのようにグラウンドで楽しそうに走っていた。それを見ると自分も快活な気持ちになった。

「練習が終わるまで待っててくれるだろう?」と言い残し、またグラウンドの輪に戻っていった。
 後半もぼくはベンチに座り他の父兄たちに混じって、その様子を見た。何人かは顔見知りで彼らと話した。ぼくを何かに当てはめて判断するようなことはなく、以前のサッカーが好きなお兄さんというような感じで接した。ぼくもそれに普段とは違う入れ物のようで、居心地良く感じた。

 練習がすべて終わり、ぼくを知っている小さな子どもたちやもうひとりのコーチと楽しく話した。彼らは、ぼくの体内にある小さな悩みの数々を払拭してくれるほど、温かなひとたちだった。ぼくは普段の仕事を忘れ、そうした時間がもてることに感謝し満足していた。

 ぼくは松田の車の後部座席に乗り込み、男の子と話していたが、かれはいつの間にか眠ってしまった。家の前まで着いても目を覚まさないので、ぼくは彼を担ぎ上げた。
「悪いな。いつもこうなんだ」と松田は言った。もう抱っこするには大きくなりすぎたその身体をぼくは落とさないように固く抱いた。

 部屋に入り、松田はシャワーを浴び、那美さんは料理を作ってくれた。目を覚ました松田の息子は美味しそうにジュースを飲んでいた。風呂場から出てきた松田の手にはビンのビールが握られ、ぼくらはそれを飲んだ。

 料理ができると那美さんもいっしょにすわって、ぼくらはビールを飲み、美味しい料理を堪能しながら楽しく話した。女性は女性がどう扱われているかに関心があるらしく、雪代のことを聞きたがった。

 ぼくは問われるままに、その題材を無視しなかった。彼女はささいなことで驚き、時には感心し、またときにはぼくの対応への不満を漏らした。ぼくは酔った記憶でありながらもそれを覚えておこうと努力したことを思い出す。だが、覚えていたとしてもそれを実行できるかはまた別問題だった。

 楽しい時間は過ぎ、朝の早い彼の仕事の関係からもぼくはさよならを告げる。家は歩いて20分ぐらいかかったが、ぼくはその間に考え事をしたくて、ひとりで歩いて帰った。

 ぼくは、いままでいたあそこの部屋の暖かさを感じている。自分にも子どもがいて、雪代が料理を作っているイメージを思い浮かべようとした。だが、なぜかそれは現実味を帯びず、よその世界の話のようにも思えた。また、何人かの女性の顔が浮かび、ぼくはそれをトランプを裏返して確認するかのように、それぞれの美点を思い浮かべるのだった。

拒絶の歴史(119)

2010年10月30日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(119)

 後輩の山下は社会人になってもラグビーで活躍していた。そのリーグの試合でも活躍し順当に勝ち上がっていって、自分の名声を高めていった。

 その頃になると、ぼくはもう自分がなにかを教えたり、いっしょに練習に励んでいたという事実はまったくのこと忘れ、ただ妹の恋人という観点で見ることの方が多くなった。そして、いちラグビーフアンに戻り、彼の活躍を無心に応援していた。

 彼の試合を実際に応援するために久々に東京に行った。席は先輩の上田さんが買っておいてくれ、ぼくらはそのスタジアムがある駅の前で待ち合わせをした。そこには彼の妻になったぼくの幼馴染でもある智美もいた。彼女は、ぼくが知っている頃より見違えるほど変わってしまい、それは良い方向への変化で一段と女性らしくなっていた。髪も伸びており、ぼくのイメージの中に眠っている活発でショートカットの女の子はどこかに消えてしまい、外見だけではただのおとなしい女性であった。

「よっ、久し振り」と、彼はぼくの肩を叩いた。
「こんにちは」と智美もその後に言った。
 長い間、離れていてもぼくらには見えない糸のようなつながりがあった。最近のことを情報として交換し合えば、あとは数秒で以前の関係に戻れた。そうすると、まだ10代半ばのような智美が戻ってきた。彼女はぼくの家族ともずっと親しくしていた。たまには電話でぼくの母とも連絡するようで、ぼくの最近に起こったことも多少のことは知っていた。そして、そのことを夫である上田さんも共有していた。

 試合前の興奮は、いつでも心地よいものである。ぼくらは会話をしながらも頭の中でそれぞれの試合の展開を予想しあっていた。無言になりながら考え、予想の内容を語り合っては、展開の場面をイメージし、さらに膨らませていった。だが、山下の姿を見れば、ぼくらの興奮は最高潮に達し、それはもちろんのこと思考を奪った。

 山下の身体はぼくらの遠い場所から見ても一段と大きくなっていることが確認できた。彼は声援の方を一瞬だけ振り返り、ぼくらはその顔に闘志が秘められていることを発見する。

 試合が始まった。試合の運びには、そのランクに達していれば当然のことなのかもしれないが、大きな差は見られず緊張感がみなぎる時間が遅々と過ぎていった。

 山下の頑張りがあったにも関わらず、(個人のゲームではないが、彼に注目するのは否めなかった)彼のチームの方が点数が少なかった。ハーフ・タイムの間、ぼくらはその時間のやり場に困っていた。ぼくらも、控えに戻ってあれこれ鼓舞するような時間を持ちたかったのだ。しかし、グラウンドから去った以上、それはできなかった。

 後半になっても手に汗にぎる展開が続いた。ぼくらは息を殺すように黙る時間を持ち、また声を枯らすまで絶叫する時間もあった。結局のところいつの間にか山下のチームは逆転していて、試合が終わるとそこで死闘を尽くした以上にぼくらは疲れ果てていた。見るより、自分で動いたほうが楽なこともあるのだ。それは仕事でも同じで自分で安易に動いたほうが簡単に解決することもあったが、後輩は仕事を覚えなければならないこともあった。それは失敗を多く要求したが、やはり失敗はそれなりの見返りをくれた。ぼくは、その試合後にそんな感想を持っていたのだ。自分がもうがむしゃらに駆けずり回っていたスポーツマンではないこともあらためて確認した一瞬でもあったのだが。

 それから、夜は山下と久々に待ち合わせをして、ビア・ホールでビールをたくさん飲んだ。ぼくは、上田さんの部屋に泊まることになっていたので、安心してビールを飲んだ。その安心感がぼくを帰って量以上に酔わせることになったのかもしれない。
 ぼくは雪代への愛情が停滞していることを語り、彼らが最愛のひと以外に女性を発見しなかったことをうらやみ、また逆に同時になじった。

「河口さんを手に入れるために、あのひとを失ったんじゃないですか。同じ間違いをしないでくださいね」急に大人になった山下はそんなことを言った。その言葉はぼくの胸に刺さる言葉だった。智美はその場面を取り繕い、ぼくらが言い合いになるのを避けた。

 ぼくは酔って、上田さんの家に転がるように入った。急いで布団は敷かれ、ぼくはそこに寝転がり、水を求めた。

「ぼくは、ずっと失敗してきたのかもしれない」と、何度もうわ言のように呟いていた。自分の耳はそんな自分の感情を聞くことに飽き、ぼくはいつの間にか眠っていた。次に目が覚めると、そこには東京のきれいでもない空の色が目にはいった。
「なんか酔ってたね。悩める少年みたいに」と、智美は言った。

「ごめん」とぼくは小さな声で言い返すしかなかった。ぼくは、あのチームメートに囲まれていると油断して、甘えてしまう自分がいることを見つける。それを理解していいものなのか、納得していいものなのかまだ判断はできなかった。

存在理由(12)

2010年10月27日 | 存在理由
(12)

 年末になり、みどりは帰省のために実家に戻っていた。その前は休みも取れなかったため、人々が騒いでいる頃には、ぼくらは会うことも出来ずにいた。そしてまた、携帯電話などそれぞれが持っている時期でもなかったので、数日は緊密に連絡することも不可能だった。

 ぼくは、いつもの長期の休みにするように、実家には帰らずに友達の家を数日単位で泊まり歩き、友人の家族とも、よりいっそう親しくなっていくのであった。

 しかし、それでは余りにも両親に冷たすぎるということで、兄から呼ばれ1月になり、一日だけ帰った。その頃には、必要な荷物は全部、東京にもっていき、ささいなものも実家には残っていない状態にした。多分、もうそこで自分の過去の痕跡を消すように、その地にさよならを告げたのだろう。

 1月の中旬になり、彼女と会った。

 1991年になっていた。ぼくは大学にも行くことはなく、バイトも止めていたので、数か月はなにもすることがなかった。最後の本気で本が読める時期かもしれないと思い、あらゆるところで本を読んでいた。

 公園。喫茶店。電車の中。寸暇を惜しんでは、本の中に顔を突っ込んでいた。

 その時に、ボランティアで本を読み聞かせるということをした。あまり、自分が善行をしているとも思いたくなかったので、誰にも言わず、それでもきちんと行った。

 それは、ぼくに読む本の選択権があったわけではないが、その所為か知らない本も見つけられた。

 それぞれの家に行き、ある場合はおばあさんの前で、「斜陽」を読んだ。あまりにも、きれいすぎて濃度の薄い場所で生きていけない人々、とその人は、そう説明した。最近、目が悪くなって、読むことが出来なかった。ありがとう、と素直な気持で言ってもらえた。それは、ぼくにとっても役に立ったことだと思う。

 誰かの代替者になること。自分を切り売りしていかないで、それでも、何かと何かをつなぐ役目に徹するということは、気持ちの良い作業だった。

 1月の最後は、バイトで貯めていたお金を使い、リュックを背中にあちらこちらを歩きまわった。突然、知りもしない場所から絵葉書を送り、みどりを驚かそうという魂胆があったのかもしれない。当然、彼女は返事をかくことも出来ず、その一方的なまでの求愛のダンスのような言葉を彼女は部屋の机の引出しにため込んでいく。

 戻ってきたときに、ぼくはみどりの部屋で、自分の書いたものを投げ付けられ、
「ちゃんと行き先も言わないで、突然どっかに行かないでよ」と、少し涙交じりに彼女は言った。

 それは、大事な兄を急に失ってしまった彼女にとっては、切実な問題だったのだろう。

 こうして、ぼくは、とても面白いと思ってやってきたことを少し、軽んじられたが、その旅自体に実りが多かったので、へこむようなこともなかった。

 また、本を読んでもらいたい人を探してもらい、ぼくは自転車で与えられた本を詰め込み、人の家へ向かっていた。もう少しで、22歳を終える頃だった。

存在理由(11)

2010年10月26日 | 存在理由
(11)

 今日も、川の橋の下で、小さな彼らは野球をしている。

 みどりの家の横にも川が流れているが、それは幅の狭いものだった。春には、両岸にきれいな桜が咲き、毎年のようにその場所を歩きたい気持ちにさせる。冬も始まっている今は、その樹々は色づいていた。

 そのみどりの家から電車で三駅ほど乗ると、少年たちが無心に野球やサッカーに励める場所があった。大きな水量のある川は、悩み事のない人のように悠然と存在していた。

天気が良くなると、ワインの瓶とみどりの作った食べ物を持って、そこに行くことがあった。冬だが珍しく暖かかったその日もぼくらはそこに向かった。

 小さな男の子たちが、懸命にボールを遠くに飛ばそうとしているのを見ることは、自分の小さな現実にならなかった夢の後追いだとしても、自分にとって、そのような時間を持つことは、幸福のかけらの一部でもあった。

「もうバイトも終わったね」
「そうだね、いろいろありがとう」
「わたし、何にもしてないじゃん。新しい職場では、小さくまとまらずに頑張ってね。もっと大きな人間になれるはずだよ」
 その時には、無関心にきいていた言葉も、けっこう大事だったのだな、と思うこともある。

「そうするよ」と、簡単に答えただけであったが。
「本当によ」彼女はいくらか、むきになっていた。

 転がってくる球体。ただあるべき形だけで調和のとれたものがある。ぼくは、ファールになったボールを小さなグローブを持った手を目がけ、投げ返した。また、ゴールラインを越えたサッカーボールを、彼女はスニーカーで蹴り返した。それは、いくらか軌道を間違えてしまった流れ星のように、思いがけないところに行った。それでも、彼女の存在は、少年たちにも好意的に受け止められているようだ。

 風が冷たくなる。寄り添う彼女の重み。もし、幸福の公式があるのなら、結果としての答えは、このような重みではないのかと考えていた。

「どうしたの? 無口になって」
 沈んでいく太陽の球体。練習を終えた彼らたちは、その時に流行っていた歌を大声で怒鳴っていた。

存在理由(10)

2010年10月25日 | 存在理由
(10)

 環境の変化が避けられない事実として目の前にあるのならば、いま、ぼくはそれに向かいつつあった。そして、そのことを何より、楽しんでしまおうという気分を持って、生まれていた。時には、新たなことにチャレンジするのは怖いこともあったが、安楽がそれ以上に怖かった。もちろん、年代的にも、そのような安楽な場所に留まることには早過ぎていたのだが。

 大学も終わるので、その前にバイトを辞める必要があった。辞める前に、みんなでお別れ会のようなこともしてくれた。

 ぼくは、いまより大きな出版社に就職することになっていたので、そのことを良く思わない先輩たちもいた。自分には、その気持ちが分からなかった。そして、男性にも歴然として、嫉妬という気持ちが存在していることに、遅まきながら気付くのだった。

 それで、何よりの決意として、自分は将来、絶対にそんな気持ちを持つことはしないだろう、と誓うのだった。そんなことは、あまりにも自分に対してみじめになるだけだった。ショートとセカンドの守備範囲がまったく違うように、それらは単に優越というよりかは役目の問題でもある気がした。

 数人、そのような人もいれば、いままで接してくれた態度とは全く違う新鮮な言葉を投げかけてくれる人もいた。そのことは、いまでも多分ぼくを暖めてくれているのだろう。

 みどりと付き合っていることは、誰にも伝えてはいなかったが、それは周知の事実でもあったようだ。ある日、彼女の視線の先にぼくがいて、そのことをバイトの女性が気づき、それを広めたということだった。それは、別に秘密にしておく問題でもないので、どちらでもよかったが、最後になってひやかされた。

 何次会かをした後、自分の揺れる身体を心配しつつぼくは、それでもみどりと一緒に帰った。足の裏には枯葉が踏みつけられる音がした。環境の変化を愛しているとは言いながらも、この瞬間のことを、いつもぼくは覚えている。彼女の帽子。頬をなでる冷たい風とともに。

存在理由(9)

2010年10月23日 | 存在理由
(9)

 4年ごとにチャンピオンを競うスポーツがある。その狭間に埋もれるチームや選手が出て来る。しかし、それとはまったく別の観点から、そこにいて当然のチームがあり、選手がいる。次こそは、と期待を膨らませつづけることが楽しいときもあって、まだ日本という国は、そこでの存在の証明は行っていなかった。

 その年の1990年には、イタリアでワールドカップが行われていた。ぼくも、みどりと一緒に彼女の部屋で見ることもあった。彼女は熱く語りながらも、こころは冷静であったのだと思う。それで、もう4年後に開催されるアメリカでのワールドカップに注意を向けていた。

 ぼく自身は、アメリカとサッカーということをうまく結び付けられずにいた。あの国のベースは、野球であり、フットボールであり、バスケット・ボールの国ではないのか。それを自分の人生をかけてでも楽しんで引き込んでしまおうという人たちではないのか、と考えていた。

 日本もそこに行かなければいけないとみどりは言った。そのためには外国人の監督が必須であるとも言った。

 もちろんスポーツのことだけを話していただけではない。さまざまなこと。彼女の家族にもその頃にあった。彼女のお兄さんの写真も見た。ある人たちが、こうあってほしいという像に、ぼくは自然となれることもあった。その家族は、当然のようにいなくなってしまった彼女の兄の幻影を探していた。いくらか、その兄の性格を聞いていたので、食事のときは、両親と妹をいつも笑わせていたということだったので、その時はいつもより快活に振る舞った。それで、食事のあと、コーヒーを飲みながらもずっと以前からの知り合いのように、ぎくしゃくしたところもなく、彼女の実家をあとにした。そのことを彼女はとても喜んでくれ、帰りの車のなかで、ありがとうと言ってくれた。

存在理由(8)

2010年10月22日 | 存在理由
(8)

 みどりの存在があって、その安定した関係が知れ渡っていたためか、うらやましがられるというより、男女ともに、よく様々な問題を持ってきては、相談されるようになった。

 といっても、ぼく自身は、いつも人の生活に深く入るすべも意欲もないためか、期待以上のぴったりした答えや動機を与えることも出来なかった。

 その行動は、いつのまにか、それぞれの気持ちに納得した何かを植え付けることもなければ、尻すぼみ気味に廃れていくことになった。
 そして、いつもの自分に戻れるわけでもあった。他の人のアドバイスは、そんなにも彼らは必要としていたのだろうか。ぼくには、そういう傾向が自分の内部になかったので、あまり乗り気にもなれないし、不必要でもあった。

 秋になっていた。彼女の選んだ仕事の関係で、ぼくもサッカーに対する興味を増していった。自分の人生を開拓するとは、一体どういうことなのだろう。その頃、ブラジルでサッカーを習得したい野望とでもいうのだろうか、花を咲かす直前のつぼみのような選手が日本に戻ってきた。彼女は、その選手のこれからと輝ける未来が待っていることを吹聴した。身勝手なはなしだが、自分の人生にもそうした未来が待っていてほしいものだと思った。それを、みどりの唇をとおして聞きたいものだと痛感した。

 バイトでも、産休に入った人と代わりの穴埋めの間というチャンスもあったせいか、いくつかの記事を載せてもらったりした。新しく出る車の内容。最近、人気が出てきた飲食店。季節ごとに更新される電気製品の内容とかだが。そのいくつかは、店や広報部に出向き、食事の写真を撮ったり、説明を聞いたりして話を膨らます術も知った。電気製品はモニターになり、数日使った後で、その特性を、良い方面が主だが、文章にした。それを、どうしようもなく訂正されたりもするが、いくつかはそのままの形で雑誌のページに載った。印刷された自分の考えは、汚いノートで見るよりは、高等な感じもしたが、どこかで無機質になったり、それと次の月になってしまえば、誰の注意を誘うこともない埋没性ももっていた。

 いくつかの飲食店とは懇意になり、そこへみどりと内緒で行くこともあった。大きな袋を抱えて、いそがしげに彼女は入ってくる。彼女は、いつも音楽を耳にしていた。あんなにヘッドホンを自分の体の一部にしていて、素敵にみせる人がいることをぼくは知らなかった。

 ぼくは、ビールを片手に持ち、彼女がちょっと遅れ気味で入ってくるのを見るのが好きだった。それで、入口に背を向ける席は選ばないで、彼女の存在を探す時間を大切にしていた。

存在理由(7)

2010年10月21日 | 存在理由
(7)

 大学では経済を学んでいる。何れ父親の小さな会社を継ぐときに有利になるというのが親の希望だった。そのために親は背中を丸めて、働いてきたのだろう。それを受ければ大学時代は、楽しく過ごせるというこちらの目論見もあった。しかし、両者とも、正面切っては話さなかったが、そのようなことは実際に起こらないことは分りきった事実だった。飛行機が空中でぶつかることがないように、その話は、時たまの会話に上がることもなければ、それだからこそ、けっして長引くこともなかった。

 ぼくは、父親の会社の一員になるということも選ばないだろうし、大学で学んだことが、そく人生に活用できるとも、ふたりとも、親も自分も思っていなかった。さらに重要なこととしては、自分で雑誌社の仕事を見つけて、内定も取り付けていた。
 父親の意向に沿うことは出来ないだろうと思ってはいても、大学を卒業しなければならないことは動かない結論なので、自分としては空いた時間で卒論を仕上げることになっている。

 テーマとしては、株価の変動の責任と、軍事のリーダーとの兼ね合いについて、ということを書こうとしていた。

 国家を代表する同一人物が、そのような責任を負っている危険についての考察を生み出そうとしたが、結局のところ何も頭に浮かんでこない時間が長かった。それでも、バイトの暇な時間をコーヒーなどを飲みながらノートに向かっていれば、周りには文章を考えたり、構成力や注意を引く持って行き方を知っている人が大勢いた。それでかなりの部分を助けてもらって、特に苦もなく行えた。

 さらに重要なこととして、去年、同じような題材を扱ったみどりがそばにいた。多分、このような卒論を選んだのも、彼女の力が借りられるだろうと分かっていたからかもしれない。それでも、たまには、図書館で資料をピックアップしたり、雑誌社のコネのある資料室で、あまり人目につかない貴重な資料も手に入れることが出来た。勉強の最高のご褒美としての意図しない脱線もかなりあり、今後、人生を歩んでいく上での、目の前の越えるべき疑問も生まれ、それはそれで、自分にとっても大切な時間になった。

 そうして、春から夏に進み、他の友人は似合わないスーツで駆けずり回っているころ、まあ、そんなには大変な不景気でもなかったと振り返ってからは思うのだが、それなりに彼らが汗や体力を失っているころ、ぼくは自分の将来を簡単に、重い責任も考えずに決めてしまっていた。

 その当時、彼女の頭にあったのは、ぼくのことも数パーセントはあっただろうが、サッカーのプロ化に向けての動きということに関心がより多かった。

 ぼくは、そんなことは難しい、日本には野球と相撲というどっぷりと文化に定着し固定化されたものがあるので、それ以上、隙いる余地はないのではないか、との強い疑問があった。もちろん、そのような問題点は表には出さなかったが、人の気持ちに敏感すぎた彼女は、そのことを知っていたかもしれない。だが、それも執拗に尋ねられることもなかった。

 ぼくの大学時代での最後の夏休みは、友人の田舎に一緒に廻るというプランを建て、それを実行した。その土地土地の食事やお酒を楽しみ、ノートには思い思いのことを書き連ね、それを四回ほど繰り返した。北海道と、長野と、香川と長崎というところにいくつかの思い出が作られていった。それと、みどりが休みに入った時は、一緒に過ごした。彼女は、明らかに頑張りすぎていた。小さな雑誌社の常として、人手も足りず、バイト時代から働いていたせいで、ほかの新入社員よりノウハウがあった彼女は責任を負いすぎていた。その頃の年齢のぼくは、
「そんなに無理することもないんじゃないの?」という言葉も発することも出来ず、無理する彼女に、さらに夏の暑さが追い風になり、張り切りすぎた夏を送った。


存在理由(6)

2010年10月20日 | 存在理由
(6)

 そろそろぼくも来年の就職のことを考えなければならない時期に入り始めていた。すでに、その安定すべき将来を決めている仲間もいた。

 約三年間で、ここでの経験により、雑誌を作ることに愛着を感じはじめ、こうした職業も捨てがたいと思っていた。それでも、今までいたところはやはり小さな会社でもあり、給料面でもそう旨味がないのは分かっていた。

 小さいことというのは全くの悪い面ばかりでもなく、それだからこそ、いろいろかり出され、さまざまな経験を積むこともできた。

 バイトでの経験とコネとノウハウを足掛かりにして、いくつかの面接を受け、かなり大きな出版社に、ほぼ内定が決まった。秘密にしていたわけではないので、そのことはいつの間にか知れ渡り、そのことを面白いものとは思わない先輩もおり、また無反応を決め込む人たちもいた。そうした事柄はいくらか自分の内面にショックを与え、今まで通り冗談を言ったり、軽口をたたいたりという関係が消滅してしまうこともあった。だが、いま安住を求めるのか、先におおきな仕事をするのかを選ばなければならないのなら、当然のように後者を選ぶと考えていたので、それは避けられない状態だった。

 このことに、みどりは表面だっては何もしなかったが、二人で会うときは、ぼくの味方をしてくれた。
「だって、ここではスポーツには力を入れているけど、それ以外はやっぱりほかの方がいいよ」という結論のためだった。
 こうして、年末まで働く約束だったが、それまでは楽しいことばかりではなくなってしまうが、それは未来の話で、それなりに楽しんでしまおうという楽観的な気持も、いくらか引っ込み思案な性格のそれのように、こころの奥では残っていた。

拒絶の歴史(118)

2010年10月17日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(118)

 妹も働くようになっている。化粧品会社の研究所のようなところといったが、小さな会社なので、それだけを専属に行えるということはないのかもしれない。これで、親の当面の役割は終わったのだった。

 彼女は、たまには雪代の店にも行くらしい。雪代から、毎回ではないがそのような言葉を聞いた。それで、ぼくと似ている部分をあげたり、またまったくの他人のような似ていない性格も雪代は告げた。男女の差もあるが、妹のほうが開放的な性格にできている。それで、いろいろな興味があり、実際に雪代の店に行ったりして、自分の肌で感じたことを学習し、吸収するようにできているのだろう。

 自分は建築を学んだ。肌で触れることもあるが、その前に設計をしたり、構想を練ったりと事前の準備が必要だった。それだからなのか分からないが、自分はそう簡単に開けっ広げにはならないと思っていた。だが、他のひとから見れば、そうじゃないかもしれず雪代はぼくのことを、見知らぬひととも境界線の少ないひとと評した。
 仕事でもいろいろなひとと接し、信頼されたりまたは憎まれるようなこともあった。それは、自分のなにかが良かったとも悪かったとも言えず、ただ相手の機嫌に大きく左右されることなのだと思おうとした。そうしないと、ひとの判断を過大ししすぎる傾向に負けてしまい、自分の仕事がままならなくなることが増えていきそうな気がしたからだ。自分は地道に歩を進めていきたかった。
 だが、自分の未熟さゆえの失敗に謝り、またもっと上のひとからも謝ってもらったりした。それは仕方がないことだった。自分も後輩のために謝り、また連携の悪さを隠そうとした業者のためにも謝った。それが仕事といえば、そう呼べた。
 休日には、ぼくは気分転換にラグビーの試合を見たり、サッカーの応援をしたりした。ビール片手にそうしている自分には仕事上の悩みも消失し、さまざまな人間関係やその足かせを忘れることができた。

 雪代と休みが合えば、ぼくらはドライブをした。どちらも日常から自分たちをちょっとだけずらし、新鮮さを注入する必要があるようだった。

 ときには二人が仕事を終えてから待ち合わせて映画を見に行ったりした。彼女は、しっかりと自分の仕事を管理し、従業員の悩みを聞き、さまざまな時間のやりくりに追われていた。それで、ただの女性になる時間が最終的には必要であるのかもしれない、とやっとそのころの自分は気付いた。

 映画が終わり、雨があがったばかりの湿った空気を感じながら、彼女がぼくの肩に頭をもたれかけて歩いていた姿をぼくは思い出している。ぼくらには年齢差があったが、そのようなときにはそれは逆転し、ぼくがはじめて彼女を見たときの印象がよみがえってくるような瞬間でもあった。ぼくは20代の半ばで彼女はまだ19歳ぐらいなのだ。

 だが、幻想は幻想で、日々の暮らしに戻れば、役割はそれをまっとうするように、それらをぼくらに押し付けてくる。

 ある日、ぼくは実家に戻っている。急に祖母が息を引き取り、この世との関係を絶ったからだ。よくよく考えてみると、ぼくは彼女の生活のなにも知らないという事実に驚くことになる。ぼくは、ぼくと雪代との関係を良く思われていない時期があったので、家族と疎遠の期間が数年間あった。その間に祖母の身体は弱っていき、その日に至った。祖母はぼくや妹の孫の顔を見ることはできなかったが、それはどういうことなのだろうと自分は考えている。その後、数日はばたばたし慌ただしく過ぎることになる。その間は感傷的になっていたが、普段の生活に戻れば、祖母のことを考える時間は日に日に減っていき、最後は思い出すことすらしなかった。

「お祖母ちゃんって、幸せだったと思う?」と、雪代はたずねる。
「さあ、どうだろう。ぼくには本当に分からないんだ」と、なにをとっかかりにして幸せの判断にするかの情報をぼくは持ち合わせていないことを実感する。幼少のころは父の店の店番をいっしょにしたりした。たくさんの会話をしたとも思っていたが、なにを話したかの具体的な語句はぼくにはもう戻ってこず、ぼんやりと空想するのみだった。

 ぼくはまた休日になり、スタンドで後輩たちのラグビーを見ることになっていた。もうぼくの存在を覚えているひとも見当たらず、監督も変わっていた。ぼくの話は誰かの口を通して語られることもあるらしいが、それには姿かたちは伴っていなくて、ここに座っているひとりの青年のことだとは誰も気付かないようだった。それで、やっとぼくも自分の役目が終わったようにも感じていた。

 ふと、そうしてスタンドに座っていると過去の情景を思い出すことになる。ぼくは、幼少期はサッカーをしていた。スタンドには応援にきていた元気なころの祖母もいたはずだ。まだ、おじいちゃんも元気でいて、ぼくの活躍をあたたかく見守っていてくれていた。ぼくは、その安心感に包まれるように、身体はなにも考えずに最短の動きをしてゴールを決めることができた。

 試合が終わって、ぼくは祖母と祖父に挟まれ、ソフトクリームを食べている自分を思い出している。その二人の笑顔をぼくは自分の目前にいるかのように感じていた。雪代は、「祖母は、幸せだったのか?」と訊いた。その答えが、ぼくにはその映像として返ってきたようだった。

 いつの間にかラグビーの試合の前半は終わっていた。天気は晴れたり雲に覆われたりと安定しない様相を示していた。

 後半が始まる前にぼくは公衆電話に向かい、雪代にいまの情景を告げたいと思っていた。だが、今夜にしようと思い直し、躊躇している間に後半が始まる笛がなった。

拒絶の歴史(117)

2010年10月16日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(117)

 しかし、ゆり江という子はその後、転勤になりぼくらは自然と会わないようになっていった。ずるずると引き延ばされていた関係は終わったのだ。大事になるまえに未然にさまざまなものを防げたとも思ったが、またその反面さびしい気持ちも勝手なことながら正直なところあった。

 ぼくのこころの一部からなにかが失われ、少し腑抜けになってしまったようだが、それでも、その失われたものに気づかないように毎日を過ごした。もしかしたら、過ごしたというより、やり過ごしたという方が言葉として近かったかもしれない。

 彼女が借りていたアパートの一室はきれいに清掃され、その後、新しい借り手がついた。だが、ぼくは外回りの途中でそのアパートの横を通ると、彼女のいろいろな良い面を瞬時に思い浮かべることになる。そして、日が経つにつれ忘れてしまうことも増えていくが、逆にかえって鮮明に印象にのこることもあるということを発見する。彼女の語った言葉を当時はなんとも思わなかったが、車のなかで「ああいう気持ちで言ったのか」と、今更ながら理解することもあった。

 こうして、会わないひとたちの記憶はそこで途切れ、そこから変わらないので、もちろん更新されていかないので、情報を整理しやすいのかもしれなかった。

 雪代と毎日、暮らしている。情報は新たなものを追加していくが、そこに新鮮さを見出すのもまた難しいものになっている。こころのなかには怠慢さがあった。驚かす内容のことも、もうぼくらには残っていないのかもしれないと感じることもあった。それは愛情が軽減されたということではないが、彼女はふと淋しそうな様子を見せることもあった。ゆり江という子には、毎回驚かされて、ぼくの興味を湧きたててくれたが、雪代との関係はもっと長いので、同じ天秤で量るのは酷かもしれなかった。それでも、ぼくが一番好きだったのは雪代だったし、ゆり江という子と継続した関係でうまくいくとも、なぜだかなかなか思えなかった。
 そのような時期にぼくらは引っ越した。メゾネットタイプで全部で4戸だけあったきれいな部屋だった。部屋が広くなって居心地は良くなったが、その分、ぼくらの関係も間が延びてしまったような感じを与えた。

 彼女は部屋のインテリアをきれいに整え、ぼくらはそれを保てるように頻繁に掃除をした。またそれを維持していくために外でも懸命に働いた。

 ある日、同僚と昼食を出先で取っていると見覚えのある顔に出くわした。それは、島本というひとだった。彼は大学でも、社会人になってもラグビーを続けるほど優秀だったぼくらの憧れの存在だった。彼のいたチームにぼくらはいつも勝てず悔しい思いを何度もさせられた。でも怪我に泣き、地元に戻ってきて家業を継いだという噂を耳にしていたが、実際に会うのは戻ってから初めてだった。
「お、久し振り」
「ああ、島本さん。お久し振りです」
 という距離のあいた挨拶をして、あとは近況などを語り合った。彼は奥の席に座り、そのあとを小柄な女性ががあとから入ってきて、そちらの席に向かった。彼らのほうが帰るのが早く、また二人はぼくらに会釈して外に出て行った。

 同僚には、ぼくらの関係を大まかに説明したが、もっと入り組んだことはとうぜんのところ伏せていた。

 家に帰り、雪代にその日のことを話した。彼女は新しいキッチンにまだ馴れない様子で、いろいろと無駄な動きをしているようだった。ぼくは、テーブルに座り、雑誌を読みながら顔を伏せたまま、そのこと話している。
「島本さんに昼に会ったよ」
「そうね。戻ってきたみたいね」
「なんだ、知ってたんだ」
 ぼくと付き合う前に彼女は島本さんと交際していた。ぼくら、後輩から見ても、彼らは似合いのカップルでもあったのだ。
「うん。小柄な女性と歩いているのを見かけた」
「今日会ったのもその人かもね。なつかしい?」
「まあね」と言って、なにか料理の材料を取ってくれと言ったので、ぼくはテーブルからそれを持っていった。「ひろし君、たまに意地の悪い質問をすることを自分で知っている?」
「そうかな」
「わたしが、誰かとの関係で責めたことがあった?」
「ないけど」
「じゃあ、わたしにもやめて」
 ぼくらは、ちょっとだけ気まずい思いと戦い、だが、片づけを済ませふたりでテレビを見ていると、直ぐに完璧なる関係にもどった。

 一日も終わりベッドの中にはいると、これも部屋を変えたときに買い換えたものだが、彼女は言った。
「わたしは誰よりもひろし君のことが好きなんだよ。それだけは分かってて欲しいな。ひろし君はどうだか知らないけど」
「知ってるだろう」
「誰?」言葉というものをときに虚しく感じるが、それでも、はっきりと言うべき言葉をタイミングよく使うことは必要なのだ。
「雪代だよ」
「だと思っているけど。前みたいな情熱で愛してくれている?」
 ぼくはその言葉で質問されるたびに、10代の未熟で無力な自分を思い出すが、その反面がむしゃらだった勢いある自分も懐かしく思うのだった。

存在理由(5)

2010年10月15日 | 存在理由
(5)

 なぜ、彼女はそれほどまでにサッカーに拘るようになったのだろう。ある日、ふとしたきっかけで質問してみた。すると、理由として当然なのかそれとも意外であったのか、このような答えが返ってきた。

 そこには、彼女の持つ幸福のイメージのすべてが含まれているようだった。

 彼女は、まだ9歳ぐらいである。土曜の午後や日曜に2才という年齢が離れた兄、それにしても10才や11才という年齢の少年だ。その男の子はサッカーを楽しみというより生きがいにしている子だった。そのことを両親は手放しに嬉しがり、もっと小さいときには直ぐ風邪などをひく弱い身体の持ち主であったこともあるがそれを克服し、親はよく素直な妹を連れて、彼の練習や試合の様子を見に行った。

 その男の子は、試合の前日に「みどりのためにゴールを決めるからな」と、冗談半分に言ったそうだ。普通は、そこで結果を出せないこともあるのだろうが、その子は、見事に言ったことを守っていった。

 シュートを決めると、妹のほうを向き、時にはガッツポーズ、ときにはウインクなどをして茶目っ気を見せていた。
 段々と成長し、二人は喧嘩もするようになるが、いつも仲直りのしるしのように次の日には、ゴールを決めて、勝ち誇っているようでありながら、どこか照れたようすで妹の存在をスタンドに探したようである。

 その子は、中学に入っても、輝きは失わず、時にはギターを弾く誘惑に駆られながらも、足ではサッカーボールの丸味を愛しているようだった。

 高校では、少しだけスポーツで有名な学校に進学し、数が多いライバルがいながらも、フォワードで点を決めていた。その頃になると、家にいても妹とあまりしゃべらなかったそうだが、根本では二人はつながっていた、とみどりは述べていた。
 男の子は、高校二年になり、一年先輩の運転免許を取り立ての不慣れな運転が思わぬ事故を起こし、その兄は同乗していたために未熟なドライバーとともに犠牲になってしまった。

 病院のベッドで冷たくなった男性をみどりは覗き込む。愛用のスポーツ・バッグには練習で着たユニフォームがいつものように無雑作に突っ込んであった。

 その瞬間を遠くに追い払うように、彼女は家族で見に行った兄の試合と、照れた表情でのそのガッツポーズを頭の中で取り換えた。そして、あの姿を追い求めるようにサッカーの雑誌を熱心に作っているそうだ。

 ここまで聞いて、ぼくは胸が打たれていた。その頃の自分はPL学園のあの二人にはなれないことを知る青春を送る。そこからは、軽い文化の時代と同調するような日々を見つけた。

 誰かを本当に知るとなれば、その人生の一端も背負い込むものだと、多分、その話を聞いて知ったのだろう。


存在理由(4)

2010年10月14日 | 存在理由
(4)

 彼女の大学での生活が終わる。同時にぼくのそれも残り一年になった。就職した生活に完全にシフトする前に一緒に旅行しようということになり、荷物を作る。場所は、アメリカの西海岸にした。太陽のひかりと、深くものごとを追及しない日々。

 その地に、彼女の友人がいて、住む所は別にホテルを確保したが、時間をかなり、たっぷりとその友人は取ってくれ、いろいろな場所に車で連れて行ってくれた。快適な空と、友人が用意したコーヒーが入った魔法瓶とを道ずれにし。

 大きな橋を渡る。金門橋という日本語の名前。不吉にもその優雅なたたずまいとは別に自殺の名所にもなっていることを知る。この美しい空を無償で頂けるのに、なにに不満があるのだろうと、その時のぼくは思っていた。

 遊園地までぼくらを運んでくれ、そこで一日遊んだあと、友人がまた迎えに来てくれもした。旅行で、なにを食べるのか、なにを食べられるのかと、行く前に少し心配になったけど、その友人と旦那さんが一緒にレストランに行ってくれたり、自宅に招待してくれたりもして、不自由なく、その問題もクリアされた。そこには2歳になる女の子がいて、みどりによくなついた。彼女は、人間に対する時、自然と自分のバックグランドを総動員して、なににでもなれた。その時は同じ目線で、生まれたときからその女の子を知っているように、また、その小さな女の子の微かなプライドもつつくようにして、不思議な交友が芽生えていた。しかし、よく考えると女性たちは、そのようなことを誰に教わるでもなく出来るのだろうか? それにしても、彼女の振る舞いはとても自然だった。

 その小さな子の母親は皿洗いや、ぐずりだした女の子の面倒があるため、旦那さんがぼくたちをホテルに送ってくれた。普段、あの小さな女の子は人と親しげな関係になるには時間がかかると言った。そして、誰かと別れたり離れたりする時も、あんなには嫌がらないとも言った。たとえ、自分が出張で家を出る時も、そのことを逃れられない生活の一部として受け止めるような平然な顔をしていた。なので、今日の彼女は、すこし違っていた、と、その子のお父さんは印象を漏らす。

 そのことを、ぼくはホテルの部屋で考えている。彼女は、一日の疲れをシャワーとともに流している。ぼくも、多分、そんな別れみたいな予感だけで、今日の女の子のような振る舞いをしてしまうのだろうかとの憂鬱な予感をかみしめ、ビールの缶を二本、冷蔵庫から出した。

存在理由(3)

2010年10月13日 | 存在理由
(3)

 恋の予感とともに、1990年を迎える。ぼくは、あと一年だけ学生生活が残っており、彼女は、そのまま簡単なテストを受けることはしたが、いま勤めているバイト先に就職することになっている。ぼくの目線内に、その存在があって当然という感じになってしまっているので、それは嬉しいことでもあるし、もともとその進路は、彼女の望んでいることでもあったようだった。

 なので、これからも会う時間が減るということはなさそうだった。しかし、数回デートをしただけの男性を一体、誰が本気で考えてくれるだろうか。

 いまなら、分かるのかもしれないが、その頃の一才という年齢の差以上に、彼女の考え方は大人びていたし、また逆に、これは当然なのかもしれないが、ぼくは、もっとも自分の都合の良いように地球が動いてくれるものだと認識していた。つまり、子供っぽかった。

 それで、だんだんと一緒にご飯を食べる機会も増え、何度かはスポーツも観戦した。それ以外にも、時間を見つけては何をするということもないのだが、会う時間を増やしていった。

 寒さが薄らいでいく、それでも、2月の終わりごろだったと思うが、あまりきれいでもない都会に流れる川を横目に散歩をしていた。彼女は、駅から自宅の途中にあるその川を愛していた。大学に入って、東京に出てきたらしいが、その暮らしの3年目を迎える頃、そこに引越し、それ以来、その場所に住んでいた。春の前兆を感じさせる風が吹き、ぼくは上着を脱ぎ、それを右手に持って、左手には、彼女の暖かい手の平があった。それは、ぼくにとって、とても安心感を与えるものだった。

存在理由(2)

2010年10月12日 | 存在理由
(2)

 学生時代のバイトが、その後の人生を大きく決定する要因となる場合もある。つまり、長い将来の岐路にひとりの若者が立っているわけだが、当人が意識する、しないに関わらず、時にはそれは柳のようにゆらゆらと揺れるものを選択し、それを選んだ幾人かは、耐震の弱いことを知りながらも、レンガを無数に並べて耐えられるほどしっかりと頑張る物語の主人公のようにそこに根を張り、また別のものは何の不足もないかのようにそれぞれの未来を形作っていく。

 そして、ぼくもバイトをした。他の学生のように、当面の小遣いも必要だったが、将来は出版関係に勤めたかったので、知り合いのコネを利用して、雑誌の編集の補助のまたそのアシスタントのような立場を見つけてもらった。それは、多くを流行りもののレストランや、それに合った服装や、車での音楽などを扱っていた。

 少なくないメリットもあったし、洋服などもいたって安価に入手することも出来た。それより、何より重大なこととして、隣のフロアーにスポーツを担当している雑誌の、それもサッカーを中心にして廻っている部署に彼女がいた。

 多分、その時にスポーツのチケットを彼女がもらっていたのだと思う。ある時の、忘年会でたまたま近くに寄った彼女と話している際に「スポーツの観戦が好きだよ」と言って、「じゃあ、ちょうど明後日、チケットがあるので一緒に行こう」と言われて、予定を考えると、その前日にすべての編集作業から解放されるので、ぼくも都合をつけた。

 風が強く、寒い日だった。彼女はニットの帽子を被り、暖かいコーヒーを持って来ていた。その香ばしい匂いと、その日の曇り空を思い出すことが出来る。

 会社内では、大人しそうに振舞っていたが、そして仕事のはかどり具合の管理のうまさや能率のよさをいつもぼくの先輩が語っていたので、気軽に話すこともためらっていたが、スタジアムでの彼女は、快活で、おそらくそのギャップにびっくりしながらも、心を奪われていったのだろう。

 熱狂したこころと身体をもてあましながら、まだ話し足りなくて、もちろん空腹の奴隷でもある年頃なので、それを満たす必要もあったわけだが、会場と、彼女の家の中間あたりの小さなレストランに入った。以前、雑誌の紹介で知り合った店長さんと懇意になり、無理が利きそうだし、ちょっと見栄を晴れそうだったので、その前日に予約しておいたのだ。

 彼女は、ちょっとそこまでスポーツを見に行くというようなラフな服装だったので、形式張ったところだったら不似合いだと自分の格好をすこし恥じたが、気楽な雰囲気の店なのでとぼくは言って、説明したとおりの居心地の良い予約した静かな席の場所に着いた。ぼくは彼女の前に座り、自然を装った笑みを作ろうとしたが、それは出来ただろうか。まあ、いくらか無理だっただろう。