傾かない天秤(16)
みゆきの会社の売り上げがなぜか減少し、後退している。なぜかというのは興味がもてないわたしの意見だからで、当事者たちは真剣にその分析に追われている。会社の存続には責任があり、同時に社員のひとりひとりには何も責任がないとも仮定できた。
普通、学校を卒業してから三十年近く、ある場合はそれ以上、雇われる期間がある。会社はその年月の人件費という支出を大雑把に計画に入れる。右も左も分からないものたちに。海のものとも、山のものとも。あるものは伸び、あるものは将棋でいう歩のような役割として利用される。みゆきもこれまでは典型的な歩のような働きだった。だが、ある日、突然、桂馬になる。
「例えが相変わらずだよな」
わたしの我慢の限度もそろそろだ。堪忍袋の緒が切れる。
「高みの見物がいちばんですからね」
「みな、レールに敷かれるもんだよ。ここでは、独立もないんだから」
わたしは黙って業務をつづける。商品は売れなければいけない運命にあった。たくさんの試作品をつくって上層部が試食する。味覚というのは千差万別だ。なかには甘いのが苦手なひともいる。そのひとらも、三つも、四つも食べている。ヒット商品はなかなかできない。ライバル会社はどんどん売り上げを増す。似たような商品をつくる誘惑に駆られる。そして、つくってそこそこの売り上げを生み出す。グラフで一目瞭然だ。回収された小銭たちがまとまり、各々のポケットに割り当てられる。化けさせたものは構成員の給料やボーナスとなり、それが食費となって学費となる。家やマンションのローンを払い、婚約指輪を買う。断りも通知もなしに離婚されて、結婚式の祝儀をいちいち後悔する面々もいる。
「生きるって、そういうことだろうな」
「悲しいですが事実ですね」もう、わたしはこの部屋を個人で独占できない。引き継ぎ業務も徐々にはじまることになる。人間の会社の人事異動と同じだ。わたしにはまだ辞令はない。いったい、どこに行くのだろう?
しかし、根本的にいえばわたしの監視で人間の生活が大幅に変わるわけもない。注意報を送ることもせず、謝罪文もいらない。産み落とされた悲劇と喜劇があり、達成として無理解に甘んじるのみだ。
さてと。その後に、製品となったものを試食するイベントがある。少額の支出で人間もモルモットになる。食べた代償としてアンケートに答える。次にはパッケージも同様の審査というふるいにかけられる。次々と形が決まり、コマーシャルをつくる。ある女優さんの笑顔がポスターになる。歯が見事なまでに白い。虫歯だらけのひとがチョコレートの宣伝をするわけにもいかない。世の中はコーティングの社会なのだ。交通事故も飛行機の墜落もないという幻想のもとに生きている。恐怖をいだいたら終わりだ。一日も生きていけない。
みゆきはその宣伝活動に追われている。裏方が似合うひと、性に合っているひとがいる。目立ちたくないわけでもないが、スパイクやボールを磨くひとも必要だ。功を奏する。段々と売り上げが改善される。世界は改ざんでできているともいえた。賞味期限をごまかし、分量を減らして帳尻を合わせた。
わたしは、なぜか悲観的だった。その貴くない行為のひとつひとつが自分を傷つけていく。わたしも卑怯なマネをしたこともないとは言い切れない。だが、妥協ではなく、どこまでもすがすがしい善を信じたかった。
みゆきは夕方になって退社する。一日の労働は終わったのだ。サラリーマンが赤ちょうちんの誘いに負けている。大量の枝豆と焼き鳥が日本中で消費され、ビールや焼酎が胃のなかに消える。たまに逆流する。何事もほどほどにだ。
みゆきの目には愛の炎がある。若い女性が持ち分の二十四時間を仕事一途で全うすることもない。わたしは無駄に思える時間の統計をながめる。ギャンブルがあって飲酒がある。釣りがあって、山歩きがある。ツーリングをしてドライブもする。すると無駄なことなど一切ないことを知る。省けないことこそ楽しいものだった。
男性も二十代、女性も二十代で輝ける未来が待ちかまえている。お互いの若い時期を知っている。それこそが人生の醍醐味でもあるのだろう。幼少期や生い立ちを写真や両親のことばで確認して補完して、それぞれの友だちにも紹介する。会社にも友だちがいて、ふたりは会社帰りの同僚たちに紹介される。
あるひとは、闇市場で相談の結果、「止めておいた方がいいんじゃない?」という評価を得る。ふたりは違った。選抜にのこった。なぜだか、会ったこともないひとをうわさだけでやみくもに判断する場合もあった。二十数年でたくわえたわずかな価値観が未来を決めて、あるときは奪い去ってしまう。
とりとめもない報告がつづく。この業務も長くないという気持ちが、そのようにさせる。最後まで真剣に取り組みたいが、これ以上、無駄な事柄を増やすこともないだろう。わたしはみゆきやさゆりの三十代を知ることはないかもしれない。おそらくという観点に立ってだが。ふたりは今後、どうなるのか? 子どもがピンチになったヒーローの来週のテレビ番組までの期間、活躍を期待して待ちわびるような気持ちがわたしにはあった。なぜか、最終回を見逃してしまうものだ。もろくも、もう興味の対象は移ってしまったのかもしれない。外で野球をして、タバコをかくれて吸って、女性のスカートのなかに興味が湧く。
人間をつくった御方は、このぐらいの完成度合いで満足したのだろうか? みゆきは、翌日、エレベーターのなかで社長に会う。咄嗟に小さく会釈をする。だが、この社長が自分の存在や名前を知っているのか疑問に感じる。社長を神と書き間違えても、別段、困りはしなかった。
みゆきの会社の売り上げがなぜか減少し、後退している。なぜかというのは興味がもてないわたしの意見だからで、当事者たちは真剣にその分析に追われている。会社の存続には責任があり、同時に社員のひとりひとりには何も責任がないとも仮定できた。
普通、学校を卒業してから三十年近く、ある場合はそれ以上、雇われる期間がある。会社はその年月の人件費という支出を大雑把に計画に入れる。右も左も分からないものたちに。海のものとも、山のものとも。あるものは伸び、あるものは将棋でいう歩のような役割として利用される。みゆきもこれまでは典型的な歩のような働きだった。だが、ある日、突然、桂馬になる。
「例えが相変わらずだよな」
わたしの我慢の限度もそろそろだ。堪忍袋の緒が切れる。
「高みの見物がいちばんですからね」
「みな、レールに敷かれるもんだよ。ここでは、独立もないんだから」
わたしは黙って業務をつづける。商品は売れなければいけない運命にあった。たくさんの試作品をつくって上層部が試食する。味覚というのは千差万別だ。なかには甘いのが苦手なひともいる。そのひとらも、三つも、四つも食べている。ヒット商品はなかなかできない。ライバル会社はどんどん売り上げを増す。似たような商品をつくる誘惑に駆られる。そして、つくってそこそこの売り上げを生み出す。グラフで一目瞭然だ。回収された小銭たちがまとまり、各々のポケットに割り当てられる。化けさせたものは構成員の給料やボーナスとなり、それが食費となって学費となる。家やマンションのローンを払い、婚約指輪を買う。断りも通知もなしに離婚されて、結婚式の祝儀をいちいち後悔する面々もいる。
「生きるって、そういうことだろうな」
「悲しいですが事実ですね」もう、わたしはこの部屋を個人で独占できない。引き継ぎ業務も徐々にはじまることになる。人間の会社の人事異動と同じだ。わたしにはまだ辞令はない。いったい、どこに行くのだろう?
しかし、根本的にいえばわたしの監視で人間の生活が大幅に変わるわけもない。注意報を送ることもせず、謝罪文もいらない。産み落とされた悲劇と喜劇があり、達成として無理解に甘んじるのみだ。
さてと。その後に、製品となったものを試食するイベントがある。少額の支出で人間もモルモットになる。食べた代償としてアンケートに答える。次にはパッケージも同様の審査というふるいにかけられる。次々と形が決まり、コマーシャルをつくる。ある女優さんの笑顔がポスターになる。歯が見事なまでに白い。虫歯だらけのひとがチョコレートの宣伝をするわけにもいかない。世の中はコーティングの社会なのだ。交通事故も飛行機の墜落もないという幻想のもとに生きている。恐怖をいだいたら終わりだ。一日も生きていけない。
みゆきはその宣伝活動に追われている。裏方が似合うひと、性に合っているひとがいる。目立ちたくないわけでもないが、スパイクやボールを磨くひとも必要だ。功を奏する。段々と売り上げが改善される。世界は改ざんでできているともいえた。賞味期限をごまかし、分量を減らして帳尻を合わせた。
わたしは、なぜか悲観的だった。その貴くない行為のひとつひとつが自分を傷つけていく。わたしも卑怯なマネをしたこともないとは言い切れない。だが、妥協ではなく、どこまでもすがすがしい善を信じたかった。
みゆきは夕方になって退社する。一日の労働は終わったのだ。サラリーマンが赤ちょうちんの誘いに負けている。大量の枝豆と焼き鳥が日本中で消費され、ビールや焼酎が胃のなかに消える。たまに逆流する。何事もほどほどにだ。
みゆきの目には愛の炎がある。若い女性が持ち分の二十四時間を仕事一途で全うすることもない。わたしは無駄に思える時間の統計をながめる。ギャンブルがあって飲酒がある。釣りがあって、山歩きがある。ツーリングをしてドライブもする。すると無駄なことなど一切ないことを知る。省けないことこそ楽しいものだった。
男性も二十代、女性も二十代で輝ける未来が待ちかまえている。お互いの若い時期を知っている。それこそが人生の醍醐味でもあるのだろう。幼少期や生い立ちを写真や両親のことばで確認して補完して、それぞれの友だちにも紹介する。会社にも友だちがいて、ふたりは会社帰りの同僚たちに紹介される。
あるひとは、闇市場で相談の結果、「止めておいた方がいいんじゃない?」という評価を得る。ふたりは違った。選抜にのこった。なぜだか、会ったこともないひとをうわさだけでやみくもに判断する場合もあった。二十数年でたくわえたわずかな価値観が未来を決めて、あるときは奪い去ってしまう。
とりとめもない報告がつづく。この業務も長くないという気持ちが、そのようにさせる。最後まで真剣に取り組みたいが、これ以上、無駄な事柄を増やすこともないだろう。わたしはみゆきやさゆりの三十代を知ることはないかもしれない。おそらくという観点に立ってだが。ふたりは今後、どうなるのか? 子どもがピンチになったヒーローの来週のテレビ番組までの期間、活躍を期待して待ちわびるような気持ちがわたしにはあった。なぜか、最終回を見逃してしまうものだ。もろくも、もう興味の対象は移ってしまったのかもしれない。外で野球をして、タバコをかくれて吸って、女性のスカートのなかに興味が湧く。
人間をつくった御方は、このぐらいの完成度合いで満足したのだろうか? みゆきは、翌日、エレベーターのなかで社長に会う。咄嗟に小さく会釈をする。だが、この社長が自分の存在や名前を知っているのか疑問に感じる。社長を神と書き間違えても、別段、困りはしなかった。