爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

償いの書(22)

2011年01月30日 | 償いの書
償いの書(22)

 ぼくは、これで東京で一年暮らしたことになる。仕事にも慣れ、ここでの生活にも馴染んでいった。人間というのは、なんだかんだ適応する力がある存在なのだと発見する。

 それは、雪代と別れて一年以上経過したことになり、裕紀と再会してから一年に近付くことでもあった。ある人間の思い出はこれからは増えることはなく、それだけに輝いて見えることもあり、懐かしんで思い起こすこともあった。現在というものは現在というだけで、簡単にやり過ごしてしまうこともあった。時間の淘汰がない限り、それは美化されて自分に反映されてくることはないのだろうかと考える。そういう一年間だった。

 職場には、新しく女性が増員され、机や一式がひとつずつ置かれた。最初のうちは戸惑っていたが直ぐに慣れ、去年のいまごろのぼくもそういう時期があったのだろうと思い起こすきっかけにもなった。

 ぼくは、街のなかを飛び回り、いろいろなひとに会った。優しげなお客さんがいて、けんか腰の業者がいたりした。ぼくは、面白いことがあったり、感動することがあれば、それを裕紀に伝えた。彼女は関心があることを示す聞き手の最上級の部類に入った。ぼくは、それで自分の話がうまいという風に錯覚することにもなるのだが、その誤解はぼくを気分の良い気持ちにさせてくれるのだった。

 そのときに新しい大きな仕事が入った。ぼくはある土地にひと月ほど泊まり、その管理をする役目を任せられた。ぼくは荷物を詰め込み、夜の暇な時間を潰すための本なども入れて、出かける用意をした。裕紀に事情を話すと、彼女は淋しがった。休日もあまり作れず、一ヶ月間は彼女に会うことはできないだろうと、ぼくは宣告する。ぼくらは、こういう世界の一員なのだ。自分をあるときは失くし、金銭や立場のために仕事を最優先にする存在なのだ。

 その前日にぼくらは会った。再会してから、ぼくらはこれぐらいの期間すら離れることはなかったのだと、今更ながら思い知る。ぼくは、彼女の顔を覚えておこうと必死になる。彼女もぼくの手の暖かみを忘れないとするかのように手を握った。

 そして、ぼくは彼女の髪の長さや、(この瞬間はいまだけなのだ)目の不思議な色合いなどを確認する。そして、彼女の小さな肩や、この季節の服装を覚える。だが、その時間も終わりに迫り、ぼくは翌日、電車に乗って東京を去った。

 仕事をしている間は、どれもそうだろうが失敗は許されないのでとくに注意を払って、業務に専念した。今回はそれに加えて特別なものだったので、仕事の時間は裕紀のことも思い出すことはなかった。だが、小さなホテルの一室でビールなどをひとり飲んでいると、彼女の声を聞きたくなった。覚えておこうと考えていた彼女の表情やさまざまなものは、とてもおぼろ気で、ぼくを憂鬱なきもちにさせた。こんなにも薄情な人間なのだろうかという気持ちにもなった。だが、写真をみれば、彼女の美点のいくつかを思い返す前触れにもなった。やはり、少ない時間でも時間の淘汰は必要なものであろうかと考える。

 もう3週間が過ぎ、帰るまでに1週間が残っているだけの時期になった。夕方になり、ぼくは仕事を終えた業者とともにお酒を飲んでいた。順調に仕事が捗っていることにそれぞれが興奮し、それをある面で制御し沈めるような中味のある時間だった。それが解散になり、ぼくはひとりで酔いを醒まそうと歩いていた。ホテルの直前の場所でぼくはある姿を見つける。

「やっぱり、来ちゃった」そこにいるのは、裕紀であった。ぼくは、彼女がこんなにも行動的な人間であるとは思ってもいなかったのだろう。それで、嬉しいというより、心配が先になった。「嬉しい?」
「もちろん。だけど、どうしたの?」
「どんなところで仕事をしているのか知りたかった。会いたくて仕方がなかったし、ついでにこの周りも観光してみた」
「明日は休み?」
「日曜日だよ。忘れたの?」
「いや、毎日、つきっきりだったので。社長や支店長が最大限に力を入れている仕事だったので、休みもそれほどないから」

 ぼくらは尽きない話をして、彼女が泊まっているホテルに入った。ぼくは朝までそこにいて、急いで自分の泊まっているより小さなホテルでひげを剃り着替えた。彼女は、地図を不自由にあつかい、ぼくは、こことここを見たほうがよいと案内し、その現場の前で別れた。

 ぼくは、昨日彼女が来てくれたことで、もう1週間だけ簡単に乗り越えられそうな気がした。そして、自分の気持ちや彼女のぼくに対する気持ちを判定する材料にもなった。この会えない時期が、もしかしたら不自然な形態でも自分には必要な時間だったかもしれないと感じた。

 ぼくは、仕事が成功に至った過程と結果を仲間とともに最後に祝杯をあげ、その代わり数日の休みが与えられた時間をどのように使おうなどと考えながらも、やはり最優先には裕紀に会うことだけしか思いつかなかった。

 揺れる電車のなかでひと月分の疲れがどっと出て、いつのまにか居眠りをしていた。その際にも、夢の中に登場するのは裕紀の姿しかなかった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 償いの書(21) | トップ | 存在理由(61) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

償いの書」カテゴリの最新記事