繁栄の外で(47)
実家にほど近いアパートに一年半ほど住み、そこからは少し離れているが同じ区内の、駅では3つほど、車でも10分ほどの距離にある別のアパートに越した。子どものころに自転車でも通っていたところなので土地勘はあった。知人に紹介してもらい、安い家賃で借りることができた。もう家具はあったので、窓のサイズにあったカーテンを新調し、その後、買い集めた本が乱雑になったので大きめの本棚をもうひとつ備えた。しかし、それも直ぐに埋まってしまった。
だいぶ使い込んだベッドのマットレスも新たなものにした。少しだけ柔らかい感触だったが、そのことは他のホテルの寝心地の良いマットの上に寝転がるまで、あまり気にはならなかった。また、自分の家に戻れば、それなりの満足感はあった。次回、もう少し硬いマットを選ぶかもしれないが、それは次回以降の話である。
ベッドのマットレスが配達され、一晩ぐっすり眠った後、母から電話があった。うちで飼っていた犬が死んだそうだ。そのことを象徴的な出来事のように感じてしまう。ぼくのマットにもそいつは寝転び、いっしょに寝たこともあるのだ。あのマットを処分するなら、自分の記憶もなくしてしまうのか? との些細な抵抗のように。
自分は悲しんだが、たまに元気な姿で夢のなかにその犬があらわれる。記憶がのこっていれば、その人は死んだことにはならない、というどこかの言い伝えのように、ぼくもこの犬のために正しいことなのだろうと認識する。
いつかひとの世も終わるかもしれない。その前に病気が来る。あるひとは回復し、あるひとは頑張り続ける。
弟からの電話だったのだろうか。母が病院に入院している、という報せがあった。自分は、重要な用件があったので、直ぐに駆けつけることはできなかった。比較の問題でもあろうが、責任感の追求は融通の利かない性格の自分にとって、より一層親不孝にした。
それでも、その用件はキャンセルになり、地元に戻り病院にはいった。たくさんのチューブが母の身体につなげられ、そういうひとを見慣れていたはずなのに、自分はストレートなショックを受けた。早く良くなってもらいたいという当然の感情がありながらも、結婚もしていない、子どもの存在もいない自分も恥じていた。そのことだけでも自分は世界から消え入りたかった。
いつか母の容態も良くなり、自分はそのことを忘れたかのように家に寄り付かなくなった。たまに実家に帰ってから、酔って、自分のアパートの階段を危なげな足取りですすみながら自分の家はやはりここだよな、とへんな郷愁感をいだくことになる。
同じように父も、同じ病院に入院した。もう少しあとのことだ。自分は実家に戻り、母といっしょにその病室にむかった。そのときも、子ども時代に感じた違和感が自分にはあった。5分と離れていない病院までの同行中に、母はぼくが知らない近所の人たちと相変わらずすれちがいざまに声を掛け合い、ちょっとの間話し込んだ。これは、ぼくが小学生のときに感じたことの繰り返しであった。もう20年にもなっているのに。
自分は、必要以上に世間話程度のものができないと自分自身にきめてかかった。たぶんこの母の様子を見過ぎた結果のことで、ほんとうはそうでもなかったのかもしれない。いや、そうだったのかもしれない。しかし、徐々にこのままでは良くない、人見知りという状態は幸福ではない、と自分にインプットし、いくらかモデル・チェンジを挑んだ。このころからさまざまな関係で自分は会うひとも多くなり、殻にこもった居心地の良さに安住しているわけにもいかなかったという必要もあった。必要は発明の母でもあった。意識することはやはり大切であり、いくらか変化がみられるようになった。しかし、手入れの悪い夏の朝顔のように、すぐにしぼんでしまうのもまた事実であった。
病室に父は寝そべっていた。威厳を振りまいている父ではなかった。いくらか力強さは消え、心細げにすら見えた。自分は磁石のおなじ極同士のように父とくっつくことができなかった。ある面では似ていたのかもしれないし、ただ反発心の引っ込み時期を見失っただけかもしれない。しかし、このベッドに横たわっている父は自分に力を振るうこともできず、ただ守られるべき存在であった。それは、年数が経っただけの話かもしれないし、老いの話かもしれない。
いくらか体内の一部を切られ、彼も退院した。もうふたりともかなりの年齢である。そのことは自分にも同じだけの年数が経過してしまったことだ。いつのまにかレースは中盤を越え、サーキット場は夕暮れに近付こうとしているころだろう。
パソコンやテレビは何台か代わったが、自分はまだこのアパートに住んでいる。根が生えてしまったようだ。知らない土地を歩き回ることが大好きなのだが、この体たらくはいったいどこから来るのだろう。
実家にほど近いアパートに一年半ほど住み、そこからは少し離れているが同じ区内の、駅では3つほど、車でも10分ほどの距離にある別のアパートに越した。子どものころに自転車でも通っていたところなので土地勘はあった。知人に紹介してもらい、安い家賃で借りることができた。もう家具はあったので、窓のサイズにあったカーテンを新調し、その後、買い集めた本が乱雑になったので大きめの本棚をもうひとつ備えた。しかし、それも直ぐに埋まってしまった。
だいぶ使い込んだベッドのマットレスも新たなものにした。少しだけ柔らかい感触だったが、そのことは他のホテルの寝心地の良いマットの上に寝転がるまで、あまり気にはならなかった。また、自分の家に戻れば、それなりの満足感はあった。次回、もう少し硬いマットを選ぶかもしれないが、それは次回以降の話である。
ベッドのマットレスが配達され、一晩ぐっすり眠った後、母から電話があった。うちで飼っていた犬が死んだそうだ。そのことを象徴的な出来事のように感じてしまう。ぼくのマットにもそいつは寝転び、いっしょに寝たこともあるのだ。あのマットを処分するなら、自分の記憶もなくしてしまうのか? との些細な抵抗のように。
自分は悲しんだが、たまに元気な姿で夢のなかにその犬があらわれる。記憶がのこっていれば、その人は死んだことにはならない、というどこかの言い伝えのように、ぼくもこの犬のために正しいことなのだろうと認識する。
いつかひとの世も終わるかもしれない。その前に病気が来る。あるひとは回復し、あるひとは頑張り続ける。
弟からの電話だったのだろうか。母が病院に入院している、という報せがあった。自分は、重要な用件があったので、直ぐに駆けつけることはできなかった。比較の問題でもあろうが、責任感の追求は融通の利かない性格の自分にとって、より一層親不孝にした。
それでも、その用件はキャンセルになり、地元に戻り病院にはいった。たくさんのチューブが母の身体につなげられ、そういうひとを見慣れていたはずなのに、自分はストレートなショックを受けた。早く良くなってもらいたいという当然の感情がありながらも、結婚もしていない、子どもの存在もいない自分も恥じていた。そのことだけでも自分は世界から消え入りたかった。
いつか母の容態も良くなり、自分はそのことを忘れたかのように家に寄り付かなくなった。たまに実家に帰ってから、酔って、自分のアパートの階段を危なげな足取りですすみながら自分の家はやはりここだよな、とへんな郷愁感をいだくことになる。
同じように父も、同じ病院に入院した。もう少しあとのことだ。自分は実家に戻り、母といっしょにその病室にむかった。そのときも、子ども時代に感じた違和感が自分にはあった。5分と離れていない病院までの同行中に、母はぼくが知らない近所の人たちと相変わらずすれちがいざまに声を掛け合い、ちょっとの間話し込んだ。これは、ぼくが小学生のときに感じたことの繰り返しであった。もう20年にもなっているのに。
自分は、必要以上に世間話程度のものができないと自分自身にきめてかかった。たぶんこの母の様子を見過ぎた結果のことで、ほんとうはそうでもなかったのかもしれない。いや、そうだったのかもしれない。しかし、徐々にこのままでは良くない、人見知りという状態は幸福ではない、と自分にインプットし、いくらかモデル・チェンジを挑んだ。このころからさまざまな関係で自分は会うひとも多くなり、殻にこもった居心地の良さに安住しているわけにもいかなかったという必要もあった。必要は発明の母でもあった。意識することはやはり大切であり、いくらか変化がみられるようになった。しかし、手入れの悪い夏の朝顔のように、すぐにしぼんでしまうのもまた事実であった。
病室に父は寝そべっていた。威厳を振りまいている父ではなかった。いくらか力強さは消え、心細げにすら見えた。自分は磁石のおなじ極同士のように父とくっつくことができなかった。ある面では似ていたのかもしれないし、ただ反発心の引っ込み時期を見失っただけかもしれない。しかし、このベッドに横たわっている父は自分に力を振るうこともできず、ただ守られるべき存在であった。それは、年数が経っただけの話かもしれないし、老いの話かもしれない。
いくらか体内の一部を切られ、彼も退院した。もうふたりともかなりの年齢である。そのことは自分にも同じだけの年数が経過してしまったことだ。いつのまにかレースは中盤を越え、サーキット場は夕暮れに近付こうとしているころだろう。
パソコンやテレビは何台か代わったが、自分はまだこのアパートに住んでいる。根が生えてしまったようだ。知らない土地を歩き回ることが大好きなのだが、この体たらくはいったいどこから来るのだろう。
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