流求と覚醒の街角(36)黒
映画館から出ると、奈美の目の下の化粧は黒く滲んでいた。彼女は化粧室に入って、戻ってきたときにはその部分は元通りになっていたが、瞳はまだ赤さがのこっていた。
「泣いたの分かる?」
「よく見れば」
分量として女性のほうが泣く回数が多いと思うが、泣いた後の履歴がはっきりと分かるのは男性のほうが多い気もした。それは泣くという行為自体が男性にとって非日常のことだからであろうか。事件でもありイレギュラーでもある。ぼくもその映画に感動し、涙がもれそうになった。しかし、どこかで自分を押し止めてもいた。もし、仮にひとりだったら、その決壊をあっさりと許してしまっていたのだろうか。
でも、涙というものも不思議なものだった。それは、目の薄い皮膜を保護する役目としてだけではなく。感情と密接に結び付いているものなのだ。物語に感情移入をしてこらえきれずに水分が涙として出る。悔しくても出ることもあるし、疑いを晴らせなくて地団太を踏み、ひとり涙を流す機会もある。勝負に負け、泣きながらグラウンドの土を袋に入れる。顔をくしゃくしゃにして、冷静さも客観視もすべて後ろに放り投げて。
「ひとって、笑顔が魅力的なひともいるし、困った顔が可愛い子もいるよね」
「そう? わたし、どっちだろう」
「いつも、元気だし。笑顔じゃない」
「じゃあ、泣いたら減点?」
「そうでもないよ。感情なんて豊かなほうが魅力的だよ」
「そうだろうね」
奈美の眼はいつものように好奇心が溢れた視線にもどっていた。すべてのものを吸収したがるような集中力がともない、そこに優しさと慈愛を含ませているもの。ぼくは彼女からもっと知りたいと思う気持ちを得なければならないと思っていた。それは窮屈さにつながらず、かえってのびのびとさせる印象もあった。それが、簡単にいえば好意というものなのだろう。
「泣いた後の女性の回復って、あんまりイメージに残らないね」
「たくさん、泣かせてきたからじゃないの?」
「まさか。ぼくに限って」ひとは根拠もないことを判断して、さらに肯定する。肯定する土台には結局はなにもないのだ。砂でつくられた城。毎日がその積み重ねだろう。その話題を自分が忘れ去ってしまった頃、相手から持ち出される。根拠も土台もないところから発言された言葉は、当人がいちばん知らないし、自信もない。その過去の日の自分は、ほんとうにぼくであるのだろうか。
「でも、泣くって浄化にもつながるんだよ」と、奈美は積極論をもちだす。
「じゃあ、ときどき泣いたほうが健康にも心身にも味方になるんだ?」
「そうだよ」
「だからといって、無理には泣けないしね」
「浄化させるものも、悲しみも少ないんじゃないの・・・」
「ぼくが? まさか」
ぼくは、あのとき立ち直るために、でも、泣きもしなかった。言い古されたことだが、やはり時間の経過が役に立つのだ。それでも、悲しみの根底にあるものは、炭のようにどこかで熱を発しているようだった。白くなり、水をかけても、それはよみがえってくる運命にあるのだ。それに、その悲しみを完全に払拭してしまえば、ぼくの過去も、相手が与えてくれた喜びも楽しみも同時に奪い去ってしまう恐怖があった。だから、ぼくは悲しみを温存させている。また、いつか変わる日も来るのだろうが。それを待つこともないし、待ちわびることもない。ただ、どこかで変化をくれる日が来るのだろう。子どもでもでき、生活に追われるような日々に足を踏み入れれば、ぼくの個人の過去など思い出すのに値しないものと思うかもしれない。さらにもっと時間が経てば、やっと冷えた炭として機能するのかもしれない。でも、まだだった。
「じゃあ、もっとも大泣きしたのは?」奈美は挑みかかるように質問する。
「まったく、思い出せない」
「ほら、やっぱり、傷もない人間」
「じゃあ、奈美は?」
「いっぱいありすぎて、どれから言おうかな」悲しみのことさえ彼女は楽しめるようだった。だが、もしかしたらその程度の悲しみしかひとには打ち明けられないのかもしれない。いくら、親しくなったとしても。未来をいっしょに紡ごうと決意したとしても。
あの女性は、ぼくと別れて、楽しかった日々を振り返って、泣いたりしたのだろうか? 未練の度合いが多いのは男性のほうだと言うひともかなりいる。その例にぼくももれなかった。泣いたから、悲しみの量が多いからといって、それで失われたものが戻るわけでもない。だが、喪失だけが正しい記憶なのだ、とぼくは思おうとした。
「何回もお父さんが自転車を後ろで支えてくれたのに、いつまでも乗れなくて悔しくて泣いた」と奈美は言った。ぼくにはそのような記憶もない。「でも、次の日には乗れるようになってた。あれは喜びの通過点として両方とも覚えておく必要があるんだね」そして、急に満足気な顔になった。
喜びも悲しみも奈美の側にあった。その後、ぼくは奈美に悲しみを与えてしまうことを避けたいと願った。だが、ひとが本気で触れ合う以上、どこかで傷と修復があるのだろう。絶対にしないと誓うには、他人であるしか方法はないようだった。そうした欠点を内包したものが、まさしくぼくでもあるようだった。
映画館から出ると、奈美の目の下の化粧は黒く滲んでいた。彼女は化粧室に入って、戻ってきたときにはその部分は元通りになっていたが、瞳はまだ赤さがのこっていた。
「泣いたの分かる?」
「よく見れば」
分量として女性のほうが泣く回数が多いと思うが、泣いた後の履歴がはっきりと分かるのは男性のほうが多い気もした。それは泣くという行為自体が男性にとって非日常のことだからであろうか。事件でもありイレギュラーでもある。ぼくもその映画に感動し、涙がもれそうになった。しかし、どこかで自分を押し止めてもいた。もし、仮にひとりだったら、その決壊をあっさりと許してしまっていたのだろうか。
でも、涙というものも不思議なものだった。それは、目の薄い皮膜を保護する役目としてだけではなく。感情と密接に結び付いているものなのだ。物語に感情移入をしてこらえきれずに水分が涙として出る。悔しくても出ることもあるし、疑いを晴らせなくて地団太を踏み、ひとり涙を流す機会もある。勝負に負け、泣きながらグラウンドの土を袋に入れる。顔をくしゃくしゃにして、冷静さも客観視もすべて後ろに放り投げて。
「ひとって、笑顔が魅力的なひともいるし、困った顔が可愛い子もいるよね」
「そう? わたし、どっちだろう」
「いつも、元気だし。笑顔じゃない」
「じゃあ、泣いたら減点?」
「そうでもないよ。感情なんて豊かなほうが魅力的だよ」
「そうだろうね」
奈美の眼はいつものように好奇心が溢れた視線にもどっていた。すべてのものを吸収したがるような集中力がともない、そこに優しさと慈愛を含ませているもの。ぼくは彼女からもっと知りたいと思う気持ちを得なければならないと思っていた。それは窮屈さにつながらず、かえってのびのびとさせる印象もあった。それが、簡単にいえば好意というものなのだろう。
「泣いた後の女性の回復って、あんまりイメージに残らないね」
「たくさん、泣かせてきたからじゃないの?」
「まさか。ぼくに限って」ひとは根拠もないことを判断して、さらに肯定する。肯定する土台には結局はなにもないのだ。砂でつくられた城。毎日がその積み重ねだろう。その話題を自分が忘れ去ってしまった頃、相手から持ち出される。根拠も土台もないところから発言された言葉は、当人がいちばん知らないし、自信もない。その過去の日の自分は、ほんとうにぼくであるのだろうか。
「でも、泣くって浄化にもつながるんだよ」と、奈美は積極論をもちだす。
「じゃあ、ときどき泣いたほうが健康にも心身にも味方になるんだ?」
「そうだよ」
「だからといって、無理には泣けないしね」
「浄化させるものも、悲しみも少ないんじゃないの・・・」
「ぼくが? まさか」
ぼくは、あのとき立ち直るために、でも、泣きもしなかった。言い古されたことだが、やはり時間の経過が役に立つのだ。それでも、悲しみの根底にあるものは、炭のようにどこかで熱を発しているようだった。白くなり、水をかけても、それはよみがえってくる運命にあるのだ。それに、その悲しみを完全に払拭してしまえば、ぼくの過去も、相手が与えてくれた喜びも楽しみも同時に奪い去ってしまう恐怖があった。だから、ぼくは悲しみを温存させている。また、いつか変わる日も来るのだろうが。それを待つこともないし、待ちわびることもない。ただ、どこかで変化をくれる日が来るのだろう。子どもでもでき、生活に追われるような日々に足を踏み入れれば、ぼくの個人の過去など思い出すのに値しないものと思うかもしれない。さらにもっと時間が経てば、やっと冷えた炭として機能するのかもしれない。でも、まだだった。
「じゃあ、もっとも大泣きしたのは?」奈美は挑みかかるように質問する。
「まったく、思い出せない」
「ほら、やっぱり、傷もない人間」
「じゃあ、奈美は?」
「いっぱいありすぎて、どれから言おうかな」悲しみのことさえ彼女は楽しめるようだった。だが、もしかしたらその程度の悲しみしかひとには打ち明けられないのかもしれない。いくら、親しくなったとしても。未来をいっしょに紡ごうと決意したとしても。
あの女性は、ぼくと別れて、楽しかった日々を振り返って、泣いたりしたのだろうか? 未練の度合いが多いのは男性のほうだと言うひともかなりいる。その例にぼくももれなかった。泣いたから、悲しみの量が多いからといって、それで失われたものが戻るわけでもない。だが、喪失だけが正しい記憶なのだ、とぼくは思おうとした。
「何回もお父さんが自転車を後ろで支えてくれたのに、いつまでも乗れなくて悔しくて泣いた」と奈美は言った。ぼくにはそのような記憶もない。「でも、次の日には乗れるようになってた。あれは喜びの通過点として両方とも覚えておく必要があるんだね」そして、急に満足気な顔になった。
喜びも悲しみも奈美の側にあった。その後、ぼくは奈美に悲しみを与えてしまうことを避けたいと願った。だが、ひとが本気で触れ合う以上、どこかで傷と修復があるのだろう。絶対にしないと誓うには、他人であるしか方法はないようだった。そうした欠点を内包したものが、まさしくぼくでもあるようだった。
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