実家の本宅と離れの橋渡しの役目を果たす台が取り払われているので、あれ、と思ってみると、本宅と離れの間の通路を、職人の方が通っていかれる。
そうか、一昨日倒れた柿の木を撤去されに来られたのだと気づく。
撤去される柿の木を見ながら僕の家族や家族の知り合いの方がいろんなことを口にしている。
あの 柿の木は、傾いて生えていた。だから、葉が実って重心が上の方に行くと倒れやすくなる。
いつもは、葉が実って、木の重心が上がり始めると、傾いた柿の木につっかえ棒をしてくださる人がいた。
でも、その人が、歳をとって、つっかえ棒ができなくなってしまったから木が倒れた。やはり、木にも世話する人が必要だと言っていた方もいた。
そう言われればそんな気もする。
倒れた木には葉も実もいっぱいついていて、まだ生きているように見えるから。
実際に、植物って、どこまで生きていてどこからが死なのか動物に比べるとよくわからないし、、、。
木を撤去する職人の方は、根本も腐ってますね。この折れた部分も中は腐ってます、とおっしゃっている。
まあ、それもそうだと思う。
木もずいぶんくたびれてきていたことは事実だった。
木がなくなって寂しくなったという人もいる。
僕は、寂しいような気もするし、スッキリしたような気もする。
いつも来てくださる職人の棟梁の方はどこにおられるのだろうと思ってみると、家の廊下に背を向けて、柿の木の方で仕事をする職人さんの方をヘルメット姿で黙ってみておられる。
廊下に、背を向けておられて、黙って立っておられたから気づくのに時間がかかった。
僕はその撤去作業を家の廊下から見ていたから、、、。
棟梁は、いつも無口な人だけれど、今日はとりわけ無口だった。
無口というより、ほぼ無言だった。
話しかけられたことに、うなずく程度で他に言葉がない。
棟梁の方がほぼ無言で現場に立っておられたのは、棟梁の方が意識しておられるかどうかはともかくとして、棟梁の方の心、あるいは魂のどこかに、これは、朽ちていく柿の木を撤去する作業だから、という思いがあったからだと思う。
そんな気がする。
ご本人がそれを実際に意識しておられたかどうかはともかくとして、、、。
電気ノコギリで木を細かくして撤去するので作業は本当に驚くほど早い。
無言で立っておられる棟梁の方の姿がとても心に残った。
井上陽水さんが書かれた 「たいくつ」 という歌の歌詞のこんな一節を思い出す。
“”
蟻が 死んでいる
角砂糖のそばで
笑いたい気もする
当たり前過ぎて “”
当たり前にときは過ぎていくけれど、さびしい気もするし、ときはすぎるのが当たり前だという気もする。
それはともかく、いちにち いちにち無事に健康で過ごせますように、それを第一に願っていきたい。