今日の岐阜の地方紙に「岐阜県の中3数学全国3位」という見出しが出ている。
文部科学省の学力テストの結果、中3の数学は全国で5位とのことだ。
こういうテストの結果って秋田県とか 岐阜県とか田舎の県のほうが上位に来ることが多いなと思いつつ、でも岐阜県も5位ってやるやんと思う。
すごいなと思って、点数を見ると全国平均が57.2で岐阜県が59点となっている。
なんや、全国で5位といっても全国平均より1.8点高いだけかと思う。
全国5位という数字だけでぬか喜びしてはいけないなと思う。
数字の持つマジックだと思う。
順位だけ見ているとすごいことのように見えるけれど、実際の数値を見るとそんなに全国の平均から飛び抜けているわけではないということがわかる。
これは、5位という順位そのものが各都道府県の平均値という、いわば個体差を相殺した値に基づいて出されているのでこういうことになると思う。
※平均値はすべての個体の合計値を、個体数で割った値だからその意味で個体差を相殺した値と言える。
それで大阪はどうかと思って、細かい表を見ると56点となっている。
なんや、大阪も学力テストの順位は全国でベッタから数えたほうが早いと言われて久しいけれど、それでも全国平均より1点低いだけかと思う。
そんなに悲観することもないかもと思う。
それよりも学力テストの点数を教師の勤務評価に反映するという話がいつか大阪で出ていたけれど、そのほうが個人的には怖いような気がする。
そういうことをすると、学力テストの傾向に合わせた、小手先の点数稼ぎの授業をするとか、どこかでそういう本末転倒的なひずみがでてくる可能性は高いと思うから、、、。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
芹沢光治良の「人間の運命」という小説を読んでいると、日中戦争のころ地方紙がどんどん整理統合されていって、情報統制に繋がっていったと思われる様子が登場人物の会話を通して描かれている。
たまに地方紙を読むとそういうことに思いがいたる。
今の世の中も、新聞の統合ではないけれど、資本の統合が進んでいる。資本の統合が進むということは、それだけ、情報の統合も進むということだと思う。
なぜなら、私達が接する情報は、大手の資本を中心に回っているという側面が強いことは否めないから、その資本が統合されるということは、それだけ情報の統合も進むという解釈が成り立つと思うから。
そして、そういうことが、大手の企業を中心にいろんな不祥事が起きてくる原因にならなければいいなと思う。
しかし、そういうことを考えていると、大戦の頃と今の世の中と共通する側面がなにかと多いなと思ってしまう、、、。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、僕の出身高校の100年史というコラムも岐阜の地方紙に出ていて、そこにこんなことが書かれている。
“”1966年の(生徒会による)長髪許可要望では、会則改正委員会や長髪委員会をたびたび開いて意見を集約し、生徒会として「頭髪申し合わせ文」を具体化した。学校もこの教育的意義を認め、71年4月に長髪を許可した“”と。
この文を読んで、僕は丁度この70年代前半にヒットした「戦争を知らない子どもたち」という歌の歌詞のこんな一節を思い出した。
“”若すぎるからと許されないなら
髪の毛が長いと許されないなら
今の私に残っているのは
涙をこらえて歌うことだけさ“”
この「戦争を知らない子どもたち」って、僕、メッセージ性が強すぎてクサい歌だなと長年思ってきた。
今年になって、この歌を改めて聴いてみて、いや、思ってたほど悪くないやん、いい歌やんと思った。
最近、こういうストレートな歌って減っているし、、、。
でも、この当時の、いわゆるグループで歌うフォーク系の歌で、一番好きなのはチューリップの「心の旅」だなと思う。
“”ああ、だから今夜だけは君を抱いていたい
ああ、明日の今頃は僕は汽車の中
もしも許されるなら
眠りについた君を
ポケットに詰め込んで
そのまま連れ去りたい“”
こうやって歌詞を書いているだけでベースの音の動きまで心に浮かんできそうだなと思う。いいな。
それはともかく いちにち いちにち無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。