ケンのブログ

日々の雑感や日記

名古屋フィルハーモニー第493回定期演奏会を聴きに行く

2021年09月11日 | 音楽
名古屋へ。

私鉄が名古屋に近づいて橋を渡った。

昔チェリッシュが多分NHK名古屋放送局とタイアップして歌った、「みんな名古屋で」という歌の歌詞が頭に浮かぶ。

“”庄内川の赤い橋を渡れば見慣れた街

君と過ごした若い日はまだ明るい光の中

遠い夢を追いかけて旅立ってしまっても

きっと帰っておいでよ みんな名古屋で待ってる“”


それで、鉄橋を渡り終わったときに、川の名前が書いてあるプレートを見ると庄内川となっている。


そうか、と思う。

新幹線で東京に行くとき、列車が東京都内に入ると、窓から立ち並ぶビルが見えてくる。

あれをみると、大東京に自分が吸い込まれていくような気分になる。


東京のそれとは規模が違うけれど、それでも庄内川を渡ると線路の左右には急にビルが目立つようになる。

名古屋に近づいているんだなと思う。


僕は高校を卒業してからずっと、40年間、大阪か東京で過ごしてきたから、私鉄の電車が名古屋に近づくと、今でも、これから新幹線に乗り換えて、大阪か東京へ行くような気分になって、ちょっとした、緊張感に包まれる。

長年の癖ってぬけないんだなと思う。

でも、7月に大阪から岐阜に来てから、名古屋へも行っていなかったから本当に久しぶりに都会らしい都会に来たなと思う。

名古屋の街は大阪よりもゆっくり、たっぷりしているように思う。

地下鉄で、栄にいく。

ずっと切符を買って行動していたけれど、関西で使ってたICカードここでも使えるんやと途中で気づく。

本当にいちいち切符を買うなんて、都会で行動する感覚がもう鈍ったんかと思う。

地下鉄の駅を降りて地上に出ると、名古屋は道路が広いなと思う。

愛知芸術劇場へ。

劇場の前の広場の芝生のところに高校生がたむろしている。

コロナでどんな学校生活を送っているんだろうと思う。

芸術劇場の建物ではコロナのワクチン接種も行われていた。

僕は、芸術劇場内のコンサートホールで
名古屋フィルハーモニー交響楽団題493回定期演奏会を聴く。

指揮 小泉和裕さん

演奏されたのは
ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調 

名古屋フィルは中高生のころ多分、聴いたことあるとおもうけれど、記憶からは消えてしまっている。

なので、今日初めて聴くのと同じことだ。

ここ数年、僕は京都市交響楽団を聴くことが多くてそれに耳がなれていると思う。

その感覚で聴いても、ああ、うまいな と思う。

やっぱりこれだけの都市を代表するオーケストラだなと。

京都市交響楽団の場合、特にクラリネットの奏者の方がいろいろその曲に出てくるテーマを演奏前にステージで練習がてらやってくださることが多いので、結構それが楽しい。

今日は、会場に入ったら、特にフルートの奏者の方が、この曲に出てくる、重要なテーマをステージの上でさらっておられるのが目についた、というか耳についた。

ああ、あのテーマもフルートがやるんか、というような感じで聴いていると結構楽しい。

ブルックナーの交響曲は長大で規模が大きいので、生で聴くと、家のCDラジカセで聴いていても気づかないことにいろいろと気づかせてもらえる。

チェロとコントラバスを中心に奏でられる、低音のピチカートがかなり印象深かった。それで、全曲に渡ってこの曲はピチカートがかなり重要な役割を果たしていることに気づく。

木管とホルンが掛け合ったりするところは、CDラジカセで聴いていると音が小さくてよくわからないけれど(ブルックナーはフォルテがやかましくない程度にCDラジカセの音を絞ると音が小さいところはあまり聴こえなくなってしまうから)生で聴くとこんなに美しいのかと思う。

長大な交響曲と言ってもやはり様々な要素が含まれていてだてに長大でないことも生演奏だとよく分かる。

例えばスケルツォの楽章では、様々な雰囲気のダンスが出てくるように感じられる。
楽しいダンス、緊張感のあるダンス、高揚感のあるダンスなど本当に様々なんだなと思う。

こういう規模の大きい曲を聴いていると、なんとなく木管の音色というのは鳥のさえずりとかそういう自然界の音を模倣する中から生まれてきたものなのかな思う。

金管の音も、何を模倣しているのかわからないけれど、きっと自然にあるものの何かを模倣しているのかなと思う。

多分、ブルックナーの交響曲を聴いているからそういうことを感じるのだろう。

第4楽章の特に後半は神々しいほどに美しかった。

実質的に初めて名古屋フィルを聴く興奮で、よく覚えていない面もあるけれど、かなり素晴らしい演奏を僕はいま聴いているんだなと思いながらときを過ごしていた。

ブルックナーといえば、音が止まったときの残響も重要な要素だ。

京都コンサートホールのかなり長い残響に慣れていると、愛知芸術劇場コンサートホールの残響はやや短いように聴こえるけれど、それでも十分に残響は響いて美しい。

あと、残響の消え方が、木の中に吸い込まれていくような消え方で、京都コンサートホールとは、また違うけれど、なんとも言えない趣があるなと思った。

会場の雰囲気も名古屋独特というか、ちょっと、ゆったり、まったりした感じでそれもまたよかった。

コロナの中、こういう音楽が聴けることはありがたいことだなと思う。

祈りの要素もある音楽だし、、、。

それはともかく、いちにち いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。