今日の朝日新聞に読者が選ぶ小椋佳さんの好きな歌ランキングが第10位まで出ている。
要するに好きな歌ベストテンということだ。
10曲中7曲くらいはメロディラインを全部口ずさめると思う。
残りの3曲も少なくとも部分的にはメロディラインを知っている。
なにしろ僕が若い頃に流行った歌ばかりだから、、
それで、僕が一番好きな小椋佳さんの歌は何かなあと考えてみる。
好きな歌はその時によってもちろん変わるけれど、今は「ただお前がいい」かなと思う。
これは、僕の記憶では中村雅俊さんが主演した「俺たちの旅」というテレビドラマの挿入歌だったと思う。
主題歌だった「俺たちの旅」はベストテンの4位に入っているけれど「ただお前がいい」はベストテンに入っていない。
挿入歌だから、主題歌ほどは目立たないのかも知れない。
その「ただお前がいい」という歌の歌詞にこんな一節がある。
“”ただお前がいい
落とすものなど何もないのに
伝言板の左の端に 今日もまたひとつ忘れ物をしたと
誰にともなく書く“”
「落とすものなど何にもない」のに 「忘れ物」をするってどういうことだろう?
「落とすものなど何もない」なら、「忘れ物」なんてないはずやろう と突っ込みたくなるところだ。
しかし、「落とすものなど何にもない」 というときの「落とし物」は きっと物質的なものなのだと思う。
物質的なもの 財布とか、ペンダントとか ハンドバッグとか トートバッグとか例をあげればきりがないけれど、、、。
そして「今日もまたひとつ忘れ物をした」というときの「忘れ物」はきっと目には見えない「忘れ物」、心のなかにだけある、「忘れ物」なのだとおもう。
それを「伝言板の左の端に 誰にともなく書く」
「誰にともなく書く」というのはきっと、心の「忘れ物」は、特定の相手に対する「忘れ物」ではなく、もっと普遍的に大切な「忘れ物」だからなのかもしれない。 そんなふうに考える。
「左の端」に書くのは、多分、この歌が流行った頃の伝言板は縦書きで、左の端は、一番、最後の端ということになる。
目に見えない「忘れ物」は「忘れ物」である以上、恥ずかしいからそんなに真ん中に書くものでない、端っこの方に書いておこう。でも左の端なら最後に思い出すかも知れない、そんな願いが込めれれているのではないだろか。
僕はそんなふうに思う。
そして、自分自身なにか忘れ物をしていないだろうかと考えてみる。
でも、詞を読んでいると小椋佳さんらしい思慮深い詩だなと思う。
それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。